安保闘争
戦後の政治史の中で特筆すべき事項は、やはり1960年代の安保闘争であろうと思う。当時の岸首相を首班とする内閣、自由民主党が、国会運営に強行手段をこうじて、いささか強引に議事の進行を図り、無理遣り法案を通過させた、という歴史的事実は否めないが、そういう過程に追い込んだ野党勢力の在り方も、民主主義を理解していない行動である。民主主義の根本である、話し合いという基本姿勢を踏襲しようとする気配すら感じられない当時の野党勢力の在り方というのは、自民党とともに批判の対象にせざるをえない。60年安保の特筆すべき点は、安保条約を改定するかどうか、という政治課題に対して、一般大衆が、大きく政治参加するようになったという状況である。
民主主義、民主政治というものが、国民の全員の納得の上に成り立っているものではない、という大前提が大きく問われたことである。
我々の国というのは、戦後、アメリカ進駐軍、アメリカ占領軍のもとで、ある意味では、強制的に民主主義いうものを受け入れざるをえなかった。
しかし、これは戦前、戦中の、圧迫された絶対主義、軍国主義からの開放であったわけで、我々は、この開放を心から喜んだものである。
そして、全面の焼け野原から、新生日本の復興に取り掛かったわけである。
その間に、日本を戦争に導いてアジアで多大な迷惑をかけた旧軍人たち、軍官僚、高級政治家達は、それぞれに占領軍の意向にそった糾弾、弾劾、贖罪を強要され、懺悔と禊ぎはアメリカ占領軍の主導のもとで、一応の決着をつけたのが東京裁判の結果である。
その結果として、我々は、サンフランシスコ対日講和会議で、旧交戦国を含む48ヵ国の承認を経て、独立を認められたわけである。
主権国家として独立をした以上、主権を確保するためには、国を守る、自衛権、自国の安全保障というのは、主権国家の責任において遂行されるのが世界共通の普遍的な原理原則であるはずである。
しかるに、独立したばかりの日本では、軍事力というものは皆無であったわけで、これでは主権国家の自尊自衛でさえも維持できないわけである。
故に、講和会議と同じ日の午後、旧日米安保条約が締結され、アメリカ軍が当面の日本の防衛を肩代わりする、というのが歴史の流れであり、現実の政治、外交の流れであったわけである。
日米開戦の時、当時の東条内閣の商工大臣に就任していた岸信介は、戦後、再び政治家に返り咲き、戦後の日本の民主主義のもとでは、過去にA旧戦犯としてアメリカ占領軍から巣鴨プリズンに収容された人物であろうとも、公職選挙法で選出された以上、衆議院議員にせざるをえなかったわけで、安保闘争の野党側、革新勢力の側は、この点を厳しく追求したことは当然であるが、これは安全保障条約の本旨とは掛け離れた論議であり、一種の個人攻撃である。
60年安保では、大きな大衆運動が形成されたが、その大部分が岸信介への個人攻撃におわっているわけで、大衆レベルで、条約改定の中身の論議が行なわれた形跡は見当らない。先に触れた警職法が提案された際に出来た国民会議という集団などは、国会議員でないものが、国政をコントロ−ルしようという発想であり、戦後の民主政治では、国民の側の政治的表現の自由というものは保障され、示威運動や請願運動が許容されていることは、十分周知徹底されているが、これをもう少し皮肉な目で考察すると、政治を、外部の影響力でコントロ−ルしようという発想につながっていると思う。
民主主義のもとでは、三権分立が基本的な姿だと思うが、昨今では、マスコミを第四の権力とみなしがちであり、そのうえ国民の示威運動や請願運動が、政治に影響力を与える、民意を反映しているからこの意見を重視せよという事になると、これは第五の権力を形成するということになりかねない。
松川事件の時にも述べたが、部外者の声というものが、司法当局や、立法府に対して影響力を行使するという姿は、真に民主的な政治の在り方であろうか。
民主政治の三権分立の中で官僚でないのは立法府のみである。
司法当局というのは、日本でも一番難関だといわれている国家試験を経てその地位についているわけであるし、行政当局というのも、それと同じ経過を経て職務を遂行しているわけであるが、立法府の国会議員というのは、一切合財そういう試練を経づ、国家試験とは別の選択基準で選出されているわけである。
それは、公職選挙法というチェック機関を通過する、という儀式を経る事で、国民の民意をいくらかでも吸い上げるシステムが戦後の日本の民主政治の基盤となっているわけである。
しかし、この時代の中選挙区制度のもとでは、衆議院の方に立法のウエイトが重く、参議院の方のウエイトが軽くなっている。
これは日本の政治制度の不備の一つだと思う。
衆議院議員というのは、ある意味で地方出身者の利益代表という色彩が強いのに反し、参議院議員というのは、国全体の利益代表という性格が強いにもかかわらず、立法に関するかぎりそのウエイトが押さえられている。
国政というからには、一から十まで、国の、国家の存立にかかわる事項を審議すべき国政の場で、地方の利益代表の衆議院議員の地位が上で、国益を代表する参議院議員のウエイトが低い、という現状は不合理であると思う。
従来の制度のもとでは、衆議院議員の選挙区というのは、地方の地縁、血縁で成り立っている、という感が免れない。
だから選挙に金が掛かる、という事になるわけであるが、制度の善し悪しは、この時点では別の問題であり、いやしくも公職選挙法にもとづいて選出された国会議員が、法案の審議を拒否すること自体が、民主政治を破滅に導く元凶だと思う。
安保改定法案で、社会党の審議拒否が悪いのか、自民党の強行採決が悪いのか、という論議は、卵が先か鶏が先かの論争と同じで、因果応報の結果ではないかと思う。
しかし、この時の、安保闘争を盛り上げた革新勢力の台頭というのは、まさしく第四、第五の政治勢力とみなしていいと思う。
そしてその中には、労働団体をはじめ、大学教授から学生まで、広範な支持基盤が存在していたわけであるが、かれらが法案に反対する理由というのは、今一つ説得力に欠けていたと思う。
安保が改定され、アメリカとの協力関係がこれまでよりも強化されると、日本が戦争に巻き込まれるという理由は、捕らぬ狸の皮算用と同じで、極めて説得力に欠ける。
そこに内在する深層心理は、共産主義国の中国や、ソビエットの宣伝は、100%頭からから信用するが、日本政府とアメリカ政府の言う事は、全く信用出来ないという政治不信の発想である。
