孫文

 

歴史になっていない事実

 

秦の始皇帝の兵馬傭抗を見るまでもなく、中国は、紀元前から近代に至るまで、東アジアでは最高に文化的に先進国であったことは疑いない。

この長い歴史の中で、何故に、近世に至って「眠れる獅子」に成り果てたのであろうか。中国が、アジア大陸の大部分を占める大国であることは地勢的に必然的な条件で、これを一つの文化圏として捉えることは、どだい無理とは思うが、この大陸に住み着いている土着の文化を尊重しなければならないと思う。

土着の文化圏が、お互いに共存共栄できれば、この地球上は平和が訪れるわけである。

しかし、歴史の現実というのは 隣り合う文化圏、政治圏、と云うものが常に衝突を繰り返し、征服したりされたりの連続であったわけである。

日本の文化というのは、このアジア大陸の文化が、流れ流れて日本に到着し、そこで熟成、醸成されたわけである。

アジアの人々から見れば、日本は文化面では完全に彼らの弟分であり、文化の下流でしかないわけである。

これがそもそも中華思想の根本にあるものと思う。

火薬、羅針盤、紙等の根源は、すべからく中国に起源を有するものである。 

これらのものは最初西洋に流れ、西洋から日本にわたってきたと思ってもいいが、その根源であるところの中国自身は、それを生かすことをせず、反対に殺してしまったわけである。

これは中国自身の問題であり、それが故に、近世に至って、そういう火薬、羅針盤等によって西洋先進国に植民地として蚕食を受けたわけである。

歴史というものを現代から遡って、近代、近世、中世という区分わけをしたとすると、近代というのは、第2次世界大戦前までと云ってもいいと思う。

この時代の中国というのは、まさしく国土を西洋列強に蚕食されていた、といってもよいぐらいである。

そこには、当然、そういう状態を我慢ならないと思っている中国人民の熱情も潜んでいたに違いない。

けれども、それを一蹴するだけの民族エネルギ−の結集力に欠けていたわけである。

何故に、その民族エネルギ−の結集が出来なかったのか、という疑問に突き当たると、それは国土の内部に多民族を内包していたということだと思う。

民族というのは、各民族ごとに価値観が違うわけで、その価値観が違うものを一つにしようと思うと、それは共産主義のような、暴力を肯定する、力による押さえ付けによらなければならないことが今日判明したわけである。 

それがソビエット連邦共和国の誕生と崩壊であり、中国人民共和国の誕生と、その政策転換である。

暴力を肯定する考え方というのは、共産主義者だけの専売特許であるわけではなく、史上名君というのは、大なり小なり力による統治を実行しているわけで、それが近代の共産主義と異なるところは、統治者が自分の考えで行なうのと、人民という、仮の名目で、人民の人民のための政治という仮面を被って行なうのとの違いである。

価値観の違う部族同志が隣り合って生存しているとすると、これが末長く両立するということは歴史上稀なことで、最後は、どちらかが他方を征服し、自らの価値観の中に内包してしまうわけである。

日本が朝鮮を統治した目的というのも案外そういうところにあったものと思う。

ところがどっこい、時代が悪かったわけで、あれがもう100年前だったら完全に朝鮮民族というのは日本人の価値観に内包されていたに違いない。

朝鮮民族の側から云えば、民族のアイデンッテイ−を維持するのに最後のタイムリミットであったあわけである。

前にも述べたように、通常、我々が歴史と称していることは、いわゆる政治史であって、それに登場してくる人物というのは、いづれも統治者の名前と、それを補助した軍人、軍閥、力の実行者の名前のみである。

いわゆる庶民というのはほとんど登場してこないわけで、それは無理もない話で、人権が確立されていない近代以前の歴史においては、庶民とか、農民、百姓というのは、虫けれ同様であったわけである。

極端な云い方をすれば、統治者がいかに人を殺したか、ということが歴史的事実として称賛されるわけである。

価値観の違う部族同志が隣り合わせに生存していたとして、他方が他方を征服するというとは、人の殺しあいに他ならない。

1995年という現在においても、ロシア対チェチェン共和国の争い、ボスニア・ヘルツゴバナの争いを見てもそれが云えていると思う。

近代、第2次世界大戦以前の中国というのは、民族のエネルギ−を結集するにも、各種の多様な民族がありすぎて、それが出来ずにおわり、西洋先進国も、自らの価値観を浸透させるにはあまりにも奥行が深すぎて中途半端に終わっているのである。 

日本の明治維新というのは、明らかに大革命であった。

尊皇攘夷派と開国推進派の、血で血を洗う日本人同志の内部抗争の末、最後に、天皇を仰いで、大日本帝国というものが誕生し、明治憲法の発布に至り、近代化に邁進したわけである。

その意味で、中国の明治維新に該当するものは、1911年の辛亥革命に続く中華民国の成立の時がそれに相当するものと思う。

日本の明治維新に遅れること約40年である。

日本の明治の元勲たちは、その当時の中国の現状を他山の石とすべく、懸命に不平等条約の改善を粘り強く交渉しているとき、中国内部では、内乱に明け暮れていたのである。

中華民国の立て役者孫文は、日本に滞在した経験から、この革命の時点で、日本を参考にすべき器量を持っていたはずである。

孫文にしてみれば、日本がいかにして近代化を成そうとしていたのか、自分の目で確かめることが出来たはずである。

孫文は、それを中華民国の民心の安定に利用することが出来ず、その後の中国は、今まで同様、内乱の連続で、収まるところがなかったわけである。

価値観の違う異民族が隣り合わせに生存していると、いづれ均衡が破れ、他方が他方を征服して、同じ価値観を共有するか、破れた方の価値観を内包してしまうと述べたが、その例として、日本の朝鮮併合を引き合いに出してみたが、こういうことは歴史の必然であり、世界史というのは、その連続を示しているわけである。

歴史の面白さというのは、それを繙くところにあるわけで、歴史の流れとして、大部分の人類、生きとし生ける人間というのは、その事実を忘れるか葬りさられるわけである。

しかし、その最も新しいペ−ジとして、日韓併合、または日本の台湾統治というのは、歴史と成り切っておらず、それを記憶に止めた人々が生存しているわけである。

ここに戦後の日本の補償問題が潜んでいるわけである。

 

価値観の差異

 

1995年1月14日のNHKニュ−スで、旧連合軍側の元兵士たちが、戦時中の日本軍の虐待に対して補償をするよう、日本の裁判所に提訴する、ということを報道していた。これなども、第2次世界大戦が歴史と成り切っていないということである。

しかし、この訴えは、この先どういう結末になるのか定かにはわからないが、こういう言い分が通るとすれば、日本の大都市のB−29による絨毯爆撃の被害や、広島、長崎の原爆の被害者の請求も通るということになる。

