貿易摩擦
日本とアメリカとの関係で、貿易問題で摩擦が生じたのは、繊維の問題が最初だったと記憶するが、その後、合板、鉄鋼、造船、半導体、はたまた牛肉からオレンジ、そして米に至まで、実にさまざまな業種にわたってトラブルを引き起こしてきたわけである。
しかし、問題を抱えた両国が、話し合いで解決できる間は平和な証拠で、商取引である以上、先方の言い分をあっり聞き入れる事の方が不自然なわけである。
交渉ごとは、両者が全知全能を傾けて行なうことで、それは一言で云えば、妥協点を見いだす過程であるわけである。
脅したり、すかしたりして、お互いに腹の中を探り合い、妥協点を見付けだすまでの過程のことであるので、そう問題視する必要はないわけであるが、そのことが、国内の政治に跳ね返ってくることがある。
その事は、貿易立国を目指す日本としては、ある程度致し方ない面がある。
つまり、工業製品に限って言えば、日本の製品が優秀であるが故に、日本側が相手国の同業他社を圧迫する結果となり、相手国の消費者にとっては歓迎されることであるが、国に対する影響力という点では、不特定多数の消費者のよりも、結束した企業の影響力の方が強いわけで、相手国側としてみれば、企業の利益を念頭に置いた交渉をしてくるわけである。
第一次産品の輸入ということに限れば、日本政府は、日本の生産者の保護ということを前面に出しての交渉という事になるわけで、その交渉の妥協した内容というものは、国内の政治にフィ−ド・バックされるわけである。
戦後の日本経済の発展には、こうした貿易摩擦とは異質の要因で日本経済の土台が揺さ振られた事もあり、そのたび毎に、日本経済は足腰を強くしてきたわけである。
その代表的なことが二度にわたるオイル・ショックであり、円の為替変動相場制への移行であり、ニクソン・ショックといわれるものである。
オイル・ショックというのは、1973年、昭和48年にOPECが原油価格を70%以上一気に値上げしたことによる世界的な経済的混乱のことである。
このことにより、日本の産業界は省エネルギ−に努力するようになり、その事がますます日本の工業製品の質を高めるという結果を招いたわけである。
OPEC側は、石油を戦略物資と認識したのはいいが、逆に石油を値上げすることにより自分たちはますます高い買物をせざるをえない状況を作り上げてしまったわけである。
我々は、逆境に立たされると、ますます質の向上と合理化に成功して、より一層の輸出攻勢を高める、という状況であり、この世界的な経済の混乱が、日本の企業を結果的に世界制覇にむかわしめる、という状況を作り上げてしまったわけである。
我々は意図してそういう状況を作ったわけではない。
そういう状況が周りから出来上がってしまったわけである。
私が生意気盛りの頃、昭和33年頃、喫茶店のコ−ヒ−は50円であった。
そのコ−ヒ−が今400円だとすると、約40年間に8倍になったわけである。
物価というのは、常に右上がりのグラフのように上がっていくものだという考え方が我々には古くからあるが、これは日本だけの現象ではないかと思う。
要するに、これはインフレということであり、日本の経済は、常にインフレに脅かされているわけで、インフレに耐えるためには、常に合理化で省エネルギ−ということを志していないことにはインフレに飲み込まれててしまうわけである。
つまり、企業として成り立たなくなるわけである。
だからこそ常に切磋琢磨していなければならないわけであるが、これは世界共通の在り方ではないわけで、世界の企業家というのは、ある程度財をなしたら引退して悠悠自適の生活を送る、というのが理想であったわけである。
よって企業の目的が財を成すというところにあるわけで、日本のように、社業を通じて社会に貢献する、という企業家精神というのは少ないと思う。
戦後の50年を振り返ってみると、終戦直後からしばらくの間は、1ドルは360円の時代が続いた。
それが今日では80円台を上下する時代になったわけである。
これは、50円のコ−ヒ−は0.14ドル、のものが今日では、5.5ドル、つまり
5.5/0.14、約40倍に上がっているということである。
50年で40倍のインフレということは並大抵のことではないと思う。
今の低開発諸国は、このインフレで社会的発展が阻害されているわけであるが、日本は同じ状況で経済発展してきたわけである。
オイル・ショックの時は、私も、これで日本は再び昔のひもじい時代に逆戻りするのではないか、といささか悲観的な見方をしたものであるが、日本経済というのは逆に足腰を強くしてしまって、ますます高付加価値の製品を生み出すようになったわけである。
今の日本は、貿易で稼いだ黒字がたまりすぎて世界から後指を差されているが、19世紀の西洋先進国というのは、当時の帝国主義によって、植民地の富を収奪した金でヨ−ロッパの社会的基盤を整備したわけである。
ところが、日本というのは、帝国主義による富の収奪という事に失敗したわけで、その代わり、自らが生きる為に闇雲に働いた結果として黒字の蓄積ということになったわけである。
現実に黒字が貯まっているならば、その金で社会基盤の整備をするのが本筋であるが、これは帳面つらの数字だけで、実質は架空の数字である。
アメリカとの貿易不均衡の問題にしても、アメリカが貿易赤字で苦しみ、日本が黒字で潤っているとするならば、日本の生活はもっと豊かにならなければならない。
これには為替のトリックもあると思う。
赤字だ黒字だといったところで、1ドルが360円の時と比べればその比率が1/5で、アメリカの赤字というのは5倍にし、日本の黒字を1/5にしてみれば、生活感に大差はないと思う。
これは変動為替制度のトリックであり、実質的な経済の有様を証明するものではないと思う。
トヨタやソニ−が、アメリカに物を売って、その売上金や利益が全部日本に還元されているとは思われない。
アメリカで得た利益はアメリカに還元されているわけで、それでロックフェラ−・ビルが買収されたり、コロンビア映画が買収されたりするわけで、現金が海をわたって行き来するわけではない。
しかし、日本の社会的基盤整備も、オリンピックや万国博覧会を機に、大いに向上したことは否めない。
数年前に、西洋から、日本の家屋はうさぎ小屋であると評されて、我々は腐った思いをしたものであるが、住宅に関しては、我々はうさぎ小屋にならざるをえない。
これも一重に国土の狭さという地理的要因の成す業で、我々は、大きな住宅を都市部に持つことは、物理的に不可能な状態に追い込まれたわけである。
都市部の地価の問題もさることながら、平成7年の1月に起きた神戸震災の例にみるように、地震という、地球の生理現象によっても、我々は都市部に大きな住宅を維持することは出来ない。
