安保の影

産業界の淘汰

 

政治に比べると実業の世界というのは、文字通り弱肉強食の世界で熾烈な戦いをおこなっているわけで、その上、日本の経済界というのは、国内での過当競争の影響を海外にまで敷衍しているわけである。

日本企業の ライバルは諸外国のライバル企業ではなく同業他社であったわけである。

その上、各企業は、ライバル会社との競争をまるで戦争をしているような雰囲気の中で行なっているわけで、この過当競争というのは、よりよい品質をより安い価格でというもので、消費者の立場に立てば誠に都合のいい競争であった。

しかし、それにも節度というものを無視したが故に、諸外国の企業を、知らず知らずのうちに圧迫して、結果的に壊滅にまで追い込んでしまったわけである。

これは相手方が資本主義体制をとり、自由貿易主義を取っているかぎり、ある面では致し方ないが、感情の面では素直に喜ぶべきことではないと思う。

相手の立場を少し考慮したものであった方がいいのではないかと思うが、良くて安ければ市場を席巻してしまうのが資本主義の本質であるかぎり致し方ない。

日本の炭坑が閉山し、国鉄が民営化されたのと同じ事である。

この日本企業の過当競争というのは、日本という限られた国土の中で、必要以上に物が生産されるということで、その生産過剰の品物を少しでも売るためには、価格を下げ、品質を上げる以外にないわけである。 

これが日本の工業製品の付加価値を高めたことは否めないが、日本の経済発展の裏側には、諸外国の企業の淘汰ということが内在されている事を我々は知らなければならない。

この経済発展を外側から見れば、日本が経済的に世界を支配するのではないか、という危惧を彼ら諸外国の人々は真剣に心配しているわけである。

我々は単純にシエア拡張を願って行なっていることでも、見方を変えれば、世界制覇をしているのではないか、ということもありうるわけで、世界の人々の脳裏には、経済大国は必ず軍事大国になる、という歴史の事実というものがインプットされているとしたら、日本の経済発展を経済だけの発展と素直に受け取らない人々があらわれても不思議ではない。日本の経済発展が60年安保以降から本格的に軌道に乗ったということは、安保只乗り論ではないが、安保条約で防衛費が安くあがったからというのは論理の飛躍であるが、一面の真理ではあると思う。

共産主義国は防衛費、国防費の圧迫で破綻したわけで、国防費が、その国のGNPの延び以上にふくれあがれば国が傾くことは必定である。

日本が経済的に大発展をしえた背景というのは、地球規模で、日本の商品を受け入れる国が存在していたからに他ならない。

我々は、日本の経済発展が、日本人の努力だけで成り立っているとした大間違いで、日本人の生産に対する意欲と同時に、それを受け入れる諸外国の消費者があったからである。便利で安いものならば何処の国でも受け入れてくれると思うのは、ある種の思い上りで、世界の国々が保護貿易の立場を取ったとすれば、いくら日本の商品が安くて品質が良くても、商品として流通しないわけである。

その問題を一番端的に露骨に表したのが他ならぬアメリカである。 

繊維交渉から鉄鋼交渉、自動車の自主規制という動きは、アメリカが自国の産業を少しでも保護しようとした運動であったわけである。

アメリカとの貿易摩擦というのは、日本がアメリカに対して輸出しているものが高付加価値のあるものであるのにたいし、アメリカから輸入しているものは、第一産品であることへのジレンマの表れである。

戦後の状況というものを少しは知っている者にとって、日本がアメリカに自動車を輸出したり、テレビ・ラジオというものを輸出したり、半導体などという工業製品の米といわれるほどの高付加価値の商品を輸出するということは全く信じられない出来事であった。

アメリカがこれほどオ−プンに門戸を開放しているのに反し、日本の米の輸入の際の大騒ぎというものを考えると、まさに噴飯ものである。

日本も、資本主義体制のもとで、自由主義経済システムの中で生きていこうとした場合、日本の米の生産者が、資本主義の原則としての自然淘汰にさらされることは致し方ない。スイスの時計産業からアメリカの家電メ−カ−までが日本の産業の餌食になり、経済的に淘汰された現実を眺めれば、日本のみが、特別に、米の生産者のみを保護するということは理屈が通らないと思う。

かっての石炭産業は、エネルギ−政策の変換で、経済的に淘汰されたわけであるし、安くて品質がよければ、後は消費者の選択に任せるという、大らかな気持ちでなければ、世界の自由貿易という舞台から引きづり下ろされてしまう。

淘汰された産業を国の資金で下支えする、ということは国内政治の一貫としての手腕の見せ所である。

こういう場面で、安保条約を推し進めた岸信介のような強烈な個性をもった政治家の登場が望まれるわけである。

安保闘争で骨抜きにされた進歩的知識人というのは、その後の活動では、気の弱い話し合いの精神なかで、真剣に米生産者の利益を代弁している人がいない。

もっとも、米の輸入自由化ということも、時代の流れであると同時に、日本の産業の淘汰の歴史のなかの一場面にすぎない。

戦後50年を経て、日本の工業生産も、円高とか人件費の高騰という要因により、海外に生産拠点を移さざるをえない状況に落ちいているわけで、そういう意味の経済的変化の中で眺めてみれば、日本国内で米を作ること自体が時代にマッチしていないとも言える。米の生産で採算が合う場所で米を作って、それを日本は輸入すればいいと、言うことになる。

工業製品では既にそういう状況が出来上がっており、製造業というのは、資本主義経済、自由貿易主義の先兵として、経済の動きの一番早い部分を走り続けるわけで、農業というのは、常に工業の後を追い掛けるという形で社会全般が進歩するわけである。 

これは人間という「考える葦」の集団の社会である以上致し方ないわけで、人間が頭で考えるシステムの方が、自然の法則に逆らえない農業や漁業という分野より先行するのは当然といえば当然である。

日本の農村、特に米作農家というのは、終戦の後で、農地改革という共産革命に近い大改革を経てきているわけで、米というものが日本人の生存に不可欠な物である、という認識のもとで、農業の在り方というのは、工業の在り方に比べると、日の目をみなかったことは戦後の我々の怠慢ではなかろうか。

戦後の復興は工業生産にのみ関心が向き、農業にはそれほどの関心が寄せられなかったような気がしてならない。

我々が資本主義の中で、自由貿易を建前とする経済システムの中で生きようとすれば、採算の合わない業種が淘汰されるのも致し方ない。

純粋に経済理論だけで考えればこういうことになるわけであるが、我々の先祖が農耕民族である、ということを考えると単純に経済理論だけでは割り切れない感情が残るのも致し方ない。

その反面、製造業は、弱肉強食の熾烈な競争を繰り返し、ちょっとした社会的要因で簡単に倒産したり吸収合併したりするなかで、農業のみ、補助金で、米さえ作れば政府が市場価格よりも高価な値段で買い上げてくれる、というシステムも、簡単には容認するわけにはいかないと思う。 

