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さいとう たけし

齋藤 勇

さいとう たけし

1887.2.3(明治20)〜 1982.7.4(昭和57)

大正・昭和期の英文学者

埋葬場所: 16区 1種 3側

 福島県出身。東京帝国大学文学部英文科卒業。1913(T2)母校の講師、'23助教授、'27(S2)『詩ニ関スル「キーツ」ノ見解』で文学博士、'31〜'47(S6〜S22)教授となる。 夏目漱石が去った後の東大英文科で指導的な存在となる。東京大学を停年退官し名誉教授。'48〜'54東京女子大学教授・学長。この間、'49市河三喜(3-1-25-3)や福原麟太郎らと日本英文学会を設立。'53国際基督教大学の開学に参加し、'54〜'64同大学の教授となる。
 文学史の研究においてその背景となるイギリス国民性および各時代思潮を重視し、まだ研究法の定まらなかった我が国の学界にイギリスのA.C.ブラドレーや、W.P.ケアの重厚・精密な学風を移植した。日本における英語・英米文学研究の生みの親と称される。
 日本における英文学研究に学問的基礎を与えた背景には、自らのプロテスタント信仰があったとされる。なお、クリスチャンとしては植村正久(1-1-1-8)に師事。日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。
 '75文化功労者。日本学士院会員。英詩の研究を中心に『ミルトン』『英詩概論』『ブラウニング研究』『シェイクスピア研究』『イギリス文学史』など数多くの著書、論文、随筆、また『齋藤勇著作集』全7巻・別巻1がある。 編纂した『英米文学辞典』は改訂を経て現在も使用され続けている。教え子に中野好夫や平井正穂ら多数いる。東京新宿の自宅にて、当時27歳の統合失調症を患っていた孫に襲撃され不慮の死を遂げた。享年95歳。

<コンサイス日本人名大辞典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所

*墓石は正面「齋藤家墓」。右面が墓誌となっている。裏面には「昭和十七年郷里の石にて 齋藤勇建つ」と刻む。郷里の石は福島県の石である。

*妻は文子(1894-1976 同墓)。長男はアメリカ文学者の齋藤光(同墓)、次男はアメリカ政治学者で文化勲章を受章した齋藤眞(同墓)、娘は三人おり、三女は早逝。娘二人は東芝社長・国際基督教大学理事長を務めた佐波正一、勇の教え子の英文学者の平井正穂にそれぞれ嫁した。なお佐波正一は植村正久の長女の澄江と佐波亘の子である。

※多くの人名事典では「斎藤」としているのがほとんであったが、墓石は「齋藤」であるため旧字体で表記を統一した。


*齋藤勇は、1950(S25)チャタレー裁判で検察側証人として出廷している。ただし「チャタレイ夫人の恋人」が文学的に優れているとは思えないと証言したのみである。 なお、チャタレー事件の判決を下した裁判長は下村三郎(16-1-8)であり、その後、チャタレー事件を踏襲する形で判決された「四畳半襖の下張事件」を裁いた裁判長は栗本一夫(4-2-新26)である。 チャタレー事件とは英国作家ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を日本語に訳した伊藤整と、版元の小山書店社長の小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件のことである。


【齋藤勇東大名誉教授惨殺事件】
 1982.7.4(S57)午後1時20分頃。東京都新宿区南榎町の自宅で、齋藤勇が同居している眞と和子の子である孫(当時27歳)によって惨殺される事件が起こった。これは「齋藤勇東大名誉教授惨殺事件」と呼ばれ、当時のニュースで大きく報じられた。
 死因は頭部顔面打撲による外傷性クモ膜下出血。金属製の置時計を凶器に、頭部15か所、顔面17か所、前顎部8か所、合わせて40か所の挫創が顔に集中していた。 更に眉間に刃渡り18センチの柳葉包丁が9センチもめり込んで突きたてられていた。孫は統合失調症(当時の名称は精神分裂病)を患っていた。なお、止めに入った母の和子は1か月の重傷、家政婦も頭に怪我を負った。
 近所の人の110番で警視庁機動捜査隊と牛込署員が駆け付けた。既に勇は絶命していた。捜査員が手分けをして孫の行方を捜したところ、1階の家政婦の部屋の押し入れに隠れていたところを発見。 不意にナイフを振りかざし警察官に飛びかかり、顔などを刺されたが、腕を掴んだまま倒れ、応援に駆け付けた他の警察官たちが取り押さえ、午後2時15分頃逮捕した。刺された警察官(警部補)は病院に搬送されたが後に死亡する。
 この孫は、1978慶応大学法学部卒業後、プリンストン大学に聴講生として留学。翌年、帰国し慶応大学大学院に進んだが、1年足らずで中退。 1980宗教に関心を抱き、東京神学大学に入学するが、半年後に退学し、翌年1月に再び渡米も、極端な菜食主義から栄養失調となり、5月に帰国。 正統キリスト教ではない異端の宗派や神秘学にのめり込み、インドに憧れ、日本語をしゃべらなくなり、日常会話も英語だけで、わけの分からないことを口走るようになった。 心配した母は千葉県旭市の海上寮療養院に連れて行き、そこで精神分裂病(統合失調症)と診断された。事件当日も様子がおかしいことから、再入院を相談する電話を二度かけていた。
 警察の取り調べでは、日本語を一切話さず、英語しか語らないため、通訳をつけて行われた。この結果、祖父殺害について「悪魔が殺した」と英語で認めた。しかし、精神鑑定の結果、責任能力なしと診断され不起訴処分となった。

<実録 戦後殺人事件帳>
<殺人百科データファイル>


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