我々が社会基盤の整備という場合、東名・名神高速道路や東海道新幹線のことを念頭において考えがちであるが、本当は生活空間である町の市街化にもっと力を入れるべきである、ということは十分に解っているにもかかわらずそれが出来ていない。
これも、我々の民族の人口過密がネックになっているわけで、我々が、この4つの小さな島に生きている以上、何とも克服の方法が見つからないわけである。
うさぎ小屋と評された我々の住宅というのは、公団住宅のことを指しているのかもしれない。
確かに、初期の住宅公団の部屋は、狭く、遠く、田舎に出来たものであるが、これも歴史の必然であり、住宅公団そのものが出来た時点では、住宅そのものの絶対量が不足していたわけで、我が家の歴史を振り返ってみても、住宅公団に入居できればどんなに幸せかと思ったものである。
その後、自治体がそれそれに住宅を提供するようになったが、そのモデルになったのが住宅公団であるので、どれも似たりよったりの狭い部屋の寄せ集め、という状況を呈したわけである。
まさしく雨露をしのぐだけのミニマムの物でしかなかったわけである。
しかし、社会基盤の整備ということは、都市交通の問題もさることながら、上下水道の整備とか、電信電話網の整備ということも内在しているわけであるが、その意味からしても、戦後の経済の復興とともに、そういうものも逐次整備されてきたわけである。
だがしかし、これら社会の基盤整備事業に一貫制がないので、常に町中がほじ繰り返されて、いつまでたっても工事中の状態が続くことである。
年中、そこらじゅうで工事中の看板が立ち、工事の完成ということがないわけである。
道路工事、電話工事、上下水道の工事等を、別々に、その都度違った省庁の監督下で行なうものだから、何度も同じところをほじ繰り返す格好になるわけである。
良く言えば、バイタリテイ−に富んでダイナミックな活動ということも出来るが、悪く言えば、計画性に欠けた税金の垂れ流しという事も言えるわけで、そう言われながらも、日本全国に至るまで、社会的な基盤整備はおいおい充実している。
戦後、「無」の状態から始まった日本経済は、初期の頃は、物を作ることに重点を置いた健全な経済活動であった。
ところが、高度経済成長が、物価の高値安定状態を形成し、それがしばらく継続した結果、物作りが一つの壁に突き当たったとき、人々はマネ−・ゲ−ムに走ることを覚えた。
これには金利の問題も絡んでいるわけであるが、人々は、金利の差額で収益を図ろうという、姑息な生き方を選択しはじめたわけである。
株の暴騰、土地の暴騰、貴金属の暴騰という具合に、そういう不労所得を目指す方向に人々の関心が傾いた結果がバブル経済のパンクという事態を引き起こしたわけである。
不労所得を得ることを覚えると、額に汗して働く、という本来の労働というものが馬鹿らしくなることは洋の東西を問わないことで、アメリカは日本より一足先にこの時代を迎えたわけである。
それが日本の経済復興と同じ時期に起きたので、アメリカの衰退ということが日本でも取り沙汰されたわけである。
アメリカでも日本でも、労働者の賃金が高騰してくると、国内での製造業というのは空洞化するわけで、後に残る産業というのは、虚業に近い、サ−ビス業のみで、実質的な経済活動というのは、マネ−・ゲ−ムでまわっているようなものである。
銀行、証券会社、不動産業、パチンコ屋、ホテル、レジャ−産業等々、虚業以外の何物でもない。
こういう大衆心理を当て込んで、マルチ商法とか、ねずみ講という商法が流行ったわけであるが、こういう経済事犯が起きると、被害者を救済するのは国家の責任である、という論評が罷り通るが、これにはいささか承服しかねる。
欲の皮を突っ張らせて自分が被害にあったわけで、被害にあうということは、100%個人の責任で行なわれた行為であり、世の中に、誰でも、簡単に儲かる話が転がっていると思う方が間違っているわけであり、その個人の尻拭いを国家がしなければならない、という理由にはならないと思う。
これと同じ事が今回のオウム真理教の被害者の救済にも言われており、一般の信者は、マインド・コントロ−ルを受けているので社会復帰を暖かく見守りながら実施しなければならない、という言い分であるが、一見、人道的に素直に受け入れられそうであるが、入るときは自分の意志で入りながら、出るときは、社会の暖かい援助を受けなければ、出れないという理屈は通らないと思う。
自分の意志で行動した結果は、自分で解決する他になく、第3者が、道義的に偽善ぶって国家の援助を云々するということはおかしいと思う。
人々がマネ−・ゲ−ムに走るという事象は、実に嘆かわしい現象であるが、人類は、本来怠惰な方向に向きたがるもので、楽して儲けたいという願望は、煩悩の一つであろうと思う。
マネ−・ゲ−ムも、世の中が好況な時は、真面目に銀行に預金しているよりも一攫千金のチャンスのあることは確かであるが、人々がこういう千載一遇のチャンスを狙う、という傾向が蔓延すると、真面目に勤労に励むということを遺棄する傾向が強くなることが心配である。
資本主義社会であるからして、人々が金儲けに現を抜かすことは基本的には「善」であるが、真面目にこつこつと稼ぐ事が馬鹿らしくなって、一攫千金を夢見て、怠惰な生き方を選択する傾向が嘆かわしい。
株というのは元来配当金を得るための物であったにもかかわらず、日本の株式市況の有様というのは、株の売買による利ざやを得る事に主眼が置かれてしまっている。
そこに株の投機という行為があるわけで、投機である以上、得をするときもあれば損をするときもあるわけで、それが解って行なっている分にはいいが、解っていても、損をしたときの忿懣を国家に尻拭いさせようという魂胆はいかがわしい考え方であると思う。
こういう考え方は、戦後民主主義の誤った発達の結果だと思う。
弱いものを救済する、ということは基本的には「善」であるが、自分の欲の皮を突っ張らせておいて、その結果として被害をこうむったとき、自分を弱い立場に陥れたのが自分の欲望であったことを忘れて、第3者が救済の手をさしのべることを期待する、ということは如何にも甘ったれた考え方に他ならない。
バブル経済というのは、我々があまりにも金儲けに夢中になった結果であり、それは当然破綻をきたすものであったわけである。
ここにも我々、日本人の基本的な性癖は露出しているわけで、好景気が続きそうだと見ると、それこそ猫も杓子も土地投機、株投機に走り一億総投機屋になってしまったような感があった。
こういう事象を我々はよくよく注意して眺めなければならない。
考えてみれば、日本国民を形成している人々というのは、学識経験に富んだ、優秀な人が国民の大部分を占めているわけで、そういう人々が、誰かれなく一つの方向に傾斜してしまうという現象は、50年前の日米開戦の時の雰囲気と寸分と違わないわけである。
