戦前の思想2

 

個人が組織に埋没

 

個人の意志が組織に埋没するということ

 

戦前、戦中の日本人が、軍国主義一辺倒に陥ったのは、我々の民族としての根源的な性格である横並び精神があるからこそ、こういう社会的現象が出現し、その中で、国民は挙国一致という国家プロジェクトに黙って参加したわけである。

この我々の特質である横並び精神というものは、やはり、我々が農耕民族の末裔であることに原因があると思う。

昔の農村社会というのは、村落共同体で、中の住民にとっては、個人の欲望よりも、村落の利益を優先させなければ、自らがその共同体から弾かれてしまう、という潜在意識があり、そのためには、自分の属する組織に忠誠を誓わなければならなかったわけである。

いわゆる、村意識であり、自分の属する組織の利益を最優先に考え、自分の属している組織には、忠誠を尽くさざるをえなかったわけである。

これを個人のレベルまで掘り下げて考えると、徴兵で、ないしは、有為な人間が一番国家のために奉仕できる機関として軍隊というものに属した場合に、端的に、目に見える形で実現できることが、軍隊の利益を最優先にして、滅私奉公することで、国家に対しても、個人に対しても、自己願望の発露になるわけである。

かつ、社会的にも評価される一番端的な例であったわけである。

そして、昭和の初期に、青年将校によるク−デタ−騒ぎの最中に、当時の政治家たちが、身の危険を恐れて発言を控えてしまったというところに、その後の日本が誤ったコ−スの選択があったわけである。

この騒ぎを起こした青年将校達というのは、自らはそうとは知らずに、共産革命を企画し、軍の上層部は、村意識でもって、彼らの行動を擁護しようとしたところに日本の指導者の選択の誤りがあったわけである。

この当時、暗殺の危機に晒されていたのは山本五十六をはじめ、当時の自由主義者や、国会議員で反軍演説をした斉藤隆夫というような人々まで、青年将校なり、右翼の標的になっていたわけである。

これらの人々が、身の危険を感じて沈黙してしまったところに、日本の過誤があったわけである。

これらの人々が沈黙した、というところにも我々の村意識というものが潜んでいたわけである。

我々の古い諺に有るように「出る杭は打たれる」というもので、国民が挙国一致して戦争に向かうという時期に、反戦的な発言をすれば、それこそ「撃たれる」という恐怖があったことは否めないと思う。

今から思うと、この時代には、民主主義というものが未成熟であったということは言えるが、その意味では、今日でも、我々は、成熟した民主主義社会という作り上げたわけではない。

民主主義というものが完成するかどうか、ということは現時点でも、はなはだ疑問と思うところであるが、その意味からすれば、昭和の初期に、日本の民主主義が不完全であったとしても無理からぬ事で、極言すれば、当時の政治的指導者、ないしは、軍の上層部が、勇気ある発言しなかったことと同時に、それが世論の大勢を占めていたわけである。

何時の時代でも、マイナ−な意見、少数意見というのは無視されがちである。

そして、時の勢いということもある。

戦後の高度経済成長や、バブル経済というのは、時の勢いとしか言いようがないわけで、戦前の帝国主義的な領土拡張主義というのも、その時の、国家として、ないしは、民族としての時の勢いに飲まれたとしか言いようがない。

こういうム−ドに簡単に乗ってしまいがちなのが我々の民族の性癖である。

一度、ム−ドに飲み込まれると、全く、ブレ−キが効かず、行き着くところまで転がり落ちないことには、反省の機会が出てこないわけである。

戦前の、帝国主義的な領土拡張主義というのものは、我々は、歴史上の事実として「日本の行為」というとらえ方をしているが、このとらえ方でいくと、「日本国家の意志としての行為」という事になるが、実際には「旧日本陸軍の行為」であったわけである。

厳密に、中国大陸への進攻は、日本国としての行為か、軍部の独断専行としての行為か、をはっきり峻別しなければならないのではなかろうか?

名目上の大日本帝国の統治者としての天皇陛下、昭和天皇というのは、あくまでも中国大陸への進攻を否定していたわけで、決して肯定しなかったところを見ると、これは国の行為と軍の行為とに分けて考えるべきではなかろうか。

天皇陛下の権利としての統帥権というものを、被権者である軍部が、勝手に行使して、そのことは、天皇の権利の無断借用ということになり、完全なる背信行為であると同時に、不忠な振る舞いである。

これは、軍という組織の行動であり、組織の行動ということは、いわゆる顔の見えない、存在感のない、個人の責任を組織という、無形の、曖昧模糊とした化物のなかに、覆い隠してしまうわけである。

日本の戦後の復興も、この我々、日本民族の、大和民族の、組織としての力であった、ことは否めない事実であるが、経済復興というプラスの作用の時には問題はないが、戦争遂行というマイナス・イメ−ジの時は、我々の組織の力というものは、世界から顰蹙を買うわけである。

プラス・イメ−ジといえども、度がすぎれば、同じ結果であることは、最近の世界の世論を見れば明らかである。

我々、日本民族、大和民族の組織力というものは、善かれ悪しかれ、世界の目から見れば脅威にあたるわけである。

問題は、戦前の日本において、我々の全員が、組織としての判断力を欠き、思考力を欠き、軍部のみが、国益と称して、軍部のみの、自己欲望を果たそうとしたところに我々の悲劇が潜んでいたわけである。

旧日本陸軍が、自分たちの願望を果たさんが為に、天皇陛下を騙し、背き、そして同じ国民としての同胞を途端の苦しみに追いやったわけである。

そして、後に残された国民は、陸軍の独断専行を追認し、彼らが、成果を上げていると思い込み、騙され続けたわけである。

我々の組織力というのは、極めて特異なものであるが、我々は、個人として組織の一員となった場合どういう発想で行動しているのであろう。

そこには、横並び的思考で、人より目立たなく、自己の主張は押さえ、隣の人と同じ行動をしていれば、個人として、組織の中の生活は、比較的安定である、という生活の知恵を持っているのではなかろうか。

