いじめの問題

 

「いじめ」についての考察

 

昨今、小中学校におけるいじめの問題が世間を賑わしている。

小中学校のいじめの問題というのは子供だけの問題ではないと思う。

大人の社会にもいじめということはありえると思う。

それが表面化しないのは、大人は子供に比べて処世術に長けているし、一歩間違えば犯罪になりかねないので加害者も被害者もある程度のセ−ブが効いているからだと思う。

しかし、昨今の子供のいじめというのは実に陰湿で、その陰湿さに周囲の大人が気が付かない、という極めて不愉快なケ−スが多いように見受けられる。

この風潮を鑑みて、元内閣総理大臣中曽根康宏があるテレビ対談で、その原因は、「人の基本を教えないからだ」、と云う意味の発言をしていた。

つまり、彼の言いたいことは 道徳教育で、子供に道徳を教えていればこういう事態は起こらないであろう、という趣旨と思う。

その道徳教育を阻害しているのが共産党主導の日教組であり、そういう先生の元で教育が行なわれている結果である、と言いたかったのではないかと推察する。

それも一理ある発言とは思う。

確かに、日教組が道徳教育に抵抗している図は理解しえるが、今の青少年に蔓延しているいじめの構造というのは、実は大人の問題であると思う。

別の言い方をすれば、民主主義の基本にかかわるほどの根深いものがあると思う。

つまりこれは我々、日本民族の根幹にかかわる問題であると思う。

我々の先輩諸子が道徳教育をいつの時代から学校教育に取り入れたか定かには知らないが、我々、日本民族というのは、道徳というよりも修身という言い方で、教育現場で教えられてきたわけである。

修身といおうが道徳といおうが、その実体は同じ事であり、人としての最低限のモラルを教えることに変わりはないわけである。

しかし、戦後の混乱期においてはGHQの命令で、その修身、道徳という概念を小中学校で教えることが禁じられてしまったのである。 

そして、それを復活させようとしたときに日教組が道徳教育は軍国主義につながるという理由で大反対したことも歴然とした事実である。

確かに、昨今の小中学校のいじめの問題というのは陰湿なるが故に、人としての基本を教えなかった、という理由付けも整合性があるかに見える。

しかし、中曽根康宏という保守の権化のような人の口からそういう言葉を聞くとどうも身構えて考えてみたくなる。

戦後、日本に進駐してきた進駐軍、いわゆるGHQは、日本が太平洋戦争で熾烈な戦いを実行せしめたのは、こう道徳教育による国民の団結力が、これほどまでに苛酷な戦いを推し進めた元凶である、と認識していたに違いない。

戦前の日本国民の潜在意識というのは、確かに修身教育、道徳教育の影響があったことは否めないと思う。

先に、軍人が文部省をも屈伏させて軍国教育を実施した、という趣旨のことを述べたが、修身教育というものも、軍国主義の都合の良い風にアレンジされていたに違いない。

修身とか道徳というものが、その時々の主義主張の、都合の良い風に拡大解釈されて、正義というもの、人の道というものが、その時々に価値観を変化する、というところに問題があるわけである。

昔も今も、子供の集団には餓鬼大将や番長、ツッパリなど、呼び方は様々だけれども、リ−ダ−格の者が自然と出来るものであり、グル−プ内の覇権争いや、対外抗争というのはあって当たり前のことであったわけである。

要するに、大人の社会の縮図にすぎないわけである。

しかし、昨今のいじめというのは、こういう構図とは異質な子供社会が出来上がっているようである。

これは、修身とか道徳の問題では説明のしようのない状況になっていると思う。

子供というのは実に素直なものである。これは昔も今も変わらないと思う。

そして、その素直な子供が大人になるに従って、その純真さを失い、甘いも粋もきわめて、正邪を合わせ飲むしたたかな大人に脱するわけである。

この過程も、昔も今も変わることはないと思う。

とすれば、昨今の子供の社会のいじめの問題というのは、そのまま今に生きる大人の問題として眺めてみる必要があると思う。

この問題を考えるにあたって考慮に入れなければならないことは、正義の価値観の定義だと思う。

正義の価値というものが時代によって変化するようでは人間の道そのものが変化してしまうことで、度量衡が変わるようでは、絶対正義の座標軸を設定することが出来ない。

煩悩を持って生まれてくる人間の社会に、絶対正義というものがあるかどうかさえ本当は疑問であるが、戦前の価値観と、戦後の価値観とでは明らかに相違がある。

ここで云う場合の戦前、戦後というのは、云い方を変えれば、帝国主義的軍国主義と戦後民主主義とでも云う方がわかりやすいかもしれない。 

戦前の日本人の潜在的な意識のなかには、帝国主義的なものを容認する土壌があり、その土壌のうえに正義というものがあったと考えなければならない。

しかし、戦後に生きる我々は、進駐軍によって接木された民主主義というものを潜在意識の中に貯め込んでいるわけで、今、問題になっている子供のいじめというのは、その戦後民主主義によって教育を受けた世代の子供がいじめの問題に振り回されているわけである。戦後の民主主義教育の効果が今出てきているとみなさなければならない。

これは、戦前の修身、道徳教育が「良かった」と云うつもりではなく、戦前の教育は、それはそれなりに日本を破滅に追い込んでしまったわけであるが、戦後の民主教育というのも、今再び、日本を内側から破滅にむかわしめているのではないかと危惧する次第である。

子供の社会で、戦前と戦後で大きく違ったことといえば、それは学校教育の期間が長くなった、ということではないかと思う。

戦前では、15才になれば大人として立派に通用し、社会に出て働いていたわけで、今で云う、社会人であったわけである。

男子であれば立派な丁稚であり、女性ならば18才で立派な母親であったわけである。

こういう社会では、餓鬼大将といったところで15才以下であり、番長とかツッパリなどという存在はありえなかったわけである。

するといじめの問題も、丁稚仲間の先輩後輩の間であったかもしれないが、そういう問題は、当然、表面化はしないわけで、昨今のような新聞種になるようなこともなかったに違いない。  

しかし、いじめが無かった、という証拠にはなりえず、いじめというのは内在化していたにすぎない。

そういう時代背景を考慮に入れて考えると、今の学校教育の現場というのは、何とも形容しがたい混乱に陥っているのではなかろうか。

考えてみると、戦前の小学校というのは、尋常小学校から高等小学校と2段階になっていた。

中学校も、男子生徒の中学校と、女生徒だけの女学校と分離されていたわけで、これを生徒の側、つまり受益者の側から眺めてみると、選択の幅が広かったわけである。

言い換えれば、勉学の嫌いな子供は、それ以上無理に進学することもなく、それで本人も親も、又、世間一般も納得できたわけである。

本人も親も、尋常小学校だけで、納得できなければ上の学校に進学できる道も開かれていたわけである。

しかし、明治維新後、日本の親というのは、出来得れば子弟を出来るだけ進学させたほうが本人のため、国家のために貢献できるであろう、国家に貢献するということは、それだけ実入りも良くなるであろう、という潜在意識を持っていたものと考える。