高度経済成長とそれに続くバブル経済の継続というのは、マルクス主義の言うところの、労働者と資本家の対立の中で生まれた現象ではなく、戦後の民主教育を受けた、世界的に見てかなり高学歴の社会が作り出した現象であるところが、日本の歴史上にはない新しい危機であったと思う。
日本の官僚というのは、日本でも最高に困難な試験をパスした人々で形成されているわけで、日本のビジネス界も、おおよそそれと似た状況に置かれているわけである。
大蔵省、通産省、銀行、保険業界、証券会社の構成員を見れば、並みの大衆とは雲泥の差で、高学歴の面々がそろっている世界である。
そういう人々が、高度経済成長を達成するまでは許せるが、その人々が、バブル経済を煽って、投機を煽り、土地高騰を煽り、株価を操り、利さやを求めて大金を右往左往させることは許せない行為であると思う。
こういう状況を作り出したのは、政府の方針というよりも、個人の欲望が成さしめた部分の方が大きいと思う。
つまりは個人の欲望の実現、楽して金を儲けたいという人間、特に、資本主義経済システムの中での人間の基本的な欲望を実現することに高学歴の人々が無批判に傾倒していった過程が問題であり、そこに我々、日本民族の個性というか、付和雷同というか、他を顧みない唯我独尊的発想があるわけである。
こういう現象は、一人の指導者の掛け声だけで起きるものではない。
その意味では、日本的平等主義のようなもので、横の連携は出来ているが、まさしく横の連携があるが故に、一度ブ−ムというものが形成されると、それに乗り遅れることが恥のように感じられるのが我が民族の潜在意識であるわけである。
それ故にブ−ムを批判するという事が出来ないわけである。
バブル経済華やかなりし頃、担保価格の何倍もの貸付金を貸し与え、バブルがはじけて、それが回収できず銀行業界は苦慮しているというニュ−スが世間を賑わしたが、このような事が何故起きたのか不思議でならない。
銀行が、担保以上に金を貸せば、貸し倒れするリスクが当然あるわけで、バブル経済の最中には こういうことが日常茶飯事に行なわれていたわけであり、これを行なってきた銀行員というのは、無学文盲の大衆レベルの人間ではないというところに問題があるわけである。
銀行の組織について詳しいわけではないが、銀行が担保以上に金を貸すということは、すでに基本的な過ちを犯しているわけで、その過ちを、あらゆる段階でチェックすべきである組織そのものが腐敗しているということである。
東京の2つの信用組合が架空融資で倒産して、それを
この事例の場合、二つの信用組合の経営者というのは100%犯罪者である。
そういう犯罪の後始末を自治体や国がするという事は筋が通らないと思う。
バブル経済というのは、人々に一攫千金を夢見ることを強いた時期で、人間の在り方としては、不道徳な雰囲気を植え付けた時期であると思う。
労働という行為も、時代とともにその内容が大きく変化していることは否めない。
農業のように太古からの姿をそのまま維持している業界もあるにはあるが、近代から現代に至る産業界においては、労働という意味が大きく変化している。
昔の肉体労働というのは姿を決して、今日では、機械を使う仕事が多くなって、労働者というのは、機械を使うオペレ−タ−と云う意味合いが強くなった。
その意味からすれば、農業の田植えとか稲刈という作業も、トラクタ−と云う機械を使うということでオペレ−タ−というほうが妥当であろう。
しかし、このオペレ−タ−といわれる人々も、その精神の面では、昔の労働者の域を出ておらず、額に汗して働くという意味でも名実ともに労働者である。
昨今の銀行員がコンヒュ−タ−を酷使し、農家がトラクタ−を酷使して仕事をするという状況は、終戦直後の日本を知るものにとっては驚異に他ならない。
そういう時代になっても変わらないのが人間の心の内で、人々が金を儲けたいというのは、洋の東西を問わず、人間の基本的な欲望に他ならない。
しかし、我々、日本人の美学では、自分の欲望を赤裸々に、しかも露骨に表すということは下品とされてきた。
「武士は食わねど高楊子」といって、金には無頓着であることが、我々の精神的な美学であったわけである。
ところが、高度経済成長とそれに続くバブル経済というのは、それを見事に覆してしまったわけで、ここに昔の我々が持っていた精神的美学と価値観を失ってしまったわけである。高度経済成長の頃は、まだ我々は物作りに価値を見いだしていた。
ところが、その次のバブル経済の頃になると、我々は物作りの大事さを忘れ、拝金主義に陥ってしまったわけである。
家庭の主婦や、若いOLが、株の投機や、ゴルフ会員権の購入や、その売買に現を抜かす時代になったわけで、そういう時代が長続きするはずがないにもかかわらず、そういう思い込みで、金を玩具にする時代に至ったわけである。
日本全国が投機熱にうかれているときからバブルの崩壊という事態が到来することは目に見えていたわけである。
こうした事象に、堅い商売で通っていた銀行や、保険業界が巻き込まれたのは、やはり家庭の主婦や、若いOLが巻き込まれたのと同じ精神構造におちいっていたとみなさなければならない。
つまり、株や土地に投機すれば、必ず儲かるに違いないという思い込みに他ならない。
この思い込みがあったればこそ、担保以上の金の貸し付けを容認したわけで、その思い込みの前には、従来の商習慣としての常識が通らなくなっていたわけである。
問題は、そういう行為が、末端の社員がたまたま起こしたわけではなく、銀行なり、不動産業の組織全体として、商習慣の基本の遵守ということをお座成りにしたことにある。
組織として、末端の社員からトップに至るまで、自制心というものが全く機能しなかった、というところが我々の民族の一番の欠点である。
先の大戦においても、アジア大陸で行なわれた日本軍の行為というものは、こうした、人間としての自制心がコントロ−ルを失った行動をしたところにあるわけで、一人一人が静かに考えて行動すれば、決して、そんな事態を引き起こすことはなかったろうけれど、我々同胞が、組織として、組織ぐるみで行動する場合には、しばしば自制心というものを見失ってしまうわけである。
これが恐ろしいことで、先の大戦も、安保反対の大衆行動も、成田闘争の抵抗も、バブル経済の崩壊も、すべて我々、同胞の群集心理というか、付和雷同というか、日和見というか、流行に押し流されやすい性格というか、そういうもので成り立っているわけである。銀行にしろ、保険業界にしろ、不動産業界にしろ、今日の会社組織というのは、日本の有名大学のエリ−ト集団で固められているにもかかわらず、自らの企業としての自制心、企業としての公益性、社会に対する奉仕、または貢献、という社会人としてのモラルを欠いた行動を、自らコントロ−ルする機能を喪失してしまっているところに問題がある。
これらの業界は100%大学出の社員で固められているにもかかわらず、こうした事態を招くということは、本当の意味での教育というものが功を奏していないということであろう。
