世相を切る

             

平成の政変劇

 

1994年、平成6年4月から、企業のリストラの一貫として社外に出向させられたが、その出向先の労働の厳しさ故に、しばらくはワ−プロを叩く元気もなかった。

その上、視力の低下も著しく、活字を全く受け付けなくなったしまった。

新聞も見出し程度の大きさのものは判読できるが、内容の方はさっぱり読めない状態である。

それで7月12日に白内障の手術をすることになったので、それまでの間、ワ−プロに接することを控えていた。

しかし、この間の政情の動きには黙っていられないものがあったので、手術を前にして、悪い目で一筆したためた次第である。  

この3ヵ月の間で、一番、腑に落ちないことは、自社の連立内閣の誕生である。

羽田内閣を政権から引きおろした自民党の言い分は、「少数与党だから国民の民意が十分に反映されていない」という理由であった。

社会党の言い分は、「連立内閣が総辞職しなければ連立内閣に戻ることは出来ない」というものであり、その理由は今一度不明確である。

その前に、民社党の提案した「改新の会」の呼び掛けに、社会党に声が掛からなかったという、子供の喧嘩のような、諍いが元で、社会党は連立から下りたわけであるが、連立与党のなかでは、社会党の議席数は一番多く、その数の原理で、逆に羽田政権を脅しているようなものである。

そして、羽田政権が、自民党が不信任案を提出する気構えを見せた途端に、自主的に総辞職してしまったわけであるが、自民党の云う数の原理で、「少数だから国民の民意が反映されていない」という理屈は、ある意味で説得力があることは確かである、

しかし、数の論理の上で、羽田政権というものが出来上がったわけで、政治というものが政権の取り合に撤していることを如実に示した政治劇である。

国民不在のまま、国会議員が、国会議員の論理で政権盥回ししているようなものである。自民党と社会党が連立を組む、という筋書きは予想だに出来なかった。 

自民党が村山社会党委員長を総理首班に推す、という決定する事自体、信じられない事である。

世の中のことは移ろいやすい、ということは理性としては理解できる。

しかし、戦後、55年体制として、自民党と社会党が連立を組んで一つの内閣を作る、という事態は、我々、旧い頭では考えられないことである。

つまり、こんな結果を見せ付けられると今までの自民党は何であったのか、今までの社会党は一体何でであったのか、解らなくなってしまう。

その端的な例が、海部元総理大臣の自民党離脱という事であり、自民党内で27名の党員が、村山委員長よりも海部元総理大臣を選択する、という現象として表れたものと推測する。

この選択をした人の方が、本当は、旧い意識の持ち主であったのかもしれない。

同じ事は、社会党内でも云えるわけで、久保書記長や赤松らは、自民党との連立には反対の立場を取っていたわけである。

ところが、自らの党首が、首班指名をするかどうかというときに、他の党の候補を推すわけにも行かなかったのは事実であろうと思う。

私の予測では、海部元総理大臣が自民党を離脱して首班指名に立候補した時点で、自民党も社会党も二つに分裂すると思っていた。

ところが蓋を開けてみたら、自民党側に27名の造反議員が出ただけで、社会党というのは、一枚岩のままであったわけで、自社連立の誕生ということになってしまった。

自民党が、内部で変革しているということは、河野総裁がマスコミに強調しているところであるが、自民党というのは、本当に変革をしているのかもしれない。

と云うのは、この時、造反した自民党議員というのは、旧い体質の自民党員で、他の大部分の党員というのは、河野総裁の党議決定を遵守しているわけである。

自民党が、社会党の党首を首班指名に推すことに納得しているわけである。

ここに新しい変革、精神改革、意識改革が出来上がっている、と言えないこともない。

自民党というものを旧い感覚で見ていると、見誤る可能性があるのかもしれない。

同じ事は社会党についても言えるわけで、55年体制のままの社会党だと思っていると、内部では、全く新しい意識が芽生えており、中身がすっかり入れ替わっていることを見落とす可能性もあるわけで、これからは、しっかりと政府の発言を聞く必要があるが、言葉というのは、実に便利なもので、どういう風にも言い逃れることが出来るわけで、その言葉を、よくよく吟味して聞く必要があると思う。

自民党の党議で決まった村山委員長の首班指名に対して、海部元総理大臣は、「党議に従うことは出来ない」といって党を離れたわけであるが、私の予測では、もっともっと多くの自民党議員が、海部氏につづくと思った。

この私の判断の甘さというか、旧い認識というか、こういう認識に立った人は、私の他にも大勢いたに違いないが、それらの人々は、すべからく、時代錯誤というものに陥っていたのかもしれない。

社会党の方も、自民党と連立を組むことに対して、もっと党内での激しい抵抗があるものと思っていた。

だから、当然、左右の対立が激化して、二つに分裂するものと思っていたが、しかし、この私の予測は見事に外れたわけで、そこに時代の流れ、というものが潜んでいたに違いない。

大方の庶民の予想では、この村山内閣は年内までもたないということがささやかれているが、時代の流れというのは、こういう庶民の予想を超えたところにあるわけで、自社連立ということだって、庶民の予想を超えた出来事であったわけである。

大体、人の考えることは、同じようなもので、自社が連立するなどということは、大方の庶民は、考えも及ばなかったに違いない。

私の予測が間違ったということは、大方の庶民も、同じように感じていたに違いないと思う。

だからこそ、「開けてびっくり玉手箱」ということになるわけである。 

そもそも、政党というのは、思想信条を同じくする人々の政策集団であるわけで、自民党と社会党は、相反する考え方をして1955年来きたわけで、政党同志が連立を組んで、国政に関与することは悪いことではない。

従来の図式で言えば、今までの野党の在り方というのは、ある意味でマイナスの連立であったわけで、自民党に対して、対立という形て対抗してきたわけである。

そして、自民党にとってもっとも手強い対抗馬が社会党であったわけで、このライバルとも言える二つの政党が手を組む、ということは驚天動地の出来事である、といっても過言ではない。

そこには、かっての自民党の誇り高き自意識も、社会党の名誉ある反対意見も、影を潜めてしまい、あるのは、ただ単に「政権につきたい」という権勢欲以外の何物でもない。

東西冷戦が終焉し、社会党にとっても、他の政党にとっても、決定的な意見の相違というものが消滅してしまったに違いない。

ソビエット連邦と云うものが消滅してしまい、中華人民共和国も、民主化の方向に向かおうとし、経済改革に手を付けようとしている今日、イデオロギ−のみを振り回しても、生活は良くならないことを人々が悟ったからに違いない。

東西冷戦の終焉ということは、社会主義、共産主義の、壮大な実験が、はからずも終了したということである。

その意味で、日本社会党も、その闘争の基盤とするイデオロギ−を見失ってしまったに違いない。

自民党は自民党で、党内の政治家の腐敗堕落が頂点に達し、これ以上の不祥事は出したくない、という危機感に迫られて、自らの改革に専心した結果が、ライバル党の委員長を首班指名に推す、という事につながったに違いない。

そういう意味からすれば、今回の自社連立内閣というのは、革新的な出来事といえるかもしれない。

自民党が面子を捨てて、社会党の党首を首班指名に推す、社会党が党の拘束を犠牲にしてまで、自民党と手を組むということは、新しい政治の流れといっても過言ではない。

しかし、その結果は今しばらく時間を置かないことにはっきりしないことも確かである。

 

「野合」とは?

