北原白秋「この道」の新研究

北原白秋「この道」の原点 

 

歌集「桐の花」・詩「たんぽぽ」


郷里柳河に帰りてうたへる歌



「この道」の発想になったのは

以下に示す与田準一の文章により「この道」の原点は、母の実家の土地(熊本県玉名郡南関町)で”道の手”と呼ばれる片岨の道であることがわかる。白秋の生まれた柳川ではなく、柳川から南関への道という漠然とした表現でもないことに注意する必要がある。

引用者註:片岨(かたそ)〜山の一方のがけ。断崖。懸崖。かたそば。


与田準一著「青い鳥・赤い鳥」(昭和55年4月10日 講談社)より

「この道」連想

札幌の新聞社から電話がかかってきました。

―白秋の「この道」は、当地方旅行のおりの産物か?

この作の二連め、


    あの丘はいつか見た丘、

    ああ、そうだよ、

    ほら、白い時計台だよ。


の、時計台がそれを表象していると察せられるのだが。

―先師白秋は歌人の吉植庄亮といっしょに大正十四年八月、樺太、北海道旅行をしている。「この道」は、その約一年後に発表されたもので、たしかに貴地の印象がうたいこまれていることは間違いない。

ただ、先師自身から、母の里の”道の手”における子どものころの思い出がその発想になったことも聞いている。それらの経験の堆積が何らかのきっかけから、言語表現という別次元の心象風景化されたものと解される。といったような返事をしました。(昭和五十四年七月十八日)

ジャンボジェット機内で

―聞きなれたメロディーだ・・・・・。だんだんに、山田耕筰歌曲の幾つかの連続放送であることがわかってくる。・・・

―さっきのメロディーは、北原白秋作「この道」のそれだったんだ。空路へ向かって出発する前にながされた”この道はいつか来た道・・・・・”の選曲とは考えられたものだ。

「この道」は大正末年ころにつくられた童謡、いや、じつは歌曲で、作者の創作時にジャンボの機内放送にながされるなどとは予想しなかったことにちがいあるまい。

かつて私は、先師白秋のやはり大正後半刊行の、いわば東洋風境涯の詠まれた詩集『水墨集』のなかに”芭蕉”を見出し、芭蕉の句のなかの、


    此道や行人なしに秋の暮


を思い起こし、また先師の「この道」を連想したことがありました。・・・

―「この道」の着想は、しかし、昭和三年夏、先師の供をしてその母堂の里(熊本県玉名郡南関町)訪問のおり、土地で”道の手”と呼ばれる片岨の道を歩きながら、「このあたりでの子どものころの心象が”この道”になった。」と師自身から聞いている。”秋の暮”の芭蕉の句境とは、まるでちがったものだ。・・・



引用者註

・幼少期の追憶のテーマを作品化するにあたって、自身の体験を思い起こすことは当然のことで、「母の里の”道の手”における子どものころの思い出がその発想になった」とあるのは頷ける。

・ただ、白秋は明治42年12月下旬に柳河に帰郷したきりで、その後実際に母の里を訪れたのは作品発表(大正15年)の2年後の昭和3年7月のことである。つまり「この道」の作品は実際に故郷に帰って改めて「いつか来た道」を体験してそれに基づいて作品化したものではない。


・「それらの経験の堆積が何らかのきっかけから、言語表現という別次元の心象風景化されたものと解される。」の”何らかのきっかけから”や”別次元の”の言葉は抽象的で理解しにくいが、北海道旅行の印象がうたいこまれていることと母の里の”道の手”における子どものころの思い出がその発想になったことを結びつけようとする著者の表現かもしれない。

 
・なお、「昭和三年夏、先師の供をしてその母堂の里(熊本県玉名郡南関町)訪問のおり」に『”道の手”と呼ばれる片岨の道を歩きながら、「このあたりでの子どものころの心象が”この道”になった。」と師自身から聞いている。』とあるが、それは昭和三年の七月のことであり、白秋はその直前の『「時事新報」昭和三年五月三十日ー六月六日』の「踏襲問題 百田宗治君に」という文章の中で『「思ひ出」の系統に旅中から得た北海道風景を織ったものであると書いている。

与田準一のこと

・「与田準一記念館」のプロフィールより引用


明治38年6月25日(戸籍は8月2日)福岡県山門郡瀬高町に、父浅山与太郎、母スエの二男として生まれる。

「昭和3年23歳北原白秋からの手紙を頼りに上京。白秋の助手兼長男隆太郎の家庭教師として寄食。」

・与田準一「青い鳥・赤い鳥」(講談社) P285「水上は思ふべきかな」より。


さて、卓上に並べた器物化のイメージの各年代のなかから、昭和初年代(わが23歳)が私にサインする。この古神道的森厳を現代に呼び戻そうとした”水上”は、昭和三年一月、白秋四十三歳のときの作。大森は馬込の丘に住む師をたよって私が上京したのは、その三月後の春でした。