だから、身を削ってでも子供を上級学校に進ませたいと願っていたに違いない。

学問が本人の身のためになる、ということを潜在的に感知していたと想像する。

その証拠に、戦前に海外移民で国外に出た人々というのは、彼らの子弟に出来るかぎりの教育を受けさせているという事実を見ても、そのことが云えていると思う。

ましてや内地で生活している親にしてみれば、子供は、親以下の教育で満足している親というのは皆無に近いと思う。

それが我々、日本人がアジアの民族の中で抜きんでて近代化に成功した根本であろうと想像する。

 

価値観の基準

 

この文章を書いている最中に1994年から1995年になろうとしているが、戦前の正義というのは富国強兵を是とするものであった。

強きを挫き、弱きを救けることが「善」であった。

これは戦後の日本社会でもそのまま是認されているかのように見えるが、実際は、その

「強さ」「弱さ」の基底がいささか変質している。

戦前と戦後で正義の価値観が変化したとか、「強さ」「弱さ」の基準が変わったといったところでそれは所詮、解釈の仕方の違いで、我々、日本人の特質というのは、物事を解釈の仕方で逃げ切るという点ではなかろうか?

これは、戦後の日本国憲法でも、解釈の仕方で如何様にも逃げ切ることが出来るわけで、現に我々は、それを今日でも行なっているわけである。

と云う事は、我々の歴史というのは、物事を自分の都合の良い様に解釈することで始まっていると言ってもいい。

戦前の教育が富国強兵を最終目的としたが故に、植民地支配を是とし、帝国主義的アメ−バ−風発展を是としてきたわけである。

そういう思考を是とする根底には、やはり、日本の教育と、その時点での情報の存在が大きく作用していることは否めないと思う。

つまり、日本の庶民というのは、日本という主権国家の置かれた状況というものを知らず知らずのうちに認識していたわけである。

というのは、日本は国土が狭く、資源が乏しく、この時点では富国強兵という最終目的を達成するためには海外に進出する他ない、というコンセンサスが国民としての庶民に行き渡っていたに違いない。

戦前の日本軍がアジアに進出して、今日、アジアにその残滓が尾を引いているのは、そこに出ていったのが日本軍という軍隊組織だからこそ、そういう問題が沸き起こっているわけで、戦前の日本は、移民という形で北米、および南米大陸にも数多くの日本人が進出していったわけである。

アジアに出ていったのが軍隊という武装集団であり、片一方、アメリカ大陸に渡ったは移民というのは、それこそ組織とは無縁の、体制側からすれば、棄民と云う状況に近い有り体で国外に出ていったわけである。

太平洋戦争の隠れた原因の一つが、アメリカの排日移民法の設定であった、ことは否めないが、日本人の国外の行為で、アジアに出たのが軍隊であり、南北アメリカ大陸に出たのが移民という非武装の民間であったが故に、この二つの全く違った状況が表れたわけである。

太平洋戦争の原因は、今の言葉で云えばアメリカのジャパン・バッシンであり、アジア大陸で日本が行なったことは、アジアの民族に対する日本側のいじめに他ならない。

日本はアメリカからはいじめられ、その分アジアに対していじめをする側に回ったわけである。

時系列で云えば、日本のアジア民族に対するいじめの方が先であり、それがアメリカの顰蹙をかい、アメリカの日本いじめに発展したとみなしてもいいと思う。

昨今の小中学校のいじめの問題はそのまま日本の大人社会を通り越して国際政治にまで広がっていくものだと思う。 

すなわち、いじめというのは、人間の社会には根源的に潜んでいる人間の「業」ではないかと思う。

問題は、いじめられたからといって簡単に自殺をしてしまう子供にあるわけで、これも死ぬのが子供だから問題にされるだけで、大人が自殺をしたところで小さな記事にしかならない。 

戦後の日本的民主主義を標榜する知識人は、精神的に、このいじめで自殺をする子供のような精神構造をしている。

いじめられたことを自らの心の中に内在してしまって、黙って堪え忍ぶか、自殺という逃避行為に走るしか能がないわけである。

しかし、主権国家というのは自殺が出来ないわけで、そこに個人と個人の集合体としての組織の違いがあるわけである。

自殺ということはいわば逃避であり、人は逃避することが一番安易なわけである。

いじめられる、という個人にとって受動的な環境から逃避することは、それに挑戦することよりも安易な行為である。

これは個人でも組織でも同じなわけで、昨今問題になっているいじめの問題は、この逃避する、という行為が小中学校の生徒にまで及んできているところに今の日本の社会現象として憂慮しなければならない問題が潜んでいるわけである。

ノ−ベル文学賞の川端康成も、三島由起夫も、太宰治も、逃避の手段として自殺を選んだに違いない。

それが小中学校の生徒にまで及んできている、という現実は、現代の日本社会の病理であると認識しなければならない。

戦前の日本人の国外脱出に於いて、組織として軍事力を背景に出ていった人々は、その後の日本の将来に禍根を残してきたわけであるが、民間人として、いわば国から捨てられた形で国外脱出していった人々は、現地にとけこんでそれなりの成功を納めているわけである。

この違いは、日本人が組織として集団的に行動すると世界中の顰蹙を買う、という実例である。

我々が歴史の教訓から学ぶべきことは、こういう我々の潜在的な自意識の中の集団心理というものを解明しなければ、これからも同じ過ちを繰り返すことになるのではないかと思う。

戦後の、高度経済成長による洪水のような製品の海外輸出という問題も、そういう側面から見なおさなければならないと思う。

我々の組織としての集団心理というのは、やはり島国という自然環境の元で、自然に我々の潜在意識として醸成されたものであろうと思う。

我々は、大陸というものの認識が根本的に欠けているわけで、古来2千年にわたり、他の世界が、この世に存在することは知識のうえでは知っていても実感として知り得なかったわけで、どうしても、この世は日本人だけの為にあるという風に錯覚しがちである。

自らは「自分さえ良ければ」という意識を持たずとも、結果がそうなってしまっているわけである。

他民族との接触がない、ということは必然的に井戸の中の蛙になってしまうわけである。明治維新を経て文明開化の世の中になると、我々の庶民レベルでも、外国の情報が入ってくるようになり、その比較のうえで、我々は彼らより優れているのではないかという自意識にとらわれるのも致し方ないと思う。

