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こさか ぜんたろう

小坂善太郎

こさか ぜんたろう

1912.1.23(明治45)〜 2000.11.26(平成12)

昭和期の実業家、政治家

埋葬場所: 8区 1種 13側

 長野県長野市柳原出身。祖父は信濃毎日新聞創業者・政治家の小坂善之助(同墓)、父は電源開発総裁・政治家の小坂順造(同墓)の長男。姉の百合子(同墓)は東京都知事の美濃部亮吉(25-1-24-1)に嫁いだが離婚。弟の小坂徳三郎も政治家。学習院を経て、東京商科大学に進学し、上田貞次郎(19-1-10-3)のゼミで学び、1935(S10)卒業。
 卒業後は、三菱銀行に勤務したが3年で辞め、父が経営する信越化学工業直江津工場の再建にあたることになった。当時、直江津工場は肥料用の石炭窒素をつくっていたが、外国から安い硫安が入ってきたこともあり赤字であった。仕方がなく期限付きで電気化学に貸し出していたが、期限がきたため父から再建を託された。工場長として少しずつ軌道に乗せ、群馬県の磯部に金属材料の研究所をつくる。ここでは太平洋戦争の占領地セレベス島からニッケルを運び、軍事用特殊鋼をつくっていたが、戦況の悪化で材料の鉱石がストップ。そこで東京工大の技術指導で金属マンガンをつくったところ、ニッケルの代用品として注文が殺到、研究所は工場となった。さらに福井県の大同化学肥料の工場を譲り受け、カーバイトや石灰窒素を生産。この3つの工場を主体として信越化学の土台をつくる。工場長から、同社取締役、顧問を務めた。
 '46.4.11(S21)父の地盤を継いで長野1区から第22回衆議院議員総選挙(戦後最初の総選挙)に立候補し、初当選。以後、当選16回(在任:'53..5.21-'83.12.17、'86.7.6-'90.1.24)。初めは井出一太郎らとともに無所属議員ばかりで結成した新光クラブに加入するが、父と親交が厚かった犬養健に誘われ、犬養が芦田均とともに結成した民主党に入党。'47.5.24 片山哲内閣誕生で連立政権で与党となり大蔵政務次官に抜擢。このときの大蔵事務次官が池田勇人、主計局長が野田卯一、主税局長が前尾繁三郎、銀行局長が福田赳夫、官房長が愛知揆一、大平正芳(9-1-1-15)はまだ給与二課長だった。当時の民主党は資本主義制度そのものは変革せず、それに修正を加え矛盾を緩和する「修正資本主義」を政策しており、この流れから在任中に『修正資本主義の構想』を出版。敗戦で致命的打撃を受けた日本経済再建には経済の計画性と合理性、富の公正な配分、経営の民主化が不可欠とし「資本家に代わって経営者が経済をリードすべきだ」と論じた。この理論は経済同友会や地方の青年指導層に大きな反響を呼んだ。
 その後、民主党は吉田繁茂内閣の早期講和会議締結をめぐり連立派と野党派に分裂するが、連立派として行動し、'50保守合同をうたい民主自由党と合流して自由党を結成。以来、「吉田学校」の門下生となり、吉田茂を生涯の師と仰ぐようになった。吉田茂に目をかけられ、当選わずか3回にして衆議院予算委員長に抜擢。'53.5.21 吉田首相のバカヤロー解散の後に発足した第5次吉田内閣で労働大臣(〜'54.6.16)として初入閣した。この時、41歳で閣僚の中で最も若い人事だった。当時の国の基幹産業ともいうべき電気産業と石炭産業は労働争議が相次ぎ、市民生活にも深刻な影響を与えていた。こうした反省にこれらの争議に枠をはめようと、ストライキ規制法の制定が急がれた。これに対して各労働組合は団体権や団体交渉権を保障する憲法28条に違反すると反対したが、小坂は12条と13条をタテに「国民の権利は公共の福祉に反してはならない」と反論して、遂に成立させた。
 この成立に注目した吉田首相は「警察法を仕上げてくれ」と小坂に難題を押し付けた。当時の警察はマッカーサーのお声がかりで、国家警察と自治体警察に分かれており、弱小の自治体警察は犯罪の広域化に対応できない状態だった。そこで自治体警察を廃止し、国家公安委員会と警察庁が警察活動を統括しようというのが法案の狙いである。だが、当時の政界は造船疑獄に絡んでいる政治家もおり、特に治安を担当する法相自身のうわさが絶えなかった。このままでは法案が通らないと感じた吉田首相が労相の小坂に担当を命じたという背景がある。審議は難航し審議を妨害する野党議員排除のために警察隊までをも出動させ成立させた。'54警察制度発足。労相のまま、'54.7.1 初代国家公安委員長(〜同.10.1)に就任。その後、国家公安委員長は専属の大臣がおかれ、自治省発足後は自治大臣の兼務となったため、労相と兼務というのは小坂が最初で最後である。その後、経済審議庁長官臨時代理を務める。吉田に重用されたが吉田退陣後、鳩山、石橋、岸の時代は冬の時代となる。
 '60.7.19 第1次池田内閣で外務大臣に就任。第2次池田内閣、第2次池田第1次改造内閣と留任(〜'62.7.18)した。まず手掛けた外交政策は韓国との関係修復であった。当時の韓国は民主化を望む学生運動によって李承晩が倒れ、ユン・ボソン大統領の政権。安保騒動の直後で日米関係も大事であるが、その前に民主化の第一歩を踏み出した隣国への訪問も捨てるわけではないと主張し、池田首相から訪韓を認められる。韓国は国民を含め大歓迎で迎えられ、張勉首相はその好意に応えて即刻、だ捕された漁船と漁民を全員釈放。硬直状態にあった日韓関係に、交流の糸口をつけることとなった。
 アメリカと協調しながら、高度経済成長による経済大国の建設を目指す池田外交を大平正芳と共に推進。小坂の外交路線は「ハト派」(慎重派路線:アジア・アフリカ研究会)の姿勢で、議員外交を展開、特に日中国交正常化協議会会長として、田名角栄の訪中の地ならし役を務め、'72.9 日中国交正常化を陰でサポートした。同.12.22 第2次田中角栄内閣で経済企画庁長官に就任(〜'73.11.25)。自民党政務調査会長、外交調査会長を務めた。
 '76.9.15 三木改造内閣では三木首相に求められる形で外務大臣に就任(〜'76.12.24)。池田隼人以降は前尾派を支えていたが、派内クーデターから大平が後継者となると、大平派から離脱して無派閥となる。以後は、派閥横断の政策集団千代田会を結成、既成派閥に対抗する新しい政治の歩みをはじめた。千代田会は衆参合わせて30名を超える自民党議員が在籍した。そのため、三木内閣が倒れた後、総裁選への出馬要請が相次いだが、弟の小坂徳三郎も総裁へのチャンスを狙っていた。党内の大多数は福田赳夫に傾いており、小坂兄弟が出馬し二人とも落選したら笑い者だと思い出馬を見送った。'80 大平内閣不信任案が可決された時は風邪を理由に本会議を欠席している。自民党内では理論家で、大内兵衛(6-1-11-11)・有沢広巳らと社会主義政治経済研究所に参加していた。'82 勲1等旭日大綬章。同年、国連平和賞を受賞。
 '83.12.18 第37回衆議院議員総選挙では田中秀征の台頭により初めて落選し、連続当選は15回で途切れる。思いもよらぬ敗北に政界復帰のための活動を始める。今までの政治活動は外交面ばかりであったが、「外交では票にならぬ」と内政面に目を向け、折から高まった冬季五輪の長野誘致をはじめ、中央高速道、上信越道、北陸新幹線などの長野までの延長計画など多方面に関わった。'86.7.6 第38回衆議院議員総選挙(衆参同時選挙)で返り咲きを果たし国政に復帰し、中曽根派に属した。
 '90.2.18(H2) 第39回衆議院議員総選挙では不出馬を表明し、次男の小坂憲次(同墓)に地盤を譲り、政界から引退した。引退後は、'95 国連50周年記念国内委員会委員長など国際親善などの分野で活動した。享年88歳。