引用者註:以下、北原東代著「立ちあがる白秋」(燈影舎)より抜萃して引用。


・大正一〇年(一六歳)、雑誌「赤い鳥」の購読を始める。


・大正一五年(二一歳)、上京し、白秋を初めて訪ね、面会する。


・昭和三年(二三歳)、春、上京し、六月からは世田谷若林の白秋居に同居(昭和六年まで)。


・昭和五年(二五歳)、巽聖歌らと同人誌「乳樹(チチノキ)」を創刊。八月、「赤い鳥」復刊のため、赤い鳥社に社員として勤める(昭和八年二月まで)。


・昭和八年(二八歳)、第一童謡集『旗・蜂・雲』をアルスより刊行。


・昭和三七年(五七歳)、日本児童文学者協会会長。


・平成九年(九一歳)、永眠。


−与田の郷里の瀬高町は白秋の郷里の柳川の隣町。与田の小学校入学まで過ごした家は、白秋の異母姉、加代の嫁ぎ先の江崎酒造店と同じ町内で、五軒ほどしか離れていなかった。


引用者註:ロシア民謡「ステンカ ラージン」の訳詞者でもある。


伊藤千尋著「こうして生れた日本の歌 心の歌よ!U」(新日本出版社)より引用
「この道」とはどこの道だろうか。「北海道の風景です。主人公は男の子です」と白秋本人が述べている。一方で弟子に「母の里の”道の手”における子どものころの思い出がその発想になった」と語った。「道の手」とは崖に沿った道のことだ。40歳のとき旅行した札幌と、幼い時に母に手を引かれて歩いた熊本県玉名郡南関町の道が重なって生まれた。(途中省略)この歌は道よりも、遠い昔の母の手のぬくもりを思い出しながら歌おう。

引用者註:この本には多くの歌がその歌に関連する都道府県名とともに紹介されている。「この道」の場合の見出しは次のように書かれている。

道より懐かしい母の手
「この道」ー北海道、福岡県

上記の引用文からすると白秋の出身地の柳川のある福岡県よりも母の里の熊本県の方が妥当ではないかとも思える。

森崎和江著「トンカ・ジョンの旅立ち 北原白秋の少年時代(発行 日本放送出版協会)」より。

北の関を通りぬけて谷ぞいの道を湯谷のちいさな集落まで来ると・・・

「このあたりは、みかん山の多かね」


イソは人力車の上から車夫の後ろ姿にいいました。ジョンを連れて外目の家へ行くのも、もう幾度目かです。・・・・・・

イソは紅葉しはじめた山の雑木を見まわします。山裾の道はまたすこし下り坂となりました。

筑後と肥後の国境の道です。

かつて筑後側には北の関という関所があり、肥後側には南の関と呼ぶ関所がありました。通行人はきびしく手形をあらためられ、関所ぬけをした者は首をはねられました。その跡には首切地蔵がまつってあります。

いまは関所はとりはらわれて、北の関の村には代官屋敷が民家のなかにのこっているばかりです。太閤道と呼ぶ参勤交代のこの道にも、人力車の白い車輪が走ります。もっともこの山あいの道を人力車はめったに通りません。村びとはみな、にぎりめしを腰にくくりつけて歩きますから。

ジョンの母親の実家がある外目は、肥後の国である熊本県の、南の関がある玉名郡の村です。北の関を通りぬけて谷ぞいの道を湯谷のちいさな集落まで来ると、もうあと二キロぐらいで祖父の屋敷に着きます。南の関所があった関町の西はずれにあたる村で、筑後にもっとも近い村のひとつでした。

人力車が山あいの段々畑の石垣のそばを通るころ、丘陵の先に石井家の屋根が見えてきます。丘陵はうねうねと起伏してひろがっています。


引用者註:イソは隆吉(北原白秋の本名)の二人目の乳母。ジョンは隆吉のこと。トンカ・ジョンとは大きい坊ちゃんという意味で、良家の長男の呼称。弟をチンカ・ジョンという。また一般に幼い子に「ジョンジョン」と呼びかける。いい子いい子という感じである。


「母さんと馬車で行ったよ」の事実は?

母の実家へは人力車で通った。


『日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集 (角川書店) 「思ひ出 抒情小曲集」』より。

わが生ひたち 4

家に來た乳母はおいそと云った。私はよく彼女と外目の母の家に行つては何時も長長と滞留した。さうして迎ひの人力車がその銀の輪をキラキラさして遥かの山すその岡の赤い曼殊沙華のかげから寝ころんで見た小さな視界のひとすぢ道を懐しさうに音をたてて軋つて來るまで、私たちはやまにゆき谷にゆき、さうしてただ夢の様に何ものかを探し回つてもう馴つこになつて珍らしくもない潟くさい海の方へ歸らうとも思はなんだ。


引用者註:外目→熊本縣玉名郡関外目村(後の南関町関外目)


