ベトナム戦争

 

ムードに酔う人々

 

アメリカン・デモクラシ−の素晴らしいところは、あのベトナム戦争で、自らがいかに汚い戦争をしてるのかというところを、余すところなく世界に向けて報道したところである。戦争当事者にしてみれば、汚い部分は報道したくない、されたくない、という気持ちがあると思うが、そこを敢えて報道しえたということは、デモクラシ−の具現であると同時に報道の自由を尊重した行為であり、民主主義の知る権利の発露でもある。

これは報道する側の問題でもあり、される側の問題でもあり、報道を受け入れる側の問題でもあるわけで、三者三様にアメリカン・デモクラシ−というものが浸透していないことには成り立たないことである。

日本の知識人の好む共産主義国でこのような報道の自由が保障されていたであろうか?

日本の知識人の嫌いな国アメリカで民主主義が実践され、彼らの好きな国、共産主義国では国民の知る権利、報道の自由というものが保障されていたであろうか?

ベトナム戦争華やかなりし頃、べ平連という日本の文化人が組織したグル−プがあって、アメリカ人で戦争嫌いな兵隊を共産主義国に逃がしたりする活動を行なっていたが、彼らは、アメリカの民主主義というものをどのように理解していたのであろうか?

べ平連の首謀者、小田実は、フルブライト基金でアメリカに留学した経験をもち、「何でも見てやろう」という体験記で一世を風靡した作家であるが、アメリカに留学した経歴を持ちながらアメリカを憎むということはどういうことであろうか。

アメリカ生活でよほどの屈辱を体験してきたのであろうか。

しかし、彼の反米感情はそういう次元のものではないと思う。

というのは、アメリカという国は、自らの政府を批判してもされても、それを市民の声として聞き流す大きな度量を持っているので、彼がいくら反米感情をあおり、いくら反戦行動をしても、アメリカン・デモクラシ−というのは決して揺るがないので、彼の側で苛立っているわけである。

その意味では、日本政府も彼の苛立ちを起こさせる原因になっているわけであるが、民主化された国家では、反政府運動というのが、必ずしも政府転覆をはかるものではない、という認識で当局側が鷹揚な態度でいるからこそ自由に踊らされているわけである。

これが彼ら進歩的知識人、文化人の好む共産主義国の現状というのは、それこそ収容所列島であり、粛正、弾圧、逮捕、監禁、拉致が日常的であるわけで、そういう国を日本の文化人たちは理想の国であると認識していたわけである。

国を合理的に治めるという意味では、この共産主義国家というのは理想に近いものであるが、現実の問題ではそうそう理想通りにいっているわけではない。

その証拠にソビエット連邦共和国というのは崩壊してしまったではないか。

日本の進歩的知識人が、日本やアメリカのような民主的な国家体制のもとで、自由闊達に体制批判することは、きわめて民主主義の完成度が高いという事が言えているわけで、彼らは、お釈迦様の掌の上で暴れ回っている孫悟空と同じである。

先の大東亜戦争中のように、治安維持法という強力な権力のもとでは、沈黙を守り、発言の機会が十分整えられた状況では、自由闊達に自らの政府の悪口を言うということは、一世代前の価値観では「忘恩」という言葉で遺棄された行為である。

国民が国家に対して忠実であれということは、何も兵役につくことばかりでなく、滅私奉公を強制するものでもない。

政府を批判することも立派な国民の義務であろうが、その批判が批判だけでは飽き足らずに実力をともなう行動に出ると、国民の義務を逸脱する行為だといわざるをえない。 

自らの政府を批判できるということは、民主主義のバロメ−タ−でもあるわけで、日本の知識人の好む共産主義国家には、こういう自由というものは存在しないわけである。

その国の人々は、自由という概念が最初からないわけで、国家というものは、国民を呪縛させるものだ、という固定観念で固まっているから不満はないが、民主主義の世の中の我々同胞は、自由を十分に享楽しながら自国政府の批判をしているわけである。

アメリカがベトナム戦争を遂行したのは、共産主義国家をこれ以上アジアに作りたくないというドミノ理論によるものであったことは確かであろうが、我々の知識人の発想というのは、国家の体制は、その国民が決めればいいという極めて単純明快なものである。

基本的に、ある国の社会体制を決めるのは、その国の国民であって不思議ではない。

しかし、その国が共産主義体制をとうろうとすると、それがその国の問題だけではなく、周辺の国の政治体制にまで干渉してくるから、アメリカはそれを防止するというのが、アメリカのベトナム戦争の大義名分であったわけである。

共産主義というのは、その根底に帝国主義的領土拡大主義を内在しているわけで、これは宗教の布教と同じで、常にイデオロギ−のアメ−バ−的拡張をめざすのが共産主義の根源的要因であり、存在意義になっているからである。

ある国の社会体制は、その国の国民が決める事であるが故に、アメリカは南ベトナムから撤退したわけである。

しかし、問題は、その国の国民が決めるという美辞麗句のもとで、実際は、共産党と共産主義者が、自由を弾圧して、政府批判を封じ込め、如何にもその国の国民の意志であるかのような工作をするところに問題があるわけである。

共産主義国家の成立というのは、自然発生的に出来上がった国はないわけで、強いて言えば、ソビエット連邦共和国というのは、暴力革命そのものは自然発生的な要因があったと見られがちであるが、これも共産主義者の画策であったわけである。

中国というのは、中華民国という正規の政府との様々な戦闘と駆け引きの末出来上がったわけで、いったん出来上がるとその本領は如何なく発揮されて、周辺諸国の赤化に邁進したわけである。

アメリカが共産主義者のこうした帝国主義的領土拡張主義に正面から戦っているのにたいし、日本の知識人というのは、自由主義陣営の中でのうのうと共産主義の賛美をしていたわけである。

アメリカがベトナムから撤退する、共産主義者が南ベトナムを支配する、難民が流出する、この難民の救済を、何故に、自由主義陣営でしなければならないのか疑問である。

人道的援助というのは理屈では理解できるが、人道的立場で難民を援助するとしたならば、難民を出すような政治体制を、人道的立場で糾弾するほうが合理的ではないのかといいたい。

東西冷戦のさなか、世界は共産主義国家と自由主義国家という二つに色分けされていたわけで、日本はアメリカを筆頭とする自由主義陣営に組していたわけである。

日本の革新勢力、いわゆる進歩的知識人と呼ばれる人々は、自由主義陣営の中で、あらゆる自由を享楽しながら、片一方の共産主義陣営の世界に憧れていたわけである。

アメリカが日本にある基地を使ってベトナムに攻撃をかけている、と言って怒っているが、日本という国はアメリカによって敗戦に追い込まれ、アメリカの保護のもとで独立を維持し、アメリカの庇護のもとで経済発展をしてきたわけで、戦後の日本というのは、アメリカの存在なしではありえなかったわけである。

