革新のジレンマ

 

新憲法に対する思惑

 

我々の戦後史というのは1945年、昭和20年8月15日から始まっているわけであるが、戦後日本に進駐してきた国連軍、その中のでもアメリカ軍というのが実質的な戦後日本の支配者であったわけである。

その支配者のもとで、日本国憲法というのは制定され、布告されたわけである。

これには占領軍、アメリカの占領政策の意向が余すところなく反映されているわけで、それに関しては、日本側に抵抗する術が無かったわけである。

戦争に敗北した直後であり、日本の封建思想が綺麗に払拭されたわけでもない当時の状況としては、支配者の言うがままに従う外なかったわけで、その意味では、誰の責任でもなかったわけである。

このアメリカの占領政策というのは、日本の当時の政策決定や国策とは無関係に、アメリカという国家意志に左右されたわけである。

しかし、1951年、昭和26年のサンフランシスコ講和会議の後では、アメリカ側も日本が必然的に憲法を変えると思っていたのではないかと思う。

その確証というものはないが、敗戦、占領、独立という過程を考えれば、誰の目にも自主憲法の制定、ということが主権国家としての最初のスタ−トであることが理解されていたのではなかったかと思う。

ところが、我々の先輩というのは、それをしなかったわけである。

このことは天皇制についても言えるわけで、今の天皇制、象徴としての天皇制も、日本国憲法の成立と同じレベルで、我々の先輩諸子の恣意的な無関心成るが故に、現状で固定されてしまったわけである。

戦後の日本の革新勢力というのは、日本国憲法をこのまま維持することが日本が将来にわって平穏無事に生存できる基本だ、という仮説を立てているわけであるが、もしそうだとすると、現行の天皇制もそのまま受け入れなければならなくなるわけで、憲法改正に反対するが、天皇制は拒否する、という言い分は自己矛盾を含んでいることになる。

天皇制は認めないが、現行憲法はそのままの状態にしておく、という言い分は憲法を遵守する、という口実には成り得ないわけである。

戦後の革新勢力の言い分というのは、自分の立場にとって都合のいいところだけを蚕食しているだけで、全体を網羅した視野に欠けていると思う。 

明治時代の日本の人々は、天皇陛下を崇めたて祭り、大正から昭和初期の人々は、天皇に恐れおののき、現代の日本人は、天皇をスタ−として眺めているわけである。

これが偽らざる日本人の天皇を見る目であったに違いない。

このいずれの時代を通しても、天皇自信が自ら政治に手を加えたことはないに等しいと思う。

昭和天皇独白禄には、昭和天皇自信が政治に直接関わろうとしたのは2・26事件のときと敗戦の時である、とはっきり言明しているのを見てもわかるように、天皇は何時の時代にも象徴であり続けたわけである。

還元すれば、常に政治的に利用される立場であったわけで、国家の象徴というよりも、日本の政治の象徴として利用され続けたわけである。

占領軍としてのアメリカは、占領をする前から天皇の政治的利用ということを決めていたわけで、そういう当時のアメリカの施政方針、占領政策のなかで、日本側では何一つ能動的な行動は出来なかったわけである。

今、地球上で180以上の主権国家があるが、その中で日本のような君主制の国というのは30以下である。

大部分の主権国家というのが共和制であるか、独裁者の国ということである。

現行の日本国憲法が世界に類のない平和憲法だから維持しなければならないという論理に従えば、日本の天皇制も世界に極めて数少ない君主制であるが故にこれからも大事に温存させるべきである、ということにならなければならない。

つまり、革新勢力が声高に叫んでいる天皇制の批判というのは、自己矛盾に陥っているわけである。

戦後の民主主義の中で、我々は政治をするものとされるもの、支配されるものとするもの、政府と反政府、体制側と反体制という2分割の社会構造に対してどのように対応すべきか、という答えを出していない様な気がしてならない。

社会というものが不特定多数の人間の集団だとすると、それに社会秩序を作り、それを実効ならしめる機構というのは、好むと好まざると必然的に出来上がるし、出来なければ健全な社会とは言えないわけである。

その中で、統治するものとされるものが十分に意思の疎通を図り、不平不満を生じせしめない機構を作るということは至難の事である。

日本の政治の状況を見ても、体制側にべったりと迎合すれば大政翼賛会となり軍国主義とか絶対主義に陥ってしまうし、反政府運動が盛んになれば政治は機能しなくなるし、ほどよい中庸な政治というのはありえないことになってしまう。

体制の在りようによっては価値観までもが変動してしまうような、人間の作る世の中では真の善とか真の正義というものまで変動することになり、時の政治体制によって人としての基準まで変動することになる。

そういう状況下で、国民の納得する政治というのはありえないわけで、ましてや、国民の総意に基づく政治、というのも絵に書いた餅にすぎない。

しかし、現実の政治も、経済も、生きもので、刻々と態様を変化させるものである。

そして、今日のように交通通信の技術が発達した時代には、国内の政治が国内だけにとどまらず、国の主権としての一挙手一投足が、他の国に影響を及ぼす時代になると、国民の反政府運動というものも、そう簡単には起こしえないことになる。

いや、起こすことは簡単であるが、それが善か正義かという判断に苦労しなければならなくなる。

現行、日本国憲法では、そこにアメリカ進駐軍の強制があったか無かったという点を考慮に入れたとしても、天皇制を維持するということをうたい、第9条に戦争放棄をうたっているわけで、憲法改正反対ということは、天皇制を容認するということと抱き合わせで、第9条の戦争放棄を維持するということになる。

しかるに、戦後の革新系の人々の主張というのは、第9条はそのま維持するが、天皇制の方は廃止するという主張であった。

これでは自己矛盾以外のなにものでもない。

憲法というものは、主権国家としての存在意義を明文化したものである、とみなしていいと思う。

その意味では、必ずしも明文化したもののみがその国の憲法である、という定義は成り立っておらず、憲法を持たない主権国家というのも、この広い地球には存在するわけであるが、戦後の日本というのは、一応、太平洋戦争には敗北したとは言うものの、土着の人間は、国家を成す要因にふさわしい文化的背景が備わっていたがため、連合国は、日本を憲法による法治国としての形態を作り上げたわけである。

そういう背景から察すると、現行の日本国憲法というのは、当時の連合軍にとって、今後、日本のあるべき姿を想像して、占領に都合のいいように、アメリカの都合のいいように出来ている節がある。

第9条の戦争放棄の項目などその最たるもので、作った当人たちが、独立の暁には当然改正されるものと思っていたに違いない。

そういう背景を考えてみれば、反米思想に凝り固まっている日本の革新勢力というものが、アメリカの占領政策の置土産のような現行の日本国憲法を後生大事に維持するというのも陳腐な光景であり、それをそのまま放置している日本の保守系政治家の怠慢以外のなにものでもない。

