終戦の意義

 

民族の絶滅を防いだ終戦

 

1945年、昭和20年8月15日という日は、我々日本人にとって、どういう意義のある日であったのであろうか?私は1940年、昭和15年生まれであるため、終戦の時は5才で、まだ小学校にも上がっていなかったので終戦の時の雰囲気というものは全く気が付かなかった。

父や母がどういう反応を示したかも記憶にない。

終戦、敗戦ということが大変なことだなあ、とおぼろげながら理解できるようになったのは町に進駐軍が闊歩するようになってからである。

町で見かけた進駐軍のジ−プと、それに乗っているGIの姿を見て終戦、敗戦、アメリカに負けたということが実感として理解できたわけである。後年になって、新聞や雑誌で、その時、皇居前広場で座して慟哭している日本人の姿を見るに至って不可解な思いがしたものである。

何故にあの人々は皇居に向かって頭を下げ泣いているのか理解できなかった。

しかし、この光景は1994年、北朝鮮で金日成が死去した時もあれと同じ事が起きたわけである。                     

日本がポツダム宣言を受諾して戦争を終決させるということも考えてみれば不思議なことである。

日本は中国大陸に対しては確かに侵略的な領土拡大という意味で、彼の地を蹂躙したことは免れないないであろうが、アメリカに対しては経済封鎖に対する自衛的要因もあるわけで、橋本竜太郎のいうように、太平洋戦争の全部が侵略的はなく、侵略的な部分もあるが防衛的な部分もあった、と云う見解は私は正しいと思う。

この問題は、先の大戦の範囲をはっきりと定義しないことには、侵略的であったかなったかという答えにはならないと思うが、それを定義したとしても、日本の過去を拭い去ることは出来ないわけで、将来のあり方に対しては何の貢献にもならないと思う。

だからといって加害者である我々がきれいさっぱりと忘れ去ってもいいか、といえば答えは否である。

問題は、こうした些細な言葉の挙げ足取りによって、政治をコントロ−ルしようとする周辺の国家の偏狭な思考にあるわけで、中国とか韓国が心配するほど我々は覇権主義に陥っているわけではない。

今日の日本で、誰が戦争を肯定し、戦争に向かおうとしているのか、今の日本人では誰一人そういう者はいないわけである。 

戦前の日本は確かに軍人の天下で、軍人が国政をコントロ−ルしていたが、戦後の日本では軍人、自衛隊員というのが如何に形見の狭い思いをしているのか日本周辺の諸国家は日本の現実というものを直視すべきである。

今の日本には周辺の諸国家に脅威を与えそうな雰囲気というものが一切存在しない。

戦前の日本と戦後の日本の分水嶺が1945年、昭和20年8月15日という日である。戦前の日本に決別したこの日に、皇居前の玉石の上に正座して頭を垂れ、慟哭している我々と同じ民族、同胞の姿というのは何を暗示しているのであろう。明治以来の大日本帝国の終焉を悲しんでいるのであろうか?

それとも戦争中に戦死した親族を悲しんでいるのであろうか? 

はたまた、米英に負けたという現実を悲しんでいるのであろうか?

国家総力戦というプロジェクトが挫折したこと悲しんでいるのであろうか?

天皇陛下の心中を察して悲しんでいるのであろうか?

おそらくこの全部がその人たちをああいう態度を取らしめた原因であろう。私の個人的な見解では、先の大戦は歴史の必然であったと思う。

歴史の必然という意味は戦争を肯定しているわけではなく、おそらくあの時期に起きなくてもいずれ遅かれ早かれ起きていたに違いないという意味である。

明治維新で近代化した日本は、近代化の手本である西洋先進国と同じ事をしようとしたわけである。

その同じ事というのは、極端な言葉でいえばアジアの蔑視である。

西洋先進国というのは、西洋の先進的な文化、特に軍事力というものでアジアを支配していたわけで、日本は、近代化の途中で西洋列強と同じ事をしようとしたわけである。 

というのも、この時点で、西洋列強というのは、アジアの諸民族を植民地支配する、ということはいわばアジアを蔑視していたことに他ならない。        

日本も近代化の途中で、そういう先輩としての西洋の物真似というか、後塵を拝して、西洋に追い付き追い越せという雰囲気の中に浸っていたわけである。

それが先の大戦の前の日本であったと思う。

そのことは言い換えれば、情報の発達がそうせしめたという面もあると思う。

明治の初期の段階から我々の先人たちは西洋に物事を学ぼうとしたわけで、艱難辛苦をものともせず、学識経験を西洋列強に学びに行ったわけで、その結果として、西洋は素晴らしく、西洋列強のやっていることは学ぶに値するものである、という認識が国民全体に蔓延したものと推測している。

これはひとえにアジアの蔑視に他ならない。

この時点の西洋列強はことごとく中国を蚕食し、植民地を世界規模で維持していたわけで、西洋がやっていることならば我々がやっても許されるであろうというのが戦前の日本人の認識ではなかったかと思う。

歴史というものは常に流れているわけで、これを止めると云うことは何人とも出来ないわけで、そういう歴史の必然性から考えれば、先の大戦というのは起きるべくして起こったというべきであろう。

西洋先進国が辿ったと同じように、彼らが中国に植民地を作っている、我々もそれを真似て中国に進出しようとする、日本の中国大陸における覇権をアメリカがおもしろく思わない、したがって経済封鎖を行なう、アメリカと戦うという図式が出来上がる。

この一連の流れは歴史の必然であって、世界の流れというものがこういう方向に向かっていたわけで、ここであの当時、日本が中国からあっさり手を引いたとしても、いずれの日にか同じ事が起きたに違いない。

今日の世界共通の認識として帝国主義による植民地支配ということは「悪」であるという定説が出来つつあるが、第2次世界大戦以前ではそういう認識は世界各国に共通して存在していたわけではなく、日本が敗けたからこそ、そういう定説が定着したわけである。

