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はしもと ひろとし

橋本寛敏

はしもと ひろとし

1890(明治23)〜 1974(昭和49)

明治・大正・昭和期の医学者、教育者

埋葬場所: 15区 1種 3側 4番
〔聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑〕

 東京帝国大学医学部卒業。1925(T14)より聖路加国際病院に医者として勤務。'40 聖路加女子専門学校 3代目校長に就任。'41.8(S16)2代目院長の久保徳太郎(同墓)の逝去に伴い、3代目聖路加国際病院長に就任。
 院長就任時期の日本は日中戦争から太平洋戦争へと突入し、チャペルの十字架は軍部の命令により塔上より取下ろされ、聖路加国際病院の名称は大東亜中央病院に改称。聖路加女子専門学校の名称も興健女子専門学校と改称させられ、国を挙げて戦争協力を強制させられた。
 この頃、校歌・校旗・学生章が制定されることになり、七宝焼きの白を基調とした学生章をデザインした。楕円の形は種の形をあらわし、聖書のルカによる福音書第八章一一節にある「種は神のことばである」や、ヨハネによる福音書一二章二四節に書かれている「一粒の麦」を意味している。中央には青いランプが描かれた白抜きの十字架が配され、周りに青地に黄色い小さな撫子が描かれている。日本女性を表す花として、学年の数と同じ四輪が描かれている。
 終戦後、GHQによる校舎の接収があり、日本赤十字社女子専門学校との合同教育を行う。'48 サラ・G・ホワイトが再来日し、ホワイトに校長を譲り、ホワイトは第4代校長に就任。また戦後の教育改革により、'53 学校法人聖路加看護学園設立し、'54 短期大学が許可され、ホワイトが初代学長に就任。
 橋本は戦前戦後と一貫して院長を在任し、ホワイト学長が定年退職した後、再び橋本が学校を率い、短期大学第2代学長に就任した。'64 四年制の看護大学が許可され、大学昇格後の初代学長に就任した。この間、'60 藍綬褒賞受章。'66 勲2等旭日重光章受章。
 '74.1 聖路加国際病院長および大学学長を退任。後任の学長は日野原重明(同墓)に引き継がれ、私学で初めての看護大学院設置へと発展していく。享年84歳。

<聖路加看護教育のあゆみ>


墓所

*墓石正面「聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑」。「正面左」に30名、「左面」に4名、「正面右」に30名、「右面」に8名(2023.7現在)の名前が刻まれている。「正面右」の上から三番目の一番左に「橋本寛敏」と刻む。

*この聖路加国際病院の墓所には聖路加国際病院に尽力された医師や看護師など著名な方々が多く眠る。


正面左 (←クリックで拡大)
<正面左>
日野原重明の他に著名な人物は、上林敬吉(日本聖公会の信徒建築家)、ミセス・セント・ジョンアリス・C・セントジョン:聖路加国際病院附属高等看護婦学校開設・初代校長、聖ルカの母)、小篠暉(聖路加国際病院麻酔科医)、菅原虎彦(4代目 聖路加国際病院長)、瀧野賢一(慈恵医大・ 聖路加気食科医師)、湯槇ます(看護婦・総婦長・日本看護協会長)、関武矩(聖路加事務長、広報部長、チャペルの聖歌隊長)、高橋シュン(聖路加の看護の象徴)、竹田眞二(牧師・司祭)


左面
<左面>
内田卿子(聖路加同窓会名誉会長 看護師・教育者)、松谷美和子(国際医療福祉大学看護学部長、聖路加国際大学教授、聖路加看護学会理事長)


正面右 (←クリックで拡大)
<正面右>
久保徳太郎(3代目聖路加国際病院理事長・2代目 聖路加国際病院長・聖路加国際大学 3代目校長)、久保いよ(看護教育者)、橋本寛敏(3代目聖路加国際病院長)、中村徳吉(聖路加病院外科医長、臨床外科医学会の権威)、平賀稔(聖路加病院皮膚科医長)、糸井一良(看護學講座 婦人科學教授)、上中省三(外科部長)、栗田静枝(聖路加国際病院診療記録管理主任)、松下和子(看護師・教育者)、野辺地篤郎(5代目 聖路加国際病院長)


右面 (←クリックで拡大)
<右面>
湯本きみ(看護師・教育者)、松岡美久里(看護師・教育者)、檜垣マサ(看護師・教育者)、久城孝(実務)、常葉恵子(聖路加国際大学 8代目校長 小児看護学)


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