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かんばやし けいきち

上林敬吉

かんばやし けいきち

1884.5.12(明治17)〜 1960.3.9(昭和35)

明治・大正・昭和期の信徒建築家

埋葬場所: 15区 1種 3側 4番
〔聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑〕

 京都市上京区出身。京都の高等小学校を中退した七年後、1903(M36)茨城県土木課に出仕。翌年、横浜の下田菊太郎が主宰する設計施工会社「下田建築合資会社」へ移り、二年間勤務。
 '06 米国聖公会の信徒建築家(ミッション・アーキテクト)のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが東京に開設して間もない建築設計事務所の所員となった。教会建築と大使館施設や個人住宅の聖俗両方の案件に関わり、最初の五年は設計助手と現場監督を担った。'09 夜に正則英語学校英語専修科に通う。'11 設計主任への昇進もあり、正則英語学校を中途退学。以降、設計主任として数々の建築物を手掛ける。特に鉄筋コンクリート造による聖公会の礼拝堂を多く手掛けた。
 '25.11.25(T14)ガーディナー死去に伴い、翌年、東京で事務所を開設した。この時、ガーディナーが残した仕事を継承するとともに、日本聖公会の信徒建築家として、米国聖公会の信徒建築家のジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニと協働を始めた。バーガミニとの共作においては、工法・構造、平面と意匠を標準化し、カスタマイズも図る鉄筋コンクリート造の「白い礼拝堂群」を生み出した。一方、単独設計では、その枠組みを超える独自な事例を残している。
 '33(S8)代表作となる「日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂」を設計。鉄筋コンクリート造りで外装は大谷石を全面に用いている。
 日中戦争に伴い時局が戦時下に突入したため、'37 事務所を閉め、病院理事会の指名建築家として聖公会を母体とする聖路加国際病院に関わる。
 翌年から聖路加国際病院の営繕課長として病院施設の増改築と管理、個人の立場では日本聖公会の礼拝堂の新築や戦災復興に携わった。戦後も継続し、'60 勤務先の聖路加国際病院で亡くなるまでその任を務めた。享年75歳。

<二つの教会をめぐる石の物語 人物略歴 上林敬吉>
<地域が誇る昭和戦前の大谷石名建築(4) /橋本優子>


墓所

*墓石正面「聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑」。「正面左」に30名、「左面」に4名、「正面右」に30名、「右面」に8名(2023.7現在)の名前が刻まれている。「正面左」の一番上の左から二番目に「上林敬吉」と刻む。

*この聖路加国際病院の墓所には聖路加国際病院に尽力された医師や看護師など著名な方々が多く眠る。


正面左 (←クリックで拡大)
<正面左>
日野原重明の他に著名な人物は、上林敬吉(日本聖公会の信徒建築家)、ミセス・セント・ジョンアリス・C・セントジョン:聖路加国際病院附属高等看護婦学校開設・初代校長、聖ルカの母)、小篠暉(聖路加国際病院麻酔科医)、菅原虎彦(4代目 聖路加国際病院長)、瀧野賢一(慈恵医大・ 聖路加気食科医師)、湯槇ます(看護婦・総婦長・日本看護協会長)、関武矩(聖路加事務長、広報部長、チャペルの聖歌隊長)、高橋シュン(聖路加の看護の象徴)、竹田眞二(牧師・司祭)


左面
<左面>
内田卿子(聖路加同窓会名誉会長 看護師・教育者)、松谷美和子(国際医療福祉大学看護学部長、聖路加国際大学教授、聖路加看護学会理事長)


正面右 (←クリックで拡大)
<正面右>
久保徳太郎(3代目聖路加国際病院理事長・2代目 聖路加国際病院長・聖路加国際大学 3代目校長)、久保いよ(看護教育者)、橋本寛敏(3代目聖路加国際病院長)、中村徳吉(聖路加病院外科医長、臨床外科医学会の権威)、平賀稔(聖路加病院皮膚科医長)、糸井一良(看護學講座 婦人科學教授)、上中省三(外科部長)、栗田静枝(聖路加国際病院診療記録管理主任)、松下和子(看護師・教育者)、野辺地篤郎(5代目 聖路加国際病院長)


右面 (←クリックで拡大)
<右面>
湯本きみ(看護師・教育者)、松岡美久里(看護師・教育者)、檜垣マサ(看護師・教育者)、久城孝(実務)、常葉恵子(聖路加国際大学 8代目校長 小児看護学)


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