明治の元勲

帝国主義の終焉

 

明治の元勲達が、憲法制定するときに、天皇陛下の地位が何時までも安泰であるようにと願っていたことは理解できる。

何しろ版籍奉還、廃藩置県、秩録処分という大改革の後である、不平分子というのは、いつまでも巷にくすぶっており、その意味で、西南戦争というのはその代表的な例であろうが、そういう状況下で、日本を治めていくためには天皇の力、皇室の威力、天皇制を国民に知らしめないことには日本がばらばらに分裂してしまうのではないか、という危惧があったに違いない。

日本が分裂することを避けるため、天皇制という強力な説得力を持つスロ−ガンを必要としたに違いない。

そのために、下じもでは自由民権運動が起こっている最中でも、天皇制というのは違和感なく受け入れられたわけである。

明治の元勲達というのは、その当時の国民感情というものを実によく把握していたに違いない。

維新前の下級武士不満、庶民の不満、農民の不満というものを知っていればこそ、天皇制という、上からの強力な権力で、庶民を押さえ付ける機構というものを作り上げたに違いない。  

つい10年前までは鎖国状態であり、人々はチョンマゲを結い、武士は腰に刀を差していたわけである。

明治維新という大改革を実施しても、不平分子というのは、武士をはじめとして、町民や農民に至まで、現状に不平不満を持っていた時代である。

こういう状況下で、その不平不満を少しでもそらすという意味で、一つが征韓論であり、一つが天皇制の強化であったわけである。

江戸時代においては、天皇家いうものは存在こそすれ、政治の中枢には入り込めず、あくまでも存在することにのみ意義があったわけであるが、明治維新というのは、その天皇を表舞台に引きだしたというものである。 

しかし、天皇自身は立憲君主制に撤し、自らの発言は極力控えるつもりでいたが、その下で、天皇を支えるべき政府が、天皇を立権君主にしておかなかったわけである。

少なくとも昭和天皇の場合はこういうことが言えていると思う。

明治の元勲の中で、伊藤博文がドイツの憲法を参考にしたばかりに日本の帝国憲法というのは、ドイツ流の欽定憲法になったしまったわけである。

そして、明治の元勲達が生存している間は、それは正常に機能していたが、元勲達が段々と死んでいくと、次の世代が新しい憲法解釈をするようになって、天皇制を傘にきた独善が罷り通るようになったわけである。

明治天皇が出されたとされる「五箇条の御誓文」は、明治天皇が一人で起草したわけではなく、はじめ列侯会議の盟約として起草されたものを修正加筆され、明治天皇が公家、諸侯を引きつれて神に誓う、という形で出されたものである。

その内容というのは、軍国主義の入りこむ隙は微塵もなく、極めて民主的な内容である。第1条の「広く会議を起こし万機公論に決すべし」などは、実に話し合いの精神で、今日でも立派に通用する項目である。

それが明治22年に公布された大日本帝国憲法になると、第1条に万世一系の天皇これを統治する、第3条、天皇は神聖にして侵すべからず、と高飛車になっているわけである。この高飛車になった部分が、ドイツの影響ではないかと想像する。

大体、日本民族というのは、人前で高飛車な態度をとる人間を侮蔑する傾向があるにもかかわらず、こういう内容の憲法が出来る事自体、この時代に、既に、天皇の威を借りて人々を統治しようという、すり替えの兆しがあったわけである。

我々、日本民族の言語というのは、実に豊富な解釈を生む言語を持っているわけで、書かれた文意と正反対の解釈をして平然としている国民である。

既に何度も俎に乗せたことがあるが、統帥権の問題でも、軍隊の側の問題でもないのに、軍隊の側、軍部の側が、この統帥権の問題を云する事自体筋違いである。

それなのに、内閣全体が、この統帥権の問題で振り回されて、軍人に対して物が言えなくなってしまったわけでる。

このように、日本語というのは、記述された言葉であろうが、口先の言葉であろうが、如何にも、自分にとって都合の良い風に解釈できるし、するので、物事が混乱するわけである。

戦後の日本国憲法でも、第9条の文面からは、自衛隊が違憲な事は一目瞭然である。

それにもかかわらず、自衛隊を存続させるのにも拡大解釈し、自衛隊反対を唱えるにも憲法の拡大解釈をするわけである。

両方が一つの憲法を自分達に都合にいいように解釈しているので、この両者の違憲論争はは収斂することがない不毛の議論が続くわけである。

この事実は、日本人のなかに共通した価値観が存在していないということである。

共通した価値観というべきか、共通の座標軸というものがないというべきか、両者が、自分勝手に、自分の価値観で議論しているので、いつまで議論しても2本のレ−ルが交わらないのと同じである。

我々の神話時代には、「八百万の神」というわけで、来るものを拒まずという面がある。日本に、大陸から、当時としての先進文化が入ってきても我々はそういうものを拒否する事なく、受け入れて、日本文化の中に同化してきた歴史がある。

他の民族では、異文化を排斥する気風が歴然とあるわけで、朝鮮半島の人々にも、そういう面があるので、昔から排日、反日であるわけである。

韓国では、今だに日本文化の侵入を意識的に排除しようとして、日本の歌や映画が禁止されていると聞く。

事程左様に、我々は異文化をごく自然に受け入れる、という面で寛容なわけである。

江戸時代に幕府がキリスト教を禁止したことは事実であるが、今日では、そういうこともなく、長い歴史的スパンで眺めれば、キリスト教でも受け入れているわけである。

神様が八百も居る国というのは、あらゆる価値観を受け入れている、ということに他ならない。

その中では、憲法というものを表から文字どおり眺める人もいれば、裏から眺める人もいれば、裏表両方を眺める人もおり、はたまた斜めから眺める人も居るわけである。

そういう状況下で、人々の発言は全く自由なわけで、結果的に、国論は2本のレ−ルのように一つに収斂する事無く何時まで経っても不毛の議論が続く、ということになるわけである。

不毛の議論が出来るうちは平和だということであろうと思う。

明治の元勲達が生きていた時代には不毛の議論などしている暇はなく、一つの議論に収斂させるか、結論を早急に出さなければならない状況であったに違いない。

江華島事件というのは、日本の軍艦が、今のソウル近郊の江華島で測量を行ない、ついでに飲料水の供給のため上陸しようとしたさい、朝鮮サイドの反撃に出会ったという事件でる。

まさしくペリ−来航の二番煎じである。

アメリカの物真似そのものである。

この時、朝鮮サイドは、日本の物真似をしなかったわけである。

日本の場合は、尊皇攘夷という守旧派と、開国やむなしという進歩派の対立が出たことは歴史が示しているが、朝鮮半島の場合は、親日派(独立党)と親清派(事大党)が出来たわけで、親日派が政治的に圧迫されたが故に、日清戦争に誘導されていったわけである。国論が二分されるということはよくあることで、完全なる独裁政権ならいざしらず、選択を迫られる場合は、往々にして国論が分裂することは致し方ない。

