北原白秋「この道」の新研究

童謡「この道」詩の言葉

童謡「この道」に出てくる「言葉」について
主な言葉は「この道」「いつか」「あかしや」「丘」「白」「時計台」「母さん」「馬車」「雲」「山査子」である。
このうちの「あかしや」「丘」「白」「時計台」「馬車」「雲」「山査子」の言葉と白秋の樺太・北海道旅行との関連について考える。

「この道」については『北原白秋「この道」の原点』のページを参照されたい。また「母さん」についてはこのページの外に「この道」の原点』のページも参照されたい。


 ※「あかしや(アカシヤ)」と「アカシア」について

辞書などではほとんどが「アカシア」であるが、「この道」の中で白秋は「あかしや」と表記している。

角川書店編「合本 俳句歳時記 新版」を見ると、「あかしやのはな(アカシヤの花)」;「我国でアカシヤというのは、ハリエンジュ(針槐)別名ニセアカシヤのこと」とあり、「アカシヤ散る養育院に犬育ち 秋元不死男」、「アカシヤの花のうれひの雲の冷え 千代田葛彦」などが掲載されている。 


白秋の童謡作品で用いられた言葉との関連(藤田圭雄「日本童謡史 T」あかね書房より引用)
『 赤い鳥』に掲載された白秋の童謡は、総計三百六十八篇である。ただしその中には、他へ発表されたものに、後になって曲がつき、楽譜に伴って再掲載のものが二十九篇、それに台湾童謡四篇、マザア・グウス十九篇を引くと、純粋に『赤い鳥』に発表された創作童謡は、三百十六篇ということになる。(途中省略)数字や統計で、芸術作品の内容を評価することは危険だが、この、 白秋の、『赤い鳥』に掲載された三百六十八篇の童謡の中、台湾童謡の四篇とイギリス童謡の二十篇(ママ)を抜かした三百四十四篇について、少しくわしく内容の分析をしてみると、いろいろおもしろい発見もある。』(藤田圭雄「日本童謡史 T」あかね書房より)
藤田圭雄「日本童謡史 T」による言葉についての分析のうち、ここでは童謡「この道」に関連する言葉を中心に以下に引用する(数字は頻度数)。

〇「山が四十四、海が二十八、そしてこれは白秋童謡の特徴の一つだが、道が二十三ある。丘は十四、野は十三、川は十五。以下省略」
〇「動物は、二十七種類、鳥四十種類、昆虫十五種類、魚七種類、両棲類その他九種類に対して植物は何と百五十三種類の多数に及んでいる。アカシヤ(一)山査子(二)、その他省略」
〇「誰ということばが三十四、どこ、なぜ、何、いつといった疑問詞が十八出て来る。はっきりしない、あいまいな雰囲気の中に、やわらかい情趣をうつし出しているのか。」
〇「その他では、時計は九馬車は六、鈴(五)、橇(五)以下省略」
〇「色彩では活動的な色としての赤が群を抜き、二位の白(六十三)を二十も越して八十三回出て来る。三位以下は、青(三三)、黄(十三)以下省略」
〇「人事関係ではやはり、お母さんがずば抜けて多く二十八、その次は爺さん婆さんの十一だが、さすがに時代色をうつし、兵隊さんの六が、医者、お客さん、猟師の各四を上廻っている。」
〇「天然現象では、雨(二四)、雪(二二)、雲(二二)、露(一三)以下省略」

引用者註:「赤い鳥」に掲載された白秋の童謡作品数について
(その1)上述のように藤田圭雄「日本童謡史 T」あかね書房では「赤い鳥』に掲載された白秋の童謡は総計三百六十八篇である。
(その2)財団法人 日本近代文学館『「赤い鳥」復刻版 解説・執筆者索引』に掲載された『「赤い鳥」執筆者索引』の北原白秋執筆によるものを数えると331篇、『「赤い鳥曲譜集」作詞者』の北原白秋のものを数えると155篇で併せて486篇であるが、これを補正して「赤い鳥」に掲載された白秋の童謡作品数を求めると368篇になる(詳しくは『雑誌「赤い鳥」こぼれ話』のページを参照して下さい)。

童謡「この道」の風景は北海道の実際の体験とは異なる白秋の心象風景
白秋が札幌を訪れたのは大正14年8月25日から9月1日である。

(1)あかしやの花は咲いていなかった。


(2)時計台の色は白ではなく薄い緑色だった。


(3)時計台は街中にあり、丘の上に立っていない。

(4)もちろん、札幌の道を「お母さまと馬車で行った」経験はない。


心象風景とは、現実ではなく経験・記憶・感覚・感情になどが基になって心の中で思い描き出される風景。現実にはありえない風景であることもある。


樺太訪問後札幌までの旅程および札幌での訪問先

八月二十一日稚内に上陸、旭川に向かう。翌日旭川近郊の近文で熊祭り見物、旭川で一泊し、八月二十三日深川に向かう。深川で二泊し、八月二十五日に札幌に到着。
札幌では山形旅館に宿泊し、北大病院・北大構内・植物園・中島公園近くの料亭「南香園」、三吉神社社務所・大通公園・月寒牧場・真駒内牧場・出納農場・定山渓・敷島旅館を訪れる。(樺太・北海道旅行の詳細は「北海道の北原白秋」のページを参照されたい。)

白秋の樺太・北海道旅行から探る「この道」の言葉の背景
白秋の記述から
白秋は童謡「この道」の発表の前年に樺太・北海道旅行を行っているが、「私は旅中一首も出来なかった。作らうと思わなかったと云ふが正しいかしれぬ。私は収穫することに夢中になってゐたのである。」、「材料を見つけても、歌にするか詩にするか民謡にするか童謡にするか、散文にするか当って見てから一応も二応も考へて見ねばならぬ。」、「私のノートは前に云ったやうな風に名詞位を多少は記してあったが、ノートも酒に酔って函館で遺失して了った。・・歌を作るのにはどうでもよかった。頭に残らないやうなものは歌にしたって仕方がないと思ったのだ。」などと述べている。詳しくは本ページの後半部の記述を参照されたい。

その1「あかしや」について                                  白秋が北海道を訪れた8月は「あかしやは咲いていなかった」→北海道ではあかしやの花は6月に咲く。
ニセアカシアが札幌の駅前通りと北一条通りに植えられたのはいつ?
引用者註:以下に白秋が宿泊した山形屋のある札幌駅前通りと時計台のある北一条通りに、いつニセアカシア並木が植樹されたのかの資料を示す。
駅前通りのニセアカシア並木は明治18年札幌県大書記佐藤秀顕によって植えられたという説明の他に、明治19年明治21年という説明もある。北一条通りの本格的なニ セアカシア並木のできた時期は錯綜していて、明治44年大正5年、さらに白秋が訪れた大正14年よりも遥かに遅い昭和11年であるという説明がある(大正5年は北二條通りであるという説明もある)。

(1)札幌市ホームページの「さっぽろの街路樹」より引用。
札幌の街路樹は、明治4年(1871年)、札幌神社(現在の北海道神宮)の裏参道沿いにアカマツが植えられていたのが起源といわれ、街の中心部である現在の札幌駅前通(北1条〜南4条の間)には、明治18年にニセアカシア、シダレヤナギ、サクラが植樹された記録が残っています。

(2)札幌でのアカシヤの植樹の経緯(札幌市の関係部署からのご教示)より引用。
・札幌で「アカシヤ」と呼ばれるものは、マメ科ニセアカシヤ属のニセアカシヤ(ハリエンジュ)である。・明治18年停車場通りにアカシヤ、さくら、柳が植えられた。
北一条通りの並木は明治4年にニセアカシヤを植えたのが始まり。明治44年に行啓記念として2400本植えられたので、こちらを始まりと捉えたほうが良い。(さっぽろ文庫3 札幌の樹々(発行 札幌市、札幌市教育委員会))
・それぞれ明治に植栽が行われた後も、伐採や植え替えはあったが並木は残されていた。

・したがって大正14年に白秋が訪問した際も並木は存在していた。
大正5年中央区土木課により2300本、北二条西一丁目から西十五丁目までニセアカシヤが植えられた。(さっぽろ文庫3 札幌風物誌(発行 札幌市、札幌市教育委員会) さっぽろ街路樹)

(3)「さっぽろ文庫38 札幌の樹々」(発行 札幌市、札幌市教育委員会)より。
(その1:「第1章 札幌と樹木 1 樹々の特徴 辻井達一」)
・(アカシア)が札幌の街に植えられたのは実に明治四年十月であったが、これは札幌神社裏参道というだけで位置や本数は明らかではない。本格的なアカシア並木は明治十八年西四丁目に二間間隔に植えられたものを最初とする。
・先にアカシアは明治十八年西四丁目に植えられたといったが、これは南の方らしくていわゆる駅前通りのアカシアというのは明治二十一年、そして例の、「この道はいつか来た道」を思わせる北一条通りの並木はずっと遅く昭和十一年となっている。
(その2:「第1章 札幌と樹木 3 由緒ある樹々 村野紀雄)
駅前通りの並木                                                   
昔はアカシアの並木で有名だった停車場通りは、今、ハルニレを中心とする並木道だ。
明治十八年、札幌県大書記佐藤秀顕は、停車場通りと呼んだ北一条から北四条までの間に、サクラ、ヤナギにまぜて、アカシアを九メートル置きに植えた。札幌駅に降り立つ人々の旅情を誘ったアカシア並木の誕生である。それは、柵やグリーンベルトを設けるなどして大切に保護されてきたのだが、昭和三十三年に道路拡張のため、八六本中の六四本が伐られ、また四十五年に、札幌オリンピックがらみの市街地改造事業で、市電の線路が撤去されて道がつくりかえられるにいたって、昔の並木はほとんどなくなった。
北一条通りの並木                                                 開拓使が円山に神社を建立し、その参道としてつくったのがこの北一条通りだ。札幌の街づくりはこの北一条通りから始まったといえる。並木は、明治四年にニセアカシアを植えたのが始まりといわれている。当時はまだ自然の木がたくさんあったので、始め並木を植えるということよりも、自然の木を残して並木にするという方法がとられている。西十三~十九丁目に立つハルニレの大木はその時のものである。ニセアカシアは、明治四十四年に行啓記念として二、四〇〇本、昭和十一年に陸軍特別大演習の記念に四、四〇〇本の植栽が行われた。
・北原白秋の「この道はいつか来た道」は北一条通りをさしているといわれている。
(その3 「第2章 樹々の魅力 1 大樹と並木」 村野紀雄)
・並木づくりが本格的に始まったのは明治十八年に、大書記官佐藤秀顕たちの構想によって、市中心部の道路沿いに九メートル間隔でニセアカシア・ヤナギ・サクラが植えられたことからといわれている。有名な停車場通りのアカシア並木は、この時代(明治二十一年)に植えられたもので、今はないが、その後の並木づくりの範となった。

