東京出身。太田胃散創始者の初代太田信義・銅子(共に同墓)の五男第8子として生まれる。父が58歳のときの子であったため、名前を五十八と名付けられた。4歳の時に父を、中学生の時に母を亡くしたため、長兄の二代目太田信義(同墓)の妻に育てられた。1909(M42) 母方の実家断絶を防ぐため母方祖父の吉田道伯の養子となり吉田姓を名乗る。
1923(T12) 8年間在籍し東京美術学校卒業。在学中から住宅や店舗の設計を手掛けていたため、卒業後は自宅に「吉田建築事務所」を開設した。'25 兄の二代目太田信義(同墓)の援助で欧米にてヨーロッパの古典建築を視察し、翌年帰国。1930年代中頃から吉田独自に近代化した和風デザインをモダンに表現した数寄屋建築の住宅を発表し始める。数寄屋の「数寄」とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり、数寄屋とは好みに任せて作った家という意味で茶室を意味する。来日したドイツ人建築家のブルーノ・タウトは、桂離宮などの数寄屋造の中に、モダニズム建築に通じる近代性があることを評価。これにより日本の建築界においても数寄屋建築が注目され始め、その流れで吉田の数寄屋建築も近代数寄屋建築と評され広く注目を集めた。その後も作品毎に数寄屋造の近代化の手法を発展させていった。
'37(S12)初枝(同墓)と結婚。'41 東京美術学校講師となり、戦後、'46 教授、'49 東京美術学校が東京芸術大学に改称後も引き続き教授として教壇に立ち、多くの後進を育てた(のちに名誉教授)。
日本建築の現代化に一貫して取り組み、大壁造り、荒組障子、新素材の活用などの独自の手法による「現代数寄屋」と呼ばれる様式を創始して、戦後の和風建築に多くの影響を与えた。'54 日本芸術院会員。'64 建築家としては伊東忠太に次ぎ2人目となる文化勲章受章。他に日本芸術院賞受賞、文化功労者。従三位、勲一等瑞宝章。
主な建築は東京歌舞伎座(1950:旧歌舞伎座)、日本芸術院会館(1958)、五島美術館(1960)、川合玉堂美術館(1961)、成田山新勝寺本堂(1968)など多数あり、吉田茂邸や岸信介邸などの文化人の邸宅建築も多く手掛けた。なお、遺作はワシントンの日本大使公邸。
結腸がんにより逝去。享年79歳。没後に吉田五十八記念芸術振興財団により、建築部門・建築関連美術部門における優れた作品と製作者を表彰する吉田五十八賞ができたが、'93(H5)に第18回をもって終了している。