昭和の終焉

 

東西冷戦の終焉

 

日本の昭和という時代は1989年に終わった。

日本では、高度経済成長とそれに続いたバブル経済の中で天皇が崩御され、その後に暗い影が忍びよってきたわけである。

1989年という年は、日本ばかりでなく、世界的に見ても大変動の起きた年であった。1月7日に天皇崩御があり、同じくリク−ルト事件が発覚し、4月には中国で天安門事件が起き、12月3日にはマルタ会談で東西冷戦の終決が宣言されるという具合に、世界中にとって激動の年であった。

中でも地球規模でものを考えた場合、一番の感心事は、東西冷戦の終決ではないかと思う。東西の冷戦というのは、第2次世界大戦の最中から始まっていたといっても過言ではない。

それはトル−マン大統領とスタ−リンの確執から生じたことで、第2次世界大戦の目鼻がついた時点で、スタ−リンの帝国主義的領土拡張に原因がある。

戦後処理にあたって、日本に落とされた原子爆弾でさえ、ソビエットに対するデモンストレ−ションであった、という発言まで飛びかう今日この頃である。

そしてソビエット連邦の指導者スタ−リンは、日本の北海道に領土的野心を持っていたわけで、そこに東西冷戦の要因が既に含まれていたわけである。

全地球規模で眺めた場合、共産主義国家というのは、西洋先進諸国に比べ、比較的低所得、文化的レベルの低い地域で革命が成就し、知的レベルの高い地域では革命が成就しえなかったわけである。

そういう見方をすると、共産主義というものは、人々を統治する手段にすぎず、他の主義主張というものは、生き方の選択であったわけである。

統治するという言葉の中には、人が人を管理するという意味が含まれているが、戦後、我々、日本人が享受してきた自由民主主義という言葉の中には、人が人を管理するというニュアンスは乏しく、人は自らの社会を改良するというニュアンスの方が強かったような気がしてならない。

旧ソビエット連邦や中華人民共和国という共産主義国家を見た場合、その国の主義主張をそのまま具現化した姿を見ることは出来ず、共産党という党の独裁という側面のみが目に見えてくる次第である。

これはある意味で、諾なるかな、という面がある。

共産主義国家の特徴として、人民は統治すべきものであって、政治に参加すべきものではないという前提が潜んでいたからに他ならない。

もっと解りやすく言えば、党が人民を差別して、党は政治を行なうものであり、人民は統治されるべきものである、という前提で社会が成り立っているということである。

言い方を変えれば、共産党が人民を差別して、政治は共産党員のためのものであり、人民は統治され、管理され、国家に服従すべきものであり、共産党は、人民を指導する立場にあるという優越感に他ならない。

共産主義というのは元来、労働者の開放、農民の開放、低所得者の開放ということを掲げ、人民の限りない平等かをめざすのがこの考え方の基本の部分になっていたはずである。しかし、人間の織り成す社会というのは、人間の基本的な煩悩に支配されやすい側面があり、共産主義で人民を支配、管理しようとする側の人間が、この人間古来の煩悩から開放されないかぎり、支配、管理される側の人民の民主化はありえないわけである。

こういう状況が出来上がった背景には、共産主義国家の成立の地域が、文化文明の恩恵によくす機会に恵まれない、無学文盲の多い地域であったればこそ、共産党は、人民を騙し続けて来れたわけである。

もう一方の陣営である資本主義体制というのは、多様性に富んだ考え方を容認することで、人々の幸福の追求が、個人レベルで可能な地域であった。

人々は個人の煩悩に従い、自由に生き方の選択が出来る社会であったわけである。

生き方の選択が自由に出来る、ということは人々の心に大きなインパウトを与えているわけであるが、個人がその社会に埋没してしまうと案外、その重要性が忘れられがちである。人々は、自分の住む社会が全地球であり、全宇宙であると思いがちで、井戸の中の蛙になりがちである。

しかし、今日の科学技術の発達、特にマスコミの発達というのは、国境を越え、主義主張を越え、否応無しに押し掛けてくるわけで、隣の村、隣の国、海の向こうで何が起きたのかは、本人の意思とは関係なく伝わってくる。