憲法が無くても経済発展は出来るし、軍隊がなくてもアメリカの核の傘の下に居れば一応の繁栄にはありつけたわけである。

しかし、この経済発展も、アメリカの核の傘の下の繁栄も、日本自らの力によるものというよりは、アメリカと旧ソビエット連邦の東西冷戦構造による軋轢の中の歪によるものとみなした方がいいと思う。

 

自らの同胞を信用しよう

 

アメリカの占領政策が1950年、昭和25年の朝鮮戦争で変化するわけであるが、この時点で、現行の日本国憲法との軋轢が生じることに成るわけでる。

朝鮮戦争というのは1950年、6月25日、北朝鮮からの武力攻撃によって始まったわけであるが、これは朝鮮半島の北半分がソビエット連邦に占領されたが故の悲劇であり、共産主義というものが常に帝国主義的領土拡大主義に陥っている、という明らかなる証拠である。

朝鮮民族というのは、かっては清王朝、大日本帝国、そして第2次世界大戦後は米ソという超大国の支配を受け、民族の自主主権というのは今だに達成せずにきているわけである。これを民族自身の責任とするか、他人、他国のせいにするかで、彼らの今後の将来に大きな違いが出てくるのでないかと思う。

海を隔てたり隣国の状況で日本の政治も大きく揺さ振られたわけである。

この時が日本国憲法を見なおす大きな転機であったことは間違いないと思うし、この時期を逸したとしても、日本がサンフランシスコ講和会議で独立を回復した時と、憲法を見なおす時機は2回あったと思う。

前の時は、占領下という状況であったので、日本が自主憲法を主張するタイミングとしては自ずからブレ−キというか戦後間もないということで遠慮というものがあったといえるかもしれない。

しかし、独立を回復した時点というのは、憲法を見なおすには最適のタイミングであったように思う。

あの憲法を平和憲法として位置付ける共産党や社会党の見識も、理論的、観念論から言えば尤もな事であるし、国民の大多数も、戦争の惨禍はもう懲り懲りである、という国民感情は無視できないものがあると思う。

しかし、民族の自主独立とか、自尊自衛、主権の維持ということは、感情論では通らないことであり、冷徹に現実を直視した実務的でなおかつ国際的に通用するコモン・センスというもので考えないことには民族の誇りというものを捨てたのと同じである。

戦後の我々の生き方というのは、確かに、民族の誇りというものを金繰り捨てて、経済のみに専心してきたきらいがある。

戦後50年、我々が再び戦火にまみれる事無くこれたのは全くの偶然でしかないと思う。東西冷戦の片隅で、日本が戦火に引き込まれる事無くこれたのは、アメリカが積極的に日本を守ってくれたわけではない。

たまたま、太平洋戦争の置土産として、日本にアメリカ軍の基地を残しておいたので、日本に対する攻撃がアメリカに対する攻撃となってしまうからこそ、我々は、その傘の下でのうのうと経済成長にのみ専心できたわけである。

それと裏腹に、アメリカからみれば、日本という太平洋上に浮かぶ浮沈空母というべき国土を、共産主義に引き渡すわけにもいかなかったわけで、日本側の国益と、アメリカ側の国益が一致していたからこそ、我々は経済のみに専心できたわけである。

こういう戦後の日本の置かれた立場から、日本国憲法を眺めてみると、戦後50年にもわたって、連合国側の理想を絵に書いたような、連合国の為の憲法というものを後生大事に掲げている我々の民族のアイデンテイテイというものは一体何であるのか、ということを自問自答してみる必要があると思う。

その自問自答の中で考えられることは、憲法を変えるということは、最初は連合軍の理想を絵に書いたようなものであったとしても、その実は、我々の潜在的な理想でもあったわけである。

しかし、この理想というのは、人類がこの地球上に誕生以来の願望であったわけで、人々は、その願望を持ちながら戦争を繰り返してきた、という現実も合わせて考える必要があると思う。

我々は理想は理想として、現実は現実として区別して物事を考えなければならないと思う。理想を追い求めるということは、人を励ますときによく使われる言葉であるが、ある意味で無責任な言葉である。

確かに、個人の願望を追求する生きざまの在り方としては、若い人々を励ます時にはこういう言い方が許されるが、言っている人は、その結果に責任を負っているわけではなく、その意味で全く無責任な発言である。

その個人を、国家という民族の集団として考えた場合、絵に書いた理想を追求するあまり現実を忘れるわけにはいかないわけで、民族の生存には、現実の生活がついて回るわけであるし、我々は、この地球上に日本民族だけが生きているわけではなく、180ヵ国という主権国家の中で生きているわけである。

日本国憲法というのは、日本以外に国にとっては、それこそ、あってもなくても一向にかわりはないわけで、彼らが心配していること、即ち、戦後の連合国が一番日本に対して危惧していたことは、即ち、日本が再び戦争をしでかす国なるかならないか、ということであったはずである。

我々は、再び、武力で外国を支配しようと思っているであろうか、今日の大部分の日本人、特に政治家というのは、日本が再び武力で外国に進出するようなことがある、などと思っている人は一人も存在しないと思う。

これは保守とか革新という分類をする事無く、今日の日本人の100%が、国際紛争に武力を使う、などということを容認しないと思う。

今日の政治家の怠慢は、憲法を改正すると、日本が再び武力を使うようになる、という発想に陥っているからこそ自主憲法の制定にブレ−キを掛けているわけである。

平和の維持にも、又、独立の維持にも、主権の維持にも、軍事力が必要である、という本質をなおざりにして、軍事力を持つことが即ち平和を覆す元凶である、という考え方に陥っているからこそ、憲法改正イコ−ル戦争という発想になるわけである。

戦前、戦中の日本は、確かに軍事イコ−ル政治という図式であったが、戦後それはご破算になり、戦後の我々は、その時代よりも一歩前進したわけで、その自らの民族の精神的進歩を信じて、今の日本人は決して軍国主義の戻ることもなければ、武力で他国を支配しようなどと云う発想に陥るような人は存在しない、という現実も直視したうえで自主憲法というものを考える必要があると思う。

 

産業復興の機関車

 

1950年、昭和27年の朝鮮戦争というのは、戦後の日本の沈滞した経済を復興してくれた福の神であった。

戦後の日本経済の高度経済成長の礎を作ってくれたといった方がいかもしれない。

終戦のGHQの民主化の一貫として、かっての財閥が解体され、飛行機を作っていた工場で鍋、釜を作っていたものが、朝鮮の戦線に出掛ける連合軍、主としてアメリカ軍の兵立占基地として、兵員の休養基地として、日本の国土というのは、それこそ太平洋に浮かぶ浮沈空母の存在であった。

