政治の腐敗

 

抑圧からの開放

 

戦後の改革の中で特筆すべき事は、日本共産党が進駐軍によって開放されたことは周知の事実であるが、それと前後して、日本の政党が復活したことである。

政党の復活という事は、戦後いち早く民主化の道を歩んだことになるわけであるが、問題は、戦前、大政翼賛会に収斂された政党が、何故に、戦後のこの時期に復活し得たのかという疑問である。

1945年、昭和20年の政党の復活を正確に記すと、

    昭和20年10月10日、日本共産党の徳田球一らが釈放され、

         11月 2日、日本社会党が結成され、党首片山哲、

         11月 9日、日本自由党結成、党首鳩山一郎、

         11月16日、日本進歩党結成、党首鶴見佑輔

のように、続々と政党が誕生したわけであるが、これらの政党は、戦時中は一体何をしていたのかといいたい。

共産党のように、獄中にあれば致し方ない面があるが、戦時中は大政翼賛会のもとで、軍事政権に肩入れしておきながら、その軍事政権が消滅したとたんに、雨後の竹の子のように表れてくる、ということはあまりにもおこがましい行為ではなかろうか。

価値観の転換などという表現では表しきれない不道徳極まりない行為ではなかろうか?

戦前の政党政治が、大政翼賛会に収斂されていく過程が、日本の軍部が政治の主導権を確立していく過程とオ−バ−・ラップしているわけである。

政治家に多少とも民主政治というものの理解があれば、その過程で、もうすこし軍部の専横に抵抗があってもよかったのではなかろうか。

私は個人的に共産主義に同調するものではないが、政治家とすれば、もう少し、かっての日本共産党のように、国家権力とか、国家体制とか、軍国主義の蔓延に抵抗してもよかったのではないかと思う。 

ここに我々の事なかれ主義というものが埋没していると思う。

「勝てば官軍」「亭主の好きな赤烏帽子」、など我々の民族の本質を見透かした諺が示しているように、戦前、戦中の政党人というのは、そのことごとくが事なかれ主義に埋没してしまって、何の抵抗も示さなかったことが、あの戦争が日本国民のコンセンサスのうえに成り立っていたという論拠になると思う。

明治憲法が明治の時代には有効に機能したとしても、それがそのまま昭和の時代に機能するかどうか、という疑問が微塵だに出現しなかったところが、日本国民の最大の過誤である。

そして、それを発見、発表、啓蒙しなかった政党人の罪も、当時の日本国民のコンセンサスと同様、罪深いものであると思う。

例の、治安維持法があったという現実は否めないが、我々の日本民族というのは、法の解釈を厳密に行なう民族ではない。

法律を、自分の都合によって、如何様にも拡大解釈する民族である。

ましてや治安維持法というのは 共産主義者を対象とした取締を目的としたものである以上、拡大解釈で切り抜けることが容易であるはずである。

それをそうしなかったのは、自らが軍国主義に精神的同調をしていたからに他ならない。少なくとも、世間の動向に同調することが身の安全を保持する手段であった、と思っていたに違いない。 

政治家が自分の身を案ずるあまり、発言を控え、沈黙を守る、ということはいかにも偏狭な一人よがりの処世術である。

軍国主義と、皇国史観に凝り固まった日本神道に汚染された血気盛んな青年将校の一部の反乱が恐くて、物も言えない政治家では明治憲法を見なおす勇気もなかったに違いない。だから、アメリカの占領という外圧で、初めて明治憲法の改定が実現したわけである。

マッカアサ−が憲法改正を日本政府に通達して、最初に日本政府が提出した憲法というのは、全く明治憲法を踏襲するものであったといわれている。

このことは、当時の政治家にとって、憲法の不備ということが眼中になかったということに他ならない。

尤も、この当時の政治家というのは、戦前、戦中を生きぬいてきた人間であって、いわばその当時の体制にベッタリくっついていたわけで、あの戦争の意義というものが、全く理解されていなかった、ということが云えると思う。

日本が負けた、という意味を真に理解せず、ただ単に戦闘に破れた、という意識しかなかったものと思う。

日本の政治が、軍人によって牛耳られ、軍人が政治をしたものだから世界の理解を得ることができず、天皇陛下の意向に反してまで無益な戦争をしでかした、という因果関係も真に理解されていなかったに違いない。

そして、あの戦争で散っていった数多の青年の命の重さ、ということも真に理解し得ず、敗戦、終戦、軍部がいなくなった、だから自分の出番だ、という発想は実におこがまし限りである。

戦前、戦中には、政治的な発言が、治安維持法や、特高(特別高等警察)に監視されて自由に発言できなかった、という言い訳はただ単なる言い訳にすぎない。

これらの法律やシステムというのは、共産主義を対象としたものであるし、我々の民族の特質として、赤を黒とでも言い包める法律の拡大解釈という特技があるわけで、言い逃れようとすれば、どういう風にでも言い逃れる術は持っていたはずである。

それをしなかった理由は、自らが体制側の人間になって、事なかれ主義で、鳴りを潜めていたわけである。

それが戦後、軍部の圧力というものがなくなると、一斉に花開いたわけである。

そして、戦後は民主主義の大合唱となるわけである。

この豹変ぶりというのは、あまりにも不節操ではなかろうか?

魂を悪魔に売り渡したような者が、その悪魔の存在が薄れると、一斉に民主主義者となって表面に表れてきたわけである。

私は個人的には反共主義者であるが、終戦、敗戦の折りに、開放された日本共産党の発表した「人民に訴える」というアジテ−タ−は実に説得力があると思う。

旧体制側が、治安維持法や特高(特別高等警察)で取り締まった側の発言が異様に説得力がある、という現実をこの時代の政治家はどう受けとめていたのであろう。

戦争の理由や原因がいかなるものであったとしても、現実に生きている人間にとっては、明日の米の確保が最大の問題であったはずで、この時代の政党は、スロ−ガンを掲げるのに苦労したことと思う。

労働者のストライキ権というのも、我々は進駐軍・GHQから与えられたもので、自らの力で勝ち取ったものではない。

しかし、いったん与えられたものである以上、あたかも自らが勝ち取った権利のごとく、その意向を100%活用しようとするところに浅間しさが感じられる。

戦後になって、日本各地で労働争議が頻発したが、これも政治家の沈黙と同じで、戦前、戦中と戦後で、企業の労働条件が一夜にして苛酷になったわけではない。

苛酷な労働条件は継続的に以前から存在していたわけであるが、取り締まるべき治安維持法や特高があったればこそ、人々は沈黙していたわけである。 

進駐軍・GHQが、そういう圧力を除去したとたんに、そういう組合活動というものが頭を持ち上げ、団体交渉と称して、多数で経営側を吊し上げて気勢を上げる、という闘争の方法が行なわれるようになったわけである。