このような情報の多彩化、量の多さ、多様化というものが、共産主義国家の精神的な鎖国の状態を続けることを不可能にしたわけである。

旧ソビエット連邦を見ても、1917年の革命以来の共産党の一党独裁では地球の1/3の地域を支配、管理することが出来なくなったわけである。

それが出来なくなった背景というのは、紛れもなく東西冷戦による、限りない軍拡競争である。

アメリカも、旧ソビエット連邦が何時攻撃を仕掛けてくるかわからないという潜在的脅威で以て軍拡競争をしてきたわけであるが、西側陣営というのは、同盟を結ぶことにより、軍拡のコストを分散させることが可能であったが、旧ソビエット連邦というのは、それを一国で背負わなければならなかった。

共産主義国家同志として、ソ連と中国が手を結び、お互いに協力しあえば西側陣営としてはそれこそ脅威であったろうが、この両国がお互いに不信感をつのらせていたので、その状態は短期間で終焉してしまったわけである。

共産主義というのは、潜在的に領土拡張主義を内在しているので、隣り合った共産主義国家同志というのは、平和的な共存ということはありえないと思う。

共産主義が領土拡張を内在しているということは、物理的な土地の拡大という意味ではなく、主義主張の正当性を維持するための覇権主義に他ならないわけで、隣り合った共産主義国家間では、地域紛争が絶え間ないわけである。

隣り合った共産主義国家間では覇権争いになりがちであるが、これが主義主張の違う地域への進出となると文字通り革命の輸出ということになる。

北朝鮮、北ベトナム、アフガニスタンというのは、この革命の輸出の結果であって、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン紛争というのは、革命の輸出に対する抵抗のあらわれである。

独立した主権国家の主義主張というのは、その国の国民が決めればいい事ではあるが、アメリカを盟主とする西側自由主義陣営にとっては、その国がどちらの側に転ぶのかは版図の塗り替えにかかわってくることなので無関心ではいられないわけである。

共産主義陣営と自由主義陣営の対立という構図で、第2次世界大戦後の世界を眺めてみると、共産主義陣営の領土拡張主義というのは成功を収め、それを守るという意味で、アメリカを盟主とする自由主義陣営は、限りなき後退を余儀なくされたという感がある。

しかし、今日、1995年という時点で眺めれば、共産主義の領土拡張主義そのものがソビエット連邦共和国を弱体に向かわしめたという風にも受け取れる。

領土拡張主義を維持し、それをするために限りなく軍拡を行ない、その軍拡が、国民の生活を圧迫し、共産主義そのものが雨散霧消してしまった、とみなしていいと思う。

ソビエット連邦の革命が1917年、中国共産党が政権について中華人民共和国が出来たのが1949年、この間約30年のタイム・ラグがあるが、中国が民主化されるのは30年もかからないのではないかと思う。

1989年の天安門事件というのは、既にその兆しであるが、中国というのは、太古の歴史では先進的な文化を擁立した歴史を持っているわけで、民族としても非常にバイタリテイ−に富んだ人々で成り立っているので、そう何時までも共産主義でいられるわけがないと思う。

中国が共産主義国家になるという事自体が本来は不思議な事で、その意味からすれば、国民党の承介石の施政がよほど拙かったと云う事が言えると思う。

国民党の承介石も、共産党の毛沢東も、同じ民族、同じ国民を支配、管理していたわけであるが、承介石が毛沢東にそれを許したということは、彼のやり方が稚拙だったという他ない。

民主主義というのは自由、博愛、平等というフランス革命の精神を引きずっているわけであるが、地球上に180以上もある主権国家の中には、民主主義でない国も多数含まれている。

共産主義も、同じように自由、博愛、平等と旗印にしているが、その前に労働者の、プロレタリア−トの、という前提がくっついているわけである。

しかし、同じような旗印を掲げていても、その実施の仕方に雲泥の差があるわけで、我々の陣営では、国民が政治に関与する自由が保障され、弱者をいたわる博愛精神が鼓舞され、人は皆平等に生きる権利が保障されているわけであるが、共産主義の陣営では、共産党員がこの旗印を反古にしているわけである。

この旗印は革命を成就するまでのスロ−ガンであって、革命が成就したあとは、共産党の指導ということが前面に出てくる以上、過去のスロ−ガンは風化してしまったわけである。戦後の日本のインテリと言われる人々は、この部分を思い違いをしていたわけで、共産主義というものは、革命の後で自由、博愛、平等を実践するものだと思っていたようであるが、旧ソビエット連邦や、中華人民共和国の実態を見れば、そうではないことが歴然としている。