もっとも、日本を共産主義国家にしたいと思っている輩にとっては、このアメリカの存在が我慢ならなかったということは論理的に言えている。

しかし、戦後の日本の国民というのは、基本的に、アメリカ主導による日本の政治を容認していたわけで、革命を望んでいる人々はあくまでも少数派であったわけである。

この少数派の横暴が安保闘争であり、成田闘争であったわけである。

少数派の横暴が成りたつ背景に、自由主義の存在があり、民主主義という概念があり、経済発展というエネルギ−が潜んでいたわけで、日本の進歩知識人が夢見ていた共産主義国家には、そういう自由もなければ、バイタリテイ−もなかったことがその後の歴史が示しているではないか。

我々は夢を食う獏ではない。

現実を直視して、現実に即した生き方を選択しなければならない。

人間はすべて平等であるべきであるというは理想であり、現実を無視した認識である。

人間は生まれ落ちたときから不平等の中で生きてきたわけで、人類の歴史の中で、階級制度というのは必要不可欠な要因であり、近代思想というのは、その人間の業をいくらかでも減少させようという方向に向かっていることは否めないが、武器を取って一気にそれを実現しようというのは、武器を取るということ自体が不道徳である。

アメリカがベトナムから撤退したのは1975年フォ−ド大統領によって終決宣言がされたことにより最終的に終了したわけであるが、その2年前、ニクソン大統領の時から実質的な撤退が行なわれていたわけである。

その頃からベトナム難民が続出しだしたわけで、アメリカ軍が撤退すると難民が出てくるという状況を、我々はどう見たらいいのであろうか? 

我々は、大東亜戦争を始めた東条英機首相の時も、安保を改定した岸首相の時も、ロッキ−ド事件を引き起こした田中角栄首相の時も、日本人の政治的難民は一人として出なかったわけで、これは一体どういうことであろうか。

共産主義国家から、共産主義体制からの難民というのは続々と表れるのに、自由主義体制から共産主義国家への難民、逃亡というのは皆無に等しい。

この現実を日本の進歩的知識人はどう見ているのであろう。

戦後の日本は極めて自由な国で、何を言っても、何を書いても、政府批判であろうが、体制批判であろうが、新興宗教であろうが、エロ・グロ・ナンセンスであろうが、とにかく秩序とか、社会的モラルとか、良識、良心、モラルというものを一切金繰り捨てて、ただただ生きる為にしゃにむに動き回れば、その事によって生活が成り立ったわけである。

そういう状況の中で、共産主義を賛美して、政府を批判することが格好いいというム−ドがあったわけである。

日本の文化人とか、進歩的知識人というのは、このム−ドに便乗していたわけであり、ム−ドに酔っていたわけである。

我々、日本民族というのは、こういうム−ドに弱く、ム−ドに酔いやすく、ム−ドに溺れやすい性癖を共通して持っているのではないかと思う。

 

若者の反乱

 

社会的ム−ドというのは、何も日本人ばかりではなく、他の民族も同じような傾向にある様で、中国の文化大革命というのも、その類いであるとみなしていいと思う。

これは毛沢東とその側近の覇権争い、権力闘争であるかのような印象を受けるが、今この時代を振り返ってみると、一種の狂気が中国の共産主義国家の中を走り去ったという印象の方が強い。

戦前、戦中の日本で、軍国主義が日本人を精神的盲にしたようなもので、共産主義の社会で個人崇拝という狂気が竜巻のように舞い上がったとみなすべきであろうと思う。

共産主義の中で、共産主義的階級制度が全面的に否定され、あらゆる階層で、社会的地位のある人々が糾弾されたわけである。

それはまさしく下剋上というもので、社会を律する基準を見失ってしまったわけである。そもそも紅衛兵というのは、共産党の高級幹部の子弟が、自分たちの親を批判したことから始まったわけで、これはある意味で、日本の全共闘世代が、既存の社会、やはり彼らの親達が支配している社会を批判した現象と酷似している。

これはアメリカ国内において、平和運動がアメリカのベトナム戦争を批判したこととも共通している。

自由主義体制のもとでは、その体制に中での運動として盛り上がりを見せ、共産主義体制のもとでは、その体制に順応した手段と方法で下剋上が実践されたわけである。

文化大革命に関しては近年様々な本が出されて、その様相を垣間見ることができるが、政治のトップの事はいざ知らず、中間の管理職クラスの虐待は目に余るものがあったようである。

不思議なことに、あらゆる階層において、組織のトップが、何故に、下の階層の者の吊し上げを食うのか理解に苦しむ。

庶民、一般大衆が、人民裁判をして、組織の指導者を拘束、監禁して処罰をするという事が不可解である。

日本で一般大衆が、教育委員長や、市長を吊し上げ、首に看板を提げて市中引き回しする、と云うような事が想像できるであろうか。

一般大衆が、あらゆる組織の指導者を一ヶ所に集めて拘束、監禁、人民裁判をするなどという事がありうるであろうか。

日本の学園紛争の時は、こういう状況が各大学で行なわれたが、これは大学内の出来事で社会一般に敷衍したわけではない。

しかし、大学紛争の在り方というのはまさしく文化大革命の在り方と軌を一つにしている。此処に何らかの関連があるのではないかと思う。

文化大革命の本質というのは、反革命でもないわけで、自らがぶち壊した旧体制への回帰でもなく、新しい共産主義を目指すというものでなかったわけで、あるのは目の前の指導者を糾弾するということだけである。

この運動の影響で、都会の指導者が農村に下放され、青少年は毛語録を携えて全国を旅行する、という事が流行ったわけであるが、指導者を農村に下放する、ということは共産主義社会においても、農村と都会とでは格差が解消されず、農村に放たれるということが一種の刑罰の意味があったわけである。

日本人で、中国に憧れている進歩的知識人は、共産主義国家で、農村と都会、農業従事者と都会で生活している人々の間に格差が存在する共産主義の社会というものを直視すべきである。

紅衛兵が毛語録をもって中国全土を旅行する、ということはある意味で民主化につながらなければならないわけであるが、日本人が明治維新で諸外国の状況を検分したことが文明開化につながったほどの効果はなかったようである。

また、都会の知識人が農村に下放されても、再び都会に戻れば元の木阿弥で、農村の近代化に貢献する、と云う運動にはつながらなかったようである。

これは中国の民衆の本質ではないかと思う。

日本であれば大きな変革のあとには、その変革の目的にそった発展があったわけである。例えば、農地改革のあとでは農民の生活レベルのアップがあり、GHQの占領政策、民主化政策のあとには、日本人の精神的変革があり、封建思想の排除という実績が残ったわけである。

我々は、大きな変革を、その目的に添った線で実践し、変革の効果というものを積み上げてきたわけである。

ところが、中国の民衆というのは、大きな変革のチャンスを、未来永劫に生かそうとしないわけである。

文化大革命の残したものといえば共産主義体制、社会主義体制の発展の遅延のみである。日本の安保闘争、それに続く成田闘争、そしてアメリカ国内のベトナム戦争に反対する意見、中国の文化大革命というのは、世界的な全共闘世代の行動として共通のものがあるような気がしてならない。

