テレビエイジ

テレビ・エイジ事始

 

戦後も、「もはや戦後ではない」といわれ初めた、昭和34年、1959年から60年というのはそれこそ激動の年であった。

「もはや戦後ではない」という実感は、私自身の体験からすれば、この年に父親がテレビジョンを購入したことで、そのことが実感として感じられた。

テレビが日本全国津々浦々に普及したのは、この年に当時皇太子の結婚が予定されていたからだと思う。

現在の天皇陛下のご成婚がこの年に行なわれ、馬車による行進の最中に、石を投げた者がいることを我々はリアル・タイムで知ることが出来たのもテレビの実況中継の威力によるところが大である。

またアメリカで、ケネデイ−大統領が暗殺されたのも、テレビというものが全世界にリアル・タイムで報道したわけであるが、戦後の世界で、テレビの威力というのは大きな力になったことは否めない事実である。

我々、庶民の間で、テレビというものが身近になったのは、やはりプロ・レスリイングの中継というものが大きく係わっているものと思う。

この時代、世の中を斜めに構えて、インテリ面をしている人々は、テレビを電気紙芝居と称して、いささか馬鹿にした意見を述べて、粋がっていたが、この世に存在するあらゆるマス・メデイアの中で、情報の伝達という意味で、テレビジョンほどリアル・タイムで我々に訴えるものはないわけでる。

我が家で、父親がテレビを購入したことで、我が家の戦後もこの時点で終わりをつげたのかなあと云う、実感がしたものである。 

そして、この年には伊勢湾台風が東海地方を襲って、我が家のテレビは、非常持出品の筆頭で、我が家にはテレビ以上に大事な品物はなかった、という現実は今思うとなんだか可笑しくもあり悲しくもあった。

皇太子のご成婚が1959年4月10日、伊勢湾台風が9月26日、この二つの事象は、テレビによって全国に報道されたわけであるが、マス・メデイアにテレビジョンが登場したということは画期的なことであろうと思う。

今日、マスコミの力というものが、民主政治の三権分立に対して第四の権力とまで言われているが、ある意味では的を得た言葉である。

活字によるメデイアというのは、どうしても活字を読むという作業がついてまわり、自ら活字に接しよう、という意欲がないことにはメデイアとしての本領を発揮しえないが、テレビというのは、視聴するものにとって、なんら積極的な選択を要する事無く無遠慮に先方から入ってきてくれるわけである。

どの番組を選択するのか、という個人の好みを選べば、後は無意識のうちに情報が勝手に入ってきてくれるわけである。

その意味では、戦前からあったラジオも同じ放送というジャンルに入るが、テレビというのは、視覚に訴えるだけラジオよりも情報のインパクトが強いと思う。

ラジオというのも、車を運転しているときなど、何かをしながら聞く、という場合には極めて重宝な媒体であるが、耳だけの情報に比べると、視覚に訴える映像による情報よりはインパクトが弱いと思う。

しかし、ラジオにしろテレビにしろ、情報というものは必ずどこかで操作されているもので、そういう媒体から流された情報が真実だと思うことは受け取る側の早とちりである。情報というのは必ずどこかで操作され、それはあくまでも真実の一部にすぎないわけで、瞬間、瞬間の映像は、その場においては真実であろうが、それを繋ぎ合わせると、真実と掛け離れた虚像が出来上がる、という事を認識した上で我々はテレビに接しなければならない。

例えば、皇太子のご成婚の時、馬車に石を投げた者がいるシ−ンでも、放送局側としてはカットすることも出来るわけであるし、ケネデイ−大統領の暗殺のシ−ンでもカットすることが出来るわけである。

真実をカットすることも出来れば、真実を捏造することも出来るわけで、こういう操作というのは、あらゆる媒体で可能なわけである。

真実を捏造した例は、先の湾岸戦争の時、アメリカはクエ−トに進攻してきたイラク軍の残虐非道ぶりを、アメリカ国民に鼓舞宣伝して、戦意高揚をはかるために行なった公聴会の演出がそうである。

テレビの映像として我々が目にする情報は、事ほど左様に操作されるもので、我々は、その操作を、つまりはフィルタ−をかけられた情報に接しているわけである。

そのことを心の奥底で理解していれば、テレビジョンというのは、極めて優等な情報伝達手段である。

 

テレビに圧せられた映画界

 

しかし、昨今、平成7年の時点で テレビ番組を眺めてみると実にくだらない番組が多すぎるように思う。

昭和34年の時点と今日では、私自身が年をとってきたが故のジェネレ−ション・ギャップかと思うが、実に見るに耐えない番組が多すぎると思う。

テレビジョンというものを情報伝達機関と見るか、娯楽施設と捉えるかの相違もあろうと思うが、テレビが娯楽であるとする認識は、私の個人的な感情としては許容できるものではない。

しかし、世間の動向としては、テレビの普及とともに映画の衰退が始まったわけで、そのことはテレビを映画の代替とみなしている人々が多いということだと思う。

このことは映像による媒体として、テレビというものが娯楽として人々に受け入れられているということに他ならないわけで、庶民が、自宅の居間でテレビを見るということは、映画館で映画を見るのと同じ心的満足感を与えているわけである。

テレビの隆盛とともに映画が衰退していった、ということは映画界の堕落でもあったわけである。

この時代には良い映画というものが全くなかったわけである。

これは日本だけの現象ではなく、世界的に見て、アメリカ映画にも、人を感動させるような映画は限られていたように思う。

とわ言うものの、この時期の映画は、技術的には革新の時期をむかえており、画面はカラ−になり、そしてワイドになって、シネマスコ−プになるという技術革新をしていたわけである。