(4)「さっぽろ文庫7 札幌事始」(発行 札幌市、札幌市教育委員会)より引用。
(その1 「第3章 文化・社会 ”並木” 辻井達一)
・並木                                                         本格的な並木はこの後、明治十八年五月に大書記官佐藤秀顕の着想によって計画された。佐藤は区吏に命じて先ず東西道路は南四条まで、南北道路については西四丁目に明石屋(アカシア)、桜、柳などを二間の間隔で両側に植えさせたという。
・札幌の街路樹といえばまずアカシアを憶い出すが、駅前通りのアカシアは明治二十一年、これと直行する北一条通りの並木は昭和十一年の植栽とされている。昭和十一年というのは陸軍特別大演習の行われた都市で、この時道路の舗装と並行して大規模な街路樹植栽が行われた。イチョウやプラタナスなどもこの時大量に導入されたという。

(5)「札幌の街路樹 笠 康三郎」(北海道の自然(北海道自然保護協会会誌) No.552017,3-10)」より引用。
・札幌で計画的に街路樹(当時は路傍樹)整備を行ったのは札幌県大書記官佐藤秀顯らで、1885(明治 18)年であった。彼らは、「先づ東西通路は南4條迄、南北道路は先つ西4丁目に、明石家 アカシヤ、櫻、柳等を二間の距離を保ちて兩側に植樹し、漸を以て、全市街に及さんとする計畫」を立てた(札幌區役所編 1911)
1916(大正5)年には、札幌区土木課によってイタヤカエデとニセアカシアが 2,300本も植栽され、当時の札幌の街並み景観の形成を決定づけた。この時に北1条通に植えられたニセアカシアが大きく育ち、(異説はあるが)これを見て感激した北原白秋によって、「この道」が作られたといわれている。
・その後1936(昭和 11)年の陸軍大演習を契機に行われた道路整備にあわせ、大規模な街路樹の植栽が行われた。その一つが円山の表参道(北1条通)で、今も駅前通の北1条西側に立つ「参道開鑿記念碑」が示す西 21丁目から西 25丁目までの道路整備にあわせて、イチョウ、ケヤキ、キタコブシが植栽され、近年まで素晴らしい街路景観を見せていた。
・1937(昭和 12)年の集計では、街路樹総数 4,435本中、ニセアカシアが 1,818本、イタヤカエデが1,074本と圧倒的で、近年流行のナナカマドはわずか3本、シナノキが8本となっているところが興味深い。1910(明治 43)年の集計では全体の 12%しかなかったニセアカシアは、1937(昭和 12)年の集計では 41%にも増加し、ダントツの1位に増加している。札幌の町のイメージを形作る樹木として、人気を博したものであろうか。
札幌初の街路樹として、1886(明治 19)年駅前通に植栽されたニセアカシアは、津田 仙(明治時代に活躍した農学者で、のちに津田塾大学を設立する津田梅の父)が1873(明治6)年のウィーン万国博覧会出張の際に種子を持ち帰ったものといわれる。


伊藤千尋著「こうして生れた日本の歌 心の歌よ!U」(新日本出版社)より引用
具体的に歌に出て来るのは「あかしや、白い時計台、さんざし」だ。札幌でアカシヤと呼ばれるのはニセアカシヤで、北一条通りはニセアカシヤの並木となっている。1911(明治44)年、大量に植えられた。




歓迎歌会で                                                      金坂吉晃著『白秋の北海道周遊 手控』(昭和57年12月20日発行・発行所 こまくさ会)によれば白秋が札幌を訪れた際に催された歓迎歌会では、五十五名の詠草五十五首を、白秋がただ一人で批評し質問に答えたが、アカシアについては二番目に「つつましく夏を迎へぬアカシアの花白き町にわれらやすしも」(紫藤貞一郎)という歌が一首だけある。
白秋の作品で「アカシヤ」はたったの一篇                                     藤田圭雄「日本童謡史 T」(あかね書房)によれば、雑誌「赤い鳥」に掲載された白秋の三百四十八篇の童謡の中、台湾童謡の四篇とイギリス童謡の二十篇を除いた三百四十四篇で、植物は百五十三種類が詠われている。一番多いのは「白樺」の十篇である。「アカシヤ」は一篇であり、つまり「この道」だけということになる。このことから「アカシヤ」という言葉は札幌を訪れた際に「ノートに記されていた」か「頭に残っていた」ものといえる。「この道」にも出て来る「山査子」は二篇である。ちなみに「からたちの花」は一篇である。


                ニセアカシア
その2「時計臺」について
時計台訪問について
白秋が北海道に滞在中「時計台を訪ねていない」→時計台は公共施設だった。
・時計台の前身は札幌農学校の演武場である。明治三十六年農学校の移転に伴い演武場は札幌区が借り受け。明治三十九年札幌区に移管、現在地に移転。この頃から時計台と呼ばれるようになった。

・時計台に明治四十四年に北海道教育会が附属図書館が開設され、大正七年には札幌区教育会が引き継いだ。大正十一年に札幌市教育会附属図書館になった。

・フレップ・トリップには大正十四年八月七日横浜出港後、八月十日早朝小樽に停泊した際に乗客が札幌に出かけて行った様子が書かれている。
―定山渓はいい温泉だった、札幌はあかしやがいい、大通りの花畑が美しかった、大学や植物園の楡がいい、月寒の牧場は雄大で羊がいて、野幌の原始林が見え、夕日の頃、羊を追って帰る頃がまるで日本ではない。―
以上のように時計台の話は出てこない。大正14年当時時計台は公共施設であり、観光施設ではなかった。なお、白秋は「桐の花」の推敲のために札幌には出掛けずに小樽に留まった。


白秋と時計台との関わり                                               ・宿泊先は時計台(北一条西二丁目)と通り一つ隔てた停車場通りの山形屋(北二条西四丁目)であり(直線距離で500メートルほど)、鐘の音は十分聞こえる範囲である。また、自動車で移動していたので車内から時計台を見た可能性は高いと思われる。月寒牧場へは二度行っており、そのうちの一度は北海道庁の自動車で行ったということなので、同行の道庁職員からの説明を受けた可能性もあったかも知れない。


山形屋について 『札幌文庫「札幌事始」(発行 札幌市)』より引用
山形屋は十九年(一八八六)八月南三西四に客室六間で開業し、翌年大通西四に移り、二十三年北二西四に客室二一をもって新築、その建物は元鰊番屋を基にしたもの、三層の望楼に日下部鳴鶴の筆になる更上一層楼の金文字の額が光っていた。


若山牧水の場合                                                   若山牧水夫妻は白秋が北海道を訪れた一年後の大正15年9月に北海道を訪れている。牧水の「北海道行脚記」によれば、(9月24日)午後9時30分札幌着・山形屋に宿泊、(9月25日)朝、植物園へー北大の食堂で昼食ー中島遊園地ー宵山の札幌神社ー月寒牧場ー豊平館で夕食ー時計臺で「歌に就いて」講演ー山形屋(24時就寝)、(9月26日)午前来客ー午後1時新善光寺で歌会ー山形屋ー市外の藻岩館に宿泊、(9月27日)揮毫、(9月28日)揮毫、(9月29日)朝汽車で岩見沢へ(以下省略)。

このうち時計臺を訪れた際の文章を以下に記す。                                 (月寒牧場訪問の長い文章の後)『帰りの疾駆は更に痛快であった。と共に寒かった。市街に入り、明治大帝御渡道の時御宿泊のためにわざわざ造られたといふ建物で、今は市の倶楽部となってゐる豊平館といふえ案内せられ、手厚い夕飯をいたゞいた。夕飯終って河合氏に別れ、我等は時計臺といふえ急いだ。講演會の時間が迫ってゐたからである。』
上記の文章では豊平館については同行者から若干説明を受けた様子が伺われるが、講演会場の「時計臺」については何も述べていないし、この後の文章にも出てこないので全く関心が無かったことが推測できる。

時代は下るが志賀直哉の場合                                           『「さっぽろ文庫 42 札幌随筆集」(札幌市教育委員会編)の「日記 志賀直哉」』より。
「○二十日(昭和二十六年六月) 快晴 五時半頃覚め、昨日頼まれた色紙四枚書いて見る、皆駄目で破る、帰つて送らうと思ふ、筆の先がなくなつて了つては矢張り具合の悪いものだ。此宿の主人に、変つたアヤメ二種とツルアヂサイを送つて貰ふ事にする。九時半頃中谷と営林局の武藤氏自動車で迎ひに来てくれる 札幌農学校時代の古風な時計台を見て交通公社に行く、(以下省略)」〈『志賀直哉全集 十一』岩波書店(昭48)〉

