ものの本質

 

庶民の政治感覚

 

民主主義というものは全能であるわけではなく、幾つかの欠点ももっている。

その一つが、全員の幸福を目指すものではない、という点であり、手続きが複雑であり、時間がかかるという点である。

手続きが複雑という点も、時間がかかるという点も、今日の日本の政治状況を見れば明らかなことであるが、我々の戦後日本の民主主義という場合、占領軍、進駐軍による強制で成り立ったという歴史的動機により、日本の国土に馴染んでいない面があると思う。

ならば、戦前の民主主義の萌芽というものは馴染んでいたのかと問えば、これもファシズムに席巻されて本来の本義から遠くなってしまったわけである。

我々、日本民族、大和民族というのは、その国土の地理的条件からして、海で囲まれた島国という環境下で、外来の思想を受け入れることには抵抗感がないわけである。

抵抗感が無いのであらゆる思想がこの国で蔓延するわけであるが、いくら日本という国土で広まったところで、我々の古来からあるものを排除することは出来ず、外来の思想といえども、日本的な改良や工夫が生まれるわけで、我々は外来思想に身も心も委ねることが出来ないでいる。

それが日本の文化を形作っている大本だと思う。 

そしてそれを地球規模で眺めた場合、日本人、日本民族、大和民族の特異な性格として、世界の人々から眺められている所以だと思う。

そういう背景からして、戦後の日本の民主主義というのは、その根底に農耕民族としての村意識を内在し、封建思想を複合したものが出来上がったわけで、それ故に、政党政治の勃興とともに、体制側に反対することに存在意義を見いだすべき政党が乱立したわけである。

我が民族は、基本的に反逆の精神を内在した民族で、時と場合によっては、それが爆発することもしばしばあるわけである。

それが江戸時代の百姓一揆であり、大正時代の米騒動であり、昭和の安保改定反対運動であったわけである。

民主主義を建前とすると、一つの決議を出そうとした際、それについての賛否両論が起きることは必然である。

賛否両論を封殺したのが戦前、戦中の大政翼賛会であったわけで、戦後民主主義が建前となった以上、賛否両論が起きることは至極当然なことである。

そして、日本の法律はその大部分が政府立案で、議員立法ということがあまり無いという現状を見ると、政府が提出してくる法案というのは、基本的に国民のコンセンサスを集約したものであるわけで、野党、反体制側にとっては、反対の根拠が薄いわけである。

しかし、それをそのまま認めてしまっては野党の存在意義が喪失してしまうわけで、心の中では体制側に順応しなければならないのに、ポ−ズとしては反体制を表明しなければならないところに彼らの苦渋があるのではなかろうか。

彼らのポ−ズを、心からそう思い込んでいるとすると、これは一昔前の言葉ではないが、非国民という表現でしか言い様が無い。

憲法改正にともなう、現行憲法のままで、つまりはアメリカから強制されたままの憲法で由とする発想には、戦争に対する恐怖心が先に立ち、先の大戦の反省から出たものではないと思う。

彼らの拠り所としている現行憲法の項目は、やはり第九条の戦争放棄の項目であろうと思う。

憲法改正という大命題を眼前に出されたとき、真っ先に、この項目が改正の対象になることを恐れているわけで、戦争への恐怖というのは、何も彼らだけの専売特許ではなく、世界の人類は皆同じように戦争を畏怖しているわけである。

戦争の放棄ということは、人類の理想に近い願望であるわけであるが、現実と理想の狭間で、現実に生きる人間には、何時それに巻き込まれるかわからないわけで、その時にどう対処するのか、という問題であるわけである。

人類の歴史上の戦争で、「私は貴国を侵略します」といって始まった戦争はないわけで、全ての戦争が、独立自尊、自尊自衛、主権侵害という理由付けで行なわれたわけであり、主権国家の一員として、侵略を建前とした戦争というものはありえないのである。

とすれば、護憲派と称する憲法改正反対論者の論拠というものは、幻の幻想に怯えて現実の世界というものを無視した論議ということになる。

我々の経験した日中戦争から太平洋戦争・大東亜戦争というのは、一口に、戦争という大雑把な捉え方は出来ないと思う。

たしかに一つ一つの事件の連続として捉えれば、その実情は戦争そのものであるが、この時代は、今日、護憲派の人々が言っているところの戦争というものとはニュアンスが違っていると思う。

日中戦争から太平洋戦争、大東亜戦争の期間というのは、一つの時代の流れという大きな枠組みで捉える他なく、今日、護憲派の人々が戦争を危惧する気持ちというのは、こういう時代の再到来を憂いての危惧の現れとみなしていいと思う。

しかし、それはあの時代を経験した日本人が皆一様に感じていることで、憲法を改正しなければならない、と思っている人々とて同じである。

だとすれば、護憲派も改正論者も同じ願望、同じ展望、同じように将来のことを憂いているということになる。

ならば、双方で啀み合うのではなく、妥協点があってもよさそうに思われるが、それが全くの平行線のままで、自己の主張を譲ろうとしないところに日本の戦後民主主義の特徴があるわけである。

これは与党と野党、保守と革新、体制派と反体制、という二極対立が民主主義の原則として、その根底にある政治的判断というものよりも優先してしまって、民主主義の擁護の為に、その論点の基本の部分を喪失してしまった結果だと思う。

日本民族の自主性を論議する前に、戦後民主主義としての存在の方を優先するために、こうした二極分化、二極対立の構図が出来上がってしまったわけで、戦後民主主義というものを維持するために、その本質を見失ってしまったわけである。

この二極対立を産まない土壌というものは、戦前、戦中の軍国主義、ファシズムに直結するものであることは言うを待たない。

しかし、二極対立の構図が、戦後民主主義の根源であることは理解できるが、そのために、我々の民族としての基本的自主性をも放棄しても、なお民主主義の擁護をするということは、自らを日本民族、大和民族としてのアイデンテイテイ−を放棄することである。

一部の日本人の中には、そういうことを臆面もなく発言する人もいる。

自らの民族性を放棄し、民族の誇りをかなぐり捨てて、国際人、コスモポリタンとして生きればいい、と云う極端な発言をする人がいるが、そういう人は、この日本から離れ、外国で生きればいいわけで、そう言いながら、この日本という、世界に類の無い自由な国で自由を謳歌して自由奔放な発言をして、それを売り物にして、食って生き長らえているわけである。

護憲派の人々が言う戦争という定義は、所謂、ホットな戦争の事を想定していることは当然であるが、戦争という定義には、ホットな戦争のみを含んでいるわけではなく、目には見えない神経戦から経済戦争まで含んでいるわけで、武力の行使のみが戦争ではないわけである。