この潜在意識が、日本を太平洋戦争に追いやった根源的精神構造ではなかったかと思う。この意味するところは、戦争の非を声高に叫ばなかった指導者の存在も、暗殺を恐れて沈黙を守った人々も、学徒動員で出征した人々も、組織に埋没することによって、自らの判断力、思考力を停止させたということである。

 

国民が容認した軍国主義

 

国家が国を上げての国家プロジェクトを遂行しようというときには、国民の意志が、その方向に一致団結する、ということは何も日本に限ったことではなく、ある意味で、先進国ならば当然のことであったと思う。

と、言うのも、この時期、太平洋戦争の時期、第2次世界大戦の間というもの、諸外国の映画やニュ−スの断片からそういうことが垣間見れる。

その意味からすれば、日本だけが特殊であったわけではなく、世界の先進国、少なくとも第2次世界大戦でお互いに戦火を交えた国同志というものは、それこそ、国力のぶつかりあいという様相を呈していたわけである。

この当時のアメリカの航空機産業には、女性の工員が機体によじ登って作業をしているわけであるし、イギリスの女性は、防諜活動に従事していたわけで、勿論、ナチス・ドイツにおいても、それぞれに軍需工場で仕事をしていたわけで、それこそト−タル・ウオ−であったわけである。

日本だけが国家総力戦と言っていたわけではなく、世界中が、近代文明の名のもとで戦争に従事していたわけである。

その意味で、第2次世界大戦というのは、兵士だけの、軍人だけの戦争ではなかったわけである。

言い方を変えれば、戦争というものが兵士とか軍人だけのものではなく、国力と国力、主義と主義、生き方と生き方の戦いということになったわけである。

そして、その後の問題、今日的に考えて、あの戦争の教訓として、我々が考えなければならないことは、国家というものが、国民をいかに戦争に引きずり込むのか、という観点から戦争というものを考えなければならないという事だと思う。 

戦争を考えるということは、いわば政治を考えるということと同意語のはずである。

少なくとも、国の安全保障という意味からしても、戦争イコ−ル政治という観点でものを見なければならないと思う。

これは戦争を避けて通れ、という意味ではなく、積極的に、国家の安全保障ということを国策として考えなければ、と云う意味で、戦争という言葉を使うことを避けて通れという意味ではない。

戦争遂行イコ−ル政治の延長であった、というのが戦前の日本ばかりでなく、あの第2次世界大戦を戦った諸国の現実の姿であったわけある。

戦前の日本の国民が、急進的な陸軍の一部の将校と、右翼全体主義者に引きずられて、挙国一致して、太平洋戦争に巻き込まれていったのかという疑問は、政治の延長という目で考察する必要があると思う。

そこで問題になってくることは言うまでもなく、再三、これまでに登場してきた明治憲法の不備というか、欠陥が指摘されるわけである。

しかし、明治憲法の不備、欠陥というのは、我々、日本民族の生活の知恵をもってすれば解釈で抜けきる事が可能であったようにも思う。

というのは、我々の過去の先輩の行動というのは、いわゆる憲法解釈で物事を判断し、具体的な行動を起こしてきたわけで、要するに、自分に都合のいいように憲法を解釈して、自分に都合の悪い解釈というものは排斥してきたわけである。

問題は、自分に都合のいい解釈というところが問題なわけで、此処に、陸軍の一部にとって都合のいい、右翼急進派にとって都合のいい考え方に国民の全部が同調というか、洗脳というか、飼い慣らされたというか、違和感を抱かなかったところに我々の過誤があったわけである。

我々が、今日学ばなければならない点はその点である。

世論の形成というか、国家のすることに関心を持って注意するとか、マスコミに踊らされないように自分自身の考えを持つとか、少なくとも、世の中のム−ドと云うものに簡単に乗らない、という注意が肝心だと思う。

世の中のム−ドと云うものを冷静な目で注視する、という醒めた判断力が必要だと思う。戦前、戦中の我々の先輩諸子は、国としてのム−ドそのものが「鬼畜米英撃つべし」、というム−ド一色の中に存在していた、という事実は紛れもないことで、そういう現実に至った過程をよくよく注視する必要があると思う。国家の根本は、おそらく憲法にあることは誰一人として疑問を挟むことは出来ないだろうと思うが、先の大戦の前の我々には、明治憲法というものがあった以上、その法制下の我々には、それから逃れる手段はないわけで、そういう状況下では、戦争への道を転がり落ちる結果が待ち受けていたとしても致し方ない面があった。

しかし、そういう中でも、心ある政治家はそれを極力避けようと努力したことは歴史の資料が示しているとおりである。

そういう努力があったにもかかわらず、やはり、戦争という道に填まり込む、戦争という道を選択せざるをえなかった、ということの事実はある意味で、国民の総意であったということが出来ると思う。

問題は総意という意味の解釈で、日本国民の一人一人の集合体という意味の総意ではなく、総意と云う言葉の中には、不特定多数の意見という漠然とした概念の意志、という意味も含まれていると思う。

今日でも政治家のリ−ダ−・シップと云う事が民衆の側から要求されるが、政治家にリ−ダ−・シップを取れ、と要求することは「独裁政治をせよ」と言っているようなもので、こんな馬鹿な話はないわけであるが、戦前、戦中の政治家には、それこそ、このリ−ダ−・シップがあれば、日本の進路は又違った道を歩んでいたかもしれない。

明治憲法下では、政治家にはこのリ−ダ−・シップが与えられていなかったわけである。我々が今日反省しなければならないことは、戦前の陸軍の一部が、中国大陸で独断専行したときに、国民の総意として、あの行動を諫めなかった点にあると思う。

今まで何度も述べてきたが、日中戦争と満州国の建設に関しては、日本は地球規模で世界の反発をかったわけである。

しかも、これが軍の一部が引き起こしたという事になれば、国の統治能力を疑われても致し方ないと思う。

軍の一部が日本政府、天皇陛下の言う事を無視するという状況は、法治国として、また近代国家としての資格はないわけである。

この萌芽が、5・15事件であり、2・26事件であったわけである。

軍の一部が日本政府の言う事を聞かない、というところに明治憲法の統帥権の問題が絡み、天皇陛下の言う事を聞かない、というところに軍の精神的傲慢さが潜んでいたわけである。