白秋全集 17 詩文評論3」(岩波書店) P262より

汽車

まだ、私が母に抱かれてゐた頃、母の里への往き還りに、私は初めて人力車の上から、汽車といふものを見た。その時の驚きと喜びとはその後の何に対するよりも甚大なものであつた。山手の母の里へ往くには五里の平原の道を人力車で半日は揺られなければならなかつたが、その中ほどに鉄道の踏切があつて、白と赤とのシグナルがカタリツと上つたり下つたりしてゐた次の宿場の出はづれに差しかかる嬉しさは今だに忘れられない。其処で人力車を乗り換へるのであつたが、彼是してるうちにいつもあの汽車が堂堂とやつて来た。あの汽車を見る喜びの為めに、私はいつも母の里へ往くことを一年中の楽みにしてゐた。


森崎和江著「トンカ・ジョンの旅立ち」(日本放送協会)P67

『「このあたりは、みかん山の多かね」

イソは人力車の上から車夫の後ろ姿にいいました。ジョンを連れて外目の家へ行くのも、もう幾度目かです。』


引用者註:「イソ」はジョンこと隆吉(白秋)の乳母


楠木しげお・作 友添泰典・絵「北原白秋ものがたり この世の虹に」(銀の鈴社)P17~18

雲の峰ともよばれる入道雲が、山なみの上に、白くそびえています。

銀の輪をキラキラと光らせながら、山あいのひとすじの道を、一台の人力車が走っていきます。

乗っているのは、柳川のふたりのジョン(坊ちゃん)ー隆吉と鉄雄です。

(途中省略)

柳川から東へ五里(約二十キロメートル)、熊本県に入ったばかりの、ここは南関という町です。その外目の里に、お母さんの実家があるのです。


引用者註:隆吉は白秋の本名、鉄雄は白秋の弟。


ただし、まれに「馬車」を利用することもあった。

・森崎和江著「トンカ・ジョンの旅立ち」(日本放送協会)P95〜97

『ジョンは弟の鉄雄と姉のかよと三人で人力車を連ねて行きたいと思っていましたが、太閤道を馬車が行くようになったので、馬車を借り切って、みな行くことができるのだと、母はにこにこと話したのです。

(途中省略)

乗合馬車のなかは、それはたいへんなさわぎでした。それでも途中で重箱をひらいてお昼をすませてからは、子どもらはバンバンのひざで眠ってしまい、外目の屋敷に付いたときは、かよまでもゆり起こすしまつです。』 


引用者註:同乗者は母シケ、長女かよ、ジョン、弟鉄雄、二女チカ、三女イエ、シケの妹モリ、モリの長女ルイ、二女セツ、子どもらのバンバン。 バンバン→乳母のこと。


・森崎和江著「トンカ・ジョンの旅立ち」(日本放送協会)P154

『シケは夏休みもおわるころ、子どもたちをみな連れてやってきました。チカ七歳、イエ四歳、義雄一歳。そしてモリの子どもたちのルイ六歳、セツ三歳、正雄一歳を、それぞれの乳母と一緒に。モリは秋に出産をひかえているので、長距離を馬車にゆられるわけにはいきません。沖ノ端で留守番です。』


引用者註:ジョンこと隆吉(白秋)十二歳も同行した模様。


幼少期は「駕籠」か。


『日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集 (角川書店) 「思ひ出 抒情小曲集」』より。

わが生ひたち 4

私は土地の習慣上實はこの家で生れて―明治十八年二月二十五日―然る後古めかしいK塗の駕籠に乗つて、まだ若い母上と柳河に歸つた。


補注 二八九


鉄雄の回想「幼きころ」に、「石井家は(略)柳河から五里ほどの山の中であったので交通機関は歩く外に何にもなかつた。母がお嫁入りしたときは黒塗の駕籠に乗つて来たさうで、その美しい駕籠は倉のなかにそのまゝ蔵つてあつたので私達もよく覚えてゐる。」(『回想の白秋』昭23)とある。恐らくその駕籠であろう。


引用者註:石井家(母の実家)


わが生ひたち 4


石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆んど壊れ物に觸るやうな心持ちで恐れて誰もえう抱けなかつたさうである。それで彼此往来するにしてもからでなしに、わざわざあ古めかしい女駕籠を仕立てたほど和蘭の舶來品扱ひされた。


引用者註:→人力車のこと。


乗合馬車が走っていた

『日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集 (角川書店) 「思ひ出 抒情小曲集」』より。

わが生ひたち 2


私の郷里柳河は水郷である。さうして靜かな廢市の一つである。(途中省略)春も半ばとなつて菜の花もちりかゝるころには街道のところどころに木蝋を平準して干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑きの女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの圓天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。(後略)


