カナダ出身。ミセス・セント・ジョンと表記することもある。米国ニュージャージー州のAckensack病院で看護教育を受ける。コロンビア大学大学院で看護と公衆衛生を学ぶ。1918(T7)米国聖公会から東京へ赴任するために来日。
聖路加国際病院初代院長のルドルフ・B・トイスラーは、日本の病院とその建築設備や看護婦の状態については欧米にはるかに劣っていることから、看護婦の技術向上に伴って、品位教養と社会的な地位を高めることが日本社会には必要だと考えるようになる。米国の当時の標準に応じた専門職者としての看護婦養成を目指し、米国から看護教師としてセントジョンを招聘したという経緯がある。来日してすぐは、トイスラー院長と救護班としてシベリアへ赴く。
1920(T9)米国並びにカナダの最高の看護教育と同等の教育を行うこと、聖路加国際病院のための看護師養成ではなく、日本の看護の質向目指すために聖路加国際病院附属高等看護婦学校が開設され、初代校長に就任。この学校は高等女学校の卒業を入学資格とし、教育期間は三年、卒業後に聖路加国際病院への就職を義務付けませんでした。この特徴から、日本の看護教育の歴史の中で、看護の高等教育は聖路加で始まったと評価されている。学校開設時、個人衛生学、社会衛生、公衆衛生を開設し、後に学校保健、産婆(助産師)も教育課程に取り入れた。予防と保険を看護の中に含め、保険師の制度がない時代から公衆衛生看護を教育していたことも特徴である。(なお我が国最初の看護婦養成所は1885設立された有志共立東京病院看護婦教育所)。
日本の看護の質の向上を目指すトイスラーの志は、セントジョンによって具体化された。学生には品位(dignity)を持てと指導し、何事にも積極的で厳格すぎるとまでいわれた教育者であった。1期生は、80名応募し、27名が入学、15名が卒業した。以降、入学者は増加し、セントジョンは20余年の長きに渡り指導した。教え子たちは卒業後、全国の大学や医療機関、行政機関へと巣立ち活躍していく。また、'23.9.1 関東大震災により校舎、寄宿舎、病院が焼失したが、翌年より仮校舎等再建して早期復興を遂げた。
'27(S2)聖路加女子学園設立、文部省専門学校令に基づく聖路加女子専門学校を開設し、トイスラーが初代校長に就任。この時期は、看護婦学校と専門学校が同時期に存在した。
'41 戦争のためやむなく帰国。'56秋 大聖ルカ再興の感謝式に合わせて15年ぶりに来日。'60 看護教育への貢献に対して日本政府から勲5等瑞宝章を受章された。米国マサチューセッツ州ウィリアムス・タウンにて逝去。享年95歳。
日本の看護教育の基礎を築き、「聖ルカの母」「聖路加ナースの母」(Mother of St. Luke's Nurse)と称された。講堂にその名が残されている。また没後、'80 同窓会により名前を冠にした「ミセス・セントジョン基金」が設置された。