そして、もとA級戦犯であった岸信介という一政治家が、内閣総理大臣という権力の座にいる事に嫌悪感を顕にしているわけである。
政治の場に個人的な怨念の情を持ち込むことは、民主政治の旗手としての革新の名が泣くと思う。
この時期、国際的な動きがどうなっていたのかといえば、米ソの冷戦がもっとも厳しい時期で、ソビエットが先に人工衛星の打ち上げに成功して、アメリカはソビエットの後塵を拝し、科学技術的に追いつき追いこせのム−ドが高まり、その一環として、U2という高空気象観測用と称する偵察機を飛ばしていた時期である。
このU2偵察機というのは、当然、日本の基地からも発進していたわけで、その点は、社会党の政府追求の大きな目玉であったわけであるが、こと軍事機密に関するかぎり、アメリカといえども、いくら日本が友好国だとはいえ、軍の機密に関する情報を明け透けと洩らさないことは火を見るより明らかである。
ところが社会党というのは、こういう軍事に関する基本的な常識というものを理解しようとせず、盲が像を撫ぜるような、陳腐な質問を繰り返すのみである。
社会党という政党は、人が何故に争うのか、という人間の本質についての理解が不足していると思う。
これは社会党のみではなく、この時代の進歩的知識人の大部分が陥ったジレンマである。人が複数集まれば、意見の不一致が出るのは理の当然で、意見の不一致を調整するのが政治の手腕であり、調整する手段の一つが、民主主義の多数決原理のはずである。
軍事ということは、取りもなおさず、人間を研究することから始めなければならない。
U2によるソビエット領土の偵察ということは、民主主義というものが表向きの綺麗事ではすまされず、その裏側では熾烈な情報収拾合戦が行なわれ、情報に基づいた反駁のチャンスをうかがうものであり、それは同時に相手側も同じ事をしているということである。スパイ合戦というのは,米ソ両方が、総力を上げて、目に見えないところで知恵比べをしているわけである。
しかし、それが発見され、撃墜されるという事態は、誠に不様な醜態をさらしたわけで、アメリカの面目は丸潰れである。
それに日本の基地が加担していた、ということは軍事行動の一貫としてみれば当然のことで、そのことでアメリカの航空機が攻撃され時は日本に対する攻撃とみなすのか、という社会党の質問は如何にも愚問である。
安保条約で言う「極東の範囲を示せ」という質問も愚問のうちに入るであろう。
60年代の安保闘争での論点は、安全保障条約の改定に反対する、ということのみが強調されて、そのことは裏を返せば、旧条約をそのまま残しておけ、ということであったのであろうか。
条約の中身の論議になると、不平等なものを平等にする、という大命題に対して、反駁のしようがないものだから、改正そのものを反対せざるをえなかったのではないかと思う。という事は、つまり、反対の為の反対でしかなかったわけである。
だからこそ、その内容に関する議論を棚上げにして、「安保反対」というスロ−ガンのみ大声でわめき散らして、それを民意と思い違いをしていたわけである。
この闘争の中で、安保改定を阻止する為に、全学連の一部が国会の中にまで乱入した事に対して、乱入した学生もさることながら、それを支援した革新勢力の人々は、民主政治というものを自ら破壊しようとした行為を、如何様に説明するのか、と問いたい。
自民党の強行採決という手段も誉められた行為ではないが、しかし、それには社会党の審議拒否、議長の職務遂行を妨害する社会党側の実力行使に対しての対抗手段であったわけで、部外者の国政関与とは異質の問題である。
こういう状況下で、全国の大学生や大学教授が、社会党の組織する労働組合と一緒になって反政府運動、反体制運動を行なったという事実は、ここでどういう心的変化があったのか不思議でならない。
私の偏見と憶測から推察するに、これと時を同じくして、海を隔てた中国で、共産革命が軌道にのり、人民公社の設立と大躍進の掛け声が上がったのが、丁度この時期と一致するわけである。
日本の知識人の深層心理の中には、日本はかって中国で、中国人民を圧迫したという贖罪意識があり、その人達にとって、中国がマルクス・レ−ニン主義で統一を果たした、ということは我が事のように慶賀な出来事であったに違いない。
日本はアメリカ帝国主義に占領されて主権を失い、国土はアメリカ兵でうずまり、獄中にあった共産主義者は開放されて、鉄道破壊というテロ行為に血道を開け、国鉄や日教組のような共産主義者の労働組合が日の目を見る時代になったわけで、これらの動きは、この当時の革新的知識人を大いに喜ばせたわけである。
ところが、新生日本が、朝鮮戦争で、経済復興のきっかけをつかむやいなや、GHQでさえも共産主義者の跳ね上がりを快く思わないようになってきたわけである。
岸信介が戦前から政府の中枢にいた、ということはこれら革新勢力の側からすれば、戦前の日本に回帰するものと思われたのも無理のない面があると思う。
だから、その岸信介が推す日米安保条約というのは、条約の内容はともかくとして、岸信介という一政治家がアメリカと共同で外交問題を取り扱うこと自体が気に入らないわけである。
これは岸信介という人物に対する個人的な怨恨で、主義主張の相違とは別の段階の論議であったわけである。
この時代の共産主義の諸国というのは、実に輝いて見えたわけで、ソビエット連邦の人類最初の人工衛星の打ち上げや、中国の大躍進という宣伝に乗せられて、日本の共産主義者の大部分というのは、こうした社会主義諸国こそが日出る国に見えたわけである。
アメリカがデモクラシ−を養護する世界の警察官であることに我慢ならなかったわけである。
そして、そのアメリカに従属する我が同胞の国は、アメリカ帝国主義に毒され、どうにもならない陳腐な国で、こういう国には、主権も必要でなく、国防も、自衛も、民族の存亡も、一切合財不必要なわけである。
こういう発想が根底にあったればこそ、全学連は国会に突入し、大学教授連中は、安保反対のシュプレヒコ−ルを声高に叫んでいたわけである。
こうした進歩的知識人が、自民党の強行採決を糾弾するのは理解できる、しからば、社会党の議事進行阻止という行動を同列に語らなければ片手落ちと言うものである。
贔屓の引きたおしで、自分の贔屓筋の過誤は棚に上げて、相手側に非のみを追求する態度というのは、まさしく依怙贔屓というものである。
