歌集「桐の花」の「黄なる」の表現について
歌集「桐の花」は大正二年一月に発行された。
「桐の花」には「黄なる」という言葉を用いている歌が16首ある。
「黄なる」の歌
●「黄なる」を先につけて黄色いさまを表しているもの:「黄なる枇杷の實」、「黄なる月の出」、「黄なる夕日に」、「黄なる小犬の」、「黄なる花粉の」、「黄なる薄雲」、「黄なる粉つく」、「黄なる日に」、「黄なる戸外(とのも)の」、「黄なるかがやき」、「黄なる硝子を」、「黄なる火となり」、「黄なる鶏頭」●前の句に「黄なる」がかかって黄色いさまを表しているもの:「カステラの黄なるやはらみ」、「鶏頭の花黄なる庭さき」
●次の句にかかっているもの「いろ薄黄なる水藥の」
「桐の花」の「黄なる」を用いた歌と注釈を『「日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集」角川書店
昭和45年4月10日初版発行』から引用する。
「桐の花」の「黄なる」を用いた歌
U夏
五
枇杷の木に黄なる枇杷の實かがやくとわれ驚きて飛びくつがえる(初出「朱欒」明45.11)
七
病める兒はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑(ばた)の黄なる月の出(初出「スバル」明42.9)
V秋
二
啄木鳥の木つつき了(お)えて去りし時黄なる夕日に音(ね)を絶ちしとき(初出「スバル」明42.5)
初夏晩春
T公園のひととき
三
草わかば黄なる小犬の飛び跳ねて走り去りけり微風(そよかぜ)の中(初出未詳)
こころもち黄なる花粉のこぼれたる薄地のセルのなで肩のひと(初出「創作」明43.6)
「補注四七三」より抜萃:「小犬」の「黄色」は、やはり『東京景物詩』の「物理学校裏」に、「暮れ悩む官能の棕梠/そのわかわかしい花穂の臭が暗みながら噎ぶ、/歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい興奮の黄。」などとうたわれ、「黄色い春」では、「黄色、黄色、意気で、高尚で、しとやかな/棕梠の花いろ、卵いろ、たんぽぽのいろ、/または仔猫の眼の黄いろ・・・・/みんな寂しい手ざわりの、岸の柳の芽の黄いろ、/夕日黄いろく、粉が黄いろくふる中に、」というように、地上のすべてを染めている色であって、花粉に象徴されるこの粉っぽい黄色は、カステラの黄色にも通い、新芽どきの性感を暗示している。
V庭園の食卓
三
酒注げば黄なる薄雲桐の木の個の間に見えて夏は来にけり(初出未詳)
八
カステラの黄なるやはらみ新しき味ひもよし春の暮れゆく(初出「創作」明43.5)
W春の名残
一
一九一0暮春三崎の海邊にて
寝てよめば黄なる粉つく小さき字のロチイなつかしたんぽぽの花(初出「朱欒」明45.1)
二
洋妾(らしゃめん)の長き湯浴(ゆあみ)をかいま見る黄なる戸外(とのも)の燕(つばくら)のむれ(初出「創作」明43.6)
※黄なる戸外(とのも);夕映えの戸外
雨のあとさき
T雨のあとさき
二
入り日うくるだらだら坂のなかほどの釣鐘草の黄なるかがやき(初出「創作」明43.3)
U晝の鈴蟲
立秋
退院の前の日
長廊下いろ薄黄なる水藥の瓶ひとつ持ち秋は來にけり(初出「文章世界」明44.10)
秋思五章
U秋思
二
食堂の黄なる硝子をさしのぞく山羊の眼のごと秋はなつかし(初出「朱欒」明45.1)
※黄なる硝子を;秋のはかなげな光の射しそうガラス
VC元
二
ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき(初出「創作」明43.12)
X街の晩秋
一
黄なる日に錆(さ)びし姿見鏡(すがたみ)てりかへし人あらなくに百舌啼きしきる(初出「朱欒」明45.10)
※錆(さ)びし姿見鏡(すがたみ);鈍ばんだ鏡台。その面に射す秋の夕日が黄ばんだ光を照り返している。
二
秋の葉
いつのまに黄なる火となりちりにけむ青さいかちの小さき葉のゆめ(初出「創作」(明43.12)
※黄なる火となり;黄ばんだ薄い葉が日に映えているさまの比喩。
哀愁篇
V續哀愁篇
五
またぞろふさぎの蟲奴がつのるなり黄なる鶏頭赤き鶏頭(初出「朱欒」明45.9)
※狂気のような「黄なる鶏頭」、憤炎のような「赤き鶏頭」から受ける憂鬱な圧迫感を、心に巣食う「ふさぎの虫」にたとえた歌。
詩集「思ひ出」の中の
詩「たんぽぽ」の「黄なる」について
