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このコーナーは、昔、若松城にあった16の郭門をシリーズで紹介します。昨年、ミクシーの日記に書いた文章を使います。

Column: 若松城郭門

「若松城郭門」

三日町口郭門

若松城の郭内に入るための門の一つの三日町口を紹介します。以前ミクシーの日記に書いた内容をそのまま載せます。.
2007年03月31日23:51 に書いたものです。

こんばんわです。。m(__)m
今日は、明け休みでありました。昨日の勤務は、金曜日にある特別の勤務時間でありました。普通は、泊まりの翌日は7時から20時まで、その翌日は、7時から14時までやって、公休となるのですが、この日だけは、この二日間を連続してやる日程、7時30分から翌日の午前1時30分となり、明け休み、公休となります。
今日のその明け休み、朝から寝たり起きたりして、過ごしました。

昨日は、3月30日金曜日、考えてみれば、ほとんどの企業が年度末なんでありますね。。町がなんとなく混んでおりました。仕事の注文も結構多くて、朝からひっきりなしに仕事が入ってきて、大変忙しい一日でもありましたです。。

3月30日は、仕事でありましたけど、別に家の事でどうしても完了しておかなければならない手続きがあり、仕事の休憩時間を利用して、なんとか、こなしました。。ずっと、心配だった事でもあったので、昨日で何とか完了できて、今はホッとしているところであります。

今までの懸案だった事が何とか済んだんで、今日は気が緩んでしまい、寝てばかりでありました。。。

明日から4月、どんな、人事の発表があるか、ちょっと、不安でもありますけど、新たな気持ちで新年度を向えたいであります。。

今日は、三日町門を紹介します。。
現在の三日町門跡は、、、ここであります。写真1
mikkamachikuchi.jpg











昔の地図ー>写真2
mikkamachikuchi1.jpg










地図ー>http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F29%2F25.862&lon=139%2F56%2F17.601&layer=1&sc=2&ac=07202&size=l&pointer=on&mode=map
航空写真ー>http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F29%2F25.862&lon=139%2F56%2F17.601&layer=1&sc=2&ac=07202&size=l&pointer=on&mode=aero

さあ、ここはどこでありましょうか??
d( ̄  ̄) オワカリ?ですね。

そうそう、会津工業高校の正門付近であります。

続きは、ちょっと、時間をおいて書きます。。。m(__)m

<ここから翌日記載>
昨日は、書いているうちに眠くなってしまいました。。スイマセン。これから、書きます。。

三日町、、町名の由来は三の日に市が立ったのでついたことは、六日町、七日町も同様で云うまでもないですが、じゃ、一日町、二日町(北会津にはあります。)四日町、五日町は、、、?そんな町名は、、ないない。。何故??、、昔の六斎市といわれるくらいですから、どこかで必ず市が開かれていたんでしょうけどね。。
興味あるサイト(ちょっと長いです)http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1602.htm
それじゃ、町人町(郭外)の町名が、郭内にもあるのは、何故か??不思議であります。。。どこにもその理由が書いてない。。(。・_・。)
なんて事を不思議がる私が変なのかもしれませんが、、、

町名歴史散歩(小島一男著)には、『永禄四年(1561)、葦名盛氏が向羽黒山(本郷山付近)に隠居城を築いたとき、三日町は向羽黒山の西麓にあり、商人町で三日に市が立てられていたのでこの名がついたという。天正年間(1573-92)、盛氏が黒川に戻った際、三日町も黒川の城下に移され(位置不明)、更に蒲生の町割りでこの地に移され「魚塩交易の利を通ずるため」三々の日に市場を開く事が定められ、竪三日町と一年交替で(横三日町と)毎月三日、十三日、二十三日に位置が立てられていた。。』とのことです。。。

ということで、結構古いころからある町名だったようでありますね。昔の殿様、葦名、蒲生のころからあった訳で、今みたいにショッピングセンター(アピタのような)なんてない時代、当時の殿様も色々と考えて、商品の交易を上手く運営していたんでしょうね。。町の中は、日替わりで昔のショッピングセンターのようなことをやっていたんでありましょう。楽市楽座、この当時もやっていたようで、なんと、無税だったみたいですね。。。太っ腹なのか、、??

今、郭内、郭外の三日町付近を走らせてみると、全く当時の雰囲気はありませんね。。時代が変わると、街並も変わってしまうんですね。横三日町は、道路沿いは一般の民家が多いです。。

この三日町門、戊辰戦争時は、意外と敵の数は少なかったとの事です。以前、白虎士中一番隊が、旧暦8月23日に甲賀町郭門付近の家老三宅半吾邸から撤退し、六日町から鳥居町付近で敵の銃撃を受け、二つに分断されたことを紹介しましたけど、春日隊長と一緒のグループは、この三日町門から何とか郭内に入って、宝積寺通りの内小田垣に向かい、三の丸不明門から入城した。とあります。。(白虎隊のすべて、116ページ参照)この書籍に、括弧書きで紹介されてますが、会津刀匠の古川和泉守兼定(ふるかわいずみのかみかねさだ)が敵兵と一対一で斬りむすんだ、、との伝説があるそうで、近くのほかの門より敵兵は少なかったらしいと書いてあります。。
この白虎士中一番隊の片方は、この三日町口に入れなくて、東上して愛宕山まで行って、一時は白虎士中二番隊の自決者みたいに、切腹するかどうかまで、追い込まれたわけで、このあたりは、人の運命を変えるほど、当時は大混乱だったんでしょうね。。


mikkamachikuchi2matsueharugi.jpg
写真3、、会津工業高校正門左に、このような案内板があります。色々なところに、このような物がありますが、ここにあるのは、シュガー王と言われた、有名な松江春次の説明書きです。「バルトの楽園の主人公の松江豊寿大佐の弟さん」。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/jinbutsu/mharuji.html
映画ー>http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/Sugarking/sugarstory3.html
会津工業高校ご出身の方でしたら、ご存知でありますよね。。私は別の高校だったので、知りませんでした。。

今日は、公休日であります。。春になったので、今までやってなかった、家の片付け、色々あるので少しずつやって行く事にします。。。

明日は、7時30分から21時まで乗ります。。

またまた、長文のまとまりのない日記になりました。。(-_-;)

先月末からスケジュールに勤務時間を入れてみました。。


SNSのミクシーの会員であります「えむた」は、過去に色々と日記に書きました。その中で、紹介した内容をまとめてみます。

参考文献:会津史談会調査部・研修部(文化史講座)平成12年度11月2日、若松城郭門を訪ねて、時の配布資料から
町名歴史散歩・会津若松・町名の由来。小島一男著、歴史春秋社

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