そして、それが民主化という美名のもとに正当化されるようになったわけである。

労働者の権利ということも大事なことには代わりはないが、権利の裏側には義務が付帯していることをなおざりにしての権利の主張というのはどうも納得出来ない。

賃上げを実施すれば、その見返りに合理化を受け入れなければならないわけで、企業が利潤を上げている時は、賃上げも出来るであろうが、経営が赤字の時は無謀な賃上げというのは企業をつぶしかねない。

日本の戦後民主主義というものは、アメリカからの圧力による押しつけであるが故に、我々自身が意識改革をして勝ち取ったものではない。

それ故に、あくまでも付け刃で、真の民主主義というものには程遠いものである。

しかし、この真の民主主義、又は真の正義というものも、時代と、その背景によって価値観が移動してしまうもので、生きとし生けるものにとって、真の正義とか、善とか、正しい事、と云うものは存在しない虚空のものなのかもしれない。

戦前の皇国史観に基づく軍国主義も、その時代にあっては正義であったわけで、戦後の日本的ご都合主義の民主主義というのも、その時代背景の中では正義であったわけである。すると、真の正義とか、真の善というのは、その時代時代に民衆の共感を覚える事柄は、一時的な善であったわけである。

この一時的な善というのが問題なわけで、善が一時的なるが故に、時代が変わると、あの時の善は悪であったという矛盾が生じてくるわけである。

我々の先輩諸兄が行なった明治維新というのは、今流の表現で云えば政治改革であり、政治機構の改革であったわけである。

この時点で、我々の先輩諸兄の潜在意識の中には、世界とか日本以外の国の存在というものが眼中になく、そして、日清、日露の二つの対外戦争で勝利をおさめたことが、我々は、強く、神州不滅の国である、という思い込みを我が民族を精神的に支配してしまったわけである。

そうなる理由の一つが、我々が元来農耕民族である事と、四周を海で囲まれた孤島の住民であった、という地理的条件がそうならしめたものと思う。

農耕を支えるためには、封建的社会基盤が民族の存続のための必須条件で、我々は1945年の終戦に至まで、基本的に封建的精神土壌に生息していたわけである。

しかし、近代化、工業化と封建的精神土壌とは合い入れない矛盾を含んでいるわけで、この矛盾のはけ口が、戦前、戦中の海外雄飛と称しての国外脱出であったわけである。 

戦後、そういうはけ口が閉ざされると、それは内部に跳ね返って来るようになったわけで、それが戦後日本の民主主義と称するものではないかと思う。

終戦の間際まで、「天皇陛下万歳」と唱えていたものが、一夜明けると「朕はたらふく食っている米よこせ」というスロ−ガンとなって表れるわけである。

これは変わり身の早さというべきか、変節というべきか、抑圧からの開放というべきか、言い方は如何様にもとれるが、これが民衆、大衆というものの本音であることに変わりはないと思う。

国民のコンセンサスというものの本質だと思う。

 

歪な民主主義

 

マッカアサ−と彼のGHQが、日本民族の封建主義思想を根底から覆そうと思って、我々に民主主義いうものを押しつけようとしたことも半分は成功しているが、残りの半分は、日本流に改竄された民主主義というものになってしまったわけである。

我々の民主主義というものが中途半端なものになった最大の所以は、我々の順法精神の欠如だろうと思う。

我々の民族性の一つに、我々は法律を字句通りに解釈しない、という性癖があるように思う。

つまり、法律というものを、自分の都合のいいように解釈するというものである。

その背景にある潜在意識は、法律というものが最低のモラルである、という認識が存在せず、それは我々の行動を規制するものである、という逆の発想があるわけである。 

法律が我々の行動を規制する、と考える意識の中には、法とは自分の欲望を満たすのに不都合なもので、これをクリア−するには如何なる手段方法があるのかという発想で、自らのアンチ・モラルが法律を作くらざるを得ない状況を作り出している、という視点が抜けおちているわけである。

その根底には、法律は、お上が庶民を規制するものであって、庶民側は、その盲点を潜り抜けるのが金儲けの醍醐味である、という風に解釈している向きがある。

これは封建的な精神土壌そのものである。

江戸時代の百姓町民の精神的基盤と軌を一にしているわけである。

明治維新というのが政治改革であったとしたら、それは工業近代化への政治的改革であったわけで、精神の面では、依然として、それ以前の封建思想から脱却できないでいたわけである。

マッカアサ−と彼のGHQは、そういうものを打破しようとしたが、民族の潜在意識までは変革し得なかったわけである。

そして、今日、我々のデモクラシ−というのは、日本流の異質なデモクラシ−として社会を睥睨しているわけである。

戦後、政治の状況がそれを如実に物語っている。

司法、立法、行政の三権分立ということは、建前上は、戦前から存在していたわけであるが、その運用に至っては、封建主義思想から脱却できないでいた戦前の在り方は、民主的な運用というものとは程遠く、その混乱の一大要因が、三権分立の前に、軍部の存在そのものがこれらの機能を封鎖していたところにあったわけである。

あらゆる権力が、軍部の意向を最優先に施行したが故に、とても民主的とは程遠い存在でしかなかったわけである。

そういう状況を作り出したのが、明治憲法下の政治家であったわけであるが、私の個人的な考えでは、この政治家が軍部の独断専行を許した背景には、政治家自身が軍国主義に陥り、ファッショを容認し、それが国民のコンセンサスになっていたが故にそういう経緯を辿ったと思っている。

そして、終戦によって、日本の軍部の存在というものが皆無になったとたん、政治家というのは、偽善面をして表面に出てきたというのが私の認識である。

私の論理にたてば、戦後の政治というのは、20代30代の政治家から出発しなければならなかったのではないかと思う。

それ以上の年令の政治家というのは、いわゆる太平洋戦争を肯定し、推進し、協力してきた人々で、戦争を容認してきた人々のはずである。

しかし、戦後の総選挙でも、選出された人々というのは、今まで軍人の影に隠れて戦意高揚に走っていた人々であったわけである。

戦争というものを国家、主権国家の一大プロジェクトととらえれば、国家の国策に協力することは、その国民としては当然な事で、その意味では、当時の政治家にも非の打ち所はないということが云えるが、それならば戦後に至っても、その所信を貫く覚悟が必要だと思う。

時の政府に迎合して、軍国主義になったり、平和主義になったり右往左往する国民と、その国民から選出された政治家にとって、真の正義とか、真の善というのは一体何んであろうのか?

