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にわ のぼる

丹羽 登

にわ のぼる

1921(大正10)〜 2006.11.25(平成18)

昭和・平成期の非破壊検査工学者、超音波計測研究家

埋葬場所: 10区 1種 2側

 東京出身。父方祖父は木綿糸商「えびすや」主人の丹羽安兵衛(同墓)。母方祖父は政治家の漆間民夫。父はFAXの生みの親である工学者の丹羽保次郎、田鶴子(共に同墓)の長男。
 '42(S17)東京帝国大学工学部入学。戦時中の卒業研究でレーボックの開発にあたる。これは溶融石英棒の片端に水晶振動子をはりつけた、一種の超音波遅延回路で、その多重反射エコーをレーダーの距離目盛の較正に使用するものである。機上のテストで見事浮上中の潜水艦を発見したという逸話がある。
 このように水晶遅延素子作りの研究に没頭していたが、太平洋戦争悪化のため繰り上げ卒業させられ、勤労動員学生として電波兵器製作や較正装置を持ってレ−ダ−基地へ赴いた。のちに研究室は山梨県日川へ疎開。航空機搭載レ−ダ−の調整に富山飛行場へも行くようになり、その地で終戦を迎えた。
 戦後も大学に残り、パルス反射法の技術を取得していたため、超音波探傷器の試作に着手した。超音波深傷の草創期において、日本学術振興会製鋼部会に超音波深傷協議会を新設し幹事に就任。日本学術振興会超音波探傷法協議会の連絡役を務め、日本非破壊検査協会(JSNDI)の創設 にあたり理事に就任した。'49 東京大学助教授、'61 教授。
 生産技術研究所でロケット研究、個体ロケットのケース(鋼管)のUT研究に携わる。戦後の日本は航空関係の研究が禁止となり、東京大学航空研究所廃止に伴い、縮小して理工学研究所となっていた。研究禁止が解除となり航空研究所再開の機運が高まり電気部門を強化することで移籍した。
 計測分野でも斬新な思想に基づく数々の応用を開拓。ドップラーレーダーの超音波シミュレ−ター、超音波高度計、超音波気温測定などの強化を進めた。さらにテレビジョンによる計測に先鞭をつけられて、電車架線の走行中の摩耗計測に成功している。
 航空研究所が宇宙航空研究所と改組され、宇宙観測が主業務となる。打ち上げ援助とロケットエンジンNDIに力を入れる。日本の観測ロケットが実用化されかけたころ、日本も独自に宇宙観測用画像取得システムを持つ必要があるとのことで担当となる。日本向け(軽量・省電力)の低速走査電子シャッタ−付きTVシステムを開発し、これは後に宇宙観測衛星からオ−ロラを撮影する装置にまで発展することになる。
 国際会議にも数多く参加し、世界非破壊試験会議(ICNDT)日本代表として長く活躍。'80 米国非破壊試験協会(ASNT)のフェローを受けている。
 '82(S57)東京大学を停年退官し名誉教授。同年、千葉工業大学電気工学科教授に就任して「非破壊検査工学」の講義を創設して後進の指導にあたる。また『超音波計測』の著書も刊行し、超音波分野の数少ない教科書として長く親しまれた。'85 千葉県非破壊検査研究会会長となり、'98 会長職を勇退し名誉会長となった。
 '97(H9)千葉工業大学退官後は、超短波のアマチュア無線をはじめる。山頂で受信を試み、短時日で100局受信の認定証を受けている。2000 勲三等旭日中綬章。享年85歳。没後、正4位追贈。

<非破壊検査の裏と表 丹羽登>
<故 丹羽登先生を偲ぶ>
<追悼 丹羽登先生を偲ぶ 尾上守夫>
<人事興信録など>


墓所

*墓石は和型「丹羽家之墓」、裏面「昭和十六年七月 丹羽保次郎 建之」。右側に墓誌が建つ。戒名はなく俗名・没年月日・行年のみ。妻は恵美子。

*丹羽登の妻は電気工学者の瀬藤象二の二女の恵美子(H28.8.6歿)。登の長男の丹羽元(H19.11.21歿)は動力炉核燃料開発事業団や核燃料サイクル開発機構に携わった。登の二男の丹羽誠は横手市立横手病院院長。


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