kakumonーmuikamachi



えむたの写真館

タクシーの車窓から見た風景





LinkIcon最近の大内宿

このコーナーは、昔、若松城にあった16の郭門をシリーズで紹介します。昨年、ミクシーの日記に書いた文章を使います。

Column: 若松城郭門

「若松城郭門」

六日町口郭門

若松城の郭内に入るための門の一つの六日町郭門を紹介します。以前ミクシーの日記に書いた内容をそのまま載せます。. 2007年03月12日11:55 に書いたものです。

おはよう御座います。。午前11時、寝坊しました。
今日は、午前2時30分まで乗りました。。
帰宅が午前3時付近でした。。
今年は、本当に異常気象であります。。昨日の午後5時頃から降り始めた雪は、夜が更けるとともに本格的な積雪となりました。。

今日は、若松城郭門紹介の3回目、六日町口です。。。
偶然ですけど、一昨日撮った六日町口付近の写真と昨日の午前2時頃撮った写真がありました。。。

muikamachi.jpg3月10日午後4時頃の写真(写真1)











muikamachi-yuki.jpg3月12日午前2時頃の写真(写真2)

ご覧の通りであります。。。一日でこんなに風景が変わってしまいました。。。昨日は、雪による交通事故が多発したようで、磐越自動車道は、事故が遭ったりしたために全面通行止めになったようであります。。。もう3月中旬だというのに、驚いてしまいました。。現在、家の前の積雪を見てみると、40センチから50センチは積もったかもしれません。。。まだ、振ってますね。。これからが思いやられますね。。。

なお、この付近の現在の地図は下記の通りです。。
アルプス社の地図http://map.yahoo.co.jp/print?lat=37/29/32.054&lon=139/56/11.946&layer=1&sc=2&mode=map&size=m&memo=%CF%BB%C6%FC%C4%AE%B3%D4%CC%E7%C9%D5%B6%E1%02
ゼンリン社の地図(試しhttp://www.chizulog.com/bmap/chizulog?lat=134970240&lon=503759250&sc=8

muikamachi-chizu.jpgちなみに、写真3は、昔の地図です。。

六日町口について、調べた事を書いてみます。
会津史談会調査部編「若松城郭門」から引用します。。

六日町通、、、(『新編会津風土記』より、、)
三日町の西に並び南は本一之丁より北は五之丁の土居際に至る長四町六間余幅五間家数二軒
六日町口、、、此通の北端より西の方五之丁に折れ北に向て六日町に出る郭門なり
、、という説明がなされておりますです。。

この付近、今もその名残があるようですけど、車川という川があったそうで、古い地図にもありますように、水車小屋があり、そこで御用米の精米を行っていたようです。。(武家屋敷に精米所が復元されてますね。。。)

六日町の名前の由来は、、その昔、六の日にこのあたりで市があったからとのことですけど、、他に三日町、七日町も市の開催日にちなんでついた町名のようです。。ちなみにそれ以外の日の町名は無いようです。。。

戊辰戦争時のお話として、、、
旧暦8月23日、この付近も大変な激戦地になったようであります。。白虎隊の話に限定すると、(「会津白虎隊のすべて」新人物往来社、参考、引用、士中一番隊隊士「永岡清治」著、旧夢会津白虎隊に色々なことが書いてあるようですが、、)士中白虎各隊は、その前日の8月22日に集合を命ぜられ、各隊頭邸に集まったようです。。士中一番隊は、春日和泉邸、士中二番隊は、日向内記邸に、、、、その後、二番隊は、老公(容保公)の護衛の為滝沢方面に出陣、そして、更に戸の口へ出陣、一番隊は、以前老公について野沢方面に出張したので、今回は喜徳公の護衛の為、居残りを命ぜられたとのこと、、、その22日の夜は、春日邸にて待機、、
翌日の23日は、お城の北門付近にて「滝沢に至りて老公を迎えりて帰城すべし」との命により、甲賀町を北進、本五之丁付近で容保公一行と出会い、その際に、「敵が数百歩の後に迫っている。我に従う事はないから、甲賀町郭門に到って死守せよ」と命じられ、早速、家老三宅半吾(みやけはんご)邸に入ってその北側外堀土塁上から射撃を始めたとのことであります。(場所:甲賀町門の日記を見てみてください。古い写真にその場所が写ってます。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=363635531&owner_id=5038296
ただ、このとき、それほどの射撃を敵に浴びせることが出来ず、敵も迫ってきたために、その場から離れ、この土塁沿いに六日町方面に移動、、その後、この六日町門から出て、直ぐ鳥居町を東へ前進したとき、後方から敵の銃撃を受け、隊は道を挟んで南北に分かれてしまったようです。(この銃撃で、佐久間直記、西村四郎の2名戦死)南側の人家に飛び込んだクループは、春日隊長に付き、三日町門から再び郭内に入り、三の丸不明門から入場、、北側八角神社方面に逃れた生田半隊長以下のグループは、そのまま東に進み、慶山から愛宕山の東南側に登り、士中二番隊と同じように、お城付近の火事の煙を見て、一時は自決を決意するも、春日隊長の若党であった方(大人)による説得によって、自決をとどまり、東山に逃れ、8月25日に入お城したようです。。(このとき、生田半隊長も愛宕山に皆で登る前に慶山付近で行方不明、、後に入城)
この一番隊ももう少しで自決だったんでありますが、運良く大人が付いていたために、助かったのでありますね。。このグループは13人だったようです。。
こんな話が、、書籍に紹介されておりますが、戊辰戦争当時、大変な混乱がおきていたんでありましょうね。。。
六日町門も甲賀町門に近かった為に、このようなお話がたくさんあるようです。。

ちょっと知ったかぶりして、まとまりのない文章を書いてしまいました。。。m(__)m

この当たりは、現在、ちょっと、変わった道になっておりますが、昔どのようになっていたのかは、分からなくなっています。。本五之丁との交差点から、北進(一方通行)するとちょっと上り坂になっており、右が穴沢病院の敷地、左が元梅屋敷の駐車場となっております。夜の繁華街になっており、金曜土曜は大変な人出になります。。。(都会とは違いますが、、、)この当たりで、夜、お酒を飲みながら楽しんでおられる方々、、昔、こんな事が有ったとは、思いもよらないことだと思いますね。。。。

(後で読み直しますが、誤字脱字、多々あるかと思います。。文章も読みにくいと思いますし、間違いもあるかと思います。何かご指摘がありましたら、、どうぞ、未熟な私にお教えいただければ幸いです。。)
上のお話は、大変有名な話なので、ちょっと端折って書きました。。。スイマセン。。m(__)m

次回は、ちょっと西に下がって、大町口を紹介したいと思います。。今のホテルニューパレス付近です。。

今も雪がたくさん降ってます。。お昼のニュース発表で、若松は積雪41センチとのこと、、、参りましたです。。今日は、18時から23時まで乗る予定です。。短い勤務ですけど、気を引き締めていこうと思います。。

雪の降った地域の方々、どうぞお気をつけてお過ごしください。。

風邪は、大分良くなりました。。。


SNSのミクシーの会員であります「えむた」は、過去に色々と日記に書きました。その中で、紹介した内容をまとめてみます。

参考文献:会津史談会調査部・研修部(文化史講座)平成12年度11月2日、若松城郭門を訪ねて、時の配布資料から
町名歴史散歩・会津若松・町名の由来。小島一男著、歴史春秋社

史跡紹介トップへLinkIcon