戦後の日本の政治というのは、三権分立の基本部分において、保守と革新の二極分化が進み、一つの事柄に、必ず裏表がついて回るようになった。

大政翼賛会のように雪崩を打って国策に協力する姿から、何もかもが推進派と反対派に2分割されるようになった。

これも極めておかしなことであるが、これが民主化の名のもとに、反対することに意義がある、という錯覚に陥ったごとく、物事のことごとくに反対意見という怪物が闊歩するようになった。

その良い例が、1951年、昭和26年のサンフランシスコ講和条約と、日米安保条約の締結が、悪と認識する日本社会党をはじめとする革新政党の主張である。

サンフランシスコで行なわれた対日講和会議と同時に行なわれたアメリカとの日米安全保条約というのは、その10年後、20年後にも、たびたび日本の政界を揺るがす大騒動をもたらしたわけであるが、ここに日本の政治の未熟さが潜んでいると思う。

太平洋戦争というものは、日本の軍国主義者によって、アジアを戦火に巻き込んだとはいえ、その時代の西洋先進国の帝国主義による植民地支配という従来の旧秩序を破壊し去ったことは否めない。

そういう日本の過去を、世界各国が一応水に流して、日本の新しい出発、民主的な日本の再興というものを承認する、という日本にとっては有り難い講和会議であるにもかかわらず、日本民族の内部に、それに反対するということは、いかにも政治的にお粗末な意識であるとしか言い様がない。

戦前の国粋的な民族意識の反省があったとしても、あまりにも自虐的で、ひ弱な意識としか言い様がない。

安保条約の存在というのは戦後の日米関係のアキレス腱である。

しかし、日本の戦後というのは、アメリカとの関係なしでは成り立たないわけで、日米安保を廃棄して、日本独自で安全を確保しようと思えば、戦後の日本の経済復興というのはありえなかったわけである。

また、日本独自の安全保障というのは、再軍備に陥りやすい一番の近道でもあったわけである。

日本は平和憲法があるから戦争をしません、という自己主張というのはいかにも手前かってな絵空事で、問題は、アジアの周辺の国、およびアメリカ、イギリス、中国、ソ連という国がそれを信じるか信じないかということである。

戦争というのは、あらゆる戦争が自己防衛という言い方で正当化されるわけで、わが国はあの領土が欲しいから戦争をします、という主権国家というのはありえないわけである。あらゆる戦争が自尊自衛のための戦争であるわけである。

そういう過去から脱出するために、世界52ヵ国がサンフランシスコに集まって、対日講和条約を締結して、日本という過去を持った国でさえも、宇宙船地球号の乗組員の一員に加えよう、という善意の集まりに対して、何故に、日本民族の内部から反対を唱える理由があるのであろうか?

国策といわず、庶民の日常茶飯事に至るまで、何か物事をしようとするときに賛否両論が出ることは致し方ない。

そして、それが民主的なことでもあるわけであるが、問題は、物事をするかしないかを決定する決断の仕方にあると思う。

そして、決断として推進するという方針がきまったら、国民がこぞってそれに協力することが民主社会のル−ルではないかと思う。

ならば、先の大戦も、日本国民がこぞって協力した結果ではなかったのかと反論されそうであるが、先の大戦の反省としては、国策決定が軍国主義による、領土拡張主義を是認したところにあるわけで、その過程において、賛否両論が成立し得なかったところが問題であったわけである。

賛否両論が密室の中にあったわけで、公開されなかったところが問題である。

物事に対する公開の場での賛否両論が論争されるようになると、確かに民主的ではあるが、その議論を突き詰めていくと、売国奴的発言まで飛び出しかねないし、事実、売国奴的な思考や発言まで容認せざるを得なくなるわけである。

特に今日、憲法問題を論ずる場においては、日本民族でありながら日本民族を否定しかねない、売国奴的発言でさえもが容認されようとしている。

日本人の一員でありながら日本民族を否定しかねない、主権国家の主権を自ら放棄しかねない発言が、民主的という美名のもとに大手を振って罷り通るのが今日の現状である。

昭和26の時点で、日本の講和条約締結を反対した当時の社会党をはじめとする革新政党の先見性というものは一体何であったのかといいたい。

対日講和条約というのは、世界の52ヵ国が日本の過去を免罪し、日本の再興を認めてくれた条約であったわけであるが、その52ヵ国の中で、中国とソビエット連邦、一部の東欧諸国が反対したのみで、これらの国はいずれも共産主義国であったわけである。  

あの時点で東西冷戦は既に始まっており、その舞台が朝鮮半島であったわけである。

日本の近隣の朝鮮半島で、既に自由主義陣営と共産主義陣営がホットな戦いを行なっている時に、この共産主義に遠慮してというか、共産主義の国家というものを夢想していたというか、間違ったイメ−ジを抱いて共産主義国家をも賛同する講和条約でなければならない、という発想は一体どこから出てきたのであろうか?

この時点において、日本社会党をはじめとする革新政党が、全面講和でなければ駄目だ、という論拠は間違った認識にもとづく思い違いであったことが、その後の歴史が証明しているわけであるが、間違った思い違いという面では、戦前の軍部の指導者と同じ轍を踏んでいるわけである。

歴史というのは、その時々の指導者の間違った思い違いで、過誤を繰り返してきているわけであるが、政権野党というのは、その責任というものを一切取ることなしに、結果が良ければ、それに反対したという事実は雨散霧消してしまうものらしい。

突き詰めれば、野党の責任というのはいたって無責任極まりなく、その地位はいたって安泰である。

何が何でも反対さえ唱えていれば、野党の政治責任ということは容認される、ということであり、そこに野党の存在理由があるとでも言っているみたいである。

考えてみれば気楽な稼業である。

民主主義というものは最大多数の最大幸福を追究するものである、というのは真理であると思う。

すると、最大公約数に入らない部分というのは一体どうすればいいのか、という疑問が当然起きてくるわけであるが、この部分は、あっさりと切り捨てるのが民主主義そのものが抱えた矛盾であると思う。

その意味では、共産主義による平等主義の方が、人間の幸福により貢献できるのではないかと思い込みがちであるが、共産主義というのは、それこそ最大幸福というものが反対に犠牲になるわけである。

戦後の我々の唱える民主主義というのは、最大幸福では不服で、全員が同じ幸福を享受するというのが革新を自称する人々の主張である。

対日講話条約に絡む与党と野党の対立も、反対する共産主義の国に義理立てをして、全世界が同じように賛同する対日講和条約でなければならない、という日本社会党の主張する全面講和というものが、この平等主義を具現化したものだと思う。

平等主義と自由主義というのは相容れない考え方で、複数の人間を平等に扱おうとすれば自由というものが封鎖されるわけで、自由のない平等ということになれば、これは管理社会でしかない。

詰まる所、共産主義でしかないわけで、この考え方の行き詰まりが、ソビエット連邦の崩壊という形で、その後世界に証明されたことも既成の事実である。

この昭和26年の段階では、社会主義が崩壊するなどいう事は信じられもしなかったが、人々は、その後の時代に、自由主義を取るべきか、社会主義を取るべきか、試行錯誤の最中であったことは確かである。

