中国について

 

文化大革命の意義

 

「ワイルド・スワン」という書物については先に述べたが、その後「ドラゴン・パ−ル」という中国に関する本が出版された。

これも興味ある本で、タイの政府顧問の人の子供を共産主義の国の中国に預けて、タイと中国の関係の伏線にしようというものである。

その中国に預けられた子供が執筆しているわけであるが、「ワイルド・スワン」にしろ

「ドラゴン・パ−ル」にしろ、中国の文化大革命のところが最も興味あるところである。この二つの書物を通して文化大革命を眺めてみても、あれは一体何であったのかさっぱりわからない。

共産党内部の主導権争いであった事は間違いないが、建設途上の、国家の内部で、あのような主導権争いが存在すること自体、我々には不可解に映る。

我々が、二つの書物を通じて、傍観者として眺めてみると、あの文化大革命というのは、中国の人々に潜在的に備わっている個人主義の発露ではないかと思う。

個人主義ということは、今日的に考えれば、いい事のような印象を受けるが、所詮、人間の欲望が剥出しになるということである。

個人の欲望が剥出しになれば、当然、秩序が破壊され、社会制度が崩壊するわけであるが、中国の文化大革命というのはまさにそれでなかったのかと思う。

共産主義という絶対主義も、この時期にはコントロ−ルの力が消滅し、ある意味で、指導者が民衆を押さえ付けるのに逡巡したが故に民衆の自由奔放な行動が大手を振って罷り通ったわけである。

あの状況を、日本にたとえるならば、公立学校の校長や、教頭先生を、生徒が吊し上げ、辱めを与え、首に看板をぶらさげて市中引き回しするというものであり、反主流派の人々が、主流派の人々を、勝手に軟禁し、人民裁判をし、身柄を拘束するというものである。この時、公の治安機関、警察や、軍隊は何をしていたのかといいたい。

恐らく、それらの組織の内部でも同じように下剋上が横行し、既存の秩序が破壊され、機能していなかったのであろう。

これはある意味で、無政府状態であるということである。

我々、日本人としてはあの状況というものがどうしても理解できない。

何故に、職場の上司が、下級職員に吊し上げを食ったり、官憲でもないのに人々を拘束したり、人民裁判に引っ張りだされたり、反省を強いられたり、我々の生活の中では考えられないことである。

それが共産主義の元で、両方が、共産主義者でありながら、他方が、他方を勝手に裁くということは社会秩序も、国家権力も、存在しないということである。

その上、人間としての倫理感も喪失しているということだと思う。

人としての倫理感が残っていれば、こういう無政府状態も、社会秩序の混乱もありえないからである。

こういう状態が1950年代の後半から約10年間にわたって続いた、ということは中国にとって大きな傷跡を残したに違いない。

しかし、不思議なことに、この時代というのは、日本の大学でデモ隊が暴れだした時代とも符合するわけである。

文化大革命は1957年頃から始まっているが、日本で、安保条約の改定に反対するデモ隊の騒ぎが起きたのが丁度この頃であり、日本の反政府運動というのも、まさに文化大革命に匹敵するほどの大混乱であったわけである。

学生が大学の総長を吊し上げたり、校内に立てこもって、さながら官憲、当局と、市街戦を繰り広げた時期が、丁度中国の文化大革命の時期と符合するのは只の偶然であろうか?「ドラゴン・パ−ル」を読む前に実は「全共闘白書」という書物を読んだ。

これは、今述べた、全学連の連中が、反政府運動を展開した時期に、その活動に参加した人々にアンケ−トを配布して、それを集大成したものである。

これはこれで、私にとっては興味ある書物であるが、これを読んでみると、この時期に、政治参加のつもりで反政府運動に参加した人々、つまり全共闘世代というのには一つの特徴があると思う。

それは戦後の進駐軍の置土産である民主教育の成果の一つではないかと思う。

つまり、自らの権利は声高に叫ぶが、義務を置き去りにしている、という点で、手前勝手な思考に凝り固まっているということである。

そして、自分自身の行為は、反体制なるが故に崇高だ、と思い違いをしており、自らの政府というものは、反抗するためにある、というような錯覚に陥っているわけである。

その全共闘の活動が下火になったのは、彼ら自身による内ゲバ、つまりは、身内の中の覇権争いに嫌気がさしたからに他ならない。

中国の文化大革命というのは、この身内の中の覇権争いに他ならない。

それが国家規模で、行政レベルでも、治安レベルでも、軍のレベルでも、教育現場のレベルでも、生産現場でも、この覇権争いが繰り広げられたのが文化大革命であったのであろうと想像する。

その発端というか、それが起きた原因というのは、恐らく、毛沢東の推し進めた大躍進という政策の挫折からであろうと思う。

つまりは、毛沢東の政策の失敗にまつわる批判が覇権争いに展開したものだと思うが、その様相は実にすさまじいものである。我々には理解できないことである。

日本では1955年、昭和30年以来、自民党の政権が続いたわけであるが、共産主義の中国では、共産党以外の政党が存在していないので、共産党内の覇権争いという形になったのではないかと想像するわけであるが、他の政党が存在すれば、政権交替という形で、その潜在的不満要因が吸収されるが、共産党以外の政党が存在しないということは、内ゲバに向かわざるをえないわけである。

しかし、この抗争も、政治のトップレベルのことならばいざ知らず、それがそのまま生活の場、職場、教育の現場にまで及んでくる、ということは我々には理解できない。

学校や、職場や、役所の中が、主流派と反主流に分かれて、血で血を洗う抗争をするなどということが理解できない。

そして、日本でも、今述べた、全共闘時代という時期には、若い学生と共産主義に被れた労働組合員が文化大革命もどきの行動を起こしたが、日本の社会制度というのは、微動だにしなかったわけである。

確かに、学生運動や反政府運動が、政府の行為を阻害するかに見えたことはあったが、最終的には、そういう行動は、官憲に弾圧されて、政治の大局を揺るがすことは出来なかったわけである。

しかし、結果的にみて、その方が、その後の日本にとっては良かった、ということが出来る。

 

中国の抱えた矛盾

 