農業以外の産業は、資本主義という土俵で、おなじような競争をしている中で、農業のみは、別の土俵で安穏としているようなもので、そういう状況を作り上げた戦後の我々は、そこにメスを入れる時機にきているのではないかと思う。

農地改革により、かっての寄生地主による富の収奪、地主の搾取、農民への圧迫というものがなくなったわけであるが、このことにより、本来は、農業従事者というのは、資本主義経済に果敢に挑戦すべきであったわけである。

が、ここで国家の管理、農林省の指導という名のもとに、または食料の安定的供給という名のもとで、必要以上に管理されてしまった結果が今日の状況を作り出していると思う。戦後の民主化の中で、農業のみが民主化からとり残されて、管理された生産方式に埋没してしまったわけである。

言い換えれば、農民というのは、我々、日本民族、大和民族の本質を具現化しているわけで、管理されなければ生きてはいけないということである。

江戸時代の封建制度のもとでは、地主、庄屋に管理されることにより、村落協同体を維持できたが、地主とか、代官という管理者がいなくなると、また元の原始資本主義、要するに金のあるところに土地が収奪されていくという過程を経るものと推察する。

農業が進取性に遅れを取る、ということは農民の自意識の問題だと思う。

農業というのは誰にとっても食に通じる、人の生存に直接かかわる業種であるから、出来たものを無理遣り消費者の買わせる、という努力はしなくても成り立つものである。

よって、より付加価値の高いものを追求する努力をしなくてもすむ生産物であるわけである。

ここに製造業で言うところの企業努力と言うもを軽視しがちな体質を内在していると思う。戦後の食糧難の時、農林省が米の安定供給ということをもくろんで、政府が高く米を買って、安く消費者の配給したことは、あの時代には有意義な政策であった。

しかし、これは米を購入する立場の消費者にとっても、農業従事者にとっても、双方に有意義であったわけで、農業従事者からみれば、その政策に安住することによって、資本主義経済のシステムの中で淘汰から免れたわけである。

農地改革というのがGHQによる半強制的な大革命であったうえに、農林省の政府買い上げ価格の決定ということは、まさしく共産革命と同じシステムであったわけである。

いわゆる社会主義的なシステムが米の生産に関しては実施されたわけである。

そして、戦後の農家というのは、このシステムに胡坐をかいて、製造業で云うところの企業努力、品質向上の努力、販路拡大の努力、高付加価値の開発等々、あらゆる努力を怠ったわけである。

こういう業界に未来があるわけはなく、資本主義経済のシステムの中で淘汰されても致し方ない。

農業のなかでも、資本主義経済システムに上手に乗っかっている部門もあるにはある。

ただ、米に関してはそういう事が言えない。

よって、ますます米に対する風当たりが強くなるわけで、日本の現況にてらしあわせて、米だけを保護貿易の管理下におく、ということは極めて説得力に乏しいわけである。

日本の米作農家にかぎって資本主義経済システムの枠の外におく、ということがいかに荒唐無稽な事かが判っていない人が多すぎると思う。

米が、我々、日本人にとって不可欠な食料である、という論理も根拠に乏しいもので、戦後の混乱期には、我々は米以外の物で飢えをしのいだわけで、自由貿易体制のもとであれば、米だけがなくても飢え死にすることはないと思う。

その前に、米の輸入をすれば、後は消費者の好みに合わせて購入すればいいわけであって、米作農家が日本からいなくなったとしても、我々は飢え死にすることはないと思う。

資本主義体制のもとでの自由貿易で我々は今日の栄華を築いたわけで、米に固執して、自由貿易そのものを否定するような言動は厳に慎むべきである。

 

成田闘争の深層心理

 

農民、農家、農業従事者の我儘を思い知らされたのが、この安保闘争の後で噴出してくる成田闘争によってである。

成田闘争というのは羽田空港が手狭になったので新しい空港が必要になり、さて何処に作るかという段階で色々な案が出され、比較検討されてきたが、最終的に霞が浦と富里に集約されたわけである。 

ここで、霞が浦がふるいおとされ、富里が最終的な候補地となったわけであるが、ここでも地元と住民の反対にあい、それが三里塚に変更になるという変遷を経てきたわけである。成田闘争の問題点は、国が一片の閣議決定で成田の空港建設を決めてきた、というところが争点になっているが、この言い分はいささかこじつけがましい。

成田空港の建設問題は1966年、昭和41年の閣議決定からはじまって、閣議決定の前に住民に対する説明が何ら考慮されていなかった、というところが最大の問題点となったわけであるが、国家が国家的プロジェクトを遂行しようとするときに、住民のコンセンサスを十分に得てから実施するということは、理想論としては成り立つが、実際問題としてはほとんど不可能に近い。

空港というものは他の社会的基盤と同じで、一つのソシャル・インフラストラクチャ−であり、個人の願望を満たすものではなく、社会全般に対して利便を提供するものである。鉄道や道路、港湾と同じで、社会性の極めて強い公共施設である。

人類の過去の歴史で、こうした公共施設が建設されようとした際、地元住民が多少とも犠牲になることは歴史の必然であり、また住民側としてはすすんで土地を提供することが美徳でもあったわけである。

鉄道を布設するにしても、道路を建設するにしても、社会的な要求があればこそ、そういうプロジェクトが浮上してくるわけで、社会的欲求が全くないところには、このような国家プロジェクトというものはありえない。

鉄道にしろ、道路にしろ、その建設にともなって土地を取られる人は面白くないに決まっているわけで、なにも成田の人々だけに限ったことではない。

公共施設の建設に自分の土地がかかったとしても、それは、ただで没収されるわけではない。

当然、代替地なり、時価なりで補填されるわけで、共産主義国のように、人民の土地をただで取り上げ、没収するわけではない。

現実の問題として、国家が新しい空港をどこかに作らなければならないとした場合、あらゆる候補地で、反対運動がおきたとしたら、空港という、現代に即した社会的インフラストラクチャ−は永久に出来ることはないわけで、国家の立場としては、どこかで決断を下さなければならないことは自明のことである。

その決断が、たまたま成田・三里塚に決まったが故に、その後の成田闘争というものに発展したわけである。

この成田闘争というのは、日本の民主主義の試金石であったと思う。

それは成田空港、新国際空港としての成田というのはいまだに完成をみていないわけで、次の第二期工事が、果たして計画どおりに完成するかどうか大いなる疑問を提起している。新国際空港を作るという国家的ビッグ・プロジェクトが、一片の閣議決定で決まったのがいけない、という論法は不合理そのものである。