その試行錯誤の段階で、日本社会党をはじめとする日本の野党勢力というのは、社会主義に比重を置いて、その方向に日本の将来を指向させようと画策していたわけである。

その方策として、民主化という言葉が、合い言葉のように叫ばれていたわけである。

民主化の反対語は保守反動と呼ばれ、保守は悪であるとのイメ−ジを植え付けようとやっきになっていたわけである。

ところが、現実の政治の動向というのは、この保守勢力によって、戦後の日本の政治は運用されてきたわけで、それが日本の高度経済成長というものを推進してきたわけである。対日講和条約に際して、日本の国論が二分したわけであるが、これは日本の政治というよりも、国際政治の場というほうが適切で、日本はあくまでも受動的な立場であったわけである。

講和条約で、日本の独立を許すか許さないかの選択は、彼らの側、つまり世界52ヵ国の側の問題で、我々は彼らの決定を素直に受け入れるかどうかの問題であったわけである。日本側で全面講和か単独講和かの議論の余地は全くないはずである。

全面講和というのは、共産主義国家を含んだ52ヵ国全部と講和条約を締結するというもので、単独講和というのは、この時点で賛成する諸国だけでも条約締結をする、というものであるが、こういう状況下で、我々の選択の幅というものはありえないように思う。

占領という状況から抜け出して、一刻も早く国際社会で信頼を回復したい、というのがあの時代に生き延びた我々民族の願望ではなかったかと思う。

そういう状況下で、我々の中の一部が、全面講和でなければ駄目だ、という主張の根拠というのは一体何であったのであろう。

占領下という状況では、日本の国家主権を発揮するということはありえないわけで、政治的決定の大部分は、占領軍、GHQに牛耳られていたわけである。

その中で、自らの国家意志を、自らの国民の選択に委ねよう、日本の独立という主権国家としての根幹をなす事柄についてさえ、我々の諸先輩は、反対意見というものを表明していたわけである。

まさしくこれは、我々は独立に値する国家ではない、と自らが内外に主張しているようなものである。

第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争という我々の民族にとって未曽有の事柄に敗北したが故に、我々の民族の中の一部の人々は、自らのアイデンテイテイ−を自ら放棄するほどの精神的ショックを受けた、ということが云えると思う。

こういう人々は、あの戦争という、民族の興亡をかけた戦いに命をかけて反対するほどの勇気もなく、戦争が終われば終わったで、物分かりの良いGHQや、日本政府に反抗して、自らの自虐的精神の発露として、体制側の施行する事に反対をしていたわけである。

ここにあるのは戦後の反省と称する美辞麗句で塗り固められた自虐精神のみで、我々の民族全体の先行きのことを考慮することのない、その場限りの自虐的精神のみで、極論的に云えば、党利党略以外のなにものでもない。

政党政治が党利党略を追求することは、民主主義の政治体制のもとでは、ある程度容認されるべきことである。

しかし、その党利党略というのがあくまでも国民の希望、願望、欲求を集約したものであるならば致し方ないが、我が国の政治的風土というのは、大方が体制側に無条件に服従するという面がある。

占領下で、独立か占領の継続か、という選択を迫られれば、大方の日本人ならば、独立の方を選択するに違いない。

その後の日本の歴史がそれを証明しているわけであるが、ならば、この時、全面講和を主張して、独立に反対した我々の一部の先輩の言い分は、どんな存在意義があったのかという疑問にぶつかるわけである。

私の独断と偏見による推察では、我々が独立か、占領の継続か、という選択に迫られたとき、日本人たるもの一人残らず独立を希望していたと思う。

ところが戦後の民主主義というのは、常に反対勢力の存在がなければ民主主義の意義が薄れるわけで、反対意見があればこそ、民主主義が成り立っているという認識のもとで、全員一致、満場一致で事が決まってしまうと民主主義が死んでしまうと思い込んでいたに違いない。

確かに、この考え方は整合性があると思う。

先の戦争は、戦前の日本国民が、それこそ満場一致で戦争遂行に協力したようなものである。

よって、どんなに国民が望んでいることでも、一応もっともらしく反対意見を表明しなければならない、という使命感にとらわれていたに違いない。

我々の大和民族、日本民族というのは、古来から体制側に従順であったわけではない。

江戸時代の封建制度華やかなりし頃から、人々の反発、反抗、不服従という例は数えきれないほどあるわけで、秀吉が百姓を生かさぬよう殺さぬように施策していたころより、その限界を超えた場合は、民百姓は命を懸けて反乱を起こしているわけで、この反逆精神というのは、戦後の民主主義の時代になると漁り火のように燃え上がったわけである。

むしろ戦前、戦中の、挙国一致して戦争遂行する、という現象の方が異常な状態であったと思う。

しかし、体制側が国民の望む施政をしようとしたとき、それに反対するということは、かなりむつかしい問題だと思う。

民主主義の世の中では、満場一致で体制側に協力するというのでは、チェック機能を旨とする革新政党の存在意義が薄れてしまうわけで、日本の革新政党というのは、不安定な立場にたたされているわけである。

歴史というのは常に体制側の歴史であって、反体制、反政府側の歴史というのは歴史になり得ないわけである。

しかし、歴史である以上、常に成功例ばかりではないわけでり、失敗の歴史から我々はその失敗の原因を研究をすることにより、よりよき将来の選択を学ぶべきであると思う。

世の中というのは、自分を中心に回っているわけではなく、常に周囲の状況の変化に追従する柔軟性をもたなければならないわけである。

我々は4周を海で囲まれた島国であるので、周囲の状況というものにどうしても鈍感になりがちである。

我が民族は、小さな4つの島の中だけで衣食住が成り立っているわけではない。

この状況は戦前、戦中、戦後を通じていささかも変わっていないわけで、日本の政治は、そのまま国際政治に繋がっているわけである。

戦後の民主主義の中で、日本の革新政党というのは、この部分に弱いところがある。

体制側がアメリカ一辺倒になっているのは、占領下という状況下では致し方ない面があるが、それに対して日本の革新政党というのは、東西冷戦のもう一方の雄、ソビエット連邦を自らの陣営のバック・ボ−ンにしようとしたところに日本の革新政党の読みの浅さがあったと思う。

戦後、世界が、宇宙船地球号が、東西冷戦でアメリカとソビエットに分断されたとき、日本の体制サイドは、占領下という状況で、アメリカ側に加担しなければならなかった状況は致し方ない、それに反し、反体制、革新側はソビエットに加担する以外存在意義がなかったわけである。

このような深層心理を考えてみると、日本の革新政党というものが、日本民族の願望や希望を希求するということよりも、そのバック・ボ−ンのソビエットの利益を追求して止まない、というおかしな日本人が出現するわけである。