その時に、為政者の選択が間違うことも多々あるであろう。

選択が正しかった場合は、その国は何事もなかったかのように発展するわけであるが、選択が間違ったときには、その結果が国民に振り掛かって来るわけである。

江華島事件が日清戦争のきっかけになったとき、日本側は、日本の国益を損なう事無く順調に主権を延ばしたわけであるが、朝鮮側は、日本と逆に、主権を侵害され奈落の道に転がり落ちたわけである。

朝鮮半島の反日感情というのは、何もこの時始まったわけではない。

既に、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時代にまで遡ることが可能ではないかと思う。

ならば、その感情を昇華させて、民族自決の気持ちを養っておくべきであったが、朝鮮半島の為政者というのは、それを怠ったわけである。

今日、朝鮮半島の人々が日本に対してとやかく言うべきことは、そのまま自らの民族指導者に言うべきであって、国と国との話し合いでは解決済みのことである。

ここで一つ言えることは、朝鮮半島の人々にとって、反日感情をあおり続けるという事が彼らの精神安定に貢献しているのではないかということである。

彼らの反日感情のわりには、在日朝鮮人で、本国に帰るという人がないのは、やはり日本での生活が本国の生活よりも良いからだといわざるをえない。

為政者の選択が間違っていたが故に、その国民が辛苦を舐めるということは、その後の大日本帝国の終焉が示しているわけである。

東条英機内閣総理大臣の判断と決断が間違っていたが故に、我々の祖国は灰燼と化し、明治の元勲達が築いた富の源泉をも失うことになったわけである。

植民地支配ということは今の時点では悪とされているが、第2次世界大戦以前では、悪ではなく正義であったわけである。

そして、何故に正義たりえたのかといえば、それは帝国主義的領土拡張が資本主義の源泉だと思われていたからである。

これは我々日本人だけがそう思っていたのではなく、世界的に共通の認識であったわけである。

それが今日悪となったのは、富の源泉であるべきアジアの植民地がそれぞれに独立して主権国家として自立したが故に、かっての西洋先進国がほしいままにしていた考え方が否定されるようになったわけである。

そして、この価値観の変換には、共産主義の蔓延というのも一因となっていると思う。

第2次世界大戦後の世界は、突き詰めて言えば、アメリカとソビエット連邦共和国の2国になってしまったわけである。

かってアジアで覇権を延ばしていた西洋先進国というのはことごとく国力を衰退させて、かってのように軍事力を背景とした植民地支配を行なう実力に欠けてしまったわけである。第2次世界大戦後の世界は、戦争に参加した国々がことごとく疲弊し、連合国の一員として勝った国でさえも、国内は戦争の惨禍で破壊されつくし、負けた日本だけが、戦争の被害を受けたわけではない。

 

我々の寛容さと思い上がり

 

かってアジアで君臨していたイギリス、フランス、オランダという国々は、戦後にいたると、植民地を維持する力を失っていたわけである。

こういう間隙を縫って、民族独立運動が起き、アジアの諸国は独立をしえたのである。

そして、戦争で力を失ったかっての西洋先進国というのは、自由主義体制をこれまで通り維持していきたいが故に、共産主義の蔓延には警戒を強めていたが、共産主義というのは、貧しく文盲の多いところで蔓延しがちである。

それも当然といえば当然で、労働に対して皆平等に賃金を支払う、という論法はそういう人々には一番受け入れやすい論理であう。

アジアの諸国も、独立の最初の段階では、民族自決を標榜して、自主独立をかかげていたが、それだけでは国が豊かになるわけもなく、自ずから共産主義の巣になる事は歴史の必然であった。

しかし、今、我々が問題にしなければならないことは、アジアの人々に対して何をしたかということで、これには心ない日本人が民間レベルで悪業を働いていた事実も見逃すことは出来ない。

先に、海外に移民で出掛けた人々の事を述べたが、移民というのは、その大部分が農業移民で、こういう人々は健気に働いたわけであるが、日本の辺境に出掛けた民間の人々の中には、ずいぶんやましい行為をしていた人も居たわけである。

その良い例が北海道のアイヌ民族に対する商行為で、これはアイヌの人々を完全に騙すものである。

それと同じ事を朝鮮の人々に行なった民間人も数多いたに違いない。

そして下級の軍人、兵隊の中にも、いかがわしい行為をする者がいたことは否めないと思う。

前にも述べたように、明治維新で徴兵制(1872年明治5年)になったわけであるが、これはある意味で、国民の平等という面もあるが、逆に言うと、知能、教養、粗野、よこしま、という面であらゆる階層を内在するということで、そういう人間で編成された軍隊が、外国に進駐するとなれば、よほど軍紀を厳しくしないかぎりトラブルの一つや二つ起きるのが当然である。

戦後、満州に進駐してきたソビエット連邦の兵隊がそれを如実に物語っている。

それと同じ事が日本側でも、朝鮮に進駐した兵隊の間で起きたことは想像できる。

人間の集団には、大悪人から小悪人、善良な人間から陰険な人間、頭脳明晰な人間もいればそうでない人間もいるわけで、そういう人間を一つの組織として引きつれて、今までの環境とは違い、気候風土の違う地域にであれば、それは当然のことで、それを纏めていくためには、よほどリ−ダ−がしっかりしていなければならない。

南京大虐殺というのは、そういう背景からして、30万という数字はともかくとして、多少の殺戮が存在していたとは事実であろうと思う。

それが民間レベルのこととなると組織としての機能が最初からないわけで、あるのは出ていった人々のモラルとしての良心でしかない。

戦前に海外に移民として渡った人々というのは、農業を主体として営む人々であった。

農業を営む人々、つまり農民というのは職業柄、朴訥として、生き馬の目を抜くような行為は嫌悪していたわけで、だからこそ、その後の地道な努力が評価されているわけであるが、商業を営む人々というのは、それこそ生き馬の目を抜くほどの、あくどく狡猾な手段で取引をしているわけである。

江戸時代の士農工商という差別の中で、商業が一番下にランクされているのも、その時代の道徳感を表現したものであり、商業というものが、人間の在り方として一番卑しいものとする位置付けであったわけである。

そういう人々が、北海道という辺境や、朝鮮という外国に出でかけて、まともな商いをするわけがない。

朝鮮の人々の恨み、というのは国家としての行動によるところもおおいにあろうが、こういう草の根の朝鮮民族の侮蔑に対するものもあるに違いない。

草の根として朝鮮民族を騙した場合、人の殺傷ということにはならないので先方も日本側の非を声高に叫ぶことはなかったかもしれないが、それが根にあって、国家の行為として怨恨をはらさなければ、という気持ちになったのかもしれない。

