北海道出身。牧師の家庭に生まれる。幼少期は日高地方の平取で育つ。香蘭女学校を経て、1935(S10)聖路加女子専門学校卒業。卒業後、聖路加国際病院に勤務し看護婦として内科看護に専念。
'43 フィリピン・マニラ聖路加病院副総師長 兼 看護取締として派遣され、敗戦後は現地でアメリカ軍の捕虜となり、174兵站病院で日本人捕虜の看護にあたった。
'46.1 帰国。帰国後は聖路加国際病院に再び勤務。'48.6 米国ウエイン大学に留学。翌.9 帰国。帰国後は、'50 東京看護教育模範学院の教員として、新しい看護学と教育法を実践し、看護学研究科長や学部長を歴任し、看護学教育の質向上に貢献した。模範学院解消後は、築地の地に戻り、聖路加短期大学で教員を続けた。
この間、厚生省の審議会委員や日本看護協会の教育委員を歴任。文部省の大学設置審議会委員や看護学視学委員も務められた。看護制度の確立と看護学の体系化、看護教育カリキュラムの充実・強化等に寄与した。'64 聖路加看護大学教授に主任されて以来、大学院での教育も含めて18年間(それ以前も含めると33年)、ベットサイドで、科学的根拠に基づいた看護実践の模範を示す中で、大学の中核となる愛の精神、看護の本質、使命等を教授した。
熱心なキリスト教信徒であり、日曜日の礼拝をきちんと守り、チャペル委員として礼拝堂の活動や維持管理の面で礼拝堂の牧師の活動を助け、信徒の教母として多くの人を信仰に導かれた。
日本看護科学学会発起人のひとりであり、学術集会の開催に尽力した。'82 聖路加看護大学を停年退官し、名誉教授。日本看護科学会名誉会員。'89.11.1(H1)勲4等瑞宝章受章。日本の看護界に大きな功績を残し、聖路加の看護の象徴と称された。
'97(H9)看護界における世界最高の栄誉、第36回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞。日本赤十字社名誉総裁を務められていた皇后陛下からナイチンゲール記章授与式で、「高橋さんが看護に注がれた真摯な情熱と、病み苦しむ人々に寄せられた深い慈しみの心が、どうかこれからも広く看護の世界に受けつがれ、傷病者一人一人が、かけがえのない人生を生きぬく上の支えとなることを願います」と述べられた。
看護は三つの「H」が必要と指導した「看護は心(Heart)、頭(Head)、手(Hands)を融合させ、他の医療メンバーと協力して働くことです。このすばらしさと満足、喜びをあなた方に味わってほしいと願っています」とメッセージを送っている。
晩年は松江に住む妹家族のもとに引っ越した。日曜日には妹と一緒に教会への出席を欠かさず、教会での活動や島根県に新設される看護短期大学への支援、そのほか多くの看護協会の講演会や老人大学の講師として多忙な生活を送った。しかし、妹夫婦が体調を崩し、一緒に住めなくなり、教会に近いところの高齢者住宅に引っ越す。2008.9(H20)95歳のとき、群馬県高崎市榛名山山麓にあるケアホーム「新生の園」に移り、この地で逝去。享年99歳。