事実、この時点における大学教授をはじめとする日本の進歩的知識人の大部分というのは、社会党や共産党の賛同者でしめられていたわけで、社会党や共産党に同情を寄せる彼らの心情には、ソビエット連邦や、中華人民共和国の宣伝を鵜呑みにして、ああいう国家体制こそが一般大衆に富を分配する具体的な社会システムである、と思い違いをしていたわけである。
これも無理のないことで、社会主義国、共産主義帝国が、その30年後に壊滅するなどということは夢想だに出来なかったわけで、その点では、私のような反共主義者でも同じであるが、共産主義帝国というユ−トピアを心の底から信じて、日本にも革命の必要がある、と真から思い込んでいた人々にとって、ソビエット連邦の崩壊という出来事は、それこそ「寝耳に水」という感慨であったろうと思う。
戦後の復興が軌道に乗り掛けた時点での日本の進歩的知識人の左翼思想に対する傾倒ぶりというのは、いささか尋常でなく、日本の大学の数多の教授連中が共産主義国の宣伝にころりと騙されていたわけである。
「象牙の塔」に閉じこもって、学問ばかりを追求する「曲学阿世の輩」は、ダ−テイ−な駆け引きで生きている政治家と比べると、物事を疑ってかかる、という処世術に長けておらず、宣伝、洗脳、思い入れ、という対諜報作戦に極めて弱いわけである。
ソビエット連邦が片一方で人口衛星を上げながら、片一方では粛正、逮捕、監禁、暗殺とダ−テイ−を独裁政治を行ない、中華人民共和国では、大躍進というスロ−ガンのもとで稚拙な鉄の精練を行ない、中国の国土から樹という樹を皆伐採してしまって、今で云うところの完全なる環境破壊をしていたわけである。
稚拙な鉄の精練なるが故に、そのために農業生産が疎かになり、餓死者が続出していたという現実には目をつぶり、岸信介という、一政治家を憎むあまり、共産主義諸国の日の当っている部分にのみ目が行ってしまって、影の部分を見ようともしなかったのがこの時期の日本の進歩的知識人の共通した認識であった。
安保闘争では、全学連の行動が突出していたわけであるが、彼らは、半分本気で革命を夢見ており、半分は革命ゴッコに明け暮れていたわけで、暴走族と同じで、革命熱がさがれば、ただの跳ね上がりであり、ただ単に、騒ぎを起こすのが目的であっただけのことである。
騒ぎを起こすにも、状況にマッチしたスロ−ガンが必要なわけで、それが「安保反対」「打倒岸内閣」であったわけである。
この政治課題に対して、野党勢力の反対闘争ということは、民主政治である以上致し方ない面があるが、もっと深刻なことは、自民党内部の派閥抗争であったと思う。
これは、志を同じくするもの同志の骨肉の争いであったわけで、自民党が、この当時で
200以上の議席をもっており、その集団が、鉄の結束で固まると云う方が却って不思議な気がしないでもないが、そういう意味で、岸首相に対する思惑がまちまちである方が自然である。
この時点で、約30年後に、社会党が政権の座につくということは、それこそ夢想だに出来なかったことで、政権盥回しというのは、自民党内の出来事であったわけである。
その意味からすれば、首相の座をめぐる各派閥の確執、駆け引き、先見制の見通し、というもろもろの要素が渦まいていたに違いない。
岸信介自信は、安保改定が済めば政権にこだわる気持ちはなかったと思うが、その後釜を狙って、池田隼人らの根回しが見え隠れするわけで、それが自民党単独採決にも尾を引いていたわけである。
ところが、そういう自民党の動向を、マスコミ・サイドは「自民党の内部でさえ反対する安保改定」という捉え方で見ていたわけである。
安保闘争における国民各階層の反対運動、反政府運動というのは、国会という立法府の行為に、部外者が圧力を掛けるという構図である。
社会党の審議拒否という態度から派生した自民党の単独採決、という民主主義を蔑ろにした政治の状況というのは、自民党だけの問題ではなく、社会党も同罪であると思うが、この時代の日本の進歩的知識人というのは、自民党にのみ矛先を向けたわけである。
こういう経緯を経て、日米安全保障条約というのは1960年、昭和35年6月15日新条約として自然成立したわけである。
その後、岸信介自身も右翼に刺されて怪我をし、社会党の委員長浅沼稲次郎が右翼の少年山口二矢に刺殺された。
我々、常識あるものにとっては、テロはいけないということは百も承知であるが、社会党の委員長浅沼稲次郎に限っては、テロも致し方ないという感慨を当時持ったものである。というのは、彼がこともあろうに中国で「アメリカ帝国主義は日中共同の敵である」などと発言すれば、テロを加えられても致し方ないと思わざるをえない。
これが日本の公認政党の党首の発言であるところに、日本の革新勢力の稚拙な発想の根源があるわけである。
1960年、11月にアイゼンハワ−を破ってアメリカ大統領に就任したケネデイ−大統領は「国家が何をしてくれるかではなく、国家に対して何が出来るかを問うべきである」と説いて人気を博したが、まさしくこれは近代の民主主義というものの本質をついた発言だと思う。
日本の革新勢力というものにはバランス感覚が欠けているわけで、贔屓の引き倒しという面があることは前に述べたが、ものの本質を見る事無く、感情に流れたり、ム−ドに押されたり、時の流れに身を任せたり、自己の信念に基づいた判断力というものがないわけである。
右向く事が流行れば、自分で検証する事無く、隣も右を向いているので自分も右を向く、左を向く事が流行れば、隣が左を向いているのを見て、自分も左を向くという風に、自己の信念に基づく判断力というものが欠落しているわけである。
安保闘争というのは東西冷戦のさなか、米ソの代理戦争を日本国内で実施していたようなものである。
アメリカを規範とする自由主義陣営と、ソビエットや中共を理想とする共産主義陣営、社会主義陣営とが、日本国内で二つに対立して、それぞれに自己の主張をしあったようなものである。
そして、国民は冷静にその成り行きを注視し、結果的に自由主義陣営に組することを決めたわけである。
日本の進歩的知識人といわれる人々が、共産主義や社会主義の国家を理想として夢見ていたのは、彼らが人間というものの本質を軽視した所以だと思う。
人間という生きものは、理性とか知性という善意のみで生きているのではなく、権欲、金欲、性欲という自己の願望を成就したいという欲望とか、我儘などという煩悩をもっているもので、煩悩を否定し、理性を強調するとこのような状況に陥ると思う。