要するに戦争という言葉の使い方の問題で、政治というものが言葉の解釈の問題に終止し、言葉の挙げ足とりに陥っているところに日本の政治的貧困があるわけである。

日本の独立に際して、単独講和か、全面講和かという論議の時、ソビエットをはじめとする共産主義国を含めるか含めないかの論議に終止したわけであるが、52ヵ国が参加して48ヵ国が賛成して日本の独立が承認されたのに、何故に単独か全面かという言葉が出てくるのであろう。

言葉の使い方そのものが最初から間違っているわけで、憲法改正、第9条の見直しが、何故に直接戦争とか再軍備につながるのであろう。

言葉ないしは言語と、現実の飛躍ということは、先の戦前、戦中における、軍国主義の鼓舞の本質と全く同じ構図を持っていると思う。

例えば、天皇陛下を現人神と信じ込ませる技法というのは、この言葉、言語と現実の矛盾を完全に昇華させた、当時の体制側のデッチ上げ以外のなにものでもないわけで、それに対して、庶民の側、政界、官界、産業界、教育界あらゆる場面で、何一つの抗議もなければ抵抗もなかったわけである。

現実の天皇陛下が神様である、などと云うお伽話を、大の大人が真剣に信じているはずがないにもかかわらず、それに対する抵抗が全く無かったということは、その当時の庶民の側に、統治者に対して、何一つもの言わぬ無抵抗感が充満していたわけで、所謂、今日的表現で言えば体制ベッタリで、体制に迎合することが生き延びる術であったわけである。今日的解釈からすれば、この現実は、庶民、国民の側の責任ではない、と云う言い分が通りそうに今の人々は錯覚しているかもしれないが、もう一歩踏み込んで考えれば、そういう状況を作り上げたのは、他ならぬ我々庶民の側であったということが云えると思う。

軍部が独断専行して、あの戦争を引き起こした、というのが私の持論であるが、その状況を作り出したのは、他ならぬ我々、庶民の側のコンセンサスであったと思う。

戦後の日本の民主主義というものが、我々のコンセンサスであったのと同様、戦前、戦中の軍国主義というのも、当時の我々、日本人のコンセンサスであったと思う。

その意味で、我々日本の、経済一流、政治は三流とうのは、他ならぬ我々、日本国民の政治感覚が三流であるということである。

日本という国が江戸時代のように鎖国状態の国であれば、日本国民の政治感覚が三流の国であっても、全世界は日本との関わりを持たずに生存し得るが、戦後50年にして我々の国、日本という国は、自国のみでは生きていくことが出来ないわけで、そういう環境のもとで、日本の経済のみは、世界を凌駕する状態になってしまっているので、とても我々の政治感覚が三流のままでは国際社会に通用しないわけである。

 

揺れ動く座標軸

 

しかし、敗戦後数年のうち、特に日本がサンフランシスコ講和会議で独立を承認された頃の時期というのは、日本という国は、世界の孤児の状態であったわけである。

戦前の日本人が、庶民の、ないしは民族として軍国主義に陥ったのは、その根底に我々の民族としてのコンセンサスがあったものと思う。

明治維新を経て近代化を急いだ我々の先輩諸兄の心の内には、軍国主義でもって国威の高揚を願望するものがあったと思われる。

それは我々の民族、日本という国が、西洋先進国に比較して、文化的に見劣しているという認識によるものと推測する。

それは、西洋先進国が、帝国主義的植民地主義で、富の蓄積を果たしたことによる羨望ではなかったかと思う。

我々の先輩諸兄は、そういう羨望を、明治の後半から大正時代を経て昭和の初期に至ると、日本の国民的合意、所謂、国民的コンセンサスに変化させていったのではないかと思う。この課程で、治安維持法や、国家総動員法という、軍国主義的法律を容認する国民感情が醸成され、我々は、挙国一致して戦時体制というものを受け入れたわけである。

戦前の、政治政党が消滅して、大政翼賛会に収斂されていく課程が、我々の先輩諸兄が、軍国主義を受け入れていく課程そのものであったと思う。

この時期に、我々の民族にあいだに、精神的付和雷同性が醸成され、それと同時に、体制ベッタリで、自己の批判能力というものを失ってしまったわけである。

戦後はその反動として、何でもかんでも反体制が民主主義であると、またまた、その本質を見失ってしまったわけである。 

戦前は、日本国民の総意として軍国主義に傾き、戦後は、その反動として左に傾いてしまったわけで、その中間に、人間としての理念として、日本民族の、日本の国の在り方としての概念、信念、理想にもとづいた座標軸と云うものを持っていないわけである。

これは太古より、海で囲まれた四つの島で、農耕を営んで生計をたててきた我々の民族としての特徴で、こういう状況下では、他人、この場合、国際社会という意味であるが、他人の思惑というものを考慮に入れない、自分本意な思考というのは、我々の潜在的な民族的特徴であるといわざるをえない。

自分の村の外の出来事というのは、情報としての人々の頭脳を経て、自らの思考と照らし合わせて、受け入れるかどうかを判断しているわけであるが、ここで我々の民族としての欠陥として、隣人、つまり同胞がそれを受け入れれば自分もその判断に迎合しよう、という自ら情報の善悪正邪を判断することなしに、常に日本国内の大勢の動向に自らの思考を合わせる、という性癖が我々の政治感覚をいつまでも三流のままにしている原因だと思う。民主主義というものが議論することを建前に出来上がっていることは当然であるが、我々の民族としての特徴として、議論をするという風習が無いわけである。

言論で人を説得するという習慣が我々には潜在的に欠けているわけである。

我々は議論をすることと、意見を述べあう事を同じとみなしている。

意見はいくらでも出てくるが、意見がいくら出ても、結論がでなければ意味が無いわけで、我々は、幾つかの意見から結論をだすという意味で、真の議論というものを理解していない民族だといえる。

言葉で人を納得させる、という技法に不慣れなわけで、これは民主主義の根本を真に理解していないことの裏返しである。

言葉で人を納得し得ないということは、文字で書かれた法律を人が守らないのと同じである。

昨今、国会の答弁がテレビで放映されるが、あれを見ていると、つくずく日本人の議論下手というのを痛感する。

言葉で人を納得し得ない、法律を人々が守らないと云う事は、言葉を発する側、法律を作る側の問題もさることながら、それを聞き、遵守する側の問題でもあるわけで、言葉を発し、法律を作る側の数よりも、それを受け入れる側の数の方が格段に大きいわけである。民主主義というものが、数の原理で事を決めるものだとすると、我々の場合、衆愚政治ということになってしまうわけである。

政治が三流ということは、我々の民族としての政治感覚そのものが三流ということである。明治憲法というのは、明治の元勲達が、西洋、特にドイツ憲法を参考にして作ったもので、天皇を頂点とするあまり、それを軍部に悪用されて、大日本帝国というものを破滅に導いたわけであるが、現日本国憲法というのは、占領軍、GHQの意向にそった平和憲法であるが故に、その平和という部分を拡大解釈して、少しても触ると、その平和が木っ端微塵に飛び散るという感覚で見られている。  

