*救世軍社会部墓地(社会事業)墓所内に「公益施設内永眠者墓所之碑」が建つ。ここには「日本基督教團第十一部 為 山室軍平記念 建之 昭和十七年九月一日 生江孝之 謹書」と刻む。生江孝之(14-1-22-15)の墓所も多磨霊園にある。反対の面には「幸福なるかな 心の貧しき者 天国はその人のものなればなり」と刻む。これは『新約聖書』「マタイによる福音書(マタイ伝)」の言葉。
*多磨霊園にある救世軍の三か所の墓所とも納骨堂の周囲に墓誌がはめ込まれており、眠っている方々の名前の刻みがある。
【多磨霊園の日本救世軍財団墓所】
多磨霊園には日本救世軍財団の墓所が3ヶ所あり、救世軍として活動した英霊が眠る。三か所とも納骨堂の周囲に墓誌がはめ込まれており、眠っている方々の名前の刻みがある。
「救世軍」とはプロテスタントのキリスト教の慈善団体である。1865年にイギリスの牧師、ウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するためにキリスト教伝道会を創設。軍隊式の組織編制、メンバーの制服・制帽・階級章類の着用、軍隊用語の使用などを採用し、1878年創設者のウィリアムが「Not volunteer army, but Salvation army(義勇軍に非ず、救いの軍なり)」という天啓を受けに「救世軍」と改称。現在は特別協議資格を持つ国連NGOで、世界133の国と地域(2023年現在)で活動されている。
なお、英語の「The Salvation Army」を「救世軍」と日本語に翻訳したのは尾崎行雄である。日本最初の士官として日本救世軍の創設発展に尽力し、アジアで初めて中将の称号が与えられたのは山室軍平(15-1-11-1)である。
【多磨霊園に眠る救世軍士官】
日本人初の司令官となった山室軍平を筆頭に、軍平の前妻で日本救世軍の母と称された山室機恵子、後妻の社会事業家の山室悦子、軍平の長男の山室武甫、長女の山室民子、二女で美術工芸教育者の山室光子ら山室家の墓所は15区1種11側1番。山室民子は「救世軍士官墓地(士官)」(7区1種5側1番)の墓石右面の手前の墓誌の下段の右から22番目に「山室民子」と刻む。山室家の人物で名前が刻むのは民子だけである。
その他、多磨霊園に眠る救世軍に関わった人物は、キリスト教伝道者として著名な熊本バンド出身の金森通倫(15-1-13)。健康を害して救世軍を去った後に回復後、キリスト教伝道者として活躍した梅森豪勇(23-1-60)らがいる。
なお「救世軍士官墓地(7区1種5側1番)」には、墓石右面に手前と奥、上段下段に名前と没年月日が刻む墓誌がはめ込まれている。ここの名前の刻みを単純に計算すると、奥の墓誌には51名×2(上下段)+1名(上段)=103名。手前の墓誌には43名×2(上下段)=86名。墓石にはめ込まれた墓誌には計189名が刻む。また墓石の右側に独立した墓誌も建ち、奥の墓誌に48名、手前の墓誌に24名(H26.3.1召天:生井清までの現在)の計72名が刻む(令和歿者もこれから刻まれていくお思われる)。これらを合わせて総計261名が眠っている。
ここに眠る著名な救世軍士官は、廃娼運動活動家の伊藤冨士雄(奥の墓誌の下段の右から34番目)、自由民権運動家、政治家の村松愛蔵(奥の墓誌の上段の右から31番目)、妻で民権運動家・婦人ホーム主任の村松きみ(奥の墓誌の下段の右から19番目)、女性初の救世軍士官学校の校長に就任した指田静(手前の墓誌の下段 右から13番目)、戦後救世軍再建の中心的な役割を果たした植村益蔵(手前の墓誌の上段 右から2番目)、父が創業したヤマト運輸に入社してすぐに肺結核となり意気消沈していた小倉昌男を復活させ、その後の宅急便の開発者でヤマト運輸を大企業へと発展させていく途上の心の支えとなった一柳猪太郎(手前の墓誌の下段の右から3番目)らがいる。
|