時計台と丘について
「時計台は丘に立っていない。」→時計台付近は平坦な土地である。
・札幌の中心部は豊平川の扇状地で平坦な土地である。ちなみに札幌駅は海抜17メートル、時計台は21メートル、北一条通りは西一丁目で20メートル、西20丁目で18メートルである。なお、羊ヶ丘展望台は136メートルである。
・白秋が札幌を訪ねた3年前の大正11年に札幌市制になったときの人口は13万人であった。大正時代の写真や絵ハガキで時計台を見ると、周辺にはほぼ同じような高さの建物がかなり密集し、少し離れた所では煙を吐く煙突があったりして、歌詞にある丘の白い時計台とは様相の異なる場所に時計台を確認することができる。

大正13年〜昭和元年頃の時計台(時計台まつり実行委員会発行「札幌時計台創建一三〇周年記念誌 時計台ものがたり」(中西出版)より

札幌郊外を題材にした「落葉」(童謡:大正14年11月発表)や「トラクタア」(童謡:昭和2年5月発表)にも「丘」が使われている。「丘」という言葉は白秋の”ノートに記されていた”か”頭に残っていた”可能性がある。

雑誌「赤い鳥 大正14年11月号(第15巻第5号)より引用

  

 「落葉」


 落葉だ、落葉だ、

 火のやうだ、

 この丘、あの丘、野は遠い。

  きいてろ、きいてろ、

  角笛だ。


 乗せてけ、乗せてけ、

 空馬車だ。

 皮鞭ふりふり、そりゃ駆けた。

   ぴいぷう、ぴいぷう、

   夕焼だ。


    附記。場所ー北海道札幌郊外


引用者註:挿絵を見ると馬車が道を走っている。彼方には丘があり、白い雲も浮かんでいる。丘に時計台があれば、「この道」の道のようである。


「赤い鳥 昭和3年12月号」(第二十一巻第六号)より引用

  


引用者註:「赤い鳥 昭和3年12月号」(第二十一巻第六号)には「落葉」が山田耕作の曲譜付きで再度掲載されている。(*「耕作」は改名前の名前)


「赤い鳥 昭和二年 五月号」(第18巻 第5号」より引用
  

  「トラクタア」


タタタタ、タタタ、トラクタア、

青い牧場をかけあがる。


花のつきたて、うまごやし、

雲にかけ入るトラクタア。


とても愉快だ、すばらしい、

人は草刈る、月寒。


丘から丘へ群れて行く、

牛と羊が豆のよだ。


タタタタ、タタタ、トラクタア、

夏は牧場をかけあがる。

 註、トラクタアは草刈の機械です。人が乗つて駈けます。月寒は北海道札幌郊外にある、道庁のひろいひろい牧場のあるところです。
引用者註:金子みすゞ編著・矢崎節夫監修「童謡・小曲・琅かん集 下」(2005年1月1日発行、JULA出版局)の「十一月(大正14年)」に「落葉」が掲載されていて、「附記。場所ー北海道札幌郊外」についても省略することなく記されている。「この道」については「童謡・小曲・琅かん集 下」の「七月(大正十五年)」に初出の詩が掲載されている。金子みすゞが「赤い鳥 八月号」を七月中に読んだことが伺える。すなわち、みすゞは後に曲がつけられ有名になった「この道」について、発表と同時に着目していたのである。
「童謡・小曲・琅かん集」の「琅かん集によせて(1) 矢崎節夫」より。
「大正十三年十一月から十五年十一月の間に発行された雑誌や詩集などから、みすゞ自身が選んだ童謡・小曲を一冊にまとめた詞華集(アンソロジー)で、西條八十、北原白秋といった有名な詩人の作品から、みすゞと同じ若い詩人たちの投稿作品、また、幼い子どもたちの自由詩など、有名無名を問わず、一〇六人の著者による全一九九編が収められている。」

引用者註:金子みすゞの作品に「このみち」がある。
 このみち
このみちのさきには、
大きな森があらうよ。
ひとりぼっちの榎よ、
このみちをゆかうよ。

このみちのさきには、
大きな海があらうよ。
蓮池のかへろよ、
このみちをゆかうよ。

このみちのさきには、
大きな都があらうよ。
さびしさうな案山子よ、
このみちを行かうよ。

このみちのさきには、
なにかなにかあらうよ。
みんなでみんなで行かうよ、
このみちをゆかうよ。


・上記の「落葉」、「トラクタア」そして後述の「雲」の言葉との関連で紹介する「お日和」のいづれもが札幌郊外に関する作品である。


札幌郊外を見物した白秋は、月寒種羊場の雄大な眺望にすっかり魅せられ、居を北海道に移そうかなどと真剣に話をしていたという。ー下記の「白秋・庄亮の札幌滞在の一端(その4)」を参照のこと。


時計台の色について
白秋が北海道を訪れたとき「時計台」は白くなかった。→薄い緑色だった。
時計台の外壁塗装の経歴

明治11年:演武場開場・外壁は「明るい灰色」、柱・付胴差・窓額縁は「茶色」※0

明治14年:時計塔を設置

明治39年:現在地へ移転、修理工事(階段の移動や煙突の除去)

明治40年:柾葺から亜鉛鍍鉄板葺の屋根に変更(以降、亜鉛鍍鉄板葺)※1

明治44年:6月〜7月「ベージュ色」に塗替え、柱・付胴差・窓額縁は「茶色」※2

大正13年:柱・付胴差・窓額縁を含めて「薄緑色」一色に塗替え(以降、色は一色)、修理工事

昭和8年:「薄緑色」を再塗装、修理工事(屋根の葺替えなど)※2-2

昭和24年:「緑色」に塗替え、修理工事(屋根の葺替え)※2-3

昭和28年:「淡アイボリー」に塗替え。屋根赤色塗装※3

昭和33年:「明るいクリーム色」に塗替え※4

昭和34年:「演武場」の額の写し復元

昭和36年:札幌市の有形文化財指定

昭和38年:「明るいクリーム色」に塗替え※5

昭和39年:屋根の葺替え、外壁のクリーニング※5-2

昭和42年:「ライト・グレー」に塗替え、復元改修工事(屋根は部分的補修)※6

昭和45年:6月7日 国の重要文化財指定

昭和51年:外装塗替え実施・「ライト・グレー」系統と思われる。修理工事(屋根半分の葺替え)※7

昭和53年:この年以降、毎年塗装補修を実施※8

平成10年:外壁 マンセル記号「7.5Y7.5/2」・屋根 マンセル記号2.5YR3/6、全面塗装、屋根葺替え※9

平成30年:外壁 マンセル記号「7.5Y7.5/2」・屋根 マンセル記号2.5YR3/6 全面塗装※9-2


引用者注:

※0:時計台は全面的に灰色を塗り、その乾燥を待って柱・付胴差・窓額縁などに茶色を塗った。

※1:札幌郵便局の使用に当たって実施された可能性が高いものと思われる(5月10日:札幌大火により郵便局焼失。札幌郵便局は明治40年から明治43年まで演武場を使用した)。

・「明治39年に現在地への移転時、又はその少し後に創建時の柾葺から亜鉛鍍金鉄板葺に変えた」(さっぽろ文庫)

・「明治末年頃に屋根を柾葺(まさぶき=北海道における板葺の通称)から鉄板葺に変更」(旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について 松本 優(文化財建造物保存技術協 会)

※2:最初に灰色を塗った時とは異なり、柱・付胴差・窓額縁にはベージュを塗らずに茶色だけを塗った。つまり下見板と柱・付胴差・窓額縁とを完全に塗り分けた。

当時の新聞記事から北海道教育会の使用(明治44年7月5日)に当たって実施された可能性が高いものと思われる。

・「明治44年5月26日:北海タイムス「時計臺附属建物入札」;『札幌區役所に於ては昨日時計臺の附属建物の入札を執行したるに七百二十八円にて村木仁助氏に落札したりと』

・「明治44年6月23日:北海タイムス「時計臺家屋修理」;『過般來札幌區役所に於ては大時計家屋の修理を為し居れるが該費用は原状回復の失費代償の意味を以って郵便局より無償譲渡を受けし建増家屋の買却代金を充用せるものなるが内部を完全に修理するには幾分不足を生ずる故之等は一部教育會に於て為す事となれる由にてペンキ塗りは目下豊平館の塗替を受負居る當區森廣氏引受近々着手の筈にて来月十日頃までには全部完成の見込みなりと』
※2-2:「昭和8年11月5日:北海タイムス「時計台の落成式」;『(前略)改築費は六千五百圓で市から四千圓、教育會から二千五百圓此の修築保存費として市内小學校、中等學校、北大職員、札幌農學校卒業生、各小學校保護者會、中等學校父兄會、市有志から四千餘圓の寄附金であり修築費二千五圓を控除した金額で図書館として内部設備其他を完了したものである。

※2-3:「昭和25年2月1日:北海道新聞;『四月から開館の予定 市立図書館になる時計台ー”市立図書館はいつできるか”について市民の深い関心が注がれているー市では昨年九月工費一百六十万円をもつて現在の時計台を改修、これに当てることとし十二月開館の予定であつたが諸般の事情から開館がおくれ来る四月の新学期から開館が予定されている。(以下省略)』

「昭和25年4月9日:北海道新聞「時計台に私立図書館」;『昨年秋以来、札幌名物の時計台を改修して開設準備をすゝめていた市立札幌図書館はグリーンの装いも新たに九分通り完成、二十五日から開館することになった。(以下省略)』