映画がカラ−になる、ということも我々、庶民にとっては画期的なことで、幼少の頃に見たカラ−映画というのは脳裏から離れなかった。

私が一番最初に見たカラ−映画というのは、小学生の頃であったから、昭和25、6年頃ではなかったかと思うが、小学校の校庭で行なわれた野外映画であった。

題名は忘れたが 片岡千恵蔵の出演したギャング映画で、途中からカラ−になったことを記憶している。

その頃、カラ−映画のことを、総天然色映画と言っていたが、この言葉にはいかにも時代を感じさせる響きがある。

戦後の初期の段階では、洋画には良い作品があふれていたように思う。

私が中学生だった頃、ヌ−ベル・バ−グという言葉が流行って、それが「新しい波」という意味だ、ということは幼心に理解していたが、どこが新しいのかという点ではさっぱり解らなかった。

ところが最近、愛知県の県立図書館のフイルム・ライブラリ−で、古い映画を見る機会に恵まれ「第三の男」「死刑台のエレベ−タ−」「危険な関係」という、かってのヌ−ベル・バ−グの作品を立て続けに見たところ、やっとその意味が理解できた。

それで思ったことは、あの映画のセンスは、日本人には理解しえない感覚である、ということであり、西洋人の感性と、我々、日本人の感性は、根本のところで違っているということである。

映画のバックにモダン・ジャズを流して、それがピッタリ画面に合う、というのは感性以外の何物でもない。

いわゆる感受性の違いである。

同じ西洋人といっても、ヌ−ベル・バ−グの感性と、アメリカ人の感性も、これまた大いに違っており、アメリカ映画にはフランス映画の感性は見受けられない。

アメリカ映画の感性というのは、ジョン・ウエンの西部劇であり、クリント・イ−ストウッドの刑事ものであるわけで、フランス映画のように、モダン・ジャズがマッチするものではない。

そして、日本映画とくると私の感性は耐えられない。

時代劇でも現代劇でも、いかにも陳腐に見えてしかたがない。

私が日本人でありながら、日本の映画が好きになれない、というのは私の感性が日本人離れしているのではないかと思う。

私は両親の子として紛れもなく日本人の一人でありながら、日本民族としての価値観にはどうしても馴染めず、日本文化、特に、芸事には嫌悪感を感じているのが我ながら不思議でならない。

この時期、音楽の世界でも「新しい波」が押し寄せてきており、進駐軍の影響を受けて、ジャズが隆盛を極めていた。

しかし、このころはポップスを全部ひっくるめて、我々が歌謡曲といっていたもの以外は全てジャズを云われていた時代であった。

要するにアメリカ音楽をすべてジャズと思い込んでいた節があるが、そういう基盤のうえに、その後のグル−プ・サウンズの下地が出来ていたわけである。

占領下を通過した我々の日常生活の中で、アメリカの雰囲気を漂わせるものはなんとなくハイカラに感じられたものである。

アメリカのポップスの中には、マウンテン・ミュ−ジックからウエスタン・ミュ−ジックま内在しているし、その中に、本来のポップスも含まれているわけであるが、それは後年になって私の知識が増えるに従って理解しえたことで、その時代には私自身、皆目識別できなかった。

もっとも、音楽というものは、そういう細かい事にこだわって聞くべきものではないが、こういう蘊蓄を傾けることを、我々は知識と思い違いをするという面がある。

アメリカの映画というのは、面白ければいい、という要素が強いと思う。

アメリカ映画で「ウエストサイド物語」というのが日本で公開されたのが何時であったか、正確な日時は覚えがないが、最近になってテレビで放映されたのを録画して楽しんでいるが、この映画のセンスの良さ、というは実に素晴らしいものがある。

この映画はミュ−ジカルであるので、ふんだんにダンスのシ−ンが登場する。

しかし、そこに出てくる俳優というか、男性の登場人物というのは、その全員がジャンパ−とジ−パンで踊るわけであり、ジャンパ−とジ−パンという出で立ちで、ちゃんと様になっているところは実に見事である。

我々、日本人のセンスではこうはいかないと思う。 

我々、日本人の感性でミュ−ジカルを作るとなれば、登場人物というのは、全員同じ制服になってしまうのではなかろうか。

ジャンパ−とジ−パン、そして背の高い者も低い者も、同じダンスをしていながら様になっているというのは、やはり訓練の一言ではないかと思う。

我々、日本人が芸ごとに打ち込むやり方というのは、形式を重んじるあまり、全体の調和ということに西洋人とは違う感性を示していると思う。

「ウエストサイド物語」に出てくる踊りの美しさというのは、躍動する肉体の美しさであるが、日本舞踊の美しさというのは形式美であり、どちらがいいか悪いかの問題とは別に、感性の違いだと思う。

画家のゴッホが、日本の浮世絵を見て感動したと言われているが、躍動の美しさや、肉体の美しさを見慣れている西洋人から見れば、日本の浮世絵のように、感情を殺した、形式の美というものも感銘を与えるに違いない。

テレビの隆盛が映画を衰退の方向に押しやったのは日本だけの現象ではなく、世界的な事象のようであるが、これは映画を見るという行為は、いくらかでも見る人の積極性がなければ、映画を見るという行為にならないのに対し、テレビというのは、見る側の人にとっては、積極性というものが皆無に近いわけである。

