は し が き

 

 

1995年という年は不思議な年である。

1月に阪神大地震があったと思ったら、春にはオウム真理教の一連の事件が暴露され、昨年の松本サリン事件から地下鉄サリン事件に至る一連のつながりが明らかにされた。

地震というのは、地球の物理的、生理的な現象であるが故に、人間の英知では如何ともしようがないが、オウム真理教の事件というのは何とも不可解な事件である。

日本の一流の大学を卒業した人が、こういういかがわしい宗教にのめり込むという現象が不可解である。

宗教というのは何かしらいかがわしい要素を含んでいるものであり、そのいかがわしい部分に人は牽かれるのであろうが、この現代科学の進んだ真っ只中におりながら、そういうものに牽かれる人の心というのが不可解極まりない。

いくらいかがわしい部分があったとしても、他人に迷惑をかけるものでなければ傍観者として見ていれば済む事であるが、オウム真理教のように人を殺傷する事を平然と行なうとなれば、社会から糾弾されるのが当然である。

オウム真理教に関しては、その事態が知れるにしたがって、宗教の仮面を被ったテロ集団としての実態が明らかにされたわけである。

そういう団体に、一流の大学を卒業した人々が、身も心も明け渡しているという現象が不思議でならない。

阪神大震災の復興の目処がたった頃から、このオウム真理教の事件が沸騰してきて、世のマスコミ関係者は話題に事欠かない状態が続いた。

その中で、今年が戦後50年にあたる、という印象がいささか薄れた感がある。

私が、この年に、戦後50年の総括を私なりにしようとしたことは偶然の一致で、最初からそれを意図して事ではなかった。

最初、ワ−ドプロッセサ−を買った嬉しさで、自分史を作ったのがきっかけとなり、それ以降、文章を作る「遊び」を覚えてしまったわけである。

人は自分の「遊び」に耽っているときが最高に幸せなわけで、その意味で、私は「遊び」の結果として、戦後50年というものを、自分なりの考えで綴ったものが以下の文章である。

当然、以下の文章は、私の独断と偏見の固まりなわけで、誰にも憚る事無く、自由奔放に書き綴ったのが以下の文章である。

前の2冊は、私なりに参考書を繙きながらの作文であったが、今回に関しては、私の思考の結果のみで、参考書というものを極力遠ざけて、私の貧弱な頭脳に閃き、考え、頭の中で推考した事の羅列である。

歴史的事実の間違いや、事実の誤認という事も多々あると思うが、その誤りを含めて、綴る事自体が私の「遊び」の域を出ない事であるので、その内容の信憑性には責任が持てない。

人は何故遊ぶのかという命題は、人類の根源にかかわるテ−マであろうが、未だその回答は見い出されていない。

人は食うや食わずの時、遊んでいる暇はないわけであり、人が「遊ぶ」という時は、心にも、時間的にも、ゆとりのある時でないと「遊ぶ」という行為は成り立たないと思う。

そして毎日の生活にストレスがある時に、「遊び」という行為が存在するわけで、「遊び」という行為は、ストレス解消の一つでもあるわけである。

文章を綴ることが「遊び」というのも、変な遊びではあるが、本人にとってそれがストレスの解消になれば立派な「遊び」として通用するわけである。

「遊び」の結果としての本作りというのも やってみれば結構面白いものである。

しかし、今回のテ−マは、如何にも重たいテ−マで、途中でいささかウンザリしてしまった。

思考は堂堂巡りをしており、何度も同じテ−マが出現し、目新しい形容詞は見つからず、頭の中で考えていることにも限界があり、そろそろ思考が底をついたという感じである。しかし、前の2冊と合わせて、私が考えていた昭和という時代のイメ−ジというものは、大体文章にし終えたという感じが自分ではしている。

専門の歴史学者ではないので、不備な点があることは承知であるが、自分で作った昭和史という意味では、自分で自分を納得させる他ない。

昭和の時代というのは、その一つ一つの事象については、それぞれに何冊もの本が出版されているので、それはそれとして、自分の考えで、そういう事象を自分なりに考察してみるのも、結構面白い「遊び」であった。

 

 

目  次

 

                

「いじめ」についての考察

価値観の基準                                

話し合いの盲点                                

リ−ダ−と国民の資質                            

政府の選択の過誤                              

帝国主義の終焉                               

我々の寛容さと思い上り                           

同じスタ−ト・ライン                           

占領のされ方の違い                             

我々は心を許せない                             

フロンテイアとしての中国                          

平成の政変劇                                

「野合」とは?                               

北朝鮮の態様                                

女性の活躍                                 

福祉と人間の尊厳                              

医者の国家に対する奉仕                           

文化大革命の意義                              

中国の抱えた矛盾                              

時代によって変化する価値観                         

鳩山一郎のスタンド・プレ−                         

青年将校の反乱と共産主義                          

組織への忠誠心                               

個人の意志が組織に埋没するということ                    

国民が容認した軍国主義                           

ム−ドに流されるということ                         

戦争終決の問題                               

神道との結びつき                              

近代化の焦燥感                               

カルチャ−・ギャップの逆転                        

民族の特異性                               

歴史に成り切っていない事実                        

価値観の差異                               

日本軍の稚拙な思考                            

我々の戦略的発想の欠如                          

物作りの才覚                               

指揮命令系統の遵守                            

民族の絶滅を防いだ終戦                          

不思議な敗け方                              

指揮者の資質の差異                            

国家プロジェクトとしての戦争

「国体の護持」とは!

マスコミの日和見

戦後処理の困難さ

教育改革について

教育の本質

教育の概念の違い

50年という時の経過

抑圧からの開放

歪な民主主義

アメリカ型民主主義

憲法改正反対の心的根拠

戦後民主主義の特異性

庶民の政治感覚

揺れ動く座標軸

議会制度の日米比較

悪法の存在意義

欲望実現としての政治

処世術としての変節

新憲法に対する思惑

自らの同胞を信用しよう

産業復興の機関車

労働組合を蚕食する共産党

戦後の3大怪奇事件

共産党に牛耳られた組合運動

テレビ・エイジ事始め

テレビに圧された映画界

感受性の相違

国民の政治参加

民主主義の本質を問う安保闘争

安保闘争のエネルギ−

民主政治そのものの見直し

知識人の生存価値

産業界の淘汰

成田闘争の深層心理

成田闘争と民主主義

反体制という事象

ム−ドに酔う人々

若者の反乱

戦後教育の影響

思考の未熟さ

人権との葛藤

貿易摩擦の原因

社会基盤の整備

バブル経済と人の心

マスコミの角栄「いじめ」

暴走する若者の背景

三島由紀夫の憂い

小野田少尉の出現

東西冷戦の終焉

脱皮を繰り返す日本

あとがき