そこまでいくと、こういう訴訟合戦が、地球規模にまで拡大して、収拾がつかなくなるのではないかと思う。

旧軍人同志の捕虜の虐待と、非戦闘員、婦女子から老人子供までを含めた非戦闘員の無差別殺戮と、どちらが罪が重いか計りにかけたら、この評価は明らかに後者の勝ちであろうと思う。

「捕虜の虐待」ということについては、旧連合軍と我々とは価値観が違っているわけで、ここに歴史としての価値観の内包が成就しきれていない証明である。

前線の延び切った日本軍にとって、自らの食料も不足気味のところに、捕虜にまで十分食料を与えることは物理的に不可能であったわけであるし、オ−ストラリアの捕虜にゴボウを提供したところ、「木の根っこを食わせた」、即ち、捕虜の虐待であるという有名なエピソ−ドがあるが、これなども価値観の相違以外の何物でもない。

東南アジアの人々が、今日、日本になにかと戦後補償の問題を提起してくるのも、この捕虜虐待の提訴という問題も、第2次世界大戦という歴史的事実が、歴史として風化せず、戦後50年たった今も、人々の心の中に生きているからである。

それと合わせて、記憶を保存する技術の進歩があったからということも云えると思うし、それにもまして、人々の寿命が長くなったということも云えると思う。

第2次世界大戦の前には人々の人権意識が薄く、全ての災いを運命としてあきらめて終わっていたものが、昨今のように、人々の記憶を保存する技術、人権意識の向上、訴訟に訴えて災いを金に転化する意識というものが広範囲に広がった結果として、このような現象が頻発してきたのだと思う。

それにもまして、彼らがこういうことを訴える心の底には、敗戦した日本が戦後50年という短期間に世界第2位の経済大国に浮上したという事実が我慢ならない、という心境があると思う。

我々は、世界各地から金にあかして色々な物を買い、食料品などは飽食の時代といわれ、日本人の猫も杓子も海外旅行する現実を目にした元連合国の元兵隊は、何とも云えぬ悔しさを押さえることが出来ないのではないかと想像する。

日本が敗戦国として、終戦直後のような焼け野原と食糧難、住宅難、就職難の国であればこういう問題は起きず、歴史が歴史上の事実として葬りさられたかもしれないが、その敗戦国の国民が、戦勝国の国民生活以上の暮らしをし、素晴らしい経済発展をしているわけである。

そして、その発展の基礎には、元連合国の終戦処置が寛大であった、ということも言えているわけで、戦後50年にして立場がこれほど逆転するならば、戦時賠償ももっと苛酷なものにしておけばよかった、という悔悟の念も彼らの側にはあるのかもしれない。

元連合国の一員の中に中国も入っているわけであるが、我々の認識からすると、中国を連合国の一員という気がどうしてもしない。

ここに我々が中国を一段見下す潜在意識があるわけであるが、中国の現状というものを、我々、日本人の感性で眺めると、どうしてもこういう結論にならざるをえない。

これは我々、日本人だけの認識ではないと思う。

確かに戦後設立された国際連合では、中国は常任理事国の一員となり、拒否権も持っているが、その実力は、とても国際連合に貢献できる立場ではないと思う。

ましてや我々の云う、戦前、戦中の中国というのは、今まで何度も述べてきたように主権国家としての体を成していなかったわけである。

中華民国という名称は確かに存在したであろうが、国家の組織として、行政面では支離滅裂の状態で、国家としての機能が麻痺してわけである。

あるのはただ単に烏合の衆としての民衆のみで、だからといって侵略してもいいという論理にはならないが、そういう状態の時に起きた、日中の様々なトラブルに対して、今更、戦後補償せよといってこられても応えようがないと思う。

戦争というのは残酷で酷いものである、ということは有史以来変わらない現実である。

だからこそ、不戦条約などという高遠な理想主義の発露としての理念が生まれ、その崇高な思想に、日本も感銘し、この条約の批准をしているわけである。

ところが条約とか約束いうのは、破られても仕方のない面があり、それは主権者の胸3寸で、いかようにもなるわけである。

世界史上の近代においてドイツとソビエット連邦共和国の同盟はドイツ側によって破られたし、日ソ不可侵条約はソビエット側によって事実上破られたわけである。

日本は不戦条約を忠実に守った結果、日中戦争に関しては、日本側では戦争という言葉を使わず、事変という言葉を使っていたわけである。

尤も、それにはもう一つの理由があると思う。

それは中国で起きた色々はトラブルが、日本政府の意向に反するものばかりで、つまり、軍部が勝手に独走した事件ばかりであるので、日本政府の主権の行使としての戦争ではないという意味で、戦争という言葉を使わず、事変という言葉に置き換えた、という事情もあると思う。 

日本政府の意向に反して、軍が独走した後始末を、政府としていかに取り扱うかというのは難しい問題だと思う。

軍隊というものが、主権の行使を代表するものであるとしたら、それは政府として何らかの責任を追うべきであろう。

そうすると、戦後の東京裁判は、我々、日本人が、日本政府の意向に反した軍人を裁くべきであったのではなかろうか。

しかし、連合国側の進駐軍に占領されていた我々の側には、それだけの自主権も持たされなかったわけである。

日本にとっての第2次世界大戦というものは、旧帝国陸軍の一部の軍人が、中国で、日本政府の意向を無視して独断専行をした結果、抜き差しならない状況を作り上げ、それを牽制しようとしたアメリカが、経済封鎖という絡め手で日本の生命線を脅かした、というのが結果としての歴史の筋書きではなかろうか。

アメリカの経済封鎖を取りのぞく努力というのは開戦の間際まで続けられたが、中国で日本陸軍が勝手なことばかりしているのに、経済封鎖をやめてくれといっても、筋が通らないことではある。

その点をよくよく考えてみると、中国で好き勝手なことをしているのは、旧帝国陸軍で、アメリカで経済封鎖を解除してくれといっているのは、元軍人であったとはいえ、その時点では外交官であったわけである。

すると軍人の後始末を外交官、つまり政治家、正確には行政官、政府の主権者として行なっていたわけである。

戦争は政治の延長線にある、という意味をこれほどはっきり示す例もないのではなかろうか。

政府が軍人の行動を律することが出来なかった、つまりはシビリアン・コントロ−ルが出来なかった、という点では明治憲法の欠陥というほかない。

言い換えると、中国の蒋介石が、国内をきちんと統治できなかったのと同じ状況が日本の政治の面にもあったわけである。

これでは我々は中国を笑うわけにはいかない。

しかし、中国と日本では何かが違う。

中国人の云う、戦時中の強制労働に借りだされたという言い分も、我々から見ると、少し違和感がある。

中国人という外国人を強制労働に使ったということは、いかにも残酷な扱いのように聞こえるが、この当時は、日本人も、彼らと同じ状況下で勤労に励んだわけで、我々は、酒池肉林の中で、彼らに労働をさせておいて、我々が高見の見物をしていたわけではない。