この三国の青年に共通した意思の疎通というものは全くないとも言えるし、有るような気もするが正確なところわからない。

その共通項としては、これらの世代が、第二次世界大戦というものを知らないということではないかと思う。

彼らの親の世代は、この第二次世界大戦に身を以て関与した世代であるが、その二世の世代は、戦争というものの認識が観念でしか理解されていないわけで、その意味で、世界各地で以て、この世代の若者に共通した事項ではないかと思う。 

ゼネレ−ション・ギャップという言葉があるが、まさしくこの事実が、ゼネレ−ション・ギャップそのものではないかと思う。

新世代と旧世代では価値観が逆転しているわけで、価値観のギャップが、世界各地で反政府、反体制、反権力運動という運動になり、その運動が一斉に花開いた時期が、この1960年代から70年代にかけての時代の特徴ではないかと思う。

このことは体制側にとっては受難の時期であるが、一般大衆の側からすれば、有り難い世の中であるということが言える。

体制側を自由に批判出来る、ということは民主化の尺度でもあるわけで、ベトナム戦争でアメリカ側が自由に戦場にマスコミを送って、自らの行なっていることを自由に報道させた、ということは民主化の極めて進んだ思考である。

それに反し、共産主義の側がどれだけ報道の自由を実践したかを考えれば、民主化の度合いで、どちらに軍配が上がるか一目瞭然である。

 

戦後教育の影響

人は生まれ落ちたときから不平等の社会に放りこまれるわけで、日本で生まれた赤ん坊、中国で生まれた赤ん坊、アメリカで生まれた赤ん坊は、等しく平等ではないわけで、それぞれに自分の属した社会に順応して成長するわけであり、自分の属している集団をよりよくする事によって社会的発展があるわけである。

しかし、自分の属する社会を批判するという事は、基本的人権に属することであるが、自分の属する社会を変革するために暴力とか、他の強制的な手段で、有無を言わせず行なおうとする考え方は、我々の社会通念では許されることではない。

アメリカというのはこういうところで寛大なわけで、共産主義国家、社会主義国家というのは、こういう批判を許さないわけである。

自分の属する社会を少しでも良くしようというときに、体制側の考えることと、国民の側の考えていることにギャップがあることがある。

その格好の材料が60年代の安保闘争であったわけで、政府側は旧安保を改正したほうが将来の日本にとってはベタ−だとして強行したわけであるが、反対派は、安保を改定すれば日本が再び戦争に巻き込まれるとみなしていたわけである。

しかし、その後の日本の軌跡は、当時の政府の判断の方が正しかったわけである。

そして、反対した側は、自らの間違った判断に対して何一つ釈明もなけれ謝罪もないわけである。

自分の属する社会を少しでも良くしようというときに、当局側と反対派の側で、意見の相違が出るのは致し方ない。

また、意見の相違がなければ、戦前の大政翼賛会となり、共産主義国家の全員一致という絶対主義におちいってしまうわけで、民主的な社会では、反対意見というのは尊重しなければならない。

この、反対意見を尊重するということは、反対意見を無視するということではなく、多数決で議決する過程において、少数意見に対する妥協点を見いだす努力をする、という意味で、少数反対派が絶対反対では話にならないわけであり、強行採決でも話にならないわけである。

共産主義社会というものが、人間を皆平等に扱う、という精神のもとで実践したのが ソ連のソホ−ズでありコルホ−ズあり、中国の人民公社であったわけである。

そして彼らは、階級闘争と称して、旧秩序のもとでの資本家とか、旧体制の国家指導者を抹殺したわけであるが、人間が人間を管理す為には階級というものを是認しないことには成り立たないわけで、文化大革命というのは、共産主義社会の中での階級に、階級に属さないクラスの人々が抵抗したわけである。

そして、権力の構造を無視した処罰をする、ということは結局のところ無秩序という状況を作り上げたわけで、無秩序からは何一つ生まれなかったわけである。

アメリカや日本のような自由主義陣営が、この全共闘世代が暴れ回った時代をクリア−出来たのは、既存の政府当局がしっかりしていたからに他ならない。

その背景には、全国民の、良識あるモラルが失われずに残っていたからである。

人のやることを批判することは、いとも簡単なことである。

政府を批判することは、誰も傷付けないし、実に簡単なことである。

実践をともなう必要のない発言は、実に簡単なことである。

言うは易く行なうは難し、と云う言葉の通り、批判するということは、誰でも、何処でも、何時でも出来ることで実に簡単なことである。

日本の大学紛争に見られる全共闘世代の台頭には、戦後の日本の教育の問題が深く関わりあっていると思う。

60年代から70年代にわたる世界的なジェネレ−ション・ギャップは、日本でも同じように蔓延したわけであるが、日本の場合、そのうえに戦後の民主教育の成果がそこに反映されたものと理解していいと思う。

戦後の民主教育というと聞こえがいいが、これは一重に、共産主義を賛美するもので、戦前の教育が天皇制を賛美していたことの裏返しである。

人は生れ乍らにして平等である、という理想に基づいて教育が行なわれているが故に、地位も、名誉も、秩序も、伝統も、人間の歴史的軋轢と思われる確執も、一切認めようとしない気風の中で、幼児、特に、初等教育が行なわれた結果であろうと思う。

戦前の日本の軍国教育が良くない事は理解出来るが、戦後の民主教育という名の偏向教育も、軍国教育と同じ程度に青少年に有害な存在である。

どうして我々はこうも極端から極端に走るのであろう。

時計の振り子としても、あまりにも振幅の幅が大きすぎると思う。

その根源は、教育の現場が日本の共産主義者に牛耳られた事によると思う。

戦前の教育が軍人に牛耳られたのと全く同じ現象が起きているわけで、教育関係者というのは、中立的な良心とか良識というものを持っていないのであろうか。

教育の現場が、常に社会の動きのままに動揺して、極端から極端に走る、ということは教育関係者が自己の信念を持っていない事の証明である。

将来の日本を担う青少年を教育する現場で、その指導的立場の教師が、右を向いたり左を向いたり、視点が定まらないでは、日本の将来が暗澹たる状況を呈することになる。

事実、その結果として、全共闘世代というのが誕生し、反体制、反権力、反政府という事が人気を博したわけである。 

人々が、その時々の人気、ム−ドで身の処し方を決める、ということは人の生き方として勧められたことではないが、それを選択するのは、個々の人間の自由意志である以上、他人が干渉することは出来ない。

戦後の民主教育のもとで、日本の過去の価値観というものが全否定され、新しい価値観とういうのが共産主義の提唱しているものであったとすれば、全共闘世代が革命ゴッコに現つを抜かすのも致し方ない。