江戸時代に、士農工商という職業別差別が存在していたのは、やはり我々の先祖たちは、商業というものを、あまり誠実で人々に貢献すべき職業とはみなしていなかったに違いない。

運命共同体として、わが民族の繁栄のためには、最初に武士という政治家団体を一番に置き、その次に農業という食料生産をする人々に地位をあたえ、その次に物を作る製造業に価値を置き、ブロ−カ−としての商業を最下位に置いたわけである。

これは、この当時の支配階級の職業別価値観を表現したものだと思う。

しかし、商業を生業としている人々が、この封建時代には一番束縛がなく、自由に動けたということも事実で、士農工商という階級制度の中で、商人が自由闊達に日本中、ないしは外国(維新後は)にまで自由に 動けたわけで、それはまた商人の勇気を表すことにもなったわけである。

そして、勇気さえあれば、それが金銭欲をも満たすことが可能であったわけである。

その過程で、アイヌの人々を騙したり、朝鮮の人々を騙す行為があった事も否定できないと思う。

我々は、明治の初期の段階、いやもっとそれの前の豊臣秀吉の時代から、朝鮮の人々を心のなかで蔑視し、朝鮮征伐、征韓論というものを心のなかに築いていたわけである。

そして、それが現実として、第2次世界大戦の前に実現していたわけである。

我々は、彼らを蔑視していたからこそ、彼らを我々と同じレベルにまで引き上げようと試みたに違いない。

この我々の思い上りが、たとえそれが善意から出たにしろ、彼らの自尊心を深く傷つけたことは考えられる。

創氏改名とか、教育制度の押しつけ、というのは彼らにしてみれば迷惑千万な事であったに違いない。

しかし、この時点で、我々、日本の側に、彼らがそういう気持ちでいると云う事を理解した人間というのはほとんどいなかったに違いない。 

これは民族同志の古来からの確執としか云えないわけであるが、そういう状況下でありながら、彼らの一部は日本にきて生活をエンジョイしているわけである。

彼らが余所の土地で生活しながら、自分の住む土地の民族に対して、不平不満を述べるので、その確執は深まるばかりである。

そして彼らの生き方というのは、民族意識というよりも、もっと狭義の、同族意識でコミニテイ−を作り、その中でのみ団結しているわけで、同族を離れると、その土地の価値観を踏み躙るので、その確執は深まることはあってもなくなる事がないわけである。

我々の同胞というのは、異民族に対して根源的には寛容な民族のはずである。

大勢の人間の中には心ない人間が少なからず内在していることはどの民族にもみられることで、日本人だけの特質ではないわけである。

しかし、我々サイドから彼らに望むことは、まず第一に民族の独立を確保し、南北の統一を果たしてもらいたいわけである。

我々が彼らにしたことで、彼らの精神を踏み躙ったことは事実だとしても、朝鮮の社会資本を充実させたのも事実であるわけで、それらは今でも彼らの社会に貢献しているはずである。

日本と朝鮮に関するかぎり、我々の方に、彼らに対する侮蔑の意識があったことは否定できない。

しかし、我々がそういう認識を持つに至ったのは、彼らの実績を見てそういう認識が出来上がったという面もあるわけで、全く白の者を最初から黒と言い包めるわけではない。

我々にそうい云う認識が出来上がる過程で、幾つかの具体的な例があればこそ、そういう先入観が出来上がったものと思う。

先入観でものを判断することは良いことではないが、これは先入観を払拭する事例に突き当たらないことには改善できるものではない。

民族同志の和解ということは実に難しい事である。

 

同じスタート・ライン

 

我々の先祖は、明治維新で4民平等という事をうたいあげ、江戸時代の士農工商という社会的な階級制度を御破算にした。

そして、徴兵制度により日本の兵隊は、江戸時代の職業軍人的な武士階級というものを否定して、農民も商人も職人も同じ丼に放りこんでしまったわけである。

これは一見民主的な改革のように思えるが、最初のうちはそれぞれの職業意識までは払拭することが出来ず、その上、これらを統率する指揮官というのが、こういう事態に不慣れであったに違いない。

それを纏めるには、強力な統制と厳しい軍紀が必要であったことは想像できる。

ひとえに、指揮官のリ−ダ−・シップの在り方に問題があると思う。

日本が朝鮮を支配した期間が1910年明治43年から終戦までの間であるが、これに至までに、韓国国内で民族主義的な反乱が3度起きている。

それらが悉く日本サイドに鎮圧されているということは、韓国の民族の力がなかったということに他ならない。

日本と朝鮮側で、日本が国土を離れた侵略行為をしているのに、朝鮮側は、地元に引き込んだ外国軍隊に対して有効は戦略を取り得なかった、ということに他ならない。

戦後のベトナム戦争が、ベトナムという土地で行なわれたが故に、ベトナム人民に有利で遠征したアメリカ軍が装備の面では数段にすぐれていたにもかかわらず、ベトナムという土地から追い払われた事と比較してみれば、朝鮮の人々の排日に対する熱意が欠けていたとしか言いようがない。

その結果として、日本の侵略が成功し、朝鮮の民衆は、日本の圧迫を受け入れざるをえなかったわけである。

歴史は結果が評価されるのであって、この時点では、日本が朝鮮を併合したことは、日本の国益に有利に作用するものと考えられていたが、それが50年という時の経過をすぎると、あれは日本の行なった罪悪で、謝罪すべきものと価値観が転換してしまったわけである。

1945年8月15日の終戦というものが、かっての植民地を戦勝国としてしまったわけである。

今、日本の謝罪を要求している朝鮮の人々は、日本の終戦というものをどのように見ているのであろうか。

日本がポツダム宣言を受け入れたのは、アメリカとの戦争に負けたからであって、朝鮮の人々と戦争をしていたわけではない。

確かに中華民国というのは、連合国側にいたが、朝鮮の人々というのは、むしろ日本と共に戦った戦友同志のはずである。

だからこそ、より複雑な戦後補償の問題が起きたわけであるが、この終戦というときに、日本はアメリカに占領されて、主権というものを喪失してしまった。

そして、朝鮮は同じようにアメリカとソビエット連邦共和国に分割統治されて、朝鮮人でありながら、日本と共に戦った人々の戦後補償ということも、従軍慰安婦の処遇も、日本の手の届かないところにいってしまったわけである。

やっと日本が独立してみたら、朝鮮は南北にわかれ、それぞれに主権国家を作ってしまっていたわけである。

1995年の正月を本を読んで暮すつもりで図書館から借りてきた本のなかに、1994年7月河出書房新社発行「アジアから見た日本」というのがあり、この中で、金両基という在日韓国人の論文が載っていた。

日韓併合に至る記述がわかりやすく記述されていたが、日韓併合に至る歴史的記述には敬意を表することが出来るが、論文全体には、在日韓国人のコンプレッスに満ちている。

先に述べた征韓論の原因が、明治政府が朝鮮王朝に、日本が天皇親政をしくことになった旨が簡単に記されていたが、それが各国に通知されたよりも1年も遅れており、その文中の字句に、朝鮮サイドから見て不具合があったが故に朝鮮王朝がそれを拒否したことに原因があるというものである。