従軍慰安婦という差別用語に近い語感を持った言葉を彼らは平気で公言するが、日本人の慰安婦たちは、その行為で以て、国に貢献するつもりで、国外に出た人もいるわけである。明日の命もない特攻隊員に、若き青春の記念に、自らの春をひさぐことによって国に貢献するつもりで、潜水艦の出没する海を渡った人もいるわけである。

盲人でさえも、月月火水木金金で訓練に励んでいる隊員の筋肉をほぐすことによって、国に貢献していたわけである。

朝鮮の人々や、中国の人々というのは、強制労働という言葉を残酷なものとして捉えているが、今日でも、日本のサラリ−マンというのは深夜に及ぶまで労働、残業をしているわけである。

戦前、戦中の日本人というのは、彼らが強制労働ということを平気で日常の生活として行なってきたわけである。

そして、今でもそれと同じことを我々日本人は行なっているわけで、労働、仕事というものが、時代とともにその質に変化をきたしたのはいたしかたないことであるが、労働時間で云えば、昔と今とではさほど変わっていないわけである。

キリスト教文化圏では労働は罪悪と見られているが、我々、農耕民族の末裔としては、労働は美徳であるわけで、ここでもはっきりと価値観の逆転があるわけである。 

この価値観というのは民族固有のもので、その民族の長年の歴史に根ざしているので、一朝一夕に修正できるものではない。

戦前の日本の過ち、特に、朝鮮民族をはじめとするアジアの人々を支配するにあたって、今日、彼らから文句を言われる原因は、この相反する価値観を無視して、我々と同じレベルにまで引き上げれば、彼らも喜ぶであろうと思い上がったところにある。

歴史的環境に支配されている民族の価値観を無視して、何でもかんでも日本の文化を強要すれば大東亜共栄圏が実現できる、と思ったところに我々の旧陸軍の思い上がりがあったわけである。

軍部というのが政府の意向を無視して、大陸内部に進攻していくという図は、シビリアン・コントロ−ルの全く逆をいくもので、政府が軍の行為を追認するという図である。

これは明治憲法の不備ばかりでなく、民主主義というものを踏み躙った行為であり、絶対主義、軍国主義そのものであったわけである。

 

日本軍の稚拙な思考

 

中国との関係を考える場合、我々、日本サイドでは確かに悪しき軍国主義のもとで日本民族が挙国一致して戦争というものに協力したわけであるが、それに対抗すべき、アジアの人々は、民族なり国家として、挙国一致で抵抗するということがありえたであろうか。

アジアの人々の排日、反日の抵抗というのは、主権の行使としての抵抗は皆無で、その全てがゲリラ戦の域を出ていない。

これは逆の見方をすると、国家として主権の存在があいまいであって、主権国家たりえていないということである。

我々サイドから見ると、アメリカ大陸の西岸に上陸したイギリス人が、アメリカ先住民のインデイアンを追いながら植民地をだんだん奥に形成していったのと同じ構図である。

今日、1995年、平成7年の時点においても、日本のアジアへのODAの資金援助をどうするかという問題があるし、アジアに対する技術援助を云々するということが話題になるが、これなどもよくよく考えてみると、日本からアジアの国に金を与える、技術を与える、という構図に変わりはないわけである。

即ち、戦前の我々の先輩諸兄が、アジアの人々を少々蔑視し、彼らの価値観を無視して我々と同じレベルに引き上げようとした心情と変わらないわけである。

そして逆にアジアの指導者は、日本からの金も技術も貰う事、援助を受けることに何ら心の抵抗を感ずる事無く、嬉々として日本からの援助を期待しているわけである。

戦後の我々の経済援助、技術支援というのは、武力の背景なしに、ほとんど丸腰の状態での援助であり、技術支援であるので、暴力沙汰のトラブルというのはないにしても、文化の流れとしては、日本からアジアに流れ、日本が川上で、アジア諸国が川下になっているわけである。

全く戦前の状況と変わっていないではないか。

変わっているといえば、それを受け入れる状況がアジア諸国の方に出来上がっているということで、つまり独立を確保し、自らの意志で、それを受け入れるかどうかを決定する民族自決のチャンスが出来たということである。

そして、その背景には、やはり日本の軍隊が、西洋先進国のアジア植民地支配の根底である軍事力と、西洋の秩序を粉々に粉砕したことにより、アジア諸国に独立の機会を提供したということがあると思う。

アジアの諸民族の立場からすれば、日本のおかげで独立が出来た、ということは言いたくないであろうが、日本が東南アジアに進攻せず、イギリス、フランス、オランダの植民地をそのまま無傷で温存していたら彼らの独立はもうしばらく後になったであろう。

西洋先進国がアジアの植民地を戦後放棄し、それぞれに独立を与えたのは、帝国主義として、軍事力を背景にした植民地経営というものがコスト割れにさしかかったことが原因である。

植民地の原住民の人権の擁護とか民族自決を尊重する、などということは表面上の綺麗事で、その本音のところは、連合軍として一応の勝利は得たものの、戦争中の軍拡のため、自国の経済が青息吐息であり、とても遠くはなれた植民地の軍事的防衛が出来ないというのが本音であろうと思う。

終戦の時、中国大陸には100万の日本の軍隊が駐留していたといわれている。

それだけの軍隊がいながらにして、天皇陛下の終戦の詔勅一つで、これが一斉に矛を納めたのである。

すると、彼らと立場が逆転して、中国の人々は、いわゆる戦勝国になったわけである。

日中戦争というのは、日本の軍人の独断専行で始まり、日本政府が、それを追認する形で継続し、天皇陛下の詔勅で終了したわけであるが、その時点で、日本軍は戦闘には負けておらず、中国の国土では、かなりの部分を占領していたわけである。