精々、チャンネルを回す、というぐらいしか見ることに関して意志を注ぐ事はないわけである。

電波はこちらの意志とは無関係に先方から押し寄せているわけで、受手は、どの電波を選択するか、というぐらいしか意思表示をする必要がないわけである。

つまらなければスイッチを切ることにより退屈さから逃避できるわけである。

映画というのは、いくらかでも金を払ってみるわけで、金を払った以上、つまらないからといってそう簡単に出るには心に抵抗を感ずる次第である。

テレビというのは、まさしく電気紙芝居で、手軽に簡便に娯楽を提供していたわけである。テレビの情報が操作されるということは先に述べたが、プロレスの実況放送や、野球の実況放送というのは、情報操作する必要は全くないわけで、その意味では、リアル・タイムで情報を提供しているわけである。

プロレスを見たり、野球の実況放送を見る、という意味ではテレビが娯楽として映画を衰退に追い込んだといえるが、映画の衰退というのは、もう一つ別の原因があるのではないかと思う。

映画の作成に掛かる費用というのが、テレビのドラマと比べると格段に高いというところにも原因があると思う。

同じように視覚に訴える媒体でありながら、テレビは安く仕上がるのに、映画は滅法高いということは、映画のコストダウンの掛ける意気込の違いだと思う。

映画は高くて当たり前、という固定観念に凝り固まって、コストダウンという経営戦略の間違いではなかったかと思う。

そして何よりも、映画の内容そのものの低下が、客を引き付けることに失敗した最大の原因だと思う。

この時期の日本の映画制作会社というのは東宝、松竹、新東宝、大映、日活、東映、とこの狭い日本の中に6社もあったわけで、これでは過当競争以外の何物でもない。

この過当競争はテレビの時代に至っても同じように継続されているが、日本の産業は、あらゆる業界で過当競争を繰り返しているわけである。

過当競争という場合、粗製濫造になることは火を見るより明らかで、内容を十分に吟味する事無く制作に掛かるものだから出来上がりが不完全燃焼するわけである。

私の青春時代に、少々背伸びをして粋がっていた頃、日本映画というのは、どうにも土臭く、陰湿で、日本社会の封建制度を引きずっているような気がして好きにはなれなかった。それと比べて、アメリカ映画というのは、いかにも新鮮で、新時代を夢見る心地がしたものである。

映画に比べると、テレビというのは、我が家にきたときからアメリカ映画を放映していたわけで、映画をテレビで放映する、ということは映画の衰退に拍車を掛けたに違いない。双方が視覚に訴える媒体であるから、テレビという電波には簡単に乗せる事が出来たには違いないが、それ相当の資金を掛けた映画をテレビで放映するということは、テレビ・サイドの資金只乗りであろうと思う。

日本全国にテレビが普及したということは、これをきっかけとして新しい文化が出来上がってもいいと思う。

しかし、映画でもテレビでも、過当競争なるが故にシエア争いに明け暮れて、質の向上ということを怠ってきたわけである。

そして、文化不毛のエログロ・ナンセンスの泥仕合に填まり込んだわけで、映画というのは、総体的に衰退し、テレビはいまその過程にあるわけである。

テレビ受像機というのは、今、一人に一台の時代であるが、ハ−ドの面では申し分ないが、ソフトの面がハ−ドの進化ほどに達していないのが今の現状ではないかと思う。 

今のテレビ番組で、どうにか我慢してみれるのは、NHKのニュ−スとNHKスペシャルしかない。

民間放送というのは、視聴者に媚びを売っているようで実に我慢ならない存在である。

しかし、国民の一般大衆というのは、NHKの放送を嫌って、実に下らない民間放送の番組を好んで眺めているようである。

戦後、日本の映画界が一斉を風靡した時期はほんのわずかしかなかったわけであるが、日本の映画が何故に低調になったかといえば、それは面白くなかったからである。

アメリカ映画が面白かったのは、やはり興業としてのショウマン・シップというものが日本人の製作のものとは異質であったからに他ならなないと思う。

フランス人は映画を芸術の域にまで高め、アメリカ人は徹底的に娯楽に撤し、我々は、その中途半端なところをさ迷っていたわけである。

我々の民族は、芸事に形式を取り入れて、それを侘寂(ワビ、サビ)と称して悦に入っているが、これは西洋人から見れば異質の文化かもしれないが、内部の我々の目からすれば自己満足に浸っているだけのことで、芸術でもなければ、文化でもないわけである。

日本の芸能界に注文を付けるとしたら、もっとショウマン・シップに撤しよ、ということだと思う。

「ウエストサイド物語」のモダン・ダンスが、ジャンパ−とジ−ンズというどこにでもある、ありふれた衣装で、あれだけ人を魅了するということは、ダンスの訓練の賜だと思う。日本人の芸能人には、ああいうプロ根性が欠けているような気がしてならない。

この時代から、歌謡曲の世界では、新人が出ては消え、出ては消えたわけであるが、日本でデビュ−する新人というのは、芸の訓練というものを無視して、口先の技巧に頼りすぎていると思う。

戦後の、ヌ−ベル・バ−グの、何が新しいのかと言ったとき、映画のバックの音楽にジャズ、それもモダンジャズを流したところに、あの当時としてはいかにも斬新な雰囲気があったわけである。

あの感性は、我々、大和民族には存在しないものである。

我々、日本の文化というのは、つねに外来の文化の影響を受けているわけであるが、あの感性だけは、我々に真似の出来ないものではないかと思う。

そして、戦後の日本の文化を席巻したのはアメリカ文化であるが、アメリカ映画を真似して作った日本のギャング映画というのは、どうに見れたものではない。

この文化の違い、感性の違い、というものは西洋人と我々、東洋人の感受性の違いであると思うが、我々は感情に訴えられるとついホロッとしてしまうが、西洋人というのは、理性で感情をコントロ−ルしているのではないかと思う。