ソビエット連邦とか中国、またはキュ−バで共産主義革命が成就しえたのは、いわゆる、そこに住んでいる人々が、この時代には知的レベルが低く、共産主義、マルクス・レ−ニン主義という、人間が人間の知識で考え抜いた理想というものを実践するに都合がよかったからである。
革命が成就した時点で、これらの地域では、前時代の封建制度から近代化への脱皮に遅れたわけで、遅れた理由というのは、人々の知的レベルが低いという内的要因であったわけである。
そういう環境のもてでしか共産主義革命というのは成就出来なかったわけであるが、日本の知識人というのは、そういう部分にスポットをあてる事無く、マルクス・レ−ニン主義の良い面のみを知識として受け入れたが故に、その理想をいくらかでも実現できれば、という衝動に駆られたものと推察する。
ところが、日本古来の民族意識というのは、村意識であり、村落共同体の意識であり、運命共同体の意識が抜け切らず、知識人が文字から吸収した理想というものと、現実の政治感覚というのはずれていたわけで、我々は共産主義革命というものを拒否したわけである。前にも述べたように、日本の大学が学問としてはいかなる主義主張と研究しようとも構わないが、その研究の結果を実践しようとなると、これは少々考えものである。
安保闘争で大学の教授連中が政治行動に出た、ということはその表れだと思う。
そして、安保闘争における学生の役割というものは、これは共産主義者の洗脳以外のなにものでもない。
日本共産党というのは保守合同、社会党統一ができた昭和30年、1955年に武装闘争の方針を転換している。
私に言わせれば、この時点で、日本共産党というのは党名を変えなければいけないと思っているが、これは日本共産党がマルクス・レ−ニン主義を放棄したものとみなしていいと思う。
現実の問題として、この日本共産党の方針転換に不平をもつ党員もいたわけで、それが安保闘争では全学連のなかの分派行動を起こし、過激な行動に出たわけで、全学連主流派の行動に対しては、革新勢力の側からも批判が出るという状況に陥ったわけである。
この時代の日本の進歩的知識人が、アメリカを嫌悪して、ソビエットや中国に憧れるという心境は、理解しがたいものがある。
戦後の無の時代に日本を飢え死にから救ってくれたのがアメリカであり、日本の封建的な諸制度を打破してくれたのも他ならぬアメリカであったはずで、その意味からすれば、我々、戦後に生きる日本人は、この時代のアメリカの好意には、感謝こそすれ嫌悪することはないと思う。
この忘恩こそが、新しい日本、新生日本の新しい価値観であったのであろうか。
昔受けた恩を忘れる、ということは日本古来の価値観からすれば一番卑しむべきことであったわけで、アメリカが日本古来の価値観を根本から覆したはずみに出来た新しい価値観であったのであろうか。
政治を忘恩という感情で論ずることは出来ないが、戦後の進歩的知識人の反政府運動というのは、どうにも理解に苦しむ。
それかといって、体制ベッタリでは大政翼賛会になってしまうわけであるし、仮に岸信介という政治家に対する抗議であったとしたら、これは陰湿ないじめの問題であるし、戦後の人権意識の高揚ということを考えれば、個人的ないじめというのは問題にならないわけであるし、何とも説明がつかない。
あれだけの運動の盛り上がりがあった割りには、その後には何一つ残っていないわけであり、その後の日本の経済的発展は、世界を別な意味で震撼させたわけである。
サンフランシスコの対日講和条約後の日本の経済発展の過程において、日米安全保障条約の意味合いが少しずつ変化したことは否めない。
独立直後の意味合いから、60年安保、70年安保以降において、安全保障条約の意味合いが変化するということは、国際環境の変化にともなう外的要因で、我々、内部の人間としては如何ともしがたいが、結論的に言えば、日本は安保只乗り論に集約されると思う。戦後の日本は、アメリカ側の自由主義陣営に組することにより、アメリカの保護のもとに自国の防衛ということを、GNPの1%以下に押さえてこれたということは、アメリカ側から見れば安保只乗り論に他ならない。
国防費というものを全部経済発展に注ぎ込むことが出来たわけである。
このことは、吉田茂と岸信介という政治家が、アメリカと日米安全保障条約というものを締結して、日本の防衛というものを、アメリカに肩代わりさせた政治的手腕の賜だといえると思う。
昨今、政治家のリ−ダ−・シップということが言われているが、社会党党首の浅沼稲次郎の「日中共同の敵」という発言も、政治家のリ−ダ−・シップの表れであり、吉田茂と岸信介のとった政策というのも、政治家のリ−ダ−・シップそのものである。
このどちらがその後の日本にとって幸せだったのか、我々は、再度、考察する必要があるのではなかろうか。
その社会党が、今は、自民党と一緒になって連合政権を作っている現実を我々はどう評価すべきなのであろう。
日米安保条約というものは1951年、昭和26年から始まっているわけで、日本の独立と同時に始まったわけであるが、その後の日本の経済復興とともに、又世界の情勢の推移とともに、その意味するところが変化することは歴史の必然として致し方ない面がある。それは条約の本旨とは関係のない外部要因というか、状況の変化に応じて変わるものであって、我々、日米双方の意図とは関係なく変化するものであったわけである。
初期の日米安全保障というのは、言うまでもなく占領の継続という意味が含まれていたことは否めないが、60年安保闘争以降の条約の意味というものは、アジアにおける日本の独走を防止するという意味まで含むわけで、アジア各国というのは、それがあることにより安全が保たれる、という見解にまで至っている。
日本経済がアメリカにつぐ規模になる、などということは我々自身も、アジア諸国においても、考えられないことであったわけで、初期の日米安全保障条約というのは、このような状況を想定して出来ていたわけではなく、あくまでも終戦直後の無に等しい状況下で想定されていたわけである。
ところが60年安保を経過し70年代の自動延長の頃になると、日本経済というのは、世界経済の中で突出するようになって、この状況をアジアに人々から眺めれば、日本は再び軍事大国になるのではないか、という危惧を持たざるをえない。
歴史の教訓として、経済大国は必ず軍事大国になる、というのが過去の歴史であったわけである。