ここには、真実、物の本質を冷静に眺め、人間の理念で物事を考える、という極々当たり前のことが当たり前に作用しておらず、その時々の感情論で、右に振れたり、左に振れたり、その時々の感情に左右されて中心が定まらない。

 

議会制度の日米比較

 

理念による政治と、感情による政治では、どちらがいいのかということは一概には決め付けられないが、今日の日本の政治状況というものを見てみると、政治が腐敗堕落しているという意味では、感情に左右される政治というのは、事の善悪を曖昧模糊にする事はありえると思う。

例えば、政治のシステムとして、日本とアメリカの議会制度を比較検討してみると、アメリカの議会ではロビ−活動ということが許されている。

ところが日本では、これは収賄罪として告発の対象となってしまうわけである。

このロビ−活動の解釈が、民主主義の本質が問われる最大のポイントではなかろうかと思う。

つまり、アメリカ議会では、議員に対する利益集団の利益誘導に対する報酬というものが認められ、ロビ−ストというのは、それぞれの利益集団の意向を議員に伝え、利益誘導に有利な議会発言をしてもらうことが合法とされているわけである。

これと同じ事を日本の議員が行なえば、完全に収賄罪で告発され、かっての田中角栄のロッキ−ド事件というのもこの範疇に入るものだと思う。

アメリカの議員制度というのは、国民の利益を追求するに不可欠の存在である、という発想によるもので、立場の違うものは、それぞれにロビ−活動を通じて、それぞれに自己の利益を追求すればいい、という発想が根底にあるわけである。

言い換えれば、民主主義のなかに競争原理が埋没しているわけである。

競争原理のなかに民主主義があるというべきかもしれない。

ところが我々の政治状況というのは、立法府というのは、利益集団の便宜を図ることなどもっての他で、法律というのは国民の隅々にまで公平に、限りなく平等に、国民の利益を敷衍すべきものである、という認識である。

立法府の議員に対する解釈がアメリカと日本では全く逆転しているわけである。

それが同じように民主主義という言葉で一括りに語られているので、その中身が大いに違っているのも致し方ない。

この違いは、それぞれの民主主義の成立の違いであろうと思う。

アメリカ大陸で出来上がった民主主義というのは、不毛の大陸で、開拓者がフロンテイアを切り開く過程で、人間同志は結束してそれぞれの利益を追求し、他人の権利を侵さないようにするためには法律というもので最低のモラルを決め、それを遵守することにより、全体の繁栄を勝ちとろうというものである。

その根底には、自己の尊厳と自主と独立があるわけで、その中には、自分の身は自分で守るべきだ、という自己防衛の概念が内在しているわけである。

その自己防衛を社会に委ねるための自治体の形成であり、その自治体の集合が国家となっているわけである。

つまり自己の確立が前提にあって、その集合が自治体であり、そのまた集大成が国家である、という下からの積み上げで国家というものが成り立っているわけであるが、我々の場合は、最初に国家ありきという概念で、民主主義というものが成り立っているわけである。、その中で、議会制度というものも、選挙権なるものも、上からの思召しで与えられたという感じである。

だから進歩的知識人の中には、この選挙権を行使することを拒否して、国家に抵抗しているつもりの人がおり、そういう人に限って辛辣な政治批判をするわけである。 

日本の政治が理念の論争を外れ、感情で左に傾いたり右に傾いたりすることの善し悪しは一概には言い切れないが、戦後日本の民主主義というのは、紛れもなくアメリカから移植されたことは相違ない。

しかしアメリカと日本の民主主義というものは、似て非なる物に等しい。

先のロビ−活動にしても、例えば、アメリカの自動車産業の利益を代表するロビ−ストが日本の車をボイコットするようなロビ−活動をしたとすると、それに対抗して、消費者側のロビ−ストが同じようなロビ−活動を展開して、院外で盛んにロビ−活動が展開するわけで、議会というのはその結論を出すにすぎない。

そして出た結論に対しても、アメリカ大統領の政治判断が再度チェック機能を果たすことになるわけで、民主主義というのはこのように手間暇がかかるわけである。

ロビ−活動が功を奏するというのは、議員立法でなければ意味が無いわけで、その意味で、アメリカでは議員立法が主で政府提案の法律というのは限られている。

ところが日本では、このロビ−活動の部分というのを、大方の政治家は、国民の声という風に曖昧模糊とした表現で指し示しているが、実際には架空の概念でしかない。

日本の場合、政治家の側に法案立案の能力が無いわけで、議員立法というのは少なく、官僚が作った法案による政府提案の案件を採るかとらないかの賛否以外に無いわけである。日本の議会が、政府提案の法律の善し悪しの判断をするだけの機関だとすれば、衆議院議員の選出の仕方というものを再度検討する必要があると思う。

国会議員が日本全国津々浦々に人口に比例してほぼ均等に割り振りされた国民から選出されるということは、ある意味では我々の平等主義の顕著な現れであるし、平等であれば民主的だという思い込みに他ならない。

そこには自由主義というものをある程度まで否定し、管理された平等主義が競争原理を押さえ込んでいる姿がある。

我々は、自由奔放な競争原理というものには耐えられず、ある管理された状況下での制限付きの競争しか生き長らえないということの証左である。

議会の立案が常に政府提案であるので、我々の政治状況というのは、院外活動というのが異端視され、党と党の密約という雰囲気で捉えがちである。 

ここで登場してくるのが腹芸である。

言葉の戦いを放棄して、腹と腹の探り合い、という極めて日本的な政治手腕が物を云うわけである。

民主主義の具現者である西洋の人々が、個人の至福を生き甲斐にして国家を形作っているのに対し、我々は、属する組織の不滅を信じて、民主主義というものを利用しているふしがある。

西洋の人々は、個人主義の尊重のうえに、民主主義というものを下から作り上げているのに対し、我々は、個人主義というものを履き違えているので、民主主義の名を語りながら平等主義に陥って、人が平等ならば、個人主義が埋没されてしまうというジレンマに気が付いていない。

管理された平等主義というのは、他ならぬ共産主義と軌を一にするものである。

サンフランシスコの講和会議で、世界中の、共産主義国も含んだ国々と、全て平等に条約を結ぶものでないから日本の独立は罷り成らぬ、という論法はこの平等主義の言わんとするところと同じである。

戦後の日本の反体制、特に野党勢力というものは、全てこの平等主義による体制批判で終始しているわけで、それは社会党をはじめとする革新勢力の分布と見事にオ−バ−・ラップしている。