※3:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六節 塗装 塗装調査」において『四二年報告書』(正式名称:『札幌市有形文化財「時計台」―札幌農学校演武場修理報告書』(北海道大学文学部附属北方文化研究施設一九七〇年発行『北方文化研究』第四号に所収。)が「緑色」から「淡いアイボリー」に塗替えと記述していることが示されている。また、屋根の赤色塗装については、札幌市公文書館の『旧写真ライブラリー「タイトル:時計台、所在地:札幌市中央区北1条西2丁目、撮影年月日:1954 9.5」』には赤い屋根の時計台が写っている。そして時計台前の道路には信号機も写っている。その場所に信号機が設置されたのは次の新聞記事から昭和29年5月のことであるので、この写真はそれ以降に撮影されたものと言える。また※4に示す昭和33年6月4日付「時計台のお化粧」の記事に「このほど石垣つくりと外装の衣替えを始めたもの。石垣はいままでの木サクにかえたもの」とあるが、その写真にはわずかに「木サク」が写っていることを確認することができる。したがってこの写真は昭和33年6月以前に撮影されたものであるとも言える。以上のことから撮影年月日の1954 9.5とは整合性がとれている。昭和29年5月以降昭和33年6月まで(信号機があって木サクもある時期)塗装は行われていないことから、撮影年月日1954 9.5の写真の赤い屋根の時計台は昭和28年の塗装によるものということが言える。

なお、「国重要文化財 旧札幌農学校演武場 時計台 観る 知る 使う」のホームページのカラー写真「1958年(昭和33年)皇太子の行啓と時計台」でも赤い屋根が確認できる(以下の新聞記事からもわかるように昭和33年の塗装は6月中に終了している。一方皇太子の行啓は6月23日と7月8〜9日であるが、この写真は7月の時のものと思われる)。

・「昭和29年4月16日:北海道新聞「時計台前などに交通信号機」;『市では五月中に北一条西三丁目時計台前とそのほか一カ所(場所未定)に交通信号機をとりつける。これはこのほど北五東二札幌トヨタ自動車(社長小田直司氏)と同北海道マツダ自動車株式会社(社長横井七之助氏)からそれぞれ五十万円、計百万円の寄付が市にあり、これを前記信号機の設置費にあてることになった。』

※4:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六

節 塗装 塗装調査」の史料調査の新聞記事とそれ以外の新聞記事等から推定できる。

・北海道新聞:昭和33年6月4日付「時計台のお化粧」の記事:「ばい煙でススけた時計台で不評をかっていた市立図書館の衣がえが始まった。同館は開拓使時代の面影をしのぶ数少ない建物として道内外の観光客からしたわれているが、寄る年波と札幌特有のばい煙に打ちかてず、最近現場に永久保存か、移転か物議をかもしているものの、さしあたり開幕近い北海道博までに外観だけでも体裁を整えようと、このほど石垣つくりと外装の衣替えを始めたもの。石垣はいままでの木サクにかえたもので、中硬石を使い一・三〇bの高さで東西と南の三面を囲む、外装はクリーム色になるほか時計の文字盤にも手入れが加えられる。総工費約百五十万円で今月いっぱいには仕上がる・・」 

※5:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六

節 塗装 塗装調査」の史料調査の新聞記事(前と同じクリーム色を塗装)とそれ以外の新聞記事から推定できる。

・北海道新聞:昭和37年5月30日付「クラーク博士と時計台」の記事:「絶えない車の流れに囲まれて、ビルの谷間にすっぽり沈んだ時計台は、明るいクリーム色で薄化粧をしてはいるが、寄る年波は争えず、ところどころペンキがはげ崩れていた。」

※5-2:北海道新聞:昭和39年8月19日付「屋根をふきかえ・時計台の修理始まる」:三十六年六月の市の重要文化財指定以来、毎年三、四十万円をかけて部分補修をしていたが、ことしは屋根のふきかえ、閲覧室、廊下などの内部の塗り替え、外部のクリーニングと、百二十万円をかけての大がかりな補修。」

※6:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書』の「第二章 第六節 塗装 塗装調査」において『札幌市有形文化財時計台調査報告書』(札幌市文化財保護委員 横山尊雄 1966(昭和41)年3月31日)ー昭和42年に実施された復元改修工事に向けての調査報告書ーが「ライト・グレーペイント」に塗替えと記述していることが示されている。

※7:「昭和五十一年に屋根の半分程度の葺き替え、全面的な外部塗装の塗り直し、木部の部分修理が行われ」(『旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について』 松本 優(文化財建造物保存技術協会)より)、塗装の色は当時の記録写真から昭和42年に実施した塗装の色を継続したものと推定。

※8:「昭和五十三年以降は、毎年塗装補修が行われていたので、方位の違いによる塗装の傷み具合に、顕著な差は生じていない。」(『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)より)

(以下は札幌市公文書館の写真より)

・昭和54年(1979.7.16):補修工事(時計台を愛護しましょう 清掃奉仕 時計台を守る市民の会の幕あり)

・昭和55年(1980.6.30):清掃奉仕(時計台を愛護しましょう 清掃奉仕 時計台を守る市民の会の幕あり)

・昭和57年(1982.6.7):清掃(時計台を愛護しましょう 清掃奉仕 時計台を守る市民の会の幕あり)

・昭和58年(1983.6.6):補修工事(昭和54年、55年、57年と同様のものと思われる)

・昭和58年(1983.9.12):屋根改修工事(時計台屋根飾りの改修と思われる)

※9:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)、『旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について』 松本 優(文化財建造物保存技術協 会)より。

今回の保存修理工事で塗装した油性調合白亜鉛ペイント指定職のマンセル記号

屋根(赤色) 2.5YR 3 / 6

外壁(白色) 7.5Y  7.5 / 2

内部(緑色) 10 GY 7 /  1.5


引用者註:マンセルシステムについて

マンセルシステムは色相(Hue)・明度(Value)・彩度(Chroma)の三属性で色を記号化(HV/C)して表す。

「7.5Y7.5/2」の場合〜「7.5Y」 は色相を、次の「7.5」は明度を、「/」の次の「2」は彩度を表す。

色相〜「赤み」「黄み」など色みの性質のこと。『赤(R)・黄赤(YR)・黄(Y)・黄緑(GY)・緑(G)・青緑(BG)・青(B)・青紫(PB)・紫(P)・赤紫(RP)の10色』をさらに分割して色を表す。10分割した場合は「10YR、1Y、2Y、3Y、4Y、5Y(Yの代表色相)、6Y、7Y、8Y、9Y、10Y、1GY」のようになる。

4分割した場合は「10YR、2 .5Y、5Y(Yの代表色相)、7.5Y、10Y、2.5GY」のようになる。

明度〜色の明るさの度合い。有彩色(色みのある色)は、無彩色(白・黒・灰色)の明度段階で表す(白=9.5、黒=1、9.5>灰色>1)。 

彩度〜有彩色で色みの強弱の度合い。彩度は無彩色からどのくらい離れているかを示す。無彩色(彩度=0)から離れるほど彩度は高くなる(数値が大きくなる)。

色見本(その1)

明度のみ異なる二つの色見本を示す。「7.5Y7.5/2」は明度が二つの中間になる。

       (7.5Y7.0/2)

   

       (7.5Y8.0/2)

    

色見本(その2)

「2.5YR3/6」と明度は大きく彩度は同じ。

      (2.5YR5/6)

   

「2.5YR3/6」と明度は同じで彩度は小さい。

      (2.5YR3/4)

   


引用者註:『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)においては『外壁(白色) 7.5Y  7.5 / 2』のように書かれていることに注意。

※9-2:札幌市ホームページ「重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)外部改修工事」:

・外壁塗装は、新しい塗装をただ塗り重ねるのではなく、また、古い塗膜をすべて掻き落としてから塗り直すわけでもありません。劣化して剥離等している旧塗膜部分のみを除去し、健全な塗膜は存置して、全面を従来に倣い塗り直します。

・屋根や外壁などの塗装が劣化していることから、平成30年6月1日から平成30年10月31日にかけて塗替えなどの外部改修工事を実施し、平成30年11月1日(木曜日)にリニューアルオープンしました。


主な参考資料『(1)については札幌市公文書館のご教示による)』

(1)『重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)保存修理工事報告書 第二章 第六節塗装 塗装調査』(財団法人 文化財建造物保存技術協会・1998年(平成10年)9月札幌市発行)

上記の資料の中で引用されている資料は次の通り。

 ・『札幌市有形文化財「時計台」―札幌農学校演武場修理報告書』(横山 尊雄, 越野 武, 後藤 達也 北方文化研究 / 北海道大学文学部附属北方文化研究施設 編 (4) 169-220, 1970-03):(上記資料の中では『四二年報告書』と記述されている。)

 ・『札幌市有形文化財「時計台」調査報告』(札幌市文化財保護委員 横山尊雄 1966(昭和41)年3月31日):(上記資料の中では『札幌市有形文化財時計台調査報告書』と記述されている。)

(2)『旧札幌農学校演武場(時計台)の保存修理について』 松本 優(文化財建造物保存技術協 会)

(3)札幌市公文書館の北海タイムス記事、北海道新聞記事、写真

(4)さっぽろ文庫(昭和62年12月18日 札幌市教育委員会発行)

(5)「時計台ものがたり(平成20年10月16日発行・中西出版)