主権国家として次世代の要員を確保するために教育を重視することは洋の東西を問わず普遍的なことであるが、共産主義国家も、必然的にそのような過程を経るわけで、その結果として知識人が増え、知識人が増えると体制批判が出、体制批判が出ると、それに対する弾圧か容認かというジレンマに立たされるわけである。

戦後の日本では体制批判は日常茶飯事で、体制を批判しない人間は人であらずという感があるが、共産主義国家ではそうではなく、体制批判は党の批判につながり、党に対する批判は、国家反逆罪につながるわけである。

教育の向上により、人々が知識欲に飢えるようになると、必然的に自らの国家に対する批判が出てくる事は歴史の流れであり、これは誰しも止める事は出来ない。 

天安門事件というのは、その顕著な兆しであり、東西冷戦の終焉は、共産主義の壮大な実験の終了であったわけである。 

 

脱皮を繰り返す日本

 

1995年平成7年6月9日、日本の国会の衆議院で次のような決議文が議決された。

  「本院は戦後50年にあたり、全世界の戦没者および戦争等による犠牲者に対して追   悼の誠を捧げる。

   また世界の近代史上における数々の植民地行為や侵略的行為に思いをいたし、わが   国が過去に行なったこうした行為や他国民、特にアジアの諸国民に与えた苦痛を認   識し、深い反省の念を表明する。

   我々は過去の戦争についての歴史感の相違を越え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和   な国際社会を築いていかなければならない。

   本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念のもと、世界の国々と手を携えて、人   類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。

   右決意する。」

この文言の中には、日本が過去にアジアで行なった侵略行為を反省していることをそこはかとなくほのめかしているが、これでは中国も韓国も納得するものではないと思う。

その表現を曖昧にぼかす、というところに今の日本の政府の姿勢が浮き彫りにされているわけで、そもそも歴史認識の違いというものは、民族の歴史を克服できないのと同様、同じ歴史感の上に立って物事を処すことは出来ないことである。

人類の歴史というのは、所詮、弱肉強食の歴史であって、それが自然の摂理であったわけである。

ところが、第2次世界大戦後の世界というのは、弱肉強食の態様が変わってしまって、何が強くて何が弱いのか、という価値基準がわからなくなってしまったわけである。

アジアの片隅の4つの島でしかない日本が世界で2番という経済力を誇り、ロシアや中国を経済的に援助するという状況や、アメリカが日本と貿易戦争をしようとしていることや、中国が世界中の非難の中で核実験を行なう、という状況をふまえて主権国家の強弱の基準というものがなくなってしまったわけである。

かって、世界の主権国家は、経済力と軍事力というのはバランスがとれており、経済力がある国は軍事力もある、と思われた時代があったが、昨今の状況は、これが一致しなくなってしまったわけである。

日本のように経済力は突出しているが、軍事力はゼロに等しい国から、軍事力のみで、国民は食うものも食わずの国まで存在するわけであり、こういう状況なればこそ、一国のみで祖国防衛をするということが意味をなさなくなってしまった。

だからこそ、集団安全保障という問題が派生してきたわけである。

日本がアジアの人々を圧迫した時代というのは、先の時代のことで、ある意味では、歴史の流れに押し流された結果であると思う。

そういう事例に対して、「反省する」といったところで意味をなさないと思う。

我々がいくら反省したところで、死んだ人間が生き返るわけでもなく、いくら金をばらまいたところで、インフレを引き起こすのみで、今を生き、将来も生き続ける人々に対して、償いにはならないと思う。

人は過去の歴史を何時までも恨みに思うのではなく、将来に向かって、自ら率先して夢を持つことを、人としての生きがいにしなければならないと思う。

戦後の50年という歳月は、我々は、戦火の後の「無」の状態から立ち上がったわけで、それと同じ事をアジアの人々に強要するつもりもなく、我々の先輩のした行為を忘れてくれというつもりもないが、我々の仲間、あの戦争でなくなった同胞のしたことが侵略であったということになれば、彼らの魂は浮かばれないのではなかろうか。