 頭註 一三 馬車の喇叭 乗合馬車の喇叭


「白秋全集 月報 第15巻 1985年2月」(岩波書店)より引用

「白秋」ー私的な覚え書き 与田凖一
”瀬高は酒の街である。柳河より東一里半、寧ろ山門郡の中央に位してゐる。(途中省略)”
この異母姉の嫁ぎさきは前記の瀬高町上ノ庄本町江崎家、屋号を薩摩屋といい、酒の名を菊美人と称したのはあるいは白秋の命名であったかも知れない。
じつは筆者私は、転居して下ノ庄の小学校へ上るまでの幼時時代を、その江崎家と同町内の五軒ほどはなれた生家で育った。(途中省略)
江崎家の本町通りが、今でこそ裏通りめいた人通りのすくない町になってしまったが、幼年期のその時分は鹿児島本線の矢部川駅舎と柳河とを結ぶメーンストリートだった。
 もうし、もうし、柳川じゃ、/柳河じゃ。/ 銅の鳥居を見やしゃんせ。/欄干橋を見やしゃんせ。/(馭者は喇叭の音をやめて/赤い夕日に手をかざす。)ー抒情小曲集『思ひ出』”柳河風俗詩”の初連から。
柳河行きのこの馬車の客席が畳敷だったこと、馭者の前をハイヨウハイヨウの掛け声とともに前払いの人足が駈けていたことなどを思い出すと今昔の感にたえない。当時は明治の末年だったわけだ。

母について
 「白秋全集22 詩文評論8」(岩波書店)P198~206より引用

母の横顔


(前略)

うら若い美しい母だつたらうと、今でも思ひます。母の妹の婚礼の晩だつたさうで、車をつらねて、さうした着飾つた女の人達が、桜の咲いた春の月夜の川のふちを、東へ東へと向ふのでした。母の里は柳河から五里ばかりの山の向うの難関といふところでした。母の妹はわたくしの父の弟に嫁いでくるので、それを迎へにいくのでした。さうしたことも何もかもが夢のやうに思へるのです。わたしはお母さんらしい人の胸に抱かれて、うとうとといゝ香ひに包まれてしまひました。あまりにもそれは夢のやうな美しい母と稚児の「追憶」ですが、その夢の中に生きてゐるうら若い母の心音は、今でもわたくしを昔の童に還してくれます。


話は飛びますが、わたくしを今日のわたくしにしてくれたのは全くこの母です。この母がゐなければ、わたくしは詩人にはなれなかった。或は父の希望どほり酒屋の主人になるか、或は家を飛び出して了つたでせう。中学を出ていよいよ文学の修行に上京しようとするわたくしの意向を、父はちつとも聞き入れてくれなかつた。それを母が父には内密で、わたくしを許し、わたくしの爲に行李までもまとめ、蒲団の包みと共に新宅(叔父の家)の二階から縄で吊りおろすことや、ほどよい脱走の機会までも計つてくれました。この母のよき理解と愛との爲に、どれだけ感謝していゝかしれぬ幸福にわたくしはあづかりました。さうして父を危うい出奔の前夜にたうとう説服してくらました。父は渋々ながら、わたしの上京を許しましたが、母は初めからはつきりとしてゐました。(後略)


この母を持つ幸福

わたくしはわたくしの母のやうな真純な女性を會て見たことがない。かういふ心の高く、偽りの無い女性がまたと此の世にあるだらうかとさへ思ふ。さうしてこの母をもつわたくし自身の幸福をいつも身に沁みて感謝してゐる。

この母の前に出ると頭がさがる。塵ほどの偽りもないのである。全く母は偽らぬ人である。潔白で、言葉にも行にも塵ひとつ留めぬ方である。その眼でじつと見られる時何か透明清浄なものがこちらの体に流れとほつてくるやうな気がする。この母を思ふことは霊の潔めである。

(途中略)

附記ー母を語つてわたくしは書き過ぎたやうな気がしない。肉親の状に溺れ過ぎたとも思はない。なぜならばわたくしの書いた以上に、わたくしの母はいゝ人だからである。


白秋は母をどのように呼んでいたか。幼少期には「おっかさん」、少し大きくなってから「おっかしゃん」
「トンカ・ジョンの旅立ち 森崎和江(発行 日本放送出版協会)」より


〇「おっかさん」:下に示す白秋の「思ひ出」の序章の文章に相当する時期、ちなみに父は「おとっつあん」(P50)


〇 「おっかしゃん」:『「おっかしゃん、飴がた、もろうてよか?」隆吉は、母の肩に片手をおいて、たずねました。』(P139 )

 
(引用者註)白秋十一歳の頃。                                         〇 「おっかしゃん」:『「バンバン。おっかしゃん、が・・・バンバンのゴンシャンのおシケしゃんが、の、バンバンによろしゅうて、いわしたばの。おシケしゃんの・・・」』(P151)