ならば他に民主的な方法で社会的インフラストラクチャ−を決定する手段方法があるのかと問えば、今日の日本の状況下ではありえないと思う。

空港建設に関して、住民サイドから「我々の土地に空港をもってきてくれ」という住民側の請求があり得るであろうか。

これはあらゆる国家プロジェクトについて言えると思うが、鉄道にしても、道路にしても、住民の土地を犠牲にしなければならない場合に、そのことによって利益がえられると思う人と、損をすると考える人がいる事は当然の成り行きである。

我々が、現代の文明の利器に直接係わり合ったときに、そのことによって利益になるか、損をするか、という判断は極めて難しいわけで、昔、鉄道の布設に反対したが故に、近代化に取り残された例や、その逆に、道路の布設を積極的に行なったが故に、騒音公害に悩まされるという悲喜こもごもが繰り返されるのが現世の我々の姿である。

新国際空港を成田・三里塚に決めたことに対しては、当時の当局者、いわゆる佐藤栄作総理大臣には、それなりの言い分と、考えがあったに違いない。

それを「事前に住民サイドに知れせなかったからいけない」という反対派同盟の言い分というのも無理な注文である。

もしそうしていればあの成田闘争というのはなかったのか、と問い直せば、答えは多分

「否」と出るであろう。 

なんとなれば「事前に住民サイドに知れせなかったからいけない」という言い分は、闘争の後から出てきた言葉であって、事前に知らせたところで、反対が賛成に変わる性質の物ではない。

成田闘争というのは、過激な反対運動が前面に出ていて、見落とされていることに、この空港予定地の中に、下総御料牧場が有ったということである。

いわば昔で云うところの天皇の土地があったということで、こちらの方はあっさりと移転しているわけである。

そして、農民が頑なに、土地に執着して移転を拒んでいたわけである。

この下総御料牧場が簡単に移転に応じ、農民が移転を拒否した、という点にこの当事者の民主主義に対する見解の相違が潜んでいると思う。

かっての、戦争前の日本ならば、おそらく御料牧場の移転などということは恐れ多くて政府も問題外としたに違いない。

しかし、戦後の日本では、皇室サイドが社会的インフラストラクタヤ−の建設に前向きに対処し、農民サイドがそれに対抗したわけである。

御料牧場というのが庶民の生活の場ではないという点からして、同一には論じられないが、皇室が素直に移転に応じ、農民が抵抗したということは、戦後民主主義の勝利というべきか、未成熟というべきか、議論の別れるところだと思う。

政府が閣議で決定した成田・三里塚、新国際空港建設という国家プロレクトにたいして、地元住民は一貫して反対であったことは事実が示しているが、当事者外の我々は、この闘争を如何様に評価すべきなのであろう。

この地の農民というのは、戦後の開拓で成り立っているわけで、先祖代々農業を営んできたという言い方は適当でないと思われる。

開拓農民というのは、農民の中でも異質な存在ではないかと思う。

戦前、戦後の食料の増産をめざす、という国家プロジェクトに協賛した人々のはずであり、その意味では、自分の属する国家共同体の意向には素直に従うというか、協力する精神的土壌を持っていたはずである。

私は人間というものを善意で見る事には否定的な考えを持っているので、この反対闘争の根源にあるのは「金」ではないかと思う。

人の心は「金」で如何様にも動くものであると認識しているので、これら反対闘争の根源にあるのは、補償金釣り上げの策謀ではないかと思っている。

特に相手が開拓農民となれば、その思いが拭いされない。

開拓農民というのは、地付きの農民と比べると、自己の欲求が強いと思う。

現状を打開したいからこそ、開拓という難事業に取り組もうという心意気が、先祖代々から農業を営んでいる人に比べると強いと思う。

これは別の見方をすれば、「金」に執着しているということである。

終戦で、旧満州から引き上げてきた開拓農民が主に入殖した土地である、ということに関しては、先祖代々の土地を強制的に取り上げられた、という言い方は通らないのではないかと思う。

成田・三里塚に国際空港の用地を確保しようとした当局側の腹の中には、そういう腹つもりもあったに違いないと思う。

開拓農民だからこそ、用地買収もそう難しい事ではなかろう、という安易な考えがあったに違いないと思う。

ところがあに図らんや、これら旧満州からの引き上げ者というのは、強かな農民達であったわけである。

彼らが満州に出向いた根底には、当時の国策に添うという大義名分もあったに違いないが、この国策というのは、かっての共産主義国が行なったように、嫌がる農民を無理遣り満州に引っ張っていったわけではない。

当局側の誇大宣伝ということは有ったかもしれないが、基本的には、自己の意志で出掛けたわけで、言い方を変えれば、甘い夢を見て、欲の皮が突っ張っていた、という言い方も出来る。 

そういう人々が、内地に帰ってきて、この不毛の下総台地で作れる物といえば落花生ぐらいしかないところに、国際空港が出来るとなれば、反対運動を起こして、補償金を釣り上げるという生き方を選んだとしても不思議ではない。

この地球のうえの太平洋の片隅に、日本列島という四つの島があり、その上で日本人というのは営々と生活を営み、社会を形作ってきたわけであるが、その社会が20世紀の後半に入って、外国と行き来をするための施設として、空港という社会性の極めて強い施設を作ろうとしたとき、その国の国民としてはどういう対応をしたよいのであろうか。

羽田が海に近いので、羽田の拡張ということであれば問題はなかったろうが、そういかなかったからこそ、他の候補地が浮き上がってきたわけで、そのすべてが国有地であったならば、成田闘争などというばかげた騒動は起きなかったに違いない。

国際空港が出来ることよって、周辺の住民にどういう影響が出るのかは誰にもわからないわけで、社会基盤の整備ということは、こうした不安定要素を含んでいるわけであり、その施設に土地を提供しなければならない人にとっては、大きな不安であることは察して余りある。

しかし、20世紀の後半になって、新たに国際空港というものを作らなければならないという社会的要求に対して、我々、国民の側としては、どうのように対応すればいいのであろうか。

我々が、この土地ならば空港を作っても構わない、というものが必ずしも国際空港の要件を満たすとは限らないわけで、誰かが、何処かに、何時かは、決めなければならないわけである。

決めるに際しても、色々な候補地の中から、国際空港としての条件を満たすところから選択をしなければならず、その選択の際にも、住民の意志を聞くということは、理想ではあろうけれど、聞けば反対されることが判っている以上、そう安易に聞くわけにもいかないと思う。 

「住民の意志を聞かずに一片の閣議決定で決まったことがいけない」という言い分は、騒動の後の弁解がましい言い草であって、聞けば聞いたで、「どうぞ!どうぞ!此処に作ってください」と云う事にはならなかったと思う。