そして、日本国民は、それを結果的に容認してしまったわけで、逆に、軍国美談を作り上げてしまったわけである。

軍の一部の独断専行の行為を、日本の国民が容認する過程の中には、やはり、マスコミの影響力があったと思うし、そこに、日本国民の中国に対する差別意識が潜んでいたと思う。この差別意識というのは、つまり帝国主義的領土拡張主義というものを容認するという意味で、国民のなかには、そういうことが国威掲揚に値する、という価値観が潜んでいたものと思う。

 

ムードに流される

 

この時期のマスコミというのは、今から見れば稚拙な手段しかなかったわけであるが、それでも、日本の全国に軍国美談を振り撒き、軍国主義なり、全体主義を宣伝するには有効な手段であって、これは、同じような先進諸国でもラジオ、新聞というのは、その国の実情に応じて、国威掲揚の為に利用されたことは疑いない。

ル−ズベルト大統領の炉端談義などというテクニックは、実に有効な手段であったに違いない。

そして、大日本帝国の大本営発表のニュ−スというのも、聞いていて実に勇ましい口調で放送されていた。

あのニュ−スの朗読というのは、実に効果的で、用語の選択からして工夫がこらしてあり、結果的に敗けている戦闘も、その敗け様が曖昧模糊としていて、いかにも日本軍は善戦しているような感じがしたものである。

尤も、私は直接そういう放送を聞いたわけではなく、戦後のニュ−ス映画や、テレビの映像として聞いたにすぎないが、あの放送を聞いた当時の日本人ならば、誰しも、軍国美談に酔い、自ら率先して滅私奉公する気になると思う。

ここの所が、本当に大事な問題点だと思う。 

あの当時の日本国民が、軍国美談に酔い、心から国のために滅私奉公する気になる、という部分が我々の民族として、又、政治の問題としても最大の問題点である。

話変わるが、1994年(平成6年)11月の時点で、NHKの朝の連続テレビドラマで「春よ来い」というのを放映しているが、このドラマの進行が、丁度この時期の事とオ−バ−・ラップしている。

この主人公の「はるき」は、もともと自由な雰囲気の中で自由に生きるべき人間であったが、それが戦時体制の勤労動員で、大学に在席のまま陸軍工廠に行ったり、その恋人が大学から予科練に行ったり、この時代の背景を如実に表している。

これを見ていると、この時代の日本国民は、実に素直に国策に協力している。

これは、戦争という国家プロジェクの進行中という中で、真に国のためということが国民の全般にいきわたっていたという証拠であると思う。

そうせざるをえなかった背景には、その前に立法化された、社会主義的法体制の確立ということもさることながら、それに反対する余地を与えない軍部の圧力があった、ということも見逃せない事実だと思う。

この時代、政治家が政治をするのではなく、軍部が政治をしていたわけで、それでいて、軍政ではなく、ましてや政党政治でもなく、天皇陛下の独裁政治でもなかったわけで、誠に不思議な政治体制であったわけである。

強いて言えば、明治憲法が、近代の産業、ないしは近代的な帝国主義政策と、または軍国主義政策と軋轢を生じてきた見るべきかもしれない。               

この時期、政策というものが果たしてあったのかどうか、ということさえ疑問である。

社会主義的な様々な立法措置というものが果たして政策といえるものかどうかさえ疑問である。

これらがすべからく戦争を遂行するための法律で、国民の生活の安定や、福祉に役立つものは一つもないわけで、ただただ戦争遂行のための法律であったわけである。

この成立に、国会議員の反対もなければ、国民の反対も一切なかったわけである。

戦争遂行ということが、これほど国民の支持を得た、という事実は我々はよくよく反省すべき事だと思う。

一部の陸軍軍人、青年将校の跳ね上がりの為に、日本の政治家が一人も口を利けなくなったという事実を、我々は冷静に検証する必要があると思う。

昭和の初期の日本の政治というものが軍部に翻弄された、ということは、明治憲法の不備と同時に、我々の国民の側にも、近代民主主義の認識が浅かった、という面は免れないと思う。

この事は、当時の日本の国民と共に、行政サイドも、軍部の内部にも、産業界にも、又大学の学問の中にさえも普遍的に無かったわけで、いわば歴史の必然ということではなかと思う。

昭和初期の段階から終戦までの経緯を見ると、結果論として、そういうことが言えるわけで、当時の人々が、軍部が政治をコントロ−ルしていた、などという発想は思いもよらなかったのではないか推測する。

平凡な一市民が、軍国主義に傾倒し、国の戦争遂行に自ら滅私奉公し、命を投げ出して戦火に散っていったという事実は、戦争が政治の延長である、というにはあまりにも犠牲が大きく、あの時代の日本という国は、やはり狂気に取りつかれていたとしか説明がつかないような気がする。  

昭和初期から終戦までの日本の政治家、日本の指導者の動き、考え方というものは、戦争ということに対して、非常に臆病になっていたということが言えると思う。

ところが、軍部というのが、そういう政治としての動きとは全く異質の考え方を持っていたわけで、此処に、日本の過誤が潜んでいたわけである。

すると、あの時代の日本がアジア諸国に迷惑をかけたという表現は、「日本の軍部が」という、より限定した言い方をしなければならなくなる。

しかし、歴史の中で、こういう限定した言い方は通用しないわけで、「日本の政府や天皇陛下は悪くなかったが、軍部が悪かった」という論調はどうしても説得力がない。

相手側から見れば、日本の軍部の行動というものは、当然、日本政府の承認のもとに行動している、という風に受け取られるのが当然である。

ところが、日本側の内情では、日本軍の行動というのは、政府も天皇陛下も反対、ないしは憂慮していることをどんどん独断専行していたわけである。  

日米開戦の詔勅も、天皇陛下が詰め腹を切らされたようなもので、既定事実が出来上がってしまっており、天皇陛下は、その場のム−ドで裁可をしなければならない状況に置かれたわけである。 