それでいて天皇陛下の命令で一転して敗者になる、というのも不思議なことである。

中国側にしてみれば、最初から最後まで負けっぱなしでありながら、日本の天皇の一声で、一転して勝利者になったわけである。

ポツダム宣言第6項には「無責任なる軍国主義」という文言がある。

まさしく日本が第2次世界大戦に引き込まれたのは、日本国内における無責任なる軍国主義者の仕業といわなければならない。

これを阻止できなかった日本政府というのも、そういう意味では責任の一端を担い、同じように天皇陛下にもその責任の一端はあるものと考える。

統帥権というものが天皇陛下の権利であって、天皇陛下しか、この権利を行使出来得ないとなれば、天皇陛下の優弱不断が、この事態を招いたといってもいいと思う。

昭和天皇が、立憲君主に撤しようと思うあまり、政治に介入することを避けた結果が、無責任な軍国主義者の跋扈という結果を招いたものと思う。

それにしても、戦前の日本の政治というのはいかにもお粗末で、これでは、中国の国民党の腐敗を笑っているわけにはいかない。

政治の優劣と、国民性の優劣とは、また別の物であるらしい。

戦後、50年経った我々、日本人が、先の戦争から歴史の教訓として学ぶべきことは、何が我々を戦争に駆り立てたのか、という我々の民族の内部に潜む潜在的な心理を解明することだと思う。

軍国主義の跋扈を許した背景というものを考えることだと思う。

我々は農耕民族の末裔として、村落共同体の一員として、ムラ意識を抜けきれないでいる、という特質があることは既に何度も述べたが、その事自体が、大和民族の共通の潜在認識になっているのかもしれない。

我々は、農耕民族として、村落単位で運命共同体を維持してきたわけで、そのことは、個人の意志を尊重するということよりも、集団としての組織に忠誠を尽くし、組織の意志を尊重する、という傾向に表れていると思う。

個人の判断よりも、集団の判断を尊重し、集団としての行為や意志に対しては、個人を埋没させるわけで、我を押し通すことに心の抵抗を感じるわけである。

戦後50年経った我々の周囲でも、民主主義というものが普遍化しているように見えるが、その実、話し合いの精神ということが叫ばれている。

民主主義と話し合いの精神ということでは、物事を決定するに際しては、相反する考え方である。

我々に真の民主主義が根付けば、多数決原理で物事を決定して何ら問題はないわけであるが、これを行なうと、少数意見を聞けということになり、それを突き詰めると、話し合いで決めよということになる。

話し合いで決めるということは、民主主義としての多数決原理というものを否定しているわけである。

我々の社会では、大は国会の審議から、小は町内会や職場のもめごとまで話し合いで解決する事がままあるわけである。

これは我々が真の民主主義というものを今だに会得していないということである。 

真の民主主義であれば、51対49で決定されたことでも、49の方はその決定に従順に従うことが前提とならなければならない。

現実の問題として、51対49という意見の割れ方というのは、多数決の原則ではあっても民意というものを半分しか反映していないということである。

だからこそ話し合いということが叫ばれるわけであるが、話し合いで決まったことに全員が賛成か、といえばこれもまた問題があり、結局のところ、物事は何一つ解決できないということになる。

戦前の、我々の先輩諸兄が行なっていた政治というのは、まさしくこれだったと思う。

いくら御前会議を行なったところで、また陸海軍の参謀と、政府の要人が鳩首会談を行なったところで、物事は何一つ決定できず、その間に軍部がどんどん既成事実を作り上げ、政府はその後追いで事実を追認するしかなかったのではないかと想像する。

日本の政治には独裁者というのがいないわけで、政権維持には極めて蛋白で、世界の指導者、例えばスタ−リンとか毛沢東のように、死ぬまで政権維持にしがみつくとか、政権を放り出して、国外に逃亡するとかいう例は一つもないわけである。

我々が農耕民族として、この4つの島国の中でおとなしく農業のみで生活できていれば、日本の政治はそれなりの話し合いで機能していたかもしれない。

しかし、明治維新で近代化した日本は、日本だけの国土領域で国民を飢えさせずに生活させるには、領域が狭いと感じたわけである。

そして、この発想には国民も納得したわけで、我々が、朝鮮や台湾、はたまた中国に進出することは、我々の国益につながると思ったに違いない。

そのことが朝鮮や台湾、中国の主権を侵したり、彼らの自尊心を傷つける、という事に考えが至っていなかったわけである。

それというのも、当時の我々の側に、この地域の人々は我々以下の文化レベルしかないという間違った認識があったが故である。

歴史というのは、時代の寵児のみをクロ−ズアップさせるものであるが、歴史の潮流というのは、いわゆる庶民が支えているわけで、我々が、第2次世界大戦を国民の挙国一致で戦いぬいた、ということはその結果が敗戦ではあったとしても、アジアの人々には参考になるものと思う。

軍国主義者が跋扈していたという事実を参考にするのではなく、国民が挙国一致して団結した、という事実を見てもらいたいと思う。

今日、中国の人や朝鮮の人々が強制労働云々ということを言っているが、あの時代の我々は、自主的に強制労働に参加し、学徒動員では学業をなげうって労働に従事し、女子挺身隊というのは、文字どおり女子供まで労働に駆りだされたわけである。

こういう言い方は、戦中の日本人の生活を美談仕立てに表現しているように映るかもしれないが、主権国家の国民の在り方としては、国が生死を分けた戦争をしている最中のことであるので、主観下の国民としては、国策としての戦争というものには積極的に関わらなければならなかったわけである。

その関わり方に、我々、日本民族と、中国の人々や、朝鮮の人々の違いがあるのではなかろうか。

国策としての戦争が間違っていようがいまいが、主権国家の国民としては、自らの国の命令に背くわけにはいかなかったわけで、戦後民主主義というのは、この部分を否定的に捉えようとしている。

つまり国が間違った方針を取れば、それに対して国民は抗議をし、遺棄することが国民の権利として存在するという考え方である。

戦前、戦中の中国の人々に、こういう民主主義の発想があったかどうか定かではないが、その時代の中国の人々の在り方というのは、これに近いものであったと思う。 

だから国民党は腐敗し、共産主義が蔓延し、張学良のような軍閥が存在しえたわけである。要するに、中華民国というのは、主権の存在が極めて曖昧模糊としていたわけで、中国国内では、この3者と日本軍が三つ巴四つ巴となって戦っていたわけである。

この状態と、日本国内の状況を照らし合わせれば、日本はいかにも整然と統制が取れていたわけで、それはあたかも共産主義社会のように理論整然と戦争遂行の努力が払われていたわけである。

こういう国民の在り方と、実際の戦争遂行の作戦の在り方は全く別の問題で、こういう銃後の国民の必死の努力にもかかわらず、軍参謀の稚拙な作戦のため、日本は止むなく敗戦を迎えることになってしまったわけである。

近代兵器をもってする、近代、現代の戦争を、科学的な理論で以て分析する事無く、感情で以て制御するということを日本の軍部は果てしなく行なってきたわけで、近代科学兵器を、人間の感情で以てコントロ−ルしようとしたところに旧帝国軍人の頭の古さがある。「敵を知り、己れを知れば、百戦危うからず」という兵法のいろはさえ無視して、天を運にまかせるような、人間の感情で以て事にあたったところに軍の指導者の怠慢がある。