車両、兵器の補修に、日本のかっての軍需工場が大いに活用され、それと同時に、戦闘に伴うあらゆる物資の補給を通じて、日本の経済は少しずつ息を吹き返したわけである。

我々の民族というのはピンチに陥ると、そこから某かのヒントを得て、それ以上に発展するところが実に不思議である。

敗戦という未曽有のピンチで、文字通り息も絶え絶えで、町には浮浪者が徘徊し、人の集まるところでは白い寝巻でアコ−デオンやハ−モニカを演奏しながら人々の同情心を集めていた傷痍軍人の姿が至る所で見られた頃、朝鮮で戦火が広がったお陰で、日本の産業は息を吹き返したわけでる。

この産業界の復興も、アメリカ占領軍の政策変更がもたらしたもので、占領下の日本としては、主権の発揮のしようもなく、これでGHQの基本方針であった財閥解体が中途半端に終わったことが日本の産業復興に大いに貢献したことは否めないと思う。

戦後の日本の経済復興は、朝鮮特需をきっかけにして、糸偏景気から始まったとしていいと思う。

戦争の終決ということで、軍需工場というのが軒並み廃止に追い込まれた結果として、鉄を扱っている工場は、鍋や釜を作らざるをえなかったが、日本国内の潜在需要というのは、衣食住の衣の部分から始まったわけである。

戦後の初期の頃は、文字通り衣食住のすべてが不足していたわけであるが、食に関しては、日本の農村というのは戦前、戦後を通じて、そう大きく変化するものではないにしても、外地にいた人々が復員という形で帰還してきたので、食を要する人々が増加した分、国民全般のパイの分け前は減ったわけである。

それにもまして、農業製品というのは、その時の気候に左右される生産物であるが故に、戦後の我々は、この時期、慢性的な食料不足に見舞われたわけである。

この慢性的な食料不足を少しでも解消しようと、援助物資を送りとどけてくれたのが他ならぬ旧敵国のアメリカである。

日本の農村は、戦前、戦後を通じて大きく変わったとも云えるし、変わらなかったと云える部分がある。

変わったという点ではやはりGHQの実施した、農地開放であるし、変わらなかった部分というのは、農村地域にかなりおそくまではびこった封建思想である。

GHQが農地開放したところで農業生産物がいっきょに増えるものではない。

我々は、戦後の数年というもの、飢餓の線上をさまよっていたわけである。

しかし、世の中が安定してくるとともに少しずつ食料生産というものは向上してきたわけであるが、新しい耕地面積が増えたわけではないので飛躍的な生産向上ということはありえないわけである。

食の次に欠乏していたのが衣服である。

衣服に関連する企業が隆盛を極める、という過程は発展途上国が近代化に向かうモデル・ケ−スである。

日本は2度同じ過程を経過したことになる。

最初は、明治維新後の経済発展のケ−スで、次が戦後の繊維ブ−ムである。

日本の経済発展は、そのたび毎にトラブルを引き起こしていることになる。

最初の繊維産業の発展の結果として、最終的には大東亜共栄圏という発想に陥り、侵略戦争に足を踏みいれる結果となる帝国主義に付随した軍国主義に陥ったわけである。

戦後の繊維ブ−ムも、アメリカとの繊維戦争とまで云われるような貿易摩擦を引き起こすことになってわけであるが、ここでは戦争の教訓というものが生かされて、ホットな戦争には至らなかったが、その引き金には十分なりうる要因を含んだ状況であった。

我々の世代にとって、繊維産業というと、農家の軒下でお婆さんが繭釜から糸を紡いでいる情景を思い出して、とてもビッグ・ビジネスという印象を受けないが、これがひとたび産業化という歯車に乗っかるとビッグ・ビジネスとして他の産業を圧迫し、人々の生活環境まで変えてしまうことになる。

生活環境の変化というのは、製品の受益者も生産者もひっくるめて、社会全般に変化をもたらすことになる。

生産者の側の問題としては当然、労働争議にみられるような、苛酷な労働条件の改善という問題に関連してくるわけである。

この労働争議にイデオロギ−を持ち込んで、騒ぎを大きくするのが共産主義者という構図が出来上がるわけで、これがひいては治安維持法という弾圧につながるわけである。

消費者の立場というのは、安くて品質のよい商品ならば歓迎するところであるが、そういう商品が市場に出てくる裏側には、合理化という、労資の対立が潜在的に潜んでいるのが日本の産業構造である。

しかし、戦後の朝鮮戦争、朝鮮特需で、日本の産業界が息を吹き返したときに、繊維産業が産業界全般をリ−ドしたという事実は否めないと思う。

日本は戦前でも巨大な工業生産国であったわけで、工業生産が巨大であったが故に、それに見合う市場が欲しくて、大東亜共栄圏という発想に陥ったとみなしていいと思う。

その産業界で、繊維工業が軌道に乗り出したということは、日本の産業全体に波及効果をもたらしたといえると思う。

繊維産業というのは、あらゆる産業のなかでも一番平和的な産業で、この産業が機関車役を果たして、繊維業界が隆盛に傾き掛けると、その生産をアップするために、機械設備の増築、改築、更新という機械工業に対する需要を喚起する。

日本の工業生産というのは、原料から製品に至る流れの中で、フロ−の部分が多く、そのことは、原料としてのフロ−の部分も、製品としてのフロ−の部分も、大きな大きな波及効果を生み出すわけである。

戦後の繊維産業というのは、合成繊維が主流になって、自然原料の部分が減ってきている。つまり、工業の源流の部分でも多くの関連企業がその影響を受け、当然、その生産品目を加工する川下の部分にも、大きな影響を及ぼすというふうに、川上と川下の両方に波及効果を及ぼすのが戦後の日本の産業界の特質である。

それに加えて、日本の産業界は過当競争である。

自由主義経済では、過当競争は価格を引き下げるという効果があるので本来は歓迎されるべきことであるが、この過当競争の効果、メリットというものが、時には本来のメリットから逸脱して、モラルを欠いた競争をしでかすのが我々日本民族の企業責任者の浅はかなところである。

このモラルを欠いた過当競争で、しばしば海外から顰蹙をかい、叩かれることになるわけである。

繊維業界が糸偏ブ−ムにのって国内の需要をオ−バ−するほどに生産したものを捌くためには、輸出に依存しなければならないが、輸出ということは、相手国が自由貿易主義に則った寛容の精神の持ち主である、ということを前提に成り立っているわけで、日本がいくら輸出をしようとしても、相手国が受け入れてくれなければ成り立たないわけである。