日本の反政府運動は、その方針が間違っていたといわなければならない。

ここで、我々は、共産主義というものをもう一度考えてみる必要があると思う。

共産主義の根本原理は、既存の政府を、武力で倒し、その後に、人民の人民による人民のため政府を作るというものであるが、この中で、私有財産の否定が大きな課題で、人間の欲望を権力で押さえ込もうとするところに大きな矛盾があると思う。

人民の人民による人民のため政府を作るところは、我々の自由主義社会でも曲がりなりにではあるが実現できているわけで、我々の体制では、私有財産も、人間としての欲望も、肯定されているわけである。

ところが、共産主義というのは、この部分を否定的にとらえているので、本家本元のソビエット連邦で、約75年でこの実験は終わっているわけである。

そして、今、中国でも改革開放というスロ−ガンのもとで、共産主義の行く末が不明瞭になり掛けているわけである。

人間というものをマスでとらえると、欲望の達成がかなえられない社会、ということは奴隷の社会にすぎない。

事実、共産主義国の人々は、まさしく奴隷に等しいわけである。

昔の奴隷というのは、戦争に敗けた時の捕虜とか、有色人種がアフリカの人々を使役に使うとか、奴隷といわれる人々は、自由を束縛された生活を強いられていたわけであるが、旧ソビエット連邦でも、中国でも、その中に住む人々は、まさしく奴隷そのものである。只、そういう人々が、他の世界を知らないが故に、自らが奴隷にされているということに疑問を抱かないだけのことである。

我々、自由世界で、情報の洪水の中で生活している人間から見れば、彼らの生活は、奴隷そのものである。

自らが民主的な手段でリ−ダ−を選んでいると思ったところで、それは、奴隷が奴隷頭を選んでいるようなもので、真の民主主義とは掛け離れたものである、ということに気が付いていないだけのことである。

旧ソビエット連邦の人々や、中国の人々がそれで満足している、ということは外の世界を知らないが故に、小さな宇宙で満足しているだけのことである。

そして、中国の文化大革命というのは、ある意味で、中国人の気質を表しているものかもしれない。

例えば、中国というのは、世界史でも一番長い歴史をもっている国であり、その歴史のなかでは、新しい征服者があらわれる毎に、新しい社会制度が出来たわけで、1949年の中華人民共和国の誕生も、まさしく、新しい征服者の登場であったわけである。

そして、そういう征服者に対しては、常に、謀反という反体制運動が繰り返して起きていたわけで、その意味で、文化大革命というのも、新しい謀反の一貫であったのかもしれない。

共産主義者、ないしは共産党政権というものが、この謀反を事前に察知、乃至は、反政府運動を起こさせないためには粛正という手段で、そういう気のある人物を抹殺しなければ社会制度そのものが維持できないわけである。

それを実践したのが旧ソビエット連邦のスタ−リンである。

ここに共産主義の理想と現実のギャップが潜んでいるわけである。

日本の進歩的知識人の多くは、共産主義と共産党に非常に寛大であるが、こういう世界を容認する事自体が、反社会的行為だと私自身は思っている。

生きとし生けるもの、個人の欲望を実現せんがために一生懸命活動しようと努力しているにもかかわらず、それを認めようとせず、何もかも公平に分配する、という事自体が自然の摂理に反する考え方である。

人間の行なう行為で、公平ということはありえないわけで、その証拠に、共産党の内部でも、階級があるという現実はどう説明すればいいのかといいたい。

この共産党内部の階級ということについては、先の「ワイルド・スワン」に克明に記されているが、「ドラゴン・パ−ル」にはほとんどでてこない。

それも当然といえば当然で、「ドラゴン・パ−ル」の著者は、はじめから周恩来の庇護のもとで生活しており、中国のトップ階級以外の接触が少ないのでそういう場面が登場してこないわけである。

共産党員の中に階級がある、ということも一種の共産主義の矛盾の一つであろう。

とすると、共産主義というものが人類の理想を具現化しようとしながら、人間の業としての階級というものを追認しているということである。

人は理想のみでは生きられず、組織は綺麗事のみでは成り立たない、という証拠ではなかろうか。

中国共産党が、組織に階級制度を設け、人民が無私無欲で働けば、文化大革命が起きてくるわけがないのに、それが起きたという事は、共産主義が万能ではなかったということである。

前にも述べたように、中国というのは世界でも一番長い歴史を誇る国である、そしてそこには12億という人間が生息しているわけで、これらの人々が、共産主義一辺倒に傾倒するということは考えられない。

文化大革命のおり、「ワイルド・スワン」の作者も、「ドラゴン・パ−ル」の作者も、地方に下放されて田舎の生活を強いられている。

この事実は、田舎で生活させる、ということが一つの罰則になっているわけで、問題は、この罰則を課す主体が一体何であるかということである。

この2冊の本の中でもそれが今一つはっきりしていない。

きちんとした秩序のある裁判で、そういう判決に基づいて処罰が行なわれた、というのならば理解できるが、この二つのケ−スは、何となく、人民裁判で、そういう処遇を強いられたわけで、ここには誰の決済で、誰の所管で、誰が受け入れ側なのか一切不明のままである。

文字通り、人民の人民による裁判で人民が処罰を受けているわけで、そこには秩序ある社会制度というものが不明のまま、下放という処罰が行なわれているわけである。

そういう無秩序、無政府状態というのが約10年近く行なわれていた、というとは驚異としか言いようがない。

中国というのは、昔も今も巨大国家であることに変わりはないわけで、これだけ大きな国が一つになる、ということは並み大抵のことではないと思う。

毛沢東が、共産主義で全中国を一つにしたといったところで、蒋介石は台湾まで逃げ延びて、中国は一つというわけにはいかない。

主要都市は共産主義革命で共産党が主権を維持できたとしても、辺境では、主義主張などおかまいなしに従来の慣習が幅を聞かせている訳で、文化大革命というのは、気に入らない人間は、そういう辺境の地に追いやって、自分たちで、自分たちの政治をする、というわけである。

そして共産党が武力で、乃至は、暴力で革命を起こしたといったところで、自らが自らの民族を殺した、という事実からは免れえず、共産主義が暴力を肯定している以上、自らも、暴力で否定されることは自明のことである。

政治を志す者が、暴力を肯定する事自体が不遜なことで、資本主義の病理として、貧富の差の拡大ということを是正する、という目的を遂行するにしても、それを暴力で行なってもいいという発想があるかぎり、共産主義社会というのは、明朗な社会になりえない。

当然、権力を維持することにさえ暴力の背景が必要になるわけで、それが、後の天安門事件につながるわけである。

そして、不思議なことに、共産主義社会では、指導者が死ぬまで政権の座に居座って、後任の養成とか、後任にポストを譲る、とかいう場面が皆無である。

これは一体どういうことなのであろうか?