ところが我々はそうはならずに、どこまでいってもエコノミック・アニマルのままでおわったわけで、その意味ではアジアの人々は安心したに違いない。
しかし、人に弱みを見せると相手は付け上がる、というのも人間社会の普遍的な在り方で、我々、日本人というのは、そのことに気が付かないし、気が付いていたとしても、それを口にすることが、我々の認識では、ハシタナイという感情があるが故に、相手のいうことに理解を示す、という結果になっている。
我々は、アジアの人々に対して偽善ぶっているわけである。
人間の本質、本音で語らずに、偽善ぶった、物分かりのいい言葉を投げ掛けていたわけであるが、先方は、こちらの偽善など信用せずに、本音をぶつけてくるわけである。
初期の日米安全保障条約の意味というのは、アメリカが丸裸の日本を防衛する、というものであったが、その後の60年の安保条約改正の目玉というのは、アメリカが日本の安全という大義名分で日本中を我がもの顔で動くのに制限を加え、日本の主権を尊重しながら、極東の防衛に貢献しようというものである。
ここで露呈してくる事実というのは、自民党、岸信介の政策というのは、占領の後遺症として、アメリカ軍が日本国中を我がもの顔に動くことに制限を加えることであったわけである。
この時、何故に、革新政党や、大学教授や、学生が、アメリカ軍の行動を制限しよう、という政策に反対しなければならなったのか、不思議でならない。
安保の影響
米ソの冷戦というのは主義主張の違いそのもので、共産主義諸国と自由主義諸国のせめぎあいであったわけである。
双方とも自分達の仲間を広げようとして画策していたわけであるが、共産主義の輸出という面は否めない事実であった。
自由主義陣営というのは、古い封建主義諸国をいくらかでも民主化しようと思ってはいたが、そういう状況では、自由主義よりも共産主義の方が説得力が強く、印象として、富を公平に分配する、という概念の方が民衆には受け入れやすかったわけである。
フイリッピンはアメリカの占領下であったという状況からして、自由主義に傾倒していったが、ベトナムというのは、後背地に中国という共産主義国家が背後に存在した関係上、結果的に共産主義国家に生まれ変わったわけである。
共産主義というものは、人間が人間の頭脳で以て理想郷というものを作り上げたが故に、論理的には、非常に説得力があり、富を公平に分配するという趣旨は立派なものであるが、それを実施する人間というのは、太古より連綿と生き長らえてきた、煩悩に満ちた人間である以上、人間固有の煩悩から解脱することは出来ず、理想郷を作る手段としての政策に極めて人間らしさを露呈させるわけである。
自由主義というのは、人間本来の考え方にきわめて素直のに順応することが建前である以上、自由競争のもとで、法の枠という限定された中とはいえ、自分の欲望を追求することを認められた制度であるはずである。
権勢欲、金欲、色欲その他もろもろの煩悩は、法に触れない範囲で、自由に実現可能なわけである。
日本という四周を海で囲まれた人口過密な国では必然的に過当競争にならざるをえない。だから、この過当競争を片一方で擁護しながら秩序ある競争を促す、という相反する理念に向かって戦後の日本は邁進してきたわけであるが、その結果が、極めて日本的な自由民主主義というものになったわけである。
自由でありながら、極めて規制の多い経済秩序を作り出すという矛盾をかかえてここまで来たわけである。
戦前の治安維持法というのも規制の一つであり、警職法の強化というのも規制の一つであり、法律の制定は、そのまま規制につながるわけで、昨今の規制緩和という問題は、規制をしなければならない国民の思考を先に改善してからでないと実効がともなわないと思う。昨今の規制緩和というのは、極限られた経済活動の中での規制緩和である、ということは認識しているが、法律の制定そのものが既に一種の規制につながっているわけである。共産主義の社会というのは、各種の規制により管理された社会主義であり、管理する側が極めて人間臭さを抱いた独裁者になりがちである。
自由主義というのは、自主管理をめざしながら、その中で個人の夢を実現するチャンスを含んだ社会機構といえると思う。
アメリカがU2を飛ばしてソ連国内を偵察していた頃、ソ連側は大陸間弾道弾を開発していたわけで、このどちらが「悪」で、どちらが「善」であるのかという判断は出来ないわけである。
しかし、戦後の日本の知識人というのは、共産主義国家に憧れ、共産主義と言うものが自由主義よりも価値あるものであるという認識で固まっていたわけである。
人間の理性から考えれば、暴力で以て現行政府を転覆して革命を起こす、という発想が受け入れられるわけがない。
少なくともノ−マルな社会通念というものを持ち合わせた人間ならば、暴力で以て政府を転覆する、と云う事自体が前近代的な時代錯誤であるということに気付くべきである。
世界の歴史、日本の内外の政治史というのは、結果的に、暴力で以て政権交替を果たした歴史であったわけである。
しかし、明治維新という無血革命を果たした日本国内において、日本の知識人の間で、旧態依然とした暴力革命を容認する思考が罷り通っていた、という現実を我々は肝に命じて心に止めておくべきである。
岸信介という自民党の党首であると同時に内閣総理大臣が、アメリカ軍の日本国内での行動をいくらかでも制限しよう、としたこの新安保条約のどこがどういう風に気に入らなかったのか、その当時の革新勢力というのは、この法案にこぞって反対したわけである。
日本の独立の時点で、共産主義国をも含めた全面講和でなければ罷り成らぬ、と唱えた革新勢力の考え方というのは、極めて世界情勢、世界の動きに疎い連中であったといわなければならない。
日本の独立、日米安保条約、これらが日本の再軍備につながる、という革新勢力側の発想は、日本の歴史というものを真に理解しえず、日本の民族的良心というものを真に理解していない、文字どおり「曲学阿世の輩」であったわけである。
第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争というものを経験した我々の先輩諸兄というのは、真から戦争というものを憎んでいるわけであるが、それと自尊自衛とはまた別の問題で、戦争を回避することと、再軍備、無抵抗主義とも別の次元の課題であるわけでる。
日米開戦時内閣の閣僚であった岸信介という人物は、それだからこそアメリカの核の傘下にはいることにより、日本は戦争から回避できると判断したわけである。