その既定事実を作り上げたのは他ならぬ統帥権のもとでの軍部であったわけである。

昭和の初期の段階から、日本国内には、中国に進駐し、軍事力が帝国発展のバック・ボ−ンである、という認識が国民の間に広がっていた、という事それ自体が戦争の遠因であったとみなすべきであろう。

そういう状況の所にABCD包囲作戦とか、日米交渉という外部要因が絡んで大東亜戦争という事態になったものと思う。

戦後の我々は、高度経済成長というものを経験し、バブル経済というものを経験しているわけであるが、あの時でも、国民の一人一人が、ああいう結果を狙って、予測して高度経済成長やバブル経済と云うものがあったわけではない。

国民の一人一人は、時のム−ドに押されて働き蜂のように働き、自己のささやかな願望を満たすために、ワ−カ・ホリックになっていただけのことで、世界第2の経済大国になるのを目的に我々は頑張ったわけではない。

要するに、我々、日本民族というのは、時のム−ドに押されて、流されていたにすぎないわけであるが、その流れ着く先が、昭和初期の段階では終戦という事実であり、戦後は世界第2の経済大国であったわけである。

戦前の日本民族でも決して好戦的な人種ではなかったわけで、日本人が好戦的と見られるのは一部の限られた軍部の人間が集団としての群集心理で、心ない行動を起こしたが故の事で、それが誇大宣伝されて、諸外国に悪い印象を広めたにすぎない。

ただし、この集団としての、群集心理による団体行動というのは、これからの日本人は心しておかなければならないことだと思う。

軍隊の独断専行というのも、一種の群集心理の延長だと思う。

同じ制服を着、同じような階級章を付けて、集団として行動をしていると、どうしても自分が偉くなったような気分に陥りがちである。

凡人であればあるほど、なおさらそういう気分に陥りやすいと思う。

そうすると、前後の見境がなくなるわけで、歯止めが効かなくなってしまう。

旧帝国軍隊の群衆心理と、日本国民の、体制に順応する順応精神が先の大戦を推し進めた潜在的な力であったといわなければならないと思う。

一般市民が、あの当時の、稚拙なマスコミ、新聞とラジオで、いとも簡単に軍国主義に陥る、というのは我々が、民族として、簡単に大勢に順応してしまう事の証拠で、これは今でも少しも変わることなく続いているわけである。

しかし、これが我々大和民族のバタリテイ−でもあるわけで、これがあるからこそ、ABCD包囲網と互角に戦えたわけである。

大勢に順応する、ということは太平洋戦争に関するかぎり、マイナスのイメ−ジであるが、これが戦後の高度経済成長という場合は、逆に同じ事がプラスのイメ−ジとして蘇ってくるわけである。

大勢に順応しやすい、ということはいわゆる横並び精神で、国策に沿って、全国民が一致団結、挙国一致して精進に励むということである。

戦前、戦中の日本国民の生き方というのは、まさにこれであった。

自ら社会主義体制のような法律を作って、それに自分を律し、それこそ勝利を信じて、滅私奉公という構図である。

その中で、人より少々利発で、純真な人間ほど予科練とか、少年航空兵、少年戦車隊へ志願して、それを家族も親戚一同も誇りと思ったわけである。

そして、大学生も学業半ばにして率先して出征していったわけである。

今の時代には考えられないことばかりである。まさしく狂気の時代と云う他ない。

軍部の独断専行を国威発揚と受け取り、当時の稚拙なマスコミによって日本全国津々浦々にまで軍国美談が宣伝され、それを真に受けて、純真な青少年が軍国青年になったわけである。

しかし、当時の国民は、軍部の独断専行という部分が、本当に軍部の独走であったかどうか、という確認のしようが無かったことも事実で、その意味では、あの惨禍の責任がいったい誰に帰属するのか定かではない。

今から思えば、明治憲法が民主主義というものを生育するためには不十分で、我々の歴史には、この時代には、まだ真の民主主義というものが誰にも理解されていなかったと云う点では歴史の必然とでも云う他ない。

 

終戦の仕方

 

戦争終結の問題

 

我々の先輩諸子は1945年昭和20年8月15日、天皇陛下の終戦の詔勅で戦争を終決したわけである。

これは今更言うまでもなくポツダム宣言を受け入れての終戦の決定であるが、この時の戦争の終決の仕方というのもきわめて日本人的である。

終戦を受け入れることに対して、例によって日本帝国陸軍の一部には反対意見もあり、ク−デタ−まがいのことも起きたことは歴史の事実が示しているとおりであるが、この時、反対していた人間の心理というものはいったいどういう感覚をしていたのであろう。

その後の歴史は、この時点では連合軍、いわゆるアメリカは、日本本土上陸作戦を持っていたわけで、かりに、あの時点で、我々の側が徹底坑戦をしていたとしたら、その後の日本の再建はどのような道をたどっていたのであろう?

天皇陛下の英断で、あの時点で終戦を決定されたということが、その後の日本の再建の大きなチャンスであったことは否めない事実である。

開戦の場合もさることながら、終戦という大きな政治的決断の時、選択のチャンスに、安易な判断で事を決する、ということがいかに重大な結果を招くかという事例である。

安易な判断で、と云う意味では、あの時の坑戦派の軍人たちには、日本国民の生命財産というものが眼中に無かったとしかいようがない。

これは日中戦争、太平洋戦争、つまり第2次世界大戦の期間を通じて、日本帝国軍隊の潜在的深層心理として、わが民族の生命財産を保護する、という大義名分は微塵だに見いだされていない。

尤も、軍隊が、祖国の、国民の生命財産の為に戦う、ということは既にシビリアン・コントロ−ル下の軍隊でないかぎり、そういう認識はありえないことだとは思うが、あの時点で、日本帝国軍人の主要な戦闘目的というのは、軍事的覇権主義で、軍事力で以て、諸外国、特にアジアで政治的、軍事的に主導権を取りたい、という覇権主義に他ならない。

