北海道の北原白秋

北原白秋の北海道旅行
北原白秋の北海道旅行の詳細な旅程はあまり知られていない。以下に参考資料とともに紹介する。
大正14年
8月 7日  午後 横浜港出発(資料1参照)

         鈴木三重吉、北原鉄雄、村野次郎等見送る。
8月10日  午前8時 小樽入港 (資料2参照)
         矢野倶楽部にて歓迎歌会(午後8時半過ぎより午後10時散会)
         新中島にて歓迎宴(翌11日の午前3時まで)
8月11日  午後5時 小樽出港

    ―樺太観光ー(このページの後半に掲げる「北原白秋の樺太観光」を参照して下さい)

8月21日  午後 稚内入港
       観光団解散、約300名のうち約100名が列車で旭川方面に同行し
        た。
        夕刻 臨時列車で稚内出発
8月22日 朝 近文到着(資料3、資料4参照)
        近文コタンを探訪。「白秋全集22 詩文評論8(岩波書店)」
        の「あはれ熊祭 」によれば案内役は“O君”という人物である。
8月22日 午すぎ 旭川(資料5参照)
         酒井邸到着:旭川新聞の小林昂が迎える。町を案内。
        (酒井広治は目を患い札幌に入院中のため小林昂に後事を託し
        た。)
        大正十四年十月号「コドモノクニ」の原稿送る
          夜  旗亭梅林にて齋藤瀏、鬼川俊藏、小林昂により歓迎会開催。
         深更二時 酒井邸投宿
8月23日  お昼すぎ 深川(資料6、資料7、資料8参照)
          鬼川俊藏の案内で到着。25日まで   深川に滞在。
         近文・深川・音江村に関連する白秋の作品(資料9参照)
8月25日 札幌到着(資料2、資料10参照。さらに”童謡「この道」詩の言葉”のページの”白秋・庄亮

        の札幌滞在の一端”も参照して下さい。)

        北大病院に入院中の酒井広治の見舞い。

        昼 北大構内(”童謡「この道」詩の言葉”のページの”作品「楡のかげ」と鐘について”を参照

        して下さい。)

        芥子沢新之介らとの植物園散策。

        南香園で札幌短歌会開催、大通り公園へ。

        山形屋に宿泊。

8月26日  詩と童謡の会を三吉神社で開く。
8月27日  定山渓へ向かう。
9月 1日  夜行で函館へ
9月  2日  函館からトラピスト修道院へ(資料11参照)
        トラピスト修道院の客館に宿泊
9月  3日  函館へ
(帰途)  松島 瑞巌寺宿泊(資料12参照)
9月  7日  帰宅(資料13参照)

引用者註:宮本一弘 「北原白秋<物語評伝>」(1986年10月30日)桜楓社 P117「白秋らの旅は八月二十日まで南樺太沿岸を巡り、帰途の二十五日から北海道を探歩した。」とあるが、正しくは上記の通り。
引用者註:三吉神社(みよしじんじゃ)は北海道札幌市中央区南1条西8丁目にある神社である。
引用者註:山形屋は明治十九年(一八八六)八月南三西四に客室六間で開業し、翌年大通西四に移り、二十三年北二西四に客室二一をもって新築、その建物は元鰊番屋を基にしたもの、三層の望楼に日下部鳴鶴の筆になる更上一層楼の金文字が光っていた。(さっぽろ文庫 7 札幌事始より引用)

8月 7日  午後 横浜港出発
資料1 「フレップ・トリップ」 初出:『「女性」プラトン社・1925(大正14)年12月号〜1927(昭和2)年3月号』

(前略)
今度という今度、廉物(やすもの)ではあるが私は腕時計というものを初めて購(あがな)った。それからこまごまとととのえたものには洋杖ステッキ蝙蝠傘(こうもりがさ)、藤いろ革の紙幣入(かみいれ)、銀鎖製の蟇口(がまぐち)、毛糸の腹巻、魔法罎、白の運動帽、二、三のネクタイ、艾(もぐさ)いろの柔かなズボン吊、鼠いろのバンド、独逸(ドイツ)製のケースにはいった五、六種の薬剤、爽かな麦稈帽(むぎわらぼう)、ソフトカラアにハンカチーフに絹の靴下。白麻のシャツに青玉サファイアまがいのカフス釦までつけ換えて、これはどうだいとうれしがった。私は山荘の住人で、平生(へいぜい)竹や草や昆虫ばかりの中に立ち交っているので、身のまわりなぞは清潔にはしているが、少くとも野趣そのままにちがいなかった。それがアルパカの黒背広に黒の小さな鞄(かばん)を肩から引き掛けて、「さようなら、行ってまいります。」だから、それは瀟洒な、(色が黒くて肥ってはいるが)さぞ好紳士に見えたことだろう。
ましてや、誰よりも私のこの長旅行を喜んでくだすったのは私の両親であった。その前夜には、二人の弟もその妻たちも妹もそろって大森の両親のもとに集あつまった。そうして一同が私のために盛んに杯(さかずき)をあげてくれた。友人としては私のいわゆる隣国の王と称する(それは童話国の王だからだ。)「赤い鳥」の鈴木すずきの三重吉(みえきち)が、それこそ上機嫌でぴちぴちして、「ええのう、ええのう。」で意気が昂(あが)ったすえには、それはまことに枯淡閑寂な鰌(どじょう)すくいを踊りぬいて、赤い農民美術の木の盆と共に危くひっくり返りそうになったほどだ。
それから私は両親の寝床の間にもぐりこんで、長い白髯(はくぜん)を引っ張るやら、皺(しわ)くちゃの乳房にかじりつくやら、ひとしきり困らしていたようだが、いつの間にかぐっすりと眠りこけてしまったらしいのだ。
 当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。・・・・
     巻末
大正十四年八月、私は鉄道省の主催に成る樺太観光団に加わって、二週間に亘る汽船高麗丸(こままる)の航海を楽しんだ。横浜から小樽、国境安別(あんべつ)、真岡(まおか)、本斗(ほんと)、豊原(とよはら)、大泊(おおどまり)、敷香(しくか)と巡遊して、最後にその旅行の主要目的地であった海豹島(かいひょうとう)の壮観に驚き、更にオホーツク海を南下して北海道の稚内(わっかない)で一同と別れた。そうしてまた旭川でアイヌの熊祭を観、札幌に淹留(えんりゅう)し、函館より海を越えて当別(とうべつ)のトラピスト修道院を訪ねた。