鉄道、道路、河川工事、上下水道、電話、等という社会的基盤整備というのが、住民の側の運動で出来るということは極めて稀である。

必要なことが判っているにもかかわらず、それに自分の土地が少しでも掛かると、絶対反対という事になるわけである。

この絶対反対というのも、補償金釣り揚げの工作で、金さえ積めば、最後は折れるわけであるが、しかし、素直に折れた人と、最後まで粘った人で補償金が違っては、最初に素直に妥協した人の立場がないわけで、その人たちが今度は納得しないわけである。

成田・三里塚闘争というのも、最初は、土地の住民の空港建設反対闘争という地元に密着した闘争であったが、この闘争している住民を支援するという形で、他の労働組合や学生の集団が参加してくることによって、混乱に輪を掛けたかたちになったわけである。

労働組合や学生の支援団体というのは、他ならぬ共産主義者に扇動された集団や、共産主義者そのものであったわけである。

彼らは地元住民の土地に対する執念とは別の次元で、この闘争に、支援という形で参加することによって、社会的混乱を拡大する事に意義があったわけで、最初から、内戦状態の確立をもくろんでいたわけである。

成田闘争というのは、さながら内戦状態に陥っていたわけである。

反対派住民の側では、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊、少年行動隊と、さながら国民皆兵の状態であったわけで、そこに全学連を主体とする学生の過激派グル−プ、つまりは共産主義者のグル−プが合流して、警察の機動隊と渡り合う様は、まさしく内乱状態であった。

戦前、戦中の日本であれば、飛行場の建設など、当局側の一片の通達で簡単に出来上がったものが、戦後の民主主義の中では、農民側の百姓一揆に近い形で、その収拾が非常に困難な状況に陥ったわけである。

これは戦後の我々が、民主主義というものの本質を理解することに不十分で、その本質を真に理解していなかったということだと思う。

私有権と公共性のバランス、社会の変化にともなう社会的欲求と個人の欲求、プロジェクトを遂行する手順などにおいて、民主主義というものが未成熟であったが故の混乱だと思う。

ただこの闘争の過程において、立退を強いられた農家に対して、政府側は無償で出ていけといっているのではなく、代替地を与えようという点では立退き要求そのものは整合性があると思う。

この代替地が、農民側の自分勝手な言い分によって受け入れなかった、というところに問題があるわけで、そこが民主主義の未成熟な部分であり、農民サイドのエゴだと思う。

代替地受け入れ拒否の理由が、新しい共同体には馴染めないとか、今までとは違った作物をつくる事は不安で出来ない等という理由は我儘としかいいようがない。

戦後の日本の民主主義においては、知識人、文化人、オピニオン・リ−ダ−、マスコミ関係者、大学教授、労働幹部等々の人々は、常に反国家、反体制、反権力を標榜し、マスの意見や行動が「善」である、という認識で凝り固まっているが、こういう風潮があるからこそ、日本の民主主義というのは未成熟のままにあるわけである。

此処には、国民が国政に寄与する、という意志が全くないわけで、国家の行なうことはすべてが「悪」であるという認識で一致しているわけである。 

こんな馬鹿な話もないわけで、我々は国政選挙権を行使して、国会議員を選出し、その国会議員が社会的要求に応えようとして国家プロジェクトがあり、その国家プロレクトというのは、国民の総合的な欲求を満たすためにあるわけで、全く無用なものを作ろうとしているわけではない。

成田闘争というのは、国民の総合的な欲求と、その犠牲になる地域住民との戦争であったわけで、政府サイドが「悪」であるという認識ありえないと思う。

この土地で生活を営んできた人々というのは、旧満州からの引き上げで、この痩せ細った土地を艱難辛苦の末開墾に成功し農業で生きていける基盤を作った、ということはそれなりに高く評価すべきであるが、国の施政方針で満州にまで出掛けたり、又内地に戻ったりして、極めてバイタリテイ−に富んだ人々である。

そういう人々ならばこそ、今回の国家プロジェクトにも素直に協力して、再び新しい挑戦をすべきであったのではなかろうか。

しかし、今度の新しい挑戦が国家と自らが戦争をすることであったわけである。

言うまでもなく、日本の国土は狭く、新しい施設を作ろうと思うと、そこには必ず地権者がいるわけで、その地権者との交渉ということが国家プロジェクトのネックになっている。かって、美濃部亮吉東京都知事は、「一人でも反対者がいれば橋一つ作らない」といって人気を博したが、これが果たして真の民主主義、真の民主政治であろうか。

真の民主主義、真の民主政治というものが100%完全なる賛同のもとで成り立つものではない、という事を忘れている。

100%の完全なる賛同を得る、ということは先の大政翼賛会であり、全体主義であり、絶対主義であるわけで、決して民主主義ではない。

成田闘争における反対派住民の言い分も全くこれと同じで、住民を100%納得させてから空港建設を始めよ、というのは全くのところ無いものねだりである。

議論の為の方便にすぎない。補償金釣り揚げの口実にすぎない。 

資本主義を基調とする自由主義経済システムのなかでは、反体制、反権力、反国家でさえも、生きるための生業(なりわい)として成り立っているわけである。

空港建設に反対することによって、それがより豊かな富を生み出す方策となっているわけである。

一般論としては、国家が或るプロジェクトを遂行しようとすると、その犠牲になる人々に対しては補償金なり賠償金が支払われる。

土地を収容された人々は、その金で、新たな挑戦を試みるわけで、その試みが成功するかどうかは、当人も未知の世界に飛び込むわけであり確定は出来ないが、現行の社会システムの中では、その挑戦を果敢に行なうことが民主主義社会における国家への貢献であり、自らの生き甲斐になるわけである。

国家によって自らの人生航路を半ば強制的に、半ば自主的判断で修正せざるをえない、という点では本人は不本意であろうが、何が何でも国家の言う事を聞きたくない、というのが成田闘争であったわけである。

国家と住民が対立した場合、あらゆる場面で、国家サイドの方が有利というか、整合性を持った行動が取れるわけである。

だからこそ、世の知識人とか、反体制派の人々が、弱い立場の住民サイドの味方になるわけであるが、住民サイドが必ずしも正しい行動をしているとは限らないわけで、住民サイドも、かなり強かな処世術を心得ていることがあり、その強かさによって、価値判断を惑わされる事がある。

民主主義が数の原理で、数が多ければそれが「正しい」と思うことは極めて危険なことである。

先の岸信介が一人で立ち向かった安保闘争でも、数の原理で言えば、改定しないほうが日本は幸せになれるはずであったが、結論的には、新安保条約のもとで、我々は繁栄を享受出来たわけで、数が多ければ必ずしも「正しい」とは言い切れない。

成田と民主

 

成田闘争と民主主義

 