 

1994年(平成6年)7月8日から始まったナポリ・サミットでは、村山総理大臣は、晩餐会の途中で倒れてしまい、前途多難が予想されるが、諸外国の首脳から見れば、日本の政治というのは、危なっかしくてならないのではなかろうか。

首相のポストがあまりにも目まぐるしく変わるので、誰の言うことが真実か、つかみきれないのではなかろうか?

日本国内では、政権盥回しで済むかもしれないが、諸外国からすれば、不可解に映っているの違いないと思う。

そして、革新を旗印にする社会党の内閣総理大臣が、外交や安全保障では、従来の政権と同じ事を踏襲する、と言う事ては、何の為の政権交替か、彼らには理解できないのではなかろうか?

政権交替するということは、今までのやり方が悪いので刷新しよう、というのが政権交替であって、従来のやり方をそのまま引き継ぐのであれば、政権交替する意義がないわけである。

こういう常識がに従えば、諸外国から見て、日本の政権交替は、不可解に映るのではないかと心配をするわけである。 

特に、社会党というのは、日米安保体制反対を唱えてきた政党である。

その党首が政権に入れば、当然、日米安保の問題がクロ−ズ・アップすると思うのが外国人にしてみれば当然のことである。

アメリカにとって、社会党というのは、日本の自民党政府と、アメリカ政府の仲を引き裂くようなことを今まで繰り返してがなりたててきた政党である。

アメリカのクリントン大統領ならずとも、日本が、今後、どういう方向に進のか、心配でたまらないと思うのが普通である。

そして、自民党の政府の時でさえ、日本はアメリカの言う事を鵜呑みにしてきたわけではない。

例えば、日米通商交渉などにおいても日本は何かとアメリカに抵抗してきたわけである。ましてアメリカに好意を持っていない社会党の総理大臣が誕生したとなれば、アメリカにとっては、不安でたまらないと思う。

村山総理大臣は、晩餐会の席で倒れる前にアメリカのクリントン大統領とは個別で会談したと報じられているが、その時も、村山総理は、従来の「日米基軸路線を尊重する」ということを述べたと伝えられている。

それでは、何の為の政権交替だったのか、政権交替の意味がないわけである。

ここに自社連立のジレンマがあると思う。

55年体制の意識のままであったならば、自民党は、日米基軸路線を継承するが、社会党は自主路線を打ち出すなり、アジア重視の外交方針にするなり、社会党の独自の方針を打ち出すことによってこそ、本当の政権交替の意味があるわけであるが、今の、自社連立というのは、ただ総理になりたい、ただ単に、安定多数を維持したい、又は、社会党から首相を出すことのみに重点がおかれ、真の政党政治が埋没してしまっていると思う。

これでは、自民党も社会党も、自らのアイデンテイテイを放棄してしまっている。

家内に言わせると、「社会党が騙されている」といっているが、あながち、全く根拠のない事でもなさそうである。 

自社連立といっても、主要な閣僚ポストは 自民党が握っており、比較的当たり障りのないポストが、社会党に割り当てられているにすぎない。

これは、主要ポストには自民党の経験豊かな人材を据えた、ということがあるかもしれない。

しかし、社会党の、大出俊のような、舌鋒するどい人物が、郵政大臣におさまって、これから21世紀に向けて、光ファイバ−通信や、マルチ・メデイアの質疑応答で答弁に立つ図というのは、どうも想像しにくい図である。

日本の民主主義というのは、どうも本当の民主主義とは、どこか違うようである。

今回の政権交替を見ていても、政治家だけが、政権盥回しをしているようなもので、国民サイドからは、羽田内閣に不信任を突きつける雰囲気というものは、全くないのに、政治家同志の駆け引きで、交替劇が出来上がってしまっている。

ある意味では、中国や、かってのソビエットのように、独裁者が勝手気儘に政治をコントロ−ルしていない、という意味では、民主的かもしれないが、あまりにも安易に政権が交替しすぎるように思えてならない。

細川内閣も、羽田内閣も、安易に政権を放り出してはいけないと思う。

細川氏の場合は、身内のスキャンダルが原因であろうけれど、羽田内閣の場合は、是れという欠点が露呈したわけではないので、もう少し頑張って、成すべき事をきちんと成し遂げてもらわないことには、国民は納得出来るものではない。

確かに、社会党の離脱ということは痛手にあったに違いないが、それだけに自民党、社会党の両方から人を吸収する方法を考えるべきであったと思う。

その工作を、小澤一朗が練っていた、と世間では見做しているようであるが、日本の政治が、国会の中の審議に重点をおかず、人脈に重点をおいた、数合わせの論理によっているので、こんなおかしな現象が表れるのであろう。

そして、党議とか、派閥の領袖の話に盲従するというのが我々、大和民族の特質でもあるが、本質の審議よりも、党議の決定を優先させるので、このようなおかしな政治劇が展開するのであろう。

これは即ち、党利党略以外の何物でもない。

細川連立内閣が出来あがった頃から、マスコミはしきりに「野合」と云う言葉を連発していた。

今回の自社連立についても、同じような意味合いで「野合」という言葉を連日、連発していたが、この「野合」という言葉は、本来、鄙猥な意味合いをもった言葉の筈で、堂々と、新聞の見出しに使う言葉ではないはずである。

マスコミが、言葉の意味を知って使っているのか不思議でならない。

「野合」という言葉は、もともと男女のセックスを表現する言葉で、広辞苑では「男女が密かに通ずる事」となっている。

男女が「賑やかに通ずる」ことがあるのかどうかは知らないが、セックスというものは、密かに行なってこそ味わいがあるものである。

それを新聞とかテレビのマスコミが、臆面もなく大声で喚きたてながら「野合である」とか「ない」とか言っている図は、あまり品のいいものではない。

大体、鄙猥なセックス用語を、大の大人が臆面もなく口にしたり、新聞に書きたてること自体がおかしいわけである。

広辞苑は、これでも控えめに表現しているわけで、本当は、男女が野原で合体することを指している訳で、我々の、俗な言葉で云えばアオカンのことである。

アオカンの事を「野合」と称するところに、我々、日本民族の、優雅な言葉の遊びがあるわけであり、それが日本文学の良さでもあるわけであるが、それを知ってか知らずにか、「野合」「野合」と唱えるマスコミ関係者の語彙の貧弱さには辟易する。