詩「たんぽぽ」は全部で七連で構成され、各連は四行からなっていて、各行はいずれも七音、五音からなっている。すなわち七音と五音からなる行が二十八行でできている。
『「日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集」角川書店 昭和45年4月10日初版発行』から引用する。
たんぽぽ
わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、時に年十九、名は中島鎭夫。
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………
あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも沁み入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふ)れてゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………
あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺(つりだい)の
かげも、靈(たまし)もたんぽぽに。
あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。
あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
蟲の鳴く音(ね)も消え入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………
「おもひで 抒情小曲集」東雲堂書店 1911(明治44)年6月5日発行より
引用者註:詩「たんぽぽ」の初出は「創作(明治44年4月1日)2巻4号」である。上述の東雲堂書店版と異なる箇所は、詞書の「踏みゆきぬ、」の初出は「踏みゆきぬ。」、「時に年十九」の初出は「年十九」、また、第二連の「沁み入らむ」の初出は「沁みぬらむ」、第五連の「半ばくづれし」の初出は「半ば崩れし」、第六連の「消え入らむ」の初出は「消えてゆく」である。
『明治44年4月1日「創作」2巻4号』(以下「初出」という)と『「明治44年6月5日 東雲堂発行の初版本」との比較
(1)いずれも「明治44年6月5日 東雲堂発行の初版本」を底本にしている『詩集「思ひ出 復刻版」(財団法人 日本近代文学館 昭和45年6月10日発行 第2刷)』の詩「たんぽぽ」と『「日本近代文学大系 第28巻北原白秋集」(角川書店 昭和45年4月10日初版発行)』の『詩集「思ひ出」』の詩「たんぽぽ」を比較検討した結果、漢字、ルビ、句読点を含めて全文が完全に一致していることを確認した。
(2)上記の二冊の詩集「思ひ出(初版本)」の詩「たんぽぽ」と『白秋全集2 詩集2』P222の詩集「思ひ出」『「明治44年6月5日 東雲堂発行の初版本」を底本にしている』の詩「たんぽぽ」を比較検討した。後者が常用漢字に変換した部分を除いてルビ、句読点を含めて完全に一致していることを確認した。
(3)『白秋全集2 詩集2』(P426)の詩「たんぽぽ」『明治44年4月1日「創作」2巻4号』(以下「初出」という)と『白秋全集2 詩集2』P222の詩集「思ひ出」『「明治44年6月5日 東雲堂発行の初版本」を底本にしている)』の詩「たんぽぽ」(以下「初版」という)を比較検討した。異同は以下のとおりである。
―内容に関わるもの―
(初出) (初版) (備考)
@「踏みゆきぬ。」 「踏みゆきぬ、」 詞書
A「友、十九、」 「友、時に年十九、」 詞書
B「泌みぬらむ」 「泌み入らむ」 第2連
C「半ば崩(くず)れし、」 「半ばくづれし、」 第5連
D「消えてゆく・・」 「消え入らむ・・」 第6連
―ルビに関わるもの―
(初出) (初版) (備考)
@「入日(いりひ)」 「入日」 第1連
A「染(そ)めてゆく」 「染めてゆく」 第2連
B「触れてゆく」 「触(ふ)れてゆく」 第3連
C「円(まる)い穂の毛」 「円い穂の毛」 第3連
D「けふの入日」 「けふの入日(いりひ)」 第4連
E「野辺(のべ)を」 「野辺を」 第5連
F「顫へ」 「顫(ふる)へ」 第5連
G「音も」 「音(ね)も」 第6連
漢字については、両者とも常用漢字に変換されている。
詩「たんぽぽ」の”たんぽぽ”の色は?