日本の革新政党がソビエットをはじめとする共産主義国の利益追求のため、日本の施策に反対意見を吐露する、というおかしな関係に陥ったわけである。

 

民主主義

 

アメリカ型民主主義

 

占領という状況下で我々はアメリカ型の民主主義というものを強制されたが、アメリカ型の民主主義というのは、アメリカという国の成立からして、世界的なレベルで比較すれば一番理想に近いものであると思う。

しかし、宇宙船地球号には、太古より人々、人間という生きものが生息していたわけで、その意味では、アメリカ大陸も同様であるが、アメリカ型の民主主義というのは、その太古より生息していた人々の存在を無視して、近代人が、法によって近代的な民主主義というものを確立しようとした最初のモデルである。

人間が、人間の知恵で、人間を末長く生きながらえさせる為の方策を考えたのがアメリカ型の民主主義だと思う。

アメリカ型の民主主義には封建時代というものが欠落しているわけで、地球上のその他の文明の発祥の地では、人々は太古より生き長らえているために、必然的に、封建時代というトンネルを経過してきているわけである。

ところがアメリカ大陸で出来上がった民主主義というのは、こうした確執というものがないうえに、人が人の英知を集めて試行錯誤のうえに出来上がった民主主義であるが故に、太古より文明をもち、封建時代というタイム・トンネルを経た民族にとっては、あくまでも異質な考え方であるわけである。

戦後の日本の民主主義というのもその例にもれず、真の民主主義からは異質なものに変質していると思う。

戦後の我々は、アメリカ占領軍から強要された民主主義というものを平等主義と履き違えている向きがある。

しかし、アメリカ型の民主主義というのは、基本的に自尊自衛で競争原理が建前である。戦後50年にして、日本は確かに世界でも有数な豊な国になったが、その国民が、今、声を大にして叫んでいることが福祉の充実ということである。

ところが、この福祉の充実ということは、基本的にアメリカ型民主主義とは相反することで、そのことは、数年前に失速を見た、社会主義国、共産主義国の没落の二の舞をするということに他ならない。

今、政治を語ろうとする人、特に、選挙に打って出ようとする人、政治家になろうとしている人は、福祉の充実ということを合い言葉のようにして声高に叫んでいるが、これはアメリカ型の民主主義というものを根底から否定しようとしているわけである。

アメリカ型の民主主義が独立自尊を建前とし、競争原理で成り立っている、ということは、我々のような島国で、人口過密な国では誠に「しんどい」事である。 

だから、日本型の民主主義に改良されている、というのはあまりにも善意に解釈しすぎである。

むしろ、アメリカ型の民主主義に対する理解が足りないというべきであろうと思う。

アメリカ型の民主主義の根本にあるのは個人の確立ということに他ならない。

このことは、18才以上の人間は何事も自らの意志で決断、決定、遂行しなさいということである。

これは並大抵のことではないわけで、我々の日常生活ではこういうことはありえない、ということが我々には解っていないわけである。

例えば、数年前、愛知県の旭が丘高校の服部良弘君がハロ−インの銃で撃たれた事件があった。

アメリカの民主主義で云う個人の確立ということは、自らの身の安全は自らの銃で確保しなさいということである。

だからこそ憲法で銃の保持が規定され、自らの身の安全を維持するためには、我々には想像もできないほどの神経をすり減らしているわけである。

アメリカの民主主義というのは、銃による治安の上に成り立っているわけで、その根底に流れている深層心理まで我々は考慮くする事無く、言葉のみ安易に借用して、民主主義と言っているにすぎない。

民主主義というのは、代償、乃至は、対価なしに成り立つものではないわけで、アメリカの場合は、市民の銃器保持ということがそれである。

だからこそ民主主義の国でありながら、ある一面では治安の悪い犯罪の多い国となっているわけである。

それに引き替え、我々の国は、日本型民主主義なるが故に、ある面から見れば管理された平等主義の国ということが云えると思う。、

日本人ならば日本型の民主主義で結構である、という論法はいささか狭量な発想で、自分さえよければ後はどうなっても構わない、という発想に通じるものである。

戦前、戦後を通じて、日本という国は、我が国だけでは生き残れない、文字通り、独立自尊が出来ない国である。

江戸時代の鎖国などということはとても実現し得ない国になってしまったわけである。

もっとも我々の日常生活のレベルを江戸時代以下におさえれば出来るかもしれないが、人類史上、文化を後退させるということはありえないわけで、それが出来な以上、我々の生きる道は、世界の人々と仲良く共存共栄する他ないわけである。

そのためには、一国平和主義では、世界に対して論理性に欠けるわけである。

日本の独立ということは、その第一歩でもあるわけであるが、その第一歩からして、日本の革新政党が反対したということは、彼らもきっと辛い立場であったに違いない。

心を鬼にして、自らの民族の独立に反対しなければならなかった当時の革新政党の政治家も、きっと辛い思いをしたに違いないと想像する。  

 

憲法改正反対の法的根拠

 

日本のサンフランシスコ平和条約の話が先になってしまったが、その前に、本当は憲法制定の話が先にならなければならないが、これについては前述してあるので深入りすることを避け、今の日本の憲法の存在意義について私見を述べるに止める。

私の個人的な考え方では、今の日本国憲法は、当然、改正が必要だと思う。

これは第9条の戦争放棄だけの問題ではなく、憲法というものが主権国家の規範を規定するものであるとすれば、50年という歳月を経れば、当然、諸般の事情は変化しているわけで、それに合わせた、新しい理念の創製ということは必要だと思う。

先の大戦が、明治憲法を「不磨の大典」として、改正の機会も見直しの気運も封殺したところにそれが悪用される基盤があったわけである。

そして戦後の平和憲法も、平和憲法なるが故に、触ってはならないという革新勢力の大合唱のもとで、50年という、半世紀にもわたる長期において、一度も見なおす機会も与えず今日に及んでいるわけであるが、これは由々しき事だと思う。

我が国の有史以来の歴史の中で、外国人による憲法の押しつけ、ということに我々が反発し得ない、しない、出来ない、黙ってそれを受け入れる、ということは我々の民族のアイデンテイテイ−を放棄するにも等しいことだと思う。

敗戦、終戦という未曽有の混乱の中で、一時避難的に容認するというものなら、ある程度致し方ない面があるが、それを恒久的なものにして、日本の誇りである、というような論法はいささか自虐的すぎるし、反対の為の反対にすぎない。

そもそも、あの憲法の起草者そのものが、「そう長続きするものではない、一時的なものである」という認識で考えられたものを、受け取る側で、「不磨の大典」的な発想で以て固執すること自体がおかしいわけである。