又、逆に、アジアの諸民族が、西洋先進国に蚕食されている海外事情を知るに及んで、「ああなってはならない」、という過剰な反応があったかもしれない。

その両方が、文明開化による情報の広がりというか、情報の徹底というか、軍事力で国外に出た人々も、棄民、移民として出ざるを得なかった人々にも、共通に、その時点での諸外国の事情に通じていたものと推測する。

その意味は、諸外国の状況に明るいという意味ではなく、日本の置かれた立場から、我々は海外雄飛により、日本という国家に貢献しなければならない、という認識を持っていたに違いない。  

日本の置かれた立場を認識する事自体が、その当時の情報の限界であり、それと同時に、日本の近代化の原点であったのではないかと思う。

それがあればこそ、帝国主義が正義であり、富国強兵が国是になり得たのであろう。

帝国主義とか軍国主義というのは、日本だけの専売特許ではないわけで、その考え方そのものが西洋先進国の思想であったわけで、日本やドイツというのは、そういう考え方、思想に馴染むのがおそかったわけである。

19世紀初頭において、この地球上で、力の弱い民族、力の無い主権国家、近代化の遅れた地域というのは、ことごとく西洋先進国のものとなってしまっていたわけである。

日本が明治維新を達成する時点で、この地球上には、それ以上に帝国主義を振りかざして植民地を確保する余地が残されていなかったわけである。

だから後発のドイツや日本は、西洋先進国の後からついていこうとした矢先に、いじめに会うわけである。無理からぬ話である。

誰しも今までの既存利益を脅かされるような事態は避けたいのが人情というもので、これは、個人たると国家たるとを問わず同じわけである。

西洋先進国が次々と地球上の未開地域で利権を設定し、富の収奪を行なう、という帝国主義というものも、日本人にかかると日本流に変化してしまったわけである。

イギリスという国はインドで綿製品を拡販するためにインドの競争相手となりそうな人々の手を切断してしまって、イギリス製の綿製品をインド人に売りつけようとしたことがある。 

これが帝国主義の神髄であり、西洋先進国にとって、アジアの人々は奴隷以下にしかすぎなかったわけである。

その植民地支配は極めてドライで、かつ徹底的に富の収奪以外の何物でもなかったわけである。

ところが我々は儒教の国である。

同じ人間をこれほど徹底的に差別することには良心が咎め、台湾にしろ、朝鮮にしろ、同化政策ということをしたわけで、これが今日まで彼らから恨まれる原因であるが、彼ら自身も、西洋先進国にはコンプレックスを持っているわけで、相手が日本だから執拗に過去の怨恨を持ち出しているにすぎない。

しかし、儒教の国の民が、同じアジアの民族を蔑ろに扱った事実は拭い切れるものではなく、この現実には、日本の庶民の精神構造と、国家の行為というか、組織としての行為を峻別しなければならない。

儒教の国の民が集団として、組織として、アジアの民に理不尽な行為を強要したという事は潔く認めざるをえない。

しかし、いづれの国民も善人ばかりではなく、又教養の点でもバラツキがあるのは致し方ないことで、物事に完璧を期する、というのも狭量な考え方である。

だからといって、かっての日本軍の行為を正当化できるものではないが、アジアの人々がその全てを、今の日本国政府に責任を負いかぶせようとする発想には無理があるのではないかと思う。

 

話し合いの盲点

 

明治維新で文明開化を実現した我々の先輩諸子が、西洋先進国と同じ事をしようとしたところに、我々の悲劇が潜んでいたわけで、その悲劇から再び立直って、今度は、期せずして富国強兵を達成した我々のバイタリテイ−というものは、人がなんといおうと素晴らしいものであろうと思う。

そこには戦前、戦後を通じて連綿と脈打つ我々、日本民族の根源的な何かがあると思う。それを見付けだすことが戦後50年を期して我々に与えられた課題であり、それが今後日本が世界に対して貢献できる道であると同時に、日本民族自身の繁栄もその中に潜んでいるのではないかと思う。

我々の自意識が、島国なるが故に、唯我独尊になりがちである事は先に述べたが、これからは交通手段の発達や、情報化の時代において、今までのような唯我独尊的な発想では我々は世界と共に生きてはいけないと思う。

戦前において、日本国外に出る手段として、軍事力を背景とする軍隊という組織集団の一員として出る場合と、移民という形で政府から何の支援もなく棄民に近い形で出た人々のその後の軌跡を眺めてみると、1924年の排日移民法のような例もあるにはあるが、がいして民間人の移民の方は問題なく受け入れられている。

移民した当人は色々なトラブルがあったろうということは推察できるが、それが国家間のトラブルにまで進展した例は、先に述べた排日移民法以外にあまり知られていない。

これは要するに、軍事力というものが如何に混乱を招くかという証左であろうが、この時代には、軍事力の行使が正義であり、善であったわけで、その認識は、世界各国共通していたわけである。

軍事力が悪であるという認識は、戦後の日本の特殊な人々の間だけの認識にすぎないわけで、軍事力を背景にして国益を追求する、という行為は、つい最近に至るまで善であったわけである。

しかし、20世紀の前半の日本においては、このことが大日本帝国の終焉をもたらしたわけで、戦後の日本は、軍事力を一切放棄するという在り方で、世界になだたる経済大国になったわけである。

日本民族というのは古来争いを好まない人種であったのではなかろうかと思う。

いわゆる江戸時代迄の日本というのは、様々な国内における闘争を繰り返して、関ケ原の合戦と云うような戦闘場面が我々の脳裏をかすめるが、あの関ケ原の合戦も、実質は一瞬の出来事で、東西両軍に別れて何日も何日も戦闘が繰り返されたわけではない。

要するに、「戦争をする気構えは整っているぞ!」、というポ−ズを取ることによって雌雄が決したわけで、血で血を洗うような戦闘場面があったわけではない。

所詮、我々は農耕民族で、血を見ることは元来好きではないわけである。

それ故に、我々は古来から話し合いの精神で生きてきたわけである。

日本の政治が政(まつりごと)と称される所以である。

軍事力というパワ−を直接ぶつけて雌雄を決する、というやり方は我々の性に合わないわけである。

しかし、戦前の日本の軍部の人々というのは、そういう我々の古来からの精神構造を顧みる事無く、思い上がっていたところに我々の禍根があったわけである。

この思い上がりそのものが、軍隊という組織の精神構造であり、ある意味で、集団心理に陥っていたわけである。

人間というものの心の中には、いわゆる煩悩といわれているように、いじめの心理が潜んでいたり、威張りたがるという気持ちが潜んでいたり、妬むという心理が潜んでいたりするわけであるが、この時代に、軍人が威張るということは、既にこの時点で、帝国軍人の精神構造に欠陥があったわけである。

