あの時のマスコミ

 

マスコミの日和見

 

戦後に生きる我々の価値観の転換というのは、厳密に云えばマッカアサ−元帥が東京に進駐して5大改革を実施してからというのが本当であろう。

しかし、その心の準備というのが既にこの時点で完成していたわけである。

その前日まで、徹底交戦を唱え、500人もの将兵が敗戦を屈辱と感じ、自ら命を断っているのに庶民の側というのは、そういう意識も何もなく、昨日までの鬼蓄米英をきれいさっぱり忘れてしまっているわけである。

そして、ここでもマスコミ、特に新聞というのが、実におこがましく、知識人ぶってオピニオン・リ−ダ−よろしく、国民に自重を促しているわけである。 

今日、マスコミというのは新聞、テレビ、ラジオという媒体は、第4の権力と思い上がっているが、この時代のマスコミ、特に新聞というのは、実に日和見で、体制ベッタリ、軍ベッタリであったわけである。

もっとも、知識人の自由な意見というものを押さえ込む社会的風潮というものがあったことは承知しているが、沈黙も、ある意味で、そういう風潮を追認する手段であったわけである。

素直な考え方をすれば、この当時の日本人である以上、日本軍の勝ち戦というものは慶賀な事柄であることに替わりはないわけで、その意味で、日本軍が勝っている間は異論というものはありえないわけである。

真珠湾攻撃に成功して東京都民が提灯行列をしている時に、敢えて反戦的な発言をするという意味がないわけである。

言い換えれば、国民の潜在意識のなかに埋没してしまっているわけである。

つまり自分自身、知識人そのものが、国民感情に埋没して、事の善し悪し、世界からの視点、そういう結果になった経緯について、気が回らなかったわけである。

それが当時のマスコミの姿であったわけである。

当時の体制ベッタリのマスコミが、今日、第4の権力とまで思い上がるようになったのは、戦後の民主化のもとでの言論の自由、表現の自由という、彼らにとっては有り難い概念が、国民のコンセンサスを得るようになったからに他ならない。

彼らの言い分によると、国民の知る権利と報せる権利というのが、彼らの社会的存在理由であるかのように思い込んでいるが、彼らの過去が体制ベッタリで、軍国主義を吹聴し、国民を戦争に駆り立てる戦意高揚に大いに貢献した過去がある、ということを忘れてもらっては困る。

人間というのは、全く一人では生存できない生きもので、複数の人間が集まって社会というものを構築しなければ生きられないという以上、その複数の人間の集団が、集団ごとに隣り合わせに存在した場合、その境目のところでは多少のいさかいが起きるのは致し方ない。

そういう状況下では、情報の伝達が、いさかいの処理には有利に作用することは火を見るより明らかである。

マスコミというのは、そういう意味で、情報の伝達を使命とするものであるが、資本主義社会のマスコミ、特に新聞というのは、ニュ−ス・ペ−パ−という商品を国民に売って商売が成り立っている以上、その商品に付加価値を付けなければ商売が成り立たないわけである。

だから戦前、戦後を通じて、新聞紙上に必要最小限の情報以外に、時によっては軍国主義を吹聴し、戦意高揚、国威高揚の付帯記事を列挙し、時によっては反政府、反体制、共産主義を是認するかのような記事が掲載されるわけである。

要するに、商品として面白可笑しく脚色されるわけである。

これは日本の新聞ばかりでなく、世界中の新聞が同じような宿命を背負っているわけであるが、かっての共産主義国のように、独裁的な専制国家では、資本主義的な要因というのは極端に低減して、それこそ必要最小限の記事しか掲載されない事は論を待たない。

今日の新聞を始めとするマスコミ業界というのは、マス・コミニケ−ションと云う意味から程遠く、本来の情報の伝達という使命は、ほんの付足しで、その大部分は娯楽としての意味しか存在しない。

娯楽の中に、ほんの少し真の情報が散りばめられているというのが実情である。

 

戦後処理の困難さ

 

日本人が、日本に進駐してきたマッカアサ−元帥をどういう目で見ていたのかは不思議な感慨である。

片一方で、今まで天皇陛下万歳と叫んでいた我々の同胞は、あの日を境にしてマッカアサ−万歳となったわけである。

マッカアサ−がトル−マン大統領の逆鱗に触れて解任され、日本を離れる時の我々の同胞の惜別の情というものは不思議な光景である。

一言で云って、戦前、戦中、戦後の日本人の生活で、まだ町の中には焼け跡が残っている時代でも、戦後の生活が一番良かったわけである。

戦前、戦中に、日本の国策に則って海外、特に満州とか朝鮮にわたった人々の引き上げの問題が未解決の時代でも、焼け跡での我々同胞の生活は、苦しいことに替わりはないが、それでも発言の自由はあり、空襲警報に怯えることもなく、飢えの問題さえ解決できれば、戦後の生活の方が明らかに自由で朗らかであった。

平成7年2月19日、以前から注文しておいた毎日新聞が戦後50年を記念して発行した「戦後50年」という写真集が手元に届いた。

その見開きのペ−ジに掲載されている広島、長崎、東京、大阪の空襲の跡、つまり焼け跡の写真を見ると、実に見事に焼け払われている。

まさしく1月17日の阪神震災の瓦礫を処理した跡の写真と同じである。

この太平洋戦争、日本読みで大東亜戦争の後も、世界では戦争が絶えなかったわけである。特に、、アジアでは1948年、昭和23年の朝鮮戦争、1960年代のベトナム戦争などが行なわれたわけであるが、日本があの戦争でこうむった以上の被害というのはありえなかったように思う。

朝鮮でも、ベトナムでも、一つの都市が壊滅させられたという状況は存在しないと思う。人の命の数でも、日本がこうむった以上の被害というのはありえなかったように思う。

ベトナム戦争では、アメリカ兵がベトナム人に残虐な行為をしたというので世界中で話題になり、日本でも話題が沸騰し、映画にもなっているが、日本が戦中にB−29によって一つの都市が灰燼に化したという事実は如何に説明すべきであろうか?    