戦後の日本で起きたあらゆる社会現象の中には、その根底に共産主義の考え方が流れていると思う。

日本やアメリカのように、自らの政府を自由に批判できる、ということは実にありがたいことである。

地球規模で見た場合、この地球上の180近い主権国家で、これほど自由に自分の国の批判をすることが許されている国が他にあろうか。

これだけ自由に自国の政府を批判できるということは、逆の立場で云うと、政府当局側は何をやっても真に理解されないということである。

批判というのは時が過ぎれば忘れ去られてしまうけれども、政府の行なった大きな批判を浴びた実績というものは、歴史的事実として残るわけである。

安保改正というのも、成田闘争における新東京国際空港というのも、政府の実績として残っているわけであるが、ここで活躍した反対派、過激派の実績というのは、何一つ残っていないわけである。

それも当然と云えば当然で、口先の反対運動は、社会が前に進もうとする事象に対して、棹差したところで、人々の共感がえられないわけで、その場かぎりのお祭騒ぎであって、祭りの後の虚しさのみが残っているわけである。

民主主義のもとで生きる我々は、政府に抗議したり反対することは、何時でも、何処でも出来るわけで、それよりも、政府の行なおうとするプロジェクトの被害、犠牲を如何に少なくするのか、という事に頭を悩ますべきである。

今までの反政府運動というのは、政府の行なおうとするプロジェクトに対して、全面的に住民の肩を持って、住民側の絶対反対を、そのまま通そうとするから妥協点がみつからないわけで、双方が妥協点が見付けやすい方向に両者を誘導する話し合いを行なうべきである。

民主主義というのは、妥協の上に成り立っているわけで、対立する両者が、一切、妥協する気がなければ、民主主義そのものを否定するということになってしまう。

戦後の民主教育という名の偏向教育の場では、国家の権力に対して、民衆側は立ち上がるべきである、という思想が鼓舞宣伝され続けたが、国家権力というものは、戦後の民主主義の日本では、主権在民という名目からしても国民のため権力であって、それを作っているのは、我々自身であるということを自覚しなければならない。

主権在民成るが故に、我々は、国会議員を選出し、我々の選出した国会議員が法律を作り、その法律を実践するために、ある機関に権力を委譲しているわけで、我々の側が法律に違反しなければ、権力の介在してくる余地はないわけである。

自分達の作った法律に違反しておきながら、権力の介在を云々する、ということはどんな体制のもとでも道義に反していると思う。

我々、国民のすべてが法律の細部に精通しているわけではない、意識しようがしまいが、法に触れたときは潔くその裁きに従うという精神が大事だと思う。

しかし、今日の法律というのも、時代に即していないということは多々あるわけで、そういうものを是正しなければ、という運動はなかなか出てこない。 

戦後50年の間に、我々は色々な闘争を経験してきた。

60年安保闘争、その後の成田新空港反対闘争、最近では消費税反対闘争という大きな反権力運動、反体制運動というものを経験してきた。

主権国家において、主権在民という事が云われ、我々、日本人もその範疇に入るわけであるが、戦後の大きな闘争において、主権在民の趣旨に添って、政府が大衆に迎合して、安保廃棄、新空港の建設取り止め、消費税の導入取り止めという事をしたとしたら、今の我々の生活というのは成り立っているのであろうか。

アメリカのベトナム戦争にも反対してきたわけで、戦後の政府当局側が、大衆の言うなりに施政を行なったらどんな結果が生まれているのであろう。

戦前の、中国への進出から始まった大東亜戦争というのは、軍部のリ−ドがあったとはいえ、大衆の願望や希望を具現化したが故の過誤であったことを忘れてはいけないと思う。民主主義というものが、大衆の幸福を願うものである、ということは疑う余地のない真実であるが、これは大衆の言う事をそのまま聞き入れる政治ということではないはずで、大衆のなかの色々な意見の中の一番ベタ−なものを選んで実施するということだと思う。

政府当局というのは、その線に添った施政を行なうのが本筋で、戦後の大部分を占めてきた自民党一党支配というのは、国民の過半数がそういう事を望んでいたということである。しかし、この自民党政権には腐敗が付きまとってきたことも事実であるが、この腐敗した部分というのは、民主主義の未成熟の部分であることも紛れもない事実である。

海部内閣で端緒を切った政治改革が、実質的には選挙制度改革にすり変わってしまったが、真の政治改革を目指すとすれば、腐敗した国会議員は、事実の露呈とともに、即座に解雇辞任をさせ、その人の政治生命を断つぐらいの強行な措置が必要だと思う。  

大衆の反政府運動、反体制運動、反権力闘争が、このように勢い付く背景には、マスコミの在り方が大きく関わっていることは間違いない。

マスコミというのは、騒ぎを大きくしてニュ−スを作り上げなければ、彼らの存在意義が失われるわけで、世の中が平穏無事では食いはぐれるわけである。

そのうえ、政府を攻撃誹謗することは、誰をも傷つけないわけで、個人や特定企業の事実無根の報道をすれば、名誉毀損でシッペ返しを食うが、相手が国家とか自治体というのであれば、少々間違った報道をしてもシッペ返しにあうことはないわけで、反政府、反権力、反体制というポ−ズを取ることで、社会に貢献しているつもりになっているわけである。言い方を変えれば、烏合の衆を煽っているわけである。

日本の戦後の政治というのは、この烏合の衆から如何に超越してリ−ダ−・シップを発揮するか、という点にあったものと思う。

戦後の我々は、国際的には、きわめて微力な力しか発揮できないでいたが、これは結果的に、日本にとって有り難いことであったわけである。

我々は国際舞台という華やかな場所では、どうも立ち居振る舞いがぎこちなく、あらぬトラブルを引き起こしかねない。

戦後の我々が、小さく小さく、国内の問題に専念してきたことが、今の日本の姿ではないかと思うが、その結果として、そう何時までも小さく、アメリカの影に隠れているわけにもいかなくなった、というのが今の我々の姿ではないかと思う。

我々の戦後復興というのは、アメリカという巨大な市場があったが故のことで、その結果として、世界第2位の経済大国という名誉をいただくことになったわけであるが、知らず知らずのうちに、世界の檜舞台に押し上げられたようなもので、そうなれば成ったで、我々は、あたしい課題を突き付けられる事は致し方ない。 

我々、日本人というのは、古代からこの4つの小さな島で農業にいそしんで生きてきた民族であるからして、国際舞台での、国際間の交渉事に不慣れな場面があることは素直に認めなければならないと思う。

外交交渉というのは、言葉のみで出来るものではなく、非常にシビアな駆け引きがともなうもので、その意味で、日本が国際舞台でリ−ダ−・シップを発揮するということは望めないし、望むべきでもないと思う。

我々は、素直に、金だけ出して、口は出さないほうが得策であろうと思う。

金で済むうちはまだ安いものだと思わなければならない。

 

価値観の転換

 

思考の未熟さ

 