(引用者註)姉かよの台詞。「バンバン」→乳母のこと。白秋十二歳の頃。


「日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集」(角川書店)より引用

 「思ひ出」の「序章」より                                               その恐ろしい謎を投げたのは氣狂のおみかの婆である。(途中省略)彼女は恐ろしさうに入つて來た、さうして顫へてる私に、Tonka John 汝のお母(つか)さんは眞實お母(つか)さんかろ、返事をなさろ、證據があるなら出して見んの――私は青くなつた、さうして駈けて母のふところに抱きついた   ものの、また恐ろしくなつて逃げるやうに父のところに行つた。

「思ひ出」の「生の芽生」より

い鳥

せんだんの葉越しに、

い鳥が鳴いた。
『たつた、 ひとつ知ってるよ。』つて、
さもさもうれしさうに、かなしさうに。
日の光に顫へながら、
今日も今日も鳴いてゐる。
『棄兒の棄兒のTONKA JOHN
眞實のお母(つか)さんが、外(ほか)にある。』

引用者註:引用文献の「生の芽生」の頭註によれば、「生の芽生」は「性の芽生」の誤植であり、雑誌発表の初出は「性の芽生」である。なお本文献は東雲堂書店刊初版本(明治44年6月)を底本としている。


電車やバスの無い時代の少年と「この道」


『日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集 (角川書店) 「思ひ出 抒情小曲集」』より引用
わが生ひたち 4


私は土地の習慣上實はこの家で生れて―明治十八年二月二十五日―然る後古めかしいK塗の駕籠に乗つて、まだ若い母上と柳河に歸つた。


補注 二八九


鉄雄の回想「幼きころ」に、「石井家は(略)柳河から五里ほどの山の中であったので交通機関は歩く外に何にもなかつた。母がお嫁入りしたときは黒塗の駕籠に乗つて来たさうで、その美しい駕籠は倉のなかにそのまゝ蔵つてあつたので私達もよく覚えてゐる。」(『回想の白秋』昭23)とある。


「白秋全集 別巻」(岩波書店)より引用
「一月二五日(戸籍上は二月二五日)、福岡県山門郡沖端村大字沖端町五五番地(現、柳川市沖ノ端町石場五五ー一)に生れた。実際には熊本県玉名郡関外目村一〇七〇番地(現、南関町関外目)の母の実家で生れ、一か月後に母と柳河に帰り、出生を届出」

久保節男著「北原白秋研究ノート T 柳川時代の作品とその交友 補訂版」(啓隆社)より引用
『当時は戸籍入籍なども鷹揚だったし「土地の習慣」で一カ月後に産土の宮詣りをするという習わしも現在になお残っているわけで、恐らくその宮詣りの日を出生日として父長太郎から沖ノ(ママ)端役場に届けられたものであろうと思われるのである。』
引用者註:鉄雄~北原鉄雄のこと、白秋の弟。石井家~白秋の母の実家。

白秋の約20年ぶりの帰郷

白秋の1909年(明治42年)12月下旬帰郷〜1910年(明治43年)1月13日帰京以来、旅客機ドルニエ・メルクールで「芸術飛行」のため二十年ぶりの帰郷「1928年(昭和3年)7月」となった。

以下「白秋全集 10 歌集5」(岩波書店)の「夢殿 郷土飛翔吟」及び「白秋全集 22 詩文評論 8」(岩波書店)の”[『旅窓読本』より]柳河へ柳河へ”より

@7月17日:妻子と東京を出立。下の関泊。

A7月18日:朝、関門海峡を渡る。午近く、大牟田に着く。南関田(ママ)町、島田家(母の異母姉の家)に泊る。

B7月19日:外目近郊の外祖父母の墓に詣で石井本邸へ。筑後の瀬高、上ノ庄の江崎氏(異母姉かよ嫁ぎ先)を訪問。午後、柳河へ、柳河女学校・中学伝習館・旧藩侯邸の林泉・矢留小学校・村社、太神宮・妹ちか子の墓。夕近く沖ノ端石場の生家。字、筑紫村の妹の乳母を訪問。柳河町の旧友川野三郎宅へ泊る。

C7月20日:三柱神社、舟にて沖ノ端より柳河、恩地画伯同舟。薬館(二泊)

D7月21日:恩地画伯と舟遊び。(ママ)

E7月22日:(予定より一日遅れ)午後一時十分、隆太郎、恩地孝四郎太刀洗飛行場参集。柳川・沖ノ端・瀬高・大牟田・南関上空旋回。

F7月23日:太刀洗を出発、南関上空を経て(ママ)大阪へと飛ぶ。

G7月24日:大阪より紅丸で海路別府へ戻り、妻子と再会。

※引用文献での日程は錯綜部分がある。
引用者註:「白秋全集 別巻」(岩波書店)では、本飛行は7月24日となっている。大阪より海路別府へは「紫丸」、旅行後、別府より「紅丸」にて海路神戸へ戻っている。薮田義雄著「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)も7月22日に「空から郷土柳川を、沖の端を訪問した」とあるが、7月24日に「太刀洗飛行場を離陸して一路東へ向かった」とある。