明治憲法下で統帥権というものがあることは今まで何度となく出てきているが、これは天皇陛下の権利であって、軍人は被権利者であるはずである。

それが何処でどう間違ったか知らないが、軍人は、政治家の支配に入らなくてもいいという風に解釈されて、軍人の間に広がってしまったわけである。

軍人勅諭には明らかにシビリアン・コントロ−ルの趣旨が記されているにもかかわらず、統帥権というものが、シビリアン・コントロ−ルを否定するものである、という風に誤解されて理解されている節がある。

それが元で、軍人が威張る、という事態が出来上がってしまったに違いない。

帝国軍隊が天皇の軍隊である、ということは天皇に絶対服従で、天皇の意志に沿って行動しなければならないわけであるが、天皇陛下は、徹頭徹尾非戦論で、天皇自らの意志で軍隊を動かそうと思ったことは全く無いにもかかわらず、帝国軍隊は、政府が軍務に関与できないことを理由に、政府を無視する態度に出たわけである。

政府が軍隊に関与できない、という意味で明治憲法は不備であったことは確かであるが、拡大解釈して、世界のあらゆる主権国家で、完璧な憲法というものはありえないのではないかと思う。

その意味で、戦前の軍人が威張る、ということも明治憲法を拡大解釈するという意味で、戦後の進歩的知識人が、今の憲法を如何様にも拡大解釈して、自分に都合のいいように利用して論陣を張るのと同じである。

我々、日本民族というのは、西洋人のような契約社会ではない、所詮、話し合いの文化を作り出した民族であるが、この話し合い、という一見極めて民主的な雰囲気を持った行為が案外と曲者で、話し合いということは、憲法をもどういう風にでも解釈するということである。

それが証拠に、今まで述べたように、戦前の軍国主義者は、統帥権というものが天皇陛下の権利であるのに軍人の権利であると、軍人に都合の云い風に解釈し、戦後は戦後で、今の日本国憲法は、自衛戦争をも放棄したものであると云う風に、主権国家の一員であるまじき発想に陥るような解釈まで成り立つわけである。

これが話し合いの結果である。

話し合いと議論とは全く別のものである。

昨今、談合という言葉が流行っているが、これも企業同志がお互いに無駄な過当競争を排除して、お互いに話し合いで、苛酷な生存競争を回避しようというものである。

国民サイドにたてば、その話し合いで不当な利益を上げるような行為は厳に謹んでもらはなければならないが、同業者にしてみれば、熾烈な過当競争を排除して、程々の利益を上げ、企業として生き残れる術である。

昨今のマスコミの論調というのは、談合ということはすべからく悪だと決め付けているわけであるが、談合している企業には、それぞれに従業員がおり、その企業が真の意味の自由競争をすればしたで又違う意味の弊害が出てくる可能性があり、その前に自由競争で淘汰去れてしまったら、その従業員というのは誰に怒りをぶつければいのか、という問題を内在している。

戦後の日本で実現されたアメリカ民主主義というのは、経済活動という土俵で、自由競争を建前としているが、真の自由競争が実施されたとすれば、それこそ弱肉強食の世界が実現するわけで、日本人の対応というのは、談合によりそういう苛酷な生存競争を緩和しようという発想であり、談合によって消費者や購買者を騙して膨大な利益をむさぼり取ろうという発想とは違うわけである。

資本主義社会の企業であるかぎり、企業としての利潤追求というのは捨て切れないが、不法な利益を獲得して、それをスイスの銀行に隠して、私利私欲を肥やすという発想とは違っているわけである。

談合とは、今、日本の進歩的知識人の一番望んでいる話し合いの結果であり、その目的は企業の利益を潤をすチャンスを平等にしようというものである。

つまり、結果の平等を目指したものである。

企業が談合により不当な利潤を隠匿するような事態ならば、国民として、消費者として断固奮起しなければならないが、民主主義経済の基本として、自由競争が建前なことはよく理解できるが、自由競争が熾烈になると、国家になんとかしろといい、談合があれば、談合はけしからん、という発言は如何にも行き当たりばったりの発想で、文句の言いぱなしに近い行為である。

談合という行為は、日本人の、古来からの、従来からの農耕民族としての知恵の一つである。

このように、日本人は民主主義が多数決の考え方で成り立っている、ということを十分承知のうえで、多数決で何事もばっさり、一刀両断に切って捨てる、というドライな発想には慣れていないわけである。

多数決で決めようとすると少数意見を尊重せよと云う議論が出てくるし、少数意見を尊重して話し合いで決めようとすると、談合だと称して糾弾するわけである。

戦前の日本では、民主主義が未熟だったが故に、権力者に歯向かうことを一般庶民は回避していたわけである。

床屋談義という言葉があるが、一般庶民が床屋で政治の話を口から泡を飛ばして議論していた証拠であるが、その声は政治には反映されることが無かったわけである。

それは民主主義が未熟であったのと同時に、一般庶民と政治は隔離されていたわけで、戦後、マスコミの発達により、我々は自らの声をいくらかでも政治の場に反映することが可能になったわけである。 

その意味でマスコミの貢献は大いに称賛すべきであるが、今はその時代を通り越して、マスコミが世論というものをコントロ−ルしかねない、というところにマスコミの弊害があるわけである。

政治家のリ−ダ−・シップということを云う人々は、この床屋談義の域を出ていないわけで、最近の日本の状況というものは、国民一人一人が政治家に近い情報というものに囲まれて生きているわけである。

問題は、戦前の日本人が床屋談義をしていた、マスコミの未発達で、それ以上に出られなかったという状況を斟酌するとしても、国民が政治とかけはなれた場所にいたことが日本が進路を誤った原因ではないかと思う。

しかし、これは時代がそうさせたのであって、時代の流れというとらえ方をすれば歴史の必然としか言いようが無い。

 

リーダーと国民の資質

 

1994年が暮れて、今新しく1995年を迎えた時点で、我々は終戦から50年を迎える時である。

今年はその意味で色々な企画が催されると思うが、終戦、敗戦という事柄は、我々日本人にとって如何にも大きな衝撃であった。

これを境にして同じ日本人の価値観が180度転換してしまった。

この変わり身の早さ、意識改革の早さ、というものは一種の無節操ではないかとさえ思いたくなる。

あの時、日本人は徹底交戦すべきであった、というつもりはないが、終戦からマッカアサ−の統治の間の日本人の従順さ、というものは一体何であったのであろうか? 