その字句が、宗主国の清国が朝鮮に対して使うべき字句であったので、自尊心を傷つけられた、と云うような内容であるが、その事実は事実として、自尊心を、日本によって踏み躙られたならば、そこで何故に、今後、そういう事態を生じないように、朝鮮民族の民族自決を確保する気にならなかったのか、という疑問が我々としては拭いきれない。

この時期の日本は、それこそ徳川幕府から新政府、明治政府という、未曽有の大改革を実施し、敢行した直後である。

日本民族はペリ−来航いらい国論を2分して、日本人同志の血で血を洗う抗争の末、明治政府というものが出来、天皇、明治天皇というものをシンボルとして抱き、新しい国家建設に邁進したわけである。

その同じ時期に、朝鮮民族というのは、相いも変わらず、清国を「眠れる獅子」という認識もなく崇拝啓蒙していたわけである。

これは朝鮮民族自身の責任である。

そして、その後の世界的近代化のレ−ス、帝国主義的経済発展レ−ス 資本主義的領土拡大レ−スに遅れを取ったのである。

日本が軍事的圧力で朝鮮民族を支配したとは事実であろう。

しからば、それに対抗するだけの力、それは軍事力にしろ経済力にしろ、民族の自決の力にしろ、そういうものを醸成することに民族が一致団結しなかったが故の結果であることに、彼らは気が付いていない。

気が付いていないというよりも、そういう認識を拒否している節がある。

日本が徳川幕府を倒し、明治新政府を作り上げたのは我々、日本民族の試行錯誤を内在した結果としての日本人の選択であったわけである。

維新の前、日本人同志が、開国するかそれとも尊皇攘夷で開国せずに閉じこもるか、血で血を洗う抗争を繰り返して、その結果として、日本の将来のためには開国して西洋の帝国主義というものを学び、富国強兵に努めなければ、ということを学んだわけである。

維新前には、日本と朝鮮は同じスタ−ト・ラインに並んでいたわけである。

同じスタ−ト・ラインに並んでいたにもかかわさず、日本が一足先に軍事力を充実させたが故に、支配する側とされる側に立場が別れたわけである。

朝鮮の人々の民族自決、自助努力、独立自尊というのは、今だに確立されていないわけで、一つの民族が、分断国家を形成している事実がそれを物語っている。

この征韓論の根拠はこれで理解できたが、朝鮮王朝が日本からの国書を拒否したことにより、日本側としては、朝鮮サイドは無礼である、という認識が蔓延したわけである。

この時、朝鮮サイドとしては、日本側の認識を改めさせるには武力の充実しか手段としてはなかったわけである。

同じ事は日本側でも言えるわけで、無礼だと思った朝鮮を、即刻、征伐するには、この時点で、国力が不十分であったので、征韓論者の西郷隆盛らは下野して、政府に対する不平不満のはけ口として、更に、日本人同志の血で血を洗う抗争になったわけである。

我々は、日本人同志の血で血を洗う抗争を重ねるに従って、国論を収斂する方向に向かったわけで、それに比べて、朝鮮民族の対日抗議というのは、その全てが散発的で、民族的統一を欠いたまま今日に至っているわけである。

東西冷戦というものが存在していないこの時期の国際社会では、弱肉強食が国際社会のル−ルであったわけである。

それ故にアジア大陸というのはヨ−ロッパの先進国に植民地として蚕食されていたわけである。

朝鮮の人々というのは、この時点で、そういう世界の現実というものに無知であったにすぎない。

日本においては、明治の元勲と称せられる人々というのが、そういう現実を肌で感じていたに違いない。

だからこそ西洋先進国を見習い、彼らのたどった道を自らも通る決心をしたのである。

模倣を日本民族の腑甲斐なさの象徴と見るのではなく、模倣をするにも、文化的素養がないことにはそれすら出来ないわで、我々は、物作りの模倣もさることながら、思想信条の面でも西洋先進国の物を模倣したまでである。

金両基という著者は、日本の植民地時代にも、日本人で朝鮮民族のことを憂慮している日本人のことも記述しているし、朝鮮の人で、日本に協力的であった人のことも記述している。

その意味では公平な評価をしているようであるが、如何せん、朝鮮民族が、日本民族の支配下に置かれた、ということは軍事力という背景のもとで行なわれたことで、国として、国家として、戦争に弱いという事は、軍事的に劣っている、ということは支配されても致し方なかったわけである。

戦後、日本の北方4島の問題で、旧ソビエット連邦では「北方4島が欲しかったらもう一度戦争するほかない」という認識が一般化しているのと同じ事である。

又、同じ事で、日本が戦後、進駐軍によって大改革を強いられて、旧地主が農地開放で没落し、旧財閥が解体され、教育が民主化のもとでGHQのコントロ−ル下に置かれたことも、所詮、軍事的に敗北した、という事実によってもたらされたものである。

軍事力によって支配されたら、軍事力で跳ね返すほかないわけで、その意味で、戦後日本に軍事力というものが皆無の時代、李承晩というのは、海の上に勝手に線を描いて、日本漁船を締め出したわけである。

あの時の日本漁船の恨みというものは、朝鮮民族の恨みと同じものであったに違いない。金両基氏の論文を我々が読めるということも、我々の、今の日本が、平和で自由な国であるからこそ出来ることで、ここにも彼らの慢心がると思う。

日本に住みながら、日本の悪口を言って食っていける、という事自体が彼ら朝鮮の人々の民族自決の意志を弱体化させていると思う。

仮に、日本から、戦前アメリカに移民として渡った我々の同胞は、アメリカの対敵民族としての圧迫は致し方ないとしても、それに対抗して、アメリカに忠誠を尽くすことによって、民族のアイデンテイテ−を高めた事実をなんと見るかである。

アメリカの日系2世は、アメリカ市民たらんと彼らなりの努力をしているわけである。

在日朝鮮人で、そういう意味の日本国家なり、日本政府に、そういう貢献を表明した例があるであろうか。

我々は、植民地支配中にも、朝鮮の人々を我が同胞と扱おうとした、しかし、彼らの民族意識は、それを拒んだわけで、これは確かに、我々の思い上りであったわけであるが、それを跳ね返すだけの民族的エネルギ−と云うものはいまだに出ていないわけで、戦後は戦後で、日本の経済力の傘下にはいってしまっているわけである。

 

占領のされ方の違い

 

明治の初期から、第2次世界大戦の終了した1945年、昭和20年までの世界的な常識では、国際関係というのは弱肉強食の軍事力の支配を容認するものであった。

戦争の近代化と共に、その無残さが強調され、国際連盟とか不戦条約という思想も芽生えてはいたが、この時期には、いささか時期尚早であり、それは東西冷戦の終了と共に実現するかに見れた。

ところが、東西冷戦が終わってみると、民族自立の気運が広がり、そのためには、武力の行使、軍事力の行使というものを肯定しないことには民族自立の実現がありえない、ということになったわけである。

日本が朝鮮を支配し、植民地化したのは、この軍事力というものを背景とした日本政府、日本政府というよりは、日本の軍部と、より明確に軍部の横暴を述べるべきであろう。

その意味では、日本国民も、同じように被害者なわけである。

そして、今日、日本の戦争責任ということが云われて久しいが、一体、戦争責任ということが果たしてありえるであろうか?