私が唯一好きな日本映画というとフウテンの寅さんシリ−ズであるが、この映画を私が受け入る要因というのは、この映画は、日本全国どこでも転がっているような日常生活が描写されており、その中で、映画として寅さんとマドンナの出会いがあるわけで、描写されている情景が、我々の日常生活に密着しているところに親近感を覚え、ついつい笑いが込み上げてくるからである。

何となく心の内面から笑いが込み上げてくるというのは、やはり製作者がショウマン・シップを心掛けているからではないかと思う。

 

ここだけの内緒話であるが、私は「男はつらいよ」フウテンの寅さんシリ−ズが大好きで、涙を流しながら笑いこけて見ている。

あの渥美清演ずる寅さんの一挙手一投足が、心の内面からの笑いを生じ、イヒヒ・・・、ウフフフ・・時には腹を抱えて笑いこけるので、人前ではこの映画を見ることが出来ない。家内でさえ私が寅さんを見ているといかにも軽蔑した眼差しで見下している。

他人が見たら、さも軽佻浮薄な人間と思うに違いない。

この寅さんシリ−ズが、今、第何作目だか知らないが、30作を越えていると思う。

その大部分をテレビの映画で見る、と云うことは映画業界が不振につながっているわけである。

寅さんシリ−ズに続く、私の内面から込み上げてくる面白さを表している映画が、西田敏之と三国連太郎のコンビによる「釣りバカ日記」シリ−ズである。

こういう映画を見て、私は感情の高ぶりを押さえることが出来ず、体の表面にストレ−トに出てしまうので、人の大勢いる映画館では恥ずかしくて見れたものではない。

その点、家で見るテレビ映画というのは誠に都合がよく、いくらでも泣き、笑えるので有り難い。

内容的にはおおよそワン・パタ−ンで、見る前から大体のスト−リ−は解ってしまっているが、それでも涙と笑いが込み上げてくる。

我ながら単純な脳細胞だなあと自嘲している次第である。

 

感受性の相違

 

作り手が、その受手を感動させうるかどうか、という問題は文学についても同じ事が言えていると思う。

平成7年4月14日の時点で衆議院議員をやめてしまった石原慎太郎が「太陽の季節」で文壇にデビュ−したのが昭和30年のことである。

この小説も、発表された当時は一大センセ−ションを起こしたが、内容的には、それほど大騒ぎするほどのことはなかった。

これも売らんが為の宣伝のようなもので、コマ−シャリズムに踊らされた一般大衆ほど哀れである。

しかし、この時点において、従来の小説が私小説的で、じめじめとして陰湿なものが多かった文壇に、金持ちの不良息子が、明る湘南の海岸で繰り広げる愛憎物語は、戦後の日本にとっては一種異様な雰囲気を醸し出したことは否めない。

この小説が日活から映画化され、それに引き続いて、湘南海岸を舞台とする同じような映画が何本も作成されたが、こういうところに我々、日本民族の偏狭なところがある。

同じ柳の下のドジョウを狙うという発想は、創造性の乏しさの一言である。

ゴッホが日本の浮世絵を参考にしたという話は有名であるが、その浮世絵に描かれている日本の人物の表情というのは、いかにも、なよなよとした物腰で、肉体の美を表現するものでもなければ、内面の力強さを表現するものでもない。

西洋の絵画が、光や人間の肉体の美を表現しようとしたのに対し、日本の絵画というのはその形状をデフォルメすることにより、抽象的な表現の追求に焦点があてられている。

これは日本の文芸一般に云えていることで、文字による表現でも短歌、俳句というのはその極限である。

ボリュウムということに重点をおかず、余分な部分を最大限にまで削りとってしまって、そのエキスのみ残すという表現方法である。 

だから一字一句に至るまでこだわって、最終的には、こだわりの文芸になってしまっている。

よって、チマチマとした小賢しい作品になってしまうわけである。 

 

テレビエイジ2

 

石原慎太郎の「太陽の季節」とアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」という映画を見比べてみれば同じ海を題材とした作品でありながらそこには感受性の相違、西洋人と我々、同胞の感性の違いというものが如実に表れている。

私は自分ではかなり民族意識の強い人間だと自負しているつもりであるが、「太陽の季節」と、「太陽がいっぱい」の映画を見比べた場合、日本映画は何ともチマチマとした猿芝居という印象を拭いきれない。

この感覚そのものが、感性の違い、民俗性の相違という言葉になってしまうわけで、その違いを強調しすぎると、西洋かぶれという批判を免れかねない。 

映画でも、テレビ番組でも、文学でも、世に出てくる迄には、色々な人々の審査、審判を経て出てくるわけで、今日の現状が少しも人々を感動させるものがない、ということは、その途中におけるフィルタ−の部分に感性が欠如しているのではないかと思う。

これら一般に、ソフト乃至は作品というのは、たった一人で作り上げるものではない。今日の作品が面白くないというのは、その製作に携わっている全員の感性が乏しくなってきているから、出来上がる作品が面白くなくなるのではないかと思う。