日本国民の生命財産の保護ということは二の次三の次ぎであったわけである。

又、国民の側にもそういう認識はなく、生命財産の消失も時世ならば致し方ない、というあきらめの境地にいたわけである。

終戦前後の日本帝国陸軍の一部では、まさしく軍人の軍人のための政治であったわけである。

しかし、そういう状況を打破したのは他ならぬ天皇陛下ということになる。

昭和天皇が立憲君主たらんと欲して、自分の発言を控えて、臣下の決めた事に裁可をするだけに止めたにもかかわらず、2度だけ天皇の意志による発言があったといわれている。その一つが2・26事件の時の反乱軍征伐の件で、他のもう一つが終戦の詔勅であるといわれている。

もし、あの時点で、天皇陛下が終戦を決議しなかったとしたら、日本の破壊は壊滅的なものになっていたに違いない。

あの時の連合軍側の降伏条件に「国体の護持」という条件をつけたのは、昭和20年8月9日の最高戦争指導者会議の席上であったが、この期に及んでも、陸軍と参謀本部、及び軍令部は降伏条件を受け入れることに反対し、外務省と海軍は受諾止むなしという判断であった。

しかし、実のところ、この「国体の護持」ということの具体的な意味というものは今でも不可解である。

解釈の仕様で、いかようにも取れる表現である。

特に「国体」という字句に関しては、日本の政府という風にも受け取れるし、天皇制という風にも受け取れる。そして、日本の現状という風にも受け取れる用語である。

問題は、こういう状況下で、これ以上の戦争遂行が可能かどうかという判断が、陸軍上層部、参謀本部、軍令部という戦争のプロ集団に理解できなかったという点である。

「井戸の中の蛙」そのものである。

 

神道との結びつき

 

戦後の日本歴史で見落とされていることに宗教の問題があると思う。 

我々は宗教というとすぐ仏教の浄土宗や臨済宗というものを連想しがちであるが、この時代に連合国側の最も恐れたのは日本神道である。

日本兵の恐れを知らぬ突撃には、そのバックに日本神道があるからだと彼らは勘違いしていたわけである。

しかし、この日本神道が、当時の軍国主義を大いに煽り立てたのは紛れもない事実で、それが軍人勅諭と一緒にされて、軍隊内部での教育に入りこみ、そして文部省の教育の中にまで入りこんでいたわけである。

天皇陛下を現人神として奉ってしまったのは真崎教育総監である。

天皇陛下が自らが現人神を否定しているにもかかわらず、そういう架空の虚像を作り上げ「日本の兵隊には神がついているから決して負けない」などというお伽話を世間に蔓延させたわけである。

この事は、言葉を換えれば、陛下を奉つっている振りをして、陛下の赤子としての日本国民を騙していたということである。

日本神道との結びつきは、やはり、元寇の時の神風の由来伝説に基づくものであろうが、伝説と軍国主義が一体となってしまって、天皇が現人神であるというような阿呆な話が捏造されたわけである。 

この当時でさえ、ゼロ戦や戦艦大和などという当時の科学技術の粋を集めた兵器が出来上がっている時代に、「天皇陛下は神様である」などという話を作り上げたところで噴飯ものである。

ところがそれが教育現場で強制されたわけで、こういうところに我々、日本民族の集団心理というか、事なかれ主義というか、理性で考えれば明らかに不合理なことでも、黙々と信じる振りをする柔軟性とでも云うべき処世術というものがあるわけである。

この事実を以てしても、そういう馬鹿な話を強制するほうも、それを黙って聞く方も、腑甲斐ないといえる。

そうしなければ非国民というレッテルを貼られるから、するほうもされるほうも黙って

「泣く子と地頭には勝てぬ」という心境で服するわけである。

我々、日本民族の一番悪い欠点はこのところだと思う。

つまり、大勢に順応しない人間をすぐに非難するというところだと思う。

もう一つ言い方を変えれば、横並びで、他人と同一歩調を取らない人間を非難するということである。

これは戦後の日本人でも同じであって、やはり、我々の潜在的な民族的特質であろう。

我々は、隣人の陰口に怯えて生活しているようなものである。

これは、異質な人間の陰口を云う方にも問題があるが、陰口に怯える方にも問題があるわけで、つまりは個人主義ということの本当の意味を理解していないからであろうと推測する。 

しかし、戦後の我々は、アメリカから接木された民主主義の概念によって、今度は、個人主義は個人の我儘を通す事だと、またまた民主主義を履き違える結果を生んでいる。

話が逸れたが、日本神道と軍国主義の結びつきは、やはり、軍部の後押しで、国威掲揚の意味から作り上げられた寓話がその元にあるわけで、日本神道というのは、どちらかというとこのころまでは眠った宗教であったわけである。

これは学校教育で日本の神話が取り上げられるようになってからの虚像の捏造である。

しかし、学校教育に日本の神話を取り入れる事自体が既に軍国教育であったわけである。つまりは、文部省が軍の圧力に屈伏したわけである。

 

近代化への焦燥感

 

戦前、戦中の軍国主義的絶対主義というものは、ある意味で、過去の共産主義国家にも同じような現象が見られる。

例えば、過去のソビエット連邦のスタ−リン支配や、中華人民共和国の毛沢東崇拝というのは、あの時代の、日本の天皇崇拝と全く同じパタ−ンである。

但し、この例示の中で、決定的な差異は、共産主義国の指導者、スタ−リンや毛沢東は、自らが直接政治にタッチしている実質的な指導者であるが、昭和天皇の場合は、表面は実質的な指導者のように見えたとしても、内情は軍国主義者に利用され続けたただの象徴にすぎなかったという点である。

これは文芸春秋の1990年12月号の「天皇独白8時間」という文章を読めば明らかなことで、昭和天皇自身、立憲君主に撤しようと心に決めて君臨していた、という点から見て、自ら統治することを放棄して、象徴の地位に甘んじようというものである。

実質的な統治というのは内閣にあったわけであるが、この内閣が半分以上軍人や軍のOBで占められている以上、日本の政府というものは、軍国主義一色にならざるをえななかったわけである。

此処に天皇陛下が神様である、という馬鹿げた発想が蔓延する下地があったわけで、スタ−リンや毛沢東のように、実質的な政治担当者が、自らの権力維持のために神懸かり的な存在になったわけではない。