自分が権力を一手に握っていないと、何時、暗殺されるかわからないということか、それとも、人間の欲望の一つとして、権勢欲を死ぬまで放さないということなのか、共産主義というものが、独裁政治を助長させる要因を含んでいるということなのか、その辺りが皆目わからない。

少なくとも、一人の人間が死ぬまで権勢欲を放さず、その椅子に踏み止まる、ということは民主的な行為ではないわけで、自然の摂理にも反する行為である。

人間は、老いれば、あらゆる機能が低下することは自明のことで、それでも、国の最高責任者として頑張る、ということはその国民にとって不幸なことである。

共産主義社会では、国民の不幸は二の次で、共産党さえ安泰であれば、それに勝るものはないといえばそれまでであるが、これでは民主的とはとても言えたものではない。

もっとも、共産党及び共産主義者にとって、民主的ということは画餅にすぎないのかもしれないが、しかし、そうだとしても、こうあからさまに肯定されると、共産主義者や共産党員を侮辱するものである。

彼らは、真の理想社会を心の中で描いているわけで、それと明らかに反することを行なっていれば、文字通り、砂上の楼閣になってしまうわけである。

しかし、世界中の共産主義者と共産党員というのは、こういうジレンマに陥って、旧ソビエット連邦が崩壊し、中国は改革開放という訳のわからぬスロ−ガンを打ち上げざるをえなくなったわけである。

人間というものは、主義主張がどうであれ、人間としての基本的欲求には逆らえないもので、共産主義社会であろうが、資本主義社会であろうが、人を利用したり、人を踏み台にしたり、裏切ったり、寝返ったり、騙したりして自己の欲求を満たしたい、という欲望を潜在的に持っているものである。

これは人間の基本的な潜在的欲望で、社会の体制如何で、この人間の業としかいいようのない潜在的希求を除去することは出来ないわけである。

そういうものを無理にも押し込めて、人間の理想のみを表面化しようとする共産主義というものが、砂上の楼閣で終わったのも、そこに原因があると思う。

人間の本来持っている潜在的な基本的願望というものを、無理にでも、個人の胸のうちに押さえ込もう、とするころに無理があると思う。

そして、少数の指導者、いわば共産党の幹部のみが、人間としての自然の摂理に、素直に生きている、というところに独裁政治の根源があると思う。   

 

時代によって変化する価値観

 

人間はパンのみでは生きられず、人が生きるためには心の糧というものが必要なようである。

南米大陸のアマゾンの奥地に住む人々や、アジア大陸のヒマラヤの奥地に住む人々ならばいざ知らず、普通に文化文明の中で生きている人々というのは、心の糧というものが必要で、それは権勢欲であったり、金欲であったり、名声欲であったり、出世欲であったりするわけである。

つまり、こういう欲望が、人間の心の糧として存在するわけで、こういう欲望に支えられて人々は生き生きと生きていけるわけである。

もし、人間がこういう欲望を喪失してしまえば実に無気力な人間になってしまうわけである。

そういう目で、我々、日本人のここ半世紀の生き方を眺めてみると、実に殺伐たる気持ちになる。

終戦、敗戦という1945年、昭和20年8月15日を、一つの分水嶺として、その前と後の時代では、同じ日本人、同じ日本民族の同胞か、と思うような相反する価値観に成り代わっている。

決して、戦前の日本人の潜在的考え方が良いと言っているわけではないが、その変わり様は、あまりにも無節操ではないかと思う。

無節操ということは、自己をコントロ−ルする機能が働いていないという意味で、実に極端から極端に走りすぎていると思う。

終戦、敗戦という動機で、我々の考え方が変わることは致し方ない。

価値観の転換ということは避けがたい外的要因で行なわれたわけであるが、その振幅の幅が如何にも極端から極端に走りすぎていると思う。

とくに不思議なことに、そういう現象が、個々の思想家によって行なわれるのではなく、日本国民の全部がそういう心の動きをするところに、我々、日本民族の特質が潜んでいるのではないかと思う。

戦前の軍国主義的絶対主義から、戦後の民主的と称せられる反政府運動まで、この振幅の幅の広さ、といったらこれが同じ土地で生まれ育った同じ日本民族かと思えるほどの大きさである。

私の疑問とするところは、戦前の日本政治の中で、何故に、政党政治が自らを自殺に追い込んでしまったのかという疑問である。

明治の後期から大正時代に芽生えた自由民権運動が、日本がこれから近代化に進もうと思われる時期に自然消滅してしまったところに大きな疑問が残されているわけである。

これが日本民族の自らの選択であったところに、我々、後世に残された我々は、大いに研究する余地があると思う。

一言で言ってしまえば、これは明治憲法の不備であったといえる。

しかし、憲法の不備ということは、歴史の過程の問題であり、その意味からすれば、歴史の必然ということも言えるわけであるが、結果から言えば、富国強兵という世論に、日本民族の全員がそれを理想としたということだと思う。

その理想の実現のために、我々は天皇制を信じ、富国強兵を信じ、大東亜共栄圏を信じていたわけである。

そして、歴史は、それが架空の絵空言であった、ということを証明し、戦後の焼け野原が計らずも富国強兵の出発点となったわけである。

そのことは取りも直さず、明治憲法の不備の是正ということも合わせ持ったわけで、現行の平和憲法では、その生い立ちに、いくらかの疑問はあるとはいえ、戦後半世紀近い歳月というものは、我々は、戦前の絵空言を追い掛けるという愚を犯さずに生きてきたわけである。

しかし、これはト−タルとして日本民族を眺めた場合の総体図のことで、その過程のなかでは、様々な紆余曲折があったわけである。

戦前の政党政治が自ら消滅をしてしまった背景には、軍部の横暴ということがあり、それを許したのは、言うまでもなく明治憲法の不備の部分である。

そして、明治憲法の不備は、如何ともしがたい障害であったが、その障害を盾に、軍部が横暴をきわめる、という構図が日本的処世術というか、日本的政治の根源として今日でも連綿と生きつがれているわけである。