安保闘争、成田闘争、そして学園紛争と続く一連の若者の反乱は戦後の新しい民主主義の一つの象徴であったに違いない。

これらの一連の反政府、反体制、反権力闘争というのは、戦後の価値観の転換の延長線上で起きたものと思う。

先の第2次世界大戦、日中戦争から大東亜戦争、太平洋戦争というのは、我々、日本人にとって老若男女、全ての国民を巻き込んだ国家総力戦であったわけで、1945年、昭和20年、8月15日というのは、その事が終わった以上に大きな潜在的な精神的ショックを我々、日本人に与えていたに違いない。

それ以前の我々は、軍部の言う事をまともに信じていたわけであるが、その虚像が崩れ去ってみると、軍部に騙されていた虚しさが込み上げてくることを如何ともしょうがなかったに違いない。

軍部というのは、国家と一体をなしているのは世界各国共通のことであり、軍国主義に日本全国、全国民が傾倒してしまった事自体が、我々の過去の民主主義が未成熟であった所以である。

尤も、これはある面では致し方ない歴史の必然であり、封建主義から一気に民主主義に衣替え出来た民族はなかったわけである。

その衣替えの途中での試行錯誤の一つであったわけである。

しかし、我々の場合、軍部に対する期待が余りにも強かったが故に、軍部というものが消滅してしまった時の落胆が大きかったに違いない。

この世代が、大きな価値観の落差を経験した世代が、世の中に出てきた初期の頃は、日本全国が「無」の状態で、何一つ満足なものがなかったが故に、人は食うことにのみ専念し、自分の為、家族の為に、食糧の確保に邁進するだけで他を顧みる余裕というものは全くなかったわけである。

ところが、60年代、昭和35年頃から以降というものは、戦後の復興も一段落し、人々は、自分でものを考えることが出来る余裕というものが出てきたわけである。

自分で物事を考える余裕を持って見ると、どうも政府のやっていることは自らの考えと違っている事に気付きはじめ、反政府運動ということになったに違いない。

戦後の人が自分でものを考えるという事には、既に、戦後民主主義的なものの考え方に浸っているわけで、戦前のものの考え方とは異質のものになっていたわけである。

孔子、孟子の教えというのは元来、中国から来た教えであって、日本古来の教えというのは、大和神道に残っているものだと思うが、これが一体何であったかと問えば、それは衆議合い和し、というもので極端な階級、差別を否定したものだと思う。

大人を敬い、年長者を立てよ、という思想は中国の統治する側にとって極めて都合のいい考え方であって、我々は、元来極端な階級の存在を否定していたが故に、何事も皆で相談して、大勢のよらしむべき道を歩むという、極めて穏健な考え方であったと思う。

ここに我々日本人の本質があるからこそ、戦後の民主主義も、日本では、日本型の民主主義に変質することは、ある面で致し方ないところがある。

理論上の民主主義と、日本の在来の民族的な土着の思想がミックスしたが故に出来上がったものは、西洋の民主主義と比較すると異質なものになったわけである。

敗戦、終戦という我々にとっては未曽有な大変革は、我々、民族の深層心理にまで変革をもたらしたわけである。

我々の日本型民主主義と、西洋の、つまりアメリカン・デモクラシ−との違いは、あらゆる場面で登場してくるわけで、経済の場面でも、政治システムの場面でも、その違いは如実にあらわれているが、日本の知識人は、戦後の時期に至っても、日本型のものは粗雑で西洋型の民主主義に憧れる、という西洋崇拝主義に陥っているような気がしてならない。日本型デモクラシ−の経済での場面は、先にも述べたことがあるが、談合やカルテルの問題であり、政治の場面では、各政党の国会対策委員会の設置であり、汚職の問題である。談合というのが日本では「悪」とされているが、あれも過当競争を強いられた経済基盤の中で、企業が生き残る為の自衛策であり、真の意味での自由主義経済、苛酷な資本主義経済を否定するものには違いないが、企業側にしてみれば生き残り作戦であり、カルテルも同じ意味合いを持っているものと思う。

しかし、消費者の立場に立てば、消費者の利害を損なう結果になるので罷り成らぬという事であるが、苛酷な資本主義的生存競争を回避するという意味では、極めて日本的な動きであり、ライバル企業が談合する事は、極めて日本的な発想である。

政治の場面でも、国民から選出された国会議員は、国民の中のあらゆる利益集団の代表であって当然なはずで、地域代表であったり、企業の代弁者であったり、福祉の代弁者であったりするのが当然で、そういう利益集団の為に奔走するのが本来の意味の国会議員でなければならないと思う。

ところが、我々国民の期待する国会議員というのは、公正無私で、あらゆる集団の利益を代弁することを禁止するものでなければならないという事で、根本的に発想が逆転している。

政治というものは、国家の上に立つものが下のものを統治する形態であるが、真の民主主義であれば、国民の願望を集大成して、下の者の願望を具現化するのが政治家の役目のはずである。

終戦、敗戦前の我々は、国家の上に立つものが下のものを統治するという考え方に何の疑いも持たずに、黙ってそれに従っていたわけであるが、戦後の我々は、その反動として、徹底的に国家に逆らう、上の者の言う事を拒否する、という事が民主主義の具現化だと思い違いをしたわけである。

しかし、我々の在り方をよくよく観察してみると、戦後の我々は、不平不満を言いながら自由民主党を日本国民の過半数の人々が選んできたわけで、自由民主党の政府を是認してきたわけである。

言い換えれば、自由民主党の政府に自らの在り方を託したわけである。

問題は、過半数でない人々の不満をどう収斂するかということであるが、一人の社会人が、何一つ不満なしで生きる、ということはありえないわけで、自民党を選択した人々であったとしても、自民党や政府に対する不満は大いに抱えているわけであり、自分が不満だからといって大衆行動に打って出て社会を混乱に陥れる、ということが許されるわけがない。

安保闘争にしろ成田闘争にしろ、学園紛争にしろ、反体制の主体は、その都度変わっているわけで、変わらないのは、あらゆる場面で、反対しか唱えない共産主義者のみであり、不満の対象というのは、その場面場面で違いがあるが、その違いを顧みる事無く、常に紛争の場面に登場しては混乱を巻き散らすのが共産主義者という似非知識人である。

人の群れは、基本的に、管理する側とされる側に別れ、管理という語感が共産主義的だとすると、保守と革新という分類の方がベタ−かもしれないが、それがまた細分化していくわけである。

つまり、人の集団というのは、常に離合集散を繰り返しているわけで、戦後政治を牛耳ってきた自民党内に各派閥があるのと同じように、革新の側にも色々な派閥が出来るわけである。

自民党の派閥争いというのは、実に意地汚い覇権争いであるが、それによる殺人とかリンチという事態にはならない。

しかし、革新系の政党、特に共産主義を標榜するグル−プは、この派閥争いや、覇権争いが直接の殺し合いにつながっているわけである。 

今日の日本共産党と、これら過激派と称するグル−プとは、直接の関係はないと思うが、同じ共産主義で結ばれているとしたら、日本共産党は彼らを善導する義務があると思う。しかし、共産主義というものが暴力を肯定している以上、それはありえないことで、戦後の日本社会の中で、暴力を肯定する事自体が既に社会的規範を逸脱しているわけである。そして、この暴力が、あらゆる反政府運動の中に内在してくる事になるわけであるが、その最初のケ−スが、安保闘争の国会突入であったと思う。