またこの時点で、アジア諸国は、日米安保条約があることにより、日本の軍国主義の復活はありえないと判断したわけである。
なぜならば、日本で軍国主義が復活することはアメリカが許さないであろう、という判断のもとでアジア諸国はある意味で安心でいたわけである。
これが日本が独自の見解をとって下手な中立政策などを実施すれば、それこそ再び為政者の独走が心配なわけである。
日本がアメリカと安全保障条約を結ぶことにより、アジアでは一種の保険を得たようなものであったわけである。
60年安保以降、日本の経済進出は、世界を凌駕するものであったが、その中でのGNPの1%という数字は、相対的にアジアの中では突出した額になったが、アメリカという超大国から見れば、日本の防衛力などというものはそれこそ微々たるものでしかない。安保論争が華やかな頃、日本は永世中立の道をとるべきであるという議論や、ソビエットを刺激して戦争に巻き込まれるという議論があったが、第二次世界大戦後の東西冷戦というのは、米ソの直接対決ということはありえなかったわけで、そもそも自国だけで自国の防衛を確保、維持するという発想は、この時点で時代遅れになっていたわけである。
世界の一般常識として、国防は集団安全保障に任せる、という発想が普遍的な思考になりつつあったわけである。
そういう状況も解らず、理解しようともせず、ただ日本という「葦の髄から天を見た」ような、狭量な思考に凝り方まったが故の誤った判断であったわけである。
そういう状況下で、国民の大部分が安保条約改定に反対という状況下で、安保改定を頑として推し進めた岸信介という政治家のリ−ダ−・シップというものは立派なものであるといわなければならない。
それに引き替え、戦後の日本の民主主義の旗手として華やかに安保反対闘争を繰り広げた日本の進歩的知識人の先見制の無さというのは如何様に説明したらいいのであろうか。
私が日本政府の肩を持つ発言をする義理は、全くと云っていいほど無いが、日本の進歩的知識人の無責任極まる発言に対しては、一言文句を言っておかなければ溜飲が下がらない。55年体制のもとで、自由民主党の政権下において、さまざまな政治的疑惑が噴出したことは否めないが、政治的疑惑そのものが日本の政治の不備な点ではないかと思う。
政治の不備というよりも、民主主義そのものの認識の違いではないかとさえ思えてくる。日米の議会制度の相違は先に述べたが、アメリカ議会のロビ−活動を容認することが民主主義の本質ではないのかと思うようになってきた。
民主主義的政治システムとして、国民の利益を尊重するとしたら、国会議員というのは国民の利益集団の声を前広に反映させるものでなくてはならないと思う。
今の日本の議会の在り方というのは、政府提案に対して賛否を取って、法案として成立させるかさせないかの機能しか持っていないわけであるが、これでは多数党の一人天下で、野党の存在意義が無い。
国会が立法府であるとしたら、与党も野党も、法案提出の機会は均等でなければならないと思う。
海部総理の時に政治改革が叫ばれ、細川内閣でやっと日の目を見たが、これは選挙制度の見直しだけで、民主主義の政治という、もう一つ大きな枠組みの再検討が必要であったのではなかろうか。
日本の独立と同時にて締結された日米安保条約に、いかなる改善を施すかという場合、与党も野党も、同じ程度のロビ−活動をして、その賛否を取ればよいのではないかと思う。日本の国会議員が、特定集団のロビ−活動を悪とみなしているから政治腐敗が後を断たないわけで、日米安保改定にともない、社会党や共産党の行なった院外活動というのは、一種のロビ−活動とみなすべきである。
日本の進歩的知識人というのは、自民党の政治腐敗は糾弾するが、野党の院外活動というのは民主主義の健全なる姿だと認識しているわけで、金を受け取って法案成立に手心を加えるという行為がよいことではないのと同じように、国会周辺でデモ行進をして拡声器でやみくもにシュプレヒコ−ルを叫ぶのも、一種の政治妨害に他ならないと思う。
民主主義のもとで政治に関与しようと思えば、自ら支持する政党に投票をして、それによって選出された国会議員が、国会という場で議論を丁丁発止とおこなって、それで結論がでない場合に初めて多数決という方法で採決をするのが基本である。
ところが、政府から法案の提出があると、その提案が気に食わないといって、取り下げを要求したり、審議を拒否したりしていては民主政治というものを蔑ろにしているといわれても致し方ない。
この時代というのは戦後の日本で一番の激動の時期であった。
政治の面では安保闘争があり、経済の面では三井三池炭坑の労働争議が修羅場を向かえ、同時に国鉄の合理化の問題も絡んで日本中が大混乱をきたしていた時期ではある。
炭坑と国鉄の経営というのは、時代の波に乗り遅れるというか、時代遅れに成りつつあったわけである。
これは企業の努力とか組合員の努力という問題とは別の次元の問題で、日本の経済全体の転換期に巡り合わせたことに由来する。
炭坑も国鉄も、小さな企業ならば身軽に方向転換が可能であったけれど、日本の基幹産業として、あまりにも労働集約の度合いが強く、合理化にも限界があり、合理化で生き残る事は不可能に近いわけで、必然的に廃業の方向に進まざるをえなかったわけでる。
炭坑の問題は、石炭だけの問題ではなく、経済効率の問題にすり変わっていたわけで、日本では石炭を掘れば掘るほど、使えば使うほど赤字が大きくなる構造であり、旧国鉄も走れば走るほど赤字が累積するという状態であったわけである。
このことは単にエネルギ−の問題を通り超して、経済政策の根本にかかわる問題となっていたわけである。
よって炭坑から離職する人には政府から補助が出て、雇用促進住宅という施設が日本全国に出来たわけであり、国鉄は新しくJRとして生まれ変わったわけである。
しかし、こういう労働争議の場に、共産主義者が登場することによって、話し合いの場が闘争の場に変わってしまうところに日本の組合運動の弱い面があると思う。
労働争議の場というのは、経営側と労働側の対立の場であることは自明のことであるが、我々の生き方の中には、話し合いで事が解決するということはほとんどありえないことである。
進歩的知識人や革新勢力の側というのは、常に話し合いということを強調するが、日本の政治状況、労使の交渉の場を見るかぎり、話し合いで解決した試しはない。
