1924(T13)聖路加国際病院附属高等看護婦学校に入学し、卒業後は聖路加国際病院に看護婦として勤務。優れた才能と訓練された技術を発揮し、外国人傷病者の看護に貢献した。
'27(S2)ロックフェラー財団奨学生として留学し、外科看護、麻酔学を学ぶ。帰国後は看護を学問的に理論づける努力をし、東京空襲の際は、多数の傷病者看護の陣頭指揮をした。
戦後、'48 東京看護教育模範学院の教育主事としての重責を担う。わが国の看護教育の在り方、看護組織の確立、公衆衛生看護の体系化等、看護の水準向上に努力した。聖路加女子専門学校教員、聖路加病院総婦長を歴任した。この間、戦後初の看護職の留学に、高橋シュン(同墓)、金子光、中道千鶴子の四名が選ばれ、カナダや米国へ留学した。
'54 日本初の大学制度による東京大学医学部衛生看護学科に就任し、'65 国立大学初の看護師出身の教授となり、看護大学教育の先駆者として偉才を発揮した。
『ナイチンゲール著作集』(1974-1983)や『新訳・ナイチンゲール書簡集−−看護婦と見習生への書簡』(1977)など、フローレンス・ナイチンゲールの実像と業績をわが国に普及した翻訳本を刊行し、翻訳文化賞、翻訳出版文化賞を受けるなど高く評価された。'77(S52)看護界における世界最高の栄誉、第26回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞。
著書に『看護学総論』(1968・1971・1975・1983)、『日本看護関係文献集』(1984)、『系統看護学講座10 看護学総論』(1987)、『グロウイング・ペイン−−拓けゆく看護のなかで』(1988)、『看護覚え書』などの共著や、ヴァージニア ヘンダーソン『看護の基本となるもの』『看護論』の翻訳などがある。
日本看護協会会長、国際看護師協会理事なども務めた。享年87歳。