(6)札幌時計台ホームページ「国重要文化財 旧札幌農学校演武場 時計台 観る 知る 使う」

(7)札幌市ホームページ「重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)外部改修工事」


昭和二十四年当時の時計台の色                                        「さっぽろ文庫 6 時計台」(札幌市教育委員会)より。
八木義徳「旅の音色」(「別冊小説新潮」昭27.1):「時計台は札幌市北一條西二丁目にある。その木造三層の建物の真ン前に立ち、屋上を振り仰いだ時、矢田は愕然とした。/見るも無慚な変り方である。緑色のペンキはボロボロに剥げ落ち、板壁はめくれ、窓硝子は破れ、建物全体が埃をかぶって斜めに傾いてゐた」。 義徳が戦後はじめて帰道したのは昭和二十四年(38歳)の夏のことだが、このとき時計台は矢田ならぬ作者の目にこう映じたのであろうか。ーここには、時計台の裏に下宿していたなど北大水産専門部の学生だった昭和四、五年ごろの、青春の追憶が色濃い。

引用者註:昭和二十五年の市立札幌図書館開館の前年の夏のことであるから、厳密には「薄緑色のペンキ」である。いずれにしろ往時の時計台の壁面の色についての記録は少ないので貴重な文章である。

絵本の中の札幌時計台の色                                            川島康男/作・ひだのかな代/絵「大きな時計 小さな時計」(2011年12月初版発行・KK絵本塾出版)
この絵本は、札幌時計台の保守・点検を長年行ってきた井上清さん・和雄さん親子の物語である。明治14年に時計台が完成した場面の絵を見ると白い壁面に、赤い屋根―すなわち当時の時計台ではなく現在の時計台を思わせる色の絵になっている。明治38年に井上清少年が見上げている時計台も同様に、現在の時計台に似た色の絵になっている。昭和25年に図書館として使われる場面では、白い壁に緑色のペンキを塗っている絵が出てくるが、実際には薄い緑色の壁面に濃い緑色のペンキが塗られているはずである。以上のように史実と異なっている部分があるので注意を要する。

伊藤千尋著「こうして生れた日本の歌 心の歌よ!U」(新日本出版社)より引用
具体的に歌に出て来るのは「あかしや、白い時計台、さんざし」だ。札幌でアカシヤと呼ばれるのはニセアカシヤで、北一条通りはニセアカシヤの並木となっている。1911(明治44)年、大量に植えられた。


その3「母さん」について
赤い鳥事典編集委員会「赤い鳥事典」(柏書房)より引用
第5部『赤い鳥』のことば
役割語
◎<父><母>を表す名詞
<父><母>を表す名詞は、『赤い鳥』において、オトウサン・オカアサンを標準として、オトウサマ・オカアサマとトウサマ・カアサマが上位、オトウサン・オカアサンが上位〜下位、トウサン・カアサンとオトッサン・オッカサンおよびオトッツァンが下位の社会階層を示して使用されている。すなわち、オトウサマ・オカアサマとトウサマ・カアサマは、接頭辞のオの有無に関わらず上位の階層を示すが、オトウサン・オカアサンとトウサン・カアサンでは、接頭辞のオの有無によって異なる階層を示す。
(用例省略)
一方、同時代の他の文芸作品では、『赤い鳥』において下位の社会階層に属する人物に使用されているトウサン・カアサンとオトッサン・オッカサンが、上位の階層の人物にも使用されており、オトウサン・オカアサンより、オトッサン・オッカサンの使用が多い。
これらの結果から、『赤い鳥』では、国定教科書が示したオトウサン・オカアサンという形式を標準として、<父><母>を表す名詞が使用されている。また、<父><母>を表す名詞を、接頭辞のオの有無と、サマとサンの違いとによって、階層ごとに体系的に使用している点からは、 登場人物の属性と<父><母>を表す名詞を結びつけ、童話における<父><母>を表す名詞の用法を示したといえる。

「母さん」については『北原白秋「この道」の原点』のページも参照してください。

その4「馬車」について                                        「馬車」→白秋は樺太や北海道で多くの経験をした。

「フレップ・トリップ」より                                               ー小樽ー                                                 と、飄々として下の関の車輛会社の中爺さんが来る。「先生、ようべはお楽しみ。お盛んでしたな。へへへ。」

「や、あんたもあの家へ行っていましたかね、向うで騒いでいたのはきっと、そうだ。」

「先生、鎌かけよっとばい。そげんすぐ欺されなはんならでけん。こん爺さん嘘言いいたい。なあん、小樽で遊ぼか、定山渓に行たとらしたですたい。」

「ふふ。」と爺さん笑い出した。

「わしあ、よか事した。今日たい。小樽へ帰って来っと馬車ん一台居ったもんな。そこで五円札ば、うんち投げ出えて、何処っちゃよかけん、五円がつ汝がよか事駈けさせちいうて、じゃらんじゃらんじゃらんじゃらん駈け廻ったもんですたい。愉快でしたもんな。大臣になったごたった。」
ー真岡ー                                                       桟橋へ上って見て私の第一に喜んだのは、その前の広場に群たかって客待ちしている簡素な馬車の幾つかであった。せいぜい四吋インチばかりの波型の幌飾りが四方を取りまわして、その幌飾りの縁へりが青で、それが八月の微風に涼しげにそよいでいた。極めて開放的で、無雑作に黒と赤との板枠をはめた座席の上の空間には細い四本の柱が立っているきりであった。
・・・「こりゃいい、ひとつ後で乗って見たいね。」と私はいった。「よかろう。」と庄亮も御機嫌だった。
・・・「写生しておいてくれよ。」というから、「よろし。」と私も早速黄色い小型のノートを開いた。
・・・それから少し歩いて、いよいよ例の馬車に乗った。・・・りんりんりんりん、りんりんりんりん、いくら行ってもさした見物もないので、・・・
ー樺太横断ー                                                    お、馬が来た。農作馬車だ。粗末な土まみれの木枠の中に十五と十二ばかりの眼の大きな百姓娘が坐っている。
馬はぽくりぽくりと傍らの蕗の葉の林へ這入ってゆく。
ほう、馬の首が蕗の葉にかくれた。妹の娘が振り返った。あっ、姉は澄まして馭してゆく。うれしい緑のこぼれ日、こぼれ日、こぼれ日。
ー豊原よりの消息ー                                                 この二人が、今朝、公会堂の観光団歓迎会のすぐ後から、幌馬車に乗って、豊原の西郊の追分という部落へ散策したと思いたまえ。・・幌馬車でちりんちりんだ。程よい道の曲り角で、下りると、私たちは子供のようにそこらの花畑や露助の家や農家の背戸などを覗いてまわった。・・・

・大正14年八月二十二日朝、旭川郊外の近文に到着し熊祭りを見学したが、歌集「海阪」に馬車の言葉が出てくる。
    アイヌ村風景
   この朝かげすばらしくよし毛のあかき唐黍を呼べば馬車にはふりこむ
   ひた駆けに馬車を駆らしすがすがし唐黍の穂の朝日なるもの
   朝の日を馬車はかへしてあゆむなる大豆畑の露草のはな

・旭川に一泊後、深川に滞在した際郊外の音江村の林檎園を幌馬車に乗って見学した。歌集「海阪」より
     幌馬車
      音江村
    山方はけはひ幽けくなりにけり馬車ひとつ行けり虎杖の原を
    幌の馬車とめつつさびし虎杖の虫くらひ葉の日ざかりの照り

・上述の「落葉」(童謡:大正14年11月発表)にも「馬車」が出てくる。

・「庄亮君の樺太北海道の歌」の中で                                       吉植庄亮の「真駒内の街道を来る馬車ひとつ馬にまかせて人はねむれり」について、「この一二句は実にいい。が、四五句は常套で、あまりに不釣合ではないかな。かうした安易な風を私はつくづく惜しいと思ふ。」と論評している。

・「この道」が発表された大正十五年八月号の「赤い鳥」に樺太・北海道旅行の経験から作られた作品の一つ「いたどり」も掲載されていて、詩には馬車が出てくるし挿絵にも詩の通りに遠くに馬車が描かれている。
  

いたどり


いたどり、いたどり、
虫くい葉、
熱いひでりになりました。

いたどり、いたどり、
遠くには、
馬車が駆けてる、ただひとつ。

いたどり、いたどり、
さみしいな、
髯のアイヌが笑ってる。

いたどり、いたどり、
虫くい葉、
あかいお舌だ、熊の子だ。

・『米の貌 : 随筆・吉植庄亮 著・出版者 羽田書店・出版年月日 昭和17年1月15日』より
(1)「僕の口語歌(大正14年10月執筆)」の中の「札幌郊外出納農場」の記述。
・ぐいと曳き出した大黒の挽馬の力を、おれの身體はすぐ感得した。
・馬はクライデルデース(ママ)の駿足です、地平に續く大幅の道路です。
・白秋君、如何だこの軽快さは、君の童謡本の四輪馬車そのままだね。
・やあ廣い野つ原だなあ、野幌の原生林が人間の眉くらゐにしきや見えないぢやないか。
・来たぞ、来たぞ、簡素な住宅と、碎爐附牧舎と、ひろいひろい燕麦畑のうねりだ。

引用者註:クライズデールはイギリスのスコットランド地方が原産。乗合馬車を引く馬として長く用いられてきた。
(2)「樺太まで(大正14年10月執筆)」の中の記述。
・僕と白秋君は眞岡上陸の日に、鈴のちゃらんちゃらん鳴る馬車が面白さに、その馬車で町中の見物を
やった序、自動車屋に寄って明日山道横断をやる積りだが、決定したら改めて宿から電話をかける旨断
っておいた。

その5「雲」について
雲について


通常、以下の10種類に分けられる。


・巻雲(すじぐも):秋を代表する雲


・巻積雲(うろこぐも、いわしぐも):秋によく見られる


・巻層雲(うすぐも):春によく見られる


・高積雲(ひつじぐも):春によく見られる


・高層雲(おぼろぐも)


・層積雲(くもりぐも)


・乱層雲(あまぐも)


・層雲(きりぐも)


・積雲(わたぐも):夏によく見られる


・積乱雲(にゅうどうぐも)


