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くぼ いよ

久保いよ

くぼ いよ

1877(明治10)〜 1969(昭和44)

明治・大正・昭和期の看護師、看護教育者

埋葬場所: 15区 1種 3側 4番
〔聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑〕

 東京出身。旧姓は荒木。立教女学院卒業後、1894(M27)カナダミッション経営の神戸看護婦学校に入学し、宣教看護婦スミスのもとで学ぶ。二年次の秋、スミスの長野における布教活動に同伴し、開設された長野看護婦学校で残る一年間の勉強を続け卒業した。その後、神戸にて臨床看護を修めたのち、東京において外国人患者の家庭看護婦として働いた。
 1900(M33)米国聖公会から日本に派遣された宣教医師であるルドルフ・B・トイスラーと出会う。トイスラーに勧められ、二年間、米国バージニア州リッチモンドにあるオールド・ドミニアン病院付属看護婦学校への留学および、ジョンズ・ホプキンズ病院やマウント・ウィルソン小児病院における研修を受けた。
 帰国後、1902 東京・築地明石町に築地病院を「聖路加病院」と改称し診療を開始した院長のトイスラーのもとで看護婦として活動。創設当初の聖路加病院は二人だけからのスタートであった。以降、病院が大きくなるに当り、初代看護婦長・総婦長として活動。
 1933(S8)聖路加病院は新館落成。その翌年、トイスラーの逝去に伴い第二代院長・校長に就任した久保徳太郎(同墓)と結婚をし、寿退職した。享年92歳。

<聖路加看護教育のあゆみ>


墓所

*墓石正面「聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑」。「正面左」に30名、「左面」に4名、「正面右」に30名、「右面」に8名(2023.7現在)の名前が刻まれている。「正面右」の一番上の左から二番目に「久保いよ」と刻む。

*この聖路加国際病院の墓所には聖路加国際病院に尽力された医師や看護師など著名な方々が多く眠る。


正面左 (←クリックで拡大)
<正面左>
日野原重明の他に著名な人物は、上林敬吉(日本聖公会の信徒建築家)、ミセス・セント・ジョンアリス・C・セントジョン:聖路加国際病院附属高等看護婦学校開設・初代校長、聖ルカの母)、小篠暉(聖路加国際病院麻酔科医)、菅原虎彦(4代目 聖路加国際病院長)、瀧野賢一(慈恵医大・ 聖路加気食科医師)、湯槇ます(看護婦・総婦長・日本看護協会長)、関武矩(聖路加事務長、広報部長、チャペルの聖歌隊長)、高橋シュン(聖路加の看護の象徴)、竹田眞二(牧師・司祭)


左面
<左面>
内田卿子(聖路加同窓会名誉会長 看護師・教育者)、松谷美和子(国際医療福祉大学看護学部長、聖路加国際大学教授、聖路加看護学会理事長)


正面右 (←クリックで拡大)
<正面右>
久保徳太郎(3代目聖路加国際病院理事長・2代目 聖路加国際病院長・聖路加国際大学 3代目校長)、久保いよ(看護教育者)、橋本寛敏(3代目聖路加国際病院長)、中村徳吉(聖路加病院外科医長、臨床外科医学会の権威)、平賀稔(聖路加病院皮膚科医長)、糸井一良(看護學講座 婦人科學教授)、上中省三(外科部長)、栗田静枝(聖路加国際病院診療記録管理主任)、松下和子(看護師・教育者)、野辺地篤郎(5代目 聖路加国際病院長)


右面 (←クリックで拡大)
<右面>
湯本きみ(看護師・教育者)、松岡美久里(看護師・教育者)、檜垣マサ(看護師・教育者)、久城孝(実務)、常葉恵子(聖路加国際大学 8代目校長 小児看護学)


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