「戦争に敗けた責任」という事を軍部に要求することは出来るであろうが、今、この軍部というものも存在していないわけである。

朝鮮の人々が、日本の植民地支配の謝罪をせよと迫ったところで、それを許したのは、朝鮮の李王朝であったわけである。

日本の軍人による閔妃殺害という事は、彼らに対して弁解の余地はないが、この事実に対して、朝鮮民族が打って一丸となって、日本の軍部に対して抵抗したという記述がない。彼らは、自らの王朝が蹂躙されても、跳ね返す力も意志もなかったということである。

金両基氏が述べている植民地時代の日本人の識者の中には、朝鮮民族に理解を示した人々もいた、ということを述べる一方で、その人々が、朝鮮の人々に見切りをつけたのも、この民族自決の意志がないことを悟ったからではなかろうか。

私の個人的な見解であるが、日中戦争から太平洋戦争に至る一連の過程の中で、昭和天皇の責任はあると思っているが、これを戦勝国の連合軍側が不問に付したのは、もし、日本の天皇に戦争責任を負わせたら、日本民族は一人残らず殉死するであろう、という憶測からである。

故に、天皇に戦争責任を負わせるよりも、天皇を統治のシンボルとして利用することを決定したわけである。

閔妃殺害と、天皇の戦争責任の問題は、この二つの国民の、民族的気質の違いを如実に示していると思う。

閔妃殺害という、日本の軍部の、主権侵害に対して、朝鮮の民衆が怒り、反日、独立運動が展開するのは至極当然なことである。

しかし、それがト−タルとして成功しなかったところに問題があるわけである。

そして、それは朝鮮人自らの問題でもあるわけである。

閔妃殺害という日本の軍部の主権侵害に対して、朝鮮の民衆が蜂起することは日本側も当然覚悟しているわけで、その反日運動を押さえ込もう、という意志があったのも当然至極のことである。

そして、ト−タルとして日本側の圧迫が奏を効して、朝鮮側の抵抗がト−タルとして失敗に帰したわけである。

ここに支配する側とされる側の関係が出来上がってしまったわけである。

朝鮮サイドの反日、自主独立の気運というのは、日本の明治維新のように、民族の開放にもならず、国家統一のエネルギ−にもならず、近代化にもつながらなかったわけである。そして、日本の支配が強まり、日本同化政策が浸透していくわけである。

日本が植民地支配をしたことは紛れもない事実であるが、そういう風になる過程においては、朝鮮民族の、民族的意志統一、エネルギ−の集中、中でも軍事力の貧困がおおいに災いしていたわけである。

軍事力の強化ということに彼らの認識が欠けていたからに他ならないと思う。 

今でこそ軍事力というのは「悪」であるが、この時点では、軍事力というのは国の発展の礎であったわけである。

日本に開国を迫ってきたのは、西洋先進国、ヨ−ロッパ先進国の軍事力に他ならない。

日本が西洋先進国の何を一番に見習ったかといえば、やはり軍事力の威力の大きさだと思う。

軍事力の強化を国是として、日本は太平洋戦争にまで突き進んでいってしまったわけであるが、それまでの時代は、それが正義であり、国益に一番貢献する具体的な手段であったわけである。

これは日本だけのことではなく、世界各国が同じような価値観で植民地支配を容認し、帝国主義的資本主義を謳歌していたわけである。

そして、それが先進国であるかどうかのバロメ−タ−でもあったわけで、朝鮮民族のように、軍事力をもたない民族は、軍事力を持った国に主権を蹂躙されても致し方なかったわけである。

致し方ないも何も、主権を侵害されても文句の持っていく場所がなかったわけである。

つまりは、強い国のやり得で、文字通り、弱肉強食の国際倫理が罷り通っていたわけである。

軍事力の強化ということは、鉄砲のみ数をそろえても成り立たないわけで、明治維新当時の軍事力というのは、既に、国家総力戦の前哨戦にはいっているわけで、人の数のみでは優劣をつけがたい時代にさしかかっていたわけである。

つまり、近代的な工業生産力なしには成り立たない時期にきていたわけである。

日本が朝鮮を軍事力を背景に支配した、ということは既に、日本は工業国に脱皮仕掛かっていた時代に、その市場としての地域と、原材料の供給源としての地域の両方を満足させる地域とみなしていたわけである。

それを維持しよと、清国の拡張と、ロシアの南下が、日本にとって生命線を脅かされる目の上のタンコブになっていたわけである。

そして、日清、日露の戦争で勝ったことにより、それらが取り払われたわけである。

日清戦争後、朝鮮王朝がロシアに触手を動かしたことは、隣国である、日本の意向を計りきれなかった、という先見性の過ちであったわけである。

つまり、国際情勢に疎かった、ということでもあるし、自意識過剰であった、とも云えるわけで、それに民族が付いていかなかったところに朝鮮民族の悲劇が潜んでいたわけである。

日本は、戦後、進駐軍の占領を経験して、過去の価値観を全部失って、新制日本として生まれ変わったわけである。

その新制日本が、50年たらずの間に再び世界一の経済大国に、自らの意志とは何らかかわりなくなってしまったわけであるが、この時、我々の先輩諸兄は、進駐軍の云うことを何一つ反発するとなく受け入れた結果がこれである。

それに引き替え、朝鮮の人々は、日本という進駐軍に対して、ことごとく反発して、悪名高き日本から開放されたかに見えたら、南北に分断してしまったわけである。

確かに、アメリカ軍による占領政策は、デモクラシ−に則った寛大なものであり、日本の朝鮮支配は、それとは比較にならない野蛮なものということは云えると思う。

しかし、これも硬貨の裏表を論じるようなもので、現実を受け入れる側で、その受け取りようによって価値観が逆転してしまうわけで、どちらが正しくて、どちらが間違っているか、ということは結論つけれないと思う。

日本軍が軍事力を背景に支配したことは免れないが、それに素直に従っていれば、数多の悲劇はなかったかもしれないし、経済的発展も、もっと早い時期に成就していたかもしれない。

少なくとも、戦後、日本に在住していた朝鮮民族は、日本人と同じ経済発展を享受しているわけである。

金両基氏も、日本人と同じくらいに経済的自由と身辺の自由を保障されているからこそ、日本の悪口を言って食っていけるわけである。

在日朝鮮人というのは60万とも言われているが、正確な数はわからないのが実情ではないかと思う。

その人々が、日本の悪口を云いながら、日本で生活できるのは、我々がいかに寛容か、ということに他ならない。

日本が植民地支配のためとはいえ朝鮮に鉄道を敷き、港湾を作り、水田を作り、植林をしたのは、今の言葉で言えば社会的インフラストラクチャの充実に他ならない。 

つまり、社会資本の充実である。

これらが明治初期の段階から、第2次世界大戦以前に朝鮮民族だけの力で成し得たであろうか?