敵を知ることが戦いの基本であるにもかかわらず、敵側の情報を取ろうともせず、ただただ、こちら側の精神力に頼ろうとしたところが最大の欠陥である。

そして科学というものを侮ったところに最大の精神的稚拙さが見られる。

我々は物を作る才には富んでいるが、政治とか軍事とか人間の在り方に対する科学には極めて不案内である。

政治とか、軍事ということは、相手が人間であるという意味で、人文科学といわれているが、我々、大和民族というのは、この点が極めて不得意で、それ故に朝鮮民族の支配でも相手に悪感情を植え付けてしまい、戦後50年経っても今だにその時のことを持ち出されると口を噤まざるをえない。

これは、我々が人間に対する科学というものを軽視してきた結果ではなかろうか。

 

戦略的発想の欠如

 

西洋と東洋の自然に対する対処の仕方、自然界に対する発想というものが洋の東西で逆転していると思う。

西洋の人々は、自然は超越するものである、克服すべきものである、という発想にとらわれていたが、我々、東洋人というのは自然には逆らえない、自然の前にはそれに抗する手段をもたないという発想によっている。

いわゆる刹那主義と言うか、諦めの境地である。

人間の集団というものを自然の造物とみた場合、相手を倒すか倒されるか、という発想になるのが西洋の発想であり、我々は、時の流れに任せる、という消極的な処世術しかないわけである。

相手を、特に自分と異質な人間の集団を、自然界の一造物とみなした場合、それが敵か味方かを知ることが人文科学の第一歩ではないかと思う。

東洋人の発想というのは、人間の形をしていればそれは「話せば解る」という鷹揚なもので、その鷹揚さが、中世から近世にかけて、西洋のキリスト教文化圏の人々にアジアが蚕食された原因だと思う。

こういう大雑把な発想の違いから、何故に、日本人だけが抜け出して、他のアジア民族と同じパタ−ンを踏なかったかといえば、我々、民族の均質性が大きく作用していると思う。アメリカのペリ−が最初に浦賀にきたときは、他のアジア民族と同じ状況に陥ったわけであるが、その後の対応が違っていたわけである。

開国をして西洋文化を導入する、という決定を行なうまでは様々な紆余曲折があったことは歴史が示しているとおりであるが、一つの結論を出した後の行動というのは、我々、日本民族の民族的な均質性が大きく作用していると思う。

西洋文化を導入し、富国強兵を図る、というその当時の国家プロジェクトが出来上がると、それこそ一億総動員して、その目標に邁進するというのは我々の民族的特質である。

第2次世界大戦で敗北を期したというのは、その結果として、西洋文化の導入と、富国強兵という国家プロジェクトが間違っていたということである。

戦後の50年という期間は、そういう国家プロジェクトというものが全くなしで生きてきたわけで、その結果が、戦前の日本が夢にまで見た富国強兵を実現したわけである。

ペリ−の来航から戦前の大日本帝国が崩壊する迄の、我々の先輩諸子の精神的バック・ボ−ンとしての富国強兵というスロ−ガンというものは間違いであって、それが間違いである、という事に気が付かなかった我々は、それにふさわしい代償を払ったわけである。

何故に、それが間違っていたのかということを考察することが人文科学の使命のはずであるが、今、まだその端緒にもついていないと思う。 

西洋の人々は、海を越えて異民族に接したとき、鉄砲という武器で、彼らを圧迫して、植民地を築き、その周囲を塀で囲んで、内部は自国と同じような治外法権のエリアを作ってそれを逐次外側に拡大して領域を広げていったわけである。

そこには、先住民を明かに敵と認識していたわけである。

古来の日本人の海外進出というのは、漁民の漂着とか、倭寇とか、物々交換とか、そういう生業に携わっている人々に付随する賄い婦とか、売春婦の進出という意味で、今で言うところの民間レベルでの海外進出であったわけである。

そして、西洋の真似をして、帝国主義を振りかざして、アジアに進出したところが、これが美事に外れたわけである。

その過程において、我々は、人間に対する科学というものを軽視していたと思う。

例えば、アメリカは、日本と戦争をはじめる前から、対日戦を想定したプログラムを作っていたわけである。

また、戦争初期の段階で、日本語教育を充実させて、日本に対する基礎研究というものを軍の費用で行なっていたわけである。

この時代、アメリカ合衆国というのは今で言うところの経済大国の日本以上に豊かな国であったことは否めないが、それならば、今の日本で、その当時のアメリカと同じ事が可能かといえば答えは否としか言いようがない。

ここに我々、日本人というのは、人文科学には冷淡で、目に見える形の自然科学の分野には金を惜しまないが、人が人を研究するという意味では、医学ほどには恵まれていないのが実情であろうと思う。

日本の国立大学においては、そういう学問を研究する土壌があるとはいえ、人が人を科学する学問を研究している人々が、須く、ミイラ取りがミイラになってしまって、赤い赤い学者を大量生産しているわけである。

戦略と戦術の違いということは前述しているが、我々、日本民族というのは、どうも戦略的発想ということに疎い民族である。

戦前、戦中のあらゆる作戦をみても、戦略という発想は、我々の側には存在していない。太平洋戦争開戦前夜、山本五十六が「半年は戦ってみせましょう!」といったといわれているが、これなども戦略などといえるものではない。

戦術の心構えのようなもので。

日露戦争の日本海海戦も、太平洋戦争の真珠湾攻撃も、戦術的な勝利であって、戦略としては体をなしていないわけである。

戦争という、人間の人間に対する極限の科学であるはずの行為について、我々は、何一つ科学的な思考を持たずに勝った負けたといっていたにすぎない。

アメリカは太平洋戦争開戦前夜、日本に対して、対日戦を想定して、戦争プログラムを構築し、日本を統治するための基礎研究をしていたわけである。

我々は、朝鮮民族を統治するために、または台湾人を統治するために、こういう発想を持ったことがあるのであろうか。

他民族を統治するという意味は、必ずしも「悪」にはつながらないわけで、アメリカ軍の日本占領というのが、我々にとって「悪」であったかといえばそうではないのと同じで、それは人を統治する科学の問題で、表面上は、他民族が他民族を支配する事に変わりはないが、やり方いかんでは評価も違ってくるはずである。

他民族が他民族を支配するについても、支配される側の資質も大きく作用するわけで、我々は、占領政策で日本古来の価値観というものを根本から覆されてしまったが、それに対して、不平不満を羅列する人々いないわけで、すべての日本人が、新しい価値観に順応したわけである。