しかし、「裸の王さま」という意味ではよく似たものである。

日本の軍国主義者たちは、天皇陛下を神様に祭り上げておいてその下で好き勝手なことをしていたという図である。まさに虎の威を借りた狐という図である。

戦後50年を経て、今日の我々が歴史の教訓として反省しなければならないことは、何故に、我々の先輩諸兄が天皇陛下を神様に祭り上げておいて、その下で、帝国主義的領土拡張を目指したのかという点である。

私の今までの論旨では、封建時代からの脱皮の為に、西洋先進国に一刻も早く追い付き追い越せという民族としての焦燥感が、日本の軍人をしてそういう方向に走らせた、というものであるが、天皇制というものをスケ−プ・ゴ−トにして、自らの願望を果たす、という構図は、今日でも我々の民族としての潜在意識のなかに潜んでいるのではないかと思う。戦前、戦中はスケ−プ・ゴ−トが天皇陛下という神様であったが、今日では、それが民主主義とか、人権という言葉に入れ替わっているのではないかと思う。

今日、民主主義とか人権と云う言葉を否定するような発言はそれこそタブ−である。

戦前、戦中の我々の先輩諸兄が西洋先進国に一刻も早く追い付き追い越さねばならないと感じた気持ちというのは、ある意味で今日の我々も理解できる。

何となれば、あの当時、帝国主義的領土拡張主義というのは日本だけの特殊な精神的状況ではなく、世界の先進国は、いずれも同じような精神構造であり、植民地を獲得して富の収奪することは正義に反しない、という世界共通の認識があったわけで、あの時点で、連合国という国々は、いづれもそういう具体的な行動をしていたわけであり、昭和初期の段階で、日本も世界の常識というか、世界の正義の分け前にあやかりたいと思うのは至極当然な発想であったわけである。

そういう精神構造に至るにはやはり文明開化の結果であって、日本が近代化を達成するにしたがって、世界の動きというものが段々と庶民の間に広がってくると、日本も植民地を獲得しなければ、というコンセンサスが国民の間に醸成されてきたわけである。

国民の側、庶民の側にとって、その実現に貢献できる一番手っ取り早い手段は、軍人となって自らが直接それに携わることである。

日清、日露の戦争に勝った、と云う実績がそれに拍車を掛けたことは否めないと思う。

近代化を達成した、ということは飛行機や軍艦を作ることのみではなく、我々の生活のあらゆる分野で近代化が達成されたわけで、その意味で、今でいうところのマスコミの技術も覚醒の発達を遂げたことは否めない。

日本のラジオの歴史というもに詳しいわけではないが、少なくともラジオというものも

1925年大正14年、つまり昭和初期の段階から放送されていたわけで、新聞、雑誌というものは当然それ以前からあったわけである。

江戸時代という封建制度から脱皮して、明治維新を経て、文明開化というものが我々にとって「悪魔の囁き」ではなかったのではなかろうか? 

確かに、我々は、文明開化によって近代化を成し遂げようとし、それを達成することによって、西洋先進国の植民地支配からは脱したけれど、昭和に入って、そのことが逆にアジアの諸国に迷惑をかけることになってしまったことになる。

我々が文明開花を成し遂げることと、太平洋戦争を引き起こしたことと、戦後の高度経済成長というのは、いずれも我々日本民族、大和民族のバイタリテイのあらわれである。

しかし、この我々日本民族のバイタリテイ−評価が1945年昭和20年を挟んで逆転してしまったわけである。

今日的な評価からすれば、戦前の、我々の先輩諸兄の、国を思う行動は結果的に「アジアの諸国に迷惑」という事になってしまうが、あの時代の価値観に照らせば「西洋先進国に一刻も早く追い付き追い越す」という事であったわけである。 

ましてや植民地支配は「悪」ではなく「善」であったわけである。

しかも、日本の植民地支配というのはただたんなる富の収奪だけではなく、民族の標準化を狙ったものである。

西洋先進国の植民地支配というのは明らかに帝国主義の神髄で、富の収奪だけを目的として、利権のみを追求するものであったが、我々の植民地支配というのは、民族の知的レベルを我々、日本人並みにレベル・アップしようとしたところに逆に被支配民族の反感を買ったという面がある。

西洋先進国とアジアの民衆との間では民族の違いというのは歴然としている。

碧眼金髪の大型人種と同じモンゴロイドの日本人ではアジアの民衆から見れば明らかに我々日本人の方には違和感が感じられず、その違和感のないモンゴロイドに支配されることは彼らの自尊心が我慢ならなかったのかもしれない。

碧眼金髪の大型人種に支配されることは諦めがつくが、同じ髪かたち顔立ちの日本人に支配されることには心の抵抗を感じたのかもしれない。

今ここで問題にすべき事は、我々が西洋先進国の植民地支配を受けず、逆にアジアの諸国を支配するに至った精神構造の解明であるが、文明開化を達成した我々は、近代化の行き着くところとして、資本主義の究極の結果であるところのアメ−バ−的経済成長を目指したわけである。

その目的遂行の手段として軍国主義による領土拡張がその時点では一番妥当と云うか、それ以上の手段というものが見いだせなかったに違いない。

それは1945年昭和20年の敗戦、終戦ということで一時挫折したが、その後の復興の時期を過ぎるとまさしく資本主義の究極の結果であるところのアメ−バ−的経済成長は達成され、そしてバブル経済となり再び下降線をたどっているわけである。

明治維新後の文明開化も、日中戦争から太平洋戦争も、戦後の高度経済成長も、同じ日本民族のバイタリテイ−である。

此処には日本民族独自の精神構造があり、民族的で、しかも根源的な何かがなければこういう結果はありえないと思う。

 

カルチャーギャップの逆転

 

わが民族の起伏に富んだここ100年近い発展の中には、同じアジアに生きる他の民族とは異質な何かがあると思う。

私は今までの論旨の中で、横並びの精神構造だとか、農耕民族としての村意識だとか、付和雷同のきらいが有るとか、さまざまな云い方をしてきたが、こういうものが全部一緒になって今日の結果を導きだしているものと思う。