最近の小説でヒットした、村上春樹の「ノル−エ−の森」という作品など、全く、面白くも可笑しくもない。

しかし、ああいう作品が有意義なものだ、と思う人々がいるからこそ作品として世に出回るわけで、そういう現状が、今日の文学界を無味乾燥なものにしているものと思う。

偉大な作品でも発表された当時は人気が出なかったが、その後、徐々にその良さが認められるということはある。

世情に迎合していれば、世に出たとたんに受け入れられるが、世情の感性よりも先に進んでいる場合、こういうケ−スが起きるわけである。

が、今日の文芸作品でそういった傾向の物はありえないのではないかと思う。

日本に重厚な芸術が存在しえない状況というのも、これも単衣に、過当競争のせいではないかと思う。

石原慎太郎にしても、村上春樹にしても、次から次へと作品を発表しないことには忘れ去られてしまうので、次から次へと作品を発表しつづけなければならない。

これは文学界ばかりでなく、映画の世界でもテレビの世界でも同じ状況である。

このことがいわゆる粗製濫造になり、それをプロモ−トする人々が、内輪の依怙贔屓で、大作家の作品というところで、真の価値を評価せず、妥協の産物として、柳の下の2匹目のドジョウを狙う、という構図が日本の文芸作品の質の低下をきたしているのではないかと思う。

これは大作家、大監督というものの権威に屈しているわけで、この権威に弱いという性癖は、我々、同胞にはついて回る事象で、何も小説家や映画界の人だけの特質ではない。

昨今のテレビ番組の質の低下というのは何とも致し方なく、見るに耐えない。

しかも、この現状をなんとかしなければ、という運動は一向に出てくる様子がない。

基本的に、テレビというものを一日中放送する必要はないと思う。

日本のテレビが、民間放送を主体として成り立っている点では資本主義経済を具現化している象徴であるが、これがなかなかの曲者で、金さえ出せば電波を如何様に使ってもいいという発想が、番組の質の低下をきたす原因だと思う。

つまり、金を出す側が、文化的にセンスをもった金の出しかたをすれば、番組の質の低下ということは避けられると思う。

問題は、文化的なセンスというもので、この基準が曖昧なるが故に、世代間で、価値観の相違が生まれるわけである。

私が個人的に、こんなつまらないものと思うことが、若い世代には結構受け入れられたりするわけで、そのギャップに我々、古い世代がついていけないわけである。

我々の前の世代というのは、ラジオでさえも受信機の前で緊張して聞いたものであり、我々の世代では、テレビをバック・グランドミュ−ジック代わりにして、気楽に聞き流しているが、こうしたマス・メデイアの電波というのは、向こうから勝手に入ってくるわけで、受手の側というのは、ただ、チャンネルを選択するのみで自分の好みの番組が見れるわけである。

各個人の文化的センスというものは、このチャンネル権にあるわけで、作る側というのは、文化的センスも、知性も、感受性も一切合財、関係ないわけである。

そして民間放送で企業のイメ−ジを宣伝している側も、自社が提供している番組がいかに低俗でも、その低俗さの責任を視聴者にかぶせているわけである。

日本映画の低迷も、テレビの出現という外部要因もさることながら、その内容の低俗さにもあると思う。

映画の衰退から察せられる事は、同じように視覚に訴える媒体であるテレビでも、いづれ視聴者に飽きられて、テレビ離れがくるのではないかという危惧を潜めている。

テレビ側も、その前兆を嗅ぎとって、昨今では、ニュ−スを娯楽化し、ニュ−スをワイド番組に仕立てて、少しでも視聴者の気を引こうとつとめているようである。

テレビの低俗さを語る場合、その内容の低俗さもさることながら、司会、キャスタ−の品のなさが最大の問題である。

もっとも、昨今では、品という言葉も死語になりつつあり、品の良さとか、気品という概念そのものが喪失してしまっている。

特に、テレビというのは、訓練されたアナウンサ−を司会とかキャスタ−に採用するのではなく、知名タレントにそれをさせるものだから、個人の癖や方言が大手を振って通っているところに問題があると思う。

放送業界の言葉を全部NHKのように統一せよ、とまでは言わないが、訓練不足のタレントが、その癖のままで、それをキャラクタ−だと思い込んで視聴者にまでぶつけてくることは、放送という媒体にとって、客を馬鹿にした態度だと思う。

特に、話芸を職業とする漫才師にこういう傾向が強いと思う。

 

国民の政治参加

 

テレビの普及というのは、日本の国民に、政治への関心をより一層深めたことは否めないと思う。

その後に起きる安保闘争というのは、テレビの普及に伴う一連の政治参加だと思う。

一般大衆が積極的にテレビの画面に登場するという意味ではなく、テレビに映しだされる政治の状況から、自らの政治的心情を形成するという意味で、1955年、昭和30年の社会党の統一、保守合同の結果として、日本の政治が、自民党と社会党の2大政党のどちらかに組するという意味で、一般国民がテレビの影響として、このどちらかの意見を持つという状況が作り出されたものと推測する。

1955年、昭和30年の社会党の統一、保守合同というのは、1993年、平成5年、細川内閣が出来るまで、結果として自民党の単独政権が継続されたわけで、この自民党が単独で政権の維持が出来た裏には、テレビの影響というものを見逃すわけには行かなかったと思う。

1993年、平成5年の総選挙で、椿発言というのが飛び出して、あたかもテレビ局側が恣意的の選挙をコントロ−ルしたかのような印象を世間に流したが、一般大衆というのは、情報の送り手の意向を丸呑みするような稚拙な思考に陥っているわけではなく、テレビの画面に映ることを自分で斟酌して、判断の糧にしているわけである。

これは極めて健全な情報への接し方で、1993年、平成5年の総選挙で、保革逆転したというのも、国民の健全なる選択の結果だと思う。

60年安保があれだけの盛り上がりを見たのも、テレビの普及ということが情報の伝達に大いに役立っていたわけで、その情報に踊った当時の日本の知識人、オピニオン・リ−ダ−の見識がいかに根拠のない曖昧模糊としたものであったのか、という現実を我々は肝に命じて考察する必要があると思う。

