群馬県南勢多郡一毛出身。養蚕業を営む南城彦惣、しげ の4女として生まれる。6歳の時に叔父の高野与三郎の養女となる。旧姓は南城、高野。結婚後に指田姓となる。指田靜子、指田しづと表記することもある。
書店を営む養家で何不自由なく育てられたが、その後、叔父の事業の失敗で生家に戻る。父の病で、長姉が家督を継ぐ。二人の姉も結婚したため、静は行き場を失いかけたが、いとこの森川抱次がフェリス和英女学校に貸費生制度があることを教えられ、周囲を説得し静のサポートを引き受けてくれた。森川は群馬県の廃娼運動に尽力した人物である。
1899.5(M32)本科への入学を許され、寄宿舎生活が始まり、貸費生の道も開かれた。静はフェリス出身の教師の平野浜子(のちの日本女子大学校教授)の影響を強く受け、1900 横浜海岸教会で受洗する。'04 本科、'06 聖書科を卒業し、その後二年間義務年限として英語と聖書を教えた。
'08 契約を延長し女学校教師としての口があった一方、寄宿舎の窓から見える真金町あたりの町の灯が何であるかを知り、救世軍がそれら遊郭の女性たちの救済事業を行っていることにも心を動かされる。日本救世軍創設者の山室軍平(15-1-11-1)から「教師の代りはある」という一言を受け、9年間過ごした母校を去り、上京して救世軍に入る決意を固めた。
救世軍に入り半年後、ロンドンの万国士官学校入校を命ぜられ渡英。世界各国の士官候補生に伍して訓練を受け、女性保護の科目も習得した。フェリスで培われた英語力と聖書の知識は音楽とともに集会や伝導に大いに役立った。'09.10 帰国。大尉に任ぜられ、'11 当時、築地にあった東京婦人ホーム主任となり、念願の自由廃業の女性たちの救済事業に就く。この間、救世軍機関誌「ときのこゑ」編集長の指田和郎(同墓)士官と結婚した。二児を儲けるが、二年後、過労のため離任し、夫と同じ編集部付となる。
'23.9.1(T12)関東大震災で神田本営の建物が崩壊し、夫が亡くなる。静はただちに二児を義母に託し、翌日から被災者救援の活動をした。翌年、中佐に任ぜられ、救世軍士官学校教頭を経て、'31(S6)女性初の救世軍士官学校の校長に就任した。'39 大佐に昇進。この時期、士官学校は優秀な士官を多く輩出した。
その後、戦後にかけて10年間、フェリスの法人理事を務め、いつも凛々しい制服姿で来校した。101歳の天寿をまっとうした。