話し合いで解決ということは、解決を放棄したということに他ならない。
解決する気がありません、ということに他ならない。
というのも、あらゆる場面に登場してくる先鋭化した勢力というのが、共産主義者であるところに話し合いでの解決ということが成り立たない原因がある。
日本共産党は武装闘争を放棄したとは云うものの、共産主義者が全部共産党員ではないわけで、日本共産党と共産主義者というのは全く別の存在であり、その共産党員が政権奪還のための武装闘争を放棄しただけで、労働争議や政治闘争において暴力を否定するものではない、と云うことが出来る。
石炭産業で掘れば掘るほど赤字がかさみ、旧国鉄が走れば走るほど赤字がかさむということは、企業努力でなんとか成るという次元の問題ではなく、日本の経済政策、いや世界の経済機構に変化がきたし、エネルギ−革命が押し寄せてきた証拠であったわけである。
石炭と石油のエネルギ−効率を比較すれば、石油の方に軍配があがることは当然で、世界中のエネルギ−が石油に代わりつつあったわけである。
私が幼少の頃学んだ小学校においては、発電には水力と火力があって、火力というのは石炭を燃やして蒸気デタ−ビンを回して発電するという風に習ったものである。
ところがその石炭の単価が日本では高く、それが石油に置き代わりつつあったのがこの時代であったわけである。
石炭を掘っても掘っても赤字が出るということは、石炭産業がいかに労働集約的な産業かということでもあるわけで、その労働集約的産業が成り立たなくなってきた背景というのは、日本が高度経済成長にさしかかったという証拠でもあるわけである。
我々の賃金が社会的にアップしてきたことにより、石炭産業のコストを圧迫しだしたということである。
つまりは、戦時中のように、朝鮮人労働者を安い賃金で使う以外に採算が合わないという状況になったわけである。
戦後の日本で、そういう人権無視のような労働慣習は受け入れられるわけがなく、石炭産業というのは、閉山に向かわざるをえなかったわけである。
旧国鉄が新しく生まれ変わったのも、エネルギ−革命の余波を受けたことにも一因ではあるが、こちらの方はそれよりも組織疲労の方が重要ではなかったかと思う。
親方日の丸体質と、それに便乗した共産党員を内在した組合の在り方が国鉄という組織を食物にしたわけで、そこに競争原理を持ち込んで起死回生を図ったのがあたらしいJRの趣旨ではないかと思う。
エネルギ−革命というのは一朝一夕で仕上がるものではなく、時代の流れであり、歴史の必然であり、産業革命の最後の工程であったわけである。
このような大きな流れに棹差してみても、時代を後戻りさせることは不可能なわけで、このような不可避的な流れに抵抗するという場面に共産主義者がしゃしゃり出るというのも現代の一場面である。
共産主義者にとっては格好の活躍の場であることには違いないが、それをフォロ−する知識人の存在というのがいかにも日和見的である。
共産主義者にとっては、労働者の生活のことも、企業経営者の思惑も、一切関係なく、ただただ騒動を起こせば、それで彼らの存在意義はあるわけで、話し合いという手間暇かかる手段よりも、手っ取りばやい実力行使の方が効果的なわけである。
この話し合いという一見民主的に見える交渉も、問題解決には役立たないわけで、話し合いイコ−ル問題の棚上げということである。
しかし、日本の知識人というのは、問題解決には話し合いによる合意の形成が大事だと云う言い方をしがちであるが、この言葉が出てきたら最後、問題解決そのものが棚上げされた、という意味に取らなければならない。
労働争議で労働側と経営側がどこまで行っても平行線をたどる場合、話し合いでは解決が出来ないわけで、最後は実力行使ということになる。
安保闘争にしろ、三井三池の労働争議にしろ、国鉄の合理化の問題にしろ、話し合いの後には実力行使という戦争ごっこを経た後で初めて妥協案が出てくるわけで、我々の民族間の闘争は、必ずこの手順を踏んでいるにもかかわらず、世の知識人というのは、話し合いで合意に漕ぎ付ける、という空想に浸っているわけである。
妥協点を見いだす前に、必ず警察官との戦争ごっこがあるわけで、ある意味で、公権力に頼っているとみなしてもいいと思う。
警察の介入の後でしか話し合いのきっかけが見いだせない、ところに我々の民主主義の未熟さがあるものと思わなければならない。
警察という公権力を引きだす前には、共産主義者による騒動があるわけで、一連の交渉が暗礁に乗り上げると、共産主義者が騒動を引き起こす、その騒動を鎮圧するために警察という公権力の行使が必要になり、警察が出てくると、進歩的知識人と称する人々が、公権力の横暴というシュプレヒコ−ルを繰り返すという手順である。
そして、その結果は既成の方針どおりに事が運ぶというわけで、その過程における反政府、反体制、反企業の運動というのは、一体何のための運動であったのか、という悔悟の念に苛まれるわけである。
安保闘争にしろ、あれだけの反政府運動は、見るも無残に踏み躙られ、日米安全保障条約というのは、その後の日本の経済の発展に深く影響をあたえ、石炭産業というのは、石油産業にきれいさっぱり転換してしまったわけである。
石炭に比べれば石油というのは極めて省力化の可能な産業で、労働力の集中ということはありえない産業である。
こうした転換の時期、転換のタイミングに合わせて共産主義者がその場、その時に応じて問題提起することは、ある意味で平和な証拠である。
日本の共産主義者というのは、本気で暴力革命を信奉しているものでない、という証拠でもあり、日本で暴力で政府転覆を図るということが出来ない、という証明でもあるわけである。
ただ彼らも、自らの存在意義をアピ−ルする必要をその都度表しているにすぎないわけで、騒ぎが起きれば、そこに駆け付けて、お祭騒ぎを演出しているにすぎない。
そのお祭騒ぎに色を添えているのが、日本の進歩的知識人の発言であり、彼らは、彼らでそのことにより自らの糧を得ているだけの反対屋にすぎない、と思えば腹も立たないが、利用されている労働者はたまったものではない。
共産主義者を煽りに煽って、労働者や、自己の判断が出来ない学生を道具に騒ぎを起こしては、その事で記事を書き体制批判をし、権力サイドの横暴を批判する事によって、彼ら進歩的知識人としての生存価値があるわけである。
