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もり しゅんとう

森 春濤

もり しゅんとう

1819.4.25(文政2.4.2)〜 1889.11.21(明治22)

幕末・明治前期の医者、漢詩人

埋葬場所: 14区 1種 3側 3番

 尾張国一ノ宮村(愛知県一宮市)出身。医者の森一鳥(いっちょう)の長男として生まれます。名は魯直(ろちょく)、字(あざな)は希黄(きおう)、通称は浩甫(こうすけ)。春涛(春濤)は号。その他の号に方天(ほうてん)、古愚(こぐ)。幼名は泰一郎、元雄、春道(しゅんどう)。
 代々医者の家柄であり、岐阜の眼科医として有名であった親戚の中川氏に預けられます。しかし、医業を嫌い、浄瑠璃の本ばかりを読みふけっていたため、養家(ようか)の中川氏が根負けし、「幼学詩韻」という書物を与えられました。すると15歳で早くも華麗な漢詩『岐阜竹枝(ちくし)』を詠うなど詩作に優れた才能を示すようになりました。
 医業も学ぶ傍ら、17歳で尾張の鷲津松蔭(わしづしょういん)の門に入り漢学も学び、1842年 江戸に遊歴し、漢詩人の大沼枕山(ちんざん)・小野湖山・遠山雲如(うんじょ)らと交流しました。1850年 京都に出て梁川星巌(やながわ せいがん)にも学びます。
 当時は幕末の激動期であったため、友人たちが国事に奔走する者が多かった中、医業をしながら文人生活に徹し、1862年(文久2)飛騨に行き『高山竹枝(ちくし)』を編み(あみ)、翌年45歳の時に、ついに医業を廃して、名古屋にて漢詩を教える塾のような桑三軒吟社(そうさんぎんしゃ)を開きました。百人以上の門弟が通ってきたそうです。
 1874年(M7)56歳の時に東京に出て「茉莉(まつり)吟社」を起こしました。翌年、「東京才人絶句」の編集、機関紙「新文詩」の創刊で名声を高め、漢詩ブームを巻き起こしていくことになります。この時は維新後の新しい時代到来の時期であり、雑誌という新しいメディアの登場の中で、漢詩文学がその中心的な役割を担っていました。春涛の詩は、甘美な憂悠(ゆうしゅう)を基調としたあでやかで美しい艶麗(えんれい)な世界を詠むものが多く、明治初期のこれからを作る気運ともマッチして一世を風靡しました。
 『春濤詩鈔(ししょう)』『清三家(せいさんけ)絶句』『東京才人絶句集』などを出して称賛を受けました。ちなみに、「絶句」とは、一首が四句から成り立っている漢詩のことです。第一句を起句、第二句を承句、第三句を転句、第四句を結句と呼びます。我々も文章を書くときは「起承転結」でと学んだと思いますが、この「絶句」の書き方がベースですね。このように、森春涛は時代の後押しもあり、新たな詩壇の開拓に努めた活動は目覚ましいものがありました。享年70歳(数え71歳)。

<コンサイス日本人名事典>
<「漢詩人・森春涛の遺墨」一宮市博物館 博物館だより 1993.2>


墓所

*正面和型「森家之墓」、裏面「昭和十年十一月 森健郎 建之」。墓所右側に3基並ぶ。真ん中が森春涛の墓「詩人森春濤先生墓」、裏面「明治廿二季十一月廿一日歿 男泰建」。左の小さい墓石が森春涛の妻で歌人の森清子の墓「国島女教師之墓」(国島は旧姓。後妻)。右の大きい墓石が長男の森槐南の墓「森槐南先生墓」、左面「明治四十四年三月七日歿」が建つ。墓所左側に墓誌が建つ。墓誌の初めは春涛の前妻の逸子から刻みが始まり、次に後妻の清子、早死した子の次に、森春涛が刻む。戒名は老春院森髯居士。早死した子二人を挟み、森槐南が刻む。俗名は泰二郎とあり、戒名は文尚院槐南日泰居士。同墓には森槐南の妻の幾保(S8.11)、槐南の子息、森健郎(S22.11歿)、森携郎(S21.4歿)、孫の森正治(R4.6.25歿)も眠る。

*森春涛は1889年11月21日(明治22年)に亡くなっており、清子は1872年(明治5年)に亡くなっているため、没後、森春涛と清子は日暮里の経王寺に葬られた。また、父の後を継ぎ、漢詩人として活躍した長男の森槐南は、1911年(明治44年)に亡くなっており、最初は青山霊園に埋葬された。1933年8月(昭和8年)に槐南の妻の幾保が亡くなったことや、青山霊園の区画整理などが重なった時期でもあり、これを機に、バラバラに建立されていた墓を多磨霊園にまとめ、1935年11月(昭和10年)森健郎が墓所を整え改葬し合葬したと思われる。



第536回 明治初期の漢詩文学最盛期の中心人物 茉莉吟社 森春涛 お墓ツアー


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