戦争放棄の規定を入れる入れないで論争するにしても、外国から押しつけられた憲法を、後生大事に保持する理由にはならないわけである。

主権国家の憲法が、他の主権国家の意図のもとに作成され、その主権者である国民が、それを後生大事に承る、という構図も、戦前、戦中の天皇制の擁護に匹敵するほどの愚考である。 

これはサンフランシスコ講和条約に反対する日本人の姿と同じで、陳腐以外のなにものでもない。

日本国憲法の改正に反対する勢力があるとすれば、日本の周辺のアジア諸国の反対ならば、日本の過去を鑑みて納得できる面もあるが、日本民族自らが、自国の、しかも占領軍の押しつけによる憲法を後生大事に承っている図というのも、はなはだ理解に苦しむところである。

こういう憲法が50年も生き長らえるという現実は、我々、大和民族、日本民族というのが法律の規範ということを強く意識せず、法というものを自分勝手に、自分に都合にいいように解釈しているという証左である。

我々は法律に対する考え方が寛容すぎる民族である。

我々の民族にとっては、民族の生存は、法律の制定よりも前からあるわけで、法律というのは、人間の行動規範を束縛するもので、我々の行動が法律に縛られる事など御免こうむるという気風がある。

法律というのは、支配者の都合で、どういう風にも解釈できるので、支配の為の方便にすぎないという意識で、庶民というのは、一切、法というものを信用していないわけである。事実、いくらでも拡大解釈して、それが通用しているわけである。

自衛隊の存在なども、拡大解釈以外のなにものでもない。

自衛隊を創設するについて、憲法改正をしてこなかったが故に、明らかに憲法違反であるにもかかわらず、アジア最大の軍事力になってしまっているわけである。

1994年、村山内閣は、今まで憲法違反と、声高に叫んでいたその自衛隊を容認するということで政権を確立したわけであるが、これでは政権さえ取れば、赤を黒とでも言い包めるに等しい行為である。

我々が法律を信用していない、ということは我々の日常生活にいくらでも存在する現象である。

これは法律の方にも無理があるわけで、守れないような法律が歴然と生きているわけで、それに人命尊重というサブ・タイトルがくっついて、人命の前には、法律は用をなしていない、という結果になっている。

人命や、人権の前では、法律も影が薄く、法の毅然たる施行は、人道主義に反する、という評価が蔓延する次第である。

こういう我々の民族的心情が、憲法であらゆる戦争を放棄しているにもかかわらず、自尊自衛の戦争は容認される、という論法のもとで自衛隊が創設されてきているわけである。自衛隊の創設に関して、本当のところは、アメリカの極東政策の一環として作られたものであるにもかかわらず、日本政府の見解は、こういう憲法の拡大解釈のもとでの、言い訳がましい論法が罷り通るところが日本人の法律に対する潜在的な認識である。

我々の日常生活というのは、法律で禁止しているからその行為はしない、というものではなく、我儘一杯行動しておきながら、法律に触れると運が悪かったという認識である。

規制緩和を唱えながら、何かトラブルがあると「政府は何をしているのか、法律で規制せよ」という、無いものねだりするわけである。

そういう風に、我々、日本国民というのは、憲法というものが、外国の圧力により、外国の圧迫のもとで出来上がっているにもかかわらず、いざ自主憲法を作るという段階になると、アレルギ−症状を呈するわけである。

アレルギ−症状の根源は、憲法改正が再軍備に繋がるのではないか、という危惧にある事は自明のことであるが、再軍備を恐れるあまり、我々の手による民主的な自主憲法の制定までも拒否する、という愚を犯しているわけである。

確かに、我々の戦後50年というのは、我々にとっては平和な50年であったが、これは我々が自ら築いたものではなく、東西冷戦の谷間で、必然的な周囲の環境によってもたらされたものであり、周囲の環境という場合、世界が自由主義経済システムという環境を維持してくれたからである。

そういう環境の中で、我々は経済の復興のみに専心でき、軍備というマイナスの出費を押さえる事が出来たからである。

法を蔑ろにするということは、我が民族にとって、人間の生存が先で、法の方が後から出現した、という近代思想の反省からきていることかもしれないが、そのことは、我々の民族がいかに民主主義という、新しい、人間が思考した考え方に馴染めないのか、という事でもあると思う。

我々が生まれ落ちたこの土地では、法律の存在よりも前から日本古来の処世術というものがあったわけで、この処世術の中には、支配する側のものと、支配される側のものの、二種類があったものと思う。

人間が集団で生きていくためには、支配する側か、支配される側の、二種類のグル−プのどちらかに属さなければならなかったわけである。

数の上では支配される側の人口が多いのは云うまでもないが、こちらの側は、法律の存在などは無関心に従来の習慣法が生きていたわけで、そういう状況、環境下であってみれば近代的な法律というものは遵守しようがしまいが、日常生活には直接の影響が無かったに違いない。

だから、近代的な法律というものが整備されたとしても、法律というのは、運用する側の問題であって、一般庶民の日常生活を規制するものでしかないわけであり、自分の都合にあわせて、自分の都合のいいように解釈するわけである。

戦前、戦中の軍部というのは、民衆を戦争に駆り立てるために、その威力を最大限に利用し、戦後の進歩的知識人というのも、戦前、戦中の軍部と同じように、自らの主張に正当性を加味するために、自らの都合にいい風に解釈し、体制批判に利用しているのである。アメリカの民主主義の場合、法律というのは、アメリカ国民の利益を保護するために、自ら作って、自らをそれに従属させる、という関係で成り立っているが、我々の場合も、建前は国家という場で、国民から選出された国会議員によって立法されているが、庶民感覚からすれば、未だにお上から押しつけられたという意識を拭いされないでいる。

 

戦後民主主義の特異性

 

戦後の法律が、国民から選出された国会議員によって作られているとしたら、日本国憲法というのは、その過程を経ずして出来上がっているわけである。

少なくとも占領下に制定されたものである以上、独立を得た後の日本では、占領下の憲法とは別のものを考えるべきであったと思う。

それをせずして今日まできたということは、我々が、憲法というものを全く顧みる事無く、あってもなくてもたいして我々の日常生活には差し障りがない、と判断していたからに他ならない。

「憲法を改正すると軍国主義に陥る」という発想も憲法を蔑ろにした発想である。

事程左様に、我々、日本民族というのは成文法に不寛容なわけで、法律というものを信用していないということである。

法律を信用する前に、我々の個人のエゴイズムを前面に出して、個人の願望が受け入れるかどうかが、問題となるわけである。

我々が憲法を改正するかどうかの問題は、あくまで日本国内の問題であり、地球規模で眺めれば、文字通り井戸の中の蛙の争いのようなもので、他の国から見れば、日本国内の問題にすぎない。