私事であるが、1994年平成6年11月27日、春日井市で開かれたシンポジュウムで日本武尊(ヤマトタケル)の講演を聞いた。

日本武尊(ヤマトタケル)の伝承は、西暦5世紀前半のことで、日本全体で統一国家が成立していたかどうかも曖昧な時期で、ほとんど神話の中の話である。

時を同じくして、名古屋市の博物館で「秦の始皇帝とその時代展」と云うのを見た(1994年平成6年12月3日)。

こちらの方は、紀元前2世紀の事物の展覧会である。

この間、約700年近いタイム・ラグがあるわけである。

こういう長い歴史のスパンで中国と日本を比べてみると、完全に中国が先進国で、日本が後進国であったわけである。

日本の古墳時代に、中国においては「秦の始皇帝」によって、様々な「俑」が始皇帝の墓の周囲の埋設されていたわけである。

この「俑」というものは、日本の埴輪とほとんど同じものと考えていいと思うが、その出来栄えは雲泥の差があり、これこそカルチャ−・ギャップそのものである。

日本が国家統一を果たしたとき、遣隋使、遣唐使として大陸に憧れたこともむべなるかなという感じである。

そして近代になると、そのカルチャ−・ギャップと云うものはほとんど消滅し、現代に至れば、そのギャップは逆転してしまったわけである。

文化というものはまるで水のごとく、高い方から低い方に流れるにしても、受皿がないことには流れようにも流れないわけである。

大陸の高度な文化は日本列島にきて、そこから先、流れつくところがないので、日本列島の中で高度に醸成されたと考えるべきである。

中国は文字どおり2千年の眠りに入ったままで、中国が「眠れる獅子」でいる間に、西洋先進国とか、日本というかっては低開発国が覇権をのばしてしまったわけで、中国は眠りから醒めたら共産主義国になってしまっていたわけである。

日本武尊(ヤマトタケル)の伝承と、秦の始皇帝の兵馬俑坑のカルチャ−・ギャップは、それこそ文字通りの文化ギャップである。

日本の古墳から出る遺物と、秦の始皇帝の兵馬俑坑の遺物では文字通り雲泥の差がある。同じ遺物でも、日本の埴輪などというものは、秦の始皇帝の各種の様々な「俑」に比べると比較にならない。

それだけ文化に差があったということであるが、その文化が、その後の中国では眠ってしまったところに歴史の不可解なところがある。

そして近代になって気が付くと、中国という国は西洋先進国に蚕食されてしまって、日本も、遅れ馳せながらご馳走にあずかろうとしたら、共産主義という毛沢東帝国に蹂躙されてしまったわけである。

世界各地の文化には、それぞれに栄華盛衰がついて回っているが、共産主義というモンスタ−に取りつかれてしまったら最後、それは息を吹き替えせないに違いない。

しかし、かっての日本は、軍国主義というモンスタ−に取りつかれ、絶対主義という怪物に蹂躙されて、「無」に帰したわけである。

しかし、戦後の日本民族の復興は、その「無」からの出発であったわけであるが、我々は、共産主義というモンスタ−には屈伏する事無く生き返ったわけである。

かっては中国大陸の方が我々よりもはるかに文化レベルが高かったわけであるが、このカルチャ−・ギャップの逆転は、中国が「眠れる獅子」と云われている間に起きてしまったわけである。

これも日本が眠れる獅子を起こしたわけではなく、1894年明治27年の日清戦争においても、中国は自らが眠っている事自体を認識していなかったに違いない。

文化というのは、今日的な意味で、我々は、古墳時代の埴輪とか、秦の始皇帝の兵馬俑坑で接することが出来るが、これはあくまでも文化の一側面にすぎない。

兵馬俑坑の焼き物を作る技術が日本より約700年も進んでいたとしても、その文化レベルが、国民全体に広がっていなければ、主権国家としての文化レベルは下がってしまうわけでる。

我々が太平洋戦争でゼロ戦や戦艦大和を作りえたとしても、政治的未熟さが日本を破滅に導いたのと同じで、民族の知的レベルが一時的に高かったとしても、それは長い歴史のスパンで見れば、一瞬の事にすぎない。

そして、文化文明の衰退ということは、これも歴史の必然で、文化文明の衰退ということは、いみじくも民族の興亡と同じ事である。

その意味で、戦後の日本の高度経済成長というのは、日本民族が絶頂期にあるということであり、後は下り坂しかないと思う。

日本の後には、それこそ中国が続く可能性もあり、ASEAN諸国が続いてくるのかもしれない。

秦の始皇帝の時代から、日本の埴輪の時代を経て、今日に至る時間の流れというのは、近代に近付くにしたがって幾何級数的に早くなっているわけで、今日では、日進月歩という早さで変化しているわけである。

地球規模で眺めて、第2次世界大戦後の世界は、アメリカの時代がしばらく続いたが、日本が高度経済成長とげた昭和40年代、1970年代から以降は、日本の世紀といってもいいと思う。

そして今の日本の景気は下降気味であるが、こういうタイミングにこそ、過去の反省を試みて身を引き締める必要があると思う。

 

民族の特異性

 

1868年の明治維新から約100年の間の日本の発達というのは、ASEAN諸国は大きな目で日本を研究する必要があると思う。

太平洋戦争の補償の問題が未解決などという問題は枝葉末節な事といえば、犠牲になった人々の欝憤は晴れないかもしれないが、過去の恨み言を嘆くよりも、前に進むことの方が大事ではなかろうかと思う。

秦の始皇帝のような文化の大先輩が、東の小島の倭の国に、カルチャ−・ギャップを逆転された、という大きな反省に立たないことには、アジアの民族に光はないものと思う。

アジアの人々にとって、日中戦争と太平洋戦争では、日本が加害者でけしからんという感情は抜けきれないかもしれないが、逆に、日本の立場からすれば、我々も戦争の犠牲者であったわけである。