村山新内閣は、1994年6月30日に組閣を完了して、そのすぐ後で、ナポリ・サミットに出席したわけであるが、この間、1週間というものは、色々なことが何重にも重なって起きた。 

このころから円の相場が上がって、とうとう100円を割ってしまい、二桁台になってしまった。

これは、村山政権の誕生とは、直接の関係はないのかもしれないが、ある意味では、日本叩き、ジャパン・パッシングの一貫ともとれる。

本来ならば、日本の政治状況が不安定になれば、円が下がってドルが上がらなければならないわけであるが、今日的な環境では、円を高くすることが、日本を苦況に陥れる方法に成り代わったのかもしれない。

なにしろ、自社連立ということが起きる時代である、つい先日までの価値観は転換してしまって、我々の価値観の正負が逆転してしまったに違いない。

 

北朝鮮の態様

 

村山首相が、ナポリで倒れてしまったと思ったら、北朝鮮で金日成が死去してしまった。この金日成が死去したと云うことは、我々、日本にとっては油断のならないことであると思う。

アジアの緊張が再び高まるときは、金日成が死んだときである、とは前々から云われていることで、この時に、北朝鮮がどういう風に出てくるのかは予断を許さない。

金日成の死去の直接の原因は、心臓病の治療中に、心筋梗塞を起こした、という発表であるが、死因そのものよりも、その後の政治体制、権力移譲、政権確立までの過程が心配の種である。 

ここで何が起きるかわかったものではない。

7月10日の日曜日の民放テレビで、朝鮮民族としては長男の比重が極端に高かく、先方の発表したとおり、金日成の長男、金正日氏が葬儀委員長を務めるということだから後継者は彼であろうと報道されている。

しかし、この人物は、あまりよく知られているわけではなく、その能力が疑問視されているわけである。

北朝鮮の扱いについては、世界中が手を焼いているわけである。 

例の核疑惑の問題に関しても、素直に査察を受け入れればよさそうなものに、ああでもないこうでもないと、難癖を付けて、結局、アメリカのカ−タ−元大統領の口利きで、なんとか解決の方向に向かおうとした矢先の出来事で、南北朝鮮の話し合いから、核疑惑の解明に至まで、すべてのことが振り出しに戻ってしまった、と見做さなければならないであろう。

北朝鮮に関しては、朝鮮戦争の休戦協定から、今日に至まで、一貫して、金日正が元首として君臨してきたわけで、そこでは、日本のような政権交替ということは一度もなかったわけである。 

我々にとっては考えられない状況である。

そして、日本の江戸時代の鎖国のように、門戸を閉ざして、外国との接触を一切断ってしまって、今回の葬儀にも、外国からの弔問を辞退するという徹底ぶりである。

こんな主権国家がこの地球上に存在していいものであろうか。

日本のマスコミはお人好しであるので、金日成が、朝鮮民族の開放に貢献した、と吹聴しているが、この現実を眺めれば、開放したのではなく、幽閉しのではないかとさえ思える。確かに、かっての日本の占領下から、日本人を追い出し、朝鮮戦争では、アメリカをはじめとする連合軍を、38度線で食い止めているので、他民族の支配からは開放したのかもしれないが、開放イコ−ル幽閉となってしまって、北朝鮮の人民は、「井戸のなかの蛙」のように、世間というもの、国際環境というもの、国際世論というものからは隔離されてしまっているわけである。

「井戸のなかの蛙」は、他との比較をしないし、するチャンスもないので、小さな宇宙で満足してしまっているが、今日では、情報というのは、際限もなく、情報の方から押し寄せてくるので、何時までも40年前の状態がつづくとは限らない。

問題の核疑惑についても、日本では、原子力発電の当初から、軽水炉を採用しているのに対し、北朝鮮のものは、黒鉛型と言われるもので、これは世界が心配しているプルトニュムの量が多く発生するので、査察を要求されている次第である。

始めから軽水炉を採用しておれば、これほどまでの疑惑は起きなかったに違いない。

こうしたところに、鎖国状態の悲劇が潜んでいるわけで、情報不足がもたらした北朝鮮の国家的損失といえる。

この事実、国家的損失を北朝鮮自身は素直に認めようとはしないであろう。

為政者というものは、自己の失敗を素直に認めたがらないのは、洋の東西を問わず同じで、このような結果を招いたのは、はからずも為政者、金日成一人の責任であるが、こういう結果をもたらした原因は、独裁政治があまりにも長く続いたことにその原因がある。

一人の為政者が、40年以上も、政権に固執する、ということは極めて異質なことで、民族の開放どころか、民族の幽閉と云われても致し方ないと思う。

幽閉が、他民族によってもたらされたものではなく、自らの、同じ民族の為政者が統治したので、北朝鮮の民族は幸せであった、という論理は詭弁そのもので、北朝鮮の民族が、井戸の中に閉じこめられて、他との比較を知らないからである。

そういう環境を整えたのは、他ならぬ、彼らの民族の指導者、金日成そのものである。

そして、先に述べた、民放の番組では、朝鮮民族は長男の比重が非常に重く、長男の存在は、何物おも犯すことが出来ない、というようなコメントがあったが、これは、今日の世界的な民主化の波の方向からするとおかしなことで、政治、民族乃至は国家の統治は、国民から選任された人が行なう、というのが民主的な近代国家の在り方の筈である。

