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むらまつ きみ

村松きみ

むらまつ きみ

1874(明治7)〜 1947.2.4(昭和22)

明治・大正・昭和期の救世軍士官、
民権運動家、婦人ホーム主任

埋葬場所: 7区 1種 5側 1番
(救世軍士官墓地)

 愛知県名古屋市出身。旧姓は清水。きみ子ともいう。質屋と衣裳を商う商家の生まれた。
 名古屋で最初のミッションスクール清流女学校在学中、17歳で村松愛蔵(同墓)と結婚。夫は東京での仕事が多く、愛知在住のきみとは遠距離であったため、夫の女性関係に躓づくことなどあった。
 '09.5.11 夫は政治家として活動していたが、日本製糖汚職事件(日糖事件)に連座し、政界を引退し逮捕される。服役中の夫に聖書を差し入れする。これを機に夫の村松愛蔵はキリスト教に回心する。
 同.12 出獄後、直ちに夫と共に救世軍の山室軍平(15-1-11-1)を訪ね、'10.1.3 夫は決心して救世軍に入る。翌年、きみも上京し、夫と共に救世軍士官学校に入校した。夫と共に社会事業やキリスト教の伝道に携わっていくことになる。
 山室軍平の前妻である山室機恵子(15-1-11-1)が亡くなった後、機恵子に代わり婦人ホーム主任として15年もの長きに渡り働く。この施設では身寄りがない婦人や困苦で悲惨な目に遭っている女性たち、親に身売りされ強制的に働かされていた娼婦救済運動に尽力していた伊藤富士雄(同墓)が救済した娼婦たちを保護し面倒をみた。その数、2,592人を婦人ホームで収容したという記録が残っている。

<市民・社会運動人名事典>
<「娼妓解放哀話」沖野岩三郎>


むらまつ きみ (←画像をクリックで拡大)

*多磨霊園の救世軍士官墓地(士官)にて仲間たちと眠る。墓石右面に手前と奥、 上段下段に名前と没年月日が刻む墓誌がはめ込まれている。奥の墓誌の下段の右から19番目に「村松きみ」が刻む。夫の村松愛蔵は同じ墓誌の上段の右から31番目に「村松愛蔵」が刻む。

*正墓所は愛知県田原市田原町稗田にある浄土宗「城宝寺」であり「村松家累代之墓」「昭和十四年四月十一日 村松きみ 建之」が建つ。同じ墓域には渡邉崋山の墓もある。


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