8月10日  午前8時 小樽入港
資料2 その1『「新樹 十月号 第五号」大正十四年十月十五日発行』(註:一部新漢字に変換している場合がある。)
北原白秋氏 吉植庄亮氏 歓迎會記  戸塚生
 吉植先生から、鉄道省樺太周遊船高麗丸に乗じて、八月十日小樽へ入港するからとの知らせが、私の手元に届いたのが七月の末であった。小樽及札幌で歌会を開催すべく、札幌は山縣君を通じて札幌短歌会 に交渉し、八月に山縣君が帰省して居ない時は代田茂樹さんにお骨折を願ふ事にして準備をすゝすめた。八月三日に北原白秋先生も同道するといふ知らせを得て活気づく。十日雨を侵して桟橋へ集る。山下、朝比奈、往田の三君に私。往田君の好意で借りた郵船ランチで出迎へる。遊覧客で一杯の高麗丸の甲板 をぐるぐる捜し回って、椅子に休んでゐるそれらしい人に近付き、辞を掛けると、やはり両先生であった。
 「やあ」「やあ」と初対面の挨拶がすむ。北原先生は色の黒い肥った大きな子供だ。吉植先生は代参詣りの村の衆と言った気安さ。すぐランチで上陸、キト旅館へご案内する。その日は歌集桐の花改版原稿整理の為両先生とも宿へ引籠られる。夕方。吉植先生はしきりにトマトが甘いと言はれる。うっかり話し込んで、時間の立つのを忘れてゐると、会場矢野倶楽部へ行ってゐる片岡、酒匂君から催促の電話が来る。両先生ともすっかり北海道気分で落ち付く。八時半支度が出来て会場へ急ぐ参会者四十余名。札幌方面からも来た。遠く深川から鬼川さんがやって来た。山下氏の歓迎の辞。北原先生の奇抜な挨拶が皆を喜ばせる。それから持寄一首に付いて批評をして頂く。
北原先生は朱筆を握り、吉植先生は席上から親切な批評をされる。時間の無くなった為、質問に答へて頂く事と講話を願へなかったのは残念であった。十時散会。続いて歓迎宴を新中島で催す。北原先生の珍芸線香花火を皮切りに、いろいろの踊りが出る、吉植さんは講談に声色。皆で手をつないで、麥搗き踊りを教はるといふ賑やかさ。
宿へ引き上げたのが朝の三時であった。翌日午後五時小樽を出帆、樺太へ向った。樺太を廻った両先生は稚内から陸路、旭川、深川を経て、八月二十五日に札幌着、山形屋へ宿る。札幌短歌会は同日南香園で開催した。集る者七十名といふ盛会さである。この日吉植先生は風邪の為元気なく沈黙されていたのゐたのは淋しかった。翌日は詩と童謡の会を三吉神社で開く。北原先生の詩と童謡の本質及型式、之が指導等について多くの引例による組織だった永い講話があった。質問も沢山出て頗る有益な会合であった。それから夜の散歩。生ビールの味、唐黍の匂ひ。
翌日から定山渓に遊んで、九月一日夜行で帰京された。御世話になった樽新の碧川、篠原両氏、タイムスの千田氏、並に札幌短歌界の諸氏と札幌で案内の労をとって呉れた山縣君に私から厚くお礼を申上げます。
  藪茗荷花過ぎにけり帰り来てつくづくといまだ子とし遊ばず
             九月二十三日 小田原にて北原白秋
引用者註
@『「新樹 十月号 第五号」大正十四年十月十五日発行』(小樽文学館所蔵)の表紙裏には、白秋の描いた26歳の青年歌人戸塚新太郎、小林多喜二の親友である片岡亮一、及び吉植庄亮のカリカチュアが載っている。



A 白秋の「フレップ・トリップ」や『「米の貌 : 随筆」吉植庄亮 著 出版者 羽田書店 出版年月日 昭和17』の「樺太まで」の文章にも小樽滞在中の記述がある。
B「九月一日夜行で帰京」とあるが、実際には途中、函館・当別、松島に立ち寄っている。
C札幌では他に月寒牧場に二度、真駒内、出納農場、敷島旅館に行っている。
D文末の白秋の歌は『「白秋から戸塚宛の礼状の抜粋であろう」』(資料3より引用)
E戸塚(とづか)新太郎:1899(明治32)年1月2日〜1965(昭和40)年11月16日、群馬県倉田村に生まれる。小林多喜二らと雑誌「クラルテ」にも参加。小樽山岳会名誉会長、小樽山草会会長、歌碑(小樽公園内)。
F朝比奈:朝比奈 義郎:本名義太郎。明治32年3月3日 新潟県佐渡郡真野村に生まれ、大正5年4月来道。大正の末期に戸塚新太郎らと新樹を発行。
G片岡:片岡亮一 明治36年8月6日、小樽市生まれ。新樹編集。小林多喜二の親友。
H酒匂:酒匂 親幸 明治28年1月24日、東京銀座生れ。大正末期第一次原始林、新樹などで活躍した。



北原白秋・吉植庄亮来道(大正14年8月 小樽市矢野倶楽部)

(『「北海道歌壇史」 北海道歌人会 昭和四十六年』より引用)


引用者註:前列右から4人目が白秋、5人目が庄亮)

引用者註:この「北海道の白秋」のページの人物紹介に関わる部分は『「北海道歌壇史」北海道歌人会、昭和46年11月10日発行』から引用した。


資料2 その2 『北原白秋全集37 小篇3』(岩波書店)(P146 ~148)より


「日光」[大正13年4月創刊]


【大正15年1月1日 3巻1号】


 山荘より〔日光室〕 白秋

 〇夏の樺太北海道旅行は愉快だつた。あの後、私はいよいよ健康になつたやうな気がする。さうして何 か心が寛く太って来たやうに思はれる。まつたく何といふ楽しい世の中だらう。その旅行記は十二月の 「女性」から「フレツプトレツプ」(ママ)と題して書きはじめた。もう七十枚ばかり書いたが、まだ小樽あ たりで酒に酔つてゐる。この案配では五六百枚にはなるであらう。さうしてまだ半年以上はかゝるであら う。庄亮君が盛んに活躍するから読んでほしい。書いてゐると実に爽快になる。童謡もぽつぽつ発表してゐる。

8月21日  午後 稚内入港、夕刻 臨時列車で稚内出発
8月22日 朝 近文到着
資料3 「藤原義江の演奏旅行から見る昭和 2 年秋の札幌、盛岡、秋田における西洋音楽のローカライズについて」(上野 正章)より
『藤原の日記によると、樺太からの来場もあったようだ:「今夜の入場者の中には遠くは樺太から近くは小樽、旭川からの団体もあるときき、うつかり旅の気持ちではゐられぬと思つた」。豊原(現在のユジノサハリンスク市の一部)から札幌まで直線距離にして 450 キロメートル程度。当時稚内と樺太(サハリン)島の南端に位置する大泊(コルサコフ)を移動するのに連絡船で 9時間、稚内から札幌まで汽車で 15 時間 30 分かかった。もちろん乗り換えの時間は含まれず、また旅費を思い浮かべるならば、音楽愛好家の演奏会にかける大変な情熱を推し量ることができる。』

資料4 近文(ちかぶみ)について
現在の旭川市近文町。旭川市北西部,石狩川右岸にある地区。地名はアイヌ語のチカプウンニ (鳥のいるところの意) に由来。近文(ちかぶみ)には昔からコタン(アイヌ語で集落の意)があったが,1894年旭川市街地の区画整理の際,散在していたアイヌ人を市街地周縁部にあたるこの地に集めてから、アイヌ人集落の所在地になった。近文アイヌの名は有名であり,今でもアイヌ文化を伝承する土地である。室蘭本線の白老(しらおい)、日高の平取(ぴらとり)と共に道内三大アイヌ部落の一つである。