戦後の我々の最大の欠陥というのは、我々の思っていることと同じ事を相手国も思っているものだ、という錯覚に陥っていることである。

我々は、今後、戦争をしないので相手方も必ず戦争をしないという前提で、日本の平和主義者がものを言っているのと同じで、日本が輸出をすれば、相手側は必ず受け入れてくれと思い込んで輸出をしたところに日米繊維交渉の原因があったわけである。

戦後の日本で合成繊維の工場が出来れば、その本家本元のアメリカには、当然、既存の繊維産業があったわけで、日本の低い労賃で作った価格の安い製品は、極めて競争力が高かったに違いない。

アメリカ側としては、当然、日本に圧力を掛け、繊維製品の輸出に干渉してくるわけであるし、そうしてきたわけである。

戦前の日本ならば、軍事力を背景に販路を拡大することが出来たに違いないが、戦後の日本は、アメリカの言う事はことごとく聞かざるをえない状況に陥っていたわけである。

これはこれで一種の戦争の教訓であるし、話し合いで解決する、ということは一種の民主主義の具現でもあるわけである。

話し合いで物事を解決するということは、双方に妥協の気持ちがないことには成り立たないことである。

妥協の気持ちということは、言い方を変えれば、相手の立場に立って物事を考えれば、自分のごり押しが如何に自分本意なものであるのかという反省が生まれ、自分の言い分を半分に減らし、相手の言い分を半分だけ聞いてみる、という妥協の精神が生まれるのである。日本の工業製品の輸出というのは、相手国の産業を壊滅状態の陥れるまでの苛酷な輸出である。

洪水のような輸出戦略という表現で忌み嫌われる所以は、こういうところにあるわけで、我々の意識の中には、相手の国の工業を壊滅状態の陥れることなど皆目眼中に無く、ただ日本企業同志のシエア争いの結果として、相手国産業を潰してしまうわけである。

日本企業の敵は外国企業にあるのではなく、同じ日本の企業であるライバル企業である。日本の企業同志がシエア争いをすると、そのあおりで外国の産業が壊滅状態に陥ってしまうわけでる。

日本側としては、外国の産業界を壊滅に陥れる気など全くないにもかかわらず、我々の側の意志とは何らかかわる事無く、外国の企業が、日本企業の製品に捺されて、自由競争から脱落していくわけである。

だから、我々としては、資本主義社会の自由競争という同じ土俵のうえの生存競争であるが故に責任はない、という風にとらえがちであるが、外国側に言わせると、自由競争といいながら日本はアンフェアな商習慣で真の自由競争ではない、という言い分になって帰ってくるわけである。

物を作るということは、ある意味で労力集中型の産業である。

労力集約型の産業というのは、その国の社会状況によって有為転成するものである。

戦後の日本というのは、アジアの植民地を失い、そこに生きてきた人々を全部4つの島に引き取って、人口密度は非常に高かったわけであるが、それが戦後の工業生産に関しては、安い労働力の提供という形で、国際貿易については製品価格を低く押さえることにより、競争力を高めていたに違いない。

安い価格の日本の合成繊維は、労賃の高いアメリカの合成繊維の産業を壊滅状態に陥れ、日本の労賃が高くなると日本の繊維産業は、東南アジアの繊維業界の脅威に押されて衰退するという循環である。  

 

労働組合を蚕食する共産党

 

日本の戦後の復興が繊維産業の復興から始まったことは否めないと思うが、産業の復興と時を同じくして組合活動の活発化ということも戦後の風潮を論ずるには貴重な視点だと思う。

戦後の組合活動がイデオロギ−論争に明け暮れた事は、組合活動に共産党の細胞が浸透していたことを抜きにしては語れないと思う。

戦後の混乱期というのは、共産主義者が共産革命を実行するには最適の環境であったことは疑いの余地がない。

しかし、度の過ぎた、革命を支援するような行動は、GHQが許さなかったことは、戦後最初の2・1ゼネストに対するマッカアサ−の処置でもわかるように、誰も望んではいなかったわけである。

日本では、革命ということは、民族の血に馴染んでいないのではないかと思う。

明治維新というのは、確かに、革命であったに違いないと思うが、共産主義革命とは異質な革命で、革命の過程で、我が同胞の血が流れたことは否めないが、最初から暴力で武器を取って天皇や将軍を血祭りに上げよう、という過激な発想ではなかったわけである。

世の中を変えるのに、武器を取って、今までの支配者を血祭りに上げ、新しい世の中を作る、という発想は、我々、日本民族には馴染まないわけで、戦前、戦中の2・26事件や5・15事件というのも、ク−デタ−ではあっても革命を目指したものではなかったわけである。

しかし、共産主義者というのは、革命を前提において物を考えるので、現行の秩序の破壊ということが、彼らの便宜上の行動指針となっているわけである。

だから組合運動でも、現行の秩序維持ということを徹底的に破壊しようとするので、労資の間で妥協点が見いだされるわけがない。

最初から妥協する気などなく、ただただ混乱を作り出すのみの活動にすぎない。

この共産党の細胞に牛耳られた労働組合というのは、60年代から70年代にわたる政治的闘争にも大いにその実力を破棄し、それが民主主義という名のもと許容され続けたわけである。

戦後最初の労働争議というのは、不思議なことに読売新聞で起きている。

これが終戦の同じ年の10月23日のことで、その次に北海道三菱美唄炭坑で生産管理方式をめぐって労働争議が起き、その同じ年に例の国労が結成されている。

労働組合というのは戦前にもあたわけで、GHQが押しつけたというものではないが、GHQが占領政策の一貫として日本側に指導したのは、アメリカ型の職種別労働組合をイメ−ジしていたのではないかと思う。

ところが、戦後の日本で、各企業で結成されたのは、企業別労働組合であって、GHQが描いていたイメ−ジとは別の物になったのではないかと思う。

そして、日本共産党というのは、この労働組合に党員を細胞として送り込むことにより、最終的に共産革命の実現を目指していたに違いない。

だから、労資交渉の場で、妥協する気が毛頭無く、徹頭徹尾、秩序の破壊のみを目指した闘争を繰り広げたわけである。 

一般の企業に働く人間にとっては、会社が潰れてしまっては元も子もないわけであるが、共産主義者にとっては、そんな生活の事など眼中に無く、とにかく革命を成就させることが第一目標であるので、会社と妥協することなど二の次であったわけである。

普通の労働者にとって、賃金というのは生活の糧であり、経営者にとっては労務費というのは低く押さえれればそれだけ製品価格を下げて競争力を付けるとが出来るわけで、労資交渉というのは、そのバランスのうえに成り立っているわけである。