成田闘争に見るように、国家と住民が対立した場合、国家サイドの方に整合性のある行動が取れるのはある意味で致し方ない面がある。

国家というのはシステムで、組織で成り立っているわけで、システムとして、組織として整合性のある手段を考える基盤が出来ているからである。

成田闘争においても、どうしても土地の買収に応じない住民に対して強制代執行という手段がこうじられた。いわゆる強制執行である。

住民の土地を強制的に取り上げるというものであるが、住民側がどうしても妥協しないとなれば、国家としてはこうした強制力を行使せざるをえないわけである。

進歩的知識人が念仏のように唱えている話し合いでの解決ということが出来なかったが故に、強制力による土地収容ということになったわけであるが、話し合いでは解決できない場合、どういう処置をすればいいかという答えは知識人といえどもありえないわけで、話し合いを何時までも待っているという事はプロジェクトを放棄せよという事に他ならない。当局側としてはそんな事が出来るわけもなく、何時かは解決をしなければならないわけで、最終的には、強制力による執行ということにならざるをえない。

成田闘争における強制的な土地収容は、さながら戦争状態を同じで、戦争を矮小化したものである。

戦争が主権というものに対して行なわれるとしたら、成田闘争というのは私権、私有権というものを発端とした戦争そのものである。

人間の普遍的な倫理は通用しないわけで、戦後の民主主義の世の中で、此処だけ、この時点だけ、この地域の人々にだけ、交戦権が認められたようなものである。

そしてそれは地域住民だけではなく、あらゆる支援団体が晴れておおぴらに戦争状態を作り上げることが出来るこの地に集合したわけで、日本の革新勢力が平和思考であるという仮面を金繰り捨てたわけである。

此処に集結した革新勢力というのは、云わずと知れた共産主義者の集団で、成田という地域は、彼らに格好の戦闘の場面を提供したわけである。

国家と国民が社会的インフラストラクチャ−の整備として、公共制のある施設を作る際に、犠牲になる人々の間の関係というのは反権力、反国家、反体制闘争ととらえがちであるが、果たしてこういう見方は正しいものであろうか。

民主主義の世の中で、国政選挙で選出された国会議員が政府というものを構成し、その政府の決断で作ろうというときに、その犠牲をモロに受ける人々が存在することはある意味で致し方ない。

昨今の、進歩的知識人というのは、この犠牲をゼロでなければならないという考え方に立っているが、これは理想というもので、日本のような国土の狭い国では大きな公共施設を作ろうとすれば、そこには必ず地権者がいるわけで、公共制を優先させようとすれば、ある程度私権の制限とか代替地に移るという協力を仰がなければならない。

地域住民というのは国家あっての住民であって、昔の軍国主義の時代ならいざしらず、現代の民主主義の時代であればこそ、国民はこぞって国の方針に協力すべき時だと思う。

これは兵隊にいくとか軍国主義を吹聴するとか、軍隊に協力するという意味ではなしに、自らの国を自らの力で少しでも良くしよう、という気持ちがあれば国家と徹底的に争って、内戦状態を作るような事は出来ないはずである。

地域住民以外の人間で成り立っている各種支援団体の人々は、国家に対しても、地域住民に対しても、ある意味で無責任なわけで、彼らにしてみれば現行の社会秩序さえ破壊すれば、それで彼らの支援する目的は半分以上果たせたわけで、彼らは騒ぎが大きくなればそれだけ効果を上げたという解釈によって行動しているわけである。

こういう過激派の人々のいうスロ−ガンが「国家の人権抑圧」だとか「国家の暴力」であるとか、「基本的人権を侵す」だとか、全く理不尽なスロ−ガンであるが、口は重宝なもので、どういう風にでも言い包める事が出来るわけである。

赤を黒とでも言い包めるわけである。

国民サイドと国家が対立した場合、国民サイドでは、こういう言い方が出来るが、国家サイドはこういう言葉は使えないわけである。

あくまでも国民のためという方法しか残されていないわけである。

此処に日本の知識人の陥りやすい罠があるわけである。

「国家の人権抑圧」だとか「国家の暴力」であるとか、「基本的人権を侵す」だとかいう言葉を聞かされると、彼ら知識人というのは、言っている人の言葉を素直に信じ、発言を控えている方の意向というものを無視するわけである。

そして、国家というのは、行政を遂行するための大きな組織であり、組織として動いているかぎり、法的手続きを遅滞なく踏襲しているわけで、住民サイドには、法的に対抗する手段がないわけである。

国家の法律が違憲であるかどうかは、最終的に最高裁まで上程しない事にはわからないわけであるが、そこに持ち込まれても、整合性のあるように手続きを整えて遂行してくるわけで、これはあらゆる場面で国家の側に理があるということになる。

ここで問題になってくることが、土地収容に関する代執行ということである。

いわゆる強制収容ということである。

日本の法律では公共制の強い事業を行なうとき事業認定の指定を受ければ土地の強制収容が出来ることになっているらしい。

成田国際空港も、この事業認定を受けたことによって、法的に強制収容が可能になり、これに基づいて当局側は警察力を動員して土地の測量やら土地収容を行なったわけである。成田闘争の山場は、昭和46年に行なわれたこの土地収容に関する攻防戦であったわけであるが、その様相はさながら内乱状態であったわけである。

国家が法的手続きによって行動しているのに、農民、住民サイドが実力で阻止するという行為が果たして許されることであろうか。

農民、住民サイドには確かに基本的人権があり、自分の土地を空港なんかにしてもらいたくないという気持ちのあることは理解できるが、当局側が無償で土地を取り上げるわけではない。

農民、住民側には不満足かもしれないが、それ相応の補償金があり、代替地を用意して交渉にのぞんだわけで、農民、住民側はそれが気に入らないといって、当局側の正統な行為を妨害する事が果たして民主的な行為といえるであろうか。

それは限りない私欲であり、我欲ではなかろうか。

民主主義の原点は、この個人の欲望、私欲と社会性のバランスだと思う。

このような問題に直接タッチしていない第三者というのは、無責任に、国家の側に権力の強圧があり、反民主的な行為であると判断しがちであるが、当局側が法的手続きを踏んで行なう行為が反民主的で、住民側の実力行使が民主行為なのであろうか。

国の社会的基盤整備をすることが「悪」で、個人の私欲を満足させることが「正義」なのでああろうか?