価値観が逆転したから新しい価値観に飛び付いたとでも云う他ない。

この飛び付き方に、日本人の独特のメンタリテイ−があるのではなかろうか?

この日本人独特のメンタリテイ−、精神構造そのものが日本をあの戦争に駆り立てた原動力であったに違いない。

戦後50年を期に、その日本人のメンタリテイ−、精神構造を説き明かさないかぎり、我々は歴史の教訓から何一つ学ぶことは出来ないのではなかと想像する。

私の今までの論旨は、これを探求することにあるわけであるが、自分一人ではいっこうに光が見えてこない。

いつも論理が堂堂巡りしているだけで、結論めいたものが出てこないわけである。

日本人のメンタリテイ−を追求すると云う事は、他の人種との比較検討ということになりがちであるが、私の本旨は、人類の比較ではなく、日本人が、国家の総力を上げてあの戦争を戦い、アジアの人々に対して多大な迷惑を掛けてしまったあの熱情が、日本人の何処に潜んでいたのか、ということを説き明かしたいと思っているわけである。

そう思いながらも自分の考えが時には日本人特異論になり、民俗性の問題になり、太平洋戦争肯定論になりがちであるところに己れのジレンマを感じている次第である。

我々は、古来農耕民族として、他の民族と血で血を洗う争いは得意でないことは前に述べたが、日本が明治維新で文明開化したということは、この時点でも価値観の転換が起きたことに他ならない。

我々の歴史は、過去において、何度も何度も価値観の転換をしていたことになる。

明治維新の段階で、世界はどういう状況であったかというと、インドはイギリスに完全なる植民地化され、中国といえばイギリス、フランスと戦争をしており、朝鮮に関しては、農民の反乱が起きたりたりして、アジア諸国というのは、どの国も主権国家の体をなしていなかったわけである。

明治維新で文明開化をした日本とて完全なる主権国家が出来上がっていたとは言い切れない面がある訳で、いわゆる近代化のスタ−トラインとしては横一線に並んでいたわけである。

その中で、近代化に一歩リ−ドした日本が中国、清と戦争をして勝った。

今、中国の人々が日本の侵略を云々する場合、この時点まで遡って議論を進めているわけで、この時点では、帝国主義的植民地支配というのは世界の正義であったわけである。

それは一言で表現すれば弱肉強食の帝国主義を元とする資本主義の発展段階であったわけである。

この時点では、帝国主義というのが世界の中でトレンデイ−な考え方で、それは世界の了解を得ていたわけである。

だからこそ西洋先進国というのは富国強兵に努め、自国の軍隊が強くないと軍事力を背景とする帝国主義的植民地支配ができなかったのである。

インドでも、中国でも、東南アジアの諸国でも、自らの民族の力でそれ、つまり帝国主義的植民地支配をする能力も実力も持ち得なかったわけである。

持ち得なかったというよりも作り得なかったわけである。

それは、既にヨ−ロッパの西洋先進国に蹂躙された後だから、という理屈は通らないわけで、既に西洋先進国に支配される事自体が民族の怠慢であり、民族の力の無さであり、自助努力の不在であり、文明を受け入れる寛容の不備であったわけである。

これはすべからくその民族の問題であり、自らの民族の問題を、日本が侵略したからという理由は不合理である。

イギリスが行なった綿製品の生産に関し、インド人の手首を切ったという話と、日本の帝国主義的植民地支配を同列の論議することは不合理であり、不合理であるばかりでなく、今日のアジアの人々が日本に対して云っている、戦争責任を云々することは、相手が日本だから言っているのであって、同じ事をイギリスに対して言っているのかと問えば、答えはNOである。

話を元に戻して、明治維新で日本が文明開化を実施して、中国と戦争をして勝った、と云う事実は、アジアの人々は、その歴史から学ぶものが多かったと思う。

学ぶべき人々は、中国の人々をはじめ、朝鮮の人々も、東南アジアの人々も、日本が何故に西洋先進国の支配から免れ、この時点における近代化に成功したのか、あの日清戦争から学ぶべきであった。

特に中国の人々は、中国側にとって敗戦となった日清戦争からは学ぶべきことが多かったに違いない。

明治維新を経て日本が近代化したという事実は、基本的には政治の在り方がよかったということであるが、それは取りも直さず、日本のリ−ダ−の資質が良かったということになり、根源的にはリ−ダ−ばかりでなく、そのリ−ダ−についていった国民の資質も良かったということになってしまう。

これは民族の優秀さということになり、今の時点では声高に言ってはいけない事である。明治維新以前は、日本人は、中国を極めて先進国であると認識し、その当時の日本人は、中国に憧れていたわけである。

その中国が、西洋の文化にいとも簡単に蹂躙されたということは、中国の人々は、自らの国のことをどういう風に理解しているのであろう。

中国の人々には、古来、中華思想というものを持ちつづけ、「自らが文化的に一番偉いんだ」という発想は、我々のレベルで考えれば傲慢であり思い上りにすぎないものである。

民族の生存が、そのリ−ダ−の肩に掛かっているとき、リ−ダ−がしっかりしていれば危機は乗り越えられるものである。

運、不運ということもあるが、リ−ダ−とそれについていく国民がしっかりしておれば、不運を幸運に変えることも出来るわけで、リ−ダ−の資質と、国民の資質がしっかりしていれば、国家の危機というのは乗り越えられる問題である。

中国が西洋先進国に蚕食され、日本との戦争に敗北した、ということは中国の人々の民族自決の自助努力の不備である。

日本が太平洋戦争に敗北したのは、やはり日本がその時点でリ−ダ−に恵まれていなかったという事に尽きると思う。

戦前の日本には富国強兵という国家目標があった。

これは日本だけの目標ではなく、世界各国が、帝国主義的資本主義を推し進めていこうとするかぎり、富国強兵というのは、何処の国でも国家目標であり続けるわけである。

その目標が達成されないかぎり、その国家はインドなり、アフリカ諸国なり、東南アジアの諸国のように、西洋の先進国に蹂躙されてしまうわけである。

今日、中国では南京大虐殺をテ−マにした博物館があると聞くし、韓国には旧日帝の植民地支配の時の様々な展示物を並べた博物館があり、あちらの小中学校の生徒がそれを見にきているといわれている。 

日本の過去の植民地支配にともなう犯罪的な行為を彼らの民族の末裔に教えているつもりであろうが、ここに見える彼らの発想そのものがすでにアジアの近代化レ−スに対する欺瞞である。