ところが、北朝鮮の政権交替は世襲制を踏襲しようとしている。

日本で天皇が世襲制で国政に関与してきたとしたら我々はどう反応するであろう。

アメリカ大統領が世襲制であったら我々はどう反応するのであろう。

イギリスのメ−ジャ−首相が、息子に首相の座を譲ったとしたら我々はどう思うのであろう。

それと同じ事が北朝鮮では行なわれようとしているのである。

我々、近代国家の構成員の一人としては考えられないことが隣国の北朝鮮では行なわれようとしているのである。

政権の座を世襲する、ということは前近代的な政治体制のまま今日にいたっているということに他ならない。

まるで日本の戦前の封建制度そのものである。

人々の意識が、日本の200年前と同じ感覚のところに、近代的な、科学的な兵器のみは購入、乃至は製造しているのである。 

200年前の意識の人々が、核兵器を持ち、ミサイルを開発し、独裁政治を踏襲しているのである。

これが日本にとって脅威でなくて何が脅威かいいたい。

気違いが刃物をもっているようなものである。

我々、日本人は、太平洋戦争の反省から、アジアの諸民族に向かって発言することに非常に臆病になっている。又卑屈になっている。

アジアの諸民族に迷惑を掛けた、という贖罪の気持ちが強すぎて、アジアの人々に対して、本音で語ることを避けたがる傾向がある。

先方が、この我々のアキレス腱を突いてくると、日本は黙らざるをえないわけである。

そして経済大国となった日本は、まるで「金持ち喧嘩せず」という風に、全てを金で解決しようと思っているわけである。

我々、日本民族は、確かに、過去において、朝鮮民族を軍事力で支配した事実は否めないが、これは歴史の必然であって、いわば歴史の流れの中のひとこまであり、歴史の教訓という言葉があるが、歴史から学ぶことがあるとすれば、それは圧迫された側こそ多くを歴史から学ぶべきで、我々は、過去において朝鮮民族を支配したが、アメリカ・デモクラシ−には完敗したわけで、朝鮮半島を支配したことよりも、アメリカに負けたことの方からより多くのことを学んだことは、戦後の日本の歴史が照明している。

朝鮮民族を支配したことからは何も学ぶものはなかったが、アメリカに支配されたことからは、民主主義の何たるかを、日本の全国民が体に会得しているものと思う。

日本が朝鮮民族を支配したのも歴史の必然ならば、日本がアメリカに敗北したのも、歴史の必然で、負けた日本が、アメリカに戦後補償を云々しても始まらないわけである。

日本がアジアの人々に何時までも贖罪の気持ちを持つことは、別に悪いことではない。

しかし、それと国防とは、別の次元の問題で、北朝鮮が脅威の一つになっている、という認識を持つことと、戦後補償の問題は次元の違う話題である。

7月8日以後、日本のマスコミは、毎日、北朝鮮の報道をしているが、その情報というのが確定的なものではなく、韓国の情報機関の分析した憶測に近いものばかりで、依然としてベ−ルに包まれたままの状態である。

金日成の長男の金正日が首席になるとか、ならないとか、金正日の正体が今一つはっきりしない、とか云う憶測にもとづいた情報ばかりで、北朝鮮がいかに情報の管理を厳しく行なっているのか、と云う事しかわからない。

この間の、核査察の方は棚上げで、北朝鮮側には、隠匿するチャンスというのはいくらでもあるわけである。

金日成の死去に関するTVのニュ−スを見ていると、国民が慟哭して泣き喚いている画面が報じられているが、これは北朝鮮側の宣伝、乃至は情報操作ということが考えられとしても、あの様子は、さながら演出とも思われない。

演出だとしても、その個人崇拝の凄まじさ、というものは驚異に値する。

恥かしながら、わたしは不勉強で、北朝鮮というのは共産主義国だと思っていたが、厳密には、労働党の国であるが、共産主義を信奉している、社会主義国の一つには違いない。限りなく共産主義に近い考え方に凝り固まっているに違いないと思う。

こういう社会主義の国で、個人崇拝が起こる、ということは一体いかなる理由によるのであろうか?

社会主義なり、共産主義というものは、個人崇拝を否定している筈で、そういう体制の中で、個人崇拝が蔓延する、というのも一つの政治の手段とは云えると思う。

戦前の日本の天皇制も、そういう形で軍部に利用されたわけで、個人崇拝を煽る、ということは、統治の手段なのかもしれない。

理論的には、社会主義なり、共産主義では、個人崇拝ということはありえないと思う。

そのカリスマ性というものも、体制側によって作られた演出であって、そういう演出をすることにより、国民を盲従させる効果を作り出しているのかもしれない。

これは宗教の演出と全く同じ事であり、為政者は、特定の宗教のご神体に成り代わってしまっている。

金日成の死去を悼む国民の態様は、まさしく宗教団体の教組の死を悼む姿とまったく同じである。

こんなことが、この20世紀の近代国家、原子炉を開発し、ミサイルを開発している近代国家では、あってはならないことだと思う。

国家元首の死を悼む気持ちは、各主権国家の国民にとっては、同じに違いないが、あまりにも宗教的で、熱狂的な態様というのは不自然である。

もっとも、中国大陸から朝鮮半島にいたるアジアの東北部では、死というものには特別の哀悼の意を評することが民族としての礼儀とされていることは承知しているが、民族が近代思想に脱皮するためには、あまりにも極端な哀悼の表現は、近代化にマイナスの要因になるものと想像する。

物質文明のみが近代化しても、精神文化が200年も300年も前の状態では、そこに現実と精神の分離が起き、論理的に不合理な理由で、おかしなことが起きかねないと思う。

 

女性の活躍

 

6月30日深夜、村山内閣が誕生して、その後の1週間というもの、実に目まぐるしくニュ−スが飛びかった。

村山総理がナポリ・サミットに出席したと思ったら、晩餐会で倒れ、その間に、北朝鮮の金日成が死去し、向井千秋さんが宇宙に飛びたった。

向井千秋さんのコロンビアの打ち上げというのは、日本にとっては目出度いニュ−スであろうと思う。

先年の毛利衛さんの成功もあることなので、我々も安心して見ておれるが、しかし、こういうことには万一ということがあるので、科学技術というのは100%安全ということはありえないわけである。

アメリカの宇宙船打ち上げというのは、既に何度も行なわれているので、ニュ−ス・バリュ−としてあまり高くないが、我々、日本人にとって、日本の女性が宇宙にいく、ということはやはりトップ・ニュ−スであることにかわりはない。

7月10日、日曜日のNHKの放送では、新閣僚の一人として、田中万智子科学技術庁長官が、向井さんと交信し、その後、ナポリの河野副総理が村山総理の代理として交信していた。

話の内容としては、特別目新しいことはないが、この交信の技術というものは、目に見えないけれども、NHKばかりでなく日本の技術の集大成ではなかろうか。

回線を繋ぐと一言で言っても、そこには技術の粋が集められているわけで、こうした、目に見えないところに、新しい技術というものが脈々と息づいているわけである。

それが科学というものであり、文化の底辺の広さの問題であると思う。

それにつけても日本女性のあらゆる場面での活躍というのは実にすばらしいものがある。かっての封建時代には、女性は虐げられ、社会の底辺を構成し、教育も満足に受けられなかったが、女性というのは、本質的に男性と何ら変わることのない素質を持ち合わせていたのに違いない。