変な言い方であるが、朝鮮戦争にしろベトナム戦争にしろ、あの時代、対日戦以外のアメリカの戦争というのは、アメリカとして真剣に戦争をしていなかったのではないかと思う。逆の表現をすれば、アメリカは戦争相手が日本だったからこそ、一つの都市を灰と化しても良心の呵責に値しなかったわけである。

相手が日本人だったからこそ、あのように徹底的な殲滅作戦をしても、良心に訴える悔悟の念がなかったわけである。

その歴然たる証拠が、2発の原子爆弾の使用であったわけである。

原爆の使用というのは、戦争の相手が、先に、宣戦布告の前に、真珠湾攻撃を仕掛けた日本であったからこそ行なわれたわけである。

戦艦大和も、ゼロ式戦闘機も、自らでは作り得ない朝鮮の人々や、ベトナムの人々に対しては、アメリカという国は都市の焼却も原子爆弾の使用もしなかったわけである。

アメリカの国威を脅かす可能性のある日本だからこそ、アメリカは日本を徹底的に焦土とすることを決意したわけである。

昨年、アメリカのスミソニアン博物館で、原爆投下に使用されたB−29と、原子爆弾の模型の展示をめぐって世論が沸騰して話題になったが、アメリカ人にとって原子爆弾の使用というのは、戦争を終決させるための一つの選択であったことは間違いないことであろう。

あの爆弾で、100万のアメリカ人将兵の命が救われた、という彼らの論法もあながち無視するわけにはいかないと思う。

占領のため日本に進駐してきたアメリカ人にとって、日本の徹底交戦というのが一番の脅威であったことは否めない事実であろうと思う。

しかし、我々の側は、多少のトラブルはあったとしても比較的素直にアメリカの進駐を認めたわけである。

考えてみれば、あの焼け跡の写真を見れば、日本側にあれ以上の交戦の意欲も手段も方策も武器も存在し得なかったというのが事実ではなかろうか。

武器がないので竹槍で交戦しようとしたわけであるが、こういう非現実的な国策?実情から遊離した噴飯物のアイデア?行政サイドの指導に批判の声が出せなかった状況、批判をさせない体制側の圧力、その体制に迎合する国民の側の雰囲気というものが結局は戦争という泥沼から抜け出すことができなかった原因ではなかろうか。マッカアサ−というのは、最初、厚木飛行場に、例のパタ−ン号で来て、その後、横浜に進駐し、最後に東京に進駐したわけである。

その道中で、焼け跡を見たときの感想というものは一体どういうものであったのであろう。日本の占領政策を実施するにあたって、彼はどういう感想で以て、日本の現実、彼らの戦争の結果としての焼け跡を見て、如何なる感想を持ったのであろうか?

今、我々は、回想という時間を超越した視点で焼け跡という言葉を使っているが、一つの都市を灰燼に帰す、という事は本来人道上許されべきことではないはずである。

飛行機による空中からの無差別攻撃ということは、その下に生存している非戦闘員を含む老若男女の市民がいる、ということを無視した行為である。

国家総力戦だから致し方ないという論法は、差別意識そのものである。

アメリカの対日戦というのは、私の個人的見解では、差別意識以外の何物でもないというものであるが、原子爆弾の使用、B−29による都市の絨毯爆撃というのは、交戦相手が肌の黄色い黄色人種の日本人だからこそ、彼らの良心の呵責に引っ掛かるものがなかったわけである。

黄色人種の日本人だからこそ、この地球上から抹殺しても、彼らの良心は痛まないという論理ではなかったかと思う。

これは彼らの敵愾心が如何に強かったかということで、それに引き替え、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争の彼らの戦い方というのは遊びの延長のようなもので、真剣味が欠けていたわけである。

彼らがそういう心境に陥るのは、その時の交戦相手が、アメリカの国威とか権威に直接的にぶつかりあう可能性が薄いので、ある意味で油断していたわけである。

国家の総力をあげてまで戦う相手と認識し得ず、その分、強烈な敵愾心もわかず、相手国の領土から撤退するという意味で、対日戦とは異質の戦争をしていたわけである。

彼らが、対日戦に掛けては異常な敵愾心で戦ってきた背景には、日本がアメリカの国威や権威を脅かす存在であったからに他ならない。

それを如実に示したのが真珠湾攻撃であり、それが悪いことに宣戦布告の後になってしまったことが、彼らの敵愾心を異常に奮い立たせる原因を、我々の側で作ってしまったわけである。

しかし、戦後50年経って、今、あの時代の焼け跡の写真を眺めてみると、日本の戦後の復興というのも実に驚異である。

我々自身が驚くべきことであるので、当のアメリカ人が、今の日本を見れば我々以上に驚くに違いない。

日本に進駐してきたマッカアサ−の目に写るものといえば焼け跡しかなかったに違いない。終戦を、我々国民が、実感として感じたのは、天皇陛下とマッカアサ−元帥が並んだ写真ではなかったかと思う。

今まで神として崇めてきた天皇陛下が、連合軍極東最高司令官、進駐軍としての最高司令官のマッカアサ−の前ではいかにも貧相に見え、今までの国民感情からすれば、国辱ものである。

そして、翌年正月の天皇陛下の人間宣言ということは、我々の同胞が、戦争に敗けたという実感を肌で感じさせる事件であったに違いない。

そして、時がたつにしたがって、進駐軍による戦争犯罪人の摘発ということで、戦争責任という問題がクロ−ズ・アップされてくるわけであるが、この問題が大きくなれば、当然天皇の戦争責任という問題が浮上してくることは否めない。

そういう状況下で、天皇陛下がマッカアサ−元帥のもとに出向いたということは、ある意味で驚異的なことである。

その結果が例の写真となったわけであるが、その意味で、日本の天皇陛下、昭和天皇の行為というものは、世界の指導者の範となりうべき要因を含んだ行為だと思う。

過去の歴史では、又、世界の歴史において、政治の延長としての戦争に敗けた統治者というのは、祖国を捨て、亡命するのが常識であり、その際に私有財産というものを如何に上手に隠匿するか、又は持って逃げるというのが彼らの腐心するところである。

しかし、日本の天皇も、その時の内閣総理大臣鈴木貫太郎も、そういう言動は微塵もなかったわけである。

終戦、敗戦というときに、天皇陛下も政府の要人も、自らが生かさせてもらえるとは思っていなかったに違いない。

少なくとも、報復の処置ぐらいはあるものと、心の準備は怠りなくしていたものと思う。天皇陛下の免罪ということは、アメリカ側の占領方針の中であらかじめシナリオが出来ていたこととはいえ、その事実は我々の側では知る由もなく、天皇陛下がマッカアサ−の前に出頭するときの陛下の気持ちとしては、死を賭けたものであったにちがいない。

戦後の日本人として、進駐軍の実態がおぼろげながらも理解しえる段階になると、戦争に敗けるという事が、平和の象徴のように見えてきたのではないかと思う。

あの重苦しい灯火官制の幕や、嘘の大本営発表もなく、電灯というものを際限なく付けれるというのは、ある種の幸福感ではなかったかと思う。

しかし、その裏側には極めて切迫した食糧難があり、当然のこととして、空襲で焼かれた都市には住宅も不足していたわけで、人々の生活は楽なものではなかったに違いない。

戦時中は空襲警報に怯え、生死の境をさまよう恐怖がなくなった、という現実は、一縷の明かりとして人々に希望を持たせたに違いない。

戦時中の鬼蓄米英、撃ちてしやまん、というスロ−ガンが色褪せたことだと思う。

この日本の戦後処理の問題というのは実に大変なことであったに違いない。

昨今、アジア諸国は日本の戦後処理が不十分であった、というクレ−ムをつけているが、あの時代背景を考え合わせると、あの状況下で、よくもあれだけ出来たものと思う。 

食糧難、住宅難、復員軍人の問題、海外からの引き上げ者の問題、アジア諸国からの強制労働者の送還、その片一方で進駐軍、占領軍の要求に応えなければならない、という状況下での戦後処理である。

