岐阜県大野郡数屋村(本巣郡糸貫町→本巣市)出身。高木勘助の長男。第三高等学校を経て、1898(M31)東京帝国大学理科大学数学科卒業。三高からの同期に吉江琢兒(13-2-27-1)がおり(高木の方が1歳年下)、東京帝国大学数学科同期入学者8名中、卒業が出来たのが高木と吉江のみであった。
卒業後、ドイツに留学。ドイツの地で吉江と合流。ベルリン大学でフロベニウスに学び、ゲッティンゲン大学で現代数学の父と称されたヒルベルトやクラインに師事。この時、第2回国際数学者会議が開かれ、この会議でヒルベルトは数学上の未解決の大問題を指摘し、「次代を担う少壮の数学者たちよ、この大問題に挑戦せよ」と訴えかけた。この日から「ヒルベルトの23の問題」のうちの第12問題「クロネッカーの青春の夢」という未解決の難問に没頭した。
1901帰国し母校の助教授。数学科で代数学の講座を担当。'03〈ガウス数体の虚数乗法論〉で世界的に注目され、理学博士の学位を受ける。'04母校の東京帝国大学教授。第一次世界大戦で海外との情報共有ができない中、独自の理論を固めていった。
'20(T9)〈高木類体論〉『相対アーベル数体の一理論について』を発表。同年、ストラスブールで開催された国際数学者会議に参加。'23任意の代数体における奇素数次相互法則を証明した。世界的な難問「ヒルベルトの23の問題」のうち、第9問題「一般相互法則」と第12問題「クロネッカーの青春の夢」を肯定的に一部解決。ヒルベルトらの類体の概念を一般化することで難問を解くことに成功。代数的整数論の研究では類体論「高木の存在定理」の確立に貢献した。1850年代以降、多くの数学者の頭を悩まし続けてきた難問はここに解決した。
'23チェコスロバキアの数学物理学会の名誉会員に推薦される。'25帝国学士院会員。'29(S4)ノルウェーの数学者アーベル没後100年記念でオスロ大学から名誉学位を授与される。'32チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、数学のノーベル賞といわれる第1回フィールズ賞選考委員に選ばれた。
'36東京帝国大学を停年退官、名誉教授。'37海軍技術研究所の依頼により暗号機である 九七式印字機の規約数計算に協力。'40数学者で初の文化勲章を受章。'41藤原銀次郎が日本で最初に設立(1939)した私立工業単科大学である藤原工業大学の教授として迎え入れられた(~'47)。この時の学長は小泉信三(3-1-17-3)。'44太平洋戦争中は陸軍数学研究会(陸軍暗号学理研究会)の副会長に就任。'51文化功労者。'55日光で開催された代数的整数論の国際会議で名誉議長を務めた。'60勲1等旭日大綬章。
解析学入門の名著として知られる『解析概論』(1938)の他、教育者としても非常に評価が高く、その講義録を元にした教科書や参考書、数学の啓蒙書など発刊しており、主な作品に、『新撰算術』(1898)、『新撰代数学』(1898)、『新式算術講義』(1904)、『代数学講義』(1930)、『初等整数論講義』(1931)、『近世数学史談』(1933)、『数学雑談』(1935)、『数学小景』(1943)、『近世数学史談・数学雑談』(1946)、『代数的整数論』(1948)、『数学の自由性』(1949)、『数の概念』(1949)などがある。
日本が生んだ最初の世界的な大数学者であり“現代数学の巨人”“数論の神様”と称され、「類体論」という近代整数論の代表的理論を確立した。脳卒中のため逝去。享年84歳。没後、上山明博「類体論の父、高木貞治」、高瀬正仁『高木貞治 近代日本数学の父』、髙木貞治博士顕彰会『髙木貞治先生』など、高木貞治に特化した著書も多く出されている。
<コンサイス日本人名事典> <20世紀日本人名事典> <日本近現代人物履歴事典> <日本天才列伝など>
第311回 世界的な大数学者であり 現代数学の巨人 数論の神様 類体論の父 高木貞治 お墓ツアー
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