この日本が戦争に敗けたという意味は、一人日本だけの問題ではなく、世界の価値観を転換せしめた大きな問題意識を含んでいると思う。

西洋先進国、ヨ−ロッパ諸国にとっても、アジアの小さな島国の日本の行動が脅威であったわけで、日本の行動を誉め讃えることはできないにしても、日本が西洋先進国や、アメリカに対して挑戦したことによって、アジアにおける西洋先進国の秩序が混乱を来し、それがアジア諸民族の独立につながったことは否めないと思う。

日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏するというのも妙なことである。

日本はアメリカ、イギリス、オランダに対しては確かに宣戦布告をしているがソビエットに対してはそれを行なっておらず、中国に対しては不戦条約の締約国として、戦争という言葉を意識して避けてきた経緯があるわけで、1945年の時点で、日本はアメリカとの戦争には敗けていたが、ソビエットとは終戦の1週間前までは交戦していなかったわけである。

そして中国大陸というのは日本軍が占領支配していたわけである。

中国大陸には旧日本軍が生存しており、目下交戦中であるにもかかわらず、日本本国がB−29の絨毯爆撃と2発の原子爆弾で焦土と化し、交戦意欲を失ったわけである。

交戦意欲を失ったというよりも、日本民族の絶滅を防ぐ意味の方が大きかったかもしれない。

昭和天皇の決断は、日本民族の絶滅を防止するために日本本土決戦を回避するように気持ちが動いたのかもしれない。

 

不思議な負け方

 

主権国家として、主権の主張として戦争という手段が取られ、その結果として、主権の基盤とする日本本土が丸裸にされ、主権の延長線上にある中国大陸で、アメ−バ−の触角のように旧軍隊が生き残り、邦人が生き残っていたわけである。

そして、天皇陛下の終戦の詔勅で、外地に生存していた旧軍人がいっせいに武器を地上に置くことにより、支配するものとされた側が主客転倒したわけである。

アジアの解放という場合、アジアの民族が、民族自身の力で成し遂げたものはありえない。第2次世界大戦後のアジアの諸民族の独立ということも、アジアの人々が自らの力で成しえたものではなく、日本がアジアにおける西洋列強の力による支配という秩序を破壊したからこそ成し得たわけで、そのことは、今日のアジアの人々は認めたくない事実であろうが、西洋列強の秩序を破壊する過程において、アジアの人々に苦痛を強いたことも事実であろうが、それがなければアジア人々は独立を勝ちえなかったのではないかと思う。西洋の支配から免れるのに、無痛分娩のように何の苦痛もともなわない、ということはありえないことで、我々、日本人も、西洋の支配受けないようにするためには同胞の血で血を洗う抗争を繰り返した結果として、西洋列強の支配を免れたわけである。

19世紀後半から20世紀前半にわたる西洋列強のアジアにおける帝国主義的植民地支配というのは、ヨ−ロッパ文化のアジア支配であったわけである。

アジアにはヨ−ロッパ風の帝国主義という概念がなかったわけで、もともとアジアに存在しない概念というものを真っ先に吸収したのが我々、日本民族であったわけである。

だからこそヨ−ロッパ人と同じ発想にたって他国に主権を延ばし、国益を図るという発想に陥ったものと思う。

そしてそれを「善」と思い違いしたわけである。

日本がポツダム宣言を受諾すると同時に、アジアの民衆は、彼らを支配していた西洋人には歯向かうことを止め、日本人に対して報復を繰り返したわけである。

これがB、C級戦犯の処置というものである。

戦争が終わった時点で、アジアの諸民族はまだ西洋列強としての宗主国の意向を無視できなかったという言い訳は我々には通用しない。

1945年、昭和20年8月15日という日は、日本ばかりでなくアジアの人々にとっても特別の日であるはずである。

連合国側にとっては戦勝記念日であり、我々にとっては文字どおり敗戦記念日である。

しかし、あの先の大戦、第2次世界大戦の戦勝国というのはアメリカ一国しかありえない。そして、我々は、中国大陸では、相手国を占領しておりながら戦争に敗けるという不合理なことになったわけである。

我々の戦争を肯定するつもりはないが、その後の朝鮮戦争では、韓国の軍隊とアメリカ軍は海に追い落とされそうになったわけであるが、中国に進出していた旧日本軍は、あのような状況に陥っていたわけではない。

この現実を今に生きる我々はどう考察したらいいのであろう。

朝鮮戦争の後に起きたベトナム戦争というのも、アメリカ地上軍はサイゴンから放馳駆された、まさしくアメリカはベトナムの地上戦では敗けて、北ベトナムの共産勢力が勝ったわけである。

ところが我々の中国に進出した地上軍というのは、中国の地を追い払われたわけではない。それでも日本本国が戦争に敗けたので、出先である軍隊も、主権の主張としての行為が意味を成さなくなったという意味で敗北したわけである。

私の個人的な見解では、日中戦争に引き続く一連の戦争の責任は、日本の軍部の制度疲労がもたらしたものだと思う。

軍部の独断専行を許した政治家の責任というのは二次的なものだと思う。

しかし、ここで注意しなければならないことは、軍部の独断専行を許したのが政治家だけではなく、我々国民の側も徹頭徹尾、軍国主義に凝り固まっていたことも事実であろうと思う。

南京陥落の時の提灯行列の例を見るまでもなく、出征兵士を見送るときの風景、庶民の表情というのも軍国主義の発露に他ならない。

その軍国主義に100%傾倒していた価値観が、1945年、昭和20年8月15日を境に180度転換してしまったわけである。

この日までは皇居を遥拝していた人々が、一夜にして民主主義者として振る舞うようになったわけである。

これを変節といわずして何が変節であろうか。

厳密に云えば、終戦の日に変節したわけではなく、マッカアサ−元帥が日本に進駐し、彼が日本の占領政策を牛耳るようになってからというべきであろうが、我々が国家の危機に直面すると如何に巧みに生き延びるのかという手本かもしれない。