アメリカの政治と日本の政治を見比べて面白い事に気が付いた。

というのは、日本の政府には外務省というセクションがあるが、アメリカには外務省というセクションがなく、その反対に国務省というセクションが存在することである。

日本の国務大臣というのはあくまでも日本国内の総括責任者で、沖縄とか北海道の開発を担当しているが、アメリカの国務省というのは、実質的には日本の外務省の役割を担っているわけである。 

アメリカから見れば、世界の問題というのは、アメリカの国内問題であるという認識かもしれないが、もしそうだとするといささか思い上がった発想ではないかと思う。

我が国は四周を海で囲まれて、海の向こうは全て外国という既成概念で、島国的発想なるが故にそう見えるのかもしれないが、地球規模で事にあたろうとするセクションが国務省というのはいささか違和感がともなう。

それとも外交と内政で一線を引くことは出来ない、という発想によるものかもしれないが、もしそうだとすると、日本のように外交と内政を区別してセクションを分けるというほうが不合理かもしれない。

日本のように、地球上の、吹けば飛ぶ様な小さな島国ならばこそ、外交と内政は一体の物として捉える方が合理性があるかもしれない。  

日本の外務省というのも戦前からあるセクションで、戦前の物が全て悪かったわけではない。

我々の選挙権というものも戦前から存在していたわけで、戦前は制限がついていたとはいえ、戦後アメリカから移植されたわけではない。

戦前の物を残したというのも一種の占領政策の一手法で、その意味で、アメリカ占領軍の行なった占領政策というものは実に日本を統治するに長けた手法であったわけである。

占領軍が日本を統治するのに都合にいいものは残し、占領軍として将来に危惧を含むものは壊して、占領政策に都合のいいように料理したわけである。

彼らが残したものの最大の物はやはり天皇制であり、日本国憲法であろうと思う。

彼らは、日本を統治するに際して、天皇の威力というものを最大限に利用し、日本国憲法というものを残していったわけである。

その意味で、戦後50年を経た今日、我々が、我々の憲法を見なおしてはならないという論法はどうにも腑に落ちない。

天皇制というのは、我々が古来より天皇を象徴として奉ってきた歴史というものがあり、歴史の継続という意味から、天皇家以外の者が云々する筋合いはないが、憲法というのは我々民族の規範であるし、人為的なものである以上、今日的な意味合いを込めた新しい憲法に変えるべき時であると思う。

憲法第9条を云々するという意味も含めて、自主憲法の制定ということが国民的コンセンサスを得てもいい時期になっていると思う。

人というのは社会的行動を行なう生き物である。

社会的行動ということは、他人の行動から学ぶということに他ならない。

我々は、隣人の行動を見て自分の行動を律するわけで、これは猿が物を洗ってから食べるという知恵を持つ過程と同じで、他人の行動を見て個人が学習するわけである。 

社会的行動の中には、それぞれの役割分担ということもあると思う。 

この役割分担ということは、職業の選択とか、階級制度の確立という事もあるわけで、自由主義社会というのは、そういう生き物としての自然の摂理をそのまま温存して、それぞれの個人が自らの力で個人の至福を実現するということである。

人間が思考をめぐらして考えついた共産主義というのは、このような自然の摂理というものを全否定して、つまり個人の至福を追求することを悪とみなして、組織としての集団に献身的に貢献することのみを人間の生き甲斐だと規定したところに失敗の原因が潜んでいたわけである。

一つの独立国として、世界各国から承認された主権国家が、自らの自主憲法も作り得ないということは、このような自然発生的な摂理をも否定しているということである。

憲法などなしでも人々は生き長らえることは出来るであろう。

しかし、それでは芋を洗う猿の域を脱しておらず、人として生まれた価値が無いわけである。

人は生れ乍らにして戦争を好むものではない、しかし、生まれ落ちたときから争いごとを避けては生きられないわけで、幼少の頃は兄弟喧嘩、学校に上がれば年長、年少者、同輩との確執、成人すればあらゆる場面で生存競争があるわけで、その一つ一つがある意味で戦争なわけである。

これを国家という集団に当てはめれば、人の生き様と、国家の在り方というのは一致するわけで、そういう関係で見れば、個人の家の家訓が有るのと無いのでは人の生き方に多少の影響が出ると思われる。

家訓が無くても人は生きられるとの同じように、国家に憲法が無くても国家そのものは存続し得るが、それで我々はいいのか自問してみる必要がある。

憲法第9条を触れば、我々は再び侵略戦争をはじめるから、あれは触ってはならないという論法は、戦後50年を経た日本人の本質というものを全く理解していない議論だと思う。我々の今日の同胞の中で、戦争、武力の行使、他国を武力で制圧しよう、と本気で考えている日本人が本当にいるのであろうか。

そういう日本人が居るという想定のもとで、9条を触れば戦争をしかねない、という発言だとしたら、その人は、我々の同胞について全く明き盲としか言い様がない。

現状認識のおびただしい錯覚、錯誤としか言い様がない。

戦後50年の日本の歴史の中で、一番戦闘を好む集団といえば、皮肉なことに、平和主義を唱えながら好戦的な行動とっている社会党をはじめとする革新政党のシンパたちであった。

安保闘争、学園紛争、成田闘争、浅間山荘事件、大菩薩峠のリンチ事件に見る彼ら全共闘グル−プの行動が、その好戦的な行動を如実に示しているではないか。

彼らの行動については項を改めて述べるつもりであるが、戦後の日本で、あの集団ほど武力の行使を実践した集団はないわけである。

これらの集団が精神的には日本の革新勢力と結びついており、政党側では、自らにその社会的批判が振りかかってくる事を恐れて、突放しているが、彼ら暴走グル−プにしてみれば、現実の政治家が、革命を本気で考えていないことへの跳ね返りにすぎない。

戦前の2・26事件のように、若手の青年将校が当時の政治の実権を握っていた軍部と軍部と結託していると思われた政治家に鉄槌を下したのと同じ精神的構造で、戦後の暴走グル−プというのも、日本の革新勢力というのが、真剣に革命を語る事無く、政治屋として堕落している現状を憂いての行動だと思う。   

猿の集団が新しいことを学習するときには必ず若い集団の好奇心が最初の端緒を作るということが研究の結果わかってきているが、人間の政治の状況も、常に若い青年によってそのきっかけが提供されるわけである。

大日本帝国というのは、2・26事件を引き起こした青年将校の行動がきっかけで、滅亡まで転がり落ちたが、戦後の若手青年たちの政治的行動は、革新とは逆に、保守的な精神構造を増幅させて、あの反体制の双璧であった社会党をも政権内部に取り込んで、五月雨的な社会党の消滅を早めたわけである。

村山政権というのは、社会党としては風前の灯で、社会党員が政権の座に居ることじたいが保守に衣替えしたに等しいことである。

レッドパージ

 