そして、主権は占領軍に握られて、日本政府としては一事が万事、連合軍最高司令官マッカアサ−、GHQにお伺いを立てなければいけない、という状況下での戦後処理である。日本から帝国軍人が消滅した途端に、歴史の正面に浮上してきたのが日本の官僚制度と、その官僚たちの手腕である。

日本の帝国軍人の組織というのも官僚機構そのものである。

軍官僚といわれるように、軍の上層部というのは、官僚そのものであったが、戦後の日本で、戦後処理をした官僚といのは、軍官僚とは異質の行政官僚であったわけである。

戦時中は、これら行政官僚の出番というのは薄かったが、敗戦ということで、軍人の出番がなくなると、これら行政官僚が手腕を振るうチャンスが生まれたわけである。

旧帝国軍人の資質が劣っていたから日本が敗けたというわけではなかろうが、軍人というのは、戦うことが職業であるわけで、そういう軍人に政治の主導権を渡したところに我々、日本人の過誤があったわけである。

それに引き替え、行政官僚というのは、もともとがコ−デイネイタ−の素養を持ち合わせているわけで、戦争以外の国難の処理には、その能力を十分に発揮したものと思う。

戦後、我々は、連合軍の占領の賜として、戦後民主主義というものをアメリカから移植されたわけであるが、その中での国政選挙で選出される国会議員というのは、選挙という洗礼を受けることはあっても、本人の学識経験を問われる、という意味の試験というのはありえないわけである。

その意味からすると、戦後の国会議員というのは、一種の人気投票で選出されるが、官僚というのは、国家公務員である以上、国家試験というものを通過してきているわけである。その意味では、戦前の官僚も、同じような経緯を踏んで官僚になっているわけで、その経緯の中で、人間に関する科学という意味で、軍人の受ける教育よりも、官僚が受けてきた教育の方が幅広い自由度があり、視野の広い観点でものを見、判断する事が出来ると思う。

 

教育改革について

 

今の人々には信じられない事かもしれないが、この終戦、敗戦の際に、我々が受けたアメリカン・デモクラシ−というものを一番顕在的な姿で継承しているのは自衛隊だと思う。特に、航空自衛隊ではないかと思う。

陸上自衛隊、海上自衛隊というのは、旧軍の残滓を引きずっているところがあるが、航空自衛隊というのは、旧軍の伝統というものが一切存在しない組織であるが故に、アメリカン・デモクラシ−という気風を一番色濃く残していると思う。

というのは、日米安保条約で、航空自衛隊というのは日常的にアメリカ空軍と接触しているわけで、その意味で、アメリカン・デモクラシ−の意味を一番継承している組織ではないかと思う。

その具体的な例として、レベルに合わせた学校で、業務上の教育というものを実施し、その評価の仕方が点数主義ではなく教育の効果を見るという発想にいかされていると思う。我々、日本人の学校というものに抱く概念というのは、点数の良い者が優秀であるという認識であるが、そういう概念を超越して、教育の効果を計るという目的でテストが実施される、という意味では我々にはない発想が生きていると思う。

この発想の違いは、日本の教育とアメリカの教育に関する発想の違いだと思う。

戦後の日本で、教育制度もすっかりアメリカナイズされたように我々は思いがちであるが、文部省の行なっている今日の学校制度というのは、やはり日本人が日本人に行なう教育の枠を逸脱する事無く旧態依然とした枠組みである。

ただ6・3・3制という表面の変化のみである。

これは戦後のGHQの命令を、日本の文部官僚が上手にスポイルして、GHQの要求す教育の民主化ということを、根本を変える事無く、表面のみ変えたようにGHQに見せ掛けて、その実、我々の基本的な概念まで変革することを回避した結果ではないかと想像する。確かに、戦後の教科書は、GHQの命令で、今までの教科書に墨を塗ってその場を切り抜けた、つまり民主教育をしている振りをしたわけである。

しかし、あの当時の状況を考え合わせれば、教育の基本にまでおよぶ概念の変革までは、我々の手におえなかったのではないかと思う。

しかし、今述べたように、航空自衛隊の業務に関する教育の課程では、教育の概念そのものがアメリカナイズされているわけである。

そこで行なわれるテストというのは、個人の適性を判断するものであったり、教育の効果を計るテストであったりで、点数の良い者を選抜する意味のものではない。

この発想の違いというのは、同じデモクラシ−という考え方のうえにたって考えると、大きな違いである。

我々はGHQから教育の民主化を命令されたにもかかわらず、表面のみの改革で、真の民主化ということはせずにおわってしまったわけである。

これが同じような民主主義のアメリカと、戦後の日本の教育の違い、となって表れているものと思う。

戦後50年たった時点で、日米双方とも教育の荒廃が起きていると思う。

日本の荒廃は初等教育に表れ、アメリカの荒廃は高等教育に表れていると思う。

見方によっては、これはあべこべになっているのかもしれない。

日本では高等教育が荒廃し、アメリカでは初等教育が荒れているのかもしれない。

終戦で、アメリカ軍が真っ先に心配したことは日本の神道の復活である。 

天皇制を頂点とする日本の神道が日本をあれほどまでに戦争に駆り立て、神風特攻隊として、自らの命を顧みることなく、アメリカの軍艦に飛び込んでくる日本の精神主義を恐れていたわけである。

占領で日本に進駐してきたアメリカの軍人にとって最も恐かったのは、そういう日本人の精神主義であったに違いない。

その精神主義の培養に、日本の教育が深く関わり合っている、と彼らは思い込んでいたものと思う。

あの時点で、日本の教育というのは、改革の時期に到達していたと思う。

極端な国粋主義の吹聴とか、軍国主義の鼓舞という事が、学校の教育の現場で行なわれるという実態は、いかにも教育の荒廃そのものである。

今時のように、教育の荒廃という場合、生徒の側の荒廃ならまだ可愛い面があるが、教育をする側が、軍国主義を宣伝慰撫するような教育というのは、行政サイドの改革の時期にきていたわけである。

その背景には、軍人の専制政治ということが横たわっていた、という状況は理解し得ないでもないが、そういう状況に、戦前の文部官僚が何一つ抵抗しなかった、というとろに文部官僚のひ弱な面があったわけである。