テレビの画面に映しだされる映像も、その場限りにおいては真実の一部であり、日本の知識人、オピニオン・リ−ダ−の発言も、その場においては真実の一部であるわけで、彼らの反政府、反体制の思考というものも拭い去れない過去の事ではあるが、今、その後の日本の軌跡を見ると、彼らの発言がいかに間違っていたのか、という現実も直視しなければならない。

テレビという文明の利器は、情報の伝達という意味では計り知れない武器であり、これは為政者にとっては、強力な政治的利用価値を内在した兵器である。

アメリカの大統領戦では芝居がかった演出まで行なわれ、政治そのものがテレビ映りの善し悪しで評価されがちである。

独裁者にとっても、テレビというのは有力な武器となるはずで、そのために表現の自由とか発言の自由、思想信条の自由と抱き合わせで、新しい時代の礎となるはずである。

我々は現天皇陛下のご成婚も、ケネデイ−大統領の銃殺も、浅間山荘事件も、全てテレビで見て知ったわけで、そういうテレビの画面から、自らの生活心情を確立して、それを政治に反映させているわけで、その結果が55年体制の継続であり、その継続が終了したのが、1993年、平成5年の総選挙での保革逆転であったわけである。

民意の形成には、情報というものが欠かせないものであるが、テレビというのは、その意味で、数多のマスコミの中でも主要な位置を占めていると思う。

文字によるマス・コミニケ−ションというのは、何かをしながら情報を得る、という点では不利な媒体で、その点からすれば、ラジオとかテレビという聴覚に訴える媒体というのは、視覚に訴える媒体よりも優れている事は否めない。

テレビが情報伝達の媒体として優れている事は否定できないが、それにしても今日のテレビ番組の低俗さには辟易する次第である。

しかし、国民のここ一番という時の選択の基準は、テレビの低俗番組とは別の基準で選ばれている様で、民主主義というものが衆愚政治になりかかりそうで、そうならないぎりぎりの選択をしているようである。 

もはや戦後ではないといわれた言葉が実感として受け入れられ、保守合同、社会党統一という政治状況の中で、日本は大きく転換期を迎えていたことは歴史が証明しているわけであるが、その中で特筆すべき政治的な動きは何といっても安保闘争である。

このそもそもの問題の発端は日本の独立の時にまで遡るわけであるが、この独立の際に、共産主義国を含む全面講和か、講和条約にその時点で賛同していた部分講和かの論争がそのまま引きずられて安保闘争という政治課題にすり変わったとみなしていと思う。この時の安保反対の闘争がテレビの格好のテ−マとなったわけであるが、それに踊らされたのが当時の日本の知識人であり、オピニオン・リ−ダ−を自負する人々であったわけである。

 

民主主義の本質を問う安保闘争

 

今、安保闘争を振り返ってみると、これはスケ−プ・ゴ−トを追い求める衆愚の一団という事が言えると思う。

1960年、昭和35年以降の日本の在り方から逆に推察すると、岸信介という政治家に対する怨念を、日本の知識人といわれるオピニオン・リ−ダ−達が寄ってたかって窮地に追い込んで、溜飲を下げたという文脈でしかなたっと思う。

岸信介が何故にこれほどまでに嫌われたのかという点では、彼が太平洋戦争において開戦時の内閣の閣僚の一人であった、という事実がこれら進歩的知識人の目に触ったわけである。

岸信介が、アメリカとの開戦時の閣僚の一人であったという事実は、何とも否定のしようのない事実であるが、しかし、それ故に、A級戦犯として、GHQ側の懲罰という意味で巣鴨プリズンで一時を過ごした事で、彼自身の心の中では、その過去は贖罪されたものと思っていたとしても不思議ではない。

そして、彼は戦後において新しい政党を確立し、公職選挙法に基づいて、選挙民から選出されて国会議員となり、自由民主党の党首として、内閣総理大臣になったわけで、彼がその地位にいること自体は、戦後民主主義の普遍的なル−ルに乗っかっているだけで、彼を免罪する権利は、反対派、野党といえどもないはずである。

60年安保の問題点は、その反体制運動、反政府運動の在り方が最大の問題だと思う。

政府に対する示威運動というのは、戦後の民主主義では、大衆の権利ということで認められてはいるが、権利が認められているということは、何をやってもいいということではないと思う。

権利というのは、その裏側に義務を伴うもので、その義務というのは、法の枠の中という制限を守るということである。

サンフランシスコ対日講和条約における日本の独立の際には、あの戦争で、丸裸にされた日本の国情を鑑みて、アメリカが一方的に日本の国を守る、という片務的な日米安保条約が調印されていた。

その片務的な部分を、少しでも改善しよう、というものが新安保条約であったわけであるが、これが許しがたい行為であるという、その当時の野党をはじめ、その当時の日本の知識人の意識というのは、一体どうなっていたのであろう。

自分の国の独立に反対するという心境もわからないが、自分の国の不平等条約を少しでも改善の方向に向けよう、という施策に反対するという心理は理解しがたいものである。

ここに出てくる彼ら反対勢力の言い分というのが、自民党が独断専行でそれを推し進めるから反対するというものであるが、これは民主主義というものを真に理解せず、全員が納得するものでなければ民意を反映したことにはならない、という偏狭な思考である。