昔の女性は、それを生かすチャンスに恵まれなかっただけで、素質を潜めていた事は、昔も今も変わりないと思う。

現代の女性は、男性と同様、本来持っている、個人の、人間としての素質を、十分に表現できるチャンスに恵まれているので、その活躍が注目を引くのであろう。

生物的に見て、出産という事業のみは男女で分業しなければならないが、その他のことでは、男女の区別、役割分担、差別などということは本来あってはならないことなのであろう。

ところが、人類というのは、各民族の間で、この男女の差別、役割分担が長いこと続いてきたわけで、そのことは、つまり、男性社会というのは、男性が自分たちに有利に作用するように仕向けてきた結果ではなかろうか。

女性の能力というものを正面からとらえると、決して男性と比べて遜色はないわけで、それを、男性サイドが容認することは、男性の沽券にかかわると思って、封建時代には、男性社会を作り上げあのではなかろうか。

子供を作ること、子孫を作ることは、生物である以上、お互いに分業せざるをえない。

これを今日の日本の進歩的な人々は、子供を育てることも男女で役割分担すべきであると叫んでいるが、これは、自らが、生物としての尊厳を忘れた、思い上がった考え方であると思う。   

子供を作る作業と、子供を育てる作業というのは、全く別の次元のことで、子供を作る作業というのは一瞬の作業であるが、子供を育てる作業というのは、少なくとも子供が成人するまで継続しなければならないわけである。

日本民族というのは、極めて「平等」という意識が強く、何でも「平等」でなければ気が済まないという風潮があるが、「平等」ということと、生物的な役割り分担ということは、同じではない筈で、今日のように、「男性にも子育ての時間をよこせ」、という主張は、生物としての思い上りだと思う。

過剰な平等意識の結果だと思う。

戦後の日本では、男女平等が主張されて久しいが、もし本当に男女が平等に働くとなったなら、今日の女性を優遇した法律というのは、撤廃しなければならないと思う。

例えば、労働基準法では、女性の深夜勤務を禁止し、女性を危険な作業から除外しているのも母性、女性保護の目的からであって、これは差別ではなく保護である。

生理休暇、出産休暇というのも、すべて女性保護の目的で出来ているわけで、男性にも出産休暇をよこせ、という主張は平等主義から逸脱した要求だと思う。

いわば、個人の我儘な要求の一つである。 

共稼で、子供が育てられないので、保育所を作れという要求も身勝手な要求である。

自らの欲望は目一杯維持しながら、それが満たされないのは国の責任である、という要求には鼻持ちならない。

子供が育てられなかったら自分が仕事を辞めればいいだけのことで、子供を育てようとするからには、その程度の覚悟は最低限必要なわけである。

妻の出産に立ち合いたいから男性にも出産休暇をよこせ、という要求もこれと同じ論理である。

妻の出産がそれほど大事なら、有給休暇を取るなり、無断欠勤をしたところで、それが原因で会社を馘になるわけでもなかろうに、すべての勤労者は、私生活と会社生活というものを常に計りに掛けて生きているわけで、子作り、出産、子育て、など男女の役割分担と同時に、私生活と会社生活の間隙を縫って生きているわけである。

そのためには、自分の欲望を最低限に押さえ、子育ての間は辛抱して、育児に専念するということも含まれている訳で、これ男女の差別でもなく、不平等でもなく、男女が、社会という他人に依存して生きていくための方便である。

向井さんが宇宙に飛んでいくためには、こういう問題を全て解決して訓練に励んだ結果の筈である。

向井さんが宇宙に飛んだその日の新聞に、日本女性がグライダ−でアメリカで良い成績を治めた、という小さな囲み記事があった。

こうし女性たちは、身の回りの小さな問題を、全て解決してからそれぞれに偉業を成し遂げているわけである。

偉業をなす人は、男性でも同じ事が云えるわけで、身の回りの細々としたことを解決できないで、国の責任だとか、福祉が確立していないから、などと他人のせいにする人間には、偉業などというものは成しえないと思う。

封時代の女性というのは、周囲の、特に、男性の理解がえられなかったので、偉業を成すチャンスに恵まれなかった、ということは否定できないと思う。

女性が社会に進出することは決して悪いことではない。

かっての共産主義国では、ソビエット連邦にしろ、中華人民共和国にしろ、女性が男性と同じ条件下で仕事をしていたわけである。

共産主義国家では、女性を男性と同じ条件で働かせるために保育所などというものを作って、子供をそこに預けさせることによって、女性のノルマ達成をカバ−したのである。

共産主義国家というのは、その時点では、今で云うところの低開発国で、一刻も早く近代国家として脱皮せんがために、労働者というものを、男性にだけ頼る事無く、女性おも労働者として使ったわけである。

労働者の不足を、女性を使うことによりカバ−したわけで、その過程で、保育所とか、子供をあずかる施設が必要になったわけである。

日本の進歩的な知識人は、その一面のみを見て、日本にも同じ事を要求することが、進歩的な事柄であると錯覚したわけである。

共産主義国家の女性の採用というのは、つまり、国家の必要に迫られて行なわれたことであって、我々、日本の女性の共稼というのは、自己の欲望を満たすためのもので、発想の原点が違っているわけである。

そして、結果のみ、社会福祉という美名のもとに、保育所とか、乳児院の設立ということが、社会的要求という形で表面化しているわけである。

私のような下衆な人間は、「自分で作った子供は自分で育てよ」と叫びたくなる。

子育てということは、乳飲み子はともかく、基本的には、男女どちらが育ててても問題はないと思う。

今の日本では、大方の場合女性、母親の役割となっているが、男性、父親でも、問題はないと思う。

しかし、子を生む、という行為のみは代わってやることが出来ない。

だから、出産のとき男性が「出産に立ち合うから休暇をくれ」という要求は、あまりにも女々しい要求であると思う。

人類の普遍的な生き方としては、男性が外に出て食料を確保し、女性は家にいて子供を育てながら食事の準備をするというスタイルが、平凡ではあるが、人としての生活の在り方であると思う。

これはある意味で男女の役割分担であって、男女の差別ではないと思う。

この役割分担を否定することが現代風な考え方だ、と勘違いしているところに矛盾があるわけである。

偉業を成した女性たちというのは、この役割分担を否定しているのではなく、役割分担を十二分にこなしてから事にあたっているわけである。

それだからこそ称賛に値するわけで、この役割分担を否定、乃至は拒否しておきながら、その付けを、国に求めようとする進歩的知識人というのは実に鼻持ちならない。

 

福祉と人間の尊厳

 

福祉というのは一体どういうことなのであろうか?