資料5 その1 金坂吉晃「白秋の北海道周遊 手控」(昭和57年12月20日発行 こまくさ会)
@P20 「詩人北原白秋氏と歌人吉植庄亮氏が相携えて昨朝突如来旭した。・・・一昨日稚内に到着。団は解散したが、内百名が臨時列車で旭川に来た。その中に二人の詩人が在ったのである。」
AP22「・・・なんとなく秋めいた日の午すぎ、酒井夫人から僕に、白秋先生一行が、到着された旨電話があった。」「・・・酒井先生のプランに従い、街を案内したが、白秋先生一行は、来旭の際に旭川駅を通り越して近文駅で下車、アイヌ地を既に視察されていたので、他に何等感興を惹く風物もなかったと想う。」
B小林昴(すばる)(小林幸太郎):歌人、旭川、1892〜1963、短歌誌「冷光」花輪義雄と「呼吸」、旭川新聞記者、『(株)旭川新聞社]【日本紳士録、42版(昭和13年)】監査役 小林幸太郎 旭川。』
大正十四年十月号「コドモノクニ」の原稿送る
資料5 その2
@藤田圭雄著「日本童謡史 T」(あかね書房)より
・・白秋は、北海道から樺太の旅行に出てしまった。それで十月号には作品がない。白秋の作品がないということは、『赤い鳥』に童謡がないということだ。応募作品だけの選はしていて、「私は明日樺太巡航の途にのぼるので、今徹夜してこれを書いてゐます。北海道も廻って来るつもりです。」と書いている。

A金坂吉晃「白秋の北海道周遊 手控」(こまくさ会)より
この日は、酒井先生のプランに従い、街を案内したが、白秋先生一行は、来旭の際に旭川駅を通り越して近文駅で下車、アイヌ地を既に視察されていたので、他に何等感興を惹く風物もなかったと思う。白秋先生は突然電報を打ちたいと言う。自動車が本局に着くと、十数枚の頼信紙になる長文電報であった。あとで聞くと、ある雑誌社から童謡を頼まれていたが、もう締切が迫っているので、電報で送稿したのだと言う。

引用者註:藤田圭雄著「日本童謡史 U」(あかね書房)によれば、『コドモノクニ』第四巻(大正十四年)の10月号に白秋の「タバコノハナ」が掲載されている。
引用者註:国立国会図書館 国際子ども図書館 『「絵本ギャラリー」 コドモノクニ 絵雑誌の画像データベース』より確認できる。

資料6 深川の三日間について(金坂吉晃「白秋の北海道周遊 手控」(昭和57年12月20日発行 こまくさ会)より。)
本書には二人の証言者がいる。また、著者自身の記述もあるが、それらが錯綜としていて真実がつかみにくい。以下に概略を記す。
証言一
@宿泊は鬼川医院である。
A歓迎歌会(各自の詠草を持ち寄って批評してもらう。)はなかった。白秋さんを囲む歌談会はあった。
B庄亮さんは「和」の吉植農場に朝早く出掛けられたが、、日帰りをされて出席した。
C鬼川先生から連絡があり、料亭の北越館に集まった。大体二十名位おった。
D秩父別村からは私を含めて二人だった。歌に関わりのない人も来た。深川で薬局をしていた人も来た。
Eかなりお酒も召しあがられて、座も一段と華やいできた頃、深川町長が立ち上がって自己紹介をした。
F歌談会の宴の最中に、白秋さんは短冊を書かれて、当夜の出席者に預けられた。
証言二(証言一で深川で薬局をしていた人)
@鬼川俊蔵氏が案内してお昼過ぎに来町した。三人とも昨夜の旭川での飲みすぎをボヤいておられた。
A八月二十三日の歌談会の出席者、およそ二十名位。白秋先生、庄亮先生、町長、私、鬼川俊蔵、深川駅長、深川小学校長、秩父別村の二人、音江の一人、沼田の一人。
B白秋さんは、宴たけなわになると、樺太で見てきたオットセイを手ぶり身ぶりで座は賑わった。
C白秋・庄亮両氏は北越館に宿をとった。
D歓迎歌会は、鬼川医院の二階座敷であった。歓迎会終了後、江差屋でさらに痛飲した。俊蔵先生も私も同席した。
E秩父別村の二人は私の家へ泊った。朝その部屋へ行ってみたら、汽車で帰ったらしかった。
F吉植さんは父の農場に用事があって日帰りの予定で北竜村の和へ行った。夕方には帰っていた。
G白秋さんは、音江のりんご園を巡るため、幌馬車で深川桟橋を越え音江へ行った。訪問したりんご園は、音江の宗果樹園(現在の東出果樹園)であった。このあたりから一己屯田兵村が見える。
H途中、音江村役場に寄り、村勢一覧をもらった。谷地ダモ林に囲まれた白壁の鷲田農場宅に近い佐伯光吉収入役の家にくつろいだ。記念撮影をした。撮した人は鬼川先生だった。
I夜は江差屋で大いに飲み、芸妓の博多帯に歌を書いてやったりした。
著者の文章から。
@鬼川俊蔵の案内で白秋、庄亮らは来たのだが、庄亮はいったん白秋と別れて、深川からそう遠くない、北竜村の和(やわら)というところへ行った。この「和」は、彼の父庄一郎が、明治二十五年、弟妹、村民四十七戸を引き連れ、入植し村を開いたところ、吉植農場があったので、用事をかねて行ったのだった。こんどの旅行の目的の一つであったわけである。
A白秋は鬼川医院にいて、石狩川のほとりで、渡し舟に乗っては対岸の、音江の林檎畑、除虫菊畑などを見て廻り、時には幌馬車にのって北海道の初秋を満喫したようだ。
Bごく短い間ながら、白秋の深川滞在中の仕事部屋とされたのは、料亭江差屋で、そのあと、ここは「丸玉楼」という深川随一の料亭となった。ここにある丸テーブル(座り机、彫刻のあるもの)を専ら使はれたそうである。
C鬼川俊蔵の『あし笛』という歌集に、白秋と一緒に国見峠など散策した折の一首が載っている。「丘の上の畑の豆に実のいりていつしか秋の日はたちぬらし」(白秋と国見峠に登りて)

引用者註:国見峠(くにみとうげ)は、深川市にある峠。標高は約155m。深川市の市街地南部の旧国道12号にある峠で、音江連山の東部に有る沖里河山山麓が石狩川と接する所にある。
引用者註:証言二Gのりんご園の果樹園の名前の変更の理由は次の資料6に由来する。