悪法の存在意義

 

戦後間もない昭和24年に占領軍、GHQの司令により、日本の大学から赤い教授の追放、所謂、レッド・パ−ジというのがあった。

戦前、戦中の旧体制の思想、信条の圧迫で、我々は自由なものの考え方と云うものを禁止されていたわけであるが、占領軍の開放によって、そういった従来の重しのようなものが取り払われてみると、この時代の進歩的知識人のことごとくが共産主義者か、そのシンパになってしまったわけである。

前の時代の反動ということも云えるし、価値観の転換という表現も出来るであろうが、軍国主義が大手を振って罷り通っている間は沈黙を守り、その軍国主義が消滅をみると、我がもの顔をして赤旗を振り回す、という言動も日和見主義そのものであると思う。

時の状況に合わせて、自らの信念を変化させる、という生き方は、人間の処世術としては致し方ない面があると思うが、それを他人にまで強制して、赤旗を振らないものが非国民でもあるかのような宣伝をする輩には、いささか侮蔑の念を持たざるをえない。

時の時流に合わせて、日章旗を振ったり、赤旗を振ったりすることは変節以外のなにものでもない。

これは、世渡りの手段としての変節を広言してはばからない人々にとっては、蛙の面に小便をかけるような事であろうが、人間の真理というものが、時世の変化によって、そうころころ変化するようでは、何が真実の善かということを見失ってしまう結果に成る。

事実、1990年から1991年のソビエット連邦の崩壊ということは、この時代において、アメリカと対抗していたソビエット連邦共和国という砂上の楼閣が崩れ落ちる現実というものを、どういう風に見ていたのか知りたいものである。

それが戦後日本の民主主義を声高に叫んで、革新を旗印にしていた日本の知識人の総意であったわけである。

この当時の日本の知識人が、戦時中の沈黙をやぶり、戦後になって共産主義に傾倒して、赤い国のみが人々のユ−トピアである、と信じて疑わなかった答えであったわけである。沈黙を強いられた反動として、戦後、進駐軍による言論の場が提供されると、猫も杓子も共産主義者か、社会主義者に衣替えしてしまったわけで、その揺り戻しとしての行きすぎた行動を、逆にGHQに咎められると、今度は地下に潜っての破壊工作の実施、という過程を踏むことになるわけである。

その過程の一つとして、レッド・パ−ジという赤狩りが誘発されたわけで、大学から共産主義に同調するとみなされた教授達が追放される、という事態になったわけである。

この時、東大総長の南原繁の談話というのは

「我が国は、米国と事情が違い、長い間政府の思想統制下において多くの犠牲を払って学問の自由確立に苦慮してきた。

新憲法により、学問の自由が保障された今、我ら大学人は、何をおいても、この学問の自由を守らなければならない。

大学はどんな思想学説でも研究し、その成果を教え発表するところで、国立大学で教授が単に特定の政党に所属していることだけで教授としての適格がとやかく云われる理由はない。

我々は、研究の成果を学内だけでなく、国民公衆に提供する義務があり、また現実の政治社会問題を論ずるのは、大学教授の社会的責務だと考える。

大学教授は自己の職責を立派に尽くされんことを希望する。」

極めて説得力がある内容であるが、ここに日本の知識人の陥っている欠陥がある。

「思想統制下において多くの犠牲を払って学問の自由確立に苦慮してきたという」言い分は、美濃部達吉の天皇機関説を擁護する事無く体制側に破れ、滝川事件でも、体制側に屈伏したわけで、苦慮はしただろうが、それを全うしたわけではない。

南原繁の発言というのは、この時代だからこそ出来た事で、所謂、時代に迎合しているにすぎない。

学問の自由確立という点では、反論を許さない真理が有るように見えるが、大学がどんな学説でも研究の対象にすることはやぶさかではないが、その研究の成果を教え、発表するということは、必ずしも大衆に貢献するということとは限らないわけで、そこには発表に値するものと値しないもののふるいわけがあって然るべきだと思う。

また大学の関係者が、特に、国立大学の関係者が特定の政党に所属するという事も、民主的な考えのように受け取られがちであるが、公僕として、特定の政党に肩入れするということは、厳に慎むべきことだと思う。

特に大学教授という立場は、考え方の白紙の状態の学生に対して、極めて強い影響力をもっているので、特定の政党の宣伝のみを吹き込まれては、国民大衆としてはたまったものではない。

大学教授という極めて影響力のある立場を利用して、特定政党の利便、宣伝、PRのみに専念してもらっては、公平な学術と掛け離れた行為だと思う。

その意味で、大学教授をはじめとする国家公務員及び地方公務員というのは 特定政党に所属することは禁止すべきであると思う。

これが民主化の基本であろうが、これを逆手に取られたのが戦前、戦中の大政翼賛会であるわけである。  

1994年、平成7年の政治の状況というのは、規制緩和が争点の一つになっているが、戦前の政治状況の中で、政党、特に共産党の跋扈が新たな規制を誘発して、それが治安維持法に発展し、政党人の自由奔放な発言に釘が刺されわけである。

共産党というものが暴力による社会改造を前提にしているかぎり、これは大部分の、自由を尊重しようとする主権国家では容認し得ない思考であるはずである。

戦前の日本の進歩的な知識人は、沈黙をすることで身の安全を維持してきたわけで、その弾圧がなくなった途端に、暴力による社会改造を是認する政党に大学の関係者が共鳴すること自体があまりにも日和見で、それを広言してはばからない知識人の思考というものは、世の中に迎合する浮草の感じさえ拭いきれない。

日本の国立大学に共産党員の教授がいる、ということは別の表現を借りれば、革命の理論武装をしているということになるわけで、日本共産党に属する政治家というのを、政治局員であるとすれば、日本の学生運動の運動家といわれる人々は、共産党の先兵、戦闘員であり、赤い大学教授が理論武装の立案者である。

日本の国立大学で共産党と共産主義を研究する、という大義名分は、そのままミイラ取りがミイラになったようなもので、学術研究だけでおわらないのである。

大学人であればこそ、その辺りの事情を一般国民よりも厳密に考えて、思想、信条の自由ということを、より厳格にとらえるべきではなかろうか。

レッド・パ−ジということは、占領軍による占領政策の一環として、日本側に突き付けられた踏絵の一種であろうが、折角日本を開放した占領軍が、再び言論の自由を封殺しなければならない状況を作り上げてた背景には、日本側の国民の、あまりにも野放図な思い上がった過激な発言と行動が相次いだ結果であって、言い方を変えれば、自らが播いた成果を自ら刈り取るようなものである。