文 久保節夫 写真 熊谷龍雄「白秋の風景」(西日本新聞社)より

雨降り峠の歌

そしてこの大阪までの本飛行を無事終わるや、今度は海路、紫丸という瀬戸内海連絡船で、その七月二十七日別府に入港、大正十年結婚以来初めて菊子夫人の里、大分市を訪ねたのでした。夫人と隆太郎、篁子の一家そろっての里帰りというわけです。その八月二日、油屋熊八によって久住高原に案内され、・・

久保節夫「北原白秋研究ノート T 補訂版」(啓隆社)より。

P30[白秋は昭和三年七月、大阪朝日新聞社の求めにより、その旅客機ドルニエ・メルクールに乗じて、久留米郊外大刀洗より大阪までの搭乗記を書くため、『邪宗門』を刊行(明治42年3月)帰郷して以来二十年を隔てて柳河、沖ノ端を訪問した。飛行に先だつ七月十八日は南関の叔父武雄を訪ね、翌十九日姉の嫁ぎ先、瀬高の江崎酒屋をへて柳河へ入り、柳川高女と伝習館を訪問、両校で記念の講演をした。]

与田準一の同行についての疑問

このページの冒頭の『与田準一著「青い鳥・赤い鳥」(昭和55年4月10日 講談社)「この道」連想』の中で、「昭和三年夏、先師の供をしてその母堂の里(熊本県玉名郡南関町)訪問のおり」とあるのは「芸術飛行」のため二十年ぶりの帰郷の時のことである。与田準一の「青い鳥・赤い鳥」(講談社)P285「水上は思ふべきかな」によれば昭和3年4月に上京した。また北原東代著「立ちあがる白秋」(燈影舎)によれば「昭和三年(二三歳)、春、上京し、六月からは世田谷若林の白秋居に同居(昭和六年まで)」している。したがって上京して白秋の助手にになった直後に同行していることになる。

白秋の約20年ぶりの帰郷は大阪朝日新聞主催の日本本土を縦断する芸術飛行企画によるものであり、各地で大歓迎を受け相当密な日程であったことが伺える。しかし白秋の助手になったばかりの23歳の青年が、この大きな企画にに果たして同行しただろうかという疑問が生ずる。

「白秋全集 10 歌集5」(岩波書店)の「夢殿 郷土と雲海」には「昭和五年五月、かの郷土飛翔の事ありて翌々年、われ再び、北九州に所用ありて下る。この間一ヶ月余、郷里柳河、沖ノ端、母の里南関、外目にも帰省するを得たり。・・なほ、この帰途、再び太刀洗より大阪へ、大阪より羽田へ一気に飛翔し・・」という白秋の文章がある。これをみると日程もゆったりとしていることがわかる。そして久保節夫著「北原白秋研究ノート T 柳河時代の作品とその交友 補訂版」(啓隆社)には<昭和五年五月、北原白秋は三度目の故郷訪問をしたが、その五月二十日の一夕旧『常盤木』『福日文学同好会』の同人と船小屋温泉に会した。>とあり、北原白秋、与田準一など六名が映っている写真が掲載されている。


昭和5年5月20日 船小屋にて「常盤木」同人(後列右から二人目が白秋、前列右が与田準一)

約50年後の著作で与田準一は「昭和三年夏、先師の供をしてその母堂の里(熊本県玉名郡南関町)訪問のおり」と記しているが、むしろ昭和5年5月の帰省のおりの方が現実味があると思える。

文 久保節夫 写真 熊谷龍雄「白秋の風景」(西日本新聞社)より

柳河ー月光

昭和三年七月二十四日、朝日機で、倒産離郷後二十年ぶりに郷里を訪問飛行した翌年、すなわち昭和四年五月(ママ)には、八幡製作所所歌の委嘱されて再度の帰省をなし、唐津、呼子、南関等を歴訪し、滞在四十日に及びました。この行には秘書与田準一を伴い、柳河高等小学校時代の友人で薬局を営んでいる川の氏邸に三泊、同じく写真館を経営していた高椋公夫邸には二週間も世話になりました。


引用者註:文 久保節夫 写真 熊谷龍雄「白秋の風景」(西日本新聞社)には「昭和四年五月に帰省した」旨の記述が何か所もあり、同書の「北原白秋略年譜」もそのようになっている。また同じ著者の「北原白秋研究ノート T 柳河時代の作品とその交友 補訂版」(啓隆社)の「北原白秋略年譜」も昭和四年五月になっている。ところが同書の本文では上記のように<昭和五年五月、北原白秋は三度目の故郷訪問をした・・>と記述している。

引用者註:以下に示す「所歌制作について」には「八幡製鐵所には昭和5年に制作された「鐵なり秋(とき)なり時代は鐵なり・・・」で始まる北原白秋作詞、山田耕筰作曲の所歌があり、かってはよく歌われていたようである」とある。つまり昭和四年ではなく昭和五年が正しい。また「三度目の故郷訪問」とあるのは明治42年の実家の破産に際しての二度の帰省を含んでいない数え方である。