ということは、何度も繰り返すが、国民の側に、戦争に協力することが国策遂行に貢献することである、という今の価値観で言えば間違った概念があったわけである。

そういう概念で固まった文部官僚が、GHQの「民主化教育にせよ」という改革の司令を検討吟味した結果、表面上の制度の改革のみで、民主教育の中身の概念の改革にまで考えが至らなかったことは致し方ないと思う。

第一、彼らにしてみても、アメリカの教育がどういうものであるのか、というとがわからない以上、それ以上の改革はありえなかったに違いない。

いきおい目に見えるところの改革で、その場を糊塗したわけである。

それまでの我々の教育というものに対する概念というのは、先生という一段偉い人が、生徒に知識を授けるという概念であった。

そしてテストというものは、優秀な成績をとったものを選抜し、他を振るい落とすための手段であったわけである。

しかし、アメリカで行なわれている教育というのは、生徒に知識を如何に上手に分け与えられるか、という教える側の問題であり、教えるテクニックの問題であったわけである。これは理にかなった考え方であると思う。

教えを受ける側は、知らないから教えてもらいにくる訳で、そういう子供を前にして、点数の悪い生徒を抱える、ということは教える側の責任の問題となるのが道理であると思う。子供の知能が千差万別である、ということは普遍的なことで、物覚えの早い子供もいれば、遅い子供のいることは世の常である。

日本の古来の教育というのは、物覚えの悪い子供は切り捨てて、早い子供を引き上げるというシステムになっていたわけである。

戦前のように、子供のうちでも全部が学校にいかない時代ならば、これでも通用したかもしれないが、時代が下がって、児童の全員がなにかしらの学校にいく時代になると、当然落ちこぼれの問題が生じてくるわけである。我が民族の普遍的な性癖として、付和雷同という気風がある。

そして、その不和雷同を、国家が率先して推進するという面がある。

教育の問題にもそれが如実に表れているわけで、戦前の日本の教育制度には、まだ個人の能力と家計の状況に合わせて選択の幅が広かったが、戦後の我々は、GHQの教育改革を真に受けて、それこそ文字どおり猫も杓子も高等教育を望むようになった。

だから一部の革新的な人々が唱えているような、高校全入という非現実的なスロ−ガンが罷り通るようになったわけである。

人は何人であろうとも高校を卒業すべし、という考え方は、人間の尊厳を無視した考え方である。

それは勉強の嫌いな子供、学校教育についていけない子供の人権を無視した暴論である。その考え方の裏には、今時高校を卒業していない人間は人間ではない、という差別意識と裏腹の考え方である。

人は高校など卒業していなくても、立派に社会に貢献することは出来る、という考え方を否定しているにすぎない。

中学生の全員を高校に入学させることが教育の民主化である、と勘違いしているわけである。

ここに義務教育というものに対する認識と、教育の民主化の違いが真に理解されていない理由が潜んでいるわけである。

義務教育の本質は、あくまでも読み、書き、算盤の段階でいいわけで、これが十分浸透していれば、国家としての知的レベルというのはかなり高水準で維持されると思う。

中学生の全員を高等学校に入学させる、という考え方は世間のム−ドをストレ−トに反映した付和雷同的な主張にすぎない。

高学歴社会というものが、一種のム−ド的な雰囲気の中で世間に浸透し、それを先取りしたつもりで、一部の進歩的な人々が、高校全入という主張をしているにすぎないと思う。今の日本が高学歴社会になった、というのは基本的に日本が豊かになった証拠であると同時に、戦前の日本が軍国主義一色で塗りつぶさられたのと同じ社会的要因の結果だと思う。戦前の日本男子が、ことごとく軍人、特に職業軍人に憧れたのと同じで、戦後の日本というのは、軍人の社会がビジネスマンの社会となり、その中で立身出世に一番手取り早い手段は、高学歴でビジネス界に参入することである。

我々、日本人というのは、そういう嗅覚を民衆レベル、大衆レベルで敏感に感じとることが出来る民族で、今、世間で何が一番注目を集め、身を処すのに有利か、という展望をかぎとるわけで、その表れが戦前の軍国主義であり、戦後の経済復興を超越した高度経済成長である。

中学生の全員を高等学校に入学させよ、という主張は、こうした潜在的な潮流に便乗した主張であり、人間の基本的要因を無視した主張である。

人にはそれぞれに基本的な生れ乍らの生き方があり、思考力、知的好奇心、判断力、記憶力等、差があるわけで、それを全く画一的に総括して、人たるもの全員高校を卒業すべきである、という論調は暴論以外のなにものでもない。

しかし、こういう暴論をも世間に発表できる、という土壌はマッカアサ−が行なった改革、占領政策の結果であることは疑う余地がない。

我々は、マッカアサ−と、彼の率いるGHQによって、あらゆる価値観を引っ繰り返されたが、その中でも、教育の民主化ということが今日の社会にも大きく影響している一つである。

しかし、我々の民主主義と云うものは、あくまでも外圧によって強制された感が拭い去れないわけで、真の民主主義とはかなり違った、日本式の民主主義になってしまっている。教育の問題でも、全員を高校に入学させることが教育の民主化である、という風に思い違いをしているわけで、民主主義というものと平等主義というものが混乱してしまっていると思う。     

全員を高校に入学させる、という発想は平等主義に他ならない。

何でも平等にすればそれが民主化である、という考え方は根本的に間違っている。

これは人間の個性というものを無視した、人権蹂躙に値するもので、真の民主主義からは程遠いものである。

真の民主主義というのは、決して、美しものでもなければ、綺麗事ですまされるものでもないと思う。

民主主義の多数決原理というものが国民のコンセンサスであるとした場合、先の太平洋戦争、大東亜戦争というものは、国民のコンセンサスを軍部が先取りし、実践した、と解釈しなければならなくなる。

教育の民主化という場合、教育、子供を育てる、子供に知育を与えるという場合、理想とする手段、方法というものはありえないと思う。

この地球上に生息する諸民族は、それぞれに民族独自の方法、手段を試行錯誤しながら実践しているのであって、これが一番優れている、というものは存在していないのではないかと思う。

その意味で、日本の戦前の教育制度というものもそれなりに意義はあったに違いない。

マッカアサ−とGHQが改革しようとした日本の教育の問題点は、その当時の日本の教育が、軍国主義と直結していたところに危機感を抱いていたものと思う。

彼らが戦時中に最も恐れたのは、日本の特攻隊の死を顧みない突撃精神であったわけで、その根源が、日本の教育の中にあったと解釈して、教育の改革ということが最大の問題としてクロ−ズ・アップしていたものと想像する。

日本の特攻隊の死を顧みない突撃精神というのは、教育ばかりでなく、日本神道の絡みでもあったわけであるが、彼らは、その当時の日本人の精神構造をよく研究していたものと感心する。