何時までも過去の怨恨にこだわり、未来へ向けての前進が見られないわけで、過去の両国の確執を何時までも恨んでいても進歩はないわけである。

だから我々、日本側が、過去のことを忘れても良いというつもりはないが、戦後の日本を例に見れば、2発の原爆を落とされ、無条件降伏を強要されたアメリカに対して、今の中国や朝鮮のような対応をしていたとしたら、日本のこの経済成長がありえたであろうか?戦後の日本の生き方というのは、原爆被害者の救済を内在しながら、アメリカとは経済協力なり、安全保障問題で緊密に連携を取りながら経済発展を成し遂げたわけである。

明治維新を成し遂げ、文明開化して、すぐ日本は清国との戦争に勝ち、勝てば、その当時の常識として、領土の併合を要求し、国力、つまり軍事力の無い負けた側は、その要求を飲まざるを得なかったわけである。

これにより台湾が日本領となったわけであるが、それが帝国主義の神髄であり、この時点では、そうすることは正義であったわけである。

今の時点で云えば、これは明らかに侵略の一言であるが、この時点では、それが世界の正義であり、軍事力こそがそれを実行せしめる力であったわけである。

そして、日清戦争で疲弊した日本は、逆に「欲張りすぎる」といわれて遼東半島の返還を3国干渉により強要されたわけである。

せっかく取ったものを返還しなければならない、というのも軍事力の無さの悲哀であったわけで、この時の、我々の側の国民感情というのは、富国強兵こそがこの世の全てであると思い込んだのも無理のない話だと思う。

現時点で、台湾の人々というのは、あまりこういう無理難題を日本に振りかざしてはこないが、中国や朝鮮の人々というのは、日本の帝国主義というものを今だに根に持っているというところに彼らの民俗性があるものと解釈せざるを得ない。 

それがあるかないかが経済成長のバロメ−タ−になっているわけで、それが無い台湾が、経済成長でこの二つの国より先んじているというのも不思議なことである。

明治時代の政府の高官、官吏というのは、その前の江戸時代の武士であったわけである。版籍奉還、廃藩置県、秩録処分により、それまで各地方の城主に仕えていた武士階級が、封建時代から近代化するという大革命の中で、明治政府の官吏になっていった事情というのは或る一種の成り行きである。

というのも、明治維新前の各地方の武士というのは、武士であるが故にある意味でその当時のインテリであったわけである。

「武士の商法」という言葉があるが、インテリなるが故に商売は下手なわけで、そういう、今で云うところの脱サラは成功しなかったわけである。

そういう背景を勘案すると、1895年の下関条約で、台湾に総督府を置いて台湾を統治した日本人の先輩というのは、その明治維新前の武士であったわけである。

正確に云えば、初代台湾総督府は山県有朋で彼は長州藩士であった。

今から丁度100年前のことであり、朝鮮総督府の方は1910年に置かれているので、今から85年前のことで台湾の方が日本の植民地支配の歴史が15年も長いわけである。長く支配された方が日本に対して寛大で、短い方が日本に対して恨みを持っているという現実は、支配した当時の管理者の責任だと思う。

つまり、支配した土地で何を行なったかという問題だと思う。

明治時代に政府の高官となった人々というのは、いずれも旧時代の武士階級の人々で、彼らは当時の日本のインテリ層でもあったわけである。

時代が下がるにしたがって、そういう人々が段々少なくなっていくと、それに変わってかっての農民クラスの、いわば4民平等政策による平民が主導権を取るようになると、慢り高ぶる風潮が日本の政界にくすぶってきたわけである。

それは教育の普及ということもあり、前にも述べたが、日本の軍人養成学校というのは、授業料免除である。

そうすると平民クラスの優秀な人間がそういう場所に集合するわけで、昭和初期の段階の青年将校の反乱というのは、まさにその典型的な例ではないかと思う。

今日、差別ということがタブ−になっている。

しかし、煩悩に包まれた現実の人間社会というのは、差別ということを払拭できない。

特に我々のような農耕民族においては、生まれ落ちた時点で、自分の周囲の環境ということ選別できないわけで、徳川300年を、労働をすることなく、ひがな文書を読み、武芸に精を出していた人と、朝星夜星で24時間労働にあけ暮れていた人々が、4民平等で一斉にスタ−ト・ラインのついたとしたら、その人間的資質に自ずから差があるのは致し方ない。

しかし、我々、日本人を民族としてとらえた場合、武士であろうと、農民であろうと、その根底の部分は同じである。

で、それは何かといえば、物事を決めるときに、賛否両論を上げ、多数決で決するのではなく、話し合いで物事を決着するというところである。

これは封建時代の殿様でも、日本の場合、独裁者というのは少なく、殿様は部下の議論を聞いて、その中で一番妥当だと思う指針に決済を与える、というシステムであったわけで、それこそ民主主義として通用するシステムであったわけである。

ところが、この話し合いということが中々の曲者で、言い方を変えれば、これは一種の責任回避の策である。

 

政府の選択の過誤

 

我々は、責任という認識が西洋の人々といささか異なっているのではなかろうか。

アメリカ大統領というのは、在職中は絶大な権力を持っているが、降りてしまえばただの人である。

ところが、日本の政治家というのは、内閣総理大臣を降りても、やはり党内で権力を振り回し、影の力を発揮し、また現職の総理大臣が先輩の意見を聴く、という形で影響力を及ぼしている。

つまり、責任が誰にあるのか皆目理解できないわけである。

話し合いということも、突き詰めれば、各個人のエゴのぶつけあいになるわけで、それでは何事も決まらないわけである。

その結果として、各個人が妥協を余儀なくされるわけで、妥協という言葉は、発言を控え、自分の意見を殺す、ということに他ならない。

話し合いでも原則的にはその内部で多数決のはずで、あまりにも突飛なアイデアというのは、皆の賛意が得られないと思う。

この、皆が一様に賛意を表明する、ということで話し合いが成り立ているわけで、突き詰めれば、それに参加している人の利益が一番損なわれない結論が導かれるに違いない。

結論が決まったが、それではその責任は誰にあるのかとなると、責任者というのは会議に出席した全員にあるわけで、真の責任者というのは、衆議の一致ということの現実の中に埋没してしまっている。

そして、各人が少しずつ妥協するということは、いわば声の大きい人が有利で、人を黙らせる雰囲気を持った人が一番有利な結論導きだす結果になる。

民間テレビ局で、田原総一朗の総合司会で、「朝まで生テレビ」という討論番組がある。

この中のコメンテイタ−の一人である大島渚という映画監督がレギュラ−で出演しているが、彼の発言がまさにそれであるが、この番組を見ていると、日本人の議論の仕方というものを如実に理解することが出来る。