「黄なる蕾」
「黄なる蕾を」という言葉が第二連に出てくる。第二連の二行目の七音を構成している。
「黄なる蕾」は文字通り「たんぽぽの黄色い蕾」という意味で使われている。
第三連の「晝のつかれに觸(ふ)れてゆく、」の「晝のつかれに」について、引用文献の注解では「晝の光につかれたように萎えた花びら」とあるが、咲いていたたんぽぽは夕方になると閉じてしまう(下記の「たんぽぽの話」に詳述)。
たんぽぽの色については詩「たんぽぽ」の「黄の蕾」以外にない
詩集「思ひ出」の序文では
『さうして私の少年期の了るころ、常に兄弟のやうに親しんだ友人の一人は自刄して遂に その才氣煥
發だつた短い一生の最後を自分の赤い血潮で華やかに彩どつて、たんぽぽのさく野中のひとすぢ道を
彼の 墓場へ靜かに送られて行つたのである。』
と書いている。
詩『たんぽぽ』(明治44年4月初出)の詞書には
『わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの 一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、時に年十九、名は中島鎭夫。』と書いている。
『上京当時の回想』(大正3年9月1日「文章世界」9巻10号)「白秋全集35(岩波書店)」では『早速その死骸を担架に載せて、たんぽぽの咲く野中の一本道を帰って来た。おいおい子供のやうに私は泣いた。』と書いている。
上述した文章の中でたんぽぽの色については詩「たんぽぽ」の「黄の蕾」以外に表現していないことに注目すべきである。なお、夕刻の表現があるのは詩『たんぽぽ』だけである。
『「日本近代文学大系 第28巻北原白秋集」角川書店昭和45年4月10日初版発行』の350ページの詩「たんぽぽ」の注解に「夕日の中に光っていた白いたんぽぽの穂に寄せて悵んだ詩」とあるが、この文の「白い」は「たんぽぽ」ではなく「穂」を修飾しているものである。「郷里柳河に帰りてうたへる歌」においても「たんぽぽの白き」は「たんぽぽの白い穂」と説明している。→「郷里柳河に帰りてうたへる歌」のページを参照)
詩集「思ひ出」の序文にはもう一か所たんぽぽが出て来る。
「日本近代文学大系 第28巻 北原白秋集」角川書店 昭和45年4月10日初版発行』から引用「3 (前略)南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲生英の生えた舊い土藏づくりの朽ちかゝった屋根の下に、澁い店格子を透いて、銘酒を滿たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。(後略)」
引用者註:引用文献は、『「おもひで 抒情小曲集]明治四十四年六月五日、東雲堂書店刊』を出典としている。「蒲公英」が「蒲生英」になっているのはそのためである。
ちなみに「桐の花」には「たんぽぽと夕日」に関わる歌に
ふはふはとたんぽぽの飛びあかあかと夕日の光り人の歩めリ(初出不明43.5)というのがある。
引用者註:たんぽぽの色について~たんぽぽは黄色いのが当たり前だと思っている人は、その色についてあえて問題にしない(または無関心な)場合、わざわざ「黄色いたんぽぽ」と言わないであろう、同様に白いたんぽぽ(シロバナタンポポ)が当たり前の人もわざわざ「白いたんぽぽ」と言わないということも考えられるので特段の注意が必要と思われる。
引用者註:森乃おと「たんぽぽの秘密」雷鳥社によれば、『西日本ではタンポポの色を尋ねられると、「白」と答える人が多い。』