そして、成田闘争での警察官殺害という行為であり、その後の学園紛争であり、一連の赤軍派事件である。

連合赤軍の引き起こした事件に至ると、もう主義主張の領域を超越して、イデオロギ−では説明がつかない状況のような気がしてならない。

政府が悪い、自民党が悪い、体制側が悪いと言ったところで、彼ら赤軍派の行為を容認する根拠には成り得ないわけで、彼らのやった事というのはギャングそのものである。

一片の弁解の余地もないわけであるが、こういう現象を見る我々、知識人の中に、彼らに理解を示す人がいることである。

それこそ造反有理で、彼らにも言い分があるはずで、それを聞かなければならないとか、そういう彼らを生みだした社会が悪いとか、関係のない第3者を引き合いに出して彼らを弁護しようとする風潮が嘆かわしい。

泥棒にも3分の理という言葉があるが、彼らの場合、泥棒などという古典的な悪者ではなく、善良なる日本社会への挑戦者であって、法治国家に対する挑戦である。

しかし、彼らが何故にこうして社会に挑戦しようとしたのか、その部分は興味のつきないところであるが、だからといって彼らの行為を許すことにはならない。

平成7年5月16日、オウム真理教の麻原彰晃が逮捕された。

彼の容疑は、同じ年の3月20日に東京の地下鉄車内でサリンという毒ガスをまいて死者12人被害者5千人弱を出した事件の容疑者として逮捕されたわけであるが、このオウム真理教の行なっていたことと連合赤軍の行なってきたことは全く同一である。

両者とも無差別テロを目指しており、政府転覆が最終目的であるという点で、目的と行動が軌を一にしている。

オウム真理教というのは、宗教を隠れ蓑にしたテロ集団であり、連合赤軍というのは、宗教とは一見別のものであるかのような印象を受けるが、私の見解では、共産主義そのものが一種の宗教とみなしているので、宗教団体として登録はされていないが、実質はそれに近いものであると思う。

宗教の仮面を被って人を殺傷するということはまさしく我々の想像を越える行為である。宗教というものに対する我々の認識が古いのか、それとも彼らの行為が特異なのか、判然としないところであるが、いやしくも宗教団体が人を殺傷するということは、我々、日本人の概念の外のことである。

しかし、広い世界には、宗教の名のもとで戦争が行なわれてことは多々あるわけで、それが宗教の偽善的なところでもある。

オウム真理教が、連合赤軍と同じ精神構造におちいっている点は、武装しなければ世の中を変えられない、と思い込んだところである。

連合赤軍が引き起こした浅間山荘事件(1972年、昭和47年)、三菱重工本社ビル爆破事件(1974年、昭和49年)、その他もろもろの航空機乗っ取り事件等を引き起こした過激派の思考の中には、武器がなければ革命は引き起こせないという考え方であった。しかし、そのことは逆に言うと、革命の何たるかを知らないということになる。

いわば革命についての無知につながっているわけである。

革命の何たるかを知らない者が、口先だけの行動に出たが故に無意味な被害者を出すという、犯罪以外の何物でもない、という結果に終わったわけである。

今の日本で、革命が出来るかどうかの判断も出来ないものが、要するに、現状分析が十分に出来ないものが、将来の設計などが出来るわけがない。

そういう意味において、平成のオウム真理教の一連の行為も、許容される部分は一つもありえないことになる。

このように革命思想に燃えた若者が、共産主義、世の中を変えるためには暴力も必要であるという考え方は、その夢想する未来社会は理想卿かもしれないが、それを実践しているのが生身の人間であり、人間の煩悩からは逃れられないわけで、それを如実に露呈したのが連合赤軍のリンチ殺害事件である。

自分たちの仲間同士で、仲間をリンチ殺害したむごたらしい事件であるが、これが同じユ−トピアの建設を目指す者の仕業とは信じられない。

この信じられないことを行なったのが連合赤軍をはじめとする各過激派の動きであったわけである。

これと同じ事は、共産主義国において国家のシステムとして行なわれていたわけである。かってのソビエット連邦共和国、中華人民共和国、朝鮮人民共和国においては、政治として、このような人間としての煩悩に左右された行為が罷り通っていたわけであるが、戦後の日本の知識人というのは、そういう現実を直視することを嫌ったわけである。

こういう社会システムに憧れていた日本の知識人たちは、共産主義国家の暗部を見ずして、光の当たっている部分のみ見て、そこに憧れを持ったわけである。

連合赤軍や各過激派の誕生から、オウム真理教の発展に至るまで、日本の若者たちがこういう行為に魅力を感じた根底には何があったのか考えてみると、これは日本が豊かになった証拠ではないかと思う。

社会が豊かになると、食を得るための行為のみでは飽き足らず、人々は、無為な時間を物を考える時間に当てるようになるわけで、「衣食足りて礼節を知る」ならばいいが、「衣食足りて不満を知る」事になったわけである。

若者にとって、現実の、既存の社会というのは、不満な事が多いに違いない、これは人類誕生の時からそうであったろうと思う。

若者は常に現状に不満を持つものであり、それが若者の特権でもあり、それを克服する過程が大人への脱皮の過程でもあるわけである。

60年代から70年代の若者の過激な行動というのは、その不満を一気に直接的な手段で爆発させようとしたところに犯罪との区別がつかなくなってしまったわけである。

世の中をよりよい社会にしようと思えば、まず最初に、自分自身がより良い社会人になって、模範的な社会生活をすることからはじめなければならないのに、それを飛び越えて、一気に革命で変えなければならないと思い込んだところに、思考の鍛練が不足した若者らしいひとりよがりな考え方に陥ったわけである。

 

人権との葛藤

 

このような若者の反乱は世界的な現象であったわけで、その背景には、世界的に、地球規模で、人々が豊かになったということだと思う。

第2次世界大戦というのは、地球規模での戦いであったわけで、それにともない地球規模で旧秩序が破壊されたわけである。

従来の西洋先進国の一方的な植民地支配というのは、封建主義の延長線上にあったわけであるが、西洋先進国に支配されていたアジアのもろもろの国は、この西洋の帝国主義を経ることなく、近代的な民主主義の国と、共産主義の国に分割して発展してしまったわけである。

アジアを始めとする後進国が、封建主義からいきなり近代的な民主国家なり共産主義国家になる過程において、少々のバラツキを生じたのが戦後の世界の実情だと思う。

第2次世界大戦というのは、西洋先進国の帝国主義を打ち破り、旧植民地を自立させたことになるわけである。

その後も、世界各地では、悲惨な戦争が繰り返されてはきたが、それは世界大戦とは異質なもので、全地球規模で、価値観を引っ繰り返すような要因は持ち合わせていなかったわけである。