こういうことは解釈の問題で、政治というものが、憲法の解釈と現実の問題とのギャップを埋める機能を果たさず、セクショナリズムに陥って、自らの立場を有利にすることにのみ作用しているからである。

いわゆる、国民不在の政治が行なわれたわけで、戦前の日本では、国民という概念自体が曖昧模糊としたものであったが、これも民主主義という概念の下地がない状況下では、歴史の必然としか言いようがないと思う。

江戸時代300年という封建制度のもとで、明治維新で文明開化したとは言うものの、民主主義の概念というのは、その当時の国民全般に行き渡ったわけではなく、地方にいけば旧態依然とした封建制度のままの状態であった訳である。

一夜にして近代思想になるわけではない。

その過程において、明治憲法に不備があり、民衆に民主主義という概念が生まれていない最中に、その不備の部分を、上手に逆手にとった軍部というのは、ある意味で優れ者という感じがする。

しかし、これもある意味で歴史の必然である。

というのは、文明開化で、いち早く日本を近代国家の体裁にしたて上げた功績というのは軍部によるところが大である。

つまり、日清、日露の戦争に勝った、という実績は否応なく軍部の実績として日本の全国民に受け入れられたに違いない。

すると、この時代に、次の時代を担おうとする青少年、中でも頭脳明晰、学術優秀、そして純真であればあるほど軍人になりたいと思うのは、これ又、歴史の必然だと思う。

先に、人間が生きるのは心の糧が必要だと述べたが、各個人の心の糧というのは、それこそ千差万別で、優秀な青少年の心の糧というのは、その時代の価値観を反映するものだと思う。

昭和初期の段階になれば、日本の封建時代の士農工商の身分制度はかなり概念的に崩壊しており、又明治維新後の日本政府の方針として、政府の政策としても身分制度を崩壊する方向で動いていたわけで、その一貫として、文部省の学校教育が充実され、身分制度の束縛にかかわる事無く、4民平等に教育が普及した結果でもある。

その中から、有為な人間が軍人になる、という選択の道を選んだわけである。

戦後の大学卒業生が国家公務員になりたがる、という背景と同じで、有為な人間が職業を選択する基準というのは、その時代の価値観を反映していると思う。

そういう人間が軍部に流れこんだ結果として、政党政治は自殺に追いやられたわけである。政党政治の消滅は、軍部とか、当局による弾圧で消滅したわけではなく、あくまでも自然消滅、いわば自殺である。

そして、それは大政翼賛会という戦争協力体制に組み込まれたわけである。

政党政治が弾圧に屈伏したわけではなく、自然消滅、自殺をした、というところに日本の民族の特異なところというか、強かなというか、無節操なというか、言うに言われぬジレンマが存在する。

こういう状況下で、勇気を以て反政府、反軍演説をした斉藤隆夫の事は以前したためたことがあるが、こういう発言を抹殺し、無視した、という事実は、議会制民主主義の終焉といえる。

議会制民主主義が終焉しているにかかわらず、その体制で終戦まで議会が機能し、軍人が大臣を務め、内閣が存在した戦中の政治というものは一体何であったのであろう。

戦後、戦争責任がこれほど云々されるときに、戦前の軍部独走に歯止めをかけようとした人々の努力が一向に語られないのはどうしたわけであろうか?

木越安綱は、陸軍の軍人でありながら、陸海軍大臣の現役制度廃止を唱えた人であるし、斉藤隆夫は、民間人でありながら反軍演説をした人である。

こういう誠の至誠の人が居たにもかかわらず、戦後の歴史教育というのは、そういうことを若い世代に伝えようとしない。

此処にある現実というのは、偏向という、新たな精神構造で、この精神構造というのは、戦前の軍国主義にも、そのまま当てはまるわけであるが、我々、日本民族がこういう偏向という偏った考え方に、簡単に乗る、と云うところに大きな問題点が潜んでいるものと思う。

物事を左右から等距離で眺め、そして自分の判断で判断することなく、その時の価値観で計る、というところに我々の民族的欠陥があるものと思う。

戦前の価値観と戦後の価値観では180度の差異があるが、その時世の価値観に簡単に乗る、という民族としての根源の生き方というのは、戦前も戦後も変わらないわけである。民族の根源であるから、これは変えようがない、と言ってしまえばそれまでであるが、それが、民族を滅亡の危機にさらすことがある、ということも歴然たる事実である。

戦前の政党政治が自殺したのと同じ状況が今日でも起きているわけで、1994年、平成6年11月の時点で、日本新党も、公明党も、又社会党も、党を解党するという動きのなかに、戦前の政党政治の終焉を垣間見る思いがする。

今の日本には、軍部というものが存在しているわけではないので、状況が違うといえば、そう言えないこともないが、政党が自らを解党するということは、政界再編成の前触れであることに変わりはないわけで、その再編成が問題である。

日本民族にとって、政治ということは、古来、まつりごとといわれてきたわけで、本来は祭事を司ることであったわけであるが、これはあくまでも農耕民族としての生き方、ライフ・スタイルなわけである。

しかし、20世紀も終わりに近い今日では、農耕民族の残滓をいつまでも引きづっているわけにはいかない。

日本は既に工業国を脱して、第3次産業、第4次産業の領域に入りかけているわけで、こういう時代背景の中で、政治がまつりごとであってはならないわけである。

統治という積極的な政治的リ−ダ−・シップを発揮すべき段階に達しているわけである。統治という言葉の響きが悪いので、村山首相などは、生活者の政治、などと訳のわからぬスロ−ガンを並べているが、日本の政治は、既に日本国民だけのものではなく、日本の一挙手一投足が世界の動きにかかわってきているわけである。

その中で、議会制民主主義の根本である政党が、消えては出来、出来ては消えるような状況では、この先が思いやられると思う。

志の相反する政党が連立を組む事自体、一抹の不安材料であるが、これは今の日本に国家的な大プロジェクトが存在していないということである。 

これは日本だけの問題ではなく、おおよそ、先進諸国というのは、目下のところ、日本と同じような状況下におかれている。

東西の冷戦が終焉し、イデオロギ−の対立が解消した暁には、追い付け追い越せという対象が消滅してしまったわけで、今日、目に付くのは、今まで開発の遅れた諸国が、我々、先進諸国の跡を追って、経済的な追い付け追い越せ運動を展開しているという状況である。言い換えれば、地球全体として平和的になったということであるが、地球のある地域では、経済的に遅れた地域と、意識的に、我々の嘉とする民主主義の遅れた地域で紛争が継続している、というのが今日の状況だと思う。

