| 歴史が眠る多磨霊園 |
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太田信義(初代) |
おおた のぶよし | |
| 1837(天保8)〜 1897.12.3(明治30) | |
明治期の実業家(太田胃散) | |
| 埋葬場所: 6区 1種 5側 | |
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栃木県出身。鳥居藩の家臣として槍術御指南番を勤める。
明治維新期に三重県四日市の高等官吏となり、第一回内国勧業博覧会の開設委員として東京に出向した。
この際に、欧米導入で急速に変貌する東京の経済情勢を目の当たりとしたのをきっかけに、官職を辞して、1878(M11)商道を志した。
日本橋呉服町に居を構え出版業をはじめる。江戸後期の儒学者の頼山陽の子息の頼復次郎と親交があり、頼から譲り受けた『日本外史』『日本政記』などを出版していたが事業は上手くいかず、ストレスにより胃病を患っていた。
大阪出張時に名医緒方洪庵の娘婿の緒方出斎医師の診察を受け、たちまち胃病が快癒した。
この処方薬に興味を抱き、緒方出斎を通じ、処方薬の開発者であるオランダ人名医ボードウィン博士を紹介してもらい、販売を目的に処方を譲り受けた。
この処方薬はイギリス処方の仕組みを応用し、肉食中心の欧米人の食文化に必要なスパイスと同等なものから成り立っている生薬である。
譲り受けた処方薬は胃散元祖太田製として官許を得る。1879出版業を行なうかたわら、雪湖堂を創業し、胃腸薬「太田胃散」を発売した。
1880製薬部門を強化し拡張するほどの売上をあげた。 <世界人名辞典>
*初代の5男の吉田五十八(同墓)は吉田道伯の養子となった。建築家として著名であり、文化勲章も得ている。 | |
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