三河国渥美郡田原村(愛知県田原市田原町)出身。田原藩の家老の家に生まれる。
藩校成章館で伊藤鳳山から儒学を、穂積清軒主宰の洋学校好問社で儒学・英語などを学んだ。16歳で上京。ロシア語学校(神田ニコライ堂内)を経て、東京外国語学校露語科に編入し、レフ・メーチニコフの門下生となる。
板垣退助の思想に影響を受け、1879(M12)田原に帰郷後、鈴木孝之助、広中鹿次郎ら青年たちに働きかけて民権政社「恒心社」を結成した。国会開設の運動を盛り上げた。1881 自由民権運動に加わり「愛知自由党」結成に参加。
1883 新聞「愛岐日報」に発表した私擬憲法『日本国憲法草案』の起草を発表した。一院制の国会、国民の権利を無制約的に保障し、税額を問わず国税納付者・婦人戸主・満18歳以上の男子の選挙権を認めるなど、当時としては非常に斬新なものであった。
1884 長野県飯田の自由党員たちと挙兵暴動計画(政府転覆を企てた事件)に加わり、事前に発覚し捕まった。これは自由党激化事件のひとつである飯田事件であり、その首謀者とされる。軽禁獄7年の判決を受け、北海道の監獄に送られ服役した。1889 憲法発布の大赦により4年の服役で釈放され出獄。地元田原で英雄のように迎えられた。
出獄後は、後藤象二郎の大同団結運動に加わり中山道を遊説した。1890 板垣退助らが立憲自由党を結成すると入党し、評議員になる。この頃、名古屋の扶桑新聞社の記者となり、時事評論、最新のロシア情報を紹介した。また下宿先の娘のきみ(旧姓は清水:当時17歳:同墓)と結婚。
1894.3.1 第3回衆議院議員総選挙に愛知県11区から立憲自由党公認で立候補するが、豊橋改進党から立候補した三浦碧水に敗れ落選。同.9.1 第4回衆議院議員総選挙に愛知県11区から立憲自由党公認で再度立候補するが、立憲革新党の高橋小十郎に敗れ落選。落選後、日清戦争後の状況視察のため韓国に渡り、翌年、参謀本部の委託を受けて、インド、トルコ、ロシアなどの視察旅行をした。特に帝政ロシアの内情を見聞。
1898.3.15 第5回衆議院議員総選挙に愛知県11区から立憲自由党公認で三回目の立候補をし初当選。しかし、自由党と進歩党が合同し憲政党となる。そしてわずか5か月弱で総選挙となった、同.8.10 第6回衆議院議員総選挙では後藤文一郎に敗れた。1902.8.10 第7回衆議院議員総選挙でも敗れたが、'03.3.1 第8回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会公認で出馬しトップ当選を果たした(2回目)。
'04.3.1 日露戦争が開戦されたばかりであり挙国一致ムードの中で行われた第9回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会公認で出馬し連続当選(3回目)。'08.5.15 第10回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会公認で出馬し当選した(4回目)。
しかし、'09.5.11 日本製糖汚職事件に連座し政界を引退、逮捕された。これにより勲4等も褫奪された。日本製糖汚職事件(日糖事件)とは台湾を舞台に日本製糖取締役が共謀して、法律の延長を求めて複数の衆議院議員に対し金品を贈賄した明治時代に起きた疑獄事件のことである。この事件では23名の代議士が検挙された。村松も賄賂を受け取ったということで検挙されるが、本人は献金の出所を知らなかったという。同.7.3 第一審判決で重禁固5か月を言い渡される。判決に対して16名が控訴したが、村松は控訴せずに受け入れ服役。
服役中にキリスト教徒である妻のきみより差し入れられた聖書を読みキリスト教に回心する。同.12 出獄後、直ちに救世軍の山室軍平(15-1-11-1)を訪ね、'10.1.3 決心して救世軍に入り、一兵士となる。翌年は妻のきみを上京させ、共に救世軍士官学校に入校した。その後、妻のきみや伊藤富士雄(同墓)らと共に女性解放を訴える社会事業やキリスト教の伝道に携わっていくことになる。
'11.5 見習大尉となり、京橋小隊長。諸所に転戦して、'13.12(T2)本営の身の上相談部主任。'29.6(S4) 72歳で引退するまで、約2万8600余件の相談事件を扱った。救世軍引退後も、宗教家として多くの人を救う活動を続けた。享年82歳。遺骨は田原部尋常高等小学校の講堂にて盛大なキリスト教納骨式が執り行われた。