戦前の大日本帝国というのは、この状況と同じではなかったかと思う。

半世紀前、我々にとって、西洋先進国というのは、あくまでも先進国で、アジアの諸国はあくまでも後発の地域であったわけである。

アジアの大部分は、西洋先進国の植民地であったわけで、我々の先輩も、日本自身も、アジアの一員として、先進国とは程遠い存在と思ったいたに違いない。

だからこそ中国への進出を正当化し、満州国の建設を正当化し、国民はそれが先進国の仲間入りの切札だと思い違いをしていたに違いない。

 

戦前の思想―1

 

鳩山一郎のスタンドプレー

 

我々は古来、本音と建前の使い分けで生きてきた民族である、と云う事が言われ続けているが、これは戦前の日本の政治の中にも連綿と存在し、戦後の政治の中にもそのまま存在していることである。

明治憲法を建前としながら、軍部が政治の実権を握って放さないということは、この二面性を如実に物語っていると思う。

明治15年に出された軍人勅諭では「軍人は世論に惑わず、政治にかかわらず、ただただ一途に己れが本分の忠節を守る」となっている。

この文面からすれば軍国主義になりうるわけはない。

完全なるシビリアン・コントロ−ルの精神が表明されているわけである、これを軍国主義に結びつけた論法というのは、我々、日本民族の紛れもない便宜主義に他ならない。

赤を黒と言い包めるようなものである。

精神の2重構造とでも言う他ならない。

それは明治憲法の解釈の差異で、この「不磨の大典」の不備というよりも、解釈の問題であると思う。

こういう憲法論議は、戦後も、戦前と全く同じパタ−ンで、解釈を巡って堂堂巡りをしているわけであるが、これこそ不毛の論議で、所詮、憲法を、自分の都合のいいように解釈するということにすぎない。

戦前は、軍部が力を持っていたが故に、軍部の都合のいいように解釈されたにすぎない。そして、軍部というのは、何処の国の軍隊でも、必然的に武力という力を持っているわけで、統治者がこの力を背景に政治を行なえば、あらゆる権力の集中が可能なわけである。それは取りも直さず、シビリアン・コントロ−ルの放棄ということに他ならないが、世界の近代史の中で、シビリアン・コントロ−ルがきちんと機能した例というのは例外に近いぐらいであり、極めて少数の民主主義国家のみ、アメリカ、イギリスぐらいのものである。この時代の世界的な傾向として、軍隊というのは、統治者の私兵のような存在で、政治の道具にすぎなかったわけである。

だからこそ、戦争が政治の延長線上にあったわけで、話し合いで解決できない問題は、軍隊を派遣して解決をみたわけである。

これは、この時点では、善し悪しの問題ではなく、全地球規模で是認された行為であったわけである。

よって、西洋先進国は、軍隊を背景に、植民地支配が可能であったわけである。

しかし、歴史上の価値観というものも時代と共に変わるわけで、過去の帝国主義的植民地支配が、今日、罪悪になったとしても、それは歴史の必然であったわけで、それを40年近く経ってから、あれは誤りであり、間違っていたなど言ったところで、意味のない事である。

戦前の日本が、議会制民主主義を死滅させて、軍国主義の道を歩んだ経緯は、大きな意味で、国民の選択であったといえると思う。

まだ議会制民主主義が機能していた段階で、斉藤隆夫とか、木越安綱中将という勇気ある人物の発言を抹殺した、ということは当時の日本国民の大きな選択の誤りであったと思う。その当時の政治家に勇気が無かったといわなければならないと思う。

その中でも、戦後首相になった鳩山一郎という政治家には、我々は、注目しなければならないと思う。

昭和5年のロンドン軍縮会議で、日本政府代表が軍縮協定に妥協した事柄をもって、統帥権干犯という、新たな視点で、当時の政府を攻撃したのが彼であった。

つまり、政府代表が、国際会議で、一つの妥協をすることは、天皇陛下の統帥権を犯すものではないか、と云う論理である。

政友会という政党のメンバ−であるところの鳩山一郎は、これで一つのエポックを作り上げた形になったわけであるが、それが、その後の軍部の切札になったわけである。

此処に見え隠れするのは、この当時でも、国益よりも、政党の利益を優先させる、という党利党略である。

国益よりも党利党略を優先させる政治家というのは、何も鳩山一郎のみではない。

今日の政治家でも極普通に存在しているわけであるが、政治家が、こういう狭量な料簡を持っているからこそ、軍部に主導権を奪還されてしまったわけである。

そして、明治憲法下ではシビリアン・コントロ−ルはありえないわけで、それこそ、統帥権があればこそシビリアン・コントロ−ルが不可能なわけである。

天皇の軍隊、ということは紛れもなく憲法に記載された事実であるが、その軍隊が、天皇の軍隊であるからこそ、政治家には何とも制御する術が無かったわけである。

その状況を鳩山一郎というのは追認したわけである。

軍隊、軍部という、泥棒に追い銭を投げたようなものである。

大日本帝国の陸海軍が、天皇陛下の統帥権のもとに属していたが故に、日本政府としては軍部の動向に、何一つ注文を付けることが出来なかったわけである。

そして、大日本帝国の軍人が、天皇陛下の真意を十分に理解していれば、このような歴史はありえなかったに違いないが、天皇陛下の意を組んだ振りをしながら、軍独自の判断で行動したところに、我々の先輩諸子の引き起こした惨禍があったわけである。

戦後教育では、共産主義に被れた進歩的人間が、如何にも天皇陛下が一人で戦争を遂行したような宣伝をしていたが、我々の歴史というものをよく調べてみれば、天皇陛下、昭和天皇というのは、最初から最後まで、一貫して非戦論者であったわけである。