組合側の労働条件の改善ということも、その延長線上の事柄で、直接死に至らしめるほどの環境以外は、このバランスの計りに掛けて改善が図られるわけである。

日本の雇用慣習の中で、最初から日本共産党員と解っているものを採用する経営者はいないと思う。

これは差別でも何でもなく、企業防衛の一貫として当然の措置である。

共産党員に思想、信条の自由があれば、企業側にも、雇用の際に人を選択の自由があるわけで、企業内の共産党員というのは、入社以降党員に改宗させられた人がその大部分だと思う。

労働組合

 

戦後の三大怪奇事件

共産党に牛耳られた組合運動

 

戦後の労働組合の中で特筆すべきはやはり国鉄の組合と、日教組であろうと思う。

労働組合というものの本質は、労働者が団結して、賃金値上げや、労働条件の改善を図るというものであるが、ここに共産主義者がイデオロギ−を持ち込むと話しがややこやしくなるわけである。

共産党員というのは、企業の存続などは眼中になく、社会秩序が混乱すれば、それで自らの目的はある程度達成されるわけで、労使の協調という観念は、最初からないわけである。企業というのは、資本家の資本を使って、労働者が付加価値を付けて、消費者に還元するというシステムで、日本の会社経営者というのは、資本家という意味からすると、真の資本家ではない。

マルクス・エンゲルスの規範とする資本家というのは、本当の意味の資本家で、金だけを企業に投資して、投資した金額に対する利潤を追求する、というのが本当の意味の資本家であるが、日本の場合は、資本家と経営者とが歴然と別れておらず、経営者が労働者を圧迫して利潤の追求にのみ汲々しているというわけではない。

労働者を虫けらのように扱って、自分は酒池肉林に耽っているというわけでない。

戦前、戦中を通じて、日本の軍需産業は、労働者を低賃金で搾取して、資本家のみはのうのうと生きていた、という幻想を戦後の革新系の人々が吹聴していたが、労働者も、血みどろの仕事をしたけれども、経営者は経営者で、また別の意味の苦労をしていたわけである。

資本家が自分の資産を増やす蓄財に耽っていたわけではないと思う。

西洋の倫理感では、資本家が蓄財すること、つまり不労所得を得る事が「悪」である、という観念はないが、日本では、金儲け、特に不労所得というのは、どちらかというと、蔑まされた歴史があり、江戸時代の身分制度でも、金に固執する商人というのは、農民の下にランクされていたわけである。  

経営者が、自分の資産を増やすための蓄財ではないが、将来のための予備資金として、利潤の中からかなりの部分を留保するということはあったかもしれない。

しかし、昭和の初期から昭和の大部分の時代というのは、日本の労働者の賃金というのは極めて低いもので、これは日本の労働者のみが低かったわけではなく、日本全体の生活レベルが低かったわけで、その分、輸出産業では製品価格が安い、という点で競争力が強かったわけである。

日本の労働者の賃金が高くなると、それらの産業はもっと工賃の安い東南アジアにシフトしていったのも無理のない話しである。

日本の共産主義者は、大企業の組合運動に、細胞という共産党分子を入り込ませて、労働運動を政治運動に転化しようとしたわけである。

だから、あらゆる労働争議が政治運動に転化され、混乱を極める、という事態に陥ったわけである。

特に、それが顕著だったのは旧国鉄の組合と日教組である。

旧国鉄というのは、国鉄一家とも言われるぐらい団結が固かったが、戦後という状況下で、外地からの引き上げ者を多量に吸収したものの、生産合理化の波を受けて、人員整理に陥らざるをえない状況に追い込まれたわけである。

考えてみれば、これもある意味で当然の成り行きであろう。

戦中は、軍に徴用されて、必要最小限の人員でやり繰りしていたものが、外地からの同胞をひき入れて、人員は過剰になっても、動かす車両と、その人員に見合う運転する列車、つまり、民間企業で云えば需要がなかったわけであるから、人を遊ばせておくということになるので、必然的に人員整理という合理化をせざるをえなかったに違いない。

そこでこの人員整理に絡む日本共産党の抵抗として、下山事件、三鷹事件、松川事件という国鉄に絡む3大事件が発生したわけである。

いずれも1949年、昭和24年という占領下の出来事である。

松川事件に関しては、作家広津和朗が、被告の共産党員の無実を訴え、1963年、昭和38年、これに関わったとされる共産党員全員の無罪が確定した。

この時の裁判所の見解というのは「疑わしきは罰せず!」という主旨のもので、要するに証拠不十分ということで、全員無罪という結果になったわけであるが、我々、国民としては納得できるものではない。

誰かが破壊工作したからこそ、列車が転覆して機関士ら3名が死亡したわけである。

現実に3名という人間が死亡しているにもかかわらず、そのカラクリが解明できないがために、容疑者の全員が無罪という判決は納得できるものではない。

裁判所がこういう判決を出した背景そのものが、戦後民主主義の一種の現実であったと思うしかない。

戦後、GHQが日本人に教え込んだ民主主義というものは、共産主義者に最大限に利用されたわけで、革新系の人々は、これこそ民主主義の勝利と喜んでいるかもしれないが、その裏では、犠牲になった人々の鎮魂の声が泣いているわけでる。

死んだ人間を憂えるよりも、生きた人間を尊重する方が現世においては価値がある、という発想はより現実的な生き方には違いない。

この発想で以て靖国神社の問題も語られているのであろう。

「疑わしきは罰せず!」という判決も、一見、民主的で、冤罪を防止するという意味では説得力があるが、これは逆の言い方をすれば、完全犯罪なら何をやってもいい、ということになり、犯罪捜査に徹底的に反抗すれば、それは無罪になるということである。

戦後の犯罪捜査には、自白を強要するための拷問が禁止され、当局は、無理矢理に自白をさせることが出来ず、またそうした自白は証拠として採用されないということである。

ならば、何をやっても黙秘をすれば罪には問われないということになる。

人を殺しておいて捜査当局に逮捕されても、一切合財、何もしゃべらなければ罪には問われないという事になる。

事実、そういう傾向が出てきているわけで、頭のいい犯罪者は、一旦自白した後で、裁判の段階になって、あれは強要された自白だった、と言うことで判決が引っ繰り返るケ−スが見受けられるような気がしてならない。

進行中の列車が何者かによって破壊工作され、3名が死んで、20数名が逮捕され、誰一人、罪に問われない、という事は不思議でならない。

犯人が利口であったのか、捜査当局が能無しであったのか、裁判が出鱈目であったのか、CIA(GHQ)が絡んでいたのか、また作家広津和朗は何故にこういう共産党員の破壊分子を弁護、擁護する気になったのか、その点が不思議でならない。

戦後の日本では、その前の軍国主義、絶対主義の反動として、共産主義が大手を振って罷り通っていたことは否めない。

我々、大和民族という一つの人間の集団が、軍国主義から一気に共産主義にまで大きく揺れ動くというのは、やはり、我々、日本人の民族性とみなさなければならないのではなかろうか? 

