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このコーナーは、昔、若松城にあった16の郭門をシリーズで紹介します。昨年、ミクシーの日記に書いた文章を使います。

Column: 若松城郭門

「若松城郭門」

外讃岐口郭門

若松城の郭内に入るための門の一つの外讃岐口を紹介します。以前ミクシーの日記に書いた内容をそのまま載せます。.
2007年05月20日22:27 に書いたものです。

さて、若松城の郭門の紹介、再会します。。
今回で、11回目です。後五門あります。。

今日は久しぶりに日曜日が休みでありました。。先週は、色々と忙しい毎日でありました。。週の初めは、誠に残念な事もあり、それに関連した仕事で大忙しだったり、途中2日間は、新たな業務の訓練だったり、疲れが溜まっていたのかもしれません。。今朝からずっと寝たり起きたりして、本当の休養日としました。。

昼間、長時間昼寝をしてしまったので、今の時間、ちょっと目がさえております。。そんなわけで、中断していた、郭門の紹介、再会したいと思います。。

さて、今回は、会津若松市の現在だと城南町になるんでしょうか??西出丸前の118号線を南に向かうと最初の交差点(南町交差点)を左折、東に向かうと間もなく左側に新城金物店さんの赤い看板が見えてきます。。その新城金物店さんの西側に細い道があるのですが、ここからちょっと住宅に入ったところが、外讃岐門と言われる、郭門跡であります。。

写真1が、昔の地図です。。不明口と書いてあるところがそうです。
sotosanukiguchi1.jpg










そして、現在はといえば、下記の通りです。。
地図ー>http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F28%2F55.288&lon=139%2F55%2F55.248&layer=0&sc=2&mode=map&size=s&pointer=on&p=%B2%F1%C4%C5%BC%E3%BE%BE%BB%D4%BE%EB%C6%EE%C4%AE&type=static&CE.x=326&CE.y=231
航空写真ー>http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F28%2F55.565&lon=139%2F55%2F55.456&layer=0&sc=2&ac=07202&p=%B2%F1%C4%C5%BC%E3%BE%BE%BB%D4%BE%EB%C6%EE%C4%AE&size=s&type=static&pointer=on&mode=aero
写真2は、現在の讃岐門付近です。。
sotosanukiguchi.jpg
「新編会津風土記」記載内容。。(会津史談会調査部編、若松城郭門)から、、
外讃岐口 熊野口の西の方にあり内郭に同名ある故内外を以て分つ今鎖して往来を禁ず
内讃岐口 南にあり南門とも云虎口東へ向ひ道は南に折れ五軒丁に通ず升形あり今は鎖して往来を禁ず蒲生氏の時河北讃岐と云者の屋敷が近かりし故名となりしと云
、、、だそうです。。。。讃岐って人の名前だったんですね。。ちなみに内讃岐門っては、西出丸の南端付近です。。(えむた注)

さらに書いてあります。。
この口が何時の頃から鎖されてたかは不明だが、番所は置かれ、勤番も配備されていた。この番所が破却されるのは『家世実記』によると天明元年(1781)九月朔日のことであった。
 外讃岐口門は実質的に若松城の裏門に当たり、内・外門は五戸の家中屋敷があったにもかかわらず、この門を鎖して往来を禁じていたいわれは、この門を入ると直ぐに濠をへだてて本丸の高石垣を見ることができ、なおも北進すると西出丸の内讃岐門に到ることができる。つまりこの門がいったん敵のてに落ちるようなことにでもなれば、城の中枢部は忽ち攻撃にさらされるという、城の防備上代々の弱点であったためのようである。しかしこの杞憂は、戊辰の戦いで現実的なものとなった。
 郭門の構造は桁行二間、高さ二間の四脚門か、あるいは熊野口、南町口に次ぐ重要な位置にある事を考えると、高麗門であったことも考えられる。(若松城郭門から)の文章、、

確かにこの道を入っていくと、直ぐにお城本丸南側の濠に達します。写真3、濠と本丸高石垣(干飯櫓)が見え、直ぐに西出丸の入り口、内讃岐門に到ります。。
hoshiiyagura.jpg
現在は、この付近静かな住宅地になっております。。

この外讃岐門の南側、現在の湯川に近いあたりに百件長屋があったそうですが、、白虎隊士中二番隊の津田捨蔵氏の家族が住んでいたところではないかと、言われております。。この方は、飯盛山では無く戸の口で亡くなった事は、ご存知のとおりであります。。後から自決者に追加された方でしたね。。ほかに池上新太郎氏(滝沢弁天道後ろで)、伊東悌次郎氏は金堀で亡くなったとされておりますね。。『戦死者名簿』山川浩外二名編より、、この話、他説もあります。。

長々と書いてしまいましたが、南町から城南町付近、このような重要な門があったんでありますね。。ちなみに西出丸は、再編成された白虎士中隊が守る事になります。。戊辰の会津戦争のお話し、色々ありますが、なかなか分ってない事あるようであります。。地域地域に隠された歴史が多くあるような気がしてなりません。これからも住んでる町、会津若松の街並、興味を持ちながら見ていこうと思います。。。

次回は、この門の東側、熊野口を紹介したいと思います。。

明日は8時から17時30分の勤務です。。暫く日勤が続きます。上手く体調を整えていこうと思います。。


SNSのミクシーの会員であります「えむた」は、過去に色々と日記に書きました。その中で、紹介した内容をまとめてみます。

参考文献:会津史談会調査部・研修部(文化史講座)平成12年度11月2日、若松城郭門を訪ねて、時の配布資料から
町名歴史散歩・会津若松・町名の由来。小島一男著、歴史春秋社

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