資料7 深川市議会 会議録(平成24年 第4回定例会(第2号)
平成24年12月11日(火曜日))
(午前10時58分 再 開)
〇議長(◆◆ ◆君) 休憩前に引き続き開議します。一般質問を続けます。
 次に、■■議員。
〔■■議員、質問席へ〕
〇12番(■■■■君
(前省略)
 さて先月、11月14日、私は福岡県柳川市にある北原白秋の生家と記念館を訪れる機会に恵まれました。白秋は大正14年、深川市を訪れ、医師で歌人でもあった鬼川俊蔵氏の案内で音江のリンゴ園を訪ね、「青き林檎」という短文と何首かの歌を残されております。今からちょうど40年前、白秋が訪ねたリンゴ園のその土地を私の家で買い取ることになり、北原白秋記念館を訪れることは、私にとってそのときからの念願でもありました。入館すると、館長の姉川さんがおられて、「北海道の深川から来ました。」と申し上げると、即座に「遠くからおいでをいただきありがとうございます。深川には白秋の石碑がありますね。」、そう言われると一度姿を消して、すぐに1冊の小冊子を手にして戻ってこられました。この小冊子が、館長さんが手にしてこられた小冊子であります。この本は、北原白秋の生誕100年記念、節目の年です。「白秋の文学碑」という小冊子、昭和60年当時、白秋の生誕100年記念事業として、この本を編さんするに当たり全国3,270の市町村すべて、石碑等、歌碑、そういうものを調査し、62基の文学碑が全国で確認されてまとめられたものであります。日本の北から掲載されているため、丸山公園の歌碑が一番最初に紹介されております。「一已の屯田兵の村ならし ややに夕づくこの眺望を」という歌が刻まれております。紹介文には、この石碑は深川市開基80年、市制施行10周年の協賛事業として昭和48年8月に建立したものであることなどが記されております。姉川館長さんの対応のよさに驚かされながらも、お願いついでに白秋が音江のリンゴ園で書いた短文、「青き林檎」の白秋の自筆原稿を見せていただけないかとお尋ねいたしました。これまた即座に職員に指示をし、段ボール箱におさめられた自筆横額を出してきていただきました。「北海道深川町の郊外、音江村にさる林檎園あり。たまたま町のK氏を訪ぬるに、今は人妻ながらそのKのそのかみの恋人なりと言う女性ありて茶を供し、まだ青き林檎などむく、我もただ庭を見、池をながめて、言葉なくゐぬ。」、このような短文ですけれども、私はこの原文に、まさにそのかみの恋人に出会ったような気分で対面をさせていただきました。さらに館長に促されて、その横額を持って写真まで写していただきました。ちなみに、私がこの白秋の自筆原稿、この存在を知ったのは、学生時代の昭和48年、発刊された深川市果樹植栽80年、果樹協会創立10周年の記念誌にある「青き林檎」の記載であります。もう1点、同48年、執筆が始まり上川道路開削90年の記念の年に刊行された「深川市史」の自筆原稿の写真、これが福岡県柳川市北原白秋記念館所蔵というふうにあったからであります。九州から帰宅して数日後、姉川館長さんから手紙と写真、そして小冊子が送られてまいりました。私が記念館を出るときに、記帳ノートに「北海道深川市 東出」と記帳してきたため、館長さんはネットで検索して、議員であることを知ったということ、議員名簿で住所を調べて手紙をくださったということであります。その手紙には、白秋は床についた死の直前にもリンゴを食した。白秋とリンゴのエピソードを幾つもしたため、横額を持った写真は「北海道から白秋の『青き林檎』の自筆原稿を訪ねてきた人あり」と記して、記念館のロビーに展示させていただいているなどというようなことをつづった内容であります。これらの出会いの糸を結びつけてくれたこういった節目の年に、記念誌あるいは記念碑、そういうものをつくられてきた先人の残した記録、節目の取り組みに心から敬意と感謝を申し上げて、質問に入らせていただきます。(以下省略)

引用者註:記号表現(◆◆、■■)は引用者による。

資料8 

@音江村(おとえむら)はかつて北海道空知郡に存在した村である。1963年5月1日に周辺の深川町・一已村・納内村と合併し深川市となった。 地名の由来は、アイヌ語の「オ・トゥイェ・ナイ」(川尻が崩れる川)より。
A一已村(いちやんむら)は、日本の北海道雨竜郡にかつて存在した村である。1895〜1896年(明治28〜29)屯田兵(とんでんへい)400戸の入地で開けた。兵村解体後は一已村として自立、水田化が進んで北空知(そらち)穀倉地帯の一翼を担った。1963年(昭和38年)5月1日に周辺の深川町・納内村・音江村と合併し深川市となった。町域は現在の深川市の西側に位置する。 地名の由来は、アイヌ語の「イチャン」(鮭や鱒が卵を産むところ)から。

資料9 

「海阪」より
アイヌ村風景
師団道夜の明けて広しさゐさゐと唐黍売もふれて来にけり
この朝かげすばらしくよし毛のあかき唐黍を呼べば馬車にはふりこむ
ひた駈けに馬車を駛(はし)らしすがすがし唐黍の穂の朝日なるかも
朝の日を馬車はかへしてあゆむなる大豆畑の露くさのはな
畑つもの豆の葉よりも露くさの瑠璃いろ深しすぐアイヌ村
朝の気の流らふ広き大豆畠旭川郊外に来てをりわれは
耳とめてこの野は広しこちごちにひびかふものの音のかそけさ
水の音今は聴きゐつこのあたり隠元豆の花がしろしも
    あるアイヌの家にはいつて、お婆さんに唐黍を焼いても
    らつた。 二首
たうもろこし焦げてにほへりはるばると遠来し旅を堪へてゐるかも
唐黍の焦ぐる待つ間よつくづくと摂政の宮の尊影(みかげ)を我は
おんこ彫る爺(おぢ)のアイヌがあぐらゐをい寄り見て立つさぶし和人(しやも)我
日の澄みを毛深きアイヌ立てりけりほろびつつあるその厚志着(あつしぎ)を
家屋(ちせ)の外(と)の熊檻(ベウレツプチス)このあした愛(かな)し仔熊も起きてゐるかも
往還に眼窩(めのくぼ)ふかき子は立てりほろほろと乾(かは)く直土(ひたつち)の照り
音江村
日ざかりの道のべゆけば株だちてまだ柔かき箒草のいろ
除虫菊白きを見れば新(にひ)みどり唐黍の毛もかき垂りにけり
歩み来て林檎畑にはひりたり日の明りつつ広く閑けさ
夏山の林檎畠の日のくもり白き鶏(かけろ)の閑けかりけり
一已(いつちやん)の屯田兵の村ならしややに夕づくこの瞰望(みおろし)を
日は近しつくばふ牛の鼻づらを見つつ過ぎたりかむぼちやの花
牛小屋のおもての紅き巴旦杏手のとどくところはみなもぎりたり
蓮のはなほのけく赤しはひり来てここの牝牛の乳をもらひをる
澱粉靴といふものを子らははいたりける林檎畠を出て来る見れば
常掃きて日射透(ひざしとほ)せばうやうやしこの牛小屋の青牛のかげ
家の戸に去勢無料としるしたり夕光(ゆふかげ)あつきこの往還を
青き林檎
北海道深川町の郊外、音江村にさる林檎園あり。たまたま町のK氏を訪るるに、今は人妻ながらそのKのそのかみの恋人なりと云ふ女性ありて茶を供し、まだ小さき林檎などむく。我もただ庭を見、池をながめて、言葉なくゐぬ。