地球上の全人類について、国家の危機、民族の危機に直面して、如何に巧みに生きるかという問題は大命題に違いない。

明治維新直前の日本は、まさにこの大命題を見事にクリア−したわけであるし、戦後の日本の発展段階でも、オイル・ショックなどというのはその類の事例である。

終戦、敗戦における我々日本人の価値観の転換というのは、他の民族では経験のないことであろうと思う。

逆説的であるが、この価値観の転換がスム−スに出来たからこそ我々は、戦後世界に冠たる国になりえたのかもしれない。

民族として、価値観の転換の出来ていない国がいわゆる中国であり、朝鮮民族であろうと思う。

我々は先の大戦を忘れたわけではない。

忘れていないからこそ、再びあのようなことをしてはいけないという自制心があるわけで、今日の日本の周辺国家の危惧というものは、今の日本には存在し得ないわけである。

かっての軍国主義から民主主義への転換、平和主義への転換というのは、民族の存亡をかけた賭けであったわけである。

というのは、昭和天皇が戦争を終決させる決意をしているにもかかわらず、徹底坑戦を叫ぶ一部の軍人がク−デタ−まがいのことをしでかしたことは歴史上の事実で、その意味で、あのク−デタ−が成功していたとしたら日本民族というのはこの地上から抹殺されていたのかもしれない。

事ほど左様に戦前、戦中の日本では軍人の横暴がひどかったわけである。

 

指揮者の資質の差異

 

私は昭和15年生まれで、終戦の日は満4才であったので自分自身の感慨というものは何一つないし、両親の反応というものも全く記憶にない。

しかし、長ずるにしたがって書物とか映画とか、又は他のメデイアで終戦の日の光景を見るたびに、何故あの人達が泣いているのか不思議でならなかった。

そして、この文章を綴るにあたって庶民の側から戦争を回想した手記の類を2、3読んでみた。

やはりその中には、あの日、あの玉音放送を聞いて分別ある大人が泣いているというシ−ンが随所に表れているわけで、何故、あの日のあの時に、終戦の瞬間、敗戦の瞬間、平和到来の瞬間に、分別ある大人が泣いているのか不可解であることにかわりはない。

自分なりに考察してみると一つや二つの理由ではないと思う。

まず第一番に、皇国日本が戦争に敗けるということはない、という信念に裏切られた、という現実があったろうと思う。

そして二番目には、これだけ戦争に協力していたのに力が及ばなかった、という挫折感からきた面もあると思う。

この二つに関連して、様々な細部の感情の綾があの日あの時の涙となって人々の頬を濡らしたのではないかと想像する。  

思えば、戦争遂行ということは、一大国家プロジェクトであったはずで、戦争を始めたいじょう勝たなければ意味がないわけである。

昭和16年12月8日の真珠湾攻撃は大勝利と国民に鼓舞宣伝され、国民は提灯行列までしてそれを慶賀とし、この幸先のよい出だしを大歓迎したわけである。

それが4年半後には、祖国は灰燼と化し、広島と長崎には新型爆弾を見舞われ、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況に置かれた、ということはその時の日本国民にとっては耐えがたい感慨であったに違いない。

それが人々の落涙となったものと想像する。

あの戦争は一部の軍人の独断専行によって深みにはまり込んだ、というのが私の戦争感であるが、その一部の軍人というのが陸軍の軍人で、海軍の側は常に陸軍に振り廻されていたという印象を個人的は感じているが、大局的な目で敗戦の原因というものを考えてみると、陸海軍とも組織疲労をしていたように思う。

戦争にまつわる庶民の手記を読んでみると、庶民というのは常に健気に生きているが、これが同じ我々の組織としての行動となると全く個人の意思と相反する行動となって表れてくる。

個人としては善良な人間も、集団となり、組織となると、その善良さを喪失し、横暴を極める、という事態になってしまうところに我々の民族としての欠陥があるような気がしてならない。

終戦の日、玉音放送を聞いて落涙した人々は、個人として一生懸命国家に奉仕して、その結果が、終戦、敗戦であったところに遣る瀬なさを感じていたに違いない。

終戦の日が昭和20年8月15日、その前日の状況を想像してみると、日本の主要都市の大部分は灰燼と化し、その中でも辛うじて存在し得た工場は、学徒動員の中学生や、女子挺身隊の人々が汗水垂らして長時間勤務に耐え、炭坑では朝鮮からの強制連行された人々が働き、国防婦人会ははたきで防火訓練や竹槍の訓練にかりだされ、少年戦車兵がしごきを受け、中国大陸の日本陸軍は、国民党の軍隊と共産党の軍隊と戦い、そのいずれもが識別できないゲリラ戦であったろうし、満州ではソビエットの軍隊に蹂躙されていたわけである。

そういう状況下でも、我々の先輩は、日本が勝つと思って日夜勉励努力していたわけである。

それが一夜にして終戦、敗戦、ポツダム宣言受諾ということになれば、その人々の挫折感というものははかり知れないものがあったに違い。

私は戦争を肯定するつもりはないが、そういう状況下に置かれてもなお奮闘努力する我々の潜在能力というものは日本民族の誇りであり、大和民族の特質であると思う。

しかし、これは西洋諸国にも同じような気質は存在するわけで、戦前の日本のように、こういう我々の特質が我々だけのものである、と思い上がってはならないと思う。

我々は太平洋戦争に敗けた原因はアメリカの物量に敗けたと思いがちであるが、アメリカも我々と同じ程度か、それ以上に国民的努力をしていたことを知るべきである。

戦前、戦中の我々の同胞は、我々のみが世界で優れた民族だと思い違いをしていたが、実際には、アメリカ人も戦争遂行にはきわめて努力し、粉骨砕身勉励努力していたわけである。