戦後50年目の決議は、即ち我々同胞の問題である。

我々の同胞および我々の先輩諸子は、天皇陛下のために、アジアの人々に苦痛と困難を与えたのであろうか。

日本の行なった朝鮮と台湾の植民地政策というものは、日本の為にのみ行なわれた行為であったろうか。

あの時代の朝鮮の人々、台湾の人々は、搾取される一方で、日本の恩典の浴したことは皆無であったろうか。

朝鮮、中国の人々が、日本の強制労働のことを話題にしがちであるが、あの時代に、我々、日本人は、彼らに労働だけさせて酒池肉林の遊興に耽っていたであろうか。

我々、日本人も、月月火水木金金で、それぞれの立場持ち場で個人の任務を全うしていた事を彼らは知らなかったのであろうか。

弱肉強食の赤裸々な民族の対立をストレ−トに容認する時代ではないが、少なくとも50年前の時代は、そういう要因を含んだ状況であったわけで、それを戦争犯罪という言い方でいう人もいる。

戦争は政治の延長である、という見方がある一方で、犯罪であるという見方が成り立つ根底には、民主化という要因が大きくかかわっていると思うが、その事自体は、共産主義国家なり社会主義国家ではありえない事で、民主化という状況下では、国民がその国の政府を非難、誹謗することが言論の自由という前提で容認されているということである。

中国の天安門事件というのは、そういう民主化の波を、共産党の指導者が弾圧したということである。

日本やアメリカの知識人というのは、祖国という概念が希薄なるが故に、自らの政府を誹謗して自由を謳歌しているが、この広い地球には、その事が国家反逆罪になる国があるということを忘れ、自らの国の基準が世界各国に共通して通と思い込んでいるわけである。国家に対する誹謗が「善」であるか「悪」であるかという判断は、社会の体制によって決まるわけであり、その事は、一つの行為に対して、価値判断が逆転しているということである。

すると、この両者がいくら話し合ったところで、何処まで行っても価値判断は平行線のままで、妥協の余地がないということである。

戦争という行為が、国家の主権の具現化した行為として、国家的犯罪であるかどうか、または祖国愛に満ちた愛国精神の発露とみなすかどうかは、その国の社会体制によっ決定されるわけである。

すると、日本の知識人の価値判断というものは、世界的な状況ではきわめて特異な珍しいものといわざるをえない。 

我々、日本という国は、全地球規模で眺めた場合、きわめて特異な国に映っていることは否めない事実で、そういう状況下で、日本の知識人の発言というのもその範疇の一つにすぎない。

歴史への反省ということは理念の上ではいくらしてもいいが、それに具体的な行為や、金銭的な保障や、内政干渉に値するような近隣諸国の発言というものを我々は警戒しなければならない。

弱みを見せると舐められるという現象は、人間の集団にはついて回ることで、これは個人の間でも集団としての国家の場合でも同じである。

しかし、礼節を知った人間はさほど露骨には表現しないが、心の底ではやはり深層心理としてそういうものが流れていると思う。

共産主義国家というのは、その意味でも礼節のない国で、あるのは人間古来の煩悩の支配する国であるところが不思議でならない。

共産主義が暴力を肯定しているということは、人間の煩悩に忠実であるということで、これは、共産主義の目指している究極の目的と、それを実践しようとする人間は別のものであるということに他ならない。

もし仮に日本がこういう社会であったとしたら、国民が自らの国家、政府を誹謗することが許されるであろうか。

天安門事件というのは、こういう行為を封じ込めようとした行為であったわけで、戦後、日本の知識人が、反政府、反体制、反自民、反権力というポ−ズを取り続けたこと事は、国家体制の違う国ではどういう風に受け取られのであろう。

これもひとえに日本政府が民主的な政策を実践してきたからこそ許される事で、彼らの熱望する共産主義国家ではありえない事を彼らは享受しているわけである。 

民主主義国家では意見の対立ということが容認されていることは周知の事実であるが、その中で、国民のコンセンサスという言葉が一人歩きしている感がある。

「全国民のコンセンサスを得る」という風に使われているが、こんな事が実現するとすれば、それこそファッショ以外のなにものでもない。

戦後50年というもの、我々、日本人というのは、今回の衆議院における議員決議に見るように謝ってばかりであった。

我々は何故に謝ってばかりいなければならないのであろう?

戦争をしたからか?

植民地支配をしたからか?