今の技術ですればわけのない事業であっても、その当時にこういう社会資本の充実ということを成そうと思うと、それこそ軍事力の強化以上に国民のエネルギ−を結集しなければ成し得ないわけである。

日本の終戦、敗戦ということは、日本が軍事的に敗北したという事を潔く認めたわけで、それによる結果として、進駐軍による占領ということが6年半も続き、憲法でさえアメリカ軍の作ったもので満足しているわけである。

戦後、日本人で、進駐してきたアメリカ軍に対して抗議したり抵抗した人は皆無である。そして、教育の民主化、財閥解体、農地改革、神道の否定、戦争犯罪人の摘発、とうとう進駐軍の言うがままに従ったわけである。

これら一連の大改革は、日本が朝鮮の人々に強要したものと大同小異である。

日本に進駐したアメリカ軍は、日本では鉄道一つ布設することはなかった、なんとなれば、既に日本には鉄道網が充実していたからである。

しかし、日本が朝鮮を支配した時点で、朝鮮にはそれがなかったわけである。

無いものと作った、ということを彼らはもう少し理解してほしいと思う。

進駐軍が我々に与えたのは、自由と平等という概念と、民主主義の概念のみで、後は生んがための食料のみである。

進駐軍は、日本の過去の価値観を全て打ち壊し、新しい価値観を植え付けていったわけであるが、明治初期の朝鮮民族というのは、日本がもたらした大改革を拒絶したわけである。日本が朝鮮古来の価値観を覆すことを拒否するかわりに被害者意識のみをつのらせて我々に迫ってくるわけである。

 

我々は心を許せない

 

1945年、昭和20年、8月15日の日本の降伏、終戦、敗戦というのは、旧大日本帝国の終演であったわけである。

朝鮮サイドは、これで日本から開放されたわけである。

この時点で、日本の本土領域、特に、東京、大阪、名古屋という日本の工業地帯は、それこそ灰燼と化しており、見渡すかぎりの焼け野原であったわけである。

それに引き替え、旧日本の植民地でった朝鮮の都市というのは、アメリカ軍による空襲もなく、ましてや原子爆弾の投下もなく、日本の軍人が威張って闊歩していたということはあっても、都市が壊滅したということはなかったわけである。

そして、植民地支配とはいえ日本軍、及び日本の民間人が築いた社会資本というものはそのまま使うことが出来たはずである。

そういう恒久的な社会資本を上手に利用すれば、南北に分断することもなく、朝鮮民族の自主独立が達成できたはずである。

そのうえ、南北の分断まで、日本のせいにされては我々としては憤懣やる方ない。

朝鮮民族の南北分断は朝鮮民族自身の問題であり、我々サイドの社会党や共産党が、北朝鮮と親密にしたからといって韓国側がとやかく云う事自体がおかしいわけである。

北も南も同じ朝鮮民族の筈である。

今日の朝鮮民族の日本に対する発言の要旨は「日本側が本当の意味で反省し謝罪せよ」というものである。

一体、これは具体的にどうすればいいのかということである。

天皇陛下が「不幸な過去があって、再び繰り返してはならない」と言っても不満だし、細川首相が「侵略戦争であった」と言っても韓国側の満足は得られないわけである。

日本側の誰が謝ったところで、死んだ人間が生き返るわけではない。

そういう無理難題を押しつけてくる、ということはその魂胆には、日本の金が欲しいのではないかと、我々、庶民感覚としては勘繰りたくなる。

死んだ者に補償せよといったり、従軍慰安負に対して戦後補償が行なわれていない、といったところで、それは所詮、金しか解決の道が無いわけで、結局のところ、金を出せといっているにすぎない。

それもこれも、日本が経済成長で目覚ましく発展して、世界で一二を争う経済大国になったから、貧乏人が金持ちに物乞いするようなものである。

日本に謝れと言っていながら、朝鮮民族の南北統一には日本の力が必要だ、と言うに至っては彼らの論理が理解しかねる。冗談ではない。

朝鮮の南北統一は、朝鮮民族自身の問題であって、日本がシャシャリ出ては、再び誤解を招きかねない。

日朝貿易が日本側の極端な入超になっていることすら気に入らない韓国の人々が、何故に、日本の援助を期待するのかといいたい。

朝鮮の人々が、日本という国が好きになれなかったら、日本から物を買わなければすむことである。

アメリカか買うなり、イギリスから買うなり、シンガポ−ルから買えば何一つ問題はないわけである。

それをよりによって日本から物を買っておいて、日本の入超は、日本経済の朝鮮支配である、などと云う事自体的外れであるし、彼らの民族意識を疑いたくなる。

彼らの同胞が、日本在住朝鮮人として、日本人と同じ自由と繁栄を享受しているわけである。

日本という国が嫌いならば、素直に本国に帰ればいいわけで、日本で、自由と繁栄を享受しながら、日本の悪口を言うかれらの神経というのが我々には我慢ならない。 

そういう朝鮮民族の資質を明治の元勲達は見抜いていたのかもしれない。

だからこそ、我々日本人と同じレベルにまでレベルアップを図ったのかもしれない。

創氏改名も、そいう善意の上に成り立っていたのかもしれない。

世界中、どういう地域に住む主権国家でも、底辺の人々というのは同じようなもので、食うや食わずのその日暮しであろう。

問題は、主権国家のリ−ダ−の資質である。

日本が敗戦で国土が焦土と化し、天皇陛下の命令で、旧帝国軍人が銃を下に置いたとき、朝鮮はアメリカとソビエットの進駐を受けたわけであるが、ソビエットの進駐を受けた側は、そのまま共産主義国家になってしまい、アメリカの占領を受けた側は、亡命者の李承晩に政権を委ねたわけである。

ここには、日本の支配を脱したから、民族的統一をしなければ、という朝鮮民族の熱意というものが存在せず、ただただ時流に身を任せていたにすぎない。

そういう民族に、日本民族が敬意を払うわけがない。

言い換えれば、侮蔑されても致し方ないということである。

朝鮮側が謝れ、というものだから日本政府としては外交上の儀礼として、一応、尤もらしい言葉で言繕うが、内心は、我々庶民と同じ感情に浸っているわけである。

それが政府高官の失言として時々噴出するわけであるが、我々の潜在意識の中に、朝鮮人は油断がならない、という警戒の念が払拭仕切れていない。

日本で公然と日本批判の発言している在日朝鮮人の姿を見ていれば、我々の側としても、心の扉をしっかりしておかなければ、という警戒心を緩めるわけにはいかない。 

 