日本もアメリカも、双方で必死の努力をしていたが、結果的に資源の豊富なアメリカ側に軍配があがったと云うわけで、我々の敗因は、資源の不足分を精神力で補おうとしたところに敗因があったわけである。

戦後50年たった今、考えてみると、戦争遂行には主義主張というのは関係ないように思う。

戦前、戦中の日本というのは、言うまでもなく軍国主義一点張りであるが、アメリカはこの時点で民主主義の国であり、ソビエット連邦というのは、この時点で共産主義の国であったわけで、我々が天皇制をいただく軍国主義であったから戦争に敗けた、という理由にはならないと思う。

要は、戦争というものを政治の延長とみなせば、リ−ダ−に資質の問題だと思う。対米戦に限って云えば、日本が戦争を仕掛けたときはル−ズベルト大統領であり、終戦の時はトル−マン大統領であったわけである。

日本側は東条英機であり、鈴木貫太郎であったわけである。

そして対戦国同志のリ−ダ−の駆け引き次第で、戦争というものは大きくもなれば小さくもなるわけで、このことから考えると、我々の政府の側は最後の最後まで開戦という事に消極的であったはずである。

アメリカ側のリ−ダ−は、日本に先に口火を切らせて、アメリカ国民を戦争遂行に駆り立てる策謀をしたわけで、政治のテクニックとしても、アメリカ側のリ−ダ−の方が一枚も二枚も上手だったというわけである。

政治が下手であるということは、戦後50年たった今でも変わることのない我々の特質の一つである。

経済一流、政治は三流という表現がそれを如実に表している。政治が三流という意味の中には、日本の戦前の植民地支配のことも内在していると思う。それは戦後50年も経った今でも、旧植民地の人々から戦後補償の問題を云々言われるというところにそれが表れていると思う。

それはつまり、植民地支配時代の政治が悪かったのと同時に、戦後50年の対外的な政治的発言が下手であったということに他ならない。

このことは言葉を換えて言えば、戦前の我々がアメリカ人は怠惰で、日本人の精神主義の前では歯が立たない、という間違った先入観で思い上がっていたのと同じで、戦後の我々は、平和主義で我々は今後一切争いということは避け、金で解決します、という思い上りに他ならない。

よって旧植民地時代に被害をこうむったと思っている人々は、日本は今後、力を振り廻すことがないことを承知で、金の無心をしているわけである。

下衆な言葉で言えばナメられているわけである。歴史の評価に関して、我々が注意してみなければならないに事は、時代によって評価が違ってくるということである。

戦前の日本陸軍が中国に進駐して満州国を作るというのは明らかに日本陸軍の独断専行で、日本政府の不拡大方針に反するものであるし、天皇陛下も不拡大方針であったことを忘れてはならない。

いわゆる政府の命令、天皇陛下の命令に反する行為であったわけである。

そして、昨今もてはやされている杉原畝女元リトアニア大使がユダヤ人を多数救助したとして人道上称賛されているが、これも命令違反であった事には変わりないわけである。

同じ命令違反でも評価が真二つに分かれているわけである。

ここにも組織と個人の発想の違いが潜んでいるように思う。

杉原畝女元リトアニア大使は、個人の意思で命令違反を犯したが、旧関東軍というのは組織として、組織ぐるみで命令違反を犯したわけで、その時点で、日本政府及び天皇陛下はその命令違反を厳しく取り締まることが出来ず、事後承認する形で追認したところにその後の禍根が残ったわけである。

国家の主権と国家のリ−ダ−との関係を考えてみると実に難しい問題に突き当たる。出先の軍隊が独断専行で邪な行為をしたとき、相手方の方は主権者としての抗議をし、それを受てこちら側が、素直に謝罪すれば戦争にはならないと思う。

これは主権者であるリ−ダ−同志の判断次第である。

しからば、戦前、戦中の日本では、誰が主権者であったのかといえば、やはり天皇陛下であったような気がする。

すると日本政府というのは一体何であったのだろうか? 

私の個人的な見解では、戦前、戦中を通じて天皇陛下、昭和天皇というのは象徴にすぎなかったと思う。

問題は、政府そのものが軍人に支配されていたところに問題があり、軍人が天皇を現人神と奉り、国民にそれを強要したからにほかならないと思う。

何故そうなったかといえば、やはり政党政治が死滅してしまって、政治家が自らの信念を放棄し、軍人が幅を効かせる土壌を提供してしまったからに他ならないと思う。軍隊というのは、何処の主権国家でも武装集団であり、現政府を転覆させるに一番近い距離にいるわけで、ク−デタ−というのは、軍隊以外の組織では出来えないわけである。

戦前、戦中の日本の政治というのは、ク−デタ−でないはないが、軍政になってしまっていたとみなしていいと思う。

民主的は方法で、合法的な軍政が出来上がってしまったわけである。

昨今の政治の舞台で、「国民の合意」という言葉がしばしば登場するが、太平洋戦争、大東亜戦争の前夜というのは、国民の側で、「鬼畜米英撃ちてしやまん」、という大合唱であったわけである。

真珠湾攻撃の大勝利での東京都内、一般市民の提灯行列というのは日本が戦争をすることを肯定し、その勝利に酔い痴れていたわけである。

これは昭和12年の日本陸軍の南京入場の際に日本の市民がその事を快挙として認識して起こした提灯行列に範を示すものと想像するが、この事自体が、戦後の評価では南京大虐殺につながるわけで、その事実認定に関しては様々な憶測が飛びかっているが、真珠湾攻撃の大勝利といえるものも、日本はアメリカの罠に填まった事を戦後に至まで我々の先輩諸兄は知らずに過ごしたわけである。

戦争というものが政治の延長であるとすれば、統治者としては、統治に関して不具合な情報は国民に報せず、統治に際して都合の良い情報は国民に流し、自らの統治に万全を期すということは日本といわずアメリカでも同じように行なわれていたわけである。   

問題は、戦前の日本人が、何故に軍人に政治の引導を渡してしまかというところである。提灯行列で軍の行動を快挙として崇める根底には、やはり当時の我々の庶民の生活苦が潜んでいたのではないかと思う。軍国主義とかファッショを庶民の側が望んでいた、ということは言えるのではないかと思う。それともう一つ見逃してならないとは、政治家にとって政治というのは職業である、ところが我々の政治批判というのはアマチュアの域を出ることがなく、これはいくら説得力のある論旨でも遊びの延長でしかない。

戦後の意義

 

国家プロジェクトとしての戦争

 

          「

「国体護持」とは?