さて「この道」の雲はどの雲であろうか。「この道」初出の雑誌「赤い鳥」(大正15年八月号)や「白秋童謡讀本」(昭和6年11月)の挿絵では、ぽっかりと浮かんだ「積雲」が描かれている(童謡「この道」と札幌時計台のページ参照)。


白秋には「雲」の言葉が出て来る札幌における作品「トラクタア」、「お日和」がある。(「トラクタア」は上述したが採録する。)
トラクタア

タタタタ、タタタ、トラクタア、
い牧場をかけあがる。

花のつきたて、 うまごやし、
雲にかけ入るトラクタア。

とてもゆかいだ、すばらしい、
人は草刈る、月寒。

丘から丘へ群れてゆく
牛とひつじが豆のよだ。

タタタタ、タタタ、トラクタア、
夏は牧場をかけあがる。
 註 トラクタアは草刈の機械です。人が乗って駆けます。月寒は北海道札幌郊外にあって、道庁のひひろいひろい牧場のあるところです。

お日和                                                         
お日和、日和、牧場には
いつも蜻蛉が群れて出る。

廣いひなたのうまごやし、
犬は羊を追ってゆく。

夏は刈り頃、からすむぎ、
雲も野ずゑを湧きあがる。

掻けよ、草くづ、牧場には
いつも子供のこゑがする。

ねむれ、子供よ、日和には
いつも祭の笛が鳴る。

 作曲者 乘松 隆一                                                       高木正雄                                                 
 北海道札幌郊外月寒牧場の夏は、ちゃうどかうした風景です。

引用者註:「白秋童謡読本 尋四」(采文閣 昭和6年)より引用。「お日和」の初出は「少年倶楽部」(大正15年9月)

その6「山査子」について

「山査子」→白秋が樺太で見た山査子の木の印象か。
「フレップ・トリップ」の「小沼農場」より。

・・・
庄亮はノートに歌を書く。私は標本を読んで行く。
・・・
あ、あ、牧舎が見えた。なんと抒情的な異国風景、ああ、春楡、山査子、白樺、広い広い牧原の原、あ、羊だ、羊だ、遠くを人が追って来ている。牧歌牧歌と誰やら叫んだ。私の小唄は閑かになった、浮かれた心は。小雨も幽かに小やみになった。
 あ、あ、牧舎が見えた。
 なんと抒情的な異国風景、
 ああ、春楡はるにれ、山査子さんざし、白樺しらかんば、
 広い広い牧草の原、
 あ、羊だ、羊だ、遠くを人が追って来ている。
 牧歌牧歌と誰やらが叫んだ。
 私の小唄は閑かになった、浮かれ心は。
 小雨も幽かすかに小やみになった。
     
洋風の牧舎の様式は早速に小型の黄色いノートを私に取出さしめたほど私を魅了した。私は克明に写生した。
・・・
蔭の深い楡の二、三本の木立が、其処には幽雅な雨霧をまだ梢の緑に保っていた。何という完全な楡の象であったろう。楡ほど枝ぶりの整った木は珍しい。殊にそれが老木になったほど喬く、また鬱蒼と張っている。観ていていかにも北方の木の母だという感じがする。
その木立に一本の山査子がまた隣っていた。


白秋の見たのはクロミサンザシ(エゾサンザシ)か


・クロミサンザシは北海道と長野県菅平に分布。海外ではサハリン、極東ロシアに分布。バラ科の落葉高木。3-10mの小高木で、北海道では5月下旬〜6月上旬に五弁の白い花を総状につける。10月ごろ球形の実は熟すと黒色となる。平地や緩斜面の明るい川筋に生育する。ニレ、ヤチダモ、ハシドイなどに交じって生える。

・エゾサンザシは果梗に毛があるとされるが、クロミサンザシと同種。

「この道」の山査子は果たしてどれか?
※あかしやの花が咲いているときであり、山査子の花が咲いていたかどうかの時期であるので、山査子の実はないことに注意。

『「山渓ハンディ図鑑3 樹に咲く花 離弁花@」 山と渓谷社 2003年5月20日』より引用
サンザシ属
落葉低木または小高木。果実はナシ状果。日本には2種が自生する。


クロミサンザシ


 


・分布 北海道(根室地方)、長野県(菅平)、サハリン、中国東北部


・生育地 山野などにややまれに生える。


・樹形 落葉小高木(3~8メートル)


・花 5~6月 直径1~1.5センチの白い花


・果実 ナシ状果 直径6~9ミリの球形、8~9月に黒く熟す。 


 


・果実に白い軟毛が密生し、果期まで残るものを「エゾサンザシ」として区別することがある。


サンザシ


 


・植栽は少なく、見る機会は少ない。


・分布 中国中南部原産。日本には1734年に薬用として導入。


・樹形 落葉低木(~3メートル)


・花 4~5月 直径1.5~2センチの白い花


・果実 ナシ状果 直径1.5~2センチの扁球形、9~10月に赤く熟す。 


・果実に白い軟毛が密生し、果期まで残るものを「エゾサンザシ」として区別することがある。


トキワサンザシ属


常緑低木、花は白色、果実はナシ状果。日本ではタチバナモドキ、ヒマラヤトキワサンザシ、トキワサンザシなどが植栽されている。この仲間を総称してピラカンサと呼ぶことが多い。


タチバナモドキ 中国原産、果実の形や色がタチバナに似ている。花期は5~6月、果実は橙黄色。


ヒマラヤトキワサンザシ 日本に入ったのは昭和初期。実が美しいので、庭や生垣にによく植えられる。葉はトキワサンザシより幅が狭い。花期は5~6月、果実は鮮紅色または橙紅色。


トキワサンザシ 西アジアが原産。葉は幅が広い。花期は5~6月、果実は鮮紅色。



『「山渓カラー名鑑 日本の樹木 』 山と渓谷社 1996年4月10日』より引用

サンザシ属
サンザシ 中国原産で日本には1734年に薬用木として朝鮮から渡来した。


 


クロミサンザシ 果実は食べられる。


 


エゾサンザシ 湿地に生える。果実は食べられる。種小名のjozanaは定山渓のこと。アイヌは材の黒焼きを薬用にするという。


 


アカバナサンザシ 西洋サンザシの変種。日本には明治中期に渡来した。高さ5メートルほどになる。花弁の内側は濃紅色、外側は淡紅色。


トキワサンザシ属


トキワサンザシ 西アジア原産で、日本には明治中期に渡来した。


 


タチバナモドキ 中国原産で日本には明治時代に渡来した。


 


ヒマラヤトキワサンザシ ヒマラヤ原産で日本には昭和初期に渡来した。


※白秋が訪れたのは大正14年であり、作品「この道」が発表されたのは大正15年のことである。

 

引用者註:藤田圭雄編「白秋愛唱歌集」(岩波書店)では山査子について『中国産のバラ科の植物。春、梅に似た白い花をつけ、秋、黄色い実を結ぶ。』とある。

白秋の他の作品の「山査子」
・『桐の花 植物園小品』より


「日の光は形円きトベラノキに遮られて空気冷やかに風うすく匐ひくねれるサンザシに淡紅緑の芽は蕾み、そのもとに水仙の芽ぞ寸ばかり地を抽きてうち戦ぐ。とある小枝に寥しくして忙しき小さき白粉色の蜘蛛のおこなひよ、その糸の色なき戦慄……」


・童謡「山査子売」『「チチノキ」昭和5年7月10日発行、第一巻第四号、七月号(童謡創刊号)』


「白秋全集27 童謡集3」(岩波書店)より


  『少國民詩集 満洲地図』(昭和17年9月1日 フタバ書院成光館刊)

       大連から奉天の北まで
          山査子売
     赤い実の、赤い実の
     山査子売(さんざしうり)の來るころ、
     ころつころと啼く蟇(ひき)。
       湯崗子(たうこうし)、湯崗子(たうこうし)、
       湯崗子(たうこうし)の春さき。

     溶けかかる、溶けかかる
     お池のふちの氷の、
     ピシリ、ハリと鳴る罅(ひび)。
       枯楊(かれやなぎ)、かれやなぎ、
       枯楊(かれやなぎ)の日向(ひなた)よ。

     ぽっつりと、ぽっつりと
     山査子売(さんざしうり)の來るころ、
     くくと、くくと、啼く蟇(ひき)。
       娘々廟(ニヤンニヤンメウ)、娘々廟(ニヤンニヤンメウ)、
       娘々廟(ニヤンニヤンメウ)が見えるよ。

    註 藁束に赤い山査子の実を串に刺したものを沢山に刺してある。
       この山査子は油で揚げてあるので、支那の子供たちが喜んで食べる。
  引用者註:実際には山査子の「査」は木偏の付いた漢字である。

喜田由浩「満州唱歌よ、もう一度」産経新聞ニュースサービス発行(2003年11月20日)より引用
・「山ざし」という中国原産のバラ科の木がある。秋になると、小さな赤い実をつけ、それに、水あめのようなようなものをぬりつけた山ざし売りが、街角にやってきた。満州で育った子どもたちなら、誰もが懐かしがる光景である。奉天で生まれ育ったジェームス三木さん(68)も、そのひとりだ。「山ざしの実をくしに刺し、それをわらに突き刺して売りに来るんです。赤い実がきれいでね。たまらなく、おいしく見えました」ただ、路上で売る山ざしはハエがたかったりして、あまり衛生的とはいえない。多くの日本人の子どもたちは、母親から買い食いを禁じられていたのだが、小学生だった三木さんは、「”絶対に買っちゃいけない”って言われると、余計に食べたくなってね・・でも、やっぱり買えませんでした」
山ざし売り」という満州唱歌がある。