我々は、裕福な生活をしながら、面白半分にアジアの人々を窮地に陥れたわけではなく、我々も、食うや食わずで、背に腹は変えられず、止むに止まれずアジアに進出したのであって、あの戦いは、民族と民族の戦いであると同時に、主権国家と主権国家の総力戦であったわけである。

第2次世界大戦というのは、世界中の男も女も、戦場ばかりではなく、直接戦場にならない向背地においても、女子供を巻き込んで、主権国家たるもの、挙国一致して戦ったわけで、結果的に連合国側が勝利を治め、同盟国側は敗北を帰したわけである。

アメリカでもイギリスでも、フランスでももちろん、日本でも国家総力を上げて官民一致して戦い抜いたわけである。

その意味で、この時点で、アジアの人々は何をしていたのかと問い返せば、アジアでは、とくに中国では、国民党と共産軍が坑日戦をしたりしなかったり、ゲリラになったりならなかったり、主権国家として何をしていたのかといいたい。

主観的に眺めれば、中国、中華民国というのはその実体があるのかないのかわからない状態であったわけである。

ましてやインドネシア半島というのは、それこそ連合国側の植民地にされたままで、主権国家ですらありえなかったわけである。

そういう状況からすれば、彼らが、今日、戦後補償をうんうんする事自体がナンセンスであると思う。

国の力というのは、秦の始皇帝のような、その時代に先端技術を誇ったとしても意味をなさないことで、一人の有能な指導者の存在よりも、国民全体の知的レベルのアップの方がもっともっと重要なわけである。

国民の知的レベルのアップということは一朝一夕で出来ることではない。

それには継続的な国民の教育ということが必要で、戦後のアメリカの栄光が陰りだしたのは、その教育に重点が置かれなくなったからに他ならない。

それには、民主主義の過度の発達という要因も含まれていると思う。

民主主義というものが、個人の尊厳を大事にするものである以上、究極的には、個人主義に陥りやすく、国家の統制を極端に嫌い、個人の自由を極度に放任すると、人間は安易な方向に流れやすく、自己啓発を疎かにするようになるわけで、それが原因で、アメリカの停滞が起きたものと推測する。

その点、日本の戦後の教育制度は、進駐軍の指導によるところが大いにあるわけであるが、それを日本流に改革改善するというテクニックは、我々の民族の特性であり、我々は、戦前も戦後も、教育の意義の大切さというものを失ったことはないわけである。

明治維新後の日本でも、文字の読めない人々というのは、アジア諸国の比率と大して変わらない状況であったと想像するが、我々の先輩諸兄は、自分が字が読めなくても自分の息子や娘には字が読めるようにしようと、無い金を叩いてまで学校にいかせたわけである。そういう庶民の努力の積み重ねが国力としての民衆レベルの知的水準のアップにつながっているものと思う。

民族の違いということは、こういう庶民の努力の違いからきているのではないかと思う。国力ということは、一人の優秀は指導者よりも、大勢の知的レベルの高い庶民の集合体の方が強いと思う。

これは戦争を意味しているわけではなく、戦争遂行の前提となる国力についての事で、戦争というのは、有能は指揮官が一人いれば国全体が救われることがあるかもしれないが、その場合でも、庶民の知的レベルが高いということはプラスの要因になることはあってもマイナスの要因になることはないと思う。

特に、第2次世界大戦のような国家同志の国家総力戦の場合にはそういうことが云えると思う。

その意味で、戦後のアジア諸国、特に、中国、韓国、南北ベトナム、タイ、フイリッピンなどという国は、本当に日本と互角に戦ったのかといいたい。

1945年8月15日の時点で、この地域の日本軍は、彼らの軍隊に降伏したわけではなく、ましてや戦闘で敗北したわけではなく、この地に進駐していた日本軍は、天皇陛下の命令で相手側に降伏したわけで、その意味で、彼らアジア諸国の人々は、彼ら自身が戦闘で日本軍を撃退したとでも思っているのではなかろうか。

だとすると大きな認識不足といわなければならない。

旧日本軍が銃を置いたのは、天皇陛下の命令があったからであって、彼らとの戦闘に敗北したからではなかったわけである。

それにもかかわらず、彼らは、B,C級戦犯として、ほとんど弁解の余地も与えず現地で処刑処分してしまったわけである。

今までの報復という意味からすれば理解できないこともないが、しからば、今更、戦後補償という言葉を出してもらっては日本側としては何ら応える義務はないわけである。

日本の出先の行為を、戦勝国として十分に報復したならば、日本軍の行なった不始末というものはきれいさっぱりと解決済みということにしなければならないと思う。

自らが属する民族が優秀であるという認識は、非常に慢り高ぶった、不遜な考えだということは重々に理解し、そういう自意識は厳に戒めなければならないと思ってはいる。

しかし、日本民族とアジア大陸に住んでいる他の民族を比較検討するとどうしてもそういう結論になってしまう。

文化を論ずるとき、民族という人間の括り方をすると多民族国家というものが除外されがちであるので、主権国家という捉え方をすると逆に現実の今の日本というのはいささか不安定なというか、烏合の衆というか、それこそ曖昧模糊としたものになってしまう。

しかし、現実のこの地球船には高度に発達した物質文明を享受している国家と、そうでない国家が存在するわけで、今日のように地球上のあらゆる情報が飛びかう時代には、情報に無接触な生活というものはありえないわけで、情報に接する機会が多くなればおのずと先進文化に対する憧憬の念が生まれてくるわけである。

高い物質文明に憧れる人間が押し寄せてくることも自然の摂理である。

この自然の摂理をいかにコントロ−ルするかが政治の課題だと思う。

我々は比較的単一の民族から成り立っている主権国家なるが故に、国家と民族が同一のものと認識しがちであるが、地球規模で眺めてみれば、この地球上でそういう主権国家は数の上で少数派である。

この少数派が大多数の多民族国家を敵に回して国家総力戦を4年半も行なったという事実はアジアの民族の中でも特異な存在であったと云うことが言えると思う。

先の戦争を肯定するという意味ではなく、我々の、先輩諸兄の失敗の歴史として記憶に止めておくべきことだと思う。

 

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