岡山県後月郡西江原村(井原市西江原町)出身。旧姓は田中、名は倬太郎(たくたろう)。1882(M15)田中家没落により、広島県沼隈郡今津村(福山市今津町)の平櫛家の養子となる。
幼少期に木彫に興味を覚え、1893 大阪の人形師の中谷省古の弟子となり、木彫り修行を行う。1898(M31)上京して高村光雲の門に入った。その際、台東区の長安寺に寄宿。高僧の西山禾山の臨済録の提唱を聞き影響を受ける。仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
上京して間もない時に、自作の観音像が70円で売れる(現在の価格で30万円)。以降も展覧会に出品した作品が買い上げと立て続けに売れ「東京はなんて素晴らしいところなのだろう」と感激したというエピソードがある。ところが、その後はしばらく作品が売れず貧乏暮らしが続くことになり、当時のことを「いつも柳の下にどじょうはいません」と回想している。
1901 日本美術協会美術展に『唱歌君ケ代』を出品し銀牌を受賞。'07 米原雲海(11-1-4-22)や山崎朝雲らと日本彫刻会を結成。第一回展に『活人箭』を出品して岡倉天心の推奨を受け、以降師事する。'11 文展で『維摩一黙』が受賞。'14(T3)日本美術院第一回院展に西山禾山をモデルとした『禾山笑』等を出品、会期半ばに同人に推挙される。'22 日本画家の下村観山(3-1-9-5)、横山大観、木村武山の尽力で台東区上野桜木町に住宅を建てる。
大正期はモデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作『転生』(1918)、『烏有先生』などにおいて示すが、昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求めた。'30(S5) 日本美術院の経営者に加わる。また第17回再興院展に『五浦釣人』を出品。'37 帝国芸術院会員。'44 東京美術学校(東京芸大)教授に就任。同.7.1 帝室技芸員に任命された。戦後、'47.12.2 名称を変更した日本芸術院会員となる。
戦後、'54 文化功労者。'58(S33)戦中を挟み22年の歳月をかけて完成した国立劇場の『鏡獅子』に田中芸術の集大成を見ることができる。なお、この作品のモデルの6代目尾上菊五郎は既に故人となっていた。以降は木彫界に重きをなした。
'58 出身地の井原市名誉市民に推戴され、'61 住居がある台東区からも名誉区民に推戴された。'62 彫刻界での功績が認められ文化勲章を受章。この時、90歳であった。受章者記者会見で「貰うのは棺桶に入ってからだと思っていました」とコメントした。'65 東京芸大名誉教授。同年、井原市・台東区に続いて養子先として育った地の福山市の名誉市民にも推戴された。
'70 初めての作品集『尋牛 平櫛田中作品集』を刊行。同.6 長年住み暮らした東京都台東区から小平市学園西町に転居。玉川上水の風景が気に入り、建築家の大江宏が設計建築を行った。この時、98歳であったため、九十八叟院(きゅうじゅうはちそういん:叟は翁の意)と自ら名付け、以来10年間、亡くなるまで武蔵野の面影の残るこの地で暮らした。この間、'72 井原市・台東区・福山市に続き小平市からも名誉市民に推戴される。同年、平櫛田中の出身地の井原市が主催し平櫛田中賞を設けた。後に井原市の田中美術館に上野桜木町のアトリエが再現された。
'73 著書『私の歩いてきた道』を刊行。100歳を超えても現役として活躍し、30年分の材料の計算となる直径2メートルのクスノキ材を3本購入している。「いまやらねばいつできる。わしがやらねばたれがやる」が口癖で、「不老 六十、七十は凍(はな)たれ小僧、男盛りは百から、百から、わしもこれからこれから」の名言がある。自宅にて逝去。享年107歳の長寿をまっとうした。
没後、作品や蒐集した美術工芸品、建物などを小平市に寄贈。自宅は現在、小平市平櫛田中彫刻美術館(1984.10開館)となり、平櫛田中が生涯をかけて収集した書籍 約1万5千点は、小平市中央図書館で「平櫛田中文庫」として公開されている。小平市役所に銅像も建つ。
<コンサイス日本人名事典> <小平市平櫛田中彫刻美術館 平櫛田中略年譜>
*墓所は以前住んでいた地の東京都台東区上野桜木町の寛永寺第1霊園にもある。多磨霊園の墓所は平櫛田中自身が小平に移り住んだ際に、将来入りたいと用意していた墓地となる。この時、墳墓のカロートと納骨室、墓所左側に建つ九輪塔を自身で建之した。墓所右側にある土円墳墓は、尊敬していた岡倉天心の五裏の土盛りの墓と同じ形であり、平櫛田中のお孫様で小平市平櫛田中彫刻美術館館長の平櫛弘子氏が平櫛田中の十三回忌の際に完成させた。土盛りの墓の前にある線香立ては大きな自然石を使用。墓所左手側に自然石の墓誌碑も建ち「釋田中」という戒名、施工者の名、平櫛田中の名と生没年月日、「寛永寺より大樹院彫聖田中大居士」、「清水寺 大西良慶大僧正より釋田中」、裏面に「昭和乙未春彼岸 田中建之」と刻む。なお墓所は灯台躑躅(どうだんつつじ)の垣根に囲まれている。
*「釋田中」という戒名は、岡倉天心の戒名「釋天心」であるため、自分が亡くなったら、それよりも長い立派な院号はいただけないという理由で、生前の本人の希望により清水寺の成就院の大西良慶大僧正よりいただいたものである。しかし、菩提寺の寛永寺より大樹院彫聖田中大居士という戒名も没後いただいている。
【ギネス世界最長寿の芸術家】
107歳まで生きた平櫛田中は最高齢芸術家としてギネスブックに記載された。
長生きした世界の芸術家は、画家のピカソの92歳、彫刻家の北村西望の102歳、日本画家の小倉遊亀の105歳らがいるが、平櫛田中の107歳が最長。広辞苑に載っている実在人物の中で最も長命な人物でもある。
なお、実は亡くなった時点で当時の男性長寿日本一であった。しかし、当時は、1865年生の説が広く信じられていた泉重千代がギネスで認定していた(120歳まで生き長くギネス記録とされていたが、その後、出生に誤りが判明し取り消された)ため、平櫛田中が生前中に男性長寿日本一と報じられたことは一度もなかった。
第76回 ギネス世界最長寿芸術家 平櫛田中 お墓ツアー
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