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さいとう まこと

齋藤 眞

さいとう まこと

1921.2.15(大正10)〜 2008.1.16(平成20)

昭和・平成期のアメリカ政治学者

埋葬場所: 16区 1種 3側

 東京出身。英文学者の齋藤勇・文子(共に同墓)の次男。兄はアメリカ文学者の齋藤光(同墓)。兄の光の妻の父である政治学者の高木八尺に師事。ちなみに、高木八尺の父は英文学者の神田乃武(2-1-2-10)。
 1942(S17)東京帝国大学法学部政治学科卒業。ハーバード大学への留学などを経て、'59東京大学法学部教授となった。'81停年退官し東京大学名誉教授。同年より国際基督教大学教授となった。国際基督教大学平和研究所所長、アメリカ学会会長などを務めた。
 '89.12(H1)日本学士院会員。'97文化功労者、2005女優の森光子や100歳を越えても現役の医者として活躍の日野原重明らと共に文化勲章受章。門下生に五十嵐武士、古矢旬など多数いる。
 アメリカ政治史やアメリカ外交史を専門とし、多角的な視点からアメリカの全体像の把握につとめた。著書に『アメリカ外交の論理と現実』、『アメリカ現代史』、『アメリカ政治外交史』、『アメリカ史の文脈』(改題:『アメリカとは何か』)、『先進工業諸国――普遍性と特殊化』、『アメリカ革命史研究――自由と統合』など多数ある。 他に共著、編著、共編著、訳書も多数刊行している。慢性気管支炎のため東京都内の病院で天昇。享年86歳。

<講談社日本人名大辞典>
<みすず書房等の著者略歴など>


墓所

*墓石は正面「齋藤家墓」。右面が墓誌となっている。裏面には「昭和十七年郷里の石にて 齋藤勇建つ」と刻む。郷里の石は福島県の石である。

※多くの人名事典では「斎藤 真」としているのがほとんであったが、墓石は「齋藤 眞」であるため旧字体で表記を統一した。


【多磨霊園に眠る文化勲章受章者】
 文化勲章とは、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者に授与される勲章のことである。1937(S12)内閣総理大臣の廣田弘毅の発案により「文化勲章令」(昭和12年2月11日勅令第9号)を以て制定された賞である。なお文化勲章には金品等の副賞は伴わない。 これは日本国憲法第14条の規定(勲章への特権付与の禁止)によるものであるが、文化の発展向上への貢献者に報いたいとの意図により、文化勲章とは別制度として、1951(S26)文化功労者顕彰制度が創設され、前年度までの文化勲章受章者で存命者を一斉に文化功労者として顕彰するとともに、以後も文化勲章受章者は同時に文化功労者でもあるように運用することとした。 これにより、文化勲章受章者は、文化功労者年金法に基づく終身年金(年額350万円)が支給される。

1937年 (昭和12年)木村 栄(地球物理学)
1940年 (昭和15年)高木貞治(数学)、 川合玉堂(日本画)
1943年 (昭和18年)鈴木梅太郎(農芸化学)、
徳富蘇峰(政治評論)→ 1946(S21)A級戦犯に指定されたことにより自ら返上
1946年 (昭和21年)仁科芳雄(原子物理学)
1950年 (昭和25年)三島徳七(金属学)、 正宗白鳥(文学)
1952年 (昭和27年)梅原龍三郎(洋画)、 朝永振一郎(原子物理学)
1953年 (昭和28年)宇井伯寿(インド哲学)
1956年 (昭和31年)古畑種基(法医学)
1959年 (昭和34年)小泉信三(経済学)、 丹羽保次郎(電気工学)
1960年 (昭和35年)吉川英治(小説)
1961年 (昭和36年)水島三一郎(化学)
1962年 (昭和37年)平櫛田中(木彫)
1964年 (昭和39年)吉田五十八(建築)
1968年 (昭和43年)*辞退:熊谷守一(洋画)→「これ以上人が来るようになっては困る」という理由で辞退
1969年 (昭和44年)正田建次郎(数学)
1977年 (昭和52年)中村 元(インド哲学)
1992年 (平成4年) 井深 大(電子技術)
1994年 (平成6年) 島 秀雄(鉄道工学)
2005年 (平成17年)齋藤 眞(アメリカ政治外交史)


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