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ひのはら しげあき

日野原重明

ひのはら しげあき

1911.10.4(明治44)〜 2017.7.18(平成29)

昭和・平成期の内科学者、現役最高齢医師
(105才)、聖路加国際病院名誉院長

埋葬場所: 15区 1種 3側 4番
〔聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑〕

 山口県山口市湯田出身。メソジスト派の牧師で広島女学院院長も務めた日野原善輔の二男として母の実家で生まれる。父は萩市出身で、母は山口市出身。両親ともキリスト教徒であるため、7歳で受洗。10歳からピアノを習う。父の牧師としての赴任先の都合で、大分を経て神戸で小学校に入り、以降少年期を神戸で過ごす。母の命を救った医者に憧れ、医学の道を志す。
 小学校4年生の時に急性腎臓炎で休学。関西学院中学部の時は赤面恐怖症克服のため弁論部に入る。第三高等学校を経て、1932(S7)京都帝国大学医学部に現役合格し入学したが、翌年、結核性の胸膜炎で1年間休学し山口県光市で療養。医学者になる夢を諦め、音楽の道に進もうと考えたが、両親に反対され、'34 復学。'37 卒業し、同校の真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局。北野病院や京都病院でも勤務し、京都帝国大学大学院で心臓病学を専攻した。
 '41 東京は東大閥があるからと周囲の反対があったが、東京で勝負がしたいと上京し、聖路加国際病院の内科医となる。初仕事は聖路加の軽井沢診療所に勤務した。戦時中は聖路加国際病院の名は大東亜中央病院と改名されている。'42 広島女学院院長を定年退職し上京していた父が牧師をしていた田園調布の教会の役員の紹介で、日曜学校で教師をしていた静子と結婚。
 '43 心臓が収縮するとき低音になることを発見し、論文「心音の研究」で医学博士。'45 志願し海軍軍医少尉に任官。戸塚海軍病院などで訓練を受けている時に急性腎臓炎になり除隊。終戦を迎えた。戦後は聖路加国際病院に戻る。病院はGHQに接収されていたが、占領軍が図書館に持ち込んだ医学書や医学雑誌を読み、医学博士のウイリアム・オスラーを師事。これが後の生活習慣病予防の思想に繋がることになる。
 '51 内科医長に就任。同年、エモリー大学医学部に一年間留学。'52 帰国し、聖路加国際病院院長補佐を務める(〜'72)。東京看護教育模範学校や東京文化学園などで講師を務め、'53 国際基督教大学教授に就任し社会衛生学などを講じた。'57 石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、主治医を務める。


【よど号ハイジャック事件の人質】
 1970.3.31 内科部長時代、福岡での内科学会へ出席するために搭乗した旅客機にて赤軍派による「よど号ハイジャック事件」に遭遇し、他の乗客とともに人質となった。これは日本初のハイジャック事件である。犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」と声明しても多くの日本人は「ハイジャック」の意味を知らなかった。その中で日野原が手を挙げ「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と説明した。機内で犯人グループから人質に本が提供されたが、応じたのは日野原だけで『カラマーゾフの兄弟』を借りたという。
 4日間、人質として拘束されて韓国の金浦国際空港で解放された。同乗していた吉利和(東京大学医学部教授、犯人に教え子がいた)と、乗客の健康診断を行った。事件に遭ったのを契機に自己の内科医としての名声を追求する生き方を止める。以後の命を与えられたと考えるようになり、事件が人生観を変えるきっかけになったと述懐している。


【日本初の人間ドックと生活習慣病】
 内科学の専門医として、定期健康診断で病気の早期発見を定着させ、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くす。
 日本で最初に人間ドックを開設。成人病と呼ばれてきた血栓によってひき起こされる心臓病、脳卒中の予防につなげるため、1970年代から「習慣病」と呼び、旧厚生省はこの考えを受け入れ、「生活習慣病」(1996)と改称し、その後広く受け入れられた。
 津田塾大学評議員、文部省医学視学委員、'71 聖路加看護大学副学長および教授、'73 財団法人ライフ・プランニング・センター設立に際して理事長を歴任した。'74 聖路加国際病院を定年退職。同年、第4代 聖路加看護大学学長に就任(〜'98)。聖路加看護大学に大学院を開設し、日本で初めて看護大学に博士課程を設置した。
 '78 厚生省医療関係者審議会臨床研修部会会長(〜'81)。'80 聖路加国際病院理事、'82 自治医科大学客員教授(〜'98)、'84 東洋人初の国際内科会会長(〜'86)、'86 日本バイオミュージック研究会初代会長、アメリカ内科学会名誉フェロー、'87 日本総合健診医学会会長(〜'97)を務め、'92 聖路加国際病院院長に就任。この時、無給で院長を引き受ける。また、国際健診学会会長、株式会社聖路加サービスセンター代表取締役も兼務。