日本国内でいくら議論が沸騰したところで部外者にとっては痛くも痒くもない問題であるはずである。

しかし、その部外者から見ても、占領軍から押しつけられた憲法を後生大事に抱えている国民というのは、理解に苦しむのではなかろうか。

そのことは、民族の自主独立というものを自ら放棄しているにすぎない、と映っているに違いない。

そういう国民が世界で信頼を勝ち得る事は出来ないわけで、あくまでもエコノミック・アニマルという蔑視に耐える他ないわけである。

戦後の我々は、国の誇りとか、民族の誇りというものを失ってしまったわけで、あるのは金儲けのみである、という印象を世界にばらまいたわけである。

分け隔てのない平等社会ということは、言葉を裏返して云えば、野心も、希望も、民族の誇りも失って、ただただ唯我独尊、自分一人が損害をこうむらなければそれで由とする発想に陥った証拠である。

これは一見民主的な社会のように聞こえかもしれないが、真の民主主義社会というのは、こんな綺麗事では済まされないわけで、自由、博愛、平等と云うのは、勝ち取るものであり、自ら築くものであるはずである。

戦後、日本の民主主義というのは、これらの要因を占領軍から授けられたような印象を受けるが、占領中は致し方ないにしても、独立した暁には、自らの憲法を、自らの力で作り出すぐらいに気概をもっても世界は称賛こそすれ非難することはないと思う。

憲法改正が軍国主義に繋がるという論拠は、実に陳腐な言い草で、そういうことを云う政党が公認の政党であること自体が日本の異質を表していると思う。

あの大戦を経過して、日本人の中で、誰が軍国主義を肯定し、誰が徴兵制を是認し、誰が戦争をしたがっているのか、いたらその具体的な例を上げてもらいたいと思う。

西洋の狼少年の寓話のように、ありもしない亡霊を恐れて、ありもしないシナリオに怯えて、我々の精神が歪んでしまったに違いない。

我々が今自主憲法を作るということは真の民主主義に一歩でも二歩でも近付く事である。戦後の日本の民主主義というのは、占領軍の占領政策の一環として、占領政策の都合上、便宜的に、あるいは一時緊急避難的に制定されたものであって、「不磨の大典」ではありえないわけである。

戦争を放棄するということは、実に曖昧な表現で、そもそも戦争という言葉の解釈からして、漠然としたものであり、現行憲法で放棄した戦争というのは、主権の延長としての戦争であって、その意味からすれば、侵略戦争を意味していると思われるので、自衛のための戦争ならば許される、というのが今日的な憲法解釈である。

しかし、その字句を厳密に読めば、自衛の為の武力行使も放棄していることは明らかである以上、この憲法解釈は拡大解釈といわざるをえない。

法律の字句に拡大解釈の余地がある、と云うこと自体が不備であるわけで、先の大戦で辛苦を舐めた我々の先輩諸兄が、「戦争」という語句から、「遺棄すべきもの」というイメ−ジが抜けきれないのも致し方ないことではあるが、現実の世の中の動きというのは、そういう感傷を許さない場面の連続である。

我々は、国土が海で囲まれて、異民族との接触の生の場面に遭遇する機会というのが少ないので、我々は井戸の中の蛙ですませているが、現実の世界の動きというのは、そういう生易しいものではないはずである。 

日本国憲法の問題は、日本国民の問題である以上、その問題に嘴を入れてくる主権国家というのはないのが当然である。

これを裏返してみれば、外圧がないので、我々は何一つ変えられない、ということにもなるわけで、これでは民族の誇りもアイデンテイテイ−もないということに他ならない。

日本国内にいるかぎり、そういったものに無縁で過ごせるが、一度外国との接触の場に遭遇すると、それでは済まされなくなるわけである。

例えば、国旗一つとっても、諸外国の人々は、自らの国の国旗には誇りを持っているが、我々は、国旗を敬うという概念すら欠如しているわけで、国旗はスポ−ツのシンボルぐらいにしか思っていないわけである。

我が国が敗戦、終戦の結果、江戸時代の鎖国状態を強いられたならば致し方ないが、講和条約で、世界の仲間入りを認められたわけで、そういう環境下におかれてみると、ミニマムの常識として、世界の常識をある程度は受け入れざるをえないわけである。

一国平和主義というのも、舞台が日本の治世圏の中のことだけならば、ある意味で致し方ないが、今の日本というのは、我が国一国のみで生存しているわけではなく、世界の国々との連携の中で生きているわけで、そのことを考えれば、一国平和主義というのはあまりにも自分勝手な言い分にすぎない。

我々が未だに自主憲法を制定していない、ということは我々にとって憲法というものはあってもなくても生存には差し支えないということである。

だからこそ、占領軍の強制によった出来た憲法を後生大事に維持しつづけているわけである。

その背景には、民族の誇りも、愛国心も、忠誠心も、全てどこかに置き忘れて、ただただ食わんが為に粉骨砕身、経済競争にのみ、身を擦り減らしてきたわけである。

戦後の日本の革新勢力というものが、憲法改正にも反対し、講和条約の締結にも反対し、安全保障条約にも反対してきた理由の一つは、反対する事で、食うことが出来る商売が成り立っているということである。

革新勢力というのは、政治をする人々ではなく、政治を食物にして商売をしている人々の集団であるということに他ならない。 

そのことは保守を旗印にしている人々についても同じ事が云えるが、日本の政治家というのは、政治を食物にして商売をする人々のことである。

政治屋を選出する選挙というのも、一種のお祭りで、日本という、太古より連綿と継続した人民の国では、本質的な政策論争で政治が語られることはなく、地縁、金縁、権縁で、本当に政治を語ろうとする人は、選挙で振るい落とされてしまうわけである。

本当に、真剣に憲法改正を論ずれば、選挙で選出されず、福祉を唱え、橋の一本でも作った人が選挙で選ばれる、という構図から抜けきれないのが、今の日本の戦後民主主義として罷り通っているわけである。

それが戦後日本の民主主義の実態である。

日本の政治というのは、立法府としての国会、行政府としての官庁、法律の番人としての司法という風に三権分立になっている事は周知の事実であるが、肝心要の立法府を構成する国会議員というのは、資格試験というものが全く不要で、それならばこそ、民主的という認識に立っているが、これも一種の平等主義である。

平等ならば全て由とする風潮がここにもあるわけで、政治というものが政党の党利党略に陥る原因もここにあるわけである。

平等が罷り通っているからこそ、数の原理で多数決で事が決まるわけであるが、多数決で決まれば、少数意見を尊重せよ、という意見が出てくるわけで、これでは一体どういう方法で決めればいいのか、という疑問が起きるわけである。