最近、交通機関で通勤するようになって、名古屋市のバスに乗る機会が増えたが、このバスに老人が乗っている。

乗っているのは構わないが、彼らは、老人無料パスで乗っているわけである。

すると常識的に考えて、毎日、会社で汗を流して働いている人が所得税をはじめ各種地方税や、厚生年金、失業保険、健康保険、等々社会的負担を背負っているわけである。

そういう人間が、何故に、ただでバスに乗っている老人に席を譲らなければならないのか、老人の方は、ただのバスにのって、デパ−トのバ−ゲン品を買い漁ったり、病院で暇つぶしをしたり、アルバイトにいったりするわけである。

現役の納税者が一番馬鹿な立場におかれているのではなかろうか。

正確には知らないが、65才なり70才の人が誰でも彼でも、ただで交通機関に乗れるということは、福祉の行きすぎではなかろうか。

共産主義体制ならいざ知らず、名古屋市に住む老人のみが、市内の交通機関がただというのは、ある意味で、地域エゴでもある。

名古屋市の場合、各区にそれぞれ社会教育センタ−と云うのを持っているが、これなども税金の無駄使いの最たるものだと思う。

社会教育センタ−と云うものが学校の教室のようなものである以上、既存の学校の施設を使えば、それで済むことなのに、わざわざ市内の一等地にそういう施設を、福祉の充実という美名のもとにこしらえることは、福祉というものの本質を知らないためではなかろうか。

例えば、寝たっきりの老人の介護というのは、個人の家庭では不可能である、だから、これには福祉の手を差し伸べる必要がある。

しかし、老人といっても、五体満足で、財産もあり、生活に困らない人もいるわけで、そういう人にまで一律に福祉をしなければならないと思い込んでいるので、健康な老人が、ただでバスにのって遊び回るという現象を助長するのである。

老人医療でも、「ただなら医者に掛からなければ損だ」と心得ている不良老人というのは掃いて捨てるほどいるわけである。

だから保険料を負担している側は、3時間待って、1分診療いう結果になってしまうわけである。

こんな不合理が、福祉という美名のもとに罷り通っているのが現実の福祉の姿である。

日本人は、近年、ワ−カ・ホリック、つまり働き虫と西洋先進国から蔑まれているが、実に「生き方」が下手である。

若い特はワ−カ・ホリックで、家庭を顧みるまもなく働き続けて、いざ老人になると、ゲ−ト・ボ−ルしかする事がないという状態である。

そして、ただのバスに乗って、ただの病院に行くしか能がないわけである。

それを助長しているのが福祉である。

私が福祉に腹を立てる理由は、よくよく考えると人間の業に由来していると思う。

老人医療をただにする、市バスをただにする、という発想のもとには、本来、それを積極的に利用する人々のことまでは考えが至っていなかったからに他ならない。

福祉の発想の根源には、日がな陽なたぼっこをしている老人に、「たまには遊びに行ってくださいよ」、風邪を引いた老人に「病院まで行けば治療をいたしますよ」、という善意の発想であったに違いない。

ところが、この善意の証として、無料ということにしてしまったので、これを悪用とまで云うと言葉がきついが、この善意に悪乗りして、本来の使い方より逸脱した使い方が行なわれているのが現状であろうと思う。

健康な老人が、無料パスで病院を社交場にする、などという事態を行政側は想像もしていなかったに違いない。

これは別に違法行為ではない。

違法でなければ何をやってもいいのではないか、という発想は日本人の多くの大衆には潜在的にあるわけで、法の網の目を潜る、というニュアンスよりも、今一つ軟らかく、法の盲点を突くという感じである。

「ただのものは使わなければ損だ」という大衆の潜在的な利己心がこういう現象を生み出しているものと思う。これが福祉の実態である。

そして、その結果は、イギリスが示しているわけで、「揺り籠から墓場まで」という福祉のキャッチ・フレ−ズは、ソビエット連邦崩壊前に結論が出ているわけである。

福祉ということは社会に対するマイナスの投資である。

福祉と軍事費というのは、通常の社会に対してマイナスの投資であり、決して還元されることのない投資である。

通常の社会施設に対する投資というのは、現に生きている人々、乃至は、これから社会を形成する人々に対して、その投資が還元されているが、福祉と軍事費のみは将来還元されることのない投資である。

「だから止めてしまえ」ということにはならないが、そのバランスには注意をする必要があるということである。

市バスの無料パスというものには直接的な投資ということはありえないが、老人医療には本人はただかもしれないが、国庫からは莫大な金が流れているわけで、これからの病院経営者は、老人医療を目指せば商売として成り立つわけである。

老人がいくら国庫の金を使って治療しても、老人のからだが若返って社会活動が出来るようになるわけではない。

つまり、社会に還元されることはないわけである。

通常においては、健康な成人が、真面目に仕事をしているかぎり、その事自体が社会に貢献していることになるわけであるが、福祉に限って云えば、そういうことはありえないわけである。

例えば、公共施設に肢体不自由者の為にスロ−プを作るとすると莫大な金がかかる、これで潤うのは、その工事を受注した工事業者のみであるが、焼却場の建設とか、河川改修工事とか、いう公共投資は、今生きている人、これから生きる人、及び、納税者に直接的に貢献しているわけである。

ところが、福祉への投資というのは、近い将来、消え去るものへの投資である。

「人間の尊厳を維持するためにはマイナスの投資も必要である」という論理は、一見尤も説得力があるように見えるが、これは人間の善意の欺瞞で、人間の生存も、自然界の摂理のもとで生かされている、という立場に立ってみれば、生きる希望、生きて社会に貢献できる可能性、これから社会に貢献できる可能性のある人々への相互扶助ならば、価値ある福祉といえるが、福祉という美名のもとに、税金の無駄使い、ただのものは意地でも恩典に浴さなければ損だ、という意識は、福祉を食物にしていると思う。

福祉にも生産性と合理性を追求するということは、人類、生きとし生けるものを冒涜するとは思うが、「限りなき福祉」というものも、これからの社会を破壊する原因の一つになりうると思う。

福祉であれば何でもかんでも善である、福祉を語らねば人間にあらず、というような風潮が、最近、とみに強いが、福祉がブ−ムになること自体、我々の意識が人間性に欠けているということだと思う。

元来、人間の精神が素直であれば、人を差別したり、老人を蔑ろにしたり、身体障害者を蔑視したりすることはないわけで、こういうことがあるということは、周囲の人間が、そのことにより優越感を味わいたいという、きわめて個人的な性癖のあらわれである。

人間として素直で、心やさしき人ならば、最初から、そんなことは人から言われなくても実践しているわけで、そうでない人々が多いから、行政サイドや、教育現場で、わざわざそういう行為を諫める、ことを言わなければならないわけである。