強制労働をしたからか?

アジアの人々を多数殺したからか?

これらのことはすべからく我々の先輩諸子が行なったことには違いないし、我々、同胞が軍国主義に陥っていた事も事実であろう。

しかし、そういう事実を踏まえて、1945年のポツダム宣言の受諾と、それからの連合軍の占領政策と、その後のサンフランシスコ対日講和条約というのは一体何であったのであろうか?

この一連の日本に関する流れの中で、かっての連合国、ソビエット連邦、中華民国、イギリス、フランス、オ−ストラリア、オランダ、アメリカという国々は、戦後の日本を、たった4つの島に閉じこめてしまった以上、日本の再興はありえないと判断していたに違いないと思う。

従来の戦勝国というのは、敗戦国から賠償金を取り立てるのが常識であった。

この賠償金問題が、第1次世界大戦後のドイツにヒットラ−を出現させる要因の一つになったわけであるが、我々、戦後の日本にとっては、この賠償金の支払いということを免除されたり、寛大な処置が行なわれたことを我々は肝に命じなければならない。

が、しかし、旧連合国の寛大な処置に甘えて、その後の50年間の日本の復興というのは、あまりにも経済大国になりすぎたのではないかと思う。

賠償金の問題に関しては、旧連合国の間で、既に米ソの対立が内在化し、東西の冷戦が始まろうとした矢先において、アメリカが指導権を発揮して、アメリカの指導のもとで、日本の復興が計られたことによるものを思う。 

ポツダム宣言の受諾から始まり、その後の連合軍の占領政策と、サンフランシスコ対日講和条約という流れの中で、旧連合国の側では、日本を、焼け野原で、何もない4つの島に閉じこめた以上、日本の復興はありえないと思い込んでいたのかもしれない。

我々自身、日本の再起は不可能と思い込んでいたわけで、50年前、日本が世界でアメリカについでの経済大国になるということが信じられなかった。

50年前に、そういう思い込みが旧連合国の側にあったればこそ、賠償金の問題に関しても寛大な処置を許したものと思う。

その意味からすれば今日の我々は、アジア諸国をはじめ、世界各国の人々に感謝の気持ちを表さなければならないが、戦争を犯罪として、その犯罪を侵したという意味合いから謝罪する、という問題とは少し異質のことではないかと思う。

先の衆議院の議決の宣言に関しても、世界各国が日本に対する賠償金に関して寛大な処置をしてくれたことに対する感謝の気持ちというものは微塵も表れていない。

そうい事は忘れておきながら、金持ちの国となった今の立場から出た戦後50年の議決であったとしたら、アジアの国があの決議を嘲笑する気持ちが理解できる。

あの決議文が50年前の日本の発言だとしたら、あれはそのまま容認されたであろう。

50年前、世界各国が日本に対して示した寛容の精神に対する感謝の気持ちを我々は忘れてならないと思う。

その意味からすると、我々は世界のあらゆる地域に金をばらまいてもいいわけである。

すると戦後一貫して政府、自民党の行なってきた諸外国に対する経済援助というのは、意義のある行為であったということになる。

私の生まれたのが昭和15年で、私の成長は、日本の復興と軌を一つにしているわけであるが、50年前、弟を背負い、破れた衣服を纏い、青鼻をたらして、野原を駆け巡っていた頃、日本がアメリカと肩を並べる国になるとは想像も出来なかった。

我々より前の世代の日本人ならば誰しも同じ感慨であろうと思う。

ということは、世界的な視野で眺めれば、旧連合軍の人々も同じような気持ちでいたに違いない。

あの1945年、昭和20年の日本の状況を見れば、誰しも思うことは同じで、日本の復興は、20世紀中には無理であろうという考え方が一般的で、かつ普遍的であったわけである。

ところが我々の同胞の祖国復興の槌音は、そういう人々の予想をはるかにしのぐ勢いで達成されたわけで、第2次世界大戦で、息もたえだえの国であるべき日本が、ソ連をもしのぎアメリカと肩を並べる経済大国になってしまうと、アジアの人々は、心中面白くないわけである。