日本の議会制民主主義というのは、あくまでも日本独特のもので、これはかってのヒットラ−やスタ−リンのような独裁政治でもない。

衆議院でも、参議院でも、色々な法律案に対して様々な委員会を作り、審議会を作って、あらゆる角度から問題を検討しているはずである。

しかし、その委員会、審議会の内容が一向に尊重されず、委員会が決定した結論に対して、外部からの雑音で、その結論がぐらぐらするのが我々の議会制民主主義である。

テレビの国会中継を眺めているとよくわかるが、議事運営委員会というのがある。

質問者やそれに対する答弁が不適切だと、この議事運営委員会のメンバ−が出てきて、その都度修正しながらの議事進行である。

つまり、議会制民主主義とは言うものの、それは政府側と政党間の猿芝居をしているわけで、テレビの国会中継というのは、一種のパフォ−マンスにすぎない。

安保闘争であれだけ対立が起きたのは、安保特別委員会で、自民党対社会党の意見の一致が得られなかったが故に、議会政治の運営にかなりの齟齬をきたしたわけである。

その中に垣間見れる我々の同胞の深層心理というのは、本気で、我々は民主主義というものを擁護しているのかどうかという疑問である。

つまり、議論が伯仲して、いつまでも平行線をたどっていると、その内に、腕力が飛び出してきて、乱闘という、肉対どうしのぶつかり合いになるということである。

民主主義の原則は、納得のいくまで議論する、ということだといわれているが、これはあまりにも綺麗事すぎるわけで、相手が議論で納得する事などはありえないと思う。

最後は、金か暴力にいきつくものと思う。

話し合いとか議論ということは綺麗事すぎて、これで事が解決したためしはないと思う。だから、民主主義では、最後は数の原理で、多数決で結論を出す、という便宜的手法が採用されているわけである。

議論がいつまでも平行線をたどっていては結論が出ないので、ある程度議論をしたら、多数決で決着を決めるというのが民主主義の基本になっているはずである。

民主主義というのは100%の納得の上で成り立っているわけではなく、多数決という、漠然とした多数意見を採用することによって成り立っているわけである。

だから社会党が納得しない、出来ない、というのはある意味では致し方ないことであり、一旦決まったことに黙って従う、ということもその意味では致し方ないことである。

安保闘争の基本的な歴史的流れは

    1960年、昭和35年 1月19日、岸首相新安保条約調印、

                5月 6日、岸首相は安保新条約の審議に党内各派の                      協力を要請、

                5月15日 衆議院議長清瀬一郎は、本会議場への入場を阻止しようと、廊下に座り込んだ社会党議員を排除するため、警察官

500人の導入を図り、結果的に自民党単独で会期50日の延長が決定

5月20日、未明新安保条約とその関連法案が自民党単独強行採決で議決

問題は、自民党の単独審議と、その採決にあったわけであるが、その前に、社会党の審議拒否と、審議させないようにするための座込みにもあるわけである。

法案の成立を審議する本会議をさせないとする社会党の座込みで、議長が警察官の導入をしなければならない状況というのは、既に議会制民主主義というものを冒涜する以外のなにものでもない。

議会制民主主義を遵守するつもりならば、たとえ気に入らない法案の審議でも、審議の場で弁論によって戦いを行なうのならば、本来の議会制民主主義のもとでの民主政治ということになるが、議論そのものを拒否するような社会党の審議拒否という態度は、民主主義と云うものを自ら否定していることになる。

それでいて国会に対する請願運動というのを展開して、自らの贔屓筋からの請願は、何十万、何百万と集めてみたところで、自らは審議拒否していては何にもならない。

この当時の識者は、安保条約の内容そのものよりも、それを推進している岸信介という一政治家を嫌っていたわけで、これはひとえに怨念である。

個人的な怨念で政治が左右されては、国民不在の政治といわれても仕方がないと思う。

三権分立の民主政治の枠組みの中で、法案の提出は議員サイドの提案でも政府提案でもいいわけであるが、外交に関する提案となれば、根回しの段階からして、政府提案にならざるをえない。

不平等条約の改善という、国益の伴う外交交渉にいたっては、ある程度隠密な根回しが必要なことは、少し冷静に考えれば誰でも理解し得ることである。

その段階で、今までの政治的経緯からして、占領下で日本が復興に迎う努力をしなければならなかったという状況を照らし合わせれば、日本からアメリカ軍を一切排除して、自らの力でこの四つの小さな島を守るという事は、理論的にも実現不可能なことである。

ならばスイスの様に永世中立で行くべきである、という議論も絵空事であるわけで、現実の問題として考えれば、アメリカ軍にしばらくの間、日本に駐留してもらって、その間に日本の自衛力の温存を計る、という筋書きが一番妥当である。

岸信介の固執する点はそこにあったわけで、それがいけないというのならば、それに対する対案が必要なはずである。

その対案としては、永世中立の話は現実の国際情勢というものを無視した空論にすぎなかったわけである。

この当時の反体制、反政府運動の主張というのは、とにかく日米安保条約は改定すること罷りならぬというもので、そこには理念とか、遂行しようとするものに対する翻意を促す説得力もなく、ただただ烏合の衆を集めての示威運動しかなかったわけである。

議論で勝つとか、議論をしよう、という発想は微塵もなく、大きな声さえあげれば為政者の側は提案を引っ込めなければならない、という手前勝手な発想しかなかったわけである。岸信介の政治手腕にいささか不具合な点があったとすれば、それはその前に提案した、警察官職務執行法、いわゆる警職法を改正しようとして反対派の要求をあっさり飲んでしまったことによる。