これが東洋思想の源泉で、自然に身を任せ、刹那的に生きている民族の姿である。

しかし、それでも周囲の環境に左右されて、50年にして世界第2位の経済大国になってしまったわけである。

戦術と戦略の違いということは、戦術というのは、あくまでも対処療法で、臨機応変を旨としているが、戦術というのは、理論整然とノウハウを組み立てて、計画どおりに事を運ぶにはいかなる手段方法があるか、ということを考察することである。

平成7年1月17日、3連休明けの朝、神戸地方を兵庫県南部地震というのが襲って、甚大な被害が出ているが、この地震で、人々の避難誘導、人命救助、災害復興ということはすべからく戦術的思考で、戦略というのは、こういう天災地変が起きた時、どうのように対処すべきか、という防災意識の高揚と、その手順をあらかじめ決めておくということである。

そのためには事前に、起きるであろう最悪のシナリオを想定して、ぞれに対処するためには、何時、何が、どれだけ必要で、どういう手順で行なえばいいのか、ということをシュミレ−ションすることが必要である。

神戸の地震でも明らかなように、戦術的な行動というのは明らかに人々の目に触れ、被災者は感謝し、報道機関も大きくそれを取り上げてくれるが、これをいくら事前に戦略的発想で以てシュミレ−ションを行なって警告を発しても、人々は何ら関心を示さず、評価されないであろう。

日本は災害の多い国として有名であるし、我々自身もそう思っているわけであるが、防災意識というのは、けっして旺盛だとは言えない。

自分の身に災難が振りかからないかぎり、他人事だと思っているわけである。

震度7の地震ならどんな防災対策も意味をなさないとは思うが、我々というのは、目先のメリットには実に寛容に対応し、的確な行動を行なうが、目に見えない、何時役に立つのかわからない、来るか来ないかわからないものに投資をする、ということには極めて冷淡なわけである。

そして、そういうものを評価しようとしないわけである。 

例えば、兵庫県南部地震の例を持ちだすまでもなく、緊急避難とか、国家存亡の時における自衛隊の行動一つとっても法的な根拠が整備されていない。

今回の地震でも自衛隊の出動が遅いと批判されているが、自衛隊というのは、災害出動の際、自治体の要請がないことには行動できないわけで、そういうものをあらかじめ用意しておこうとすると、軍国主義の復活という意見が国民の側から出るので、そういう戦略的な法的処置は、事態が起きるまで放置するのが我々の生き方である。

日本を取り巻く国際関係の中で、戦後の日米安保条約というのは、極めて戦略的に有効に機能しているはずであるが、あれを日本国民は、誰一人適正に評価していないと思う。

事程左様に、我々は戦略的思考ということに疎いわけである。

災害が起きてから政府の対応が悪いとか、自衛隊の出動が遅いと、責任を第3者に転嫁するのみで、戦略的な思考のもとで、事が起きる前に心の準備をするという事には無頓着である。

戦前の日本人がアジアで振る舞った行為も、ただその場その場の対応のみを繰り返してきたので、アジアの人々から顰蹙をかったわけである。

その意味からして、大東亜共栄圏の発想というのは、あの時代の日本にとっては、勇壮な戦略的発想のプランであったに違いない。

しかし、折角の戦略的発想のプランでも、それを上手に生かす事無く、後になれば、侵略のアイデアとしか評価されないようにしてしまったのは他ならぬ同じ日本人である。

また、今日、憲法問題で、いまだに結論が出ないという事にも、我々の戦略思想の欠如が出ていると思う。

憲法を少しでもいじると、たちまち軍国主義の復活という発想がそれを示しているわけで、こういう短連した思考が罷り通るのが我々、日本民族の特質である。

この特質なるが故に、それが良い方向に結びつくときは良い結果が出るが、それが悪い方向に結びつくと、とんでもない過誤をもたらすわけである。

それが大東亜共栄圏のかっての姿であったと思う。

 

物作りの才覚

 

今日、我が国が国連の常任理事国の仲間入りするかどうかというときに、アジア諸国は、日本の経済力からみて、常任理事国に入ることを歓迎する旨を発表しているが、我々としては、そういう言葉に安易にのらないほうが、長い将来にわたって国際関係を良好に維持するためには得策であると思う。

人から煽てられて安易に神輿に乗るというのは、我が民族文化の範疇では、オッチョコチチョイのそしりがある。

神輿に乗りたい気持ちをぐっと押さえて、一歩へり下った態度をとる方が、日本的な奥床しさを表せると思う。

そして、金だけはどんどん出せば、世界は日本を信用してくると思う。

世界には日本の金を虎視眈眈と狙っている国もあるわけで、日本は騙されてでも、相手に金をばらまけば、貿易だけは維持できると思う。 

戦後の日本は、貿易立国と称して、安い資源を輸入して、付加価値を高めて輸出して成り立ってきたわけであるが、産業の空洞化で、日本で物を作ることはメリットがなくなってしまった。

後に残された方法は、金をばらまく以外にないわけである。

物を作って輸出すればするほど黒字が貯まって何ともしょうがないわけで、それならばいっその事、直接金をばらまけば、相手から喜ばれることは間違いないわけである。

こういう戦略的な国策というものがあってもいいと思う。

人が人間の集団について研究するということは人文科学であるけれど、我々というのは、こういう分野が極めて不得意で、自然科学ならばまだしも、人文科学とか、社会科学という分野は立ち遅れている。

例の防災に関しても、何一つ法的基準を作るということができておらず、構造物とか、建築物の防災基準というものは作ることができても、万一の時に、どういう行動が取れるのか、法的に明らかにすることが出来ていない。

少なくとも、兵庫県南部地震のような、巨大な災害に関しては、私権のある程度の制限ということも考えるべきであるし、救助体制とか復興対策の優先順序の明記などということは、戦略的思考があれば出来るはずである。

しかし、自衛隊の出動に関しては、自治体の首長の要請があってからという鉄則はそのまま維持したほうがシビリアン・コントロ−ルの意味からしてもベタ−であると個人的には考えている。

しかし、巨大な災害の中で、個人の権利に執着したり、人命を尊重するあまり、被害を拡大するようなこと事は一考を要するよう、私権の制限ということも考えておくべきだと思う。

私権の制限ということでは、マスコミの報道する側の権利義務とか、国民側の知る権利の制限ということも考慮に入れるべきであろう。

戦略的発想というのは、往々にして陽の目をみないこともあるわけで、本来は、それを喜ぶべきであるが、人々は、陽の目を見なかったプランには極めて冷淡で、それこそ税金の無駄使いぐらいにしか思わないので、行政サイドは、どうしても後回しにしてまうわけである。