詩「たんぽぽ」の背景
明治三十七年二月十三日のこと
引用文献では「彼は中学の同窓で、ともに回覧雑誌を出した文学仲間であったが、露探の嫌疑を受けたことに対して死を以て抗議をしたのであった。明治三十七年三月のことである。」とあるが、三月というのは誤りである。
白秋の「状況当時の回想」には「その晩は日露開戦劈頭の仁川大勝といふ号外に世間では火のやうに熱狂してゐた。」と述べている。明治三十七年二月十日に桂内閣がロシアに対して宣戦布告をした三日後のことである。
久保節夫「北原白秋研究ノート T 補訂版」(啓隆社)によれば明治三十七年二月十三日早朝、鎭夫は自殺した。」とある。そして白秋は「鎭夫の遺稿ノートを譲り受け、遺作品の中から詩六篇を『文庫』第二十五巻第五号(明治37年3月15日発行)に、写生文一篇を『文庫』第二十五巻第六号(明治37年4月3日発行)に送稿」しているが、実際にその通りに掲載されている。『文庫』は月に二回発行しているので二月に投稿すれば三月号には掲載さる。白秋の作品は三月号には何も掲載されておらず、鎮魂の思いを込めて書き上げた長詩「「林下の黙想」を上記の鎭夫の遺作品の写生文一篇と共に投稿した。
たんぽぽは咲いていたのか?
引用文献によれば「時は三月のことであり、たとえ早咲きのたんぽぽが咲いていたにしても、踏みしめて歩くほど咲き乱れ、穂が舞っていたとは思われない。おそらくその悲哀が追憶のうちに美化されてゆき、おのずとこうしたイメージに結びついていったのであろう。」と注釈している。
引用者註:「三月」というのは「二月十三日」の誤りである。すなわち二月であることからなおさらそのことが言える。
森崎和江著「トンカ・ジョンの旅立ち 北原白秋の少年時代」(発行 日本放送出版協会)」より引用。
ものいわぬ鎮夫を担架にのせて、潟海へ沈む夕日を背にしながら、隆吉はつきそって帰路につきました。おさえかねる泣き声が子どものように高まって、残念で、無念でなりません。十七歳九か月。鎮夫が描いた夢が、ありありと担架とともにゆれます。ちいさな、けれども雄々しくひろがっていた夢。しっかりむすびあっていた二人の夢の片はしがちぎれてしまいました。冬の日がうすれていく野づらを隆吉のむせび泣きがたどって行きますが、慎夫に寄りそっているいねも、母方の伯父も、魂も消えたかのように放心して、寒風に髪を吹き散らされながら歩いていました。
鎮夫の伯父・橋本安次郎は藩士出身の人格者として人望のある小学校長です。隆吉も小学校時代に教えをうけていました。担架が跳ね橋のたもとまで来たとき、安次郎は隆吉と肩をならべて、担架に先立ってわたって行きました。
もう西日はおちてしまい、沖ノ端村を通って弥四郎まで連れもどったときは二月の宵は暗く、俊敏な鎮夫が草稿を片手に隆吉宅へ走ってくる時刻になっていました。
引用者註:鎮夫(中島鎮夫)は明治十九年五月九日生まれ。「いね」は鎭夫の母。
「たんぽぽ」の話
ー「黄なる蕾」に関連してー
『「ぜんぶわかる!たんぽぽ」岩間史朗著 ポプラ社』などを参照した。
たんぽぽは花びらのように見えるものが一つの花である。花びらが舌のように見えるので舌状花という。たんぽぽは舌状花の集合である。
たんぽぽの蕾は緑色の総包で包まれているので、完全に蕾の状態では花が何色かはわからない(写真1、2など参照)。したがって詩の中で表現された「黄なる蕾」というのは咲き始めようとして黄色い花が総包から顔をのぞかせている状態のはずである(写真3参照)。
夕方のたんぽぽ
たんぽぽの花は朝開き始め、夕方暗くなる前に閉じ始め(写真1、2)、翌日の朝再び開く。これをくり返しながら外側から咲き始め、およそ三日ほどで内側まで咲き終わる。
