京都市上京区出身。京都の高等小学校を中退した七年後、1903(M36)茨城県土木課に出仕。翌年、横浜の下田菊太郎が主宰する設計施工会社「下田建築合資会社」へ移り、二年間勤務。
'06 米国聖公会の信徒建築家(ミッション・アーキテクト)のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが東京に開設して間もない建築設計事務所の所員となった。教会建築と大使館施設や個人住宅の聖俗両方の案件に関わり、最初の五年は設計助手と現場監督を担った。'09 夜に正則英語学校英語専修科に通う。'11 設計主任への昇進もあり、正則英語学校を中途退学。以降、設計主任として数々の建築物を手掛ける。特に鉄筋コンクリート造による聖公会の礼拝堂を多く手掛けた。
'25.11.25(T14)ガーディナー死去に伴い、翌年、東京で事務所を開設した。この時、ガーディナーが残した仕事を継承するとともに、日本聖公会の信徒建築家として、米国聖公会の信徒建築家のジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニと協働を始めた。バーガミニとの共作においては、工法・構造、平面と意匠を標準化し、カスタマイズも図る鉄筋コンクリート造の「白い礼拝堂群」を生み出した。一方、単独設計では、その枠組みを超える独自な事例を残している。
'33(S8)代表作となる「日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂」を設計。鉄筋コンクリート造りで外装は大谷石を全面に用いている。
日中戦争に伴い時局が戦時下に突入したため、'37 事務所を閉め、病院理事会の指名建築家として聖公会を母体とする聖路加国際病院に関わる。
翌年から聖路加国際病院の営繕課長として病院施設の増改築と管理、個人の立場では日本聖公会の礼拝堂の新築や戦災復興に携わった。戦後も継続し、'60 勤務先の聖路加国際病院で亡くなるまでその任を務めた。享年75歳。