戦後の日本の民主化の中での、偏向した教育の弊害ということは先に述べたが、日本のビジネス界が、マネ−・ゲ−ムに終始している現状というのも、いわば戦後教育の弊害とみなさなければならないと思う。
優秀な大学を優秀な成績で卒業して、有名企業で一生懸命仕事をした結果が、バブル経済の崩壊ということであったとしても、それは弁解にはならないわけで、戦争前に、日本の優秀な青年が、それぞれ軍の学校に厳しい選抜を掻い潜って一生懸命仕事に精を出した結果が敗戦、終戦という未曽有の混乱を日本にもたらしたのと同じ構図である。
問題の根源は、我々同胞が、一生懸命仕事するというところが問題であって、一生懸命仕事するから罠にはまるわけである。
末端の社員が上司の意向にそうように、先輩から教えられたことをはみ出す事無く、すべからく大過なく職務を遂行しようと一生懸命になるから自制心や、良心まで見失うわけである。
官庁やビジネス界では、夜の10時や12時までも残業することが常識となっているが、このことが既に精神が病んでいる証拠である。
夜おそくまで残業してご苦労様といいたいところであるが、このことが既に自らが人間としての価値ある存在ということを忘失している証拠で、身も心も企業人に成り代わってしまっているわけである。
我々は、会社と個人というものを使い分けしているようで、一歩会社という建物の中に入ると会社人間となり、家に帰って敷居を跨ぐと家庭の人となるようである。
会社の建物の中に一歩はいると、彼または彼女の人間関係は極端に煩雑になり、上下左右の人間関係に呪縛されてしまって、退社時間がきたとしても、それを素直に受け入れることが出来ず、同僚や上司への気兼ねやら、はたまた見栄やら、残業代稼ぎやらで、差し迫った仕事がなくても居残る、というのが普通のサラリ−マンの習性となっているようである。
ここにある精神構造というのは、人間としての自覚に欠け、個人の自覚を捨て去った、マンネリ化したサラリ−マン根性以外の何物でもない。
これが組織として自制心を失い、自立心を喪失し、企業としての倫理感を失う原因ではなかろうか。
我々、大和民族、日本民族というのは、古来から子女の教育には非常に熱心な民族で、戦前の我々は、日本全国の大部分の庶民といわれる人々は、貧困なるが故に、そう誰しも高等教育を受けたわけではない。
しかし、戦後の我々は、日本の復興とともに、高等教育を受ける人々が多くなって、官庁からビッグ・ビジネスにおいては、大学出でなければ人であらずという風潮であるが、こういう人々が形成するビジネス界がバブル経済という、文字通り、泡沫的な社会現象を作り上げたわけである。
官界やビジネス界が、組織で行動しているとき、その組織というのは、若い人だけの集団ではないはずで、当然、定年まじかで分別盛りの人から、大学出の若手まで包含しているわけであるが、組織がモラルを喪失する過程においては、この分別盛りの人々の発言権がどうなっているのか疑いたくなる。
銀行が担保以上に金を貸しだす場合、若手社員の勝手な決断で行なわれるはずもなく、当然、そこには上司の判断や裁量があるわけで、企業がモラルを失う根本のところには、企業トップの責任が絡んでいるわけである。
組織の行為として、不良債券を抱え込むということは、当然、企業トップの判断の過ちであり、トップがモラルを欠いた認識を持っているからに他ならない。
現時点で、企業トップといわれる人々のなかで、戦後教育を受けた人というのはまだすくないはずで、田中・ロッキ−ド事件で被告の立場にたたされている丸紅飯田の檜山広、大久保利春、伊藤宏、全日空若狭得治等々、企業トップの面々は、戦前の教育を受けた世代が残っているわけであるが、銀行、保険業界なども、同じような世代の人々がトップを勤めているはずである。
こういう企業のトップが、企業のモラルを喪失したのがバブル経済であったわけである。企業のモラルということに関しては、1976年、昭和57年にロッキ−ド事件というのが発覚して、田中角栄までが逮捕されるという大騒ぎがあったが、この事件は、それほど大騒ぎするほどの内容の物ではないと思う。
このとき問題の争点となったのが、内閣総理大臣の職務権限についてどこまで許されるかということであったが、全日空という会社は、100%民間企業であり、内閣総理大臣が民間企業に対して、導入機種に関するアドバイスしたとして、その成功報酬を得たところで微罪にすぎない。
だからといって、内閣総理大臣の犯罪を容認するつもりはないが、日本のマスコミが大騒ぎするほどの事でないと思う。
まず第一に、民間企業として、全日空がロッキ−ド社のトライスタ−という機種を全く商売上メリットのない機種だとしたら内閣総理大臣のアドバイスがあったとしても採用していなかったであろう。
その意味では、全くビジネス・ライクに機種選定をしたに違いないと思う。
問題は、それにともなってアメリカのロッキ−ド社から、現職の総理大臣に金、つまりアドバイスをしたことに対する成功報酬が流れたことにあるわけで、これは政治献金との絡みもあって、あのピ−ナッツが成功報酬なのか政治献金であったのか、が問題なわけである。
これが自衛隊機の機種選定であれば、明らかに収賄罪が成立するとおもうが、相手は民間企業で、職務権限で機種を押しつけたわけでもなく、全日空が独自の判断で機種を決めたとすれば、たまたま首相のアドバイスと、その結果が同じ結論に達しただけのことであり、あのピ−ナッツが果たして成功報酬といえるかどうかも疑わしいと思う。
全日空が負い目を感じているのは、国会議員に政治献金をしていたことが白日のもとに暴露されてしまった事である。
これは日本の政治全体に言えることで、その後で起きたリクル−ト事件でも同じパタ−ンを踏襲している。
この当時のマスコミの報道の仕方は、田中角栄がいかにも諸悪の根源かのごとくスケ−プ・ゴ−トに仕立て上げた報道の仕方であった。
確かに、一言二言アドバイスをして、2百万、3百万という金が動くということは、庶民感覚としては馴染めないことではあるが、歴然とした収賄事件ではないわけで、政治献金の問題を曖昧にしたと云う意味で、田中角栄という自民党総裁であり、内閣総理大臣という要職にあるものが犯したという点では否定のしようもないが、あまりにも脚色された、大げさな報道というのはマスコミの名を語った「いじめ」に他ならない。
しかも、この問題の発端は、アメリカ側からの公聴会からばれてきたことであり、日本の検察やマスコミ関係者が独自に発掘したニュ−ス・ソ−スではないわけである。
マスコミ関係者にしてみれば、棚ボタ式に話題を提供してもらったようなもので、自らニュ−ス・ソ−スを発掘したわけではない。
ここにあるのは、マスコミ関係者の、田中角栄に対する、嫉みと嫉妬の気持ちではないかと思う。
ここにも我々、日本人の特質というか国民性があらわれていると思う。