冬ちかき ちまた さんざし売りの・・・
ほでにつらねし 赤き実に 舞い立つ埃 吹き過ぐる

三木さんは二十年ぐらい前のテレビ番組で、やはり満州にいた森繁久弥さん(九〇)がこの歌を歌うのを聞いた。
・羽田澄子氏インタビュー
(前省略)赤い実に水あめのようなものをぬった”山ざし”は、多くの日本人家庭と同様に、買い食いを禁じられていたが、終戦後、引き揚げるまでの間にやっと食べることができた。でも味のほうは、期待ほどではなかったという。「長い間、すごくあこがれていたのに・・甘いのは表面だけで、実がとてもすっぱかったのを覚えています。でも、焼きいもや焼き栗はとてもおいしかった。ピロシキもよく食べましたね」

 旅行中の作品の材料について
次の『庄亮君の樺太北海道の歌』の白秋の文章は、旅行から帰ってから約半年後の大正15年3月時点のものであり、「この道」はまだ作られていない。

樺太・北海道旅行に関する作品はほとんどが、旅行から帰った後に作られたものであることがわかる。


「白秋全集 35」(岩波書店)                                          『庄亮君の樺太北海道の歌(大正15年3月1日「日光」3巻3号)』より。

材料を見つけても、歌にするか詩にするか民謡にするか童謡にするか、散文にするか当って見てから一応も二応も考へて見ねばならぬ。

・庄亮君の樺太北海道の歌を批評せよと云うことであるが、これは私にやりにくい。何故ならば、私はまだトラピストと音江村位の歌しか作ってゐないからである。自分が作って了ってからならば何とでも無遠慮に云える。で無いから、後で私自身にも過分の責任を感じずにはゐられないだらう。さうなると、創作する場合に何かと固くなりはしないかと思ふのだ。
何にしても多量生産には驚いた。旅行中にも庄亮君は肌身離さずノートと鉛筆とを持ってゐた。見たまま感じた儘をすぐに歌句として書きつけてゆく。それだけでもよく歌に馴れてゐるなと思はせられた。全旅行を通じて私は国境の安別で「この虎杖は露西亜領の花」といふ四五句を得ただけであったのに、庄亮君は彼是三百首は作ったらしい。(途中省略)
・私は旅中一首も出来なかった。作らうと思わなかったと云ふが正しいかしれぬ。私は収穫することに夢中になってゐたのである。旅そのもは遊び恍れるといふことが主だったのである。さうした詩歌の創作といふことはどうでもよかったのである。で、何も作らず、眺め廻ったり酒を飲んだりして過ごして了った。たまたまノートにとれば、たゞ
薄みどりの唐黍の花
枯れたすかんぽ、
鷲飛ぶ(多蘭泊)
清水村逢坂、安来ぶし、ひやむぎ二杯
といふ風に記して置くだけであった。
問答歌は即吟でやったが、私にはどうしても庄亮君のやうに即興の歌は作れない。本来から云えば即吟の徳は歌や俳句にあるであらう。然し私にはまだ歌に馴れないかしてどうしても即興ではやれさうにない。で、仕方がないからすら/\と即吟でやれるまでの腕を仕上げる迄、相当に苦しんで精進するより途がない。それに私は、材料を見つけても、歌にするか詩にするか民謡にするか童謡にするか、散文にするか当って見てから一応も二応も考へて見ねばならぬ。(途中省略)
・私のノートは前に云ったやうな風に名詞位を多少は記してあったが、ノートも酒に酔って函館で遺失して了った。困ったのは旅行記を書くについて細かなメモが無くなった事だが、歌を作るのにはどうでもよかった。頭に残らないやうなものは歌にしたって仕方がないと思ったのだ。
これは私の流儀である。だがノートは後で連絡船の津軽丸の船長から送って寄越した。(後略)

私は旅行中は一首も歌は作らなかつた。
『北原白秋全集37 小篇3』(岩波書店)(P146 ~148)より引用


「日光」[大正13年4月創刊]【大正15年1月1日 3巻1号】

山荘より〔日光室〕 白秋                                              〇今度の「トラピスト修道院の夏」はこの二三日前矢代君が見えた時から作りはじめて、一旦二十首あまり渡した後に、また作りつゞけてこれだけになつた。私は旅行中は一首も歌は作らなかつた。これが初めてゞある。庄亮君は二三百首位出来てゐたらしい。いつも手帖に書きつゞけてゐた。私はどうも旅中にはできない。旅を楽しむといふことが先に立つせいであらう。(後略)

「白秋全集 19 詩文評論5」(岩波書店)「後記」(P425)より引用
樺太手帳
北海道・樺太紀行に関するメモ的なノートが二冊北原家に残されている。
・そうじて多いのは植物の名前、地名、動物の名前、その他の風俗に関する事項である。
・珍しいものに触れると、何かメモせずにはおられなかったのであろう。
・八月二十五日以降の北海道関係の記事。
・札幌の北海道タイムス社の編集長や文芸部の人名、旭川在住の歌人(白秋門の古参の一人)酒 井広治の名、稚内駅から札幌へのチッキ発送のナンバーなど。

白秋・庄亮の札幌滞在の一端
その1 北原東代著「立ちあがる白秋」(燈影社:2002年9月5日 初版第1刷) P261〜263 より


3 大正一四年八月三一日消印)(絵葉書)


 相洲小田原天神山 北原菊子様


おれハ大臣待遇だ。えらいだろう


 白秋


<註>裏は定山渓名勝の写真。同じ絵葉書に、「僕ハ毎日大臣さんにいぢめられてゐます。三十日サッポロにて庄亮」との添え書きがある。白秋は歌友吉植庄亮とともに、鉄道省主催樺太観光団に加わり、八月七日から一カ月、樺太、北海道を旅した。航行中、白秋と庄亮は、つい先ごろまで朝鮮総督の使用室だったという、寝室、談話室、便器付き浴室の三室つづきの特等室を占め、庄亮が大寝台を白秋に譲り、自らは談話室のソファを仮寝台としたことから、白秋が「大臣待遇だ」とふざけたもの。筆書きの乱雑な字体から、酔って書いたと思われる。船は元、関釜連絡船。


4 大正一四年九月二日消印(絵葉書)


 相洲小田原天神山 北原隆太郎どの


坊やこの馬をごらんなさい。立派でせう。「マコマナイ」といふ牧場は牛に馬がおもにゐました。パパは植物園を見てから、また自働(ママ)車でこの牧場を見にゆきました。パパ


 <註>絵葉書裏はカラーの牧場の馬の群れの写真。当時の長男隆太郎は三歳半




5 大正一四年九月(絵葉書)


 相洲小田原天神山 北原隆太郎どの


これはお御堂です。修道士たちは日に七回ここでおいのりをします。パパは夜のおいのりと、翌朝の彌撤を見ました。御教へ(ママ)も経も讃美歌もラテン語でやります。


鐘が鳴ります。


   ランランラン。


            papa


<註>裏はトラピスト修道院内部の写真。消印の日付が薄れて読み取れないが、旅程から前掲の札幌、マコマナイ牧場の後、函館、当別のトラピスト修道院を訪ねていることが判明している。




その2『白秋全集39 書簡』より。


9/2 隆太郎宛(絵はがき)


 (3)これも羊です。めうめうと鳴きます。その羊のむれを犬がうしろから追ったり、そろへたりします。この日月寒の牧場にパパは二度も行って見ました。二度目は北海道庁の自働(ママ)車で行きました。


引用者註:冒頭の”(3)”の意味は不明である。                               




その3 『さっぽろ文庫 第43巻「大正の話」(昭和62年12月18日 札幌市教育委員会発


行)』より


白秋も訪れた敷島旅館 葛巻 操(八十二)


「・・ところで、私がまだ家にいた大正十四年、詩人の北原白秋さんが見えたことがありますよ。八月下旬、札幌短歌会にも招待された白秋さんは、山形屋旅館にお泊まりでしたが、友人の岡田さんが敷島屋に滞在されていたので、遊びにこられたのでした。大変陽気な方でしたね。色紙や短冊に書や画を描いて頂きました。裏に「操さんへ」と書いて下さった私の似顔画は、どこかに見えなくなりましたが、「春あさし せとの水田のささとての ぬせりは 馬にたべられにけり 白秋」と書かれた色紙は、今娘の所においてあります。また、父が私の嫁入り道具にと考えたのでしょうか、絹地に書いて頂いた歌は掛け軸に表装してもらい、何度も引っ越したので少し傷んでいますが、息子の所においてあります。「枯れがれの 唐黍のほに雀ゐて ひようひょうと遠く 日(ゆう)暮の風 白秋」と読むそうです。落款のないのが惜しいですね。


引用者註:敷島旅館は停車場通りの白秋の宿泊した山形屋の向かい側斜め前にあった。


引用者註:「白秋全集 別巻」(岩波書店)によれば、「春あさし せとの水田のささとての ぬせりは 馬にたべられにけり」の歌はないが、「春浅み(又はあさみ)瀬戸(又はせど)の水田のさみどり(又はみどり葉)の・・・」という歌は全部で6首掲載されている。また、「枯れがれの 唐黍のほに雀ゐて ひようひょうと遠く 日(ゆう)暮の風」という歌に関しては「枯れ枯れ(又はがれ)の唐黍(又はたうきび)の秀(又は穂)に雀ゐて・・・」という歌は全部で10首掲載されている。


その4 金坂吉晃著『白秋の北海道周遊 手控』(昭和57年12月20日発行・発行所 こまくさ会)より


 @ 札幌の白秋  酒井広治                                          北原白秋先生が樺太周遊の帰途、旭川に立ち寄られたとき、私は折悪しく札幌北大眼科に入院中であった。妻から電話で、その旨通知があったので札幌でお会いすることにした。札幌に来られた先生は、自動車で病院まで来て下さったので、私は一緒にお伴して植物園へ案内した。植物園はとても先生の気に入ったらしく、奥の花壇に進んだときは、手帖を出して、一々植物の名や特徴をノートしていらした。その熱心さには今更教えられるところがあった。・・・