そういう経緯を経て、地球規模で人々は豊かになり、人としての道を歩むことに邁進したわけであるが、それが若者の反乱を引き起こした原因だと思う。

自分の属する国家が戦争をするとか、国家建設に邁進している状況は、その国の国民に、ある緊張感を与えるが、それらが成就された時は、逆に虚無感に支配されがちである。

個々の人々が、それぞれの希望に燃えて前向きに走っているときは、その人にとっては適当な張感がついて回っているわけであるが、社会が平穏な状況に陥り、社会的緊張感がゆるんでくると、若者のエネルギ−が極端な方向に突出するのがこれら世界的な若者の反乱ではなかったかと思う。

これら若者の反乱は、小規模な戦争状態を作り上げようとするか、緊張した社会を作り上げようとしたもので、だからこそ、革命を唱えながら武器を作ったり、取り揃えようとするわけである。

世界の若者が同じような時期に同じような行動に出た背景には当然、教育の問題も抜きには考えられないと思う。

これも世界各地で同時多発的に起きているわけであるが、共産主義国家ならいざ知らず、民主的な国では、おそらく宗教の自由とか、信教の自由というのは、ある意味で保障されているわけで、その意味からして、共産主義というのは信ずるだけならば自由なはずで、アメリカでも、イギリスでも、フランスでも、共産主義者というのは自由に活躍していると思う。

ところが日本の場合、この主義出張を教育の現場で行なわれたわけで、先生が児童生徒に向かって、「国旗を敬う必要はない」とか、「国歌は歌う必要がない」という教育が行なわれたとすれば、その教育で成人した若者がどういう大人になるのか火を見るより明らかである。

戦後、日本の民主主義のもとで、我々は、教育の問題をかなり等閑にしてきたのではなかろうか。

教育の問題というと、歴史の教科書の記述について、重箱の隅を突くような議論を繰り返して、一教科の問題で、外国からの圧力に屈して書き替えたり、謝罪したりして、実に枝葉末節な議論を繰り返してきたわけであるが、その根源にあるのが、日本の教職員組合の存在である。

戦後の日本の民主化の問題は、教育問題と軌を一にしている。

「衣食足りて礼節を知る」という、この場合の礼節というのは、古い価値観であり、既存の秩序、既存の思考ということだと思う。

敗戦という価値観の転換を迫られた我々は、民主主義という新しい価値観にも、十分な納得をしていないうちに、間違った概念を作り上げてしまったわけである。

主権国家がその国の象徴として国旗を制定し、国旗を敬い、国歌を斉唱するのは古い価値観でもなければ、封建主義の象徴でもなく、ましてや軍国主義の象徴でもないわけであるが、わが国の知識人というのは、民主主義国家の国民は、国民としての義務を放棄することが自由の意志表明とでも勘違いしているわけである。

そういう人々の教育を受けた若者が社会に順応できないのは至極当然なことで、若者の反乱ということは、頭デッカチの、学者バカの反乱ということである。

このような全共闘世代の指導的立場の人間を企業は採用したがらなのは当然の事で、これは差別でもなんでもない。

革命を夢見たり、社会に混乱を引き起こすことを目的とした人間を、営利企業が採用するわけもなければ、公務員になってもらっては国民が迷惑するわけで、彼らの生きる道は、かなり制限を受けることは致し方ない。

しかし、彼らが若気の至りとは称せ、こうした過激な思想に染まった、ということは社会的にも、家族にとっても、本人にとっても、損失以外の何物でもない。

オウム真理教に入信している若者を見るにつけ、また連合赤軍を始めとするさまざまな過激派グル−プに入った若者を見るにつけ、そう思わざるをえない。

だからといって彼らに同情を寄せることは厳につつしむべきで、我々は、感情的にやさしい民族であるので、彼らの存在は、日本の政治が悪いとか、社会が悪いから彼らのような人間を輩出した、という論法が出がちであるが、ここは罪と罰をはっきりと峻別して厳罰に処すべきである。

戦後の日本の民主主義というものが平等主義に置き変わり、人道主義の名のもとに、犯罪者に同情を寄せる気風があるが、これは厳に戒めるべき事だと思う。

泥棒にも3分の理という言葉で、日本の知識人は、泥棒の3分の理の方を信じようとすることが進歩的であると勘違いしているが、泥棒をする事自体が反社会的な行為である、と云う事を忘れた議論である。

犯人の言い分だけを聞いて、その犯人が何をしたのかということを忘れた議論だと思う。戦後の日本では、基本的人権の大事なことが強調されて教育をされたが、我々の庶民感覚の中には、基本的人権という権利そのものが国家から付与されている、という認識が抜け切れていないように思える。

だから弱い者に対す同情という感情が前面に出てくるわけで、犯罪者が裁判で国家機能と対立すると、どうしても弱い立場の個人の方に同情が寄せられてしまうわけである。

民主主義というものを、感情で左右してはいけない、という大前提が崩壊してしまって、感情論で物事を判断するので犯罪者を擁護するということになると思う。

反政府運動と犯罪とは峻別しなければならないことは言うまでもない。

しかし、反政府運動が人を殺したり、公共施設を破壊したりするような行為というのは、既に、反政府運動の域を脱しているわけで、これは犯罪の領域になるわけである。

日本では基本的人権を重んずるあまり、犯罪者に対して、実に寛大な処罰しか行なわれていない。

特に、現行犯に対して、生きて逮捕するという事に熱心なあまり、警察官の側に死傷者が出やすい。

また銃に対する感覚に敏感すぎて、取り締まる側の銃の使用に対して非常に敏感な反応を示すわけで、犯人をその場で殺害するというケ−スはきわめて稀である。

この事実は、犯人、犯罪者の人権を非常に大事にしているわけで、こうした風潮は、悪いことではないが、それに反し、犯罪者の方は、それに便乗し、悪用して犯罪を犯しているわけである。

極端な例で云えば、裁判で「当局側に脅かされて自白した」といえば、大部分の裁判は、暗礁に乗り上げてしまうのではないかと思う。

それにもまして裁判官自身が共産主義者である場合、その判決が果たして正統なものであるかどうかわ疑わしい。

裁判官の思想検査というのはありえないし、日本国憲法では、何人も思想・信条で差別されることはない、とはっきりとうたっているわけで、裁判官に共産主義に被れた人物が成っていたとしても誰一人文句の付けようがないが、そういう裁判官の判決が果たして公明正大で、万人の納得するものであるかどうかは疑問である。

世界的な若者の反乱ということは、世界的に庶民の生活が豊かになった証拠だと思う。

旧植民地もそれなりに独立し、それなりに経済的な発展をしたわけで、旧先進国は、それなりに過去の富の収奪の完成させ、社会的に安定した生活が維持できるようになったわけであり、貧富の格差が標準化されたわけで、こういう穏やかな精神的安定のなかでの緊張感といえば、現行の政府に抗議することが若者のエネルギ−の発散場所となったわけである。