田中角栄という人物は、マスコミ業界にはない風変わりなキャラクタ−を持っているわけで、その最大の特徴は、彼が高等教育を受けていないという点である。
そういう人物が、日本のリ−ダ−として最高の地位に君臨していることに対する妬みと嫉妬が、ロッキ−ド事件というものをあれほどまでに過大に報道するエネルギ−になっていたと思う。
角栄
田中角栄という人物は、戦後の日本の民主主義の申し子のような人物である。
敗戦による進駐軍の民主化のもとで、彼は無学でありながら国会議員になり得たというのは、逆に云えば、戦前、戦中の社会体制のもとでは、彼は決して国会議員になり得なかったに違いない。
彼が国会議員になり得たのは、戦後の民主主義のもとではじめてなりえたわけで、その理由はといえば、GHQの民主化政策があったからこそ、無学でも等しく被選挙権というものが付与されたことによって、彼を国会議員にならしめたわけで、その彼は、自由民主党という主流派に属することによって、政治生命を維持することが出来たわけである。
こうした処世術というか、身を処する嗅覚というものは、学問のあるなしにかかわらず、彼の生れ付き備わった感覚であり、学問のあるなしとは関係のない事柄であろうが、その彼が、政治的にある程度評価すべき業績を上げたわけである。
田中角栄が内閣総理大臣に就任したときは、日本のマスコミはこぞって彼を褒めそやし、今太閤だとか、コンピュ−タ−付きブルト−ザ−とかいう言葉を使って、最高に賛意を表したわけであるが、それがロッキ−ド事件が噴出すると、途端に悪徳政治家の烙印を推して政界から抹殺しようとしたわけである。
彼の政治的な活動のなかでは、日中国交の復活(1972年9月29日)が最大の功績であるが、日本の左翼が願望してやまない中国との国交樹立という業績を、新潟の片田舎の国会議員が実現してしまったというところに、日本のインテリのジレンマが潜んでいたに違いない。
それが田中角栄という政治家の足を誇大に引っ張る、という現象になって表れたとみなすべきである。
田中角栄の金権政治というのが、近代的な政治形態でないことはいうをまたないが、彼の生い立ちを眺めれば、彼にとっては、金しか頼りになるものはなかったわけで、金で人を動かすという事は、学歴もなく、親譲りの資産もなく、わずかな地縁、血縁を最大限に利用して、権力を維持する手段であったに違いない。
金権政治が古い体質の政治形態であることは否めないが、それだからこそ、マスコミの好餌になりえたということも言えると思う。
自治体が大規模プロジェクトを遂行しようとすると、それを受注するために、ありとあらゆる業界が、あの手この手で受注合戦を繰り広げるのは日常的なことであり、そのたび毎に、誰か彼か収賄罪に引っ掛かるのが我々の政治の現状であるが、これは日本の商習慣、商取引の在り方に根源的な原因があるわけで、民間企業は、自治体の推し進めようとするプロジェクトになんとか食い込んで受注を獲得しようと根回しに奔走するわけである。その時に、手ぶらでは関係者を訪問することが出来ないので、なにがしかの手土産を持っていくことになる。
それが最終的には収賄というところまでエスカレ−トしてしまって、末端の吏員が御用となるのが、日本の政治のパタ−ンであるが、ロッキ−ド事件に関しては、田中角栄は、政府の品物の購入に関与したわけではなく、あくまでも民間企業の動産の購入にアドバイスしただけのことで、機種決定の決定権は、あくまでも全日空側にあったわけである。
トライスタ−を採用するかどうかは、全日空側のさまざまな検討会の結果であって、総理大臣のアドバイスというのは、機種決定の直接原因ではないと思う。
その意味からすると、この時点で、ロッキ−ド社の日本への売込みの努力というのは、用意周到に日本の商習慣を研究したものだと思う。
その後に起きた自動車に関する日米貿易摩擦も、アメリカ自動車業界のこういう努力があれば起こり得なかったといえると思う。
田中角栄という人物は、一介の農民から総理大臣にまで成り上がった人物であるから、その個性は強烈なものを秘めているに違いない。
そしてその哲学は、金を上手に集め、上手に使うことだと悟っていたに違いない。
その彼のところに、アドバイスするだけで巨額な金が廻ってくるという事は、我々の庶民感覚では理解しがたいことであるが、この事件の最大のポイントは、政治献金との見境がなかったことである。
逆の言い方をすれば、マスコミ側が、商習慣としての手土産の部分を、政治献金と吹聴することによって、ニュ−スを作り上げたという向きがあるとも言える。
田中角栄の日本列島改造論というものが、日本の土地投機に拍車を掛けたことも否めない事実であるが、これもマスコミによって作り出された虚像であったわけである。
世間では、いかにも日本列島改造論が諸悪の根源であるかのような印象を植え付けているが、これもマスコミが土地投機を奨励するような書き方で吹聴したところに問題があるものと思う。
政治家というのは、その実績が問われるが、マスコミというのは、何ら実績が問われることはないわけで、ロッキ−ド事件を暴いたといったところで、その発端は、アメリカサイドから漏れてきたことで、自らニュ−ス・ソ−スを発掘したわけではなく、日本列島改造論が出れば、日本は今すぐにでも改造されるので今のうちに土地を買っておけば大儲けが出来る、と宣伝したが故に土地高騰を招いたわけである。
そして、その結果には何一つ責任を取ろうとせず、あれは間違いだったという自責の念は微塵もないわけである。
政界も、マスコミ業界も、ビジネス界も、あらゆる場面で、その業界をリ−ドしているのは分別盛りの大人であるはずである。
そして、あらゆる業界の不祥事は、この大人に責任があるわけである。
あらゆる業界において、20代前半の若い世代が責任者で治まっている企業というのはありえないと思うが、そういう状況において、あらゆる業界で不祥事が後を絶たないということは、分別盛りの大人のモラルが死滅しているということである。
大人がモラルを失うということは、古今東西普遍的なことで、中国でも、ソビエット連邦でも、アメリカでも普遍的に存在していることである。
日本だけの特殊な事情ではないわけである。
分別盛りの大人がモラルを失えば、純粋な若者は過激な運動に走るわけで、この時代の連合赤軍の行動や、東アジア反日武装戦線「狼の牙」と称する過激派の連続企業爆破事件というのは全く理解に苦しむ。
安保反対闘争とか、成田闘争という反政府運動が下火になりかけた頃、それに飽き足らない若者のがテロ行為に走るという精神構造は理解に苦しむ。
テロで世の中が変わるわけでもなかろうに、それが理解できない若者の心理というものはいささか不思議な気がしてならない。
無意味な殺傷をして悦にいっている若者の心境は全く察しが付かない。
若者をこういう行動に走らせる心的要因は一体何であったのだろうか?