国家の成す社会的インフラストラクチャ−の整備が「悪」であるとしたら、我々は、将来の発展そのものを拒否しなければならない事になる。

時計の針を逆に見なければならなくなる。こんな事が許されるであろうか。

この土地の強制収容で多くの犠牲者が出た。

中でも三人の警察官の殉職であり、交番の焼き討ちで死亡した警察官の殉職である。

戦後の平和な日本で、土地収容をめぐる地元住民と警察官の間でゲリラ戦まがいの抗争がある事自体異常な出来事である。

成田闘争の実質的な指導者は戸村一作という人物であったが、彼は農民の頑固さそのもので、彼に近代の民主主義の本義を説いたところで聞く耳を持たなかったに違いない。

恐らく民主主義のもとで個人の利益と公共の福祉を説いたところで納得しなかったに違いない。

彼にあるのは、反対運動の指導者になることで、自分が英雄になったような気分に浸っていたに違いない。

強制収容で、小泉よねというおばあさんは、機動隊員に抱き抱えられるようにして排除されたが、このお婆さんも頑固一徹で、個人的願望と社会的欲求というバランス感覚は無かったに違いない。

こういう土地収容の段階から、さまざまなトラブルがある中で完成した管制塔を、過激派学生がぶち壊すという暴挙を行なった。

これによって部分的開港は更に延びたわけであるが、人々は、こういうトラブルの一切の責任を、国の側に押しつける事により反対派住民への同情を隠さなかった。

戸村一作や小泉よねを英雄視したわけである。

しかし、曲がりなりにも成田空港、新東京国際空港は1983年、昭和58年3月8日開港したわけである。

けれども、これは建設計画のほんの一部を使用しての部分的な開港で、これから第2期の工事を始めなければならないわけである。

しかし、反対派住民と当局側がいつまでも対立していてはその継続工事が完成しないので、ここでなんらかの糸口を見付けなければならないということで、この当事者の間に第三者の調停機関として隅谷調査団というものが学識経験者6名による構成で出来たが、この類の学識経験者というのが非常に日和見で、私の主観では信用ならない。

というのは、こうした日本の学識経験者というのは、どうしても感情に左右されがちである。

この感情に左右されるということが日和見になり、現実の弱者に同情しがちな判断をしがちである。

農作業で汚れた農民と、国家試験を通過した官僚が同じテ−ブルについているとすると、この学識経験者の思考力というのは、薄汚れた農民に同情するという感情に溺れがちである。

土地を取られる立場の、文字どおり弱い立場の農民に同情を寄せるあまり、真の民主主義、個人の欲望と、国家の目指そうとしている公共性の極めて強い施設の建設という視点から目をそらしてしまうわけである。

彼らの結論というのは極めて玉虫色の、誰をも傷つけない結論を出すわけである。

それが民主的という大義名分のもとで、理解ある回答という結論になるわけである。

反対派住民、当局側、そして第三者的立場の隅谷調査団による公開シンポジュウムが

1991年10月から継続的にひらかれたわけであるが、その結論として、第2期工事の凍結、強制収容はしないように事業認定の取り消し、など当局サイドの全面的な敗北である。

この結論によって誰が一番有利な立場になったかといえば、まぎれもなく反対派住民である。裁判であれば反対派の全面勝利である。

こういう結果を導きだしたのが隅谷調査団という学識経験者6名の判断であるわけであるが、これは言うまでもなく、民主主義の本質を論議するものではなく、土地を取られる立場の同情以外のなにものでもない。

まさしく民主主義というものが人間の感情によって歪められた典型的な例である。

反対派住民のゴネ得を容認したことに他ならない。

弱い立場の人々を救うということは、非常に説得力があり、人々に納得しやすい普遍的な心理であり、人間の美意識を刺激する行為であり、誰しも正面から反対、反論できないわけである。

こういう結論を出しているかぎり、学識経験者が鳩首会談する必要はないわけであり、こんな結論を出すぐらいなら、最初から成田に国際空港を作ることを止めておけば良かったわけである。

利害の対立している当事者の間に割って入って、両者に妥協点を見付ける努力をするのが調停者の役目であるはずで、片一方に全面的に有利な判断を下すようなことならば、調停の意味がないわけである。

この公開シンポジュウムの開催された時点で、地元住民も、当局側も、最初の抗争の時期に比べると問題の意義が変質してきたことは否定できないと思う。

空港が曲がりなりにも機能している事により、当局サイドも一応の面目は立っているわけであるし、反対派住民も、抗争の結果として部分開港という措置を取らざるをえない当局側の苦悩を察知しているわけで、調査団の結論を受け入れざるをえない状況を作り上げたわけである。

成田闘争が1966年から今日に至まで28年、公開シンポジュムの時点で25年を経過して、その間における社会的認識も大きく変化したわけで、大きな国家的プロジェクトの建設にこれほどの時間をかければ、完成の暁にはその意義を失ってしまうわけである。

この間に、関西空港が開港し、成田を利用しなくても海外に行けるし、国内のロ−カルな空港から韓国経由で行けば安い料金で行ける、という風に、25年以上の工事期間というのは、社会情勢の変化に置いてきぼりにされてしまうわけで、完成したときには、本来の意義を失ってしまう。

それよりも、日本の民主主義というのは、弱いものの味方という大義名分のもとで、民主主義というものの本質を変えてしまったわけである。

1994年の時点で、成田空港、新東京国際空港というのは、その存在意義を低下してしまたが故に、当局側は第2期工事を凍結し、事業認定を取り下げて、今後の充実を放棄したに違いない。

社会的基盤整備というのは国民の側にとって思いもよらぬ影響を与える事がある。

鉄道を嫌って通すことを拒否した街が寂れたり、道路が出来れば発展すると思っていた街が公害で悩まされたり、工場が来れば雇用が確保されると思っていたら不景気に見回れたりして、当初の思惑に反する結果がでることは往々にしてあることである。

成田闘争というのは日本の民主主義の本質をつく重いテ−マだと思う。

私権、我欲、個人の欲望と、国家の要求する極めて公共性の強い社会基盤整備との軽重が問われた問題で、これに対して、成田闘争を支援した過激派の三派系全学連というのは、極めて公共性の強い社会基盤整備はいらないという主張にたちかえっているのだと思う。隅谷調査団という6名の学識経験者もそういう立場を固持しているものと思う。

此処に見える当事者以外の国民の意識というのは、国家の要求する極めて公共性の強い社会基盤整備は今後もいらないというものであろうか?

