三重県松阪市出身。1916(T5)東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所に入る。'24.6 日本電気に入社。当時の日本の電気技術は、欧米からの技術導入が中心であり、日本独自の研究開発の必要性を感じて、同年アメリカやヨーロッパを視察。
翌年末に帰国後、日本電気の研究開発体制の強化を担当。また「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」の論文を書き上げ、'26 工学博士。'27(S2)技術部長に昇進。
写真電送の研究に取り組み、写真電送のNE方式(有線写真電送装置)を発明し完成させた。この写真電送装置は、現在のファックスの基になるもので、取扱いが簡単であるばかりでなく、完全に写真が再生できるもので、我が国初の写真電送装置である。この装置は大阪毎日新聞社に採用され、'28(S3)昭和天皇の即位の礼の写真を、この方式で京都から東京に電送することに成功した。
有線電送のみならず、無線写真電送の研究も始め、'29 東京‐静岡の伊東 間で、日本初の長距離無線写真電送の実験を成功させた。'36 ベルリンオリンピックには逓信省がこの装置をベルリンに送り、ベルリン‐東京 間 約8000kmの無線写真電送にも成功した。その後の世界で使われている写真電送は丹羽の方式が基本となっている。
'39 新設された研究所の初代社長に就任し、電波探知機などの研究を行っていたが、第二次世界大戦の戦中戦後の混乱のため、'49 研究所は閉鎖された。同年、東京電機大学初代学長に就任。のち東京電機大学名誉総長になる。'55 社団法人テレビジョン学会初代会長に就任。'57 IRE(米国無線学会)副会長。
NE式写真電送装置(ファクシミリ)の発明者により「FAXの生みの親」と称される。この功績により、'59 文化勲章受章。郷里の三重県松阪市の名誉市民に選出。'71 勲一等瑞宝章を受章。享年81歳。没後、従三位追贈。
'85.4.18 特許庁が日本の工業所有権制度100周年を記念して、歴史的な発明者の中から10名を選定した際、日本の十大発明家のひとりに選ばれた。なおこの10人の中に、多磨霊園に眠る三島徳七や鈴木梅太郎も選ばれている。
著書『若き技術者に贈る』には「技術は人なり」の言葉を贈っている。これは立派な技術には立派な人を要する。よき技術者は人としても立派でなければならない。技術者になる前に「人」にならなければなりません。技術者は常に人格の陶冶を必要とする。と述べている。
<コンサイス日本人名事典> <「若き技術者に贈る」丹羽保次郎> <人事興信録など>
*墓石は和型「丹羽家之墓」、裏面「昭和十六年七月 丹羽保次郎 建之」。右側に墓誌が建つ。戒名は麒鳳院殿壽譽来迅保慈大居士。妻は田鶴子。田鶴子は政治家の漆間民夫の三女。
*丹羽保次郎の父は丹羽安兵衛(同墓)であり、旧名は高木周蔵。松阪の木綿糸商「えびすや」主人を務めた。えびすやの奉公人だったが主人に見込まれ養子となり、安兵衛を襲名、保次郎が7歳のときに39歳の若さで病死している。母は むめ(同墓)。むめ は宇治山田の木綿糸商の山畑利兵衛の娘。先代安兵衛の妻の姪にあたる。
*保次郎と田鶴子の間には2男2女を儲ける。長男の丹羽登(同墓)は、非破壊検査工学者であり超音波計測研究家である東京大学名誉教授。二男は丹羽滋。長女の恭子は電子工学者の岡村総吾に嫁ぐ。二女の真子は電気工学者の斎藤成文に嫁ぐ。登の妻は電気工学者の瀬藤象二の二女の恵美子(H28.8.6歿)。登の長男の丹羽元(H19.11.21歿)は動力炉核燃料開発事業団や核燃料サイクル開発機構に携わった。登の二男の丹羽誠は横手市立横手病院院長。
第357回 NE式写真電送装置 FAXの生みの親 丹羽保次郎 お墓ツアー
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