まさしく彼らの指摘した取りのことが我々、日本人の中で起きていたわけである。

この当時の日本人の精神構造そのものが、我々が、人の扇動に乗りやすく、自らの思考力を働かせる事無く、人の云うことに易々とだまされる、いわば付和雷同的な精神構造の典型である。      

 

教育問題

 

教育の本質

 

我々が真の民主主義というものを真に理解し得ないのは、民主主義というものが、所詮、外来の考え方であるところにその根源があると思う。

民主主義というものが、仏教の伝来と同じように、または漢字の伝来と同じように、今日、日本で普遍的に考えられてきていると思っているものでも、その根源が外国に根ざしているところに真の理解がえられない理由があると思う。

特に、今日の我々の規範となっている資本主義を標榜する一方で、民主主義というのは人間の「業」の部分を内在している、という現実を無視して、理想論の中での民主主義であるので、理念と現実のギャップが大きすぎるわけである。

戦後の教育の民主化の中で、一番大きな考え方の変化というのは、教育を受ける側の自主性の尊重ということだと思う。

小学校の段階から、この自主性の尊重ということで、活発に意見を云うことが求められてきたわけであるが、これは裏を返せば、我儘な主張を尊重するということであり、我々が古来美徳としてきたところの、謙譲の精神、控えめな態度、と云うものを真っ向から否定するものである。

でしゃばりのおっちょこちょいが、大きな声で騒げば、それが評価されるということである。いかにも付け刃的な思考である。

世の中で、本物が姿を消して、偽物が蔓延すれば、その偽物が本物と認知されかねないわけである。

それが今日、戦後50年を経た日本の民主主義の本当の姿ではないかと思う。

戦後の教育の民主化で強調された自主性ということをもう少し掘り下げて考える必要があるのではなかろうか?

もともと初等教育をはじめ、高等教育においても、教育とか学校という概念のもとでは、知らないことを教える、つまり知識の切り売りが基本であるはずである。

教える側と教えられる側、というのは歴然と対比した立場であるはずである。

先生という立場は、教える立場に撤しなければならないし、生徒というのは、教えられる立場、知識を授けられる立場であるはずである。

アメリカ人、占領時代のアメリカにおける教育の基本をなしていた考え方というのは、初等教育の段階では、先生の教えるテクニックとして子供に自由に発言させて、子供同志の会話の中から、先に習得した生徒が遅れて習得しようとする生徒に影響を与えることを期待した、子供同志の自主的発言を尊重したものであって、その発言の後ろ盾には、成熟した大人の監視のもとでの自由発言、という意味がこめられているに違いない。

ところが我々は、その自由発言の部分のみ見て、子供の自主性を重んじなければならないと、早とちりしたわけである。

世界中に生きているあらゆる種族、民族でも、教育の問題というのは、次世代を担う大事な問題である、という認識は共通しているわけで、それ故に、各民族で、それぞれに知恵を絞っているわけである。

アメリカの教育の荒廃ということは、日本より早い時期に到来したわけである。

どこの主権国家でも、教育が荒廃するということは国力が直接的に反映していると思う。国力の衰退が、国民の意欲を喪失し、それが教育現場に跳ね返ってくるわけである。

そして、生徒はその被害者であり、先生の堕落がそれを助長するわけである。

今日の日本での教育現場での最大の課題は、いじめの問題だと思うが、これを教育の問題としてとらえるところがすでに異質である。

人間社会が人間の集団とすれば、人間の集団では、いじめの問題というのはついて回るわけで、それを素直に受け入れようとしないところに頭でっかちな人間像が浮かんでくるわけである。

いじめで中学生が自殺する、世間もマスコミも、これを教育の問題として取り上げようとしているが、これは教育の問題ではなく、人の生き方の問題である。

ある意味で、その人の運命であり、その中学生の寿命であるわけである。

人がいじめに会うたびに死んでいたら、人の命などいくつあっても足りないわけである。今、生を受けている人々は、そのいじめを自分の力でいくつも乗り越えて生きてきた人々で、いじめという云い方をするから教育の問題にすり変わるのであって、人が乗り越えるべき人生のハ−ドルだとすれば、これは個人の問題にすり変わるわけである。

いじめを克服する、というのも人生の大きなハ−ドルであるはずである。

こういう問題がクロ−ズ・アップされるようになった背景というのは、いわゆる平等主義で、人と争うことを否定したところにあると思う。

一つ殴られたら殴り返す、という人間としての基本的人権を「悪」としたところに、中学生の自殺の問題が潜んでいると思う。

人に殴られても殴り返すことが「悪」だと教えられた中学生は、自分の忿懣を爆発させるところを失うわけで、それが内面化して、自殺という自己逃避に陥るものと思う。

戦後の日本の教育で、一番問題なのは、義務教育の段階から、生徒の自主性を尊重するという大義名分のもとに、管理教育を否定するところにあると思う。

尤も、今日の管理教育というのが別の目的から行なわれているところに問題があるが、初等教育に対して、一定の管理が必要である、という認識には一部の知識人というのは強行に反対している。

初等教育の段階で、生徒の側に自主性を認める、というのはいささか民主主義というものをはき違えた考え方だと思う。 

人間の形をしているから幼児も死にかけの老人も一様に基本的人権がある、という考え方は基本的に間違っていると思う。

だから殺してもいい、という極端な思考は論外であるが、幼児につぐ児童、未成年者というのは、成熟した大人の保護のもとで、その監視のもとでの自主性ということを考えなければならないと思う。

いじめの問題で、先生が生徒と一緒になって葬式ごっこの仲間に入っていたというニュ−スがあったが、当時のマスコミというのは、葬式ごっこの部分に焦点を合わせて糾弾していた。

生徒の発案でそのゲ−ムが行なわれていてすれば、その事自体は、戦後の教育理念からすればそう的外れなことではないと思う。

問題があるとすれば、ゲ−ム感覚の授業の方がよほど問題である。

だからといって、小学生や中学生に、謹厳そのもののような授業をしたところで、生徒がついてこないのは火を見るより明らかであり、ゲ−ムを通しての教育というものは認めるとしても、その後には、一般常識に則った成熟した大人の監視が存在する、ということが重要なことである。 

先生が生徒と同じ知的レベルに下がってしまってはならないということである。

戦後の日本では、資本主義的自由主義体制のもとで、全く自由な環境の中での理想的な教育というものは、基本的に落第と飛び級を認めたエリ−ト教育こそが理想であると思う。その意味で、日本の戦後の教育というのは、とびきりのエリ−トを養成するよりも、底辺のレベル・アップを図る、という趣旨に撤していたように思う。まさに平等主義である。それでいて、片一方で個性の尊重という矛盾したことを唱えているわけである。

生徒の個性を尊重しようとしたら、優秀な生徒はどんどん先に進ませなければならないのに、その方はお座成りにして、成績の悪い生徒に集中的に知識を切り売りし、記憶させようとする、ところに大きな矛盾があると思う。

尤も、優秀な生徒は、学校サイドの教えを待つまでもなく、自ら自分の道を開拓する、ということは言えるので、その方からの問題提起はないに等しいわけである。

しかし、教育費の公平なる負担、という平等主義の観点からすれば、優秀な生徒は軽く、出来の悪い生徒は、教育費というものがより多く掛かっているわけである。

資本主義体制のもとで、自由競争の観点にたてば、教育も自由競争であって然るべきである。

優秀な生徒はどんどん先に進み、遅れた子供は、それにふさわしい教育を受けることが出来る、というのが本当の意味での教育の民主化ではなかろうか?