<コンサイス日本人名事典>
<「信州の大臣たち」中村勝実>


墓誌

*墓石前面「小坂氏墓」。墓石の手前には墓誌が立ち、初代の小坂善次郎から代々が刻む。善太郎は6代目と刻む。 *小坂善太郎の銅像が長野市南県町の中央郵便局脇の大国主神社隣に建つ。昭和通り沿いに建つ銅像の場所は、元々小坂家があった場所である。



【小坂家】
 小坂家は現在の長野市柳原に江戸時代から居を構える三百石の大庄屋。多磨霊園の墓石には初代 小坂善次郎から代々刻まれている。初代の善次郎は文学と茶を親しむ文化人であった。2代目の小坂善之助の進取の気性は千曲川堤防対策に発揮され、幕末には私財を投じて改修工事に当たり、それが自分に跳ね返って資産を増やした。3代目の小坂善三(後に小坂善之助)は2代目の長女の小坂こそ の婿養子となる。
 4代目の小坂善之助が更級、埴科や南北安曇の群長の後、1890(M23)第1回帝国議会の衆議院議員に当選、さらに信濃銀行や長野電灯の創設、信濃新聞創刊と地方王国小坂財閥の礎を築いた。5代目は小坂順造で長男、政治家として活動。次男の義雄は小坂才兵衛の養子。三男の小坂武雄は信濃毎日新聞社長・政治家。長女のちか は政治家の花岡次郎の妻。二女のはる は日本銀行総裁の深井英五の妻。三女の国 は三菱銀行副頭取の関根善作の妻。四女の菊江 は陸軍少将の津野田是重(7-2-14-13)の妻。
 6代目は小坂善太郎で長男。次男は善次郎。三男の小坂徳太郎は政治家。長女の百合子は東京都知事の美濃部亮吉(25-1-24-1)に嫁ぐも離婚し戻り、子どもたちは小坂姓となる。小坂善太郎の前妻の直子の祖父は男爵・海軍軍医少将の高木兼寛、次男の兼二の娘。後妻の益子は、浄土真宗本願寺派の僧侶・政治家の大谷尊由の二女の益子。益子は朝香宮鳩彦王と允子内親王(明治天皇の第八皇女)の第2皇子・音羽正彦(7-1-1)侯爵と結婚したが子に恵まれず死別したため、善太郎の後妻として再婚した。前妻との間に1男の小坂順之介、後妻との間に1男1女を儲け、次男は政治家を継承した小坂憲次、長女の真理子は日生同和損保会長を務めた岡真雄に嫁いだ。憲次の妻はまり子。
 小坂憲次まで代々政治家家系を継承してきた。しかし、2015.11.25(H27)小坂憲次が悪性リンパ腫の治療専念のため第24回参議院議員総選挙に立候補をせず、小坂家から後継候補を擁立しなかったため、帝国議会以来続いた小坂家の国会議員として議席は一先ず終焉を迎えることとなった。




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