引用者註:以下『金坂吉晃著「白秋の北海道周遊 手控」(こまくさ会)』P44より引用
ーK氏とあるは鬼川俊蔵氏。  そのKの「そのかみの恋人」とは、当時果樹園を経営しておられた宗谷五郎氏の長女、宗八千代さんであったらしい。(明 治三十二年一月二日生まれ)ー

寂しくてなにかまぶしき日のくもり青き林檎をながめゐにけり
うすうすと林檎の梢葉(うれは)染みにけり百舌の翔(かけ)りはいまだ暑きに
つぎほなく閑けき夏や時あかる蜜蜂の翅音そこら響かふ
風たちて涼しく皺む池の面に百日草の影もうつれり
   役場の前のさる歌人の牛飼の家にて
音江村一覧表をもらひたり役場のまへの鶉豆の花
直土(ひたつち)に子らかき坐り夏おそし種人蔘の立枯れの花
傾斜地の虫除け菊のしろき花いまはつぶさに見て下るなり
深川郊外
遠山に白虹降(ふ)りゐ閑(しづ)かなりこの石狩の国の大きさ

引用者註:鬼川俊蔵と国見峠(くにみとうげ)に行った時の歌かもしれない。

白壁の反(かへ)し陽び見ればやちだもの木立の木膚(こはだ)かがやきにけり

幌馬車
 音江村
山方はけはひ幽けくなりにけり馬車ひとつ行けり虎杖(いたどり)の原を
幌の馬車とめつつさびし虎杖の虫くらひ葉の日ざかりの照り

「海豹と雲」より


「ある人の庭」




 石狩にて




蜜蜂の


おとなひに


響く小池。




みぎはには


黄の一重、


とろろあふひ。




君が園


閑(しづ)けしや、


夏を、照りを。




はるけくも


来し北か、


ここは音江。




見ず知らず、


また会はず、


この日かぎり。




散る散らぬ、


まだ薄し、


林檎もみぢ。


資料10 札幌にて
北原白秋全集 21(岩波書店)月報21巻より 

  
    大正14年夏 札幌にて、吉植庄亮(左)と白秋。


引用者註:上記の写真について。:顔の帽子の影から南に向いて立っているものと思われる。したがって脇の道路は南北に延びた道路でありかつ道路の西側に立っていることから、札幌駅前通りの宿泊した山形屋旅館のある北二条西四丁目近くで撮影したものと思われる。電車は停公線で後方に札幌駅前の駅がある。後方の街路樹は明治18年頃に植樹されたと言われるニセアカシアであろう。


参考までに白秋の訪れた大正14年8月時点の札幌の電車は以下のようであった(さっぽろ文庫 22 「市電物語」(札幌市・札幌教育委員会)より引用)。


〇南一条線;南一条西一四丁目~同東二丁目(大正7年)・東二丁目~同三丁目 頓宮前(大正9年)・東三丁目~一条橋(大正14年)


〇停公線;北四条西四丁目札幌駅前~中島公園(大正7年)


〇南四条線;南四条西三丁目~同東三丁目(大正7年)


〇苗穂線;北三条西四丁目(道庁前)~北三条東七丁目(大正8年)・東七丁目~苗穂駅前(大正11年)


〇円山線;南一条西一五丁目~同西一七丁目(大正10年)・南一条西十七丁目~同二〇丁目(大正12年)・南一条二〇丁目~琴似街道(大正12年)

〇山鼻線;南四条西四丁目(薄野交番前)~南一四条西七丁目(行啓道路)(大正12年)・行啓道路~一中前(南一六条)(大正14年)
〇豊平線;南四条東四丁目~大門通(大正13年)・大門通~平岸街道(大正14年)

函館の白秋
資料11 『北原白秋全集37 小篇3』(岩波書店)(P146 ~148)より


「日光」[大正13年4月創刊]


【大正15年1月1日 3巻1号】


 山荘より〔日光室〕 白秋

〇(前略)トラピストには九月の二日に、函館の弥生小学校長の藤沢氏の案内で渡つた。羅風君から手紙が行つてゐたのである。院長は不在で副院長がゐられた。私たちは非常に優遇された。藤沢氏はその日の午後の汽船で帰られたが、翌日は函館の埠頭に迎へに見えた。私たちはトラピストの客館の方に一泊させてもらつた。実にいゝ月夜であつた。私たちの接待役はドミニコさんといふ日本人の修道士で、もう十七年もゐられるといふのであつた。それに第一銀行の頭取の令息で大庭さんといふ青年が客館に来てゐられたので、一緒に食事したり散歩したりした。羅風君の其処での生活状態なども聴き、修道院の色々の生活もきいた。その青年は、色々の文壇人が見えて訪問記を書くがいゝ加減でまちがいだらけだと笑つてゐた。(後略)

松島の白秋
資料12 「白秋全集 9 歌集4」(岩波書店)より
瑞巌寺に泊る
大寺の厨のそとの水ために清水あふれて朝焼けにけり

瑞巌寺の朝餐(あさげ)の魚板響くなり顔洗ひつつよしと思ひぬ

僧たちと朝餐の席にならびたりつつましくしてほがらかにあり

飯櫃にたきたての飯の湯気たてり大寺はよしこのあかときを

瑞巌寺をまかりいでつつ朝早く松島が見ゆ雨後の松島

松島瑞巌寺前のさざら波施餓鬼すみたるあとのすずしさ

帰宅
資料13 「白秋全集 別巻」(岩波書店) P502
八月七日、横浜を高麗丸で出帆、鉄道省主催樺太観光団の一員として、吉植庄亮と一緒に樺太・北海道の旅に出る。小樽、安別、真岡、本斗、豊原、大泊、敷香、海豹島、稚内を訪問。さらに道内の旭川、札幌、函館を経て当別を訪問。帰途、松島に遊ぶ。九月七日、帰宅。

引用者註:上記の文章には深川滞在が欠落している。なお、当時の住所は小田原町十字二丁目三三五番地(通称天神山)

白秋北海道滞在に関するその他の資料
その1  『北海道文学会編「北海道文学大事典」(北海道新聞社)昭和60年10月30日発行』より
北原白秋 明18.1.25〜昭17.11,2 本名 隆吉
詩集「邪宗門」「思い出」「東京景物詩及其他」「雪と花火」歌集「桐の花」「雲母集」などで日本を代表する詩人として知られた白秋が鉄道省主催の樺太・北海道観光団に加わり、歌人吉植庄亮と共に北海道・樺太を旅したのは大正14年8月10日からおおよそ20日間にわたる。道内では山下秀之助、戸塚新太郎らによる小樽の歓迎歌会、旭川、近文コタン探訪、七師団参議長斎藤渕、深川の鬼塚俊蔵らの旭川歓迎会、深川歌談会、札幌・北大病院に入院中の酒井広治の見舞い、芥子沢新之介らとの植物園散策、札幌短歌会歓迎歌会、詩と童謡の会、函館郊外当別のトラピスト修道院訪問などの行程であった。この旅にまつわる著作に周遊記「フレップ・トリップ」、旅の遺筆「雲と時計」詩集「海豹と雲」歌集「海阪」、童謡集「月と胡桃」がある。深川市丸山公園に歌碑がある。