 A 翌二十六日の昼間は札幌郊外を見物し、月寒種羊場の雄大な眺望にすっかり魅せられた白秋は、戸塚新太郎の言によると、先生は居を北海道に移そうかなどと真剣におっしゃっていたという。


「まるで日本ではない」ーフレップト・リップより

引用者註:乗船客の京都の若い警部が“月寒の牧場は雄大で羊がいて、野幌の原始林が見え、夕日のころ、羊を追って帰る頃がまるで日本ではない”と言っていたことを白秋が記憶していたか、あるいはノートに記していたかしており、後になってフレップト・リップにもそのように書いている。白秋も約二週間後には月寒牧場を訪れていいて、自身も同様な感想を持った結果ではないかと思われる。


金坂吉晃著「白秋の北海道周遊 手控」(こまくさ会)P60より引用
札幌での短歌の作品が一首もない
「北大構内、植物園、大通公園、月寒種羊場などを廻り、初秋の唐黍、生ビールなど、夜の札幌も満喫した白秋に、札幌での作品が一首もないというのは、一体どうしてであろうか。又逆に、庄亮に札幌での作品がありながら旭川、或は深川での作品が見当たらないのはどうしたことだろう。

作品「楡のかげ」と鐘について
さっぽろ文庫 42『札幌随筆集』(昭和62年 札幌市教育委員会)の「楡の木かげ 吉植庄亮」より


○札幌大学(ママ)の楡の大木のある校庭は、見渡す限りさみどりの芝で、殆んど黒土を見ない。私は大正十四年の夏、そこを訪れたのだが、乗いれた自動車のドアを開けると、外は一めんの晴嵐で、大木の葉の打ちそよぐ音が、にはかに耳朶を打つ。


○案内の大学生の山縣君は、学生は休課の時間になると、皆この芝原に来て寝るんです。そして本当に寝こんでしまひます。そこで始業のベルは、ああして楡の枝に懸けてあるんです、と説明してくれた。<『馬の散歩』羽田書店(昭 14)>


引用者註:「大学生の山縣君」について~北海道歌人会「北海道歌壇史」(昭和四十六年)の「北大短歌会・他」の項に「秀之助は北大在住の時代もあり、指導者的存在であったが、北大生中最も熱心であった山県汎を第一次原始林編集者に充てたのはそんな関連もあると思う。」の記述があることから「山県汎」であると思われる。


「楡のかげ」の梢に吊られている鐘について

・この鐘は明治末期頃から農学部前庭(現理学部三号館付近)の楡(ハルニレ)の巨木に吊られていた。戦前、戦中にかけて、6時、9時、9時15分、12時、13時、15時、15時30分、18時と一日8回正確に鳴らされ、時報の合図として活躍していた。「エルムの鐘」は、現在北大の第二農場モデルバーンの僕牛舎に展示されている。


・『さっぽろ文庫 6 時計台』の「序章 時計台の文化史的意義 高倉信一郎」より引用


(前略)所謂白亜の殿堂として今日の北大農学部の所に移った時も、中央正面の農学プロパーの講堂の二階建の塔屋に新しく大時計がすえられて美しい鐘の音をエルムの森に木魂させた。しかし、この時計は後故障をして、ただの飾りにすぎなくなり、鐘は、馬蹄形に配置された建物の中庭のエルムの枝に吊るされ、綱を引いて鳴らされるものに変った。綱を引いて時を告げる鐘は、時計台以前にもあり、ことに校舎が移転する前の農場で使われていた。大木に吊るされた鐘はすくなくとも二つあったわけだが、ここに学ぶものにとっては、時計台の鐘の音と共に、校舎、学校生活を深く印象づけた。(後略)


・若山牧水の北海道行脚日記より(牧水は大正15年9月に北海道を訪れている)。


「大急ぎで大學の構内に入った。札幌自慢の大きな樹木が構内いっぱいに茂ってゐるのである。そのなかの一本の枝に一つの鐘が吊ってあった。そして細い綱がついてゐて、それで授業の時間を知らすのだといふ。折しも何時であるかその鐘が鳴りだした。いゝ音色の鐘である。樹木の蔭、芝生の上には黒い服を着た學生たちが蟻の様に散ってゐた。」

       
    北大校庭 エルムの鐘(昭和2年10月)


(「札幌市中央図書館 デジタルライブラリー」より引用)


引用者註:「農科大学」について~(明治9年)札幌農学校改称→(明治40年)東北帝国大学農科大学→(大正7年)北海道帝国大学(東北帝国大学農科大学が北海道帝国大学に移管)→(大正8年)北海道帝国大学農科大学を北海道帝国大学農学部と改める→ (昭和22年)北海道大学


引用者註:上述のように「農科大学」と呼ばれた時代は明治40年から大正8年までであり、白秋の訪れたのは大正14年である。当地において愛着があって旧い呼び方が残っていたことの影響かもしれない。また、フレップ・トリップの中でも次のように農科大学という言葉が出てくる。「HさんはF君と同じS市の人で、同じく札幌の農科大学出(そういえば和製タゴールさんのN老人もその第一期の卒業生だそうである。)の有名な牧畜家だと聞いている。」


「この道」の詩と白秋の実際の体験とは異なっており、それとは対照的に作品「楡のかげ」(他にもトラクタア・お日和)は見たままを率直に表現している。

楡のかげ(大正15年7月発表)


楡の木のかげ、


いい芝生、


鐘は梢に吊ってある。


農科大学、


ひるやすみ、


みんな寝ている、涼しそう。


ここは札幌。


今は夏。


風にちょうちょも光ってる。


お時間、お時間、


さあ起きた、


カララン、ランラン、鐘が鳴る。


引用者註:この詩の「鐘」が時計台の鐘であるかのように解説している文献があるので注意を要する。


白秋の樺太・北海道旅行に関連する作品と発表年月

童謡

落葉 大正14年11月(赤い鳥)

北の海 大正14年11月(赤い鳥)

イワンのお家 大正14年11月(赤い鳥)

クマノコ 大正14年11月(赤い鳥)

冬の日 大正14年12月(コドモノクニ)

アイヌの子 大正14年12月(赤い鳥)

安別 大正15年2月(赤い鳥)

敷香 大正15年2月(赤い鳥)

ロッペン鳥 大正15年2月(赤い鳥)

楡のかげ 大正15年7月(赤い鳥)

この道 大正15年8月(赤い鳥)

いたどり 大正15年8月(赤い鳥)

たうきび 大正15年9月(赤い鳥)

お日和 大正15年9月(少年倶楽部)

おひる(紅あんず)大正15年10月(少女倶楽部)

J・O・A・K 大正15年10月(コドモノクニ)

起重機 昭和2年2月(コドモノクニ)

樺太の春 昭和2年3月(赤い鳥)

トラクタア 昭和2年5月(赤い鳥)

サボウ 昭和2年5月(赤い鳥)

ベル 昭和2年5月(月の歌 婦人公論)

フォーク 昭和2年5月 (月の歌 婦人公論)

多蘭泊 昭和2年5月 (月の歌 婦人公論)


引用者註:

童謡 「落葉」→初出(「赤い鳥」末尾に付されていた「附記。場所ー北海道札幌郊外」は初版本では削除された。(「白秋全集26 童謡集2」(岩波書店)より引用。ここで”初版本”とは「月と胡桃(梓書房)のこと。)

童謡 「クマノコ」→「白秋童謡本 尋一ノ巻」の註に「ホッカイダウ ノ アイヌ ノ イヘニハ、クマ ノ コ ヲ カツテ アリマス。」とある。  

童謡 「楡のかげ」→「白秋童謡本 尋四ノ巻」の註に「札幌の農科大學の庭です。」とある。

童謡 「お日和」→「白秋童謡本 尋四ノ巻」の註に「北海道札幌郊外月寒の牧場の夏は、ちゃうどかうした風景出す。」とある。

童謡 「たうきび」→「白秋童謡本 尋四ノ巻」の註に「北海道ではよくかういふことがあります。」とある。

童謡 「起重機」→「白秋童謡本 尋四ノ巻」の註に「樺太、大泊。」とある。

童謡 「トラクタア」→「白秋童謡本 尋四ノ巻」の註に「月寒は北海道札幌郊外にあって、道廰のひろいひろい牧場があるところです。」とある。

短歌

アイヌ村風景(14首) 大正15年1月

トラピスト修道院の夏(64首) 大正15年1月

青き林檎(10首) 大正15年2月

除虫菊(19首) 大正15年2月

国境安別(45首) 大正15年4月

幌馬車(9首) 大正15年5月

旅より帰りて(4首) 大正15年10月

オホーツクの海阪(長歌1首 短歌1首) 昭和2年1月

津軽海峡(15首) 昭和2年4月

津軽海峡(6首) 昭和2年8月



童貞 大正14年11月

曇り日のオホーツク海 大正14年12月

老いしアイヌの歌 大正15年2月

トラピストの牛 大正15年5月

ある人の庭 大正15年8月

月と胡桃 大正15年11月

樺太風景 昭和2年9月

トラピストの裏庭(修道院の裏庭) 昭和2年9月

汐首岬 昭和3年6月

樺太の山中にて 昭和3年7月


民謡

多蘭泊、熊踊 昭和2年7月


文章

フレップ・トリップ 大正14年12月〜昭和2年3月

庄亮君の樺太北海道の歌 大正15年3月


著作

月と胡桃 昭和4年6月

海豹と雲 昭和4年8月