福祉を声高に叫ぶということは、人間としての善意を持ち合わせていない人が、社会人として、個人レベルで行なうべき事を、行政サイドに押しつけようという企みである。

目の不自由な人や、体の不自由な人を見たとき、周囲の人々が、個人として手を差し伸べることが自然に行なわれれば、福祉行政の大部分は解消されると思う。

目の不自由な人や、体の不自由な人を見たとき、個人として善意の手を差し伸べることが厭だから、行政として、そういう人々が一人で行動できるように、つまり、他人が手を差し伸べることなしに行動できるように、行政サイドで施設を改善せよという発想である。これは福祉という美名のもとに自らが手を汚すことを回避した発想である。

今の日本で、福祉予算の削減を叫べば、非情な人間、冷血漢としか見られない。

福祉の充実を語れば、すべからく善人と評価されがちである。

ここに人間としての落し穴が潜んでいる。 

老人が一人で生活をしている。

福祉行政でこれを改善しなければならない、という発想が普遍的である。

老人が全く一人で生活している、生きている、という現実は、その老人も含めて、その老人の後に居るであろうところの家族全員の我儘の現れである。

老人が、全く一人で生活する、という現実の姿に至るまでには、色々な、家族全員の選択肢があったわけで、その選択の結果として、老人の一人住まいという現実があるのである。この一家の我儘の後始末を行政にさせる、ということもおかしなことである。

一人の老人の存在の後には、当然、その家族、息子や、娘の存在があるわけで、子が親を養う、というのは昔の家制度の復活のようであるが、これは今日では義務ではないわけで、当然、拒否する息子や娘がいても不思議ではないし、その逆に、老人の方から、息子や娘の世話にはなりたくない、という我儘もあるわけで、そういう個人の我儘の結果が、一人住まいということになるわけで、個人の我儘の集大成を行政がする、というのもおかしなことである。

行政が個人の生き方にまで干渉するということである。

行政がそういうところまで干渉することが福祉だと思い、そうすることが福祉の充実だと勘違いしている人があまりにも多い。

本当の老人福祉を考えた場合、安楽死を合法化し、認可することが本当の老人のためには一番ベタ−だと思う。

人間というのは太古より死を恐れ、忌み嫌い、出来ることなら不老長寿したいと請い願ってきたわけであるが、どうせ一度は死ななければならない寿命ならば、自分で納得の出来る死に方がしたいものだ、と個人的には思っている。

私個人としては、他人に介添えをしてもらわなければ生きていられない生きざまは尤も嫌悪するものである。

自分ですべき事を全てし終えた暁には、いさぎよく安楽死をしたいと思っている。

自分で、納得のいく人生に、自分の意志で幕を閉じたい、と思っている。

しかし、これが現実には非合法で、何処に相談に行っても、恐らく門前払いであろう。

人が万物の霊長ならば、人間としての尊厳は、こうでなければ維持できないのではなかろうか?

人が他人の介添えなしで生きていられない、というのでは、既に、人間としての尊厳は喪失しているということだと思う。

しかし、今日の現状では、この意見は大勢には受け入れられないであろう。

というのは、大多数の人々は、命あるかぎり生きるべきで、息をしている間は、あらゆる医学的手段でもっても生かしておくべきである、という太古からの思い込みから脱出できないでいるためである。

植物人間から生命維持装置を外すことに良心の呵責に耐えきれないのである。

ここで云う良心の呵責というのが、古今東西、太古からの人間の生への願望であり、死生観であったわけである。

死にかけた人間には、周囲の人間は最善の努力をすべきである、という思い込みから抜けきれないわけである。

医学の進歩がないときは、最善の努力をしても、時間の経過とともに生き絶えてしまっていたが、今日のように医学が発達すると、何時までたっても死ぬということがない。

だから、家族としては困惑し、生命維持装置を取る取らないで、家族の面々が困惑するわけである。

問題がここまでくると福祉の問題からは逸脱しているようであるが、老人医療がただ、ということは、生命維持装置の費用もただということだと思う。

この時、その費用というのは社会的負担になるわけであるが、これを惜しんで、なんらかの規制をしようとすると、福祉に後向きというレッテルが張られる。

人は生まれるときは、自らの意志で生まれるわけではない。

せめて死ぬときぐらいは自らの意志で人生の幕を閉じたい、と思うのは私一人ではないと思うが、今のところそれは非合法である。

人は生まれ、成長し、子孫を残し、人生を謳歌したら、最後は自らの意志で幕を閉じるのが理想的な人間の在り方ではなかろうか?

不老長寿を請い願い、人に醜態を晒して迄生きたいと思う人が果たして何人居るであろうか?

しかし、それでもなお生きたいという人には安楽死を勧めるわけではない。

あくまでも、本人の希望というものは尊重すべきである。

究極の福祉は、安楽死の容認であると思う。

そして、生きている人々というのは、福祉に甘える事無く、あくまでも自らの努力で生きるべきで、福祉を享受する、などというのは、自ら人間の尊厳を拒否する行為に等しいと思う。

無料だから利用するのではなく、利用してみたら、たまたま料金を払わなくても済んだ、という意識でなければならないと思う。   

無料ということは、本人が払うのではなく、社会全体として払っているわけで、運賃なり、医療費というものが最初から無料ということはありえないわけである。

福祉行政の充実を叫ぶ前に、自らがちょっと手を貸す事が自然に行なわれる社会になれば、福祉用の施設というマイナスの投資というものは不要になるわけである。  

日本では、老人の医療というものは、本人は無料、国家が立て替えて医者に支払っているわけで、医者が無料で診察しているわけではない。

 

医者の国家に対する奉仕

 

この日本の現状を見るにつけ、最近の新聞やマスコミが報道している、アフリカのルワンダというところの難民の扱いというのは一体どういうことなのだろう。

難民の存在、と云う事も不可解ならば、その難民がコレラや赤痢に侵されて、何万もの人間が砂漠の中で死んでいくという現実は、我々、太平楽な人間にはどうも今一つピンとこない。

日本の社会では、差別ということが忌み嫌われて、差別の無い社会を目指そう、という気運があるが、我々のような飽食の国の人間と、アフリカのサバンナで難民として死に絶える人間の存在というのは差別の問題とは別の次元の事であろうか? 

日本では、死にかけの老人にまで生命維持装置を施して高額な医療費を国が医者に支払っており、それを本人はただだと思って至福のかぎりと思い込んでいるが、地球上では、これから生産活動になりうる子供や若い人達が、砂漠やサバンナの中で息絶えているのである。

日本は資本主義体制を維持しているので金儲けということに対する罪悪感というものは希薄であるが、日本の医者というのは、その大部分が国立大学の出身者でしめられていると思う。

国立大学という公共の施設で、比較的安い授業料で医者という職業を保障されて、それは即ち、金儲けに直結した職業を保障されているということであり、開業すれば、病人から金を取るわけではなく、国家から金を取るという、商売として非常にリスクの少ない職業につけるわけである。

老人医療を考えるとき、医療に掛かる人の方にも問題は有るが、医療を施す側にも問題があるのではなかろうか?