その気持ちが今頃になって日本の「過去を謝罪せよ」という要求になって表れているものだと思う。

そういう声に少しでも応えようというのが今回の衆議院の議員決議であったと思うが、戦後50年という大転換期における決議文としてはいささか迫力にかけていると思う。

もっとも、自民党と社会党の連合という条件のもとで、迫力ある決議文というのはありえないことであるが、日本の歴史には、ありえないとがしばしば起こり得ることがあるわけで、その一つが紛れもなく自社連立内閣の誕生であった。

ありえないことが起こったり、あってはならないことが起きるのが歴史というもので、その意味からすれば、この年の東西冷戦の終決というものも、我々の認識からすれば、唐突な出来事であった。

我々の認識からすれば、東西冷戦というのは、永遠不滅に平行線のままであり続けると思われており、共産主義国家というのは、いづれ素晴らしいユ−トピアが実現するものだという認識であった。

ところがそれは夢物語となり、ソビエット連邦というのは空中分解してしまって、自由主義陣営の援助を仰ぐという状況に陥ってしまった。

旧ソビエット連邦が崩壊して自由主義陣営の援助が必要である、という構図もおかしなことで、まさしくありえないことが起きたわけである。

かっての彼らの目からすれば、資本主義体制、自由主義体制というのは敵であったわけで、それに対抗するために不必要な軍拡を行なった挙げ句が、我々の側に援助を請うという有様は、不思議さを通り超して、不可解な思考であるといわなければならない。

今まで、陰日向で、革命の輸出に奔走しておきながら、自分達の生死が直接脅かされる状況に陥ると、手の裏を返したように援助を要求するという神経は、我々には理解しがたい神経である。

それでいて北方4島の返還は頑なに拒み続け、援助だけくれという神経は、我々には理解しがたいことである。

全地球規模で眺めた場合、日本人の認識が通らない状況というものは多々あるわけで、アメリカとの自動車に関する貿易摩擦もそのよい例である。

そういう問題も、日本があまりにも急激に経済大国になってしまった事に対する嫉みの気持ちを内在していると理解すべきだと思う。

日本が50年前と同じ姿形をしていれば、こういう問題は起きなかったに違いないが、そのことをいくら反省したところで、我々にはどうしようもない。

わが日本民族というのは、逆境に立たされると、それ以上に強くなるようで、戦後の我々の発展段階というのは、逆境の度毎に、一つ一つ脱皮して強くなったようなものである。実に魔言可不思議な人間集団である。

世界各国が、日本の経済発展を妬んで、日本を窮地に陥れたいと思ったら、日本の言うことを素直に受け入れて、日本を絶対に逆境に立たせないこである。

日本を逆境に立たせるようなことをすると、ますます日本は強くなってしまうのである。そのことに気が付いている世界の指導者は見当らないが、日本の戦後復興の奇跡は、それを如実に示しており、日本の明治維新も、そういう環境下での、日本の成長の姿であったわけである。

今、日本を一番苦しめていることは超円高の嵐である。

これによって日本の製造業は壊滅的な打撃を受けて、産業の空洞化が進行しつつあるが、日本をそういう立場に追い込むと、またまた世界は日本の脅威に曝される事になる。

日本の発展というのは、一人や二人の指導者のもとで行なわれるのではなく、民族が一丸となって、それぞれの暗黙の了解のもとで、個々の人々が勝手に行動しているにもかかわらず、結果として「日本人の」という言葉で総括されてしまうわけである。 

超円高というのは、日本内地での製造業というものを壊滅的にしてしまい、その後に勃興してくるのは、当然、第3次産業であろうと思う。

三菱銀行と東京銀行が来年4月を目処に合併するというのも、そういう流れの前触れのような気がしてならない。

この両行は、バブル経済での不良債券を抱えての債券処理のための合併ではなく、健全経営同志の合併であるところに注目すべきである。

超円高というのは、デメリットばかりでなく、それによってメリットの出る企業もあるわけで、輸出関連企業は苦難の道を歩まざるをえないが、輸入関連企業にはメリットばかりで、これは輸入品に頼りきっている国民にとっては朗報である。

輸出産品というのは、国内の消費者には何ら関係のないことであるが、輸入品というのは、直接国民の生活に直結している。

輸出に頼りきている自動車業界は苦しいであろうが、そのガソリン業界は、円高のメリットは十分のあるわけで、国民の生活というのは、その大部分を輸入品に頼り切っているわけである。