あの時代の、世界の指導者のなかでも、最も戦争を避けたがっていた指導者の一人であると思う。

ただ惜しむらくは、軍隊を押さえる力が無かったということである。

ここで不思議なことに、天皇には統帥権があるにもかかわらず、非権利者である軍隊の方がその統帥権を振りかざして、天皇陛下は、一度も統帥権を振りかざすことがなかったということである。

統帥権というのは天皇陛下の権利であって、軍部や軍隊の権利ではないはずである。

明治憲法下の統帥権ということを考えてみると、あの時代の軍隊というのは、明らかに天皇陛下の私兵ということになってしまう。

そして、昭和天皇は、自分一人の欲望を満たすために戦争をはじめたわけではない、ことは自明のことである。

戦後の日本人は、こういう捉え方を、臆面もなくしているが、これも偏向教育の一つの効果であるに違いない。

戦前の軍隊や軍部の横暴を許した背景には、統帥権という問題が深くかかわっていたことは否めないが、問題は、それを容認した政治というところに力点が置かれるべきではなかろうか?。

明治5年の軍人勅諭では、軍人の政治活動が諫められているにもかかわらず、昭和5年の、衆議院本会議で、民間人の政党政治家である鳩山一郎が、それに油を注いだ形になっている。

鳩山一郎が統帥権問題を振りかざしたことにより、眠った子供を起こしたようなものである。

これは政治家の、その場しのぎのスタンド・プレ−とみるべきであるが、この事実は、斉藤隆夫の発言と180度視点が違っているわけである。

鳩山一郎という人物は、この時点で、昭和5年の時点で、ロンドン軍縮会議に不満を持っていたわけである。

だからこそ、政府攻撃の為に統帥権という問題を持ちだしてきたと見るべきである。

簡単に云えば、軍拡論者であったわけで、軍縮には反対で、富国強兵の為に軍備を増大しなければ、という発想によっていたものと思う。

もう一つ、言い方を変えれば、軍国主義であったということになる。

 

青年将校の反乱と共産主義

 

明治憲法にシビリアン・コントロ−ルの考え方が存在しえなかったということは、これは封建制度から脱却したばかりで、デモクラシ−の概念が希薄であった、という時代背景を考えればある程度致し方ない面がある。

しかし、そういう状況下でありながら、軍人勅諭というのは、極めてリベラルな考え方を表しているものと思う。

それを運用というか、具現化すべき軍部の内部に、やはり、傲慢で邪な考え方が潜んでいたとみなさなければならないと思う。

中でも青年将校の反乱というのは、軍部として、厳に戒めなければならなかった事柄であったわけであるが、それを曖昧な処遇で誤魔化したところに、太平洋戦争への道が隠されていたのではないかと推測する。

青年将校の反乱というのは、完全に軍人勅諭から逸脱した事柄であり、それに同情を寄せるという事自体が軍紀の乱れに他ならない。

こういう軍の腐敗というのは、上層部の精神的腐敗であるからして、ある意味では、制度疲労というか、統治者の優柔不断というか、事なかれ主義というか、とかげの尻尾切りというか、政治的に極めて不味い決着の仕方であったわけである。

その最大の問題は、軍部、特に、旧帝国陸軍が天皇陛下の云うことを聞かずに、天皇陛下の意図するところを悉く踏み躙った、ところに太平洋戦争の最大の原因が潜んでいたものと思う。

そして、その帝国陸軍の行動が、日本国内で世間の容認を得ていたということである。

それにはマス・コミの宣伝が大きく作用していると思う。

当時のマスコミといえば、ラジオと新聞、一部の雑誌しかなかったわけであるが、この未成熟なマスコミがこぞって陸軍をはじめ軍部の行動を誇大宣伝したが故の現象だと思う。戦後のマスコミと云うのは、政府を監視する第4の権力まで云われているが、それは戦後マッカアサ−による民主教育の結果として、反政府、反戦、反権力であらずんば人であらず、という風潮の元でそうなったわけである。

戦前のマスコミというのは、その悉くが政府というよりも軍部べったりで、軍国主義の提灯担ぎに他ならなかったわけである。

国威掲揚という意味で、軍部の提灯を持つことをマスコミの使命とはき違え、マスコミ自体が、政治の何たるかを理解し得ず、勇気ある発言も出来なかったわけである。

あの時代、有為な青少年が、軍人に憧れ、我も我もと軍隊に憧れたのは、そこに価値を見いだしていたからである。

つまり、世間の価値観の重心が、軍人になることにあったわけで、そういう価値観を煽り立てたのが、他ならぬ当時のマスコミであったわけである。

これは、人間として欲望の追求という自然の摂理の中で、価値の大きいところに、有為な青年が集合することは、ある意味で、自然界の法則である。

当時の状況を考えると、この時代にも、旧制帝国大学というのは存在し、その片一方で、陸軍士官学校、海軍兵学校という軍人の養成機関というものが存在していた。

我々の社会では、その中に居る人々は、それぞれの共通項で群れて生息しがちである。

軍隊という組織の中でも、軍人になる手段は、これらの養成機関の卒業生のみならず、旧制大学からなる手段、方法もあったに違いないが、軍の組織に入ってしまうと、これら養成機関の卒業生が派閥を作って、他の手段、方法で同じように軍人になった人々を見下す風潮が出来上がったわけである。

これは何も軍人の世界だけのことではなく、日本人の組織というものには、大なり小なりこれと同じ傾向は見られるわけで、官界でも、産業界でも、派閥ということは存在しつづけるわけである。

派閥の存在そのものは、組織という組織について回ることであろう、しかし、一つの組織で、エリ−ト・コ−スというものを認めるということは、甚だ身勝手な考え方で、組織の制度疲労に近いものである。

陸軍のなかでは士官学校出、海軍では兵学校出のみが出世できる、という構図は制度疲労の最たるものであろう。

こういう構図で以て、先輩後輩という関係が成り立つと、その制度は腐敗の一途をたどることになると思う。

というのは、そこには情というものが大きく作用し、情実によって、人事が左右されることになり、冷静な判断が狂うことになるわけである。

昭和初期の段階の、青年将校の反乱に対する、軍部の上層部の逡巡は、この情実が作用して、毅然たる処遇が出来なかったわけである。

此処に、「俺達は何をやっても許される」という、思い上がった風潮が出来上がったわけである。

そして、それが、天皇陛下の言う事までも無視して、大陸に進攻し、歯止めが効かなくなってしまったわけである。

戦前の社会状況の中で、有為な青年が軍部に流れた理由の一つは、軍の養成機関というのは、授業料というものが無料で、旧制帝国大学では、少なくとも無料ではなかった事が一つの原因だと思う。