国立大学という、極めて安い授業料を収めるだけで、後は金儲けのしほうだい、というシステムというのは人類に対して罪悪ではなかろうか。

日本の国際貢献という話になると、すぐにPKOとかPKFの話に直結してしまいがちであるが、アフリカのルワンダの難民救済というものにも何らかの形で日本が貢献する方法はないものだろうか?

同じ緑の地球に生を受けた人間でありながら、生まれ落ちたところが災いして、あまりにも格差がひどすぎるようの思えてならない。

日本の進歩的知識人は、差別ということを極端に嫌悪するが、差別をする気が全くなくても、人間として生を受けた地域によって、あまりにもひどい格差が歴然と存在するわけである。

余命いくばくもない老人の生命維持装置を外すだけで、ルワンダの子供が何人救けることが出来るのであろう。

人間が命を大事にする、というのは人間自身が自己保存を願う願望であるにもかかわらず、それを、人の頭脳で考えだした、理念とか、概念とか、論理でもって、一刻一秒足りとも長く生きなければ、という人間の思い上がった考え方で、自然の摂理に従えば、老いて死ぬことの方が極めて自然なわけである。

死にかけの老人と、死にかけの青年がいたら、青年の方を救けるのが自然の摂理である。一人の老人の高額医療でルワンダの子供を何人救うことが出来るか定かには知らないが、こういう国際貢献というのもありうるのではなかろうか。

国際貢献といえばPKOとかPKFばかりではないと思う。

ボランテイアでも、なんとかしなければならないのではなかろうか?

フランスでは「国境なき医師団」というボランテイア組織があって、それが真っ先にルワンダに飛んで医療活動をしているようであるが、手の施しようがないといわれている。

フランスも、日本も、同じような資本主義、自由主義体制の国でありながら、こうした金儲けに撤していない、人道的な活動をしよう、という医師の集団があるということは、やはり民主主義の先輩というか、人道的に立派な国である、ということが出来ると思う。

カンボジアに日本がPKOを出す出さいと議論しているときにも、旧ユ−ゴスラビアで民族紛争が起きたときも、このボランテイア・グル−プは率先して行動していた。

それに引き替え、日本の医者と、医者の玉子達というのは、実に、資本主義に身も心も毒されて、金儲けしか念頭にないようで、保身の固まりの様である。

個々の医者にはそれぞれ言い分もあるであろう、しかし、全体として、そういう人が一人も出てこない、ということは医者として、人道的な、困った人が居れば救わなければ、損得を離れて奉仕する必要、というものが全くないわけで、そういう医者を、日本の文部省というのは作っているわけである。

私立大学の医学部と、国立大学の医学部の授業料を比較検討した事はないが、授業料の格差というのはかなり大きいわけで、その格差を圧縮するのに、文部省というのは底揚げをして、国立大学の授業料をアップしようとするが、これは、発想が稚拙で、泥縄式以外のなにものでもない。

国立大学医学部の卒業者には一定期間ボランテイア活動を義務付ければ、それで済むことである。

現在でも、インタ−ン制度というのがあることは承知しているが、これは先輩医師に対するお礼奉公のようなもので、医師の側が、安く人間を使おうとする策略である。

人命をあずかる技術が、一日や二日で習得出来るものでないとは十分承知しているが、どんな職業でも、学校を出て即戦力になる職業というのはありえないわけで、その意味からすれば、インタ−ンの期間をボランテイア活動の期間にしてもおかしくはないわけである。日本の老人医療の無料ということと、アフリカのルワンダの難民のコレラのことと、医師の養成が安い費用で行なわれ、医師は何一つ国家に対して還元していないという、この3つの矛盾が何とも不可解である。

日本の国立大学の医学部というのが、極めて優秀な頭脳が集まっている事は、周知の事実で、その優秀であるべき頭脳の持ち主が、金儲けに専心して、社会に対する奉仕とか、人類に対する奉仕というものに非常に冷淡であるところに資本主義の先行き不安な材料があると思う。

医者というのが短期間で養成できる職業ではない、と云うことは重々承知しているが、結論的に、医者に一旦なってしまえば、後は裕福な生活が保障されているわけである。

その裕福な生活を保障するのに、日本の納税者の血税が使われている、というところに矛盾があるわけで、そもそも、日本の国立大学というのは、明治維新以来の、西洋の学術レベルに一刻も早く追い付くことを目的に政府が安い経費で優秀な人材を養成する目的で設立されたものである。

その当時の国家目標のもう一つ先に、こうした安い費用で養成された人々が、その業績を通じて、社会や国家に対して貢献をする、という期待が隠されているわけである。

安い費用で養成された医者が蓄財をするようでは、資本主義社会における仇花のようなもので、人間性の喪失であると思う。

尤も、儲けた金で、税金を払い、高額で、贅沢な商品を購入することで、物品税を払っているから社会に貢献している、といわれればそれまでであるが、頭脳的に優秀な人間が、金儲けに専心する、ということは私の倫理感では唾棄すべき事である。

人は生れ乍らにして、分に応じて社会に奉仕すべきもので、社会制度の恩典の部分を十二分の享受しておきながら、金儲けに腐心するという発想は、私には耐えられないものである。

今の日本人には、国家に対して納税の義務というものがあるが、昔は、これについで兵役の義務であった。

制度的に免除された人もいたが、基本的には、成人の日本人男性について一律に科せられた義務であった。

戦後の日本が民主主義を国是とするからには、国民の側に、義務と権利の意識がもっともっと定着してもよいと思う。

福祉国家ということは、国民の権利意識に最大限に応えようとするものであるが、それならば、国民の義務というものも最大限納付しなければならないと思う。

その一貫として、納税の義務が強化され、消費税のアップが問題になっている事は重々承知しているが、その外にも、納税という全国民的な枠のなかではなく、今日の高等教育を受けたその恩返し、という意味での、義務があってもいいと思う。

その高等教育が私立大学によってなされたならばこの義務は低減されるが、国立大学という恵まれた、一部の人間が、国家の金で、将来を保障された職業に就ける、という極めて恵まれた一部の人間に対しては、ある程度、強制的に国家に奉仕する期間を設けてもよいと思う。

それでなければ、税金が一部の人間にのみ偏って使われるということになると思う。             

 

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