今後の日本というのは、現状維持のまま、将来の展望とか、国民の利便の向上ということは一切望まない、という気持ちであろうか?そうではないと思う。

そういう社会的基盤、社会的インフラストラクタヤ−の整備というのは、大いにやってもらいたいが自分のところでは困る、犠牲者の出ない方法でやってもらいたい、という極めて無責任な態度ではないかと思う。

成田にしても、当時の政府当局側は、成田ならば土地収容に関する犠牲者が一番少なかろう、という判断も位置決定の材料になっていたのではないかと思う。

政府が行なおうとするあらゆる国家プロジェクトは、その根底に、国民の願望を代弁しているわけで、羽田に代わる国際空港の建設ということは、ただ無闇矢鱈と、無目的に沸き上がった計画ではないはずで、その根底には、現代社会にふさわしい近代的な国際空港というものを望んでいる国民の願望を代弁していたわけである。

政府が国民から好かれようとしたら大きな国家プロジェクトを何一つしないことである。そうすれば犠牲者は一人も出ず、国内を内乱状態にすることもなく、平穏無事な日常生活が継続できるはずである。

しかし、国家プロレクトを要求する声も片一方にはあるわけで、羽田が狭いのでなんとかせよ、という声があったればこそ成田闘争があったわけである。

成田闘争を報道された部分から推測すると、これは紛れもなく共産革命の手順を踏襲している。

それは当局側の説明を一切聞く事無く、自分達の欲望のみを声高に叫んで、話し合いというものを一切信用していない。

当局側が法律に則って行動しているのに対し、実力で阻止する、という考え方そのものが共産革命の手法である。

日本では、銃器の所有という事が禁止され、市民の間に銃が出回っていないのでロシア革命のような惨劇にはいたらなかったが、それでも鎌とか棍棒という凶器で、法による施行をしようとする者に対して立ち向かうという構図は、武力革命、暴力革命そのものである。本来、地元住民のみで実力行使が行なわれているうちはまだ理解できるが、ここに3派系全学連が支援に入ると革命そのものである。

まさしく、成田闘争というのは内乱状況を呈したわけである。

こういう状況下で、日本の進歩的知識人という人々が、常に日本の政府を糾弾するということは、ある意味で非常に無責任な思考だと思う。

国家と個人が対立した場合、個人の方の味方をしたくなる心情というのは、極めて心根の優しい、人間の性善説を彷彿させるものがあるが、それは必ずしも真の民主主義を表しているとは限らないわけで、個人のエゴを増徴させているという事も言えるわけである。

国家という組織は実態のない概念の産物である。

一方個人というのは、土地を耕し、そこで生活している自体のある存在である。

しかし、実態のない国家が、国民一般の為になるようにと思って計画した国家プロジェクトが、実態のある個人の生活に犠牲を要求した場合、犠牲を強いられた人々が抵抗する心境というのはある程度理解できる。

けれども、この紛争に直接関係のない進歩的知識人という人々が、安易に地域住民に同情を寄せるということは、民主主義というものを踏み躙るということになる。

民主主義というのは全員を満遍無く幸福にするものではなく、少数者の犠牲のうえに成り立っている、という真実を直視する必要があると思う。

ところが、日本の知識人の多くは、全員の幸福を達成すべきだと思い違いをしているわけで、そんな事が出来るはずがない。

それはあくまでも理想であって、絵に書いた餅であり、何時まで待ても実現しない架空の事である。

そういう理想に近づく為に、住民エゴ、地域エゴを容認することが真の民主主義だと思い違いをしているわけで、これはその人達が弱い立場だから救済する、という大義名分によるものであるが、資本主義体制のもとでの自由主義経済システムというのは、そういう性善説で機能しているわけではない。

個人と国家が対立する。

国家サイドは、あらゆる法的手続きを踏んで、法的な整合性のもとで権力を行使してくるとすると、個人の側は、紛争の次元を越えた場面に、その闘争心を振り替えなければならないと思う。

つまり、出来るだけ有利な条件で補償金を引き出したら、素直に土地を明け渡して、その金で、次元の違う場面で、個人のバイタリテイ−を発揮するということである。

はっきりと端的に言ってしまえば、国家プロジェクトにはあっさりと土地を明け渡して、その得た金で、新しい商売でも始めよ、ということである。

 

反体制という事象

 

我々、庶民レベルでは「時が解決する」ということが言われるが、これはある程度真実を突いているが、国家的なプロジェクトを遂行しようというときに、これではいけないと思う。

確かにあるトラブルから、時間が経てば問題意識が薄れ、妥協点は時間の経過とともに受け入れやすいものに変化して来ることは事実であるが、これでは完成時のタイミングを逸する事になるわけで、その間に社会的要求に応えられなくなってしまうことになる。

そいう責任まで国家に負わせることは無責任極まることである。

当事者以外の第3者というのは、そういう意味で、まことに無責任で、国家の悪口さえ言っていれば体面を保つことが出来るわけである。

資本主義の社会体制の中で、民主主義を実践しようとすれば、犠牲者の存在を容認しなければならないという矛盾を避けて通ろうとするあまり、全員の幸福を満遍無く追求するということは、全部を否定しなければならないことになる。

詰まる所、共産主義社会の実現、という矛盾した方向に進むということである。

少数の犠牲に我慢ならない人々が 大多数の犠牲のうえに成り立つ共産主義社会というものを受け入れられるわけがない。

この現実の姿というのは、「捕らぬ狸の皮算用」で、少数の犠牲を強要する現行政府を打倒することにより、大多数の幸福が得られると思ったところ、大多数の不幸を招くようなものである。

民主主義というのは、多数決原理が作用しているかぎり、最大幸福を願うためには、少数の犠牲を受け入れなければならないという、苛酷で、熾烈な考え方である。

全員が平等に幸福になれる社会システムというのは、理論のうえでは共産主義しかないわけであるが、この理論的実験は、ソビエット連邦共和国の崩壊という事実が物語っているわけである。 

我々はそういう社会を望んでいるわけではない、しかし成田闘争を支援した我々の同胞は、そういう社会を夢見て、現行政府を倒そうと画策していたわけである。

成田闘争の本質は、個人の欲望と、社会性の極めて高い公共施設を作ろうとした国の対立であったことは間違いない。 

その他の支援団体というのは、この地が革命の前哨戦として、その実験台にしたにすぎないわけで、地域住民というのは体よく利用されたわけである。

安保闘争、成田闘争にみられるこの時代に共通した反権力闘争というものの本質は、世界的な風潮であったところが不思議である。

アメリカのベトナム戦争への介入が1965年から始まり、中華人民共和国の文化大革命が同じ1965年から始まっている。

これらは同じ共産主義という共通項で括られているわけで、一連の反体制側の行動の中には、共産主義という共通したイデオロギ−で関連しているような気がしてならない。

アメリカのベトナム戦争というのは、1965年から75年にわたって10年間行なわれ、中国の文化大革命も1977年まで継続されたわけでこの間12年間である。

この間、我々、日本の市民は、アメリカの情報は浴びる程受け入れて、誰もかれもがアメリカのベトナム戦争反対を唱えていたが、中国の情報というのは皆無に等しかった。

1965年からの10年間というものは世界中が反体制、反政府運動であふれ、何処の国でも主権が揺さ振られた時期である。

主権が揺さ振られると言う事は、秩序が混乱するということである。

その意味で、世界中で既存の社会秩序に大混乱が起きたわけである。

これは私の個人的な見解であるが、第2次世界大戦の終了と関係があるのではないかと思う。

つまり、第2次世界大戦では勝った連合軍側も、負けた連盟側も、共に今までの価値観を見失ってしまったわけで、戦争終決で、故郷に帰った大人、兵役を解かれて故郷に帰った大人が、従来の価値観を見失ってしまって、その次の世代、要するに、自分の子供に自分たちがかって持っていた既存の価値観というものを教える事無く、その子供を大人にしてしまったが故の現象ではなかったかと思う。