ここに規制緩和と規制強化のイタチゴッコがあるわけである。

日本における共産主義者の動きというのは、戦前からあるわけで、大杉事件とか大逆事件というのは、そうした行きすぎの行為を撲滅するための官憲側の策謀であったわけである。これらの事件は、戦後、思想、信条の自由に反するものである、として官憲側の行きすぎが問題にされているが、労働者の開放を唄いながら、政府転覆と企てていると思われれば、弾圧の対象とされても致し方ない。

問題は、政府転覆を図ろうとする考え方の蔓延よりも、その当時の官憲サイドが、こういう風潮を黙殺しても構わない、という世論の支持である。

官憲サイドの行動、体制側の行動というのは、常に世論の風潮、所謂、ム−ドに左右されて、コンセンサスがありさえすればそれが正義であるとする、誤解のうえに成り立っているわけである。

こういう時代に、真の正義漢ならば、当然、反発をするわけであるが、戦後の民主主義者を自称する知識人の人々は、この時代には沈黙を守っていたわけである。

沈黙を守るという事は、所謂、体制サイドに対する声なき抵抗である、とするのはあまりにも彼らに同情的すぎる感情で、実際は、彼らとて火の粉が降りかかからないように汲々していたに違いない。

そして、アメリカ軍に開放された時点で、戦前、戦中の恨みを一気に晴らすがごとく、体制側に抵抗する図というものは見苦しいかぎりである。

治安維持法だとて、独裁者が勝手に作った法律ではないわけで、日本の民主主義の手順を踏んで出来ているわけで、その過程において、被選挙権にはかなりの制限が加えられ、誰でも彼でも国会議員になれるというものではなかったにしろ、法的手続きとしては、十分は手順を踏んだものであったわけである。

ただ悲しいかな、国会議員に選出された人々というのが、軍人に対して、ものを言える立場でなかったが故に、大日本帝国の滅亡という終焉を迎えたわけである。

新生日本の国会議員というのは、GHQの監視下で行なわれたにもかかわらず、共産党員の大量当選者を出すという異常な事態を招いたわけである。

そういう状況下であってみれば、当時の占領軍、GHQが、日本共産党員の行動を封じ込めなければならないと判断するのも無理のないことで、別な視点でこれを眺めれば、戦前の治安維持法の存在意義というものも必要不可欠であったと言わざるをえない。

 

欲望実現としての政治

 

日本の法律の恐ろしいところは、文字どおりの字句の解釈で理解されるのではなく、その本旨を、どこまでも拡大解釈をすることで、己れの利益に結びつけるところにある。

この拡大解釈というのは、体制側のみが行なうのではなく、反体制の側も、体制側と同じような拡大解釈で論議をするので、両陣営で妥協点というものが全く存在しない不毛の議論に陥ることである。

南原総長の云う「新憲法で学問の自由が保障された・・・・・」という言い分も、時代の風潮に迎合するということである。

旧日本帝国憲法下で天皇制を擁護し、軍国主義に邁進した、かっての愛国臣民の思考形式と何ら変わるところなく、憲法というものを、水戸黄門の印籠の如く振りかざせば、それが正義だという錯覚にすぎない。

この心理は、我々が幼少の子供を諭すときに、「悪戯を止めないとお巡りさんに言い付けますよ!」と云う発想と同じで、常に自分以外の権威ある象徴を持ち出さないことには、自分自身の行動を律することが出来ないということである。

この時点で、体制側というのは、アメリカ占領軍としてのGHQとその指導下にある日本政府というものがダブルで存在していたわけで、その当局が、共産主義の蔓延は日本の将来にとってよくない結果をもたらす、と判断したことによる処置であったわけである。

統治するものと統治されるものとの対立ということは、古今東西、全宇宙規模で普遍的なことである。

政治には腐敗が付きまとうことも、古今東西、普遍的なことであるが、我々の戦後の政治というものを眺めてみると、統治する側というのは、常に日本国民の将来を勘案して法的処置をとろうと動いているのに反し、所謂、反体制というのは、常にその処置がよくないことであるという判断のもとで行動している。

価値観が体制側と反体制では逆転しているわけである。

すると、どちらの価値観が「善」であるのかという問題に突き当たるわけであるが、戦後50年の世界の歴史の流れを振り返ってみると結論は出てしまったわけで、この時代に、共産主義を擁護して、共産主義者の取締に反対した人々の主張は何であったのか、と言わざるをえない。

主義主張、思想信条、及び言論の自由というものは基本的には「善」であり、正義であるので、これを国家体制が圧迫するということは基本的には「悪」である。

しかし、その主義主張、思想信条、言論発言にも、人間として基本的に、普遍的な節度というものがあって然るべきで、暴力で革命を起こして政府を転覆しても構わない、という考え方が常識として通るわけがない。

革新の人々が云う日本の平和憲法のもとで、暴力を肯定するような発言を容認する方が異常である事である。

だからこそ、戦前の治安維持法であり、戦後のレッド・パ−ジであったわけである。

体制側の行為がすべて正しいとは言い切れないし、「善」であるとも言い切れないが、少なくとも、その思考の中には、日本全国の庶民、国民の利益ということをふまえての行為であるのに対し、反体制側の主張というのは、常に自己の利益を基軸に据えた行為である。南原総長の談話というのも、共産主義の教授の身分を擁護するための発言であり、その意味で、身内を庇っている事であり、自己の利益、自己の所属する集団の利益の為の反対である。

戦後の反体制運動、反政府運動で、大学教授が堂々と自己の所属する大学名をかかげて抗議行動をするということは、自己の社会的知名度を考慮に入れた巧妙な宣伝活動に他ならない。

大学が純粋に思想科学の研究のみをする場であるとしたら、大学教授が抗議行動をする場合も、その所属団体の名を隠すぐらいの配慮が必要なわけで、これでは大学の自主独立を掲げながら、特定政党に肩入れしているのと同じではないか。

戦後50年の歴史の中で、革新を旗印にしてきた人々は、体制側の施策にはことごとく反対してきたが、結果的には、当時の体制側の処置、つまり政府の処置は間違っていなかったからこそ、我々は、今日、繁栄を享受出来ているわけである。

特に安全保障の面では、日米安保というものが大きく貢献しているわけであるが、60年代の安保改定に反対した人々の責任というのは一体どうなっているのであろう。

私の個人的な見解では、日本の政治は、民主主義という尺度で計れば明らかに三流の域を出ていないが、国民のコンセンサスは十分反映していると思っている。 

戦前、戦中の軍国主義の時代をも含めて、日本の政治の根底には、日本国民の潜在的な意識を反映し続けていると思う。

我々の国の政治というのは、巨大な独裁者が、権力を縦横無尽に振りかざして君臨しているのではなく、天皇は、昔も今も、象徴の地位に甘んじ、政治の実権は、総理大臣にあるわけで、その総理大臣というのは常に入れ替わっているわけであり、この入れ替わりの過程で、国民のコンセンサスを反映しているものと思う。