封建制度から開放されたとは云うものの、この時代の庶民の生活というのは貧乏そのものであったに違いない。

その中で、経済的に恵まれた人々は、文部省の所管する学校に進むことが可能であったけれど、それ以下の人々は、向学心があればあるほど、授業料免除の軍の機関の学校に進むことが親孝行に直結したわけである。

授業料免除という特典は、今では想像も出来ないほど有利な条件であったに違いない。

食うや食わずの庶民にとって、育ち盛りの青年が、居るといないとでは大きな家計費の節約になっていたと思う。

そういう状況下で、頭脳明晰、学術優秀な、有為な青年が、軍の機関の学校に入学するというとは、本人もさることながら、家族一同、親戚縁者までの誉れであったに違いない。これは、口減らし、という消極的な意味ではなく、今日的な有り体で云えば、大蔵省や通産省に入れたのと同じくらいに誉れ高いことであったに違いない。

前にも述べたことがあるが、そういう社会的状況を勘案して、昭和初期の青年将校の反乱を見てみると、これは共産主義革命と同根であるような気がしてならない。

旧帝国軍人の反乱が、共産主義革命と同根である、といえば唐突に聞こえるかも知れないが、その当時の社会状況を考えると、どうもそうのような気がしてならない。

日本の共産主義者というのは、いわゆる知識人である。

食うや食わずの貧乏人が共産主義に被れるわけがない。

日本では共産主義といえども外来文化の一つで、自国で完成されたものではないわけで、いわば、金持ちが、金にあかせて勉強したが故に、世の中を改善しなければならないという結論に達し、それには暴力をも肯定して、現状を打破しなければないという考え方に陥ったわけで、食うや食わずの、最低生活をしている者からすれば、甘くて、頼りがいのない絵空事にすぎないわけである。

しかし、昭和初期に起きた青年将校の反乱というのは、その出身母体が、食うや食わずの低所得層だとすると、革命の大義名分を自ら備えていることになる。

そして、もしそれが成就した後の理想社会というものも、軍備を背景とする帝国主義的領土拡大主義であるわけで、これは、彼ら考え方が、共産主義革命と全く一致しているということである。

旧大日本帝国軍人の生い立ちが貧しい大衆の中の秀才であった、というところに軍人が政治に関与してくる素地があったわけである。

彼らは彼らで、純真な気持ちであったことは疑いたくないが、結果的には、日本を破滅の道に向かわしめたわけである。

彼らが意図的に軍国主義を吹聴したわけでもないが、彼ら、青年将校が、政治家に対して、問答無用、と言いながら銃口を向けた事により、日本の政党政治は沈黙を余儀なくされたわけである。

この当時の、日本の政治家の中にも、彼らを諫める勇気を持った者がおらず、軍部の上層部は、彼らが士官学校の先輩後輩という情に流されて、毅然たる処罰を躊躇したが故に、日本の進路に禍根を残したわけである。

天皇陛下の軍隊でありながら、天皇陛下に背いてはばからなかったわけである。

この精神構造というのは、至誠とは程遠いものであるにもかかわらず、本人は、自分は天皇に対して至誠を尽くしている、と思い違いをしていたわけである。

このギャップが、敗戦という究極の場面まで理解されなかったわけである。

旧大日本帝国の軍隊が、天皇陛下の軍隊であるかぎりにおいて、日本国民の軍隊ではなかったわけで、それ故に、軍隊が、国民への犠牲を強いたことに対しても、悔悟の念も、反省の言葉もなかったわけである。

つまりは、ト−タル・ウオ−、総力戦という概念も軍部にはなかったわけで、日本国民、一般大衆の存在というのは、軍部にとって、ただ単なる戦争遂行の肥料にすぎなかったわけである。

終戦間近になって、松の根から油を採る、ということを考えたが、あれと同じで、軍部にとって、国民の存在というのは、戦争遂行の根源的エネルギ−にすぎなかったわけで、日本国民の為に軍隊があるのではなく、軍隊の為に、日本国民の存在があったわけである。今から思うと、何とも馬鹿らしい時代であったわけであるが、これに対して、まともに反発する人がいなかった、というところに我が大和民族の腑甲斐なさがある。

 

組織への忠誠心

 

あの時代の日本民族というのは、ある種の魔術に引っ掛かっていたのであろうか?

それとも、知らず知らずの内に、自らの自覚なしに共産主義に浸っていたのであろうか。天皇制の元で、口では「天皇陛下万歳!」と叫びながら、心のなかでは共産主義に陥っていたのであろうか?

あの戦時体制というのは、共産主義社会と瓜二つである。

天皇陛下の存在さえなければ、共産主義の社会と何ら変わるところがないではないか。

旧ソビエット連邦や、共産中国の社会と何ら変わるところがない世の中が日本の戦時中に実現していたことになる。

戦時中の日本社会が共産主義社会、ないしは社会主義社会と瓜二つということは、この当時、戦時体制、戦争遂行のため、という大儀の元で、色々な立法措置が取られたが、その一つ一つが、共産主義社会、ないしは社会主義社会でなければありえないような内容のものばかりであった。

例えば、臨時資金調整法(昭和12年)、電力国家管理法(昭和13年)、国家総動員法(同じく12年)、賃金統制令(昭和14年)、国民徴用令(昭和14年)その他、米穀配給統制法、価格等統制令、小作料統制令、生活必需物資統制令、等等、社会主義立法ばかりである。

この時代、我々、日本国民は、社会主義に陥っていたわけではなく、ましてや共産主義に填まっていたわけでもない。

この時代の要請を受け、国家のプロジェクトを国民一致して遂行しようとすると、こういう国家体制しか選択の道が無かったということである。

勿論、これは結果から見たわけであるが、戦後の知識人で、日本の戦時体制が共産主義の社会と瓜二つであった、という指摘を聞いたことがない。

戦後の左翼被れが、政府を攻撃するときにイメ−ジしている理想の国家体制というのは、日本の戦時中に実現していたわけである。

そして、この立法措置は、軍人の独裁ではなかったわけで、きちんとした議会制民主主義の元で、それが大いに歪曲していたとは言うものの、議会制度の元で、こうした社会主義的な諸制度が出来上がり、天皇制の元で、それが機能していたわけである。