【地下鉄サリン事件で被害者救済の陣頭指揮】
 '95.3.20(H7) 地下鉄サリン事件が発生。被害者救済の陣頭指揮を執り、院長として聖路加国際病院を開放する決断を下すと外来診察などの通常業務をすべて停止し、被害者640名の治療に当たった。この時、83歳。
 三年前に院長に就任した際に、新病棟を建設。東京大空襲の際に満足な医療ができなかった経験から、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能できる病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた。当初は過剰投資で広大過ぎると非難もされていたが、結果、地下鉄サリン事件の被害者の緊急応急処置場として大いに機能することになった。朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最小限に抑えることに繋がった。

 '95 全日本音楽療法連盟(日本音楽療法学会)会長に就任。'96 財団法人聖路加国際病院理事長に就任(〜2014)。聖路加国際病院院長を退任し名誉院長。公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所を設立し、理事長に就任。
 この間、'82 日本医師会最高優功賞を受賞。'85 フィラデルフィア医師会日米医学科化学者賞を受賞。'89 キリスト教功労者顕彰。'92 東京都文化賞受賞。'93 勲二等瑞宝章を受章。'98 聖路加看護大学名誉学長及び名誉教授、東京都名誉都民、トマス・ジェファーソン大学人文科学名誉博士。医療法人真誠会名誉理事長。'99 文化功労者。'99 中央区名誉区民。全日本学士会アカデミア賞を受賞。
 2000 財団法人笹川記念保健協力財団会長。日本パブリック・リレーションズ協会日本PR大賞社会部門賞受賞。老人の新しい生き方を提唱して財団法人ライフ・プランニング・センターに新老人の会を設立、会長に就任。2001 日本音楽療法学会初代理事長。90歳の時に出版した『生きかた上手』は120万部のベストセラーになる。
 2002 マックマスター大学名誉博士。経済界大賞特別賞を受賞。2003 NHK放送文化賞、朝日新聞社朝日社会福祉賞、亀岡市生涯学習大賞・石田梅岩賞受賞。2004 日本栄養療法推進協議会理事長。2005 文化勲章受章を受章した。
 2006 社団法人日本循環器学会名誉会員、関西学院大学名誉博士、社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問。2007 日本ユニセフ協会の大使に任命され、有限責任中間法人日本総合健診医学会理事長。2008 神戸市神戸大使。日本ハンドベル連盟理事長。2009 聖トマス大学日本グリーフケア研究所名誉所長。2010 上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長。コルチャック功労賞、翌年 日本禁煙科学会賞を受賞。
 この間、ミュージカル「葉っぱのフレディ-いのちの旅-」の企画・脚本を手掛けた。初演は2000年。2006公演では美智子皇后(当時)も観劇。2010 アメリカ公演を果たし、カーテンコールで出演の子どもたちと一緒に踊った。2011に100歳となるも現役最高齢医師として活動を継続。2012 農林水産省みどりの特別大使を務めた。2013 アルベルト・シュヴァイツァー章受章。この年、妻の静子が93歳で亡くなる。静子は晩年の10年ほどは認知症を患っていた。

 2014 血中に大腸菌があり入院し回復したが、念のために検査をした結果、大動脈弁狭窄症が発見される。高齢のため手術が難しく、以後は移動の際は車椅子を使用することになった。
 趣味はピアノで、箱根駅伝やサッカー観戦を好み、特に「なでしこジャパン」の海堀あゆみのファンであった。2015 女子サッカーの日本対イングランドを観戦した際に気分が悪くなり検査をした結果、心房細動が発見された。以後は興奮を避けるため生観戦は避け、結果を知ってから録画観戦をすることになった。
 二年後、東京都世田谷区の自宅にて呼吸不全により逝去。享年105歳。従3位追贈。最期は家族に見守られ、「ありがとう」の言葉を残して息を引き取った。病院葬でキリスト教式の告別式が青山葬儀所にて執り行われた。上皇后美智子も弔問に訪れ、告別式は約4000人が参列した。「生涯現役」の医師として、医学界に多大なる功績を残された。