引用者註:
@「鉄道省主催の樺太・北海道観光団」とあるが、正しくは「鉄道省主催の樺太観光団」である。
A 8月10日は8月7日の誤り(8月7日に横浜港を出港し8月10日は小樽に到着した日)。
B山下秀之助→生年明治30(1897)年11月29日 没年昭和49(1974)年4月4日、出生地 鹿児島県鹿児島市、東京帝大医学部〔大正11年〕卒、医学博士、歌集8冊、随筆集2冊。宮中歌会始選者。
C 斎藤瀏(さいとう りゅう)→大正10年に第一歌集「曠野」を刊行。13年には再び旭川第七師団に参謀長(大佐)として来任する(45歳)。旭川師団に五月会なる歌会があり、酒井広治らと交流
D 鬼塚俊蔵は鬼川俊蔵の誤り。鬼川俊蔵(きがわ しゅんぞう)→明14・4・1昭32・2・3「短歌」秋田県生まれ。岩手医専卒。明治41年来道、勤務医を経て大正3年深川で開業。「潮音」「機?」「歩道」「原始林」などに所属。白秋、庄亮、牧水、茂吉らも深川に立ち寄より交流。昭和17年<砂山をわかちてさむき大河のほとばしる水は海にいきほふ>の歌碑を深川に建立。歌集「あし笛」(昭22)あり。浪漫的叙情に富む。(北海道文学館 編 「北海道文学大事典 人名編」 昭和60年10月)
E 酒井広治(ひろじ)→明治27年4月27日〜昭和31年1月30日(1894〜1956)、福井県生まれ。北原白秋に師事して「地上巡礼」「アルス」「煙草の花」「朱樂(ザンボア)」の歌誌に参加する。1926(大正15)年、旭川歌話会を創設して月例歌会を開く。同人として齋藤瀏、齋藤史、鬼川俊蔵、小熊秀雄、小林昴、山名薫人がおり、旭川歌壇の基盤を作った。昭和12年旭川信用組合理事、26年初代旭川信用金庫理事長になる。帰旭してからは北原白秋、生田蝶介、若山牧水、小川千甕らの来旭をうながし短歌について懇談する。旭川市嵐山弓成山に歌碑建立。
F 芥子沢新之介(けしざわしんのすけ)→本名田中弥藤次。明27年3月29日、新潟県白根町生まれ。36年旭川に移住。大6年アララギ二入会。6年大堀充彦らと冷光発刊。歌集早春(昭22)、雪国の絵本(昭35)、芥子沢新之介歌集(昭42)、随筆集赤鉛筆(同)。昭41年11月9日病死。

その2『「北海道歌壇史」北海道歌人会、昭和46年11月10日発行』
@P100より抜粋
6 札幌短歌会(附、白秋・庄亮歓迎歌会)
大正14年8月25日、第49回札幌短歌会は、折柄相携えて来道(樺太周遊の帰途)の白秋、庄亮歓迎歌会として南香園で催された。
AP105より抜粋
9 大一次原始林の創刊・廃刊とその前後
 山下秀之助を中心に全道を総合する歌誌原始林が、大正13年4月創刊され、編集発行人は山県汎。秀之助の文に、「大正13年4月、札幌の言霊、小樽の新樹の諸同人を糾合して汎北海道的な新歌誌を創刊することになり此を原始林と命名した。」
BP106より抜粋
新樹は大正12年9月小樽片岡亮一の発行。観螢、俊蔵も寄稿、作者は新太郎、亮一など。小樽高商学生、後托銀行員となった小林多喜二が評論等を寄せている。
CP108より抜粋
この原始林の事業の一つとして、大正13年7月、菊池寛を囲む座談会を豊平館で催し、参会者百数十名。その講演筆記を小林多喜二が引き受けたことが、秀之助の記述に見える。原始林は大正14年7月終刊となった。大正14年10月、新太郎、亮一らは新樹を復刊した。
DP109より抜粋
新樹復刊号(第5号 10月号)に白秋、庄亮来道歓迎会の記(新太郎)両歌人は鉄道省樺太周遊船高麗丸に乗り、大正10年8月10日小樽寄港。矢野倶楽部で午後8時半から歌会、札幌からは勿論、深川の俊蔵も来て会者10余名。宿へ引上げたのが朝の3時とある。翌日午後5時、舟は小樽出港樺太へ向った。帰路は稚内から旭川、深川を経て8月25日札幌着、南香園で歌会、会者70名。翌日は詩と童謡の会を三吉神社に開き、札幌の生ビール、唐黍の匂い。
翌日から定山渓に遊び9月1日帰京されたとある。第7号(15年1月)に白秋は詩「曇り日のオホーツク海」を寄せている。

その3『藤島 隆 貸本屋独立社とその継承者たち』(北海学園大学学園論集第133号 2007年 9月)
大正14年8月鉄道省主催の「樺太観光団の一人として汽船「高麗丸で横浜港を出港した北原白秋と吉植庄亮は帰途札幌に旅装をといた。25日、札幌短歌会は例会を兼ねた二人の歓迎歌会を南香園で開催する。

北原白秋の樺太観光
『北原白秋全集39 書簡 @8/4 服部嘉香宛』より

「鉄道省主催 樺太観光団」出発前の予定
小樽 10日午前着 11日午後出帆


本斗 12日午前


安別 14日


大泊 16-18日


敷香 19日


稚内 21日午後 解散


引用者註:この書簡は旅行に出発する前の日程を知らせたもの。旅行後に書いた「フレップ・トリップ」を見ると、樺太での日程は予定と若干のズレがある(資料1参照)。

「樺太観光」のきっかけ「フレップ・トリップ」 初出:『「女性」プラトン社・1925(大正14)年12月号〜1927(昭和2)年3月号』
今度の話は印旛沼の庄亮君の宅を訪ねた時に初まるのだが、彼は鉄道研究会員の一人で、新聞聯盟の外報部長であるところから、鉄道省主催のこの観光団に五、六人の同勢と乗り組むはずになっていた。そこで私も勧められたが、その時には何故か浮きたたないで、行くとも行かないとも確答はしずに酒ばかり飲んで帰った。が、妻に相談すると、連れはいいし、またとない好機会だから是非行らしったがいいと、しきりに煽立てた。と、急に足元から鳥の立つような騒ぎになって切符を申込む、印旛沼へ電報をうつ。それでももう締切にぎりぎりとかで二等の最後の切符がやっとしか手に入らなかった。ところを、研究会の同勢が沙汰止みになって、庄亮君一人となった。で、私はいい工合にその寝室として当てられた最上の特等室に割込ませてもらった訳なのだ。無論増金は出したが、私のために庄亮君が宣伝これ努めたお蔭であるといっていい。