 

教育の概念の違い

 

教育の問題を考えるとき、戦前、戦中の記録映画とか、テレビの画面でみる学徒出陣の映像は今日どうのように考察すればいいのであろう。

昭和18年、大学や旧制高等学校、専門学校の生徒に対する徴兵猶予が停止され、明治神宮外苑で行なわれた出陣学徒の壮行会で、雨の中を、学生服にゲ−トルを巻いて行進する大学生に、東条英機が檄を飛ばしている映像は、当時の国民の感情に強く訴えるものがあったものと思う。

あの時、行進に参加した学生は、心の内に何を秘めていたのであろうか?

あの映像に出てくる顔というのは、今の日本人からは消え失せた如何にも凛凛しく、逞しく、国を思う心がにじみ出ているように見受けられる。

今、あの映像を見るかぎり、あの当時の大学生が、真剣にアメリカとの戦争に勝とう、と思って参戦したものと思う。

戦後「きけわだつみの声」という反戦の趣旨の本が出版されたが、あれはこういう学徒出陣の手記を列記したものであるが、それが昨今、あの手記は、反戦の部分のみ抜粋したものである、という意味の発言があった。

つまり、あの手記の本にならなかった部分には、時の国家、体制側に迎合した部分が隠されていたというものである。

庶民としての学生が、時の国家、その時の体制に迎合する、ということはある意味では民族の尊厳にかかわることで、常に反体制が立派な事であるとは限らないと思う。 

第2次世界大戦では、日本の学生のみが国家に貢献してわけではなく、アメリカでも、イギリスでも、ドイツでも、およそ主権国家たる国民は、それぞれの国家に忠誠を尽くしたわけである。

主権国家の国民たるもの、それが当然の義務であったわけで、日本人だけが特別に悪かったわけではない。

しかし、戦後の民主教育というものは、国民が国家に対して滅私奉公することは「悪」である、という間違った考えを植え付けようと画策したわけである。

しかし、最高学府で、思考力も判断力も人並み以上であるべきその当時の大学生が、嬉々として戦場に向う、という姿は私の受けた戦後教育では理解できないものがある。

そういう印象からして、私は先の太平洋戦争、大東亜戦争というのは、当時の日本国民の総意によって、それを軍部が代行したのではないか、と想像する所以である。

政治と国民が遊離していた、という事実は否めないが、その遊離する過程において、日本人の庶民、一般大衆は、軍部が、我々の願望を満たしてくれるのでないか、という希望に基づいて、軍部の独断専行を事後承認するのにやぶさかでなかったのではないかと思う。その過程において、文部省が軍の要望を受け入れる、青少年を軍国少年にしたてあげる、軍国主義に基づいて、天皇を頂点とする日本神道を強制する、という過程があったのではないかと思う。

我々が安易に軍国主義に陥ったのは、突き詰めれば、日本が貧しく、封建制度の意向から真に脱却しえず、近代化と封建制度の狭間に位置していたからだと思う。

明治憲法というのは、その前の封建制度を根本から否定するものではなく、その封建制度の全面否定というのは、マッカアサ−とGHQによる占領政策になってからの改革で初めて日本は封建制から脱却したわけである。 

戦後教育の最大の効果というのは、日本の封建制度を打ち破ったという事ではないかと思う。

日本の封建制度というのは、個人の尊重よりも、家の存続を尊重するという面があったわけで、その家の概念を壊したのが他でもない戦後民主主義であったわけである。

家の概念を打ち破ることと、真の民主主義とは基本的な部分で大いに違うわけである。

その最大の相異点というのが、個人と家の関係であろうと思う。

戦後の日本の民主主義というのは、この個人の尊重という点が、今まで家を中心に考えられてきた生活信条から脱却した点であろうと思う。

しかし、日本においては、封建制の打破という思考も、自らの民族の力で成し得たわけではなく、アメリカ占領軍の押しつけがましい政策によってそれが成されたわけで、その意味で、日本の戦後民主主義というものは、いわば接木されたようなものである。

よって、元の木の部分を引きずって今日に至っているわけである。

そこに日本の民主主義がいびつになり、時には平等主義に成り代わってしまう不思議さが潜んでいるわけである。

戦前、戦中の日本社会が、封建思想に凝り固まったままで近代化という西洋の真似事に現つを抜かしたところに敗戦という起死回生のチャンスが来たわけである。

日本の家制度というのも、封建時代にはそれなりの整合性はあったわけで、社会の生産基盤が農業であるかぎり、封建制度というのは、農業を継続するための合理性に富んでいたわけである。

つまりは、農業の生産性を維持するためには、長男にのみ財産を継承し、私有財産を子供の数に分配することは、農業の生産性にとってはマイナスの要因であったわけである。

戦後、我々が高度経済成長を経ていくらか豊かになると、農家の次男三男は、近代工業に従事することにより、また農業の近代化により、農業に人手がいらなくなったので、家制度よりも、個人の尊重というか、個人の価値観が見なおされたわけである。

これは事象が逆になっているのかもしれない。

つまり、戦後の貧困の中で、農家が次男三男を養うことが出来ないので、その人々が都会に流入して、高度経済成長を支えたというべきかもしれない。

農家の次男三男が家を出る、ということが個人の尊重というデモクラシ−の本質を促したのかもしれない。

それは同時に、家制度の崩壊という現象であり、民主主義に一歩近付いた、ということかもしれない。

戦後の教育現場では、この民主化と平等主義が複雑に入り交じって、大きな混乱を呈したわけである。

敗戦という一大パニックで、価値観が混乱した事は否めないが、庶民レベルで眺めてみれば、マッカアサ−やGHQが大きな教育改革を実施した、という面と同時に、農家の次男三男の離農という問題も影の要因になっていたものと思う。

戦前、戦中の封建主義の時代には、一家の主人というのが絶大な権力を持っていたわけで、その頂点に天皇陛下が存在したわけである。

いきおい、学校教育というのも、その範疇で教育が行なわれ、親に孝行することが天皇陛下にも仕える事である、という天皇制と日本神道の合体した教育が行なわれたわけで、その中には個人の尊重ということは片鱗もなかったわけである。