この番組は、結論を出すというものではないが、議論のテクニックを見るうえでは実に便利な番組である。

この番組では、10人前後のコメンテイタ−がそれぞれの立場で発言するわけであるが、これが何かの結論を出さなければならない会議であるとしたら、結論というのはいつまで議論してもありえない。

それだけ個性の強いコメンテイタ−を集めて番組として面白く企画されているわけで、何かの結論を出すということが要求される会議であるとしたら、結論は何時までたってもでない。

政治というのはこれでは成り立たないと思う。

その都度その都度、結論を出して、それを実施していくことが政治であるわけで、議論をいくらしたところで、結論が出なければ政治が成り立たないわけである。

我々の議論の仕方というのは、あの番組を見れば一目瞭然である。

昨今の日本の知識人というのは、何か問題が起きるたびに、話し合えば良い結論が出ると言う言い方をしているが、話し合っても結論が出ない事は山ほどあると思う。

政治というのは、会議をして結論を出す、ということも大事であるが、それよりも、その話し合いの中で、最良の判断を下すということがそれよりも大事ではないかと思う。

議論の中で、意見は山ほど出るであろうが、その中の一つに決断を下すということが政治ではなかろうか。

今の日本の知識人が政府を批判するのは、出た結果としての結論よりも、その過程を云々している場合が多いようの思う。

結論というのは比較的理解されやすい。

例えば、福祉を実施するのに財源がいることは誰でも理解できるが、その時に、消費税を導入するかどうかという場合でも、結論としての福祉を充実しなければということは誰でも理解しているが、その手段方法として、どういうシステムが必要かということに問題が集中してしまって、その方法としての消費税はけしからんという論法である。

おそらく、明治時代の初期の政治家もこれと同じような議論をしていたに違いない。

明治維新後の征韓論というのは、明治維新による下級武士階級の救済のために、朝鮮に出兵しようというものであった。

この時点で、既に、朝鮮は日本に支配される運命であったわけである。

そして、この時点では、まだまだ帝国主義というものの認識が我々にはなく、封建領主の意識のまま、弱い民族は征服する、ということの善し悪しが我々にはなかったわけである。その征韓論というものも、今、我々がしていたような不毛の議論がなされていたのではないかと思う。

そして、結果として西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野しているわけで、この時点で、議論がまっぷたつに分裂し、結果として征韓論というのは実施されなかったわけである。そのかわりとして、西南戦争というものを誘発し、国内紛争で、軍事力の充実が実現してしまったわけである。

これにより、軍事力としての近代装備が勝利したというわけで、後にそれによって朝鮮は日本に植民地支配されることになるわけである。

民族が近代化する以前においては、主権の拡張を望む気持ちをどういう言葉で表現するのか定かには知らない。

例えば、秦の始皇帝の征服欲、ジンギスカンの征服欲、織田信長の征服欲というものをどういう言葉で表現するのか知らないが、帝国主義とは少しニュアンスが違うのではないかと思う。

明治維新で文明開化を実現したときの日本は、そういうエネルギ−を、朝鮮半島に向けざるをえなかったということは、地理的条件から見て致し方ない、ということが云えると思う。

日本という島国が、外に向かおうとした場合、朝鮮半島が最初の足掛かりになることは地理上の距離からして致し方ないわけで、そういう背景からして、明治維新で近代化したときに、征韓論というのは自然発生的に出てくるわけである。

その前には、豊臣秀吉の朝鮮征伐という発想があったのも同じ理由からだと思う。

それに反し、大陸の側から日本の攻めてくる、というケ−スが少ないのは、大陸の側からすれば征服する土地、征服欲を満たす土地、というのは無限に近くあったわけで、わざわざ危険な海を越えてやってこなくてもよかったわけである。

日本は、昔も今も、アジアとの関係を抜きにしては存在し得ないわけで、アジアとの関係という言葉の中には、軍事力による民族支配という選択肢も含まざるをえなかったわけである。

朝鮮半島の側からすれば、日本から受けるあらゆるものが人々の気に障ることは否めないわけで、軍事力での進出は勿論のこと、文化、経済面での進出でも、彼らにとっては面白くないわけである。

そういう感情がある以上、日本以上に民族としての団結をすればよさそうに思うが、それも彼らの力では成し得ないわけで、その証拠に、いまだに南北に分断されている現実が示している。

朝鮮半島の人々が、他民族の支配を受ける、というのは日本だけが彼らを圧迫したわけではなく、彼らは中国からも同じように圧迫を受けているにもかかわらず、日本にだけに苦情申し立ての矛先を向けるというのは、中国は、彼らのメンタリテイ−の中で、文化的な先生の格を有しており、日本は弟子の資格しかないわけで、その弟子が、彼らに影響を与えるという状況に我慢ならないわけである。

アジアの文化というのは、すべからく中国に起源を有し、それは朝鮮半島を経由して日本に入ってきたわけで、その経由地として朝鮮半島というのは存在し、そこに住む人々というのは、日本より、彼らの方が先進国であるという自負を持っているわけである。

日本が彼らに何かしらの影響を及ぼすということは、この彼らの自負の琴線に触れることなのである。

明治維新の時の征韓論というのは、我々、日本側のナショナリズムの発露であったわけで、ある意味で、日本帝国主義の萌芽であったわけである。

しかし、これは軍備費が欠乏している、日本国内がまだ安定していない、その隙に、西洋先進国に侵略されるという危惧、その他諸々の状況により、この時点で朝鮮に出兵することは適当ではない、という判断で回避されたわけである。

今流に云えば、平和指向、鳩派の勝利、理性の勝利、冷静な政情分析の勝利ということが云える。

こういう言い方が出来る反面、国内的には、西南戦争という国内の内乱を誘発したわけである。

帝国主義というのは、軍事力を背景にして植民地支配をすることと理解していいと思うが、この軍事力という点でも、日本と朝鮮で、明治維新当時、両国にさほどの歴然たる差はなかったと思う。

日本においても開国して10年しかたっておらず、朝鮮も同じように民族運動が高まりつつある時期であったわけで、スタ−ト・ラインは全く同じとみなしていいと思う。

スタ−ト・ラインが全く同じであるにもかかわらず、その後段々と差が出て、片一方は支配する側、片一方は支配される側に別れたのは、やはり政治の優劣の問題と思う。 

そして、世界的に見て、政治的な成果に差が出た、ということは東西冷戦のようは大きな視野で眺めれば、思想信条の差ということが言えるが、日韓両国のような限られた視野で眺めれば、これは民族性の差ということに他ならないと思う。