 

60年安保であれだけ政府批判が横行しても当時の自民党政府というのは崩壊しなかったわけで、その結果から推して、あの時の反政府運動、反体制運動というのは一体何であったのかと自問すれば、一言で云って遊びにすぎなかったということである。

戦前の我々先輩諸兄が、軍人に政治の要を明け渡したことは、それが庶民の願望であり、軍国主義がその時代の庶民の心の中に蔓延していたわけである。

かっての共産主義国の成立の過程を見ても、共産主義を受け入れる前提の前には国民の渇望があったわけで、国民とか、一般市民の渇望のない主義主張というのは受け入れられないはずである。

戦前・戦中の我々の先輩諸兄が軍国主義に陥ったのは、我々、一般庶民の側に、それを受け入れ、渇望する要因があったからこそ、それが日本国民全体のコンセンサスとなりえたわけである。

その背景には、我々の日常生活があまりにも貧しかったということがあったに違いない。その時代の日本民族の深層心理の中には、日本が貧しさから脱却するには、西洋先進国の植民地支配を打破し、アジアの諸民族を西洋列強の植民地から開放し、日本がアジアでリ−ダ−シップを発揮し、アジアの平和と安寧を確保しなければ誰がそれを遂行し得るのか、という危機感があったに違いない。

その当時の日本国民、我々の先輩諸兄は、この理念の元で富国強兵に励み、日本軍のアジア進出をその前提の行動として見ていたに違いないが、現実の軍の行動というのは、この理念とは掛け離れたものであり、軍の行動ばかりでなく、日本人の行動そのものが理念と掛け離れてしまったわけである。

これは無理もないことで、日本がそう思って行動しても、それを受け入れるアジアの民衆にとっては、そういう我々の理念を疑いの目をもち、信頼するもしないも、彼らの問題であり、日本の進出を侵略ととらえる風潮というのは必然的に出来上がっても致し方ないことである。

彼らにしてみれば、目の青い西洋人に支配されることは致し方ないが、同じ皮膚の色の日本人が偉そうな理念を振りかざして迫ってこられても素直には信じられない事であったに違いない。

戦前・戦中の我々日本人の行動というのは実に健気である。

赤紙一枚で、あらゆる青年男子、壮年男子が徴兵に応じ、兵一人の命の値段は一銭五厘のはがき一枚より安いということが云われた時代である。

そういう雰囲気の中で、我々の先輩諸兄は滅私奉公を強要され、苛酷な経済統制の中で生き永らえてきたわけである。

軍人による政治の結果として未曽有の世界戦争に巻き込まれ、貧困から脱出するつもりの方策が、より一層の貧困を招き、ただ単に生きんために、又は個人の小さな夢をかなえるために、戦後50年、身の安全のみを考えて生き続けた結果が世界的なGNPの向上となってしまった、と云う現実は何とも皮肉な結果である。

しかし、我々の大衆行動、戦前ならば提灯行列、戦後ならば安保反対のデモ行進というのは、遊び以外のなにものでもない。  

戦前の政治家で、軍人以外の政党政治家が、何故に政治の主導権を軍人に明け渡してしまったのか、という疑問に突き当たると、やはりこれは明治憲法の欠陥に突き当たるのではないかと思う。

憲法というのは言わずもがな、人間が頭の中で考察したものである以上、100%完全なものというのはありえないわけで、それを「不磨の大典」として、アンタッチアブルなものとしてしまったところに日本の過誤が潜んでいたといわなければならない。

その意味で、戦後の日本社会党の論議も同じ轍を踏んでいるが、自社連立内閣では、どうなるかは、はなはだ興味あるところである。

昭和天皇を「現人神」としたり、明治憲法を「不磨の大典」としてアンタッチアブルなものにしてしまう、というテクニックは為政者の姑息な政治的手腕である。

これは我々のみの特質ではなく、共産主義体制のもとでも、指導者を神格化して政治的安定を作り出す、という手法はもちいられている。

明治憲法のもとで天皇を前面に出されると、日本人というのは、塩を掛けられたナメクジのようにしゅんとなってしまうわけである。

昭和天皇は立憲君主に撤しようと心つもりしているのに、その媒体を勤める政治家、この時点では、軍人の高級幹部連中が天皇の意を解する事無く、虎の威を借りる狐よろしく、邪な策謀を画策していたわけである。

そして国民は、そういう軍人に期待を寄せ、軍の行動というものを追認していたわけである。

そのことのなかに、当時の日本国民のなかに戦争を肯定し、中国における日本の植民地拡張を是認する雰囲気があったわけである。 

その雰囲気に押されて、政党政治家は政党の解散を黙認し、大政翼賛会に修練されていったわけである。

あの時代が民主主義の時代だったとはとても言い切れるものではないが、国民の合意というのは戦争を肯定し、植民地支配を肯定し、アジアの開放のためには多少のアジアの人々の苦痛も致し方ない、というのが国民的なコンセンサスであったわけである。

昨今、政治を語る場合、「国民のコンセンサスを得る」ということと、政治家のリ−ダ−シップということが同時に言われているが、その意味で、先の大東亜戦争というものを眺めてみると、国民は「鬼畜米英撃つべし」というコンセンサスで一致したのを、天皇陛下が「俺の命令なしで一兵たりとも動かしてはならない」というきわめて強烈な専制君主としての発言があれば、あの戦争はありえなかったに違いない。