詩「たんぽぽ」の背景は夕方である。したがって昼間咲いていたたんぽぽも蕾から咲き始めようとしていたたんぽぽも花を閉じ始めたかあるいはすでに閉じている状態であり、また、すでに咲き終わっているたんぽぽも色はやや黒ずんでいるが閉じた状態である。夕方のたんぽぽはこれらが混然とした状態である(写真2、4、5、6参照)。
綿毛(冠毛)のこと
詩「たんぽぽ」の詞書に「たんぽぽの穂の毛を踏みゆきぬ」や詩の第三連に「圓い穂の毛」として出てくる、いわゆる綿毛(冠毛)の色はどの種類のたんぽぽも白である。花が咲き終わった後、茎は一旦傾くがその後茎を大きく伸ばしながら総包につつまれた綿毛(冠毛)は枯れた花を地面に落とし、そして綿毛(冠毛)の柄を成長させやがて開き始めが、開き始める前の綿毛(冠毛)は白い蕾のようにも見える(写真4参照)。開き始めた冠毛は約一日程度で丸い形を作る。花のように夜になっても閉じることはない(写真6参照)。
写真1:昼
@花が開いている
A咲き終わった花が蕾状になっている。
B緑色の固い蕾がある。
写真2:(写真1の)夕方
花が閉じ始めている。
写真3:開き始めた蕾
写真4:日が沈む前でも日陰になると
花を閉じてしまう。
綿毛(冠毛)の蕾が見える。
写真5:夕方、閉じた花と咲き終えた花と開きかけの蕾とが見分けにくい。
写真6:夕日が陰って花は閉じても冠毛はそのままである。
引用者註:写真はいずれもセイヨウタンポポ
岩間史朗著・芝池博幸監修「ぜんぶわかる! タンポポ」(ポプラ社)より
「タンポポの花は早おき。はれた日には、明るくなる朝7時前からひらきはじめます。」として6時56分、7時18分、7時31分、9時8分、14時41分、15時25分、16時28分、17時49分、18時12分に撮影したタンポポの花の写真がある。6時56分ではまだとじているが、7時18分にはかなりひらき、9時8分では完全にひらいている。そして15時25分にはとじはじめており(”くらくなるまえに、花はとじはじめた”の説明あり)、16時28分にはほぼとじている(”とじた花の先はばらばらしている”の説明あり)。
わたぼうしの6時10分(”実がじゅくすとわたぼうしがひらきはじめる”の説明あり)、7時9分、7時48分(”ひとつひとつのわた毛がひらいていく”の説明あり)、8時34分、12時16分、14時25分(”わた毛がひらき、わたぼうしが丸くなる”の説明あり)、16時10分(”わたぼうしは1日で丸くなり、花のようにとじることはない”の説明あり。同じシャンの花はとじている)、17時00分の写真がある。
外来タンポポは、花粉を使わずにたねをつくる、花は一年中咲く、たねの数が多い、風にのって遠くへ飛ぶことができる、成長が早いなどの特徴があり全国に広がっている。また、外来タンポポ(セイヨウタンポポ、アカミタンポポ)と見なしていたものの大半が雑種タンポポ(外来タンポポの特徴をもつ)だということがわかってきた。
日本のたんぽぽ
日本にある在来たんぽぽは18種類である。白秋が上京後に東京や神奈川の三崎で見た黄色いたんぽぽは「カントウタンポポ」と思われるがこれも在来種。白秋が柳河時代に体験したという白いたんぽぽは「シロバナタンポポ」という在来種である。明治の初めの頃に札幌農学校に持ち込まれた外来種である「セイヨウタンポポ」がどのように広がって行ったのか、現在日本には在来種と外来種と雑種とが存在している(雑種は外来種に含めるという考えのようである)。