国内の製造業が倒廃業を強いられたとしても、海外に生産拠点を移し、そこから輸入するということになれば、海外への投資という意味からしても、意義のあることだと思う。もともと、国という概念、国家という概念は、人間が思考の中で作り上げたものにほかならず、自然界には存在しないものである。

たまたま日本という国は4周を海で囲まれているので、我々の住むところが漠然と国という概念と一致しているが、全地球規模で眺めれば、人間が集団で居住しているエリアに他ならない。

その中で、人類というのは、様々な利害関係で住み分けているだけのことであるが、この住み分けのエリアを侵した侵さないということが紛争の原因となっている。

しかし、人類の文化が高度に発達してくると、その住み分けも、エリアの存在も、意味をなさなくなるわけで、物を作りやすいところで物を作り、消費する人口の多いところで消費すればいいわけである。

情報や交通機関の発達がそれをますます容易にしてくれているわけで、過去の日本のように、貿易立国などと力まなくても、素直に世の中の流れに身をまかせば済むことである。ここで主権を主張して、日本の産業の保護ということを言い出すと、話が難しくなってしまうわけである。

今日のアメリカの自動車に関する交渉においても、アメリカ車をどんどん輸入させてやれば済むことである。

今、日本でアメリカ車が売れないのは、アメリカ車が我々の欲求を満たしていないわけで、その意味からすれば、完全なる資本主義の原理に則った反応である。

そのことをアメリカに対して主張すべきであると思う。

しかし、その主張を聞くアメリカというのは、50年前の日本の姿というものを忘れていないわけで、そういう背景を考えると、彼らの日本に対する嫉みというのは、簡単には払拭できないと思う。

戦後50年を経過した日本は、世界から奇異な目で見られることは否めない。

それを我々自身が内側から払拭しようとしても、それは我々の民族の根源にかかわることであるので、我々の内側からの改善、改良ということは不可能に近いことだと思う。

だとすれば、何が次善の策かといえば、世界に対して金をばらまく他ないと思う。

 

あ と が き

 

1995年という年は1月の大震災で明けたわけであるが、この年は、戦後50年という節目の年でもあったわけで、正確には8月15日が過ぎないことには、戦後50年という言い方は出来ないかもしれないが、私にとっても特異な年である。

というのは、私も昔ならばこの年に定年を向かえることになるわけである。

自分が定年を迎えるということは、正直なところ想像も出来なかった。

定年を意識しだしたのは、やはり50才という年を経過した頃からである。

はしがきに述べた自分史というのも、最初は、そういうものを意識して書いたわけではない。

ただ単に、ワ−プロに触りたいがために書き綴ったにすぎないことが一冊になっただけのことである。

そして、今回の昭和史についても、大げさな決意でしたためたわけではない。

テレビの報道で、昭和の初期に映像を見るにつけ、そして、天皇制批判の文章に接するに従い、もう少し深く知りたいという好奇心が為せる業で、昭和史というものを最初から意図していたわけではない。 

とくに戦後の時代というのは、私の成長とオ−バ−・ラップしているわけで、戦後の事件、事象というものは、その都度、実感として感じとっていたことを、心に思いつくまま文章にしたまでのことであり、決して研究という行為に値するものではない。

ただ単なる好奇心にすぎないわけで、それでも、これだけの文章を一気にプリント・アウトしようと思うとかなりきつい作業であった。

本を作るという「遊び」も、これで中々大変な遊びで、金を使うという意味ではそうたいしたことはないが、暇を掛けるという意味では結構やりでがある。

私が55才という節目の時に、私の昭和史が出来上がるというのも、何かの因縁であったのかもしれない。

「遊び」とは言うものの、心血を注いだ作品という意味では、私の生涯の宝であり、私の子供達への教訓であり、私の遺産でもあるわけである。

このテ−マは実に重いテ−マで、今後は、もっと気楽な執筆に挑戦しようと思っている。昭和史というのは、色々な出来事に関して、様々な角度から、様々な人々がそれなりに執筆しているので、そうそう目新しいものがあるわけではない。

私の文章は、私の主観を綴っただけの物で、一個人の歴史感にすぎない。

しかし、自分の歴史感を書き留めておくということも、自分なりに意義のあることではないかと、一人悦に入っている次第である。

                    1995年、平成7年6月18日

                                  長谷川 峯生

 

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