日本が江戸時代の封建制度から脱却して、西洋先進国に一歩でも近づこうとして近代化に努力したのは、西洋からの圧迫があったからでもなく、朝鮮民族からの指導があったからでもなく、アメリカやロシアという強国の恫喝にあったからでもなく、100%日本人の選択であったわけである。

日本人の選択という場合、具体的には、その当時の政治家、各階層のリ−ダ−の選択であったわけである。

明治初期の段階で、征韓論を時期尚早である、と回避することも政治の選択であり、日清戦争を行なったのも、政治の選択の一つであったわけである。

征韓論から2年もしないうちに、日韓両国に間には、江華島問題というトラブルを引き起こし、これにより日朝修交条規の締結を行なったわけであるが、これは明らかに軍事力を背景とする恫喝外交であったわけである。

しかし、今で云う軍事力の行使ということなしに成し得た帝国主義的な国益拡大という点で、日本サイドからすれば成功した例であるが、朝鮮サイドからすれば国辱的なものであることは否めない。

惜しむらくは、この国辱的条約を、朝鮮の民族の力で跳ね返す民族的エネルギ−があれば、その後の朝鮮の人々の生き方も大きく変わっていたに違いない。

この時点で、朝鮮国内では、清国と連携を深める事大党と、日本と連携を深めようとする独立党の確執があり、民族のエネルギ−というのは2分されていたわけである。

朝鮮の民族的メンタリテイ−の中には、大陸指向がつよく、文化の先生としての中国に関心が向き、文化の下流である日本を蔑視する気風が抜けきれなかったことは歴史が証明しているが、この大陸指向が、その後の日清戦争を誘発しているわけである。

朝鮮の人々に、大陸指向があるかぎり、朝鮮半島には平和はないのではないかと思う。

これは今日的な目で見てもそう思わざるをえない。

現に今でも朝鮮の北半分は大陸の中国の方を向いており、南の半分は反日気風が抜け切っていないわけで、反日をかかげることによって、朝鮮民族に生きがいが生まれているような節がある。

戦後、日本は、アメリカによって占領されたが、その事を恨んで日本国民がすべて反米になったわけではなく、むしろアメリカとは積極的に協力しあって、今日の日本の発展を作り上げたのである。

近代の帝国主義の蔓延が、一部の民族に、不利益をもたらしたことは否めないが、そのことをいつまでも恨んでいても新しい進歩はないわけで、恨みを乗り越えて、前向きに物を考えなければ、民族の発展もありえないと思う。

明治の初期に、征韓論が出、それを理性的な判断で、武力解決をせず、そのエネルギ−を日清戦争で噴出させるという国策は、その当時の日本の政治としては、きわめて成功した例だと思う。

問題は、これが日本の帝国主義的植民地支配の第一歩であったということである。 

大きな意味で、西洋先進国の模倣であったわけである。

日本が西洋先進国の思想を模倣することを悪だとしたら、その模倣のオリジナルは悪ではないのか、という疑問が我々の側に起きるのが当然ではないかと思う。 

しかし、アジア諸国で、日本の植民地支配を糾弾する声はあっても、そのもとであるところの、ヨ−ロッパ諸国の植民地支配を糾弾する声というのは全くないというのはどういうことであろう。 

一つには、日本が、今、金持ちの国で、文句を云えばなにがしかの余禄に有り付けるという、さもしい魂胆があるのかもしれない。

アジア諸国を、かって君臨していたヨ−ロッパの元宗主国というは、今では、経済成長では、日本の足元にも及ばないわけで、文句を言ったところでビタ一文出てくることはないわけで、その意味で、日本は、言えばいったで何かしら余禄に有り付ける可能性をひそめているわけである。

イギリス、オランダ、フランス、という国々が、かってはアジアを植民地として支配し、アジアの民衆を圧迫し、富を収奪していったことには沈黙を通し、日本が彼らを模倣し、彼らと同じ事をすると侵略である、謝罪せよ、金よこせでは実に不合理だと思う。

日本は模倣の国である。

しかし、模倣もその根底に能力が内在していない事には成り立たないわけで、それは工業製品であろうと、思想信条であろうと変わらないと思う。

戦後の進駐軍というのは、我々に民主主義というものを植え付けていったが、それも育ちうる土壌がなければ枯れ絶えてしまうわけである。

戦後の日本は、この民主主義をも日本流に加工、醸成したわけで、その善し悪しは別にして、日本は、今、世界でも最も安全で自由な国になっている。

明治維新で発足した大日本帝国というのは、1945年の終戦で見事に壊滅した。

文字どおり日本は灰燼に化したわけで、その中で生き残った日本人、日本民族というのは、それこそ衣食住のことごとくに欠乏し、魂を失い、生きる希望も、生きる術も、生きることの価値観をも失っていたわけである。     

しかし、明治の初期の段階では、我々の先輩諸子は、情報の不足から世界で何が起きているのかも全く知らずに、殊更、富国強兵ということを願っていたわけである。

その意味で、この頃、世界の事情を視察してきた岩倉具視や伊藤博文の存在は大いに称賛に値するものと思う。

日本が開国したのが1858年、岩倉らが諸外国の視察に出たのが1871年、開国から13年しか経っていない時点で、諸外国の事情を見てこなければ、と悟ったことはいかに進取の気性に富んでいたかということだと思う。

そして、諸外国の良いところはすぐに真似する、真似という事が、今日いささか軽蔑の念で見られているが、真似、模倣ということも、その基礎に真似をするだけの資質がないことにはありえないわけで、いかに独創が尊重されるとしても、物事の上達には、その端緒に模倣より始める他にわけで、その意味で、彼ら、当時のオピニオン・リ−ダ−達の諸外国見聞というのは意義のあることであったに違いない。

しかし、この時期、憲法制定のために派遣した伊藤博文が、ドイツの憲法を参考にしたことは、結果的に大日本帝国を消滅に至らしめた最大の原因だと思う。

世界のあらゆる主権国家で、その国の憲法が最良の物である、ということは言えないわけで、人間の考える事で、正しいものはこれ一つしかないとは言い切ることはありえない。いかなる国の憲法でも、大なり小なり欠陥を抱えているもので、その証拠に、憲法を改正することはままあることである。

人間が考えだした主権国家の規範とすべき憲法でも、そういう不具合がある時はこれを、その都度改正して、よりよき物にするというのは極めて正常な考え方であると思う。

ところがドイツを参考にした憲法は、天皇君主制を重視するあまり、形の上で、天皇から臣民に与えたまわる欽定憲法にしたところに、その後の日本が軍国主義に陥る最大の欠陥があったわけである。

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