なお、「シロバナタンポポ」が咲いた写真をみると中央部がやや黄色ぽく見えるのは内側の花のおしべやめしべ(色は黄色)が密集しているためと思われる。
「おもひで 抒情小曲集」の中の「黄なる」の言葉のある詩。
鶏頭
秋の日は赤く照らせり。
誰が墓ぞ。風の光に
鶏頭の黄なるがあまた
咲ける見てけふも野に立つ。
母ありき、髪のほつれに
日も照りき。み手にひかれて
かかる日に、かかる野末を、
泣き濡れて歩みたりけむ。
さきの世か、うつし世にてか、
かかる人ありしを見ずや、
われひとり涙ながれぬ。
詩集「海豹と雲」(昭和4年)の中の「黄なる」の言葉のある詩。
やや黄なる風景
白き猫枝にかがやき、
ゆりの木の病葉(わくらば)黄なり。
梢にはいささかの風、
光線はいつか秋なり。
飛べよ、子よ、大き窓より、
硝子戸はとく押しあげぬ。
午(ひる)はいま、すべて美し、
軽気球向うにあがる。
しかも、黄のドレスは歩む。
電柱は彎(ゆが)み続けり。
菜園の斜面よ、阪よ、
風景は近く動けり。
歌集「白南風」(アルス 1934(昭和9)年4月20日発行)の中の「黄なる」の言葉のある歌。
やや黄なる風景
梧桐(あをぎり)のふふめる花の穗に立てば二階も暑しは開(あ)け置く
日は午(ご)なり靄たちこむる向う空にカキ色の氣球熱しきりたる
午(ひる)の坂黄なるドレスののぼりゐて電柱の影が彎(ゆが)みたり見ゆ
百合木と猫
うちそよぎ風吹きかよふゆりの葉に朝は朝日の透きてすずしさ
廣き葉の半(なかば)は黄なる本(もと)つ枝(え)に早や風涼しうちかがむ猫
引用者註:今野真二著「北原白秋 言葉の魔術師」(岩波新書)では詩集「海豹と雲」と歌集「白南風」の中に「やや黄なる風景」という同じ題の作品に関して、その重なり合いについて論じている。ちなみに歌集「白南風」には、「黄なる」の言葉の入った以下のような歌もある。
書齋と月
疊(たたな)はる木群(こむら)のうしろ明るめり月の光の立ちそめにけり
硝子戸にのぼりて黄なる圓き月瑜伽師地論を讀みつぐ我は
「黄色いたんぽぽ」と「白いたんぽぽ」と「赤いたんぽぽ?」
●松永伍一「北原白秋 その青春と風土」(日本放送協会)より
引用者註:黄色いたんぽぽを背景に詩「たんぽぽ」が紹介されている。
●「白秋の風景」 文 久保節夫・写真 熊谷龍雄(西日本新聞社)より
「たんぽぽ」は第二詩集『思ひ出』の中に、ひっそりと置かれています。原達郎氏の観察によれば、白いタンポポ(日本在来種)は、現在でも柳川地区あたりだけ残って、全国的には黄色いタンポポ(外来種)が白を駆逐占領してきたということです。
赤い悲しみに彩られた盟友の遺骸の後を、白いタンポポの咲く野道を踏みつつ、白秋は悲しみと憤りにわが故郷の空を睨んでいったのでした。
●今野真二著「北原白秋 言葉の魔術師」(岩波新書)より
P120〜P123にかけて「黄色いたんぽぽ、赤いたんぽぽ」という小見出しで、たんぽぽに関連する短歌、詩についての記述がある。
―「桐の花」の中の「白猫」の扉ページに貼られた小紙片にタンポポが描かれていて、そのタンポポの花が黄色く塗られているのは、同じ「桐の花」の「初夏晩春」の「W春の名残 一」にある「寝てよめば黄なる粉つく小さき字のロチィなつかしたんぽぽの花」のイメージのタンポポの花ではないかと思う。―というような趣旨の記述の後に「しかし白秋には別のタンポポの花のイメージがある」として詩「たんぽぽ」について『詩の各連は、第四連が「あかき血しほはたんぽぽに」と始まる以外はすべて「あかき血しほはたんぽぽの」から始まり、「たんぽぽ」と「血」「赤」あるいは「夕日」とが結びつけられている。黄色いタンポポと、赤いタンポポ、ここにもイメージの「変奏」がある。』との記述がある。