国を挙げて戦争状態の場合は、その事自体が若者に緊張感を与えたが、日本のように、平和憲法で、戦争を放棄してしまった国では、政府に戦争を仕掛けるしか若者のエネルギ−を発散させる場所がなかったわけである。

若者は、何時の時代でも、好戦的で、自分自身の力に挑戦しているときは可愛らしいが、そのエネルギ−の矛先を現行政府に向けた事象が全共闘時代の若者の姿ではなかろうか?戦後の民主教育では、我々は、自分の国に対する考え方というものを見失っていると思う。世界の常識として、主権国家の国民は、その国の国旗や国歌には敬意を表し、それを敬い、自国の要求する義務には忠実に従うことが当たり前であるが、我々、戦後の日本国憲法かの国民は、果たしてそのことを実践しているであろうか。

我々、戦後の日本国民というのは、自らの主権を放棄して、ただ4つの島に生息している烏合の衆ではなかろうか。

そのくせ、何か事が起きると、俄然、政府の責任を追及するという面があり、政府、国家、自民党というのを「打ちでの小槌」とでも思っているのではなかろうか。

 

貿易摩擦の原因

 

このような状況下で1964年、昭和39年、東京オリンピックが行なわれ、1970年、昭和45年、大阪で万国博覧会が行なわれ、それらに合わせて東海道新幹線と東名、名神の高速自動車道路が社会的インフラストラクチャ−として完成したわけである。

この時期になると、日本の戦後復興ということは、既に時代遅れとなり、実質的には高度経済成長が高値安定の時期に入っていたわけである。

経済的発展というのは、一度、軌道を走りだすと、惰性による慣性の法則のように勢いついてますます勢いが強くなってしまうものである。

松下幸之介も、本田宗一郎も、ソニ−も、最初はベンチャ−・ビジネスにすぎなかったものが、この時期には世界のビッグ・ビジネスになっていたわけである。

戦後の日本の産業界が 国家とは何の関わりもない民間ビジネスで成り立っていた、ということは戦後の日本経済の大きな特徴といえると思う。

戦前、戦中の大企業というのは、国家の戦争遂行に協力する、という形で成り立っていたわけであり、国家が自らの必要により大企業というものを育成する、という傾向が強かったわけである。

これはある面では致し方ないわけで、明治維新を経て、文明開化を目指そうとしたさい、西洋先進国とのカルチャ−・ギャップを感じた当時の日本の官僚諸子は、国家の指導力で産業界を育成しなければならないと思ったに違いない。

そして、国家が要求するものを作ることによって、産業界に力を付けさせ、ノウハウを習得させよう、という意図のとで行政が行なわれたに違いない。

そこには、あくまで国家が上で、民間は国家の指導を受けるべきものである、という固定観念が存在していたことは否めない。

その当時の国家が必要としたものは、すなわち武器のことで、それが戦艦大和でありゼロ式戦闘機であったわけである。

そのことは、我々の先輩諸兄の歴史の流れの中の必然的なことで、江戸時代の封建思想から、近代化への前哨戦の過程の一つとして帝国主義を助長し、その帝国主義が終戦、敗戦という断絶を経て、戦後の、民主主義にもとづく資本主義社会の成熟という過程を経てきたわけである。

戦後の日本経済がこのように発展した背景には、基本的に、我々、日本民族の過当競争があると思う。

我々はこの小さな4つの島で生息しているわけで、人口過密の状態の中で生き長らえているわけであるが、こういう状態ではどうしても隣人の存在というのが気になってしょうがないわけである。

極端な例では、隣人の晩のおかずの匂いまで漂ってくるわけであり、隣人の存在というのが、常に潜在意識の中にあるわけである。

隣がテレビを買えば我が家も買ってみる、隣が車を買えば我が家も、という具合に、常に隣の存在が意識の中にあり、これが企業レベルになると、同業他社の存在を意識するということになるわけである。

この物の考え方が日本経済の発展の根底に流れている潜在意識であると思う。

平成7年に、三菱銀行と東京銀行が平成8年度4月に合併する、ということが発表された。東京銀行というのは外国為替の取引を主体とした銀行であるが、この特殊性を売りものにしていては生き残れないということで、限りなく普遍的な、平均的な、標準的な銀行に衣替えしようということだと思う。

事程左様に、日本という国では、大和民族というのは、人と違うことでは存在意義を疑われるわけである。

そういう特質を含みながらも、戦後の日本の産業界が、民間企業で、民需品の生産で、経済の発展に寄与した、ということは世界的に見て特異な事であると思う。

共産主義国家というのも、国の発展のためには重工業に重点を置いて、重工業から軽工業に移行しようとしたが、この目論みは見事に失敗したわけで、そう考える事自体が時代遅れであったわけである。

日本も、経済復興の初期の段階では、重工業に重点が置かれたが、これは国の骨格を形成するという意味では、体制の如何を問わず共通した認識であったわけである。

しかし、我々の受けた戦後の教育では、日本が、鉄鋼や自動車を輸出する時代がくるなどということは信じられないことであった。 

あの、アメリカとの戦争は、鉄鋼と油のアメリカ側の輸出禁止で始まったわけで、そのアメリカに、鉄鋼や自動車を輸出する、ということは戦後育ちの私にも驚異な事である。

その鉄鋼業も、自動車産業というのも、日本の場合、一社ではなく数社あるわけで、ここでも実質的に過当競争が行なわれているわけである。

かって、国の占有となっていた国鉄や専売公社、電電公社というのは、現在は、分割民営化され、過当競争を強いられるようになったが、その事により国民へのサ−ビスの向上というのは目に見えてよくなった。 

このように、資本主義社会においては、競争は消費者にとって大きなメリットをもたらすが、企業側にとっては、過度な企業努力を強いられるわけで、日本の産業界というのは、各社がこの企業努力というもので苛酷な競争を生きぬいてきたわけである。

同業他社と同じ物を作って、同じ値段では売っていては企業として生き残れないわけで、同業他社に比べ、何かしら特異な部分を含み、消費者の満足感を煽る要因を内在しない製品を作らねばならない、という企業努力を強いられてきたわけである。

そのことが、すなわち品質管理を厳しくし、価格を下げ、付加価値を上げる結果となったわけである。

良いものを誰しも欲しがるわけで、日本製品に何の制限も加えずにしておくと、諸外国の企業は、日本製品に淘汰されかねない状況を作ってしまったわけである。

昔の西洋先進国、いわゆるヨ−ロッパ諸国や、アメリカは、日本の製品の優秀さに対抗する手段をもたず、それかといって、世界の節度ある経済活動として自由貿易主義を維持しようとすると、日本製品にあらゆる業界が駆逐されてしまいかねないので、そこに彼らのジレンマがあったわけで、貿易摩擦の原因はそこにあるわけである。 

 

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