その時々のム−ドに支配されるということで、いわゆる、自我の確立ということが不十分な証拠ではなかろうか?

自分で物事を判断する事無く、周囲の状況に合わせて、自分の考えを追従させる、というところが我々の民族性の特徴ではなかろうか? 

問題は、自分の周囲の状況というものである。

これが軍国主義、絶対主義、ファシズム全盛の時は、それに同調し、世の中の価値観が

180度転換して、民主主義の世の中になると真っ先にそれに迎合するところが実に浅ましいと思う。

戦前に治安維持法というのが制定された根底には、その時点において、将来の日本でこのように共産主義者が世の中を混乱に陥れることを考慮に入れた法案であったのではなかろうか?

平成の世の中になって、政治の世界では、規制緩和ということが一大政治課題となっているが、GHQによる治安維持法の禁止、思想・信条の自由という事は、完全なる規制緩和である。

その結果として、共産主義者による社会的混乱が増長されたわけで、折角の規制緩和も、再び、姿を変えて規制の強化につながりかねないわけである。

我々の民族的特徴として、セルフ・コントロ−ルということが下手である。

治安維持法が制定された背景というのは、1925年、大正14年、普通選挙法と抱き合わせで制定されたわけで、それは既にロシアでソビエット革命が成就して、ソビエットが共産主義の輸出に一生懸命になっていた時期である。

普通選挙法というのは、自由民権運動の結果として、大正デモクラシ−の輝かしき成果であり、その当時としては、極めて民主的な普通選挙を実施しようというものであり、極めて民主的なるが故に、当時、ソビエットが盛んに輸出しようとしていた共産主義というものに蚕食されないように、という予防措置であったわけである。

いわば、規制強化と緩和の抱き合わせであり、飴と鞭の関係にあったわけである。

我々が共産主義というものを忌み嫌うのは、それが民族のアイデンテイテイを否定しているからであって、暴力で以て現行政府の転覆を図るという思考の中に、潜在的な畏怖感があるからである。

近代日本が明治維新から始まったことは周知の事実であり、明治維新というのは確かに革命であったが、ロシア革命とは異質の革命であり、終戦、占領というのも一種の革命とみなしていいと思うが、これも共産革命とは異質のもので、我々は、革命とか、ク−デタ−というもので政体を改革したことはないわけである。

政体の改革に際して、流血騒ぎは全国的に散在したが、暴力で政体を転覆する、ということは皆無であったわけである。

しかし、共産主義というのは、政体を変えるのに暴力が付きまとうことを前提としているため、何時の時代、特に、日本の社会基盤では、こういう考え方を事前に封じ込めなければならない、という当局側の思考は当然である。

大正デモクラシ−の成果としての普通選挙法のもとで、第1回衆議院議員選挙が1928年、昭和3年行なわれたさい、8名の無産政党員が選出されたので、危機感をもった当局側は、その後、治安維持法の強化を行なっているわけである。

戦後、共産主義に迎合するような風潮が蔓延すると、昭和の初期にような規制強化につながる可能性が満ちてくるわけで、この昭和24年の国鉄の関する3大事件の頃は、まだ規制強化の風潮が下火であったが、60年安保から成田闘争に至ると、当局側の取り締まり強化が芽を吹き出してくるようになるわけである。

戦後教育の中で、我々は3権分立ということを教えられたが、私はこれが占領軍の指し示した民主教育の中のテ−マだとお思い違いをしていたが、実は、明治維新にまで遡る長い歴史の上での普遍的なものであるということを知った。

その真髄は、アメリカン・デモクラシ−を日本流に書きなおしたものである以上、戦後の占領政策と合い通じるものがあっても不思議ではないが、その中の司法、行政、立法という概念が、我々庶民に行き渡ったのは、戦後の民主教育の中であったと思う。

しかし、この3権分立の概念の中にも当然、国益という概念が内在しているものと推測する。

主権国家がその国民を統治するには、国民の国益という概念がないことには主権国家足りえないと思われるが、日本の場合でもそれと同じ事は言えると思う。

ところが、この昭和24年に起きた一連の国鉄にまつわる怪事件の弁護には、この国益というものが全く考慮されていないように見受けられる。

裁判が立法府からも行政府からも独立しているとはいえ、国民の共通の概念を裏切るような判決を出してもいいという事にはならないと思う。

国益という言葉自体が死語になっているが、松川事件で有罪判決が一人もいないという裁判では、正義の本質が失われたも同然である。

「疑わしきは罰せず!」という考え方は、今日では非常に説得力があるが、ならば「真犯人は誰か」、という納得のいく説明が必要であろうと思う。 

真犯人が誰だか解らないので、被告全員を一様に無罪とする判決というのは職務能力、職務責任を放棄した無責任な判決だと思う。

このような無責任な仕事をする裁判官、司法当局というものが、その後の日本の戦後民主主義という名のもとに、各種の紛争を拡大する方向に仕向けたわけである。

因果応報という言葉があるように、事の起こりには何かしら原因があるわけで、規制緩和の前には規制強化があり、規制強化の前には規制しなければならない状況があったわけで、規制しなければならない状況の前には野放図な自由競争があったわけである。

我々の日本民族というのは、自由競争というとどこまでも自由気ままで、何をやってもよいという風にとらえがちで、セルフ・コントロ−ルが効かない精神構造であり、自由とアンチ・モラルを混同する風潮がある。

昭和24年の国鉄の3大怪事件が起きた時期と、中国の共産主義革命の成就とが軌を一つにしている。

そして、朝鮮戦争がその翌年である。

このいう状況から考えると、この時期の日本共産党というのは、ソビエットや中共からの支援があったのではないかと思わざるをえない。

日本と中国本土、ないしは朝鮮半島というのは一衣帯水、非合法を前提にすれば、国境などあってもないに等しいわけで、その意味で、ソビエット連邦、ないしは中国共産党の強力な支援があったのではないかと思わざるをえない。

その上、ソビエットからの引き上げ者というのは、強制収容所内の政治教育を受けて、本気ではないかもしれないが、一応は、共産主義者の振りをしないことには本国への送還が遅れる、という状況下では共産主義者が巷に蔓延することも致し方ない。

