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このコーナーは、昔、若松城にあった16の郭門をシリーズで紹介します。昨年、ミクシーの日記に書いた文章を使います。

Column: 若松城郭門

「若松城郭門」

熊野口郭門

若松城の郭内に入るための門の一つの熊野口を紹介します。以前ミクシーの日記に書いた内容をそのまま載せます。.
2007年06月20日23:56 に書いたものです。

このところ、バスのネタばかりの日記でしたけど、今日は、前に戻って、若松城の郭門の紹介、再会したいと思います。。

 今日は、久しぶりにタクシーだけに5時間乗りました。やはり、乗り換えが無いと楽ですね。(^○^)比較的リラックスして仕事が出来ました。。今も雨が降っていますけど、今日の午前中、若松は雨が降っておりました。天気予報では、日中曇りでしたけど、予想外の雨降りで、町を歩いている方々は、戸惑い気味で歩いておられました。。こういう時、タクシーは結構忙しく仕事をさせてもらえます。短い5時間でしたけど、大分仕事をさせてもらいました。。

 さて、本題に入ります。。熊野口、私も本を読むまで、このような郭門があるなんて知りませんでした。今の地名で云うと、城南町、天神橋の北側交差点から西へ向かい、墓地を過ぎ左側2件目に北に入る道があります。そこから少し入った付近が、昔、熊野口と呼ばれた郭門があったところであります。ここも鎖されていたようです。

 この付近、お城の南側、外堀から内堀にかけての部分を権現下郭といったそうであります。この熊野口の東側には、東照宮、熊野神社、延壽寺等があり、熊野神社の東側に富岡神社があったそうであります。この富岡神社には、土津大明神(保科正之公)、徳翁霊神(正容公)、土常霊神(容貞公)などを祀っていたそうでありますが、残念ながら戊辰戦争時に焼失してしまったそうであります。

 「新編会津風土記」から、
(又天神口とも云郭南深沢天神社に近き故なり)この丁(五軒丁のこと)の東端にて西に向ひ南に折れ河原新丁に分る郭門なり番所熊野宮の側にある故此名あり
とのことで、、熊野神社に近かったから、この名前が付いたようであります。。

 この付近、戊辰戦争時は富岡神社に砲兵陣地が置かれたそうで、9月14日以降に開始された小田山からの大砲による攻撃に対し、会津藩もここから応戦し、一時、敵を沈黙させるほどの活躍を拠点だったそうであります。有名な山本八重子さんも髪を切り、先に戦死した弟になりきり男装して、女性ながらも奮闘した場所でもありました。また、この地は、日付は前後しますが、8月23日早朝には、若松に敵である西軍が殺到してきました。その時、直ぐにお城には入城できずでした。翌24日になっても城を攻め落とす事ができず、持久戦になったようでした。その後、長州藩の有地品之允が率いる一隊が、この南面が弱点である事を知り、この熊野口から三の丸への入場を試みました。一小隊約80名。籠城の会津藩、その時点では、それを防衛しようとしても他に人員を取られていた為に、直ぐに対応できず、年寄りや子供、婦女くらいしか居ない状態、、そんな緊急事態の折、容保公の命令により、何とか男子を集めたけれど、武士では無く、学者とか無役の人ばかり38名、仕方が無いので、集まった人員の中の士分の者は番頭格、士分以外の者は士分に急遽昇格させて、新たな隊を作り、ここの防衛に入る事になったそうであります。。

 此方々、天神橋から攻めてきた長州藩の有地隊長率いる小隊を急造の兵隊にも関わらず、勇敢に撃退したそうであります。また、その後方からは、土塁の上から婦女や小姓隊も射撃で支援したそうであります。ただ、一時長州軍を撃退はしたものの、場外に出て、その敵兵を追った會津藩士は、湯川対岸に潜んでいた(静松寺墓地内)、長州軍の一斉射撃に遭い、多くの方々がなくなられたそうでした。(T_T)
 この湯川付近、敵味方の戦死者で累々となり、川の水は血に染まったそうであります。(参考文献:会津史談会調査部編若松城郭門、小島一男著歴史春秋社町名歴史散歩180ページ)
また、その後、帰ってきた白虎隊も一時、この門の防衛の任務にもついたようでありました。。
この裏門にあたる、熊野口、今は昔の面影は無くなってしまってます。
写真1は、昔の地図です。。
kawaramachikuchi1.jpg

現在の地図ー>http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F28%2F53.644&lon=139%2F56%2F3.829&layer=0&sc=2&ac=07202&size=s&type=static&pointer=on&mode=map
その航空写真ー>http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F28%2F53.644&lon=139%2F56%2F3.829&layer=0&sc=2&ac=07202&size=s&type=static&pointer=on&mode=aero

写真2が現在の熊野口付近です。。
kumanoguchi.jpg住宅地となっています。熊野神社や東照宮があったあたりは、墓地になっています。普段は大変静かなところで、昔、大変戦闘があって、多数亡くなった方が居られたなんて想像できないところになっています。。

ちょっと、悲しい出来事も紹介してしまいましたが、戊辰戦争の戦場となった若松市内、多かれ少なかれ、色々と悲しい時間があったと思われます。。何時も書きますけど、今の時代、このような戦争がない、平和になっていること、改めて感謝であります。

ということで、またまた、下手な文章で恥ずかしいのですが、熊野口郭門の紹介をしました。。間違いもあるかと思います。。ご指摘がありましたら、無知なえむたにお教えいただければ幸いです。。

次回は、宝積寺口を紹介したいと思います。。。現在の城東町、風雅堂の近くの住宅街の小道です。。

それから、久しぶりに如来堂に行ってきました。。ご覧の通り、緑が濃くなってましたです。。
nyoraidoh1.jpg
明日のえむたは、7時30分~21時30分まで勤務します。
どんな仕事が待っているか、出社しないと分らないわけですが、何が来ても気を落ちつけて、乗りたいと思います。。 


SNSのミクシーの会員であります「えむた」は、過去に色々と日記に書きました。その中で、紹介した内容をまとめてみます。

参考文献:会津史談会調査部・研修部(文化史講座)平成12年度11月2日、若松城郭門を訪ねて、時の配布資料から
町名歴史散歩・会津若松・町名の由来。小島一男著、歴史春秋社

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