政治のあり方としては、専制政治よりも、民主政治の方が国民は、はるかに幸せであるに違いないし、君主の在り方としても、専制君主よりも立憲君主の方が国民としては幸せであるに違いない。

今日、我々が軽々しく国民の合意という場合、戦前、戦中の東京都民の提灯行列の意味というものを考え、政治家のリ−ダ−シップと云う場合、世界史上の独裁者の行動というものを吟味すべきである。

政治家というのは、リ−ダ−シップを発揮するのではなく、コ−デイネイタ−として利害の調整能力を発揮すべきである。あの真珠湾攻撃を快挙とみなしての東京都民の提灯行列というものが、戦後は、反政府運動、反体制運動としての示威行為としてのデモ行進に変貌したのは、まさしく昭和20年8月15日の終戦を境にした価値観の逆転の結果だと思う。

これが同じ日本人、日本民族の姿である。

180度、相反する価値観を同時に合わせ持っているわけである。     

戦前は、国粋主義に基づく右翼思想、戦後は、共産主義に基づく左翼思想。

いづれも人間の考えた理念による物の考え方の違いであるところが共通しているわけであるが、これは宗教と同じで、人々が宗教に固執するということは、それが人々の潜在的欲求であると同時に、時代という環境に支配されるという面があると思う。

戦前の提灯行列もその表れであるし、戦後の示威運動もその表れであると思う。

本来、政治家というのは、こういう民衆の潜在的欲求を先取りして、時世の流れに合うようにコントロ−ルするのが立派な政治であるはずであるが、これは一見簡単なようで、政治の理想であるわけで、そう安易に出来るものではない。

戦後50年を経過した時点で、我々が歴史を反省する場合、民衆の潜在的欲求と政治家、あの時代に政治というものがあるとすれば、政治家の理念のギャップの差異が如何にして生まれたのか、ということを解明する必要があると思う。

今日、我々は安易に国民の合意とか、住民のコンセンサスという言葉を使っているが、こういう耳触りの良い言葉に惑わされることのないように心しなければならないと思う。

時代の雰囲気とかム−ドと云うことをよくよく注意して観察する必要があると思う。

平成7年、1995年が終戦から50年目にあたるという事で、今年はそれに関する著述が色々出現することと思うが、その手始めに中日新聞が今年の2月になってから元陸軍参謀の瀬島龍三氏のインタビュ−を掲載している。

ここにも既に戦前の政治の不合理が露呈している。

戦前の、特に太平洋戦争前夜の政治というのは、そのまま軍政になっており、軍人がそのまま政治を司っているという感じである。 

それでいて帝国議会というのは消滅していたわけではなく、戦前、戦中、戦後を通じて存在しつづけていたわけである。

瀬島龍三氏のインタビュ−を読むまでもなく、戦前、戦中の日本の舵取りをしてきた政治の中枢にいた人々が、極めて天皇陛下に忠実であった、ということは歴史的事実としてよく知られていることであるが、天皇の意思を具現化する術を知らなかったというところが問題であろうと思う。

というのは、これらの人々が、天皇陛下、昭和天皇が心底平和主義者で戦争を好んでいなかった、軍事的拡張主義とか兵力による統治を嫌っていた、ということを知らなかったところに意志の食違いが潜んでいたわけである。

昭和天皇というのは、基本的に学者であるわけで、生物を研究する自然科学の学者を軍人が統治者に奉り上げてしまい、雲の上に奉り上げてしまったところが日本の過誤の元である。

この時代に我が日本が、シビリアン・コントロ−ルでなかった、というところにその根本の問題が潜んでいたわけであるが、これは歴史の必然で致し方ないところである。

明治時代に、日本が参考にしたのがドイツの憲法であった以上、ドイツと運命をともにしたのは歴史の必然であったに違いない。

第2次世界大戦を戦っていた交戦国の首脳の心のうちというのは、ほとんど同じものではなかったかと思う。

日本の天皇陛下も、アメリカのル−ズベルト大統領も、イギリスのチャ−チルも、ドイツのヒットラ−も、ソ連のスタ−リンも同じように戦局の一進一退に一喜一憂していたにちがいない。 

こういう状況下で、日米対戦について云えば、我々はアメリカを侵略したわけではない、真珠湾攻撃というのは戦闘の一場面であって、侵略したわけではない。

それに引き替え、中国に対しては明らかに侵略の意図があったわけで、アメリカは日本の中国に対する侵略に対して戦争をする気になっていたわけである。

その上、第2次世界大戦というのは、アメリカにとって2正面戦争であったわけで、これを敢えて行なったということは、アメリカにとって日本の中国侵略ということがよほど腹に据えかねたわけである。

これがアメリカの理念であり、或る一種の人種差別でもあったとみなしていいと思う。

しかしながら、そこには民主主義に基づくシビリアン・コントロ−ルがみごとに具現化され、日本は頑なな国粋主義による天皇制のもとで、統治者の意に反する戦闘が繰り広げられていたわけである。 

この違いはマネジメントの違いといえるかもしれない。

統治をする側の立場から見ると、マネイジメントの問題になると思う。

アメリカのル−ズベルト大統領は、軍を上手にマネイジメントし、日本の昭和天皇は、軍のマネイジメントに失敗し、的確な情報を与えられず、自らの意思を的確に上位下達し得なかったということが出来ると思う。今に生きる我々は、統治者が天皇陛下である、ということに納得出来ない感情があるが、この時代の明治憲法ではそうなっている以上、致し方ないことで、要は、それを補佐すべき立場の側近の責任だと思う。