話は飛躍するが、このころから巷には暴走族と称する若者がオ−トバイや乗用車を無法、無秩序、でたらめに走らせて悦にいるという現象が表れている。
過激派の行動と、この暴走族は共通するところがあると思う。
世代が若いということは当然であるにしても、何故に無意味な行動をするのかという点であい通ずるものがあるような気がしてならない。
日本の戦後復興が一段落して、日本全国が中流意識をもつようになり、持ちたいと願っていた物は、一通り普及してしまったのがこの時期で、人々は物質的には満ち足りた生活が出来るようになったわけであるが、そこで家計に余裕のある人々は、さらなる富を夢見て土地や株の投機に走り、若者は、若さのはけ口のないのに困惑して、無意味な行動に走っていたのではないかと思う。
世の中に緊張感がなかったわけである。
終戦直後、ないしは戦前・戦中ならば、戦争という緊張感が全国民を覆っていたわけで、若者の無意味な行動ということはありえなかったが、そういう緊張感がない世の中というのは、若者にとってエネルギ−や、情熱のはけ口がないわけで、それが過激派なり、暴走族という存在を作り上げたのではないかと思う。
日本国民がこのような状況に陥ったのは、終戦を境にして価値観の転換があったせいとも言える。
この若者世代の親というのは、丁度、終戦前後に青春時代を向かえた人々であったわけで、その時期に、価値観の転換を強いられて、それ以降というものは、アメリカ流の民主主義を強制されたが故に、古い日本の価値観と、新しい民主主義のもとでの価値観の葛藤のなかで成長したわけである。
心の中でその整理が不十分なまま大人になり、子を産み、その子を育てたわけで、ここには親としての価値観を子供にきちんと受け継ぐ用意が出来ていなかったわけである。
親としての権威を失墜したまま、子供を成人させ、自らの子供に対して、親としての権威を行使する事無く、子供に対して、親の言うことをきかせることに失敗したわけで、それが若者を無意味な行動に走らせる最大の原因ではないかと思う。
子供というものが、青春期になれば親の言うことを素直にきかないのは正常な発育をしている証拠であるが、これまでの間に、人間としてあるべき姿というものを子供心に植え付けておくことが親の義務であるはずである。
この場合、親の方が人間としてのモラルを欠いた大人であったとすれば、若者が自堕落な生活にのめり込んでも致し方ないわけで、高度経済成長の時期、果たして日本の大人がどれほどがマイ・ホ−ム主義で家庭を大事にしたのかという点が問われるべきである。
若者たちの親が、大人として自制心をもって日々の生活を送っていたのかが問題で、自らの立身出世や、利殖に現を抜かして、金儲けに東奔西走しているようでは、子供が無意味な行為に耽っていたとしても致し方ない。
我々、日本民族というのは、一生懸命に働くと云う事を美徳とする価値観の中で生きてきたわけであるが、この認識が案外と曲者である。
我々の在り方としては、学校を卒業して企業に就職して、そこで一生懸命に働きさえすれば幸福を得られると思い込んでいるわけであるが、この一生懸命の中に、知らず知らずの内にモラルを喪失しているということに気が付かないわけである。
このことは、個人としての自制心を失うということで、企業の為、会社の為という口実で、自らを誤魔化していることであり、個人の判断力が麻痺しているということである。
末端の社員は、退社時間になっても、上司がまだ仕事中である以上、素直な気持ちで退社できないという精神的環境は、自らの個人の意志が、企業人、会社人間としての連帯感を阻害しているという思い込みに他ならない。
そこにあるのは、企業なり、会社なりと運命をともにする運命共同体としての連帯感であり、それがあるが故に、個人の我儘な意志を通しづらいわけで、それが一生懸命仕事に精を出すという結果を招くわけである。
社業に忠実、社命に忠実、一生懸命仕事に精を出す、ということは本来は日本人の美徳であったはずであるが、社会人が、その立場、持ち場でそれぞれに仕事に勉励努力することは、その中にも自分の意志をしっかりと確保して、覚めた目で社業、社命というものを見据えないことには、その事自体がモラルの喪失につながってしまう恐れがある。
戦前、戦中において、旧日本軍がアジアで行なった行為というのは、めいめいの末端の兵士が、それぞれに仕事に一生懸命に従った故の過誤であったわけで、めいめいの兵士は、それぞれ国の方針に一生懸命仕えたつもりが、時がたつにしたがって、その行為が侵略であった、という全く想像もしなかった逆の評価にされてしまったわけである。
終戦によって、価値観が逆転した中で、一家を支える主人が、一生懸命仕事していれば子供は親の後ろ姿を見て、素直に成長してくれるであろうと思うと、それが甘かったわけで、親が無関心であればあるほど、子供は無意味な行為に走るわけである。
1970年代頃までの日本は、まだまだ戦後復興の後をひきずりながらの、戦後復興の後遺症の残る時代で、この時代の特徴としては 親の世代で価値観の転換が行なわれた時期であるということであり、その子女が過激派に走り暴走族に走ったわけである。
その意味では全共闘世代と同じであり、全共闘が革命の成就に失敗したことを悟り、社会に埋没した者は救われるが、埋没しきれず突出したのがこれら過激派の面々であったわけである。
そして知的連帯感が欠落して、刹那的な生き方を選択した面々が、巷の暴走族となったわけである。
わたしも一男一女の親として、息子や娘が過激派になったり暴走族になったりしたらどんな気持ちがするのか想像も付かないが、彼らの親というのは、さぞかし苦労をしているのではないかと思う。
おそらく子育ての何処に欠陥があったのか、自問自答しているに違いない。
過激派になって無意味な殺生をしてもらっても困るが、暴走族として、夜中に爆音をたてて走り廻ってもらっても、親としてはさぞかし困っているものと想像する。
唐突であるが、過激派の一部である日本赤軍派の面々が日航機を乗っ取って北朝鮮に亡命したり、成田闘争の真っ最中の中で、1970年、昭和45年、三島由紀夫が自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺を遂げるという事件ほど不可解な事件もない。
これも無意味な行為という他ないと思う。