庄亮の目的の一つ:深川からそう遠くない北竜村の和(やわら)行き
この「和(やわら)」は、彼の父庄一郎が、明治二十五年、弟妹、村民四十七戸を引き連れ、入植し村を開いたところ、吉植農場があったので、用事をかねて行ったのだった。こんどの旅行の目的の一つでもあったわけである。(金坂吉晃著「白秋の北海道周遊 手控」(こまくさ会)より)

引用者註:北竜町;明治26年5月、千葉県の団体入植に源を発し、明治32年7月、雨竜町から行政区を分離し、戸長役場を置き、雨竜町の北に位置することから北竜町と称し、その発足をみた。その後、大正4年2級町村制施行、さらに昭和36年9月に町制が施行され、平成13年に開基110年を迎え、現在に至っている。(この項、北竜町ホームページから引用)

引用者註:北竜町ポータルサイト『<北竜町史資料> 郷土の先覚者・吉植庄一郎(著:森山 昭)』より引用
明治二十五年九月  ・単身北海道に渡航しニケ月間事前調査
              ・雨竜原野六百町歩の貸下される
              ・村民の中で水害の為貧困に苦しむ四十七戸 を募る。
明治二十六年五月  ・庄一郎移民団長として北海道へ移住(二十五戸)
             ・第二 期移民団(計十七戸)出発 雨竜村宇和と命名


「白秋全集19 詩文評論5」(岩波書店)より引用

フレップ・トリップより樺太の旅程をまとめると次のようになる。
八月十三日    午前 安別上陸、国境見学
             夜  安別出帆
   十四日  真岡着(野田に入港予定も悪天候のため、二時間かけて真
          岡へ)パルプ工場見学、白秋・庄亮ら一班は汽車で終点本
          斗へ、途中多蘭泊経由、その夜白秋らはSS旅館泊、他の一
          班はBB旅館(二班は真岡、三班は野田泊りの分宿)
   十五日  白秋ら六人(庄亮・N老人・警部A君・F君・Hさん)は団長
          の了解を得て午前九時汽車   で真岡へ、真岡から豊原ま
          で自動車による樺太横断(途中日本医専と工科大生(M
          君・T君・Y君同乗)、 その夜は豊原の北一条H家旅館宿泊

    引用者註:その日一班、二班も野田に集合、歓迎会の後本斗まで南下
           し、本斗に廻航していた本船に乗り大泊へ廻航)

   十六日  汽車で豊原から二つ目の小沼駅へ(「フレップ・トリップ 小沼農
         場」には、「前夜、私たちは予め定められた来た一条のH屋旅館
         に一先ず落ちついて、大泊から廻って来る同勢を待ち受けること
         にした」との記述あり)。医専のTら二人、庄亮と農事試験場見
         学、イワン・クリロフの家など。夕刻 ニ三の連れと自動車により豊
         原の樺太神社に(「フレップ・トリップ 樺太神社」には、「十六日
         薄暮、私はニ三の連れと」との記述あり)。北一条H旅館宿泊
   十七日 朝八時  ニ三人で博物館の参観など豊原旧市街見物(露西亜
        人街)へ(「フレップ・トリップ 豊原旧市街」には、「私たちニ三人は
        博物館の参観、公会堂での観光団歓迎会へ臨む前のほんの小閑
        をぬすんで、その旧市街見物と出かけたのであつた」との記述あり)。
        樺太長官訪問(「フレップ・トリップ 笛」には「大きな大きなガランとし
        た階上の一室にその?せ型の長官某氏が納まつてゐた。(途中省略)
        昨日の正午前のことであつた)。公会堂での歓迎会、歓迎会終了
        後幌馬車にて豊原西郊の追分へ、帰りは徒歩で日の出温泉に寄る。
       (「フレップ・トリップ 豊原よりの消息」には、「この二人が、今朝、公会
        堂の観光団歓迎会のすぐ後から、幌馬車に乗って、豊原西郊の追分
        といふ部落へ散策したと思ひたまえへ。僕たちは一昨日真岡から豊原
        へ二十里の原生林の横断を果たしたが」との記述あり)その後天主公
        教会訪問。(「フレップ・トリップ 笛」には、「うむ、歯科医のS君が羅風
        の手紙を持って見えたらう。(途中省略)S君はS君で是非コワルスさん
        に逢ってくれ、三木さんに済まぬと云ふ。で、ほれ、日の出温泉から出た足
        で、僕はS君の家に廻つて、同道して天主公教会に訪ねて見た」との記述
        あり)夜、A西洋料理店の饗宴(「フレップ・トリップ 笛」には「昨晩のA
        西洋料理店の饗宴はまつたく愉快だつたなと、私は心から微笑した」との記
        述あり) 豊原泊(「フレップ・トリップ 笛」には『「ところで、この夜明けまで、
        踊りに踊りぬいた人がありますからね。おもしれえおもしれえ。」と庄亮。(途
        中省略)「豊原のあの、あそこの大通りでだよ。あっはっ。面白うございました
        でせうよ。」』との記述あり)。

「北原白秋全集39 書簡」より引用
1925(大正14)年8月17日 北原菊子殿 「絵はがき」  豊原にて パパ
ママ、坊やにこのロッペン鳥を見せて下さい。すぐ明日からここにゆくのです。今日大泊へゆく筈のところ、二人の歓迎会をやるといふので引留められてゐます。外に七八人一等客残ってゐます。ここのイワンクリロフという露西亜人のパン屋の家を見て来ました。ママ、ばんざあい。

引用者註:上記のように8月17日付の妻あての絵はがきには、イワンクリロフという露西亜人のパン屋の家を見て来たことを記している。その日にあった一番印象にのこったものを記したものと推定できる。そうすると先のフレップ・トリップより引用した16日とは異なることになる。さらに以下に示す鉄道省主催高麗丸樺太巡遊記念写真帖の樺太周遊略誌(GK生記)の旅程と比較するとフレップ・トリップの16日と17日の日程には疑問が生じる。詳しくは下記に示す引用者註を参照されたい。
結局、白秋の正しい日程は以下のようになると思われる。
十六日 朝、幌馬車にて豊原西郊の追分へ、帰りは徒歩で日の出温泉に寄る。その後天主公教会訪問。夕刻 樺太神社。北一条H旅館宿泊
十七日 朝八時  博物館の参観など豊原旧市街見物。樺太長官訪問。公会堂での歓迎会。汽車で豊原から二つ目の小沼駅へ、農事試験場見学、イワン・クリロフの家。夜、A西洋料理店の饗宴 豊原泊

   十八日   大泊へ、船で敷香へ
   十九日   敷香見学、敷香出帆
   二十日   黎明 海豹島到着 

(国会図書館デジタルコレクション)より

鉄道省主催高麗丸樺太巡遊記念写真帖(著作者・発行者 光村利藻、発行所 光村印刷所内 光村美術出版部)