昭和33年(1958年)6月12日、第2次岸内閣が誕生して10月8日に、この提案を衆議院に提出したわけであるが、社会党はこの提案に真っ向から反対し、即時撤回を要求し、要求に応じない場合には、審議に応じないという態度で迫ったわけで、自民党内の派閥抗争とも絡んで、結局、岸自民党総裁と鈴木茂三郎の党首会談で、この法案の廃案が決まったわけである。

政府が提案したことに対して、社会党が撤回を要求したり、審議をしない、という云う脅迫は、民主政治を冒涜するものではなかろうか。

警職法にしろ安保改正法案にしろ、社会党をはじめとする野党勢力及び反政府運動、反体制運動の主張というのは、「この部分を変更すれば承認するという」、政府案、自民党案にいくらかでも協力する、という態度は微塵もなく、オ−ル・オア・ナッシングで、妥協する気が全く見受けられないわけである。

これでは最初から民主政治を否定しているのと同じである。

戦前の絶対主義と瓜ふたつで、大政翼賛会の発想から一歩もでるものではない。 

岸内閣の時の、この警職法と安保改定法案に対する反対運動のエネルギ−というのは一体何であったのか今だに不可解である。

警職法に反対するために、警職法反対国民会議というものが結成されたが、これには労働団体、文化団体、婦人団体等66団体が集合したとされている。

こういう運動の、反対運動、反政府運動としての具体的な行動というのは、せいぜいデモ行進という示威運動しかないと思う。

違法行為ならいくらもでも手段があるだろうけれど、合法的な行動となれば、現行憲法で許されている範囲としては、デモ行進か請願署名運動しかないわけである。

岸内閣がこういう法案を国会に提出する背景ということを彼ら運動する側というのは考えたことがあるのであろうか。

警職法を改正しなければ、という発想は、その時点において、政府側、自民党側、為政者の側が、そういう状況を鑑みて提案しているわけで、ただたんに、社会党に喧嘩を売るために行なっているわけではないと思う。

その提案が、その後の日本の将来にとって良い効果をもたらすのかどうか、ということを審議するのが国会という日本の立法府の基本であるはずである。

審議をする前に、その提案を引っ込めなければ今後の審議に応じない、という脅迫まがいの社会党の言い分は、筋が通らないと思う。

公権力の強化を熱望する気風というのは、戦後の一連の労働争議や反政府運動の中で、社会党や共産党の数を頼んでの横暴を憂うあまり、体制側には共通の認識となっていたわけで、ある意味で因果応報ということである。

戦後の日本の政治というものが、自由民主党と日本社会党という2大政党に収斂されてくると、総選挙の議席数でおおよその予測は出来てしまうようになったわけである。

特に日本の野党というのは、議論が下手で、物事をイエスかノ−か、という二者択一で判断してしまうし、議員サイドから法案の提出をする能力もないとなれば、残るのは政府から提出され法案に対して、ことごとく反対する事にしか存在価値がないということになってしまうわけである。

そして審議すべき場を乱闘の場に変えてしまって、結果的に、自民党の単独採決ということにしてしまうわけである。

自民党が単独で採決した以上、その責任は全部自民党に被せて、民主主義を破滅に導いたと称して、自分一人よい子を決め込むわけである。

警職法にしろ安保改定法案にしろ、審議する前から廃止を訴える、ということは国会議員としての職務放棄である。

議長に対して、審議の場に入れさせない、という発想などは、まさしく民主主義を破滅に導くものであり、議会制民主主義というものを冒涜するものである。

そして、国会の外の反対運動というのも、別の見方をすれば、国会の審議を妨害する雑音以外の何物でもない。

確かに、民主政治のもとでは議会に対する示威運動というのは認められ、請願運動というのも認められた合法的な手段であるが、それは一種の安全弁で、為政者が参考にするかしないかは、為政者の側の良心の問題である。

時の総理大臣が、部外者の声の影響を受けて、ころころと施政方針を変更してもらってもこれまた困ったことになるわけで、為政者が自らの信念で以て事を遂行するということもリ−ダ−・シップの発揮という意味で重要なことだと思う。 

安保闘争のなかにおいて、国会の中で行なわれた質疑応答の中には、いかにも陳腐な質問があり、我々が選んだ代表の知的レベルが伺い知れる。

昭和32年11月11日、衆議院内閣委員会の席上、社会党石橋政嗣

「今の日米安保条約によれば、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために米軍を使用することになっている。

これは何も日本政府のいわゆる明示の要請を必要としないということになっているのです。アメリカは日本を守るためにという名のもとに自由に軍を動かせるような非常にでたらめな条約は私は許されないと思う・・・・・」

「だから条約改定をするのである」

と、これはあっさりと政府側に切り返されるしまつである。

政府側が、不平等条約を平等なものに近付けよう、という大義名分に対しては正面からの反論はしにくいものだから、こういう陳腐な議論で攪乱しようとしたわけであるが、この時点で、社会党というのは、日本を共産主義国に売り渡そうとしていたとしか言いようがない。

日本が東西冷戦の狭間でアメリカを代表とする自由主義陣営に帰属することに心から賛成出来ないでいたわけで、この時点において、社会党をはじめとする日本の革新勢力というものは、我々、大和民族の国益よりも、共産主義国、ソビエット連邦や、共産中国の国益を心配して、日本の支配階級に抵抗を繰り広げていたことになる。

今、戦後50年にして、この間の回想が話題を集めているが、日本の革新勢力というものがいかに日本に革命を待望していたのか、という言質を掘り下げて調べてみる必要があると思う。

 

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