 

フロンテアとしての中国

 

日本と中国の関係も非常に興味ある事柄である。

日本が中国を支配しようとしたことは紛れもない事実であろうが、この関係をアメリカ合衆国の独立と関連付けて考えてみると、また違う視点で考察することが出来る。

1620年9月16日、イギリスを発ったピュ−リタンたちが初めてアメリカ大陸に到着し、そこに植民地を建設したが、彼らは、その後1783年に独立を確保し、アメリカ合衆国を建設したわけである。

この間、163年の間に、13州が植民地として確立し、それがアメリカ合衆国の原始になったわけである。

しかし、アメリカ合衆国の独立という場合、これはすべからく日本が帝国主義的願望のもとに満州に開拓団を送り込んだのと同じ状況であったわけである。

アメリカの西部開拓は正義で、日本の満州開拓は何故に悪であったのであろうか?

アメリカの西部開拓の時代、アメリカ大陸には土着のモンゴロイド系のアメリカ・インデイアンが生息していたわけであるが、それを西洋、ヨ−ロッパの近代化された兵装によって次々と征服していった過程がアメリカ開拓史であるはずである。

日本の満州国経営も、日本の主権の拡幅と同時に、日本の帝国主義の発露として、産業振興と殖産のため、ということは云えるが、この時期の満州、中国・東北地方というのは、まさしくアメリカ西部開拓時代のフロンテイアに他ならなかったに違いない。

我々から見て、彼の地に生存していた人々というのは、ヨ−ロッパ人が見るアメリカ・インデアンのように映ったに違いない。

アメリカ合衆国の独立と、満州国の建設で、決定的な違いは、アメリカ合衆国の独立という場合、本国からの独立であって、満州国の建設という場合、日本という本国からの独立ではなく、清、中華民国という主権国家からの独立であった、ところに最大の非難が寄せられる所以である。

国の独立という場合、その大部分は、宗主国からの独立を指すことが通常で、日本の軍部が行なったように、主権国家の土地に入り込んで、傀儡政権として主権を主張しても、世論の理解と納得が得られないのは致し方ない。

しかし、ここで問題としなければならない事は、1932年3月、満州国建国の時点で、我々、日本人から見て、中国のこの地方、東北地方というのが、アメリカ西部開拓時代の時代背景と全く同じだったということである。 

つまり、ピュ−リタンがアメリカ大陸に渡った時点で、アメリカ土着の先住民、つまりアメリカ・インデアンたちは、主権国家というものを持たず、各部族が勝手気儘に生活していたわけである。

言い方を変えれば、彼らなりの秩序で平和な暮らしをしていたわけである。

1932年、昭和7年の時点の中国東北部というのも、あれと同じ状況ではなかったかと思う。 

確かに、人間は生息しており、彼らは彼らなりの社会秩序を維持しながら平和な生活をしていたに違いない。

そこには主権の概念も、近代化の欲求も、国際関係も、大東亜共栄圏も、一切、関係なく人は生き死んでいたに違い。

中国は広大な土地を抱え、その国家に内包する民族も数多あり、この広大な土地を一つの主権で統一することは困難なことは言うを待たないが、それ故に、日本という国土の慢性的不足を嘆いている国民にとっては、西部劇のフロンテイアそのものに見えたに違いない。1930年代に至っても、この地方では張学良が生存しているとはいえ、彼は主権者ではないわけで、いわゆる地方軍閥の頭である。

だからといって殺してもいいという議論にはならないが、我々、日本民族という、極めて教育レベルが高く、均質的な思考を持ち、組織力にものを言わせる民族から眺めると、たかだか地方豪族の一つぐらいにしか見えないわけである。

実質的にも織田信長が天下を取った頃の織田家や蜂須賀家のような認識でしかなかったのではないかと思う。

我々の側には1894年、明治27年の日清戦争に勝ったという実績があるため、中国の主権というものを蔑ろにしていたという点はあると思うし、これは近代思想としては、我々の思い上りに他ならない。

しかし、思想、考え方、価値観というものは時代とともに変わるもので、今でこそ、

1995年の時点では、こういう反省も当然のこととして世論に受け入れられるし、そうでなければならないが、1932年、昭和7年、戦前までの日本では、中国が日本にとってフロンテイアであったことには間違いない。

中華民国という主権の統治する地域ということは理屈のうえでは理解できても、その実体が、この地方には存在していなかったのではないかと思う。

軍閥、匪賊、馬賊、赤匪、国民党の敗残兵、共産党のオルグ、それやこれやで、無法地帯に等しかったのではないかと思う。

民衆、大衆、労働者、苦力、その他諸々の人々というのは、国家の主権とか思想・信条とは関係なく生存しているもので、明治維新を経て近代化を達成し、日清、日露の戦争に勝った日本民族というのは、こういう状況を間の辺りに見たら、この地がフロンテイアそのものに見えたに違いない。

歴史というのは、往々にして政治史になりがちである。

庶民の生活というのは、歴史になりえないわけで、中国のこの地方の人々が、この時代どういう生活をしていたのか、ということは歴史にならず、日本の軍隊がこの地方をいかに支配したか、ということは政治の延長であるが故に歴史的事実として語られるわけである。そして、日本にとって更に悪い状況というのが、それを行なった主体が、日本政府を代表していないにもかかわらず、日本の軍隊、旧帝国陸軍がそれを行なったところに、今日、世界から、特に、アジア諸国から、責任と謝罪を要求される根源が潜んでいる。 

軍隊、軍部、大日本帝国陸軍が、政府の言ことを無視して行なったが故に、今日、アジア諸国から詰問されることになったわけであるが、世界に対して、あれは軍部の独断専行で日本政府には責任が無い、といったところでそれは通用しないことである。

そして、その軍隊というのは、今は存在しないわけで、我々としては、責任のとりようがない。

所詮、国家の責任、政府の責任ということにせざるをえない。

何故に軍部の独断専行が罷り通ったのか、といえば、やはり、それは明治憲法の天皇の統帥権に帰結せざるをえない。

数年前、NHKの磯村徳尚が張学良と対談した番組があった。

勿論、台湾での対談であったが、この時の張学良の話は非常に説得力があった。

そして、この張学良の地盤と関東軍が満州国を作った地域とがオ−バ−ラップしているわけであるが、この時、張学良がもう少し日本に協力的であったならば、あの戦争も違った方向に発展していたに違いない。