この有様を今振り返ってみると、我々の先輩諸子というのは、この時期、一体どういう精神構造で生きていたのかと、素朴な疑問が沸き上がる。

徴兵で徴用された兵士は「天皇陛下万歳!」、そして皇軍と煽てられて、銃後の国民は、社会主義制度の元で、国策遂行に借りだされ、学生は学徒出陣で学業半ばにして出征し、今で言うところの消費者は、統制経済で闇物資の購入に走りまわり、無政府状態かいえば国家の枠はきちんとしており、天皇陛下は、臣民の困窮を憂いていたわけである。

ここに存在していたのは、軍部というモンスタ−、軍部という妖怪が居たが故に、日本国というものは、このように混乱し、支離滅裂の状態に陥ったわけである。

此処にあるのは、人間としての冷静な判断力というものが何一つ見いだされず、有るのは戦争遂行という狂気のみである。

我々、日本民族というのは、組織というものに特別の感情を持っている民族なのかもしれない。

この当時の、我々、日本民族の諸先輩が、こういう状況に置かれて、反乱も起こさず、ただ一重に組織に服従していたのは、この特別の組織に対する忠誠心であったに違いない。我々の先輩諸子は、心から天皇陛下に忠誠を尽くしていたのではなく、天皇陛下の存在というのは、あくまでも、象徴であり、抽象にすぎなかったと思う。

戦場で兵士が「天皇陛下万歳!」と言って死んでいったのは、天皇陛下に忠誠を尽くしていたからではなく、「母さんさようなら!」という心の叫びを、そのまま表現することが憚れたためであろうと思う。

この時代の風潮として「母さんさようなら!」「妻よさようなら!」では、いかにも女々しい感じがするので、その心の叫びを、天皇陛下という代替物に置き換えて叫んだものと推測する。

人間というのは、やはり死ぬ間際まで、人としての尊厳を気に掛けるものではないかと思う。

死ぬ間際になっても、他人がどう思うか、という事が気に掛かっていると思う。

「天皇陛下万歳!」という叫びは、天皇制を肯定して、心から天皇陛下を敬って叫んでいるのではなく、本来は、自らの所属している組織、兵隊ならば軍という組織に対する忠誠心から出ているものと思う。

ここで我々、日本民族の一員として問題にしなければならないことは、やはり、天皇制の問題だと思う。

戦前の天皇制というのは、軍部によって徹底的に利用されていた、という事実をを我々はもっと真摯に考察する必要がある。

先に述べたように、我々が、共産主義的な社会制度に黙々と服したのも、天皇制の元で、天皇に服従するという形で強いられたわけであるが、その根本のところには、軍部の圧力が見え隠れしていたわけで、軍部が、天皇を水戸黄門の印籠のように振りかざすと、我々、臣民の側は、青菜に塩をかけたように黙らざるをえなかったわけである。

先に述べたように、議会制民主主義が十分に発達していなかったとはいえ、戦前、戦中を通して、日本政府というのは、曲がりなりにも、議会制度というものを維持してきたわけであるが、これも、軍部が、天皇を、水戸黄門の印籠のように振りかざすと、臣民は何とも返答のしようがなく、黙らざるをえなかったわけである。

軍部が、天皇を、水戸黄門の印籠のように振りかざすと、何人も黙らざるをえない、と言うところに大和民族の特異性というか、天皇制の弊害というか、我々の民族の琴線に触れる何かが潜んでいたに違いない。

この「民族の琴線」というものは、天皇のサイドから出ているものではなく、我々の側に潜んでいる内包的な精神の基軸ではないかと思う。

つまり、天皇の側から強制しているものではなく、我々、臣民の側が、自ら自分の心を束縛する、自縛的な心の動きではないかと思う。

それは、私の個人的な推測によれば、組織への忠誠心であり、日本人独特の、横並び精神であり、村落共同体としての村意識の発露ではないかと思う。

我々、日本民族、大和民族というのは、個人としては、非常に心やさしき人々の集まりであるが、これが一旦、組織を作るときわめて狂暴になる。

この狂暴極まる存在が、旧日本帝国の軍隊であったわけである。

旧日本陸軍の中国に対する侵略の過程をみても、冷静な判断力があれば出来えないし、筋の通らないことを堂々と行なっているわけである。

満州国の建設という暴挙も、関東軍という、巨大軍事組織が、独断専行してしまったわけで、ああいう暴挙が、一人一人は心やさしき日本人が、組織という集団になると、暴走するという事例の一つである。

組織に働く一人一人の人間には、それぞれに大義名分がつくわけで、一人一人の個人は、そんな悪業をしている意識はなく、それこそ軍人勅諭の、己れの本分に忠実に行動しているわけであるが、それをト−タルで眺めると、悪業になっているわけでる。

この私の言う「悪業」ということも、この言葉が正当かどうかは定かでないが、すくなくとも、当時の国際連盟が認めなかった、ということは当時の国際常識からしても、良い事ではなかったと思う。

日本人の組織に対する忠誠心というのは、実に不可解な代物で、戦場の兵士が「天皇陛下万歳!」と云って死んでいったのも、日本の国家の一員という、組織に対する忠誠心であったことには間違いないと思う。

ここで、当時のマスコミが「日本国の一員」という部分を、天皇陛下の為に殉じたと、戦意高揚のために、曲げて報道するので、軍国美談が巷に氾濫したわけである。

戦時中の日本の国民が、こういう軍国美談に煽られて、日本全国津々浦々に至まで、軍国主義に翻弄されたわけであるが、この現象の中にこそ、日本民族の根源的精神が潜んでいるものと思う。

それこそ横並びの精神であり、人がやれば自分もやる、という追従形の精神構造であり、これは戦後の我々にも民族として立派に引き継がれているわけでる。

これも無理のない事で、戦前と戦後で、かっての軍国主義が平和主義に、180度転換したとしても、その中に居る日本民族と言うのは入れ替わったわけではなく、我々の根源的な精神構造というものまでが転換したわけではないので、これは民族の伝統というか、根源的な性格、性質としてこれからも生き続けていくであろう。

                          

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