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いちかわ さんき

市河三喜

いちかわ さんき

1886.2.18(明治19)〜 1970.3.17(昭和45)

大正・昭和期の英文学者

埋葬場所: 3区 1種 25側 3番

 東京出身。書家の市河三兼(萬庵)の次男。1906(M39)東京帝国大学言語学科に入学し英語学を専攻。卒業後、大学院に進む。 '12大学院在学中に出版した『英文法研究』は、わが国における英語の科学的研究の最初のもので、以後〈日本英学界の指導者〉と称された。 これにより、同年文部省留学生としてオックスフォード大学およびイギリスで3年間在外研究を行う。'16(T5)帰国して東大助教授、'20教授。 英語学を講じて日本における英語研究の基礎を築くとともに、中島文雄、大塚高信、佐々木達、松浪有(たもつ)などの俊英を育て、今日わが国の英語・英文学界の第一線に活躍している学者の多くは、市河の弟子か孫弟子にあたる。 教え子を総動員して執筆した『英語学辞典』('40出版)は、音声学・英語学・言語学の術語を解説し、学者の伝記をも掲載したもので、世界的にも珍しい出版物であった。
 '29(S4)日本英文学会創設、'31日本シェークスピア協会を設立し、それぞれ初代会長に就任。 '37より通算30年以上にわたり財団法人語学教育研究所の顧問、理事長、所長を歴任した。'39学士院会員。'46東大を定年退官。 「市河文庫」として知られる蔵書を大学に寄贈して研究文献の充実に寄与。'59(S34)文化功労者。'60文部省の英語教育改善協議会の発足にともない会長を務めた。
 『ラテン・ギリシャ語初歩』『聖書の研究』、国際音標文字普及の先がけとなった『英語発音辞典』、英語学入門書『英語学−研究と文献』などを著わし、また『大英和辞典』などの辞典や“A New Concise English Grammar”などの教科書を編纂、『英文学叢書』などの監修、シェークスピアの注釈、海外への日本古典文学の紹介など、広い分野にわたる業績がある。 同じ英文学者で交流が深かった松浦嘉一(24-1-12)と共著、訳書を多く執筆した。東京成城の自宅には、シェークスピアの作品に現れる全ての植物を栽培し、シェークスピア植物園と名づけた。
 日本の英語学の祖といわれ、新しい教授法の普及にも力を注いだ。 デンマークの英語・言語学者のオットー・イェスペルセンやイギリスの応用英語学者のハロルド・E・パーマーなどとの交流も盛んであった。 文学博士。享年83歳。児童英語教育者の野上三枝子は娘。

<コンサイス日本人名事典>
<世界人名辞典>
<人物20世紀>


*日本の英語学の祖と言われた市河三喜の傘寿(80歳)を記念して、1966市河三喜の寄付金を基金とし、財団法人語学教育研究所が、英語学の新人賞として「市河三喜賞」が設けられた。なお、市河三喜は財団法人語学教育研究所の3代目所長(1939.9-1957.3)、3代目(1937.2-1939.9)・5代目(1957.4-1970.3)理事長を務めた。

墓所

*墓所には5基の墓石が並んで建つ。真ん中の和型墓石が市河三喜の墓石で、正面は「市河 三喜 / 晴子 之墓」と妻と連名が刻む。墓石右面に三喜の略歴が刻む。戒名は友林院殿清庵日喜大居士。墓石左面には妻の晴子の略歴が刻む。墓石裏面に昭和十九年五月に市河三喜建之と刻む。晴子は三喜の前妻。5基並ぶ墓石の右端の和型「市河不二之墓」が建つ。これが後妻の市河不二(不二子)である。右から二番目は小さい和型「市河三愛の墓」。市河三愛は三喜と晴子の次男。幼くして病で早世した。市河三喜の墓の左隣りは、「市河三榮之墓」。市河三榮(1917.12.30-1943.10.3)は三喜と晴子の長男。1943海軍機関学校の英語教師として赴任したが、神経症を患い入院。服毒自殺をしてしまい27歳の若さで没した。その2か月後に晴子も後を追って自殺している。市河三喜は『手向の花束 : 市河晴子,三栄追悼録』(1945)を著している。『旅・人・言葉』(1957)でも追悼文を掲載している。5基の墓石の左端は洋型『野上燿三 / 野上三枝子』の墓石が建つ。三枝子は三喜と晴子の長女。兄二人が早世したため墓所を継承。三枝子は児童英語教育者として活躍。夫の野上燿三は物理学者。三枝子没3日後に燿三も亡くなっており、二人の葬儀喪主を娘で哲学者の長谷川三千子が執り行った。

*妻の市河晴子(1896.2.21-1943.12.5 同墓)の父は東京帝国大学法科大学長を務めた男爵の穂積陳重。母の歌子は渋沢栄一の長女。その三女として生まれる。 よって渋沢栄一の孫にあたる。憲法学者の穂積八束は叔父。兄で長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれた人物である。 自身は市河三喜と随行した海外経験を執筆し、『欧米の隅々』など、外国旅行記の著書を多数出した。 なお、1916(T5)市河三喜に嫁ぎ、二男一女を儲けた。長男の三榮の自殺により、二か月後に後追って自殺している。

*市河三喜の後妻の市河不二(1899.10.1-1955.4.12)は、旧姓は河野、別称を市河不二子、また旧姓での河野不二子としても活動。弟の河野豊弘は経営学者で学習院大学名誉教授。東京女子大学卒業(第1回生)。『山路の旅』『続・山路の旅』の著書がある。市河三喜が北軽井沢大学村組合員であった縁より北軽井沢の高原の植物の多くをスケッチした画を残す。これらの絵を環境保全・自然愛護思想を普及させることに役立たせるため、遺族である野上三枝子が提供している。享年55歳。

*元来、市河家は東京都荒川区西日暮里の本行寺が菩提寺である。父の市河萬庵、祖父の市河遂庵、市河米庵、市河寛斎と代々の墓が建つ。 代々は書家である。本行寺の菩提寺には「市河世儒傳芳之碑」があり、市河三喜が建てている


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