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もり せいこ

森 清子

もり せいこ

1833(天保4)〜 1872.2.13(明治5)

幕末・維新期の女流歌人

埋葬場所: 14区 1種 3側 3番

 美濃(岐阜県)出身。旧姓国島。号は倚竹。名は勢以とも。和歌を京都の賀茂直兄に、国学を桑名の鬼島広蔭に学ぶ。 梁川星巌の門下生の森春濤にのぞまれて後妻となり、一子、泰二郎(森槐南)を生む。名古屋で和歌を教えた。 幕末の尊攘派志士藤本鉄石・頼三樹三郎らと交遊。明治はじめ明倫堂の教師となるも、40歳の若さで没した。歌集に『庭すずめ』がある。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>


*ヨミを「きよこ」とする人名辞典もある。

墓所

*正面和型「森家之墓」、裏面「昭和十年十一月 森健郎 建之」。墓所右側に3基並ぶ。真ん中が森春涛の墓「詩人森春濤先生墓」、裏面「明治廿二季十一月廿一日歿 男泰建」。左の小さい墓石が森春涛の妻で歌人の森清子の墓「国島女教師之墓」(国島は旧姓。後妻)。右の大きい墓石が長男の森槐南の墓「森槐南先生墓」、左面「明治四十四年三月七日歿」が建つ。墓所左側に墓誌が建つ。墓誌の初めは春涛の前妻の逸子から刻みが始まり、次に後妻の清子、早死した子の次に、森春涛が刻む。戒名は老春院森髯居士。早死した子二人を挟み、森槐南が刻む。俗名は泰二郎とあり、戒名は文尚院槐南日泰居士。同墓には森槐南の妻の幾保(S8.11)、槐南の子息、森健郎(S22.11歿)、森携郎(S21.4歿)、孫の森正治(R4.6.25歿)も眠る。

*森春涛は1889年11月21日(明治22年)に亡くなっており、清子は1872年(明治5年)に亡くなっているため、没後、森春涛と清子は日暮里の経王寺に葬られた。また、父の後を継ぎ、漢詩人として活躍した長男の森槐南は、1911年(明治44年)に亡くなっており、最初は青山霊園に埋葬された。1933年8月(昭和8年)に槐南の妻の幾保が亡くなったことや、青山霊園の区画整理などが重なった時期でもあり、これを機に、バラバラに建立されていた墓を多磨霊園にまとめ、1935年11月(昭和10年)森健郎が墓所を整え改葬し合葬したと思われる。


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