我々の同胞は、戦前から共産主義というものに憧れ、それを標榜する日本共産党に入党した人がおり、日本人でありながら、中国の共産党にまで入党して人もいるわけで、こうした人々というのは、人間としては極めて優秀で、学問もあり、知識も豊富であり、その最大の特徴が、人類愛に富み、純真で、素直であるが故に、現世の人間的に腐敗した政治システムに我慢ならない負い目を感じているわけである。
だからこそ、革命で、腐敗した政治システムというものを一挙に是正しようとするところが問題であるわけである。
ところが、世間の一般大衆というのは、自らを腐敗した政治システムに身を任せ、身を委ねてしまっているわけで、その反対に、日本の進歩的知識人と称する人々は、自らはその渦中に身を置く事無く、純真な共産主義者を後から煽っているだけで、自らは一切手を貸そうとせず、言論の自由のみを謳歌しているわけである。
純真な青年たちが過激な共産主義に走る、という現象は、動物の、特に猿の進化の過程を踏襲するものである。
野生の猿の集団が、新しい習慣を身につけるときは、必ず若い青年の猿が実践をした後でそれが群れ全体に普及する、ということが知られている。
それと同じことが、我々同胞の場合にも言えているわけであるが、我々の同胞というのは、若い人々の実践というものをそうやすやすとは受け入れないわけで、そこが猿の集団と我々人間との違いである。
しかし、それは社会システムの変換という場面で見た場合のことで、若者が新しい文化や、新しい価値観を作りあげていくという意味では猿と同じである。
1960年代から始まった闘争の時代、安保闘争、労働争議、その他あらゆる反体制、反政府運動の根底に流れているエネルギ−は、若者のエネルギ−であったことは間違いない。問題は、日本の知識階級というのが、これら若者に自らの規範を教える事無く、逆に彼らの考え方に迎合してしまったところに混沌とした社会現象を生み出す根源があったと思う。
既成のビジネス界、いわゆるサラリ−マンの世界では、若者は、ある意味で大人の社会に順応するように教育されなおすが、進歩的知識人と称される業界では、若者の意見を尊重する、という意味で既成の大人の社会が若者文化にすり寄っていく、という現象があったわけで、この業界では若者を叱るということがないわけである。
若者を叱るという意味で、若者達が犯している間違いを正す、という行為が欠落したままで、その現状を是認してきたが故に、若者の暴走という事態を引き起こしたわけである。この現象は、戦前の青年将校がク−デタ−まがいの騒動を起こしたとき、軍部が毅然たる処分をしなかったが故に日本が軍国主義に蹂躙された経過と酷似している。
若者が暴走しがちである、ということは普遍的なことで、日本の知識人の最大の欠陥は、こういう人々に対して毅然たる態度で批判しないところにある。
何となく若者に迎合することが民主的で、人権を擁護している、という錯覚に陥っているわけで、そのことは、彼ら知識人そのものが、自分の価値判断に確たる自信を持っていないということに他ならない。
ビジネスの世界で活躍している人々というのは、若者に迎合していてはビジネスに差し障りがあるので、組織としての価値観というものをきちんと若者に教え、諭しているが、進歩的知識人という人類は、ビジネス界とは別の価値観で生きているが故に、そのことを放棄しているわけで、政治的な意識に芽生えた若者の行動をコントロ−ルできないでいるわけである。
エネルギ−政策の転換という事態は、日本だけの問題ではなく、世界中の近代化、合理化の過程での過渡的な社会現象であったわけで、これは避けて通ることが出来なかったわけである。
特に日本のように資本主義を信奉している工業国においては、経済の普遍的な原則に則って、より安すく効率のいいエネルギ−に変換していかざるをえなかったわけである。
社会の進歩には犠牲がともなう事は歴史が証明しているわけで、炭坑の閉山、国鉄の民間移管という社会現象も、そこで働く人々にとっては大きな犠牲をともなったわけである。我々は、民主主義というものを平等社会の実現という風にとらえがちであるが、これこそ共産主義革命の本旨であり、平等主義ということがそもそも人間の生存の摂理に違反していることである。
人間というのは生まれ落ちたときから基本的に不平等であるわけである。
金持ちの家に生まれるか、貧乏人の家に生まれるかは自己の意志で選択できることではないわけで、それを人間の形をしている生きものを全部平等に扱おうとしたところで無理があるわけである。
炭坑の閉山にともなう犠牲者を、他の社会生活をしている人々と全く同じように平等に扱おう、というのも、理念としては立派な考え方であるが、完全なる実施は不可能に近いものと思う。
理念と現実というのは、常に大きな乖離があるわけで、人は理念のみでは生きられず、現実の中でしか生きられないわけである。
その意味で、政治というのは、統治する側は常に現実を見つめ、現実に即した行政を実施しようとしているわけであるが、反政府、反体制の側というのは、常に理念を振りかざして、捕らぬ狸の皮算用式の心配をしているわけである。
そして55年体制の中で、常に政治を引っ張ってきた自由民主党というのは、現実というものを見つめ、社会党をはじめとする野党勢力というのは、理念を振りかざしていたわけである。
日本型民主主義の中で、この現実と理念はあい交わることはなく、話し合いという、一見民主的で整合性のありそうに見える方法をいくら実施しても平行線のままである。
これでは何一つ解決できるわけはなく、いたずらに時間の経過を招くだけである。
国会の場で、政策が丁丁発止と議論されるのではなく、日本の国会運営というのは、与野党選出の国会運営委員会で決まってしまうわけである。
議事堂で政策が論議されるのではなく、国会運営委員会で実質的に法案の成立不成立という事が決まって、後はパフォ−マンにすぎない。
そして、国民から選出された国会議員というのが、党利党略で動いているわけで、所属する政党が支持者の意見を集約している、というとらえ方がされているが、国民の意見というものはストレ−トに反映されているわけではない。
55年体制で、自民党が単独で政権を維持できた時代は、自民党が国民の意見の大筋を先取りしていた、ということは言えていると思う。
つまり、現実の問題として、野党勢力が問題提起するよりも先に運動を起こすわけで、野党勢力というのは、現実問題の先取りに何時も失敗しているが故に、常に自民党の問題提起に対して反対する以外に存在意義が見いだせなかったわけである。