統帥権というものが天皇直属の権利である以上、国民の側からそれを云々することは憲法上不可能なことで、政治家が沈黙せざるをえなかったのも致し方ない。

要するに天皇陛下は裸の王さまで、統帥権という軍の特別権威のもとで、軍事政権が幅を効かす要因が潜んでいたわけである。

第2次世界大戦を戦った交戦国にとって、戦争遂行ということはその国々にとって巨大な国家プロジェクトであったわけである。

昨今になって、アジアの人々から日本が強要した強制労働ということに言及して、その補償問題がとり沙汰されているが、第2次世界大戦で戦った国同志というのは、いずれも先進国で、その国民というのは、戦争遂行のため、アジアの人々が云うところの強制労働を自ら買って出たわけである。

これは我々日本人もさることながら、アメリカでも、イギリスでも、ドイツでも、ソビエットでも同じ事が云えると思う。

日本でも女子挺身隊という名のもとで、婦女子でも率先して軍需産業に労力を提供し、戦争遂行という国家プロジェクトを成し遂げようとしたわけである。

それとまったく同じ意味で、アメリカでも、イギリスでも、ドイツでも、ソビエットでも同じ事が展開していたわけである。

戦前、戦中の日本では、女性兵士というのはあまり聞いた事がないが、所外国の中には、女性の兵士までいたわけである。

特に共産主義国では男女平等の意味で、女性の兵士というのがかなり多数散見されたようである。

特に、中国とかソビエットでは女性の戦闘員というのもあったようである。

我々、日本民族というのは、実に上手に統治される民族で、天皇制の元での軍国主義でも一致協力して国家プロジェクトの遂行に協力を惜しまないが、これを自らの発案で何かをなそうとするときになると、意見百出して纏らず、まさしく自ら作り上げる民主政治というものが下手である。

大衆の合意にもとづけば坂を転がり落ちるし、リ−ダ−・シップに期待を掛ければ、あさっての方向に向う、といった具合に昔も今も経済一流、政治は三流という諺は言いえて妙である。   

第2次世界大戦を連合軍側と連盟側という分け方をしてみると、連合軍側が勝利をし、連盟側が敗北を期したわけであるが、この両者の違いというのは、政治理念の違いということが云えると思う。

確かに、アメリカも、イギリスも、フランスも、かっては帝国主義による植民地支配を実施し、アジアを蚕食したことは事実であるが、既に、この時点で帝国主義を脱却して、古い帝国主義というものを押さえ込む新しい思想に切り変わっていたに違いない。

ソビエットというのは、共産主義というものに取りつかれて新しい国家理念を作り、中国はそういう過程の一部にすぎなかったに違いない。

理念で戦争を勝利に導く、ということはありえないと思うが、理念が強力な戦争遂行の手段、つまり政治としての国家プロジェクトの遂行に貢献するということはいえると思う。我々の場合は、合理的な戦争のセオリ−というものを無視して、国家神道をいただく精神主義に偏りすぎて、人を統治する科学という物を蔑ろにしたところに戦争の敗因があったものと思う。

戦争遂行のための科学的で合理的な考え方を無視して、そういう意味の研究を怠ってきたところに問題があったものと思う。

その具体的な例が、外来語の排除というわけで、英語を敵性語として排斥する感覚があったわけである。

敵を知ることが戦いの基本であるにもかかわらず、その基本である相手国の言語を排斥し、研究する事自体を利敵行為とみなす我々の感覚が軍のトップから庶民に至るまでの普遍的な合意となっていたところに、破れるべくして破れた原因があると思う。

そして、近代の国家総力戦という認識が薄く、戦いというものが関ケ原の戦いという認識から脱し切っていなかったところに、近代戦争に敗北した理由があると思う。

人はだれしも理念と感情で以て生きているわけで、理念というのは、生きた頭脳で以てコントロ−ル可能な思考であり、感情というのは、思考によるコントロ−ルが不可能な部分である。

政治というものは本来、理念で行なわれるべきであるが、我々、日本民族の政治というのは、しばしば感情に左右されるわけで、東京都民の提灯行列というのは南京陥落なり、真珠湾攻撃の成功ということを国民感情の発露として表現したものである。

そこにある国民感情というのは、中国を武力支配することを是認し、アメリカと戦争することを是認する国民感情があったわけである。

あの時、理念とか理性で、この二つの事件を見れば、それがどういう国際世論を引き起こし、アメリカの対日感情を刺激するのか、ということを考えなければならなかったわけである。

我々、日本人の政治が常に3流といわれているのは、政治に感情が入り込んでいるからである。

感情に左右される政治というのは、独り善がりの政治になりがちである。

アメリカの対日戦に関して云えば、日本が中国に武力で進出するということは、アメリカの国益に反する事であったわけである。

そのサインは、日米交渉の全編を通じて出されていたわけで、日本側がアメリカの真意というものを見損なっていたことに原因があると思う。

このことは即ち外交の失敗であると同時に、軍事的な側面からみても、アメリカの真意を正確に把握できなかった、という情勢分析の失敗である。

これは私の持論でもある戦術と戦略の発想の違いがここにあるわけである。

あの時代の日本の工業水準というものは極めて高度なものがったわけで、それ故に、ゼロ式戦闘機の誕生があり、戦艦大和や武蔵の建造があったわけであるが、これらの物が戦争という実践の場で十分にその能力を発揮しきれていない。

ゼロ式戦闘機はその当時優秀なるが故に後続機の開発が遅れ、戦艦大和と武蔵は、世界最高の機能を持っているが故に、日本海軍の象徴的存在として、その温存のみに腐心するあまり、その能力を実際の戦闘で余すところことなく発揮しえずして海の藻屑として消え去ってしまったわけである。

兵器の使い方、用兵の論理としての戦術戦略の相違についても、我々は無知であったわけである。

中国大陸では、宵闇に紛れて、大きな罵声で、中国人の集落を攻撃すれば先方は逃げていってくれたわけである。

だからこそ、三八式歩兵銃で十分であったわけである。

よって銃器の改良と云うこともお座成りになってしまったわけである。

我々がこれまでに経験した戦闘というのは、この程度のものであったわけである。

それが故に、関ケ原合戦の延長線上の認識でしかなかったと云うのが私の持論であるが、日米戦というのは、そういう段階の戦闘ではなかったわけである。

そして、国民の側としての戦争というものは、アメリカの市民も日本の国民も、被統治者としての参戦という意味では、戦いに行く以上、手柄の一つも立てようというのが偽らざる心境であったと思う。