本人以外たいした被害もなかったのは不幸中の幸いであるが、三島由紀夫の割腹自殺というのも、これほど無意味な行為もないと思う。
この時代の世の中が騒然としていたことは否めないが、それと割腹自殺という関連は何ら繋がるものはないわけで、彼の義憤が左翼勢力の蔓延だったとしても、それと彼の自殺とはいささかも繋がる要因はない。
彼が自衛隊を巻き込んで本当にク−デタ−を計画していたとしたら、これは過激派の面々と同じレベルの世間知らずというか、現実を知らないというか、陳腐としかいいようがない。
過激派の面々も、日本の社会というものを知らず、自分達が純粋な気持ちになればなるほど、世間から乖離している事を知らずに、過激な行動を繰り返していたわけであるが、この時点で、著名な文学者としての名声を博していた三島由紀夫も、彼らと同じレベルでしかないということである。
過激派の面々も、三島由紀夫も、現実の日本社会が精神的な汚染にまみれていることに我慢がならなかった、という彼らの心情は理解出来ないでもないが、だからといって、過激な行動に走っていいわけはなく、自衛隊を巻き込んでク−デタ−を起こしていいという理由にはならない。
過激な行動、社会に迷惑をかける行為、ク−デタ−で、世の中、特に、日本社会が変わると思うほうが陳腐な発想であり、子供じみた幼児思考である。
このころ、マスコミの論調というのは、とにかく政府を攻撃し、自民党を攻撃し、権力を否定することが流行であったわけで、それをそのままストレ−トに鵜呑みをすると、如何にも世紀末が近いような気がして、日本は堕落一方に転がり込むような気持ちにさせられるが、これはマスコミ業界が、高度経済成長に浮かれて、業績を上げるための作戦であったわけで、一般庶民や、大衆と称せられる人々は、黙々と仕事に励んでいたわけである。マスコミの報道を素直に、かつストレ−トに受け入れると、今言ったように、日本の将来は暗澹たるものに見えてくるので、この辺りで、誰かが世直しをしなければ、という事になるが、日本の大衆はなかなか強かな生き方をするもので、マスコミの報道を鵜呑みにして、将来を嘆いている人はいないわけである。
過激派の面々は、若い世代ということもあって、世間の動向に疎いところがあったとしても、三島由紀夫ほどの文学者ならば、人間研究という点では、若い世代とは比較にならない研鑽を積んでいなければならないはずである。
文学者というのは、特に、三島由紀夫のような純文学のジャンヌの人は、人間研究が出来なければ良い作品が生まれないわけで、三島由紀夫の作品は、その意味からしてもかなり純度の高い作品であるが、その著者がク−デタ−騒ぎを引き起こすというところが如何にも唐突で意外な気がしてならない。
社会を見る目があまりにも純粋すぎて、現実の社会に何とも忿懣やるかたなかった、という点では同情を禁じ得ないが、自衛隊を巻き込んだク−デタ−という発想にはどうしても結びつかない。
彼は想像するところ、恐らく非常に律儀で、自衛隊のような規律正しい生活に一種の憧れを抱いていたのではないかと思う。
それを具現化したものが彼の率いる「楯の会」という組織であったのではないかと思う。そして、その会員が自衛隊に体験入隊することによって、彼らが新しい日本の礎になる事を夢見ていたに違いない。
こういう発想に陥る事自体がきわめて純粋な精神構造の持ち主で、我々、一般大衆というのは、ここまで純粋な気持ちになる前に、現実に妥協して、安易な方便で、その場その場を掻い潜ってしまうわけである。
三島由紀夫が本気で自衛隊をク−デタ−に引き込もうとしていたら、彼は自衛隊というものの本質をあまりにも知らなすぎると思う。
自衛隊を知らないという点では彼だけを責めるわけにはいかず、日本の大部分の有識者というのは、自衛隊というものを真に理解しているとは云えないと思う。
自衛隊に好意を寄せている人も、嫌っている人も、その両方が、自衛隊というものの本質を知らず、盲が像をなぜているような評論をしがちであるが、その共通した根拠は、旧の日本軍を念頭において話をするところにある。
今年の1月に阪神で大地震が起きたとき、自衛隊の出動が遅かった、ということで問題になって、もっか自衛隊が自治体の要請がなくても出動できるマニアルを作ろうとしているが、これは自治体の首長が自衛隊に非協力的であるが故に起きた問題であって、自衛隊が自主的に行動するマニアルなどは本来不必要なことである。
災害派遣に関して、自衛隊は自治体の首長の出動要請がないことには一歩も動けないという事は、現行の自衛隊法できちんと決まられたことで、自衛隊側は、きちんと法規に基づいて行動しようとしていたわけである。
問題は、自治体の首長が素直に自衛隊の支援を受ける気持ちさえあれば、何ら差し支えなかったわけである。
そういう自衛隊の基本的任務に関して、自治体の首長の側が知ろうとしないところに問題があるわけである。
自衛隊が自主的に行動するマニアルなどは、シビリアン・コントロ−ルを否定する以外のなにものでもないので、そんなものこそ不要である。
PKOの問題に関しても、我々、戦後の日本人というのは、軍事、軍備、治安、戦争、紛争、武力行使という、主権国家の根源にかかわる問題をあまりにも蔑ろにしてきたが故に、自衛隊の一挙手一投足に神経過敏になっているわけである。
そういう意味で、三島由紀夫が安易に自衛隊がク−デタ−についてきてくれると思っていたとしたら、あまりにも自衛隊というものの本質を知らなすぎるということが云える。
ただ表面上の、制服を着た自衛官のみを見て、昔の2・26事件の時の下士官のように、ク−デタ−が起こせると思っていたとしたら噴飯ものである。
戦後の日本が、日米安保体制のもとで、軍事費というものをGNPの1%以下でやってこれたというのも、アメリカの核の傘のしたで、安穏と経済成長のみに現を抜かすことができたからに他ならない。
そういう環境下で、我々は、実は、平和ボケという現象に陥っていたわけである。
主権国家でありながら、独立自尊という気概を見失ってしまったわけである。
この時期、東京、横浜、名古屋、大阪という主要都市の首長は、ことごとく革新知事や市長が誕生して、平和、平和の大合唱であったわけである。
世はまさに革命前夜という状況であったわけである。
戦後日本の民主主義の中で革新という言葉の意味とその意義というものは、一体、どういうものであったのか?不思議な気がしてならない。
三島由紀夫の憂いもそういうところにあったのではないかと思う。