よって行政サイドも、国民の側も、戦略的発想には縁がなく、常にあらゆる事象を対処療法で解決しているわけである。

我々は、この戦術的対処療法というのは実に上手く、あらゆる現象を克服してきたわけであるが、3年半にも及ぶ国家総力戦では敗北を見たわけである。

その中でも、局所的な戦術でも敗北を期したことは多々あったわけであるが、最初の一撃が素晴らしい結果と思い込んでいたので、それ以下の成果というのを正直に国民に報せることが出来なかったわけである。

しかし、今に生きる我々は、あの戦争の教訓というものを肝に命じておかなければならないと思う。

その一つが、他民族を力で服従させるとは不可能であるし、我が民族に同化させようという野望も、我々の思い上りにすぎず、他の民族は、それぞれに民族の誇り持っている、という事を忘れてはならないと思う。

しかし、明治維新で文明開化をし、西洋の科学技術を模倣した暁に、それ以上の物を作りあげた我々の先輩諸子の才覚というものは、我々の民族の誇りと思っていいと思う。

明治維新が西暦1868年、太平洋戦争の開始が1941年、その間63年であるが、この間に、我々は、木造の北前船から戦艦大和や武蔵を建造し、飛行機などというものは影も形も存在しなかったところからゼロ戦という傑作を作り上げたわけである。

アジアの民族のなかでは、いや、有色人種のなかでは、こういうかたちで白人を脅かした民族は他にいないわけである。

これは猿真似などというものではなく、明らかに日本人、わが民族の、独創性に富んだアイデアの固まりである。

こういう事例は、戦後の自動車の製造でも同じ事が言えるわけであるが、戦後の風潮として、自動車の輸出のように、成果が上がると反発を招き、反発を招くと、自主規制をするという対処療法になるわけである。

問題は、反発を招かない輸出と言うものを目指さなければならないわけであるが、そこが戦略と戦術の発想の違いだと思う。

しかし、我々の物作りの精神という面では、アジアでは特異な存在だと思う。

アジアばかりでなく、世界的にも特異な存在であろうとおもう。

今日の我々は、再び、戦艦や戦闘機を使って世界の覇権を狙う、ということは誰一人願ってはいないが、世界では、そう思っていない人々もいるわけで、特に、朝鮮や中国の人々は、日本の閣僚が靖国神社に参拝するだけで神経を尖らしているが、これも彼らの取り越し苦労にすぎない。

彼らが何と思おうと、我々の物作りの技術や発想は、世界を凌駕してしまったわけで、これから我々に必要なことは、そういう物作りのノウハウを如何に世界に普及し、我々も、世界の人々も、同時に、生活向上に貢献できるのかを模索するときであろうと思う。

それを模索することが我々にとっての戦略的発想につながると思う。

戦前に戦艦大和や武蔵を建造した技術というものは、今日では途切れてしまっている。そして半導体チップとか、集積回路という新しい物質に成り代わっているわけであるが、西洋で芽生えた付加価値というものを製品化して、大量に輸出するという形で世界に普及させるだけの潜在能力というものを我々は持っているわけである。

ここで注意しなければならないことは、我々は確かに物を作るノウハウは持っているが、その知的所有権ということになると、アメリカに肝心なところを握られてしまって、高い特許料というものを払わなければならないということである。

ここでも、戦術と戦略の発想の違いが浮き彫りになってきているわけである。

アメリカは、設備投資をすることなく、特許料というものが 転がり込んでくるわけであるが、我々は、物を作れば作るほど、それに応じた特許料というものを払い込まなければならないわけである。

我々が物を作ることに上手に対処できて、長期的展望にたったものの考え方が不得意な理由は、西洋の思想と東洋の思想の違いがあるのではないかと思う。 

西洋の発想というのは、理詰めの発想で、理論整然と、過去の実績を積み上げる発想であるが、我々はインスピレ−ションを重視し、感性や感情に左右される発想である。

例えば、自動車を作るとすると、西洋の人々は、失敗に失敗を重ね、自分で失敗するまで納得しないわけであるが、我々は、見よう見真似で作っていくうちに、そのノウハウを習得するというものである。

アメリカのフオ−ドは、自動車の大量生産方式の一つとして流れ作業というものを考えだしたが、これは彼が頭の中で編み出した自動車作りのノウハウであったわけである。

ところがトヨタの看板方式というのは、フオ−ドの流れ作業を真似してやっているうちに在庫管理の新方式を考え付いたわけで、それがコスト低減に役立っているというものである。

西洋人の発想というのは、究極の個人主義の賜であるが、我々の発想というのは、やっていれば何とかなるであろう、という誠に漠然とした頼りないものである。

太平洋戦争の発端でさえもそうである。

戦争を始めてしまえば何とかなるに違いない、その内に、神風でも吹くに違いない、という誠に曖昧模糊とした見通しのもとに始めたわけである。

戦争をするについての用意周到な準備もなしに、そして緻密に練られた計画もなしに、南洋から原材料を運びながら、戦争遂行が可能だと思い込んで始めたわけである。

真珠湾攻撃の成果というのは、戦術的な成果のみで、開戦以来、我々の側には戦略という考え方は全くなかったわけである。

戦時中の統制経済というのは、ある意味で、戦略的発想が盛り込まれていることは確かであるが、それが付け刃で、如何にも泥縄式であったがために十分に機能しなかったわけである。

ただただ日本軍があれだけ広範囲に展開できたのは、行き当たりばったりの作戦がある程度効を奏していたわけで、ただの偶然にすぎない。

ただし、旧日本軍の精神主義の効果ということは見逃せない点であるし、一人一人の熱情が集合していたということも出来る。

しかし、3年半にも及ぶ長期的な国家総力戦ということであれば、一時的な国民感情の盛り上がり程度のことで事が成就するものではない。

 

指揮敬礼系統の遵守

 

戦争というのは、特に、近代のように兵器の合理化が進んだ近代戦においては、科学そのものである。

人間関係の科学である。

運とか、熱情とか、感情で左右されるような戦争は ありえないわけである。

日中戦争などというのは、まさしく関ケ原の合戦の域を出ていないと思う。

関ケ原の合戦は、少なくとも日本人同志の戦いであるが故に、「話せば解る」、という部分が潜んでいるが、相手が異民族とくると、その「話せば解る」という部分が欠如したわけで、それがため無益な殺生が多発したに違いない。

20世紀に入っても関ケ原の合戦の延長のような戦争をしていたわけで、それが中国本土内であれば、それで通用したかもしれないが、太平洋では、そういうわけにはいかなかったわけである。