引用者註:夕日の色彩効果を黄いろではなく、赤ととらえている。なお、123ページの詩「たんぽぽ」の詞書が初出の『「創作 第二巻第四号」(明治四十四<一九一一>年四月)』からの引用のように書かれているが、詩集「思ひ出」(明治44年6月5日 東雲堂発行)初版本の引用の誤りであり、かつ、「中島鎭夫」が「中嶋鎭夫」に変えられている。
「白秋全集 17 詩文評論3」(岩波書店)より
童謡について
大人の作る童謡については、誰しもが童心を以て、または強ひても子供に還つて歌ふべきものと思つてゐるやうである。その為に却つてわざとらしい稚態と稚語とを演じ過ぎてゐるのが、現今の童謡作家の通弊ではあるまいか。
わたくしはこの頃つくづく思つてゐる。わたくし自身が童謡を作るについても、別に今更児童の心に立ち還る必要も無いのだと、詩を作り歌を成すと同じ心で、同じ態度であつてよいのだと。(途中省略)
たとへば、わたくしはわたくし自身の短歌としてかう歌つた。
朝花の黄のたんぽぽはいとけなし波揺り来ればざぶり濡れつつ
舟寄すと子ら取つ組みぬ水ぎはにとてもあざやけき黄の花たんぽぽ
また、わたくしは、このままの内容で、殊更に児童に立ち還つて歌はうといふ何らの成心も必要とせず、ただ、形式に言葉だけを換へて、左の如き童謡を作つた。
たんぽぽ
沼の田べりのたんぽぽは、
たんぽぽは、
咲けば、ざぶりと
波が来る。
たんぽぽ、たんぽぽ、
波が来る。
沼の田べりのたんぽぽよ、
たんぽぽよ、
咲けば、子どもが、
舟で来る。
たんぽぽ、たんぽぽ、
舟で来る。
(後略)
中島と中嶋について
その1
(1)『白秋全集1 詩集1』(岩波書店)より
『白秋全集1 詩集1』の初出(雑誌・新聞)のP389には、明治37年4月3日「文庫」25巻6号「韻文」欄に掲載された「林下の黙想 北原薄愁」の最後に
―亡友中島鎮絵君の墓前に献ず―
という一文がある。
ところが『白秋全集1 詩集1』のP652の「後記」には『白秋全集38 小篇4』P237 〜238の「文庫時代 主編」の文章が引用されていて、その中には『中嶋鎮夫(鎮絵と号す)』と書いてある。
「文庫時代 主編」は、『「白秋全集」第四巻 昭和六年一月十七日刊』の「後記」である。『白秋全集1 詩集1』には二通りの人名が登場する。
(2)『白秋全集38 小篇4』(岩波書店)による確認
『白秋全集38 小篇4』のP233〜P239には”〔『白秋全集』第四巻〕 後記”があり、P237 〜238の「文庫時代 主編」には『「林下の黙想』は親友中嶋鎮夫(鎮絵と号す)の自殺に刺激されて書いた初めての長篇詩であった。さうしてその墓前に献げたものである。尤も此の中の老師と少年とは中嶋には関係ない』と書いてある。
(3)『白秋全集35 小篇1』P19に「上京時の回想 附―処女作のことども(大正3年9月1日「文章世界」9巻10号)」の中に「中島鎮夫(白雨後に鎮絵)と云った、極めて才気の勝った神童肌の少年であった。・・・十八の春、その中島が自殺したのである。・・・この時に初めて三百行の詩を書いた、むろん亡友にデヂケートしたものである。それが翌月の文庫に非常の優遇を以て掲載された。私は夢中に彼の墓の前にかけて行つて読んでは泣いた。「林下の黙想」というのがそれである。(談)」という文章がある。『白秋全集35 小篇1』の後記(P484)には「のち、アルス刊行の『白秋全集』の「月報」15号(昭和六年一月)に「文庫に初めて歌を投書したのが・・・」以下の部分が採録された。」とあるが、ちなみに上で紹介した文章はこの範囲内にある。