第2次世界大戦に従軍した男が故郷に帰って妻と再会し、あるいは新たに結婚したとすると、丁度、その子供が成人するのが1965年から70年代にあたるわけで、その男達が子供の教育に自信をなくし、従来の価値観を喪失していたとすると、次の世代というのは、新しい価値観のもとで成人するわけである。

その結果が、この時代に世界的な反政府運動、反体制運動が展開された時期と一致するのではなかろうか。

アメリカのベトナム戦争というのは、政策的に失敗に終わったが、アメリカはベトナムに負けたわけではない。

日本の識者は、あれをアメリカの敗北とみなしているが、そういうものの見方は、帝国主義的価値観で見るからそう映るのであって、アメリカはベトナムを自国の領土にしようとする意図は全くないわけで、共産主義の蹂躙する土地にならしめたという意味で失敗したわけである。

日本の識者の中には、共産主義というものが好きな人が大勢いるわけだから、その意味でアメリカが負けたという言い方が罷り通ったのであろう。

共産主義というのは、基本的に領土拡大の意図を隠し持っているわけで、中国と地続きの北ベトナムは、あっさりと共産主義国家になってしまったわけであり、南ベトナムにも共産主義の魔手が忍び寄るのをなんとか食い止めたい、としてアメリカが南ベトナム政府に手を貸したのがベトナム戦争であったわけである。

ベトナム人というのは、北も南も民度が低く、だからこそ19世紀からフランスの植民地であったわけであるが、日本がフランス人を追い出したとたんに共産主義の国になってしまったわけである。

これも彼らベトナム人の選択であるかぎり致し方ないわけであるが、中国に後押しされたベトナム共産主義というものは、南ベトナムをもその領袖下に入れようとしたわけで、アメリカは、それに抵抗していた南ベトナム政府というものを応援していたわけである。

アメリカの失敗というのは、この南ベトナム政府に対する応援に失敗して、南ベトナムというのが共産主義に蹂躙されてしまったという面で失敗したわけである。

この時期の中国の文化大革命というのも誠に不可解な事件である。

その実態は近年になって細々と情報が漏れてきたような具合で、当初は、中国で一体何が起きているのか皆目見当がつかなかった。

これは結局、革命のし直しという意味合いのものであったわけであるが、共産主義の世界で、その内部で、革命もどきの行為が行なわれること自体摩訶不思議な事である。

共産主義というものが、既存の秩序を否定するところから始まっているにもかかわらず、新しく確立された秩序さえも否定するということは、反革命のようなものであるが、これが反革命にはならず、下剋上の状況を呈するということ自体が不思議でならない。

要するに、毛沢東を首班とする指導部の中での主導権争いであったわけであるが、共産主義体制の中で、造反有理と称する下剋上が起きること自体が、旧世代と新世代の価値観の転換ではなかと思う。

事ほど左様に、世界各地で反体制、反政府運動が展開したわけであるが、それを許した背景というのは、現実の体制側が、毅然たる態度が取り得なかったというところにあると思う。

造反有理という言葉は、大学紛争の時にも盛んに使われたが、これは既成の現行施政権者が若者に毅然たる態度で接しなかったが故の、若者の思い上りを、物分かりの良い風をして受け入れたために起きた現象だと思う。

安保闘争で、樺美智子という東大の女学生が死亡したが、この時、時の総理大臣岸信介はこの報を聞いてアイゼンハワ−大統領の訪日を中止するという政治的判断をしている。

つまり、樺美智子という学生は、自己の意志でデモに参加し、そのデモ隊の圧力で死亡したのであって、国家権力が直接彼女を死にいたらしめたわけではない。

しかし、岸という政治家は、彼女の死が、自分を含めた旧人類を糾弾する行為であると受け取ったに違いない。

つまり、ある意味で若者に迎合したわけである。

大学紛争では学生の吊し上げにあって学生に妥協した例が多々あると思う。

こうした若者の思い上がった行為は、その根底に共産主義が流れていると思う。

それは、日本共産党の思想とは別の、より過激な思想が横たわっていたに違いない。

中国の文化大革命というのは、この共産主義の底流とは、また別の要因があったようで、その要因というのは、付和雷同による集団いじめとでも云う他ない。

猿の学習ではないけれど、人間の世界でも新しい価値観の創造の時というのは、若者の現状打破から始まるということはある意味で真実であるが、それが定着するには、既成の価値観を捨てる、既成の社会秩序が破壊されなければならない。

この段階で、既成の大人の価値観がものを云うわけで、此処で、大人がしっかりしていれば新しい価値観というのは生き絶えてしまうのである。

安保闘争、成田闘争、ベトナム戦争、文化大革命で、それぞれの国で新しい価値観というのが生まれたであろうか。

これは「否」といえる。

世の中を大騒ぎに引込んだが、新しい価値観というのは何一つ生まれたわけではない。

時が経てば、もろもろの事件は風化してしまって、人々は何もなかったような顔をして日常生活を繰り返すわけである。

こういう突出した事件というのは、ある意味でマスコミに踊らされて繰り返されている部分があると思う。

安保闘争で、あれほど強烈な国会議事堂周辺の抗議行動に盛り上がったのかといえば、やはりマスコミの影響が相当部分占めていると思う。

成田闘争にしても同じ事が言えていると思う。

マスコミで、樺美智子という学生の死をセンセ−ショナルに報道する、成田闘争で反対派の小泉よねが機動隊員に抱えられるように出される報道を見る、世の人々は、国家権力が如何に横暴かという印象を肝に命じて知るわけである。

純真な人ならばこそ、こういう映像に接した際に、この横暴な国家権力をなんとかしなければならない、という性善説に立ち返るわけである。

マスコミの安易なニュ−スの提供ということが反体制、反政府運動というものの根源になっているということは考えられる。

ベトナム戦争の報道についても同じ事が言えていると思う。

我々は、アメリカ側の報道にのみ知っているわけで、その報道で見るかぎり、アメリカがベトナム人に対して不合理な扱いをしているシ−ンのみ見るわけである。

共産側のニュ−スの提供というのは皆無なわけで、彼らが何をしているのか、という考察が欠けたまま、アメリカがひどいという報道のみ見せられていたわけである。

アメリカが、自分の恥部を曝け出したニュ−ス報道というのは、アメリカ民主主義の素晴らしいところである。

ところが我々、日本の知識人は、アメリカン・デモクラシ−の真髄ということを理解する事無く、映像からの印象で、アメリカはけしからんという表層部分にしか注目しようとしなかったわけである。

 

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