国会議員が極めて平等意識によって選出される、というところに地域エゴが出るわけで、地域エゴが政治の本質を議論することを阻んでいるわけである。

アメリカの民主主義というのは、地域エゴ、企業エゴ、利益集団のエゴというものを正面から捉えているので、そのエゴを政治に反映させるための方策が認められている。

我々の戦後民主主義による国政というのは、地域エゴを否定しながら、国会議員というのは裏で地域エゴの実現に奔走する、と云う構図が現実の姿で、ここに国政の本音と建前の矛盾があるわけである。

我々の戦後民主主義による政治が、真に本物であるとすれば、国政の場で地域エゴの実現に奔走する姿というのは邪道のはずである。

ところが我々の国会議員というのは、族議員という表現が示すように、利益集団の代表の様を呈しているわけで、国政を論ずるよりも、権益獲得の方が、その人の実力を計るバロメ−タ−になっている感がある。

よって、政治家が真剣に国政を論じていると、その国会議員は次の選挙で落選してしまい、地元に橋の一本も掛けた議員は、地元に貢献したとして、また次の任期を任せられるのである。

このことは、突き詰めて云えば、選挙する側の政治感覚の問題である。

国会議員になろうとする人よりも、その人を選出する側の問題のはずであるが、我々庶民の政治感覚というのは、そこまで意識改革が進んでいないわけである。

だから、戦後50年経っても、経済一流政治は三流という評される次第である。

官僚になるには国家公務員試験があり、裁判官には司法試験という難関が科せられているが、国会議員とか、地方議会の議員になるには禁治産者以外を除けば誰でも立候補を出来るわけで、その意味では、議員の資格審査という篩は全く無いわけである。

いかにも平等を絵に書いたようなものである。民主的そのものである。

そして、その答えは多数決原理で、多数を獲得したものが勝ちである。

逆に云えば、共産党のように、党の締め付けで、何が何でも棄権を防止して、自らの党に議席を与えようと画策する政党が有利なことは言うを待たない。

ここに再び村の論理が介在することになるわけである。

我々、日本民族というのは、古来より農耕民族の特徴として、村意識を脱却できないでいる。

社会が近代化しても、自分の属する団体が、一種の村という運命共同体である、という観念から抜けきれないでいるわけで、戦後、進駐軍によって民主主義というものを強制されたとしても、その根底に流れている深層心理の中では、旧態依然たる村落共同体としての意識を合わせ持ったまま、民主主義という表層面のみ声高に叫んでいたにすぎない。

口から出る言葉は民主主義であっても、その奥には、江戸時代から連綿と継続している封建主義という亡霊を意識していたわけである。

封建思想を内在した民主主義ということは、極論的に言えば、地域エゴ以外のなにものでもなく、地域エゴということは、すなわち村落共同体としての自らの集団のみ利益をこうむれば後は野となれ山となれという一種の無責任主義である。

我々が戦後の日本国憲法を一度も見なおそうという気運が起きなかったことは、日本国憲法の存在というのが世界の動向にはまたく関係の無い事柄であるが故に、他国が干渉してこなかったわけで、これも当然なことであるが、全く日本国内の問題であるかぎりにおいて、他の主権国家が嘴を差し挟む余地はないけれど、そういう真空状態の存在なるが故に、我々の民は、自らの憲法をある意味で蔑ろにして済ましてきたわけである。 

その意味で、戦後の日本人というのは、完全に民族の誇りというものを放棄し、ただ生きんが為に生息する社会的動物に成り下がったわけである。

人間というものが、社会的システムで生きている動物である以上、我々が、ただ単に生きて呼吸をするだけでも社会的システムを必要とするわけで、民族の誇りを失うということは、取りも直さず自信の喪失である。

戦後の日本人が自信を喪失する、した、ということは紛れもない事実で、終戦、敗戦、占領という環境下で、我民族の成人、いや老若男女をとわず全ての日本人が生きる希望も夢も、そして今まで忠誠を尽くべきものと思った国家さえも信じられなかったに違いないと思う。

この挫折感というのは、筆舌に尽くしがたいショックであったことは想像がつく。

まさしく価値観の大転換であったわけである。

今までの軍国主義が一夜にして、民主主義に取って代ったわけである。

しかし、この二つの価値観に流れている民族意識の底流というものは、我々の民族固有の農耕民族としての潜在意識であり、農耕により培われた封建思想であると思う。

農耕民族というのは、穏健な思想の持ち主ばかりではないわけで、江戸時代に代表される完全なる封建制度のもとでも、お上に盾つく民百姓の存在というものあったわけで、決して従順であるばかりではない。 

日本の歴史の中で、太平洋戦争の前後ほど、我が国民が、お上に対して従順であった時期の方が却って異質な時代ではなかろうか?

戦後になって、アメリカ型の民主主義というものが強制されると、我々の反逆精神というものが大手を振って罷り通るようになったわけである。

我々の反逆精神というものは、行政に対する反発であって、不思議なことに、その行政の上に君臨する天皇に対する反逆、反抗というのは、民百姓という民衆レベルでは少ない。我々の反逆精神というのは、行政に対する不満を発露するわけで、行政にタッチしていないものにたいする反抗ではなかったわけで、その意味で、太平洋戦争というものは、軍部が天皇を表面に担ぎだした故に、我々の民衆レベルの反抗が無かったとも言えると思う。戦後の新民主主義というのは、この我が民族の反抗精神というものが我がもの顔に闊歩できる土壌を提供したわけで、各政党が雨後の竹の子のように乱立し、それがまた離合集散を繰り返す、という状況を作り出したわけである。

この政党が政治家ではなく、政治を生業とする政治屋であるがゆえに、行政の全てに反対する反対屋というのが集合したのが日本社会党であり、日本共産党と称する革新政党であるわけで、彼らは、反対することに存在意義があるわけである。

戦後の日本型民主主義というのは、この反対屋の存在意義をおおぴらに認めたわけで、保守政権というのは、大方の日本人の意見を集約し得たにもかかわらず、全員一致の国会では、先の大政翼賛会と同じ事になってしまうわけであるからして、心の中では、独立をしたいと願いながらも反対屋の政党に属しているかぎり、反対しないことには自らの生業が成り立たないわけである。 

日本の政治では保守も革新も考えていることはほぼ同じと見ていいと思う。

サンフランシスコ講和会議の件についても、安保闘争の件についても、消費税の問題についても、革新が体制ベッタリでは話にならないわけで、反対することに彼らの存在意義があるわけである。

だからこそ不毛の議論が長々と続くわけで、答えは最初からわかってにもかかわらず、長々と反対闘争を続けるわけである。

反対闘争というのは、彼ら革新政党の生きるための生存権の確立にすぎないわけで、そこには理念とか理想とか、将来のビジョンというものは存在しないわけで、あるのは反対することによる民主主義的議会制度の維持という大義名分があるにすぎない。

 

次に進む

 

目次に戻る