1994年、平成6年に社会党の党首が内閣総理大臣になった、ということもその表れの一つだと思う。

戦前、戦中の軍国主義的国家運営も、その時代の日本の人々の願望の集大成の結果であり、戦後の民主主義が曲がりなりにも継続してきた背景には、我々庶民の、豊かな生活をめざす、という潜在意識が流れていたからこそ、共産革命に至る事無く、今日に至っているものと思う。

共産主義者というのは、1917年、日本の年号では大正6年に、ロシアで革命を起こし世界初の共産主義国家というものを建国したわけであるが、それ以来というものは、革命の輸出に余念がなかったわけで、その根底に流れている深層心理は、帝国主義的領土拡張主義で、所謂、覇権主義であり、少しでも共産主義の地域拡大を図ることが共産主義者の究極の目的である、というものである。

その事実は歴史が示しているわけであるが、共産主義の掲げている理想というものは、非常に高遠で、人々を貧困から救う、という意味で説得力があるが、その運用にいたると、政権維持という意味からすれば、太古から継続されたままの権謀術策、人間の欲望がそのまま露骨にあらわれた未熟な政治である。

それこそ、共産主義を水戸黄門の印籠のように掲げただけの独裁政治で、共産党の共産党による共産党員の為の政治であることは言を待たない。

陰謀、暗殺、粛正、逮捕、強制収容所、収容所列島など、ソビエット連邦共和国の歴史を見れば、そのことが一目瞭然と理解し得るが、そういう国に憧れている日本の知識人や革新と自惚れている人々の頭の程度は計り知れない。

民主主義のめざすものというのは、最大多数の最大幸福で、その最大の中に入りきれない人は、あっさり切り捨てる、という意味を内在しているわけであるが、我々、日本人の解釈からすると、全員が幸福にならなければならないという平等意識にすり変わっている。これは最初から無いものねだりであるわけで、民主主義といえども万能ではないわけである。

日本でレッド・パ−ジが吹き荒れた頃というのがどういう時代だっかかといえば、海の向こうの朝鮮で朝鮮戦争が勃発したのがその翌年の昭和25年、中華人民共和国という共産主義国家の成立が同じ昭和24年、かっての西洋列強の威光に影がさして、植民地政策の転換を迫られてイギリスの旧植民地であったインドが独立をしたのが同じく昭和25年のことである。

この時点ですでに米ソの冷戦が始まっていたわけで、占領下に置かれた日本としては、GHQの命令は受けざるをえなかった時代である。

第2次世界大戦後の世界中の勢力均衡が混乱した中で、旧日本の植民地であった朝鮮民族の身の振り方というのは実に不細工なものである。

朝鮮と同じような境遇におかれたドイツの人々にも云えるが、国土が米ソの両陣営に分断占領されたことがその後の民族分断のきっかけになったことは否めない。

しかし、ドイツはその分断を1989年に統一を実現している、けれども朝鮮の人々は、今だにそれを成し得ていないわけである。

第2次世界大戦後に、全地球規模で、あらゆる主権国家が米ソのどちらかに色分けされたことは、双方の巨大な軍事力の前では致し方ない選択であったろうけれど、一つの民族が分かれたまま双方に跨がって存在するということは、米ソの冷戦のせいにするよりも、民族自体の選択の問題だと思う。 

現に東ドイツの人々は、共産主義陣営に組するよりも自由主義陣営に入った方がいいということを意志表明したわけで、その本家本元のソビエット連邦共和国自体が壊滅した今、自由主義陣営にのみしかすがる道が無いわけである。

共産主義とか社会主義というものが挫折した理由というのは、こうした考え方が人間の知能によって、理性に基づいて組み立てられているというところのあると思う。

我々は、特に感情に支配される民族であるので、理性による思考よりも、感情による情緒によって物事を判断する傾向が強いわけで、体制側に反抗するという構図も、理性による判断よりも、感情による嫌悪感が前面に出るが故に、反体制、反政府という行為に走るわけである。

人間の理性によるものならばすべて合理的で無駄が無いように思われるが、人間というのは、無駄の効用を全く否定できるものではなく、理性で考えればナンセンスなことでも、人間の思考には、無駄と承知しながらそれに惹かれる性癖があるわけで、それを全く排除した思想というもには拒絶反応を示すものである。

日本の革新勢力の人々が崇めたて祭った共産主義というものも、一つの考え方として立派なものであるが、それを政治の場に実践する人々というのは、人間の太古からの欲望を十二分に持ち合わせた卑俗な人間なるが故に、その思想とは裏腹な覇権主義、領土拡張主義、私利私欲の固まりになっているわけである。

共産主義というものを、自分の私利私欲の成就のために利用しているにすぎないわけで、それを実証したのが、かってのソビエット連邦であり、中華人民共和国の実情である。

自由主義というのは、人間の欲望を否定する事無く、人間の欲望を前提として、その欲望を如何に法の枠の中で実現させるかという方法論にすぎない。

そのためには自由競争が建前となっているが、あまりにも野放図な行為は、自ずから社会的に悪影響を及ぼすので規制しなければならないという考え方で成り立っている。

今日の規制緩和の問題は、この点まで遡って考えなければ本当は片手落ちである。

その意味で、戦前の治安維持法も整合性があったといわなければならないが、共産主義にしろ、かっての日本の軍国主義にしろ、はたまた戦後の日本の民主主義にしろ、法の運用という点で、自らに都合のいい拡大解釈を行なうのが常で、その意味からすれば、人間の行為というのは、主義主張を超越して欲望の下には意味を成さないということである。

しかし、現実の社会というのは、支配するものとされるもの、統治するものとされるもの、圧迫する側とされるもの、というふうに二分割されているわけで、これを是正することは人類の永遠のテ−マであろうと思う。

 

処世術としての変節

 

先に、反体制、反政府運動というのが自己の利益を追求するのみであると述べたが、自己の利益を追求するという行為も、社会が自由主義体制であるからこそ出来るわけで、ソビエット連邦や、中華人民共和国内でこういう行為が許されているのか、と言えば答えは

NOである。

思想、信条の自由、信教の自由、言論発表の自由が保障された国で、それを許していない国の宣伝布教をする、ということは古い言葉ではあるが非国民と云う表現が適当ではないかと思う。

自由な国で、自由の無い国を作ろう、という主張を何故に我々は許さなければならないのであろう。

戦後約50年というもの、日本の革新勢力というのは、事ある毎に、日本の憲法は平和憲法であるが故に世界に誇り得るものである、という論旨を宣伝鼓舞してきた。

社会というものが支配する側とされる側という2分割で成り立っているとすると、今日の社会現象というのは、支配される側の宣伝のみが世間に出回って、する側の論理というのは、その声の中から汲み取らなければならない。