【長寿の秘訣?】
 食事によるカロリーコントロールを気にし、30歳の時の体重を維持するよう心掛けていた。朝食はコップ一杯の野菜ジュースにオリーブオイルをひとさじ加えたもの、昼食はクッキーと牛乳のみ、夕食は緑黄色野菜をたくさん摂るようにしながら肉類を週に2回、魚類を週に5回という内容であった。一日の摂取カロリーは1000Kcal台ぐらいである。
 就寝の時にはうつぶせ寝を取り入れていた。細かく寝る体勢を調節しながら顔がやや斜めになるようにうつぶせ寝にし、睡眠時間は5時間ほどであった。短い時間でも熟睡して、10日に1度は徹夜で執筆に当たるなど精力的に活動を続けた。
 100歳を超えても10年先まで予定を立てていた。102歳の時に東京2020オリンピック競技大会の開催が決定した際には、手帳には東京オリンピック・パラリンピックの時期まで予定を入れていたという。

<「生きていくあなたへ−105歳どうしても遺したかった言葉」日野原重明>
<山口きらめーる 第9回 聖路加国際病院 理事長:日野原重明>
<聖路加国際病院歴代理事長HPや訃報記事など>
<馬渕隆様より情報提供>


墓所 墓碑

*日野原重明と静子には三人の息子に恵まれている。長男の日野原明夫は喪主をつとめ、告別式での挨拶では下記のように語っている。『父が特に大切にしていた言葉、「出会い」「いのち」「愛」「ゆるし」、この4つの言葉を大切にしながら私ども家族も生きていきたい。(父が)自宅で過ごした最後の4カ月は神様から与えられた貴重な時間だった。お気に入りの庭を眺め、平静な心を持ち、日々を過ごすことができた。そして、私たちに「ありがとう」の言葉を残しながら安らかに眠りについた。』次男の日野原直明はNHKでプロデューサーを務めた。手がけた番組に、NHKスペシャル「こども 輝けいのち」というシリーズがある。また、日野原重明が亡くなる7年前から同居し、直明の妻である眞紀は講演会などにも同行した。三男の日野原知明は慶応義塾大学医学部を卒業して父と同じ医学の道に進んだ。

*墓石正面「聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑」。「正面左」に30名、「左面」に4名、「正面右」に30名、「右面」に8名(2023.5現在)の名前が刻まれている。「正面左」一番下の段の左から二番目に日野原重明の名が刻む。妻やその他親族の名前は刻まれていない。

※日野原重明の正墓が「小平霊園10区15側」であることが判明しました。

小平霊園10区15側 墓誌

*洋型「日野原家」、裏面「昭和三十三年十一月 日野原家建之」と左側に刻み、右側が墓誌となっている。墓誌は母の満子から刻みが始まる。次に父でメソジスト派の牧師の日野原善輔が刻む。6人兄弟の次男が日野原重明であり、重明の妻の静子も同墓に眠る。他に兄弟、俊明、忠明も眠る。

<木塚様より写真・情報提供>


*この聖路加国際病院の墓所には聖路加国際病院に尽力された医師や看護師など著名な方々が多く眠る。


正面左 (←クリックで拡大)
<正面左>
日野原重明の他に著名な人物は、上林敬吉(日本聖公会の信徒建築家)、ミセス・セント・ジョンアリス・C・セントジョン:聖路加国際病院附属高等看護婦学校開設・初代校長、聖ルカの母)、小篠暉(聖路加国際病院麻酔科医)、菅原虎彦(4代目 聖路加国際病院長)、瀧野賢一(慈恵医大・ 聖路加気食科医師)、湯槇ます(看護婦・総婦長・日本看護協会長)、関武矩(聖路加事務長、広報部長、チャペルの聖歌隊長)、高橋シュン(聖路加の看護の象徴)、竹田眞二(牧師・司祭)


左面
<左面>
内田卿子(聖路加同窓会名誉会長 看護師・教育者)、松谷美和子(国際医療福祉大学看護学部長、聖路加国際大学教授、聖路加看護学会理事長)


正面右 (←クリックで拡大)
<正面右>
久保徳太郎(3代目聖路加国際病院理事長・2代目 聖路加国際病院長・聖路加国際大学 3代目校長)、久保いよ(看護教育者)、橋本寛敏(3代目聖路加国際病院長)、中村徳吉(聖路加病院外科医長、臨床外科医学会の権威)、平賀稔(聖路加病院皮膚科医長)、糸井一良(看護學講座 婦人科學教授)、上中省三(外科部長)、栗田静枝(聖路加国際病院診療記録管理主任)、松下和子(看護師・教育者)、野辺地篤郎(5代目 聖路加国際病院長)


右面 (←クリックで拡大)
<右面>
湯本きみ(看護師・教育者)、松岡美久里(看護師・教育者)、檜垣マサ(看護師・教育者)、久城孝(実務)、常葉恵子(聖路加国際大学 8代目校長 小児看護学)



第467回 現役最高齢医師 105歳 生きかた上手 日野原重明 お墓ツアー


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