戦後の教育で一番の過誤は、個人の尊重という場合、子供も一人前の個人と定義したところに大きな矛盾があるわけである。

初等教育を受けているような幼児、ないしは児童にまで、一人前の大人と同じ人権があると、誤認して教育をしようとしたところに大きな過ちが潜んでいたものと思う。

だから、子供の自主性を重んじよ、という一見耳障りのいい発言が一世を風靡するようなことが起きたわけである。

今日、学校現場でいじめの問題が起きると、学校に非難が集中するが、いじめの根源は、いじめをする家庭の中の親の教え、躾の問題である。

第一、いじめを受ける子供の親というのも、幼少の頃にはいじめを受けていたかも知れないのに、自分の子供がいじめを受けていることを親に言わなかった、と悔悟しているが、そんなことは人の子であってみれば当然のことである。

小中学校の子供の問題だと、何もかもが学校の責任に転嫁する風潮があるが、この頃の子供の問題というのは、すべからく親の責任である。

学校側としては、親の責任である、ということはっきり言う必要があると思う。

学校側の教育がすべていいとは言いきれないが、学校の責任と、親の責任をもう少しはっきりと区別して論評をすべきである。

子供と大人の境界線をどの時期に線引きするか、という問題は色々論議もあろうかと思うが、一応常識的には18才で選挙権を持つようになったら大人とみなしていいかと思う。それまでの子供のトラブルは、すべてその両親の教育や躾の問題とみなしていいと思う。戦後の民主教育というのは、この親の責任をすべて学校に負わせようとしている。

その根源は、戦後の学校教育ではPTAの存在にあると思う。

生徒と、先生と、両親というのは密接に関連していることは非の打ち所がないが、学校教育に、学校の授業に両親の存在というのは不合理である。

人間形成という意味の教育には、この3者がお互いに関連しているという論理は整合性があるが、学校の教育現場に、両親の存在というのは不必要である。

PTAの存在というのも、その対象が幼稚園のようなものなら意義があるが、小学校や中学校の生徒にまで、教育について親の介入を認めるということは、親としての教育とか躾の問題をも学校に負担させようという発想である。

だから学校の外での問題まで学校側に責任を負え、という発想につながるわけである。

子供を育てる、ということは親だけでは、社会人としての、また個人の能力を引き出す面において不十分であり、どうしても学校という公共施設での教育ということが必要であるが、学校で教えるべきことと、親として当然教えるべき事、というのははっきりと分別することが必要である。

今、問題となっているのは、当然、親として教えておくべきことまで学校に肩代わりさせよう、とするところに公共教育の大きな矛盾があるわけである。

いじめの問題で学校サイドが右往左往するのは、教育委員会の存在が気に掛かるからであろうと思うが、この教育委員会という制度も、GHQの占領政策の置土産である。

戦前の文部省の教育には、この制度がなかったが故に、軍国主義の吹聴に教育の場が利用されたことの反省から生まれたものと推察するが、これもアメリカの制度のコピ−そのものだと思う。

 

50年という時の経過

 

アメリカの制度をそのまま日本に導入しても、民主主義の根源が大きく違うので、そのままでは日本では機能しないわけである。

故に日本的に改良が加えられるわけであるが、それがまた一段と異質な民主主義というものを作り出すわけである。

アメリカの自治というのは、文字通り、自ら住民が政治を行なう、という趣旨で出来ているわけである。

よって教育についても、特に公共教育については、地域の住民がその教育の規範を決め、その規範に則って、我々は地域住民にこういう公共教育を提供しますというものである。その規範の中には、学校で教える内容に関するものから、学校で教える部分と、家庭で躾ける部分の使い分けの部分も当然あると思う。

よって、自分の住む州と、隣の州では教育内容が違うということはある思う。

その違いは、教育委員会の考え方の違いであるはずである。

日本の教育委員会の制度も、基本的にはアメリカの制度を模倣、ないしはコピ−したものであるので一応各県単位になっている。

そして初期の頃は、この委員の選定が公選であったものが後には任命制になった。

つまり、民主主義的に一歩後退したわけである。

我々、日本人というのは、自らで作り上げた民主主義とか自主という概念が希薄である。アメリカのように、豊かな国土に渡り移って国家を作る、という経験を持たない我々は、古来より、綿々と、長老という先住者の支配とか統制を受けて民族が生存し続けたわけで、自治という観念、概念というものが不得手である。

自らの教育を、自らの発想でコントロ−ルせよ、と言われてもそう方策が見当らなかったに違いない。

だから制度のみ、言われるままに教育委員会を作り、6・3・3制の学校制度を作ったものの、その運用に至っては試行錯誤の連続であったに違いない。

それを当局側に立って眺めれば、教育委員会なるものも文部省の言うがままの教育方針を追従するのが一番無難な生き方であったわけである。

このお上の言うことに黙って従うことが、文部省の国家管理を助長し、軍国主義を吹聴した根源であることに気が付いた一部の人々は、ここで少々の抵抗を試みた結果が、各県で多少の教育方針の違い、となって今日に至っているわけである。

今日、学校側の一挙手一投足を、教育委員会が生殺与奪の権利を握っているような感がある。

アメリカの制度をそのまま真似ても、日本にはアメリカよりも長い大和民族の歴史があるわけで、システムのみ導入しても、それがそのまま通用しないわである。

よって、日本流に運用するわけであるが、これを教育に限って言えば、文部省の廃止ということになってしまう。

教育に関して、各県の教育委員会が自信と情熱をもって教育に専念すれば、文部省という国家機関は不要となるわけである。

こうした、真の意味での独立独歩のデモクラシ−、住民の自治、というのは我が国土の住民には馴染まないと思う。

戦前の日本人も、戦後の日本人も同じ大和民族である。

戦前の日本人が教育の場では国家による統制に翻弄された結果が敗戦という一大エポックを招いたにもかかわらず、我々は、国家という概念なしでは生きてはいられないわけである。 

戦前は教科書も一科目について国定教科書は一種類しかなかったが、戦後は数種類の中から教育委員会が選定したものを選択するというシステムになり、ある意味では民主化ということが言えるが、それよりも前に、出版業界の救済処置のようなものである。

戦前の日本経済というのは、軍国主義のもとで産業全般が軍需産業に傾斜していたが、戦後は軍需産業というものが皆無になったわけで、民間の企業活動を支援するためには、この民主化という方策が産業界に活路を付けたようなものである。

その意味で、民主化が産業復興に貢献しているという構図が成り立っているように思う。敗戦直後のマッカアサ−と彼のGHQによる日本の民主化というのは、教育ばかりでなく、日本の社会制度のあらゆる部分にまで至っているわけで、教育の民主化というのは、その一環にすぎない。