こういう状況下で1972年、昭和47年、横井庄一軍曹、1974年、昭和49年、小野田寛朗少尉が発見され救出されたが、この二人の旧日本軍の軍人は、旧帝国軍人の鑑ではないかと思う。
横井さんと小野田さんは、その立場の違いがなさしめたことだとは思うが、その出現のしかたが対照的であった。
特に、小野田さんは、ぼろの軍服を着ていたとはいえ、立派な敬礼と任務遂行をやり遂げたという自信に満ちた、威風堂々という態度で出現したことに対して心から敬意を表したい。
日本には昔か「三つ児の魂百まで」という諺があるが、旧陸軍中野学校の教育をこれほどまでに実践した小野田寛朗という人物には敬服の至りである。
終戦から29年間もジャングルの中で数人の仲間と生活をともにしながら生き延びたという生命力もさることながら、そこには残置諜者という使命を帯ながらの生活であったわけである。
その間に、日本の敗戦も、マッカア−の占領も、朝鮮動乱も、経済復興も、某かの方法で知ってはいたに違いないが、それでも出て来れなかった背景には、残置諜者という国家から与えられた使命があったからに他ならないと思う。
戦前・戦中の我々、日本人の先輩諸子は、この国家から与えられた使命に基づき、中国戦線で戦い、南洋諸島で戦い、東支那海の藻屑と消えていったわけである。
小野田寛朗少尉の出現は、まさしくタイム・スリップで現代、戦後日本の繁栄の中に、旧帝国軍人が出現したわけである。
「ボロは着てても心は錦」という歌の文句そのままの出現である。
彼の出現の時の挙手の敬礼は、まさしく威風堂々という形容そのままである。
戦後の日本人が失ったものがそのまま再現したような雰囲気を感じさせるものである。
彼にとっての終戦は、1974年、昭和49、3月10日、元上官の命令によりルパング島の山をおりた時であったわけである。
それまで、彼にとっては戦争が継続していたわけである。
戦前・戦中の我々、日本人の先輩諸子は、すべてこの小野田寛朗少尉と同じ心境でいたわけであるが、それが終戦の玉音放送を直接、間接に聞いた同世代の日本人は、その後の心的構造が支離滅裂になってしまったわけである。
こういうことを漠然と考えみると、そういう我々、日本人の心的変化には、マスコミの影響が大きく作用しているということにならざるをえないと思う。
戦前・戦中の軍国教育もマスコミの影響が全く無かったということは言いきれないが、当時は、マスコミの手段方法がいかにも未熟で、戦後の日本の状況とは比較にならなかったわけである。
しかし、戦後の民主化の中で、マスコミの媒体そのものが多様化した中で、我々、日本人は、何を言っても許され、何を書いても許され、何をどういう風に表現しても許されるという状況を作り上げてきたわけである。
しかも、そういう環境を自ら作り上げたわけではなく、占領政策という、外国の保護と指導のもとで言論の自由という権利を確立したわけである。
そういう環境のもとで、我々、国民各階層の発言は、堰を切ったように、百家争鳴の感を呈しているわけである。
こういう状況下で、日本の知識人というのは、我々の将来を共産主義国家に向かわせようという意図のもとに民族古来の本質を歪曲し、マルクス主義歴史感で塗り固めようとしていたわけである。
しかし、共産主義国家の実態というものが判明してくるに従い、その運動方針に自信を持てなくなった結果が今日、平成の世になって無党派の出現ということであろうと思う。
我々として憂慮しなければならないことは、その時々によって、我々は民族として、ある時は軍国主義に雪崩を打て傾倒し、ある時は共産主義に雪崩を打って傾倒する、という民族的性癖にある。
戦後の日本が共産主義国家にならなかったのは、ある意味で、マスコミの影響でもあり、戦後の民主化の効果でもあったわけである。
戦後のあらゆる闘争の中で、革命が成就出来なかったのは、我々、日本国家には、銃という武器が市中に出回っていなかったことが最大の理由であろうが、その前に、マスコミの報道を自分の判断で解釈できる、という民主化の前提があったからに他ならない。
小野田少尉の出現が、私の目に新鮮で、尚且つ、旧帝国軍人の亡霊のように見える。
彼の29年間にも及ぶ密林での生活という事を考えると、彼をあらゆる情報から隔離していたわけで、彼にとっては、戦後の我々のように、幅広い考え方の中から、自分にあったものを選択する余地が存在しなかったわけである。
それ故に、彼にとっては、戦中に受けた教育がそのまま継続しつづけたわけであるが、ある意味で、頑固、頑迷という形容も成り立つであろうが、その前に、マスコミによる情報の存在ということが人間の思考に大きく作用するということである。
人が他の動物と異なるところは、社会的生活を行なうという点であろうと思う。
この社会的生活という中には、国家という概念で自分のアイデンテイテイを確立するということも含まれていると思う。
国家というものは、人間が空想で打ち立てた概念にすぎず、今国連に加盟している国が
180以上あるといわれているが、その全てが架空の概念の産物であり、自然界に存在する実体ではないわけである。
そして、その概念中で生きる人間に対しては、架空の概念が使命を期待するわけである。架空の概念の使命に応えるために、人々は過去何回となく戦争を繰り返してきたわけである。
国家という架空の概念が意志を持った時が人類の危機であるわけである。
太平洋戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、すべからく国家という架空の概念が意志と意志をぶつかり合ったときに起きているわけで、人は国家の意志に沿うことを名誉という価値観に置き換えているのである。
これは地球上に存在する180各国以上に主権国家にとって普遍的なことで、国家という自らの所属する架空の概念の意志に沿うことは、人としての道として立派な行為であるという認識に立っているのが世界的な心的風景である。
ところが、我々、特に、戦後の日本人には、こういう心的風景はみられない。
我々にとって国家というものは、国民を救うものであり、福祉を施すものであり、弱者を救済するものであるというわけで、国家に「打ち出の小槌」を期待するわけである。
これは甘え以外のなにものでもない。
小野田少尉という人は、大日本帝国という国家の意志に最後まで忠実に服した最後の人であったのではないかと思う。