太平洋の戦いというのは、戦艦、航空母艦、戦闘機の戦いで、それこそ近代兵器と近代兵器の戦いであったわけである。

こういうものを酷使して行なわれる戦争というものは、科学以外のなにものでもない。

この広い地球上には、こういう科学兵器、近代兵器というものを使いこなせない民族というのもいるわけであるが、我々は十分に使いこなす能力と才能を持っているわけである。しかし、戦術としては使いこなせても、その戦術を、その後、何年間も維持する計画とか優先順位とか、社会基盤が不足しているわけで、一度にパッと花を咲かせることは出来ても、それを何度も何度も続けることが出来ないわけである。

日本の国花がさくらであるように、一度にパット咲いて、後はパッと散る、という点で桜の花は見事に日本民族を象徴していると思う。

しかし、こと戦争に関しては、それではいけないわけで、一度始めた戦争は勝たねばならないわけである。

勝つ見込みのない戦争は、はじめからしないことが国益にとって一番大事なことである。それにもかかわらず、我々の発想の中には、一度始めてみて、やりながら考えればいいという安易なところがある。

これは太平洋戦争のことばかりでなく、我々の日常生活の中にも往々にして見受けられる事象である。

いつまでも議論していてもしょうがない、行動を起こして、途中で考えればいいとか、悪ければ撤退すればいい、という発想で、我々の日常生活の中でもこういう場面に出くわすことが度々経験するところである。

問題は、議論をしても結論がでないということである。

議論のみが堂堂巡りしているだけで、肝心の結論が出ない、というところに我々の物ごとの決め方の欠陥があるのではなかろうか? 

開戦前夜、いくら御前会議で議論したところで結論というものは出ないわけで、天皇陛下が断を下せば事は決着しそうなものであるが、それでは立憲君主を旨とする天皇の心が許さず、天皇は基本的に反戦思想の持ち主であるが故に、開戦に慎重な方に味方したいのは山々であったに違いないが、それでは片方を依怙贔屓するようにも取られそうで、結果として何も言わない事になってしまったわけである。

今日の風潮として、話し合いで事を決すことが民主的である事のような錯覚に陥っているが、話し合いの結果ということは、案外にして、こういう結果を導きだしかねないのである。

我々、日本民族というのは、独裁者というのを忌み嫌うわけで、明治憲法下の天皇の存在にしても、合議制で物事を決めていたわけである。 

決して天皇陛下が上位下達で命令を下していたわけではない。

こういう状況下で、よりよい選択の道がなったかということになると、結論的にいえば、戦争を免れる道はなかった、ということが言えると思う。

アメリカの指し示す条件を飲む、ということは日本が中国大陸から撤退することであるが、それまでに日本は日清戦争後の3国干渉で撤退を余儀なくされ、シベリア出兵でも撤退を迫られているわけで、3度目の撤退ということは、当時の旧陸軍を説得することが困難であったことは否めないであろう。

で、旧帝国陸軍を説得できない、ということは統帥権を持つ天皇ならば出来るわけであるが、天皇自身も、旧陸軍の行為を無謀なものという認識は持っていたに違いないが、無謀な危険のうえに培われた様々な権益を失う、ということも忍びたかったに違いない。

今日の我々が歴史の教訓として学ばなければならないことは、旧帝国陸軍が、何故にアジアに執着し、アジアに無謀な侵略を行い、アジアの人々を人と思わない感覚に陥ったのかという点であろうと思う。

旧日本軍の中でも、海軍はこういう偏狭な思考に固まらず、陸軍のみがこういう思考に陥ったというのには、なにか理由があるのではなかろうか?

これについて一つ推測されることは、陸軍と海軍の官僚としての縦割り行政のせいではないかと思う。

この縦割り行政の中で、それぞれが独自に物を考え、実行し、自己主張を続けていた結果が、日本陸軍の、のっぴきならない状況を作り上げてしまい、既成事実を維持するために海軍側も対米戦争というものに協力せざるをえない状況が出来上がってしまったとみなすべきであろうと思う。

問題は、日本陸軍の一部急進的な部分が、陸軍全体を泥沼のなかに引きずりこみ、それが海軍をも引きずりこみ、日本全体を戦争への道に引きずり込んだと見るべきであろう。

陸軍の一部急進的な部分が独断専行に走ったときの陸軍内部の対応、政府の対応、天皇の対応が、後手に回ったところに既成事実のみが先行してしまい、後戻りの出来ない状況が出来上がってしまったに違いない。

即ち、これは日本人の組織として問題であり、我々、日本民族の組織に対する考え方の問題であろうと思う。

指揮命令系統がきちんと遵守されていれば、一部陸軍軍人の独断専行というとはありえないわけで、それがなかったからこそ、中国東北部に満州国などという陸軍軍人の作った国が出来上がる、などというおかしな事態が起きたわけである。

これは指揮命令系統を遵守する立場の軍人も、それを守らせる立場の軍幕僚も、どちらにも命令系統の遵守ということの意味を知らないか、知っていたとしても、それを黙認した曖昧さががこういう事態を作り出したわけである。

命令に忠実ということも、時と場合によっては、四角四面で融通がきかない、というわけで、戦後の民主主義の世の中では風評が良くないが、指揮命令系統の遵守を使命とする軍人が、こういういい加減な行動を取っていたが故に、日本は太平洋戦争という未曽有の惨禍に見舞われたわけである。

あの戦争中の個々の戦闘場面では、軍隊は命令系統の遵守で以て戦っていたには違いないが、軍の中枢が、その本質を見失って職務を放棄していたわけであり、その結果は、遅かれ早かれ、敗北という結果に落ち着かざるをえなかったに違いない。

我々はパニックに陥ると、誰かの指揮下に入って、その指揮のもとで行動したい、という願望に陥る。

これは今回の兵庫県南部地震の際にも如実の表れており、被災した住民は、誰か明確な指揮官がいないことにきわめて不安を感じ、自治体の職員なり、県の職員なりがいないことに怒りを顕にしている。

しかし、自治体の職員も、県の職員も、それなりに被災者の一人であるからには、平常の秩序維持が出来ないわけである。

我々の民族的特質として、リ−ダ−の命令に比較的従順に従うという傾向があると思う。そして、リ−ダ−が方針を指し示せば、下部組織としては、それに盲従する性癖があるように思う。

つまり、自己の判断よりも、リ−ダ−の指揮命令を優先させるわけで、これが日本国民全体としての特質であるし、日本民族が古来から持ち続けた民俗性でもあろう。

しかし、戦前、中国に進出、侵略した旧日本陸軍の一部将校、一部参謀の中には、政府の意向を無視、天皇の意向を無視してまで、自己の判断で行動を起こした人々がいたわけで、それが究極的には太平洋戦争への道にとつながったわけである。

 

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