       

白秋の帰郷について 「白秋全集 別巻(岩波書店)」及び文 久保節夫 写真 熊谷龍雄「白秋の風景」(西日本新聞社)などを参考

1904年(明治37年)3月末日
19歳  東京へ

1907年(明治40年)8月2日、8月19日〜21日

22歳  北九州・西九州旅行(7月末〜8月末)、柳川立ち寄る。(与謝野鉄幹・吉井勇・木下杢太郎・平野萬里)

1909年(明治42年)6月28日〜8月初旬
24歳  帰郷(実家の破産に関連して)

1909年(明治42年)12月下旬〜翌年1月13日

24歳  帰郷(実家の破産に関連して)

1928年(昭和3年)7月

43歳  帰郷(「芸術飛行」のため)

1930年(昭和5年)5月

45歳  九州旅行、柳川・南関立ち寄る。(八幡製鉄所所歌の依頼を受けて)

1935年(昭和10年)5月20日

50歳  長崎へ、南関・柳川を訪問。(三菱長崎造船所所歌の委嘱を受け、九州に下向)

1941年(昭和16年)3月14日

56歳  九州へ、柳川・南関巡歴。(「海道東征」に対し、福岡日日新聞の文化賞が決定、その授賞式参加のため妻子、木俣修を伴い西下) 


昭和四年と五年の共通の誤り

引用者註:久保節夫著「北原白秋研究ノート T 柳河時代の作品とその交友 補訂版」(啓隆社)の年譜には「昭和4年 五月 柳河に帰省、唐津、呼子、南関に遊ぶ」とあるが、「昭和5年」の誤りである。ただし、本文103ページには<昭和五年五月、北原白秋は三度目の故郷訪問をしたが、その五月二十日の一夕旧『常盤木』『福日文学同好会』の同人と船小屋温泉に会した。>とあり、北原白秋、与田準一など六名が映っている写真が掲載されている。なお、同書には「昭和4年三月 末より約四十日満蒙巡歴、つづいて奈良、大和法隆寺に遊ぶ」とあるが、これも昭和5年の誤り。また、「三度目の故郷訪問」とあるのは明治42年の実家の破産に際しての二度の帰省を含んでいない数え方である。さらに「昭和5年一月 信州池の平温泉にスキー行」とあるるが、これは昭和七年の誤り。

引用者註:薮田義雄著「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)の本文及び年譜とも「柳川帰省」と「満蒙巡歴」が昭和4年になっていて、上記と同じ誤りがある。ただし「昭和7年一月 妻子を伴い信州池の平に行き、はじめてスキーを試みた。」とあり、これは正しい。

引用者註:今野真二「北原白秋 言葉の魔術師」(岩波書店)より

(P190〜191)

ー昭和四(一九二九)年三月末には、南満州鉄道の招致によって、四十余日にわたって満蒙各地を巡る。五月下旬には、八幡製鉄所歌作成のために、福岡を訪れ、柳河にも帰省する。さらに唐津、呼子、南関などを三十余日をかけて巡る。・・ー

さらに続いて

ー三月には童謡論集『緑の触角』(改造社)、四月には『現代日本詩集』・・を発表する。・・八月には詩集『海豹と雲』(アルス刊)が刊行される。ー

さらに続いて

ー昭和六年の五月には東京市外砧村西山野に転居し・・ー

(P223)

ー翌昭和四年には満蒙各地を歴遊している。ー

引用者註:上記において(P190〜191)「昭和四(一九二九)年三月末には」に続く文章は昭和五年の誤りである。また年号なしで始まる「三月には」の文章は昭和四年のことである。つまり、昭和四年と五年の出来事の順序が入れ替わった誤りになっている。昭和六年の記述は正しい。

引用者註:「白秋全集 22 詩文評論8」(岩波書店)P475には「白秋は一九三〇年三月初め、南満州鉄道からの招きに応じ、四〇日近くにわたり、満蒙各地を歴遊した。」とある。「白秋全集 別巻」(岩波書店)P505には「一九三〇(昭和五)年 二月末、南満州鉄道の招きに応じ、四〇日余日の満蒙旅行に出発。・・四月六日、ウラル丸で神戸に着き、・・八日、法隆寺や奈良に遊ぶ」とある。同じ「白秋全集 別巻」(岩波書店)P505には「一九三〇(昭和五)年 五月、八幡製鉄所所歌の委嘱をうけ、九州に旅行。柳川(ママ)、唐津、呼子、南関を訪れ、六月一一日に空路帰京」とある。