その民主化の恩恵を一番受けたのは他ならぬ日本共産党と共産主義者である。

言論の自由と、思想・信条の自由と、教育の民主化により、共産主義者と、その同調者というのは、戦後社会的生存権を与えられたわけで、暴力を肯定し、ク−デタ−で社会改革を起こそう、という政党が他の政党とともに生存権を与えられたわけである。

そして、これらの思想が教育現場にも浸透してきたということである。

その結果として、教育の現場が、労働組合として労働争議の場となったことである。

この時代の教職員というのは、公務員として薄給であったことは否めないが、公務員というのが高級を取る時代の方が本当は間違っていると思う。

しかし、今日では公務員の方が民間企業よりも高級を取る時代になっている。

そこに戦後50年の時代の変化を感じ、官民格差の是正が叫ばれる所以である。

戦後の諸改革で、共産党や共産主義者が、他の民主的なまたは穏健な思考をする政党とともに市民権を与えられると、戦前の反動として、これらに理解を示すことが進歩的であるという一種の錯覚が世間を風靡し、我々の民族の基本的民族性であるところの付和雷同により、猫も杓子も擬似共産主義者になってしまったわけである。 

これは戦前の我々がことごとく軍国主義者となり鬼蓄米英撃ちてしやまん、と叫んでいたのと同じ現象である。

大衆というのは、事ほど左様に頼りない存在である事を我々は心して覚えておくべきである。

これが国民のコンセンサスの実態であることを肝に命じて忘れてはならないと思う。封建制度とその時代の考え方が、敗戦という一大パニックでまったく価値観を失い、新しい民主主義という価値観に置き変わったとき、人々の精神的混乱は計り知れないものがあったろうと想像できるが、こういう状況下では、共産主義というものが地盤を築く最良の環境であったことは否定できない。

人々は、食うものもなく、住むところもなく、職業もなく、ただ日々の糊塗をしのぐが精一杯の時代に、理念や、理想や、希望を語ったところで何の足しにもならなかったことは頷ける。

しかし、我々の諸兄は、そういう状況から立ち上がったわけで、その結果として今日があるわけである。

戦後の復興というのは、私自身の成長と軌を一つにしているわけで、幼少の頃、小牧の小便臭い映画館で見たニュ−ス・フイルムに写しだされた戦災孤児の姿を見て、自分と同じ年ごろの子供がああして街頭で寝起きしているのを見るにつけ、自分の境遇が何とも幸福に感じられたものである。

決して豊かな生活をしていたわけではないが、少なくとも私には、両親と住む家があったわけである。

そんなことを子供心にも感じた時代があったわけであるが、今、毎日新聞が発行した「戦後50年」という写真集を見ると、その頃の状況が写しだされている。

あの戦災孤児というのは、その後どういう人生を送ったのであろう。

それを知りたいと思って、図書館からそれに関連した手記を借りだして読んでみたが、手記というのは、所詮、手記の域を出ておらず苦労話の連続であり、私に直接感動を与えるものは少なかった。

考えてみれば、今生きている大人、少なくとも、私の世代以上の大人というのは、太平楽に生きてきた人はいないわけで、生まれて50年以上も生きながらえれば、苦労話の一つや二つは抱えているわけである。

私自身の人生を記すだけでも、それなりに変化に富んだ物語り、というものは出来上がるわけで、今に生きている人々、特に、私の世代以上に生きた人々は、それぞれが波瀾万丈に富んだ人生を歩んできたに違いない。

敗戦後50年足らずにして、我々の国は世界に冠たる経済大国になったが、それは、国民一人一人の波瀾万丈の人生の集大成があったわけである。

戦後の我々は、武力行使による国際摩擦の解決という手段を一切放棄することにより、ただただ生きんがために、食わんがために、日夜自分の仕事に精を出すことにより、期せずして経済大国になってしまったわけである。

しかし、戦後50年という時間の経過からして、ここらで自分自身の世界における立場、というものを深く反省する時期に至っていることは確かである。

50年前の、敗戦直後の日本というのは、軍事力はもとより経済力も無に等しかった。

地球上では、ただの4つの島からなる東アジアの小さな領域にすぎなかった。

戦勝国のアメリカは、この太平洋に浮かぶ小さな島を、反共の砦として、不沈空母として、守ることに自信と活力に満ちていた。

しかし、50年、半世紀という時間の経過とともに、この小さな4つの島は、世界経済に大きな影響力を示すようになってきた。

我々は、地球上のあちらこちらで小さな紛争が絶え間なく続いているにもかかわらず、経済のみに専心していれば、この地球上にトラブルは起きないと思い込んでいた。

ところが、今では、我々の知らないうちに、日本が地球規模の経済に大きく関わり合っていることを知らなければならない。

我々は、日本の経済だけを心配していれ済む時代を通過してしまって、今では、我々の経済活動が、世界に、または地球規模で、どういう結果をもたらすのか、ということまで考慮しなければならないほど日本の経済力が大きくなったことを悟らなければならない。

我々は、経済活動で全世界を制覇するとか、地球規模で全世界に経済戦争をする、などという野心は毛頭ないわけであるが、これも我々の思い込みで、日本以外には、そのことを真剣に危惧している人々もいるわけである。

我々は、戦争を放棄した以上、経済活動で生きていかなければならない、と思い込んでいるが、この考え方そのものが我々の思い込みに他ならない。

地球規模で世界に住む人々のことを考えると、その人たちにとっては、日本が普通の国になって、戦争をも容認して、時と場合によっては、彼らと共に戦場に赴くことを期待している人々の存在を知るべきである。

日本は戦争を放棄しているので一切の武力行使には加担する気はありません、では通用しないし、世界が日本に期待するのは、経済力に応じた武力行使のリスクを負う、という気概であって、経済力にかまけて世界の富を買い漁りる事ではないということである。

戦後50年経って、日本には貿易の黒字が貯まって貯まったしょうがない。

それは円の高騰と云うことも大きな要因である。

終戦直後には1ドル360円であったものが、今では1ドル80円ぐらいで上下しているわけである。

ドルの値段が5倍になったわけである。

これは日本の国内産業、特に輸出産業にとっては大きな痛手のはずであるが、日本の企業は、こういう試練を生産性の合理化でいとも簡単に克服してしまったわけである。

本来ならば、日本の輸出産業は、値段をそれに合わせてアップしなければならないのに、合理化でその円高の部分を吸収してしまうか、生産拠点をアジア等に移してコスト・ダウンを計ることによって、こうした試練を克服してしまったわけである。

日本が貿易立国でやっていかれるのも、世界秩序というものが、自由貿易を是認する、という安定した状況下で機能しているわけで、その安定が崩れた場合、世界が日本に対して経済力に相応したリスクを要求してくることは火を見るより明らかである。

 

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