そういう状況下で、国鉄の労働組合に入り込んだ共産党の細胞が列車転覆を図ったとしても不思議ではないし、この3大怪事件が、共産党の仕業であると推測される状況は致し方ないと思う。

推測で犯人を仕立て上げてはいけないことは自明のことであるが、事実の積み重ねで、犯人が断定できない、というところに事件の謎があるわけである。

松川事件というのは実際に事件が起きたのが

1949年、昭和24年 8月17日、 午前3時頃で、

        同年  9月22日、 捜査本部が国鉄労組員9人、東芝労組員11名                   の逮捕

1950年、昭和25年12月 7日、 福島地裁全員有罪

1953年、昭和28年10月28日、 広津和朗ら文化人9名の公正判決要求書、提出           12月22日、 仙台高裁、一審破棄、死刑4、無期2、

                   有期11、無罪3の判決

1959年、昭和34年 8月10日、上告審判決公判で原判決破棄仙台高裁に差し戻し1961年、昭和36年 8月 8日、差し戻し判決で全員無罪検察は再上告

1963年、昭和38年 9月12日、全員無罪確定である。

この時系列の中で、福島地裁と仙台高裁は犯人を断定しているのに、再審の仙台高裁と最高裁は犯人を断定仕切っていないわけである。

その間、14年という歳月をかけて捜査当局、検察当局、そして弁護側と三者三様の捜査が行なわれて、その結果が全員無罪というものである。

ならば列車の転覆というのは一体何であったのであろうか?

一審、二審の有罪判決は裁判官が間違っていたのか?

裁判官が間違っていたとすれば、民間企業ならばその責任をとって辞職なり降格人事なりが行なわれるのが普通であるが、裁判官にはそうした措置もないときいている。

また、この裁判を広津和朗、宇野浩二、志賀直哉、川端康成、吉川英次ら作家9人が公正裁判を要求して、裁判長に要求書を提出するということもおかしなことである。

戦後の占領下という状況下においても、この時の裁判が軍国主義や、ファシズムに偏っているとは思われず、そういう状況を踏まえて、裁判に第三者が干渉する、ということ自体民主主義を冒涜するものだと思う。

三権分立を否定する事になると思う。

裁判の当事者でもないものが、裁判に自己の見解を差し挟むこと自体が民主主義の本質を忘れた行為だと思う。

彼ら著名文化人と言われる人々は、自らの名声に麻痺して、民主主義の本質を見失ったのではないかと思う。

かっての軍国主義の反動として、以前ではお上、体制側の言いなりになってきた結果が敗戦という未曽有の大変革に直面したが故に、その反動として、今度は、体制側にことごとく抵抗、楯突くことにより、自らの存在感をアピ−ルするという感じがしてならない。

この心境をもう少し掘り下げてみると、その前の軍国主義そのものが、我々、民族の根源的な渇望により、潜在的な我が民族に内在している願望の表現であった、という事実を認識していないからではなかろうか。

彼ら文化人も、その時点、つまり戦前、戦中という時系列の中では、その中の一人であったわけで、それが敗戦という変革の時機を迎えると、お上、体制側の言うなりになっているとさらなる不幸が振りかかってくる、という危機感から反体制、反政府、裁判への干渉という行為になったのではないかと思う。

戦後の裁判が長引く傾向にあるのは、人権の問題と絡んで、戦前にあった、強制された自白が証拠とならない、という裁判の前提条件が変革されたが故に、軽々しく判決が出せないという事もあるかと思うが、裁判が長引くということは、民間企業の取引の例と比較すれば実に不合理なことで、民間企業では、これほど決断が遅れればビジネス・チャンスを逃がしてしまうばかりで、企業としては成り立たないわけである。

それが国家という背景に負ぶさった機関であるが故に、遅々として事務処理が遅れても、誰からも苦情が出ないという状況は、やはり正常な状態ではないと思う。 

人権を重んじるあまり、慎重に審議しているという感想は、一応、整合性があるが、被害者が出ている刑事事件で、被害者の人権はどのように保護されているのであろう。

生きている人権の方が大事だ、という論理は、我々の民族感情からすれば納得できるものではないと思う。

しかし、現実に起きていることは、生きている、乃至は、人を殺したかもしれない人間の人権は手厚く保護されているが、殺された人間の方は、葬式さえ済めば、それで終わりというもので、何ら国家的保護の手が差し伸べれられている風には見えない。

著名文化人が裁判に干渉するという行為は、その裏には、共産主義への支援の手を差し伸べているということであり、公正な裁判を要求するというもっともらしい口実で、共産主義を容認するという事に他ならない。

戦後のGHQによる民主化のもとで、思想・信条の自由が保障されたので、どんな主義主張でも、ただそれだけでは何ら処罰の対象にはならない、ということが公言されたが、共産主義者が、現実に列車を転覆させる、というサボタ−ジュを行なえば、当局側としてはなんらかの処罰をせざる状況に追い込まれるわけである。

戦前の治安維持法というのは、こういう状況を想定して制定されたわけで、戦後の昭和

24年に、共産主義者が列車を転覆させる、という実力行使のようなことをしなければ、思想・信条の自由ということは、文字通り憲法によって保障され続けることが出来るであろうが、現実には、共産主義者どもがこうした社会不安を作っているわけである。

日本国内で、広津和朗らのような共産主義者を擁護する立場の進歩的文化人らは、現実の共産主義国の内情というものを知らずに、それらが掲げている理想に共鳴して、現実の政治というより、我々日本民族の生きた姿、生きざまを侮蔑していたわけである。

昭和24年の時点で、ソビエット連邦共和国というのは生誕32年、中華人民共和国は生まれる直前であり、朝鮮人民共和国(北朝鮮)はその前年に誕生したばかりでる。

共産主義体制、社会主義体制というものの実績が不明瞭な状況下で、その思想を、人間の至福をもたらす考え方である、と思い違いをしたところに彼ら著名文化人の勇み足があったものと思う。

それは、戦前、戦後を通じて、人間、特に、我々同胞の日本民族というものに対する洞察が不足したが故の思い違いだと思う。

そしてそれは、今回の大東亜戦争に対する彼らの歴史の反省が的外れであったか、視点の違いであったに違いない。

日本を代表する著名作家連中が松川事件を通じて裁判に干渉したことは、民主主義というものに対する真の理解を逸脱し、共産主義に対する甘い理想を夢見た結果であると思う。松川事件の加害者、国鉄当局、捜査当局、検察当局、弁護側、裁判官、これら関係者は一体何をしていたのであろう?