政府側の宣伝というのはマスコミをよほど注意深く調べないことには見落としてしまう。政府の行なうことは悉く「悪」であるという論理は、いささか思いあがった思考で、国民の大半がこういう思考形式に苛まれると主権国家たる基本が崩壊してしまうに違いない。地球上には今日180以上の主権国家があるとされているが、そのことごとくが支配される側とする側という2分割になっているわけで、国家というものが、この二分割で成り立っているのは、「地球が丸い」と云う事と同じ普遍的な原理原則なわけである。

国民の総意を得た政治というのは、絵に書いた餅と同じで、現実の人間の営みの中にはありえないことである。

物事には因果関係というものがあり、先の第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争にもそれぞれに原因と結果があったわけである。

その原因の究明が歴史の研究であり、その結果が、今日の戦後の政治の混乱である。

しかし、歴史的事実として、日本はこの戦争に敗北し、連合国の占領下におかれ、戦後の一時期は日本の政治、日本人の政治というものが占領軍の意向のままに翻弄されることも致し方ない歴史の必然であったわけである。

そういう環境下で、日本国憲法が制定され、戦後の日本の政治が行なわれてきたわけであるが、占領軍の民主化の一貫として政府に反抗し、抵抗し、政府の行為に物も申す風潮というのが助長されてきたわけである。 

戦前、戦中は特高警察に怯え、治安維持法に怯えて、物も言えなかった人々は、戦後、占領軍によって、そういうものが一切抹殺された途端に、その反動として分不相応に反抗し、抵抗することがトレンデイ−になったわけである。

天皇制の廃止を声高に叫び、平和憲法なるが故に、それを改憲することは罷り成らぬ、と叫んでいる人々の心理というのは、自分の置かれた状況にあわせて皮膚の色をかえるカメレオンと同じである。

しかし、これは庶民の処世術でもあるわけで、信念に文字通り忠実であれば、人間は生き永らえることが出来ないわけで、それこそ亭主の好きな赤烏帽子というわけで、為政者の意向に合わせて、お世辞の一つも言わないことには庶民、大衆、一般国民というのは生き永らえないわけである。

戦後50年という歳月は、政府に反抗することで飯が食える時代になった、ということも言えると思う。

日本という国は、戦前、戦後にかかわらず、四周を海に囲まれた島国で、資源はなにもないという地理的条件は少しも変わらないわけで、その国が少しでも繁栄を目指そうとすれば、日本以外の外国との共存協栄しかないわけである。

それを武力で果たそうとしたのが戦前の日本で、武力以外の経済力で果たそうとしたのが戦後の日本である。

ここにも経済一流、政治は三流といわれる所以である。

そして、この地理的条件は変わることのない普遍的条件であるが、日本を取り巻く政治の状況、国際政治の状況というのは、日本の国民の意志とは無関係に変動するわけで、アジア大陸の状況、朝鮮半島の状況、それに対するアメリカの施政方針の変化というのは、日本の国民の意志とは全く無関係に変動するわけである。

国際状況に適宜適切に対応していくには、我々の側としては、よりよき選択しか道が無いわけで、日本政府の施政方針というのは、数ある選択肢の中から、我々の将来にとって一番ベタ−であると思われる選択しかないわけである。

ここで現行の為政者と野党的立場の革新勢力との価値観の相違が衝突するわけであるが、50年という戦後の日本の歴史の中では、その時々の政治家、為政者、総理大臣の選択は間違ってはいなかったといえるのではなかろうか。

これはある意味で、戦後の日本国民の総意を反映していたともいえるわけで、革新勢力側の言い分によれば、自民党の独裁政治という言い方の方が間違っていると思う。

しかし、それも経済を中心に考えた場合のことで、本当の意味で、政治ということを考えた場合、日本の国の憲法を今だに改正できないでいる、ということは戦後50年にわたる本当の意味での政治の怠慢だと思う。

現憲法には改正の項目もあるわけで、その項目を使って、正規の手続きを踏んで、きちんとした日本人の手による日本国憲法を制定することが、我々が政治的に一人前の大人になることだと思う。

戦争放棄の項目は、もっと厳密に条文化すべきであり、戦争放棄というとらえどころのない言葉など使わずに、自衛と侵略を明瞭にわけ、国際貢献という曖昧な表現も考慮に入れて、現代に通用する憲法を制定すべきである。

現行の日本国憲法の第9条というのは、素直に読めば、誰が読んでも、今の自衛隊は違法な存在とならざるをえない。

戦後50年の日本の歴史は、日本以外の外部の事情に振り回されて、日本国内における法律の整備を疎かにして、経済にのみ専心してきたが故に、このようなちぐはぐな状態を作り出したに違いない。

第9条というのは、完全に日本国内の問題というよりも、日本の国民の意志の問題であるかぎり、周囲の国際環境が我々に直接被害を及ぼさないかぎり、触らぬ神に祟りなしという按配で黙殺してきた結果である。

これは明らかに政治家の問題であり、怠慢である。

それというのも、戦後の政治家というのは、選挙という洗礼を受けるので、一般大衆に媚びる必要があり、憲法改正問題を正面から取り上げれば、世間の反発が目に見える形で振りかかってくるが故に、この問題に関する態度を決めかねているわけである。

文字通り逃げて回っているわけである。

これも戦前の我々国民が、特高警察や治安維持法に怯えたのと同じで、今日の政治家にとって、憲法改正問題に触れることは、政治生命を断たれるのと同じような心境ではないかと思う。

だからこそ、改憲反対といっていれば、政治生命は安泰なわけである。

そしてそれ故に、日本の自衛隊はアジアで最強の軍隊となり、しかもそれが日本国憲法では認められていない違法な集団として存在するが故に、国連の要請に基づく国際的な活躍の場に出でることさえ国内で賛否両論が沸き起こるわけである。

国内の賛否両論のうちは民主主義の基本であるのでいささかも憂慮する必要はないが、日本が貿易立国として中近東の石油に依存しているにもかかわらず、石油の輸送の安全に関して、アメリカ人の青年の血が流れる、という事態になった場合、我々は如何に対処すべきである。

我々の中には、その答えが出でいないではないか。

50年前の我々は、焼け野原に立って、ぼろぼろの衣服をまとい、その辺りの木の端を集めて煮焼きをしていたわけで、こういう生活環境ならば、中近東の石油や、その輸送途中の安全のことなど、思慮の外に置いていていても生活に一向困らないが、今日の我々の生活はそんなわけにはいかない。

それを外国の軍隊に依存し、我々は、平和ボケのままで生活をエンジョイするわけにはいかないと思うし、外国もそれを許してはくれないと思う。

湾岸戦争以降の国連の要請というのは、だんだんとそういう傾向に傾いてきた証拠だと思う。

 

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