「白秋全集 10 歌集5」(岩波書店)より
夢殿

郷土と雲海

昭和五年五月、かの郷土飛翔の事ありて翌々年、われ再び、北九州に所用ありて下る。この間一ヶ月余、郷里柳河、沖ノ端、母の里南関、外目にも帰省するを得たり。その折の新唱之なり。なほ、この帰途、再び太刀洗より大阪へ、大阪より羽田へ一気に飛翔し、感懐また新なるを覚ゆ。此篇またおのづからにして郷土飛翔吟の続篇を成す。録長歌四首、短歌九十五首。

満蒙風物唱

昭和五年三月より四月にかけて四十余日、満蒙各地を巡遊す。満鉄の招聘によるなり。その情報部の八木沼丈夫君と同行す。歴遊するところ、大連を起点として満鉄沿線及び東支鉄道は満洲里に至る。尚ほ長春吉林間、奉天新義州間を往復し、また大連へ還る。即ちこの満蒙風物唱成る。うち二百十一首を録す。

白秋の秘書ー「白秋全集 別巻」(岩波書店)の「年譜」よりー

大正15年5月1日 本間広美が書生として同居

昭和2年9月末 由利貞三にかわって本間立也が助手(秘書)となる。

昭和3年 この年、与田準一が福岡から上京し、若林の白秋宅に同居して助手(秘書)を務める。

昭和5年11月〜昭和7年夏まで 薮田義雄
昭和10年8月〜昭和14年3月まで 宮 柊二

昭和14年1月 薮田義雄再び秘書

昭和17年5月 同上 引退 




白秋の文章と註より

・『「この道」が何でまたその内容と形式とで、君の作に似てゐよう。あれはやはり「思ひ出」の系統に旅中から得た北海道風景を織ったものである。形式は五七二行に「あゝそうだよ」を挿入して一聯をなした。私の新定律の一つである。(「時事新報」昭和三年五月三十日ー六月六日)

『北原白秋全集20』(岩波書店)の「緑の触覚 踏襲問題ー百田宗治君に」より
・『白秋童謠讀本』(采文閣)全六冊を編むにあたって、この作品を「尋六ノ巻(小学校六年)」昭和六年(1931年)十一月発行収め、「北海道風景です。主人公は男の子です」と註をつけている。すなわち白秋の言葉をまとめると「この道は」

(1)「思ひ出」の系統に属する追憶というテーマの作品であり、男の子を主人公にして北海道風景を織り込んで表現したもの。

(2)第一連から第四連において、五・七の二行を「あゝそうだよ」の前後に置いた新定律である。


南関の詩は別にある。


その1 南関の母の里の”道の手”を追憶した作品


  道の手




ふるさとや、わが母の


この山の手、


昔見しさながらを


ただしづかに




闌(た)けたり櫨若葉(はじわかば)、


池も見えて、


壁赤き山の家(いへ)の


ひとつふたつ。




築石(つきいし)や、棚畑(たなばた)や、


ふかき晝を


日の照り、


うつる、この片岨(かたそば)。




影はあり、獨(ひとり)佇(た)つ


よき童(わらはべ)、


おもざし、我かとも、


いま見上げつ。




鷽鳥(うそどり)よいづくぬか


鳴き、くくみて、


色、匂、さまわかず、


風なるか、空なるかも。




北の關(せき)、南の關(せき)、


この道の手、




我は見る、我が昨日(きのふ)の


をさなごころ。


            (『水の構圖』より)


田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)P32より。
この詩はいつの帰省のときに書かれたものか、念のため制作年月を当ってみると、昭和九年四月三十日と判明した。すると、その季節感からして、昭和四年(ママ)五月の嘱目であることがあきらかだが、印象が昨日のように鮮やかなのに感服した。

引用者註:昭和四年五月とあるが、「白秋全集 別巻」(岩波書店)では昭和五年五月である。


その2 北原東代著「立ちあがる白秋」(燈影社:2002年9月5日 初版第1刷)P167〜168




ひと日なり、夏の朝涼、


濁酒売る家の爺と


その爺の車に乗りて、


市場へと。―途にねむりぬ。




山の街、―珍ら物見の


子ごころも夢にわすれぬ。


さなり、また、玉名少女が


ゆきずりの笑も知らじな。




その帰さ、木々のみどりに


眼醒むれば、鷽啼けり。


山路なり、ふと掌に見しは


梨なりき清しかりし日。


明らかに、与田さんが隆太郎から私の出身地を「熊本県玉名市」と聞かれて、「玉名少女」のあらわれる詩「梨」を朗読して下さったもので、そのご好意が身にしみた。「梨」は、幼きころの白秋が度々と長期にわたって滞在した母しけの里、肥後の玉名郡南関の思い出から生まれた詩である


引用者註:隆太郎~北原隆太郎(白秋の長男)北原東代(きたはら はるよー隆太郎の妻)

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白秋の昭和3年の芸術飛行に関連して帰郷した際の「郷土飛翔吟」の中に次のような歌がある。


外目 祖父母の墓に詣でて


    「この道よ椎の落葉にふる雨のいたくもふらねよくしめりつつ」