あの戦争で命を落としたのは日本人ばかりでなくアメリカ人も同じように多数の命を失ったわけである。

しかし、アメリカ側には、日本の特別攻撃隊のような自殺を強要するような用兵というのはありえなかったわけで、そういう状況に陥った、ということは既に敗北ということを考える時期にきていたわけである。

そういう状況に立たされても、それに気付かず、運を天に任せるような用兵というものは、科学というものを冒涜するものである。

死を賭けた仕事、命にかかわるミッションというものは、アメリカにもあるには違いないが、それはベストを尽くしても成功する確立が低いという意味で、始めから自殺を強要するミッションとは異質の物である。

最近、ある本を読んでいたら、終戦の時、自殺をした日本将兵の数は500人ちかくいるということは記されていた。

その中でも有名のが阿南惟幾大将の自決であり、東条英機の自殺未遂であるが、これらの人々は、天皇に対して申し訳ないという心情で自殺をしたわけで、そこには国民とか臣民に対する悔悟の念は微塵も存在していないわけである。

明治憲法下の軍人は、天皇にのみ責任を負っている、という理屈はわからないでもないが、天皇が臣民のことを思い、世界平和のことに心を配っている事を知れば、こういう軍人による軍政ということにはならなかったはずである。

天皇が立憲君主政に撤しようと思っている片方から、専制君主に祭り上げて、軍人の高級幹部連中が専制君主を代弁する形で、政治の延長としての戦争を遂行したところにこういう結果を招く原因があったわけである。

その過程において、政治家の沈黙も、マスコミの国粋主義、軍国主義に迎合した戦意高揚をはかるがごとき報道の姿勢も、反省されるべき事実であろうと思う。

あの時代に日本の軍隊が南京を陥落させたり、真珠湾攻撃でアメリカの戦艦を何隻も沈めたという事実は、あの当時の日本人の国民感情からして、まさしく快挙の一言であったに違いない。

ということは、言葉を返して云えば、あの当時の日本人にとって、世界が我々をどういう目で見ていたのか、という点でまさしく盲目になっていたわけである。

しかし、これは国内においては盲目でも致し方なかったが、海外にいた日本の知識人にとっては、盲目ではなかったわけである。

しかし、そういう人々からも、戦争批判というものは起こらず、日本の国策を肯定する意思表示しかなかったわけである。

何処の国の庶民も、政府や政治家の考えていることを十分知ったうえで生きているわけではない。

政府の決めた方針に忠実に生きようとするのが比較的穏健な国民の在り方である。

ところが我々の国策決定の段階では、国民から選出された政治家よりも、天皇からの勅命によって選ばれた軍人の方の発言権が強い、という状況では政治が国民から離れ、極めて非民主的な国策決定であったわけである。

あの当時の日本人にとって、天皇制というのは一体何であったのであろう。

戦争に敗けたからといって、500人もの将兵が自ら命を絶ち、玉音放送を聞いて玉砂利に正座して頭を垂れている我々先輩の姿というのは、天皇とどういう関わりを持っていたのであろう。

軍隊は確かに天皇の軍隊であったに違いない。

しかし、あの当時盛んに議論された「国体の護持」ということは、天皇陛下の肉体の護持ではなかったはずで、天皇陛下を含む、天皇の統治する土地を含めて、日本古来の領土とその上に生息する人間を含んだ言葉と、私は勝手に解釈しているが、軍隊は、「国体の護持」ということを自ら放棄していたわけである。

もし本当に軍隊が「国体の護持」と云うことを真剣に考えていたら、日本本土の空襲ということを科学的な手段と方法で阻止すべきであった。

その意味ではアメリカのB−29を迎撃できる戦闘機の開発を真剣に考え、運を天に任せるような作戦というものはありえないはずである。

「戦いは時の運」などという確立の低い作戦は、断固実施すべきではなかったはずである。「国体の護持」ということをそれこそ真剣に考えれば、アメリカとの戦争というものはありえなかったにちがいない。

既にアメリカとの戦争に足を踏みいれた時から、「国体の護持」という大義名分は空証文となっており、物事を決めるときの建前にすぎなかったわけである。

あの時代に天皇陛下を「現人神」と称して遥拝を強要した人々の心理というのは、今の次元で言えば、いい大人がエロ写真の陰毛を芸術かエロかと議論しているようなもので、実に大人げないというか、馬鹿というか、浅ましき人間の業である。  

そして、その当時のマスコミというのも、遥拝を強要する側に立っていたわけで、今日のマスコミが芸術かエロかの論議で反体制側につくのと同じ構図であり、当時のマスコミが体制ベッタリで、今日のマスコミが反体制ベッタリという構図も、あの終戦という価値観の転換を境にして起きてきた現象である。

日本のマスコミというのも、日本の他の産業と同様に過当競争を強いられており、強烈な個性というものを出しえず、術からく「右へ倣え」の姿勢から脱却できないでいる。

よって、あの時代においても、政府批判、軍部批判ということはありえず、最終的には、国威掲揚、戦意高揚という意味で、軍国主義に迎合する他なかったわけである。

しかし、問題は終戦、敗戦という時点における変わり身の早さである。

価値観の転換の早さが問題である。

長い歴史的な時間の経過とともに、次第次第に価値観が変化するというのなら不思議でも何でもないが、1945年、昭和20年8月15日という一日で、価値観が180度変わってしまうといういのはいかにも不節操、無節操ではなかろうか。

1994年、突然、社会党の村山政権が誕生したようなもので、これまでの歴史的な価値観が一夜にして180度変わる、ということはまともな精神の持ち主にとっては信じられないし、考えられないことである。   

 

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