列車が転覆させられて、3名が死亡して、犯人が一人もおらず、容疑者全員が無罪という結果は、国民の一人として納得できるものではない。

この不可解な事件の元を正せば、労働組合に共産党員が細胞として入り込んできた事に遠因があるわけである。

GHQの民主化工作の一貫として、労働組合の結成が奨励された事にともない、それを共産党員が牛耳るようになったが故の結果である。 

日本共産党員の組合乗取り、というのが戦後の労働運動をリ−ドしてきたわけであるが、民間企業は、その後の経済発展の段階で、徐々にこうした過激な労働運動指導者というのを排除してきたわけである。

排除しなければ、企業そのものの存立が危ぶまれる、という状況に追い込まれれば、企業の従業員、社員の中からでさえ、共産党員に対する防御が出てくることは当然の成り行きである。

企業そのものを潰してしまえば、自らの糧を失うわけで、それは当然すぎるほどの成り行きであるが、官公庁の組合というのは倒産ということがないのを前提に組合が成り立っているので、当然、共産党員の組合支配は、その後も継続するわけである。

その中でも日教組というのが曲者である。

戦後の我々同胞は、日教組の支援を傍観していたような気がしてならない。

日教組の言う事に反発すると、自分がいかにも右翼にでもみなされるのではないか、という危惧にとらわれて、正面から日教組を批判してこなかったが、将来を託す子供の教育に、共産主義に凝り方まった指導者に子供を預けざるをえないという状況は、考えてみれば恐ろしいことでる。

子供の教育に携わる人間が偏った思想にとらわれて、偏ったものの見方を教える、ということは公共教育の場では芳しいことではないと思う。

日本が共産主義国であればそれも致し方ないが、日本はつい数年前まで軍国主義という偏向した教育を実施した結果として、敗戦という未曽有の変革を強いられたわけで、その意味からしても、偏向教育というものには国民的な関心を寄せて注視しなければならなかったのではなかろうか。

ところが、日教組の言う事、行なう事に反発する事は、何となく右翼に加担するような気がして、民主化に棹差すような気分になりがちである。

こうした曖昧な態度が本当の真実を曲げる最大の原因であるが、この本当の真実そのものが確定した座標軸をもたず、それぞれの個人の考え方次第で、価値観が違っているため、戦後の日本人の無国籍的な発想になるわけである。

確定した座標軸というものが、日教組が想定したものと、一般庶民の想定しているものとの間にギャップがあるわけで、そのギャップを埋めること自体をもっと真剣に議論しなければならないと思う。

ところが、この日教組というものが、まるまる共産主義者の仮の姿、衣のしたに甲冑を付けた弁慶のようなもので、まともな議論にならないわけである。

共産主義者にしてみれば、一般国民の公平な福祉ということは問題外のことで、いわゆる、社会に対して混乱を引き起こせば、それで彼らの目的のいくらかは達成できるわけで、妥協する余地はないわけである。

労働組合というのは、本来、労働者の基本的人権と、労働条件に関する部分の団結権は認められるが、それを拡大解釈して、政治運動にまで広げること自体がおかしい事だと思う。労働団体が政治に嘴を入れる口実というのは、政治に関与することによって、労働条件の改善に奉仕するものである、という論理であるが、もしこの口実が真のものであるとすれば、アメリカ議会のように、ロビ−活動で行なうべきで、直接デモ行進をしたり、宣言文を読み上げたりするべきではないと思う。

国民が政治に関与する手段としては、我々の国は、戦前・戦後を通じて、議会制代議員制度を採用しているわけで、国民の声というものは、代議士を通じて国会に反映するシステムが一応は整っているわけである。

しかし、問題は、このシステムがまともに機能していないし、システム自体に欠陥があったが故に大東亜戦争になってしまったわけであるが、だからといって院外団体がシステムの外から圧力を掛けていいとはならないと思う。

戦後の民主政治を論ずる場合、企業も民主社会を構成する構成員の一部だから企業献金して政治に関与してもかまわない、という論理の延長線上に、労働組合の政治に対する発言が許されていたわけであるが、ここに既に政治腐敗の根源が潜んでいるわけである。

労働組合の本質は、労働者の基本的人権の擁護という意味で、基本的には賃上げ闘争と、労働条件の改善のみが争議の焦点にならなければならないし、それだけで必要かつ十分であると思う。

しかし、賃上げというのは、周囲の状況に左右されることであるし、労働条件の改善というのも、合理化の果てに改善の余地がゼロになるという状況もありうると思う。

資本主義体制の自由競争の社会では、時には赤字の企業もあり、赤字が回復して黒字になる時もあり、黒字幅も大きかったり小さかったりで、毎年の賃上げ闘争が常に右上がりの上昇カ−ブだとは限らないわけである。

労働組合に潜行した日本共産党の細胞にとっては、こうした周囲の状況というものに関係なく、党の司令に基づいての行動をするので、会社の経営状況とは無関係な闘争をするので、社員の中からでさえ軋轢を生むわけである。

しかし、官公労に関しては、親方日の丸、倒産ということがないので、無理難題を際限なく押しつけてくるわけである。

その結果が下山事件であり、三鷹事件であり、松川事件であったわけである。

こういう組合運動を陰で支援しているのが、戦後の革新系の進歩的文化人といわれる人々であるが、彼らが共産主義を容認し、保守陣営を攻撃し、現政府を糾弾する発想というのは、我が民族の抵抗の精神だと思う。 

我々の民族の間には古来から、「亭主の好きが赤烏帽子」とか、「泣く子と地頭には勝てぬ」とか、「出る杭は打たれる」という諺が数限りなくあるが、これらは庶民が自ら庶民を自嘲する表現だと思う。

これらは、時の為政者の統治の在り方によって、強権を発動する政府の時はおとなしくしていて、少々弱腰の統治者に世代変わりをした時は、思いの丈をぶちまけるという庶民のささやかな抵抗の表れであるような気がしてならない。

治安維持法という強権があるときならば、沈黙に撤し、外圧により、その強権が払拭されると、堰を切ったように反政府活動に邁進するという図は、日和見以外のなにものでもないと思う。

庶民の処世術だとすれば、ある意味で可愛いと言えなくもないが、所詮は、小市民にすぎないわけである。

その小市民が、マスコミの威力に乗っかって、あたかも正義感のごときリ−ダ−面をするところが我慢ならない。

マスコミというのは、いわゆる無責任極まりない存在で、そのことは、戦前、戦中の大本営発表の経緯を見れば明らかなように、マスコミの報道したことは、多少の事実ではあるがそれが真実だと思い込むほうが浅はかなわけである。

マスコミというのは、事実の一部を報道しているにすぎないので、日和見主義者がいかにもオピニオン・リ−ダ−のごとき意見を述べたとしても、それが真の価値観を表したものではない、ということを認識して接しなければならないと思う。

 

次に進む

 

目次に戻る