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おとわ ただひこ

音羽正彦

おとわ ただひこ

1914.1.5(大正3)〜 1944.2.6(昭和19)

大正・昭和期の皇族、海軍少佐、侯爵

埋葬場所: 7区 1種 1側

 久邇宮朝彦親王の第8皇子である朝香宮鳩彦王と明治天皇の第8皇女允子内親王との間の第二男子として生まれた皇族。皇族名は朝香宮正彦王。なお崇光天皇の男系17世子孫にあたる。
 学習院中等科卒業後、「皇族男子はすべからく軍人たるべし」にのっとり、1931(S6)海軍兵学校に入校し、'34 卒業(62期)。海軍砲術学校でも学び修了。オーストラリアへの遠洋航海、戦艦「榛名」乗組。
 '36.4.1(S11)自ら願い出て臣籍に降下をし、音羽の家名を賜わり、同日付で侯爵を授爵、従四位に叙せられ、海軍少尉に任官した。その一カ月前の同.3.2 勲一等旭日桐花大綬章を受章している。
 重巡洋艦「羽黒」、軽巡洋艦「五十鈴」、戦艦「長門」の乗組を経て、'38.8 上海海軍特別陸戦隊に配属になり、折からの武漢攻略戦に砲隊中隊長として参加した。同年末に空母「赤城」の分隊長となり約1年間にわたって務める。この間、陸戦隊徒歩部隊の中隊長として派遣され、海南島攻略作戦の最前線で陣頭指揮を執った。
 '39.11 戦艦「山城」分隊長、'40.11月 戦艦「陸奥」分隊長となる。この月に、益子と結婚している。戦艦「陸奥」では副砲長も務め、1943.4 まで2年半務めた。なお余談であるが、音羽が去った二か月後、戦艦「陸奥」は火薬庫の爆発により沈没し千人を超える乗組員の8割が殉職している。
 大尉となり、横須賀鎮守府付、横須賀海軍砲術学校高等科学生になる。また、臣籍に降下をする前の、'34 貴族院皇族議員として活動をし、'44.1.5 からは貴族院侯爵議員を務めた。
 しかし、その一か月後、'44.2.6 第6根拠地隊参謀として、南洋方面マーシャル諸島のクェゼリン島での「クェゼリンの戦い」において戦死した。享年30歳。没後、海軍少佐に特進。功五級追贈。
 高松宮宣仁親王の『高松宮日記』によると、はじめ大鳥島こと北太平洋のウェーク島に配属されていたが、危険だからということでクェゼリン島に転属させたところ、アメリカ軍が予想に反してクェゼリン島に上陸してきたと綴られている。「クェゼリンの戦い」では日本兵の戦死はクェゼリン島で4130人、ルオット島で2540人、その他の島で670人、計7340人が戦死した。生き残り捕虜となったのは105人。一方、アメリア軍の戦死者は372人、戦傷者は1582人であったため、日本軍側は若干の抵抗を行った以外は成すすべなく壊滅であった。
 音羽の葬儀は、1944.4.22 横須賀鎮守府での合同海軍葬に続いて、二日後の24日に、音羽家による告別の儀が青山斎場で取り行われた。
 妻は浄土真宗本願寺派の僧侶であり第1次近衛内閣で拓務大臣を務めた政治家の大谷専由の二女の益子。子どもに恵まれず、正彦が戦死し未亡人となったため、益子は離縁した。そのため音羽侯爵家は廃絶した。なお、益子はその後、政治家の小坂善太郎(8-1-13)の後妻として再婚。

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墓所 墓標 墓所 墓所

*墓所は名誉霊域の裏手にある。入口に鳥居が建ち、土饅頭型の墓の右側に音羽正彦の石柱碑が建つ。石柱前面には「海軍少佐 正四位 勲一等 功四級 侯爵 音羽正彦 之墓」、裏面には「昭和十九年二月六日 於内南洋戦死」と刻む。



第433回 一代で廃絶した音羽侯爵家 臣籍降下と戦死
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