引用者註:「上京時の回想 附―処女作のことども(大正3年9月1日「文章世界」9巻10号)」は”随想”などではなく「談」であることに注意。
(4)久保節夫「北原白秋研究ノート 補訂版」(啓隆社)より
『文庫』 第二十五巻第六号(明治37年4月3日発行)の『林下の黙想 北原薄愁』が紹介されており、その末尾には次のように書かれている。
―亡友 中島鎭繪君の墓前に献ず―
また、”大正6年2月号『新潮』の「北原白秋年譜」より”として以下の文章が紹介されている。
『親友中嶋鎮夫露探の嫌疑を受け、遼陽戦捷祝賀提燈行列の前夜自刃して死す。ために悲嘆哀愁の極學業を廢し、長編詩「林下の黙想」を作る。』
(5)以上見てきたように、中学時代に書いた『林下の黙想』には中島と書かれており、大正3年9月1日のものは中島、昭和六年一月十七日のものは中嶋、同じ大正6年2月号のものは中島と書かれている。なお、鎭夫、鎭繪は鎮夫、鎮絵の旧字である。
その2
以下は久保節夫「北原白秋研究ノート T 改訂版」(啓隆社)による。
(1)中島鎮夫は明治十九年五月九日、福岡県山門郡西宮永村大字弥四郎一一四番地、士族中島庄太郎の長男として生まれた、と紹介されており(P112)、同書は一貫して「中島鎮夫」、すなわち「中島」として記述している。
たとえば中学伝習館時代の文学グループのペンネーム白雨(中島鎮夫)(P34)、福岡日日新聞を仲介にかかわりをもった人物中島白雨(P46)、「文庫」への投稿者一覧 中島白雨(P49)、中島白雨作品の白秋による送稿(P51)のように。
(2)P64より
@回覧同人誌「常盤木」の第三(発行日不明)は、白仁勝衛・川口重次・大石暢男・田中一麿・北原隆吉・ 中島鎮夫といずれも本名であったと紹介されている。
A回覧同人誌「常盤木」の第五(明治三十六年十二月十五日発行)の奥付には、大石秋華・川口白菫・北原白秋・中嶋白雨・白仁秋津の名前(ペンネーム)と住所が明記されている。なお田中紫江は欠けている。この二冊は半紙に毛筆をもって秋津の手で書記されているということである。
(3)P65より
おそらく上記の回覧同人誌「常盤木」の第五の「中嶋白雨」の影響と思われるが、筆者自身の文章の中で「・・中嶋鎮夫は伝習館の一年下・・」と「中嶋鎮夫」と書いている。
(4)中島の残したノートの中から白秋が「文庫」の25巻第5号(明治37年3月15日発行)に総題「八重山櫻」の詩六篇を、また、25巻第6号(明治37年4月3日発行)に写生文「櫻月夜」一篇を送稿している。
ところが驚くべきことに「文庫」の25巻第5号には「中嶋鎭繪」、25巻第6号には「中島鎭繪」と記されている。なお、「常盤木」でのペンネームは「白雨」、批評言の方には「鎭繪」を、「文庫」での短歌作品は全部「白雨」、詩作品、散文では「鎭繪」を使っているとのことである。
(5)田中紫江については「文庫」には「紫江」と称する別の人物がいるためか「紫紅」と「紫江」を混用していることを指摘しているが、「中島」と「中嶋」は人物が特定できるからなのか特に話題にしていない。
その他(薮田義雄「評伝 北原白秋」(玉川大学出版部)より)
【(前略)白秋は郷里に居た頃から文藝に熱意を抱いてゐた事實は彼の自記からもあるやうだが、友人の間でも互ひに勵ましあってゐたらしく、中島鎭繪といふ若い人(『文庫』に詩及び文章あり)から詩的情熱を感受したことをよく話してゐた。その人は夭折(或は自殺?)したとも聞いた。(後略)(河井醉茗「白秋の出發」)】