しかし、彼の父親(張作霖)を爆死させたのは他でもない関東軍であったからには、その息子の張学良に、日本との協力を期待しても無駄なことではある。

ここに我が旧帝国陸軍の野蛮で傲慢な思い上がった精神構造が見られるわけである。

そして、その根底には、今述べた、この時代の日本人の目から見て、中国大陸というのはアメリカ大陸にわたった西洋人に取って、そこが新天地であったのと同じような気持ちがあったに違いない。

張作霖などは、アメリカインデアンのス−族かアパッチ族ぐらいにしか映つらなかたに違いない。

日本でいえば、尾張の豪族の蜂須賀小六ぐらいにしか思わなかったに違いない。

当時の日本人から中国を見れば、そう思わざるをえない部分も多々あったに違いない。

1911年、明治44年の辛亥革命を経て中華民国の誕生とともに清王朝が倒れ、その政情不安に付け込んで、日本が対華21ヵ条を突き付けたわけであるが、これを当時の中国側の支配者、袁世凱が飲んでしまったのである。

日本は明治維新前の西洋列強との不平等条約を1897年、明治27年に改定している。1858年、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアと締結した不平等条約を、約40年かけて平等なものに変えている。

やはりこういうことは地道な努力の積み重ねであり、主権の確立と同時に、民衆レベルの知的向上も考慮に入れた諸般の事情により、相手方も不平等条約の改定に理解を示すわけである。

主権の確立にとって一番大事なことは、やはり軍事力の充実であろうと思う。

軍事力の充実ということは、今の感覚ではマイナス・イメ−ジであるが、この時代の世界の常識では、軍事力しか主権の確立を示すものがなかったわけである。

日本はアジアで最初にそれをなし得た国であったわけで、中国にしろ、朝鮮にしろ、それは今だに実現していないわけである。

国土が広すぎるという面も、民族が沢山存在しており統一が困難であるという面も、理屈としては理解できるが、それならばアメリカ合衆国はそういう論理でいくとどう説明するのかということになる。

国が広ければ2つか3つに分割してもよいはずであるし、中国の過去の歴史というのは、その分割した国同志が相争った歴史であるわけである。

近代に至ってもそれが成し得なかったのが中国と朝鮮民族である。

そして、それは現代に至ってもいまだに実現していないわけである。

太平洋戦争に勝利したアメリカの進駐軍が、戦後の日本の国情を見て、我々に、同情とともに新しい価値観を与えようとしたのも無理からぬ話で、それほどまでに我々は打ち拉がれていたわけである。

打ち拉がれた我々は、勝利者であるところのアメリカからの押しつけがましい理念を、後生大事に、しかも忠実、実直に従った結果が、我々の意図とは無関係に、世界第2位の経済大国に仕立て上げてしまったわけである。

1915年の対華21ヵ条の日本の要求というのは、日本が帝国主義的植民地支配の前哨戦であったわけである。

これに対して、中国で対日批判、排日運動が起きるのは至極当然のことである。

しかし、こういう無理難題を押しつけておいて、それに従えという我々も大いに傲慢であることを承知で言えば、歴史の過程で、そういう中国側の選択があったとしたら、歴史は塗り替えられていたに違いない。

本土空襲で焼け野原にされた大都市と、2発の原爆を見回れた後の我々の挫折感と、対華21ヵ条を突き付けられた当時の中国の人々の悔しさというものは、ほとんど同じだと思う。

しかし、我々と、中国では、その対応がまるっきり反対である。

我々は、勝利者に対して、従順一点張り、すべからくお説ご尤もという態度であったが、中国の人々というのは、徹底的に反抗の態度であったわけである。

軍事力が充実せず、国家がきちんと統一されていない時点で、文化的に、彼らの弟子にすぎない日本から無理難題を押しつけられて、中国の人々が快く思わないのは当たり前ではある。

彼らの気持ちは察して余りあるが、それならば、そういう無理難題を跳ね返す実質的な力を貯えればよさそうに思うが、それも思うように出来ていないわけである。

この実態を見た旧日本陸軍の軍人が、中国は、帝国軍人の力でどうにでもできると思い込むこともこれまた致し方ないことである。

何しろ、軍人というのは、後に軍隊というバックボ−ンがあるわけで、軍隊という組織された軍事力、武力があれば、中国の地方行政官を押さえ込むことなどいとも簡単だと思っていたに違いない。

先の細川首相は、日中戦争は侵略戦争であった、と首相として初の見解を述べたが、私の意見としてもあれは侵略以外の何物でもなかったといえる。

そして、あれは天皇陛下が宣戦布告をして始めた太平洋戦争、日本流に言えば、大東亜戦争とは性格を異とするものである。

1928年、パリで不戦条約というのが締結された。日本もこれに加盟している。

これは言わずと知れた「国際紛争の解決のためには戦争によらず平和的な話し合いで行なう」というものである。

日本側はこの時点で、このような平和指向を向いていたわけであるが、中国の実情というのは、共産党の専横に業と煮やした蒋介石が共産党討伐の挙にでて、中国人同志の血で血を洗う抗争に発展したわけである。

第3者の目から見れば、どちらが敵でどちらが味方かさっぱりわからず、中国国内は混沌とした状況であったろうと想像する。

そういう状況下であってみれば、旧日本帝国の軍人のうちの血気盛んな連中が、中国で権益保護という名目で行動に出たがる心境というのも一理あると思う。

日本の統制の取れた規律ある組織体の軍隊、陸軍の人間であってみれば、中国は所詮、軍閥、匪賊、馬賊、赤匪、国民党の敗残兵、共産党のオルグの跋扈している野蛮な国でしかないわけである。

戦前、我々、日本サイドから見て、中国の主権というのは、蒋介石のもとにあるように見えているが、実際問題として、蒋介石がはたして本当に国を統一していたのかどうかは定かでない。

共産党が実権を握っていない時期なので理屈上は蒋介石のもとにある、と見るのが普通であろうし、国際的にはアメリカ、イギリス、またはソビエット連邦共和国なども蒋介石を主権者とみなしているが、仮にそうだとすると、中華人民共和国の誕生は、戦後も、4年も経ってからであり、日中戦争というのは、日本と中国民衆との戦いという事になる。

まさしくアメリカ映画における西部劇の白人とインデアンの戦いと同じレベルになってしまうわけである。

他民族のぶつかりあいということは、文化のぶつかりあいとなるわけで、そこでは近代化した武器を持っている部族が勝利を得るわけで、その結果として、支配する側とされる側が生まれてくるのは歴史の必然であって、これを一様に悪と決め付けることは、長いスパンの歴史的時間の経過を経た後でなければ出来ないのではないかと思う。

太平洋戦争で敗者となり、丸裸になった我々、日本民族というのは、そういう無の状況から今日の平和と繁栄と、経済力を築き上げたわけであるが、中国の民衆は、日中戦争の勝利から何を得たのであろうか。

それは共産主義という宗教に毒された官僚主義に他ならない。

次に進む

 

目次に戻る