(1)鐵道省樺太巡航船(高麗丸)


(2)團員名簿
         

                                    (拡大)
引用者註:北原白秋の名前であり、本名の隆吉ではない。
(3)樺太周遊略誌(GK生記)からの抜粋
・大正十四年八月四日午後四時下関出帆
・五日午前中瀬戸内海通過、午後神戸入港、同七時出帆、七日午前横濱入港
・横濱税関岸壁解纜 七日午後二時、同夜銚子沖を過ぎて一路北航す
・十日 午後八時小樽に入港す
・北海道の一夜は明けて十一日、二百五十人の一團を乗せて午後五時高麗丸出帆の汽笛は鳴る
・十二日午前 本斗町の沖合を過ぐ
・小邑、安別に着きしは十三日早朝なり 午後五時高麗丸は再び南に向って抜錨す
・十四日 雨は止みたれど風浪高し 豫定の野田町に上陸するを得ず 真岡に入港す(本船本斗廻航)分宿により野田泊り 本斗泊りの人は汽車にて發つ
・十五日 一行野田町に到着  朝 本斗、真岡より野田に向かひし我等は午後二時の臨時列車に て南行す 途中多蘭泊下車 夕刻 本斗に着く 本船に戻り 午後八時大泊に向かって発航す

引用者註:筆者(GK生)は真岡泊りのようである

・十六日 午前七時大泊入港 パルプ工場・養狐会社参観、遺跡・測候所見学
・十七日 大泊より鐵路豊原へ 樺太神社、公會堂歓迎會、記念撮影、臨時列車で栄濱へ、小沼下車小沼農事試験場参観、プラットホームに露少年のパン売り。 午後六時豊原、豊原泊り

引用者註:「フレップ・トリップ イワンの家」によれば、白秋らが十六日に小沼牧場からイワンの家を経て小沼の「駅へ行ってみると、豊原行の臨時列車はまだ仕立て中であった。朝早く大泊から東海岸の栄浜まで直行して、またこの小沼まで引き返した観光団の一二等客は、その合間に雨中を農事試験場の参観に出かけたといふことであつた」とある。小沼農事試験場見学の日にちと豊原泊りの日にちに関して、白秋の記述と樺太周遊略誌(GK生記)には、一日のづれがある。また、「フレップ・トリップ 豊原旧市街」には、”同じ観光団の誰彼がどかどかと踏み込んで来た”などの記述があり、こちらは十七日のことで樺太周遊略誌(GK生記)の記述と矛盾しない。樺太周遊略誌(GK生記)の記述が正しいと仮定すると、「フレップ・トリップ 豊原よりの消息」にある「この二人が、今朝、公会堂の観光団歓迎会のすぐ後から、幌馬車に乗って、豊原西郊の追分といふ部落へ散策したと思ひたまえへ。僕たちは一昨日真岡から豊原へ二十里の原生林の横断を果たしたが」との記述は誤りで、豊原西郊の追分へ、帰りは徒歩で日の出温泉に寄るの十六日のことで、十七日の公会堂での歓迎会終了後に出かけたのは「小沼農場」で、この場合「一昨日」とあるのは「昨日」ということにすれば辻褄が合うことになる。参考までに添えると「フレップ・トリップ 豊原よりの消息」の書き出し部分には十六日の樺太神社からの夜景の話があり、その後に「この二人が、今朝」とあることから十六日の朝を示唆している。

・十八日 朝發大泊着 本船午前十時出帆 敷香へ
・十九日 朝 敷香に上陸 ホロナイ川を廻る 午後八時海豹島へ向ふ
・二十日 未明海豹島見ゆ
・当夜海豹島を立ちて、八月二十一日 いよいよ稚内解散の日なり
・稚内にて周遊船は解散の事となりたけれど、北海道にてアイヌ部落の熊祭を見んとの人々多く半ば團体行動にて、臨時の汽車に 夕刻稚内を發し、翌朝旭川に到り
・越えて九月五日東京にては在京濱の諸氏集まり、東京ステーションホテルに樺太周遊思ひ出の會の催しありたり

庄亮:もう一月になるが君とはまだ一度も喧嘩しないよ

吉植庄亮著「農村随筆 雨耕抄」(時代社・昭和19年)より
歌人北原白秋 三
○白秋君との交情は益々深く、大正十二年には、参加者の一人の我儘から流産となったが、「樹海」創刊が計畫せられ、十三年には、潮来から北に旅したことの無い白秋との道づれの旅が、樺太から北海道にのされ、この年「日光」の創刊を見るに至った。
○二人の交情は歌の上の理解に土臺はあったが、同じく酒徒で、二人の酒の性格がまたうまい具合にぴったりした事によっても、深められたと私は思ふ。白秋君はもともとお山の大将気分、性格の持主で、それが酒を飲むといよいよ発揮する。私は私で、政治家の仲間入りした今ですら、晴れがましい座などに座ることはあまり好まない性格で、床の間を背負うことは苦手である。だからいく十日旅行しても喧嘩にはならない。それに、一方は自分を眞先に見つけてくれた伯楽であり、伯楽に見つけられた馬であり、且つ常にその伯楽を敬愛してゐると來てゐのだから、尚もって喧嘩にはならない。
  「おい全くをかしいよ。己は友人と一週間旅行をすると必度喧嘩になったものだ。Bと旅行の時もMと  旅行の時もやっぱり喧嘩だった。ところでもう一月になるが君とはまだ一度も喧嘩しないよ、全くをかし  いよ。」「さうだよ。君は美人に夢中だし、僕はオットセイや熊の子供達に夢中なんだもの、これぢや全  く喧嘩にはならないよ。」
 こんな會話が二人の間に交されたのは、樺太の旅も終り、北海道の旅も終りに近い、札幌の宿舎か、トラピストの修道院の一夜ででもあったろうか、私のこの言葉が終った處で、二人は腹を抱えて呵々大笑したことであった。

引用者註:「十三年には、潮来から北に旅したことの無い・・」とあるのは「十四年」の誤りである。


白秋:まだ一度も喧嘩しないね、妙だね

フレップ・トリップより
「あはは、どうです。今夜はひとつ探険にでも出かけますか。」
隣りから声をかけた。小樽からのちかづきの、あの俊敏な紳士の、麦酒ビール会社の重役の、ラジオファンのF君である。さっきからこちらの悄気かたをすっかり観察していたものと見える。傍にはこれもその連れのもういい年輩のHさんが長者らしく正坐して、またこちらを眺めている。HさんはF君と同じS市の人で、同じく札幌の農科大学出(そういえば和製タゴールさんのN老人もその第一期の卒業生だそうである。)の有名な牧畜家だと聞いている。温顔の、それでいて重厚な犯し難い風采である。I公爵の従弟だとも、また人格者だとも私に話してきかした人もあった。俊敏と重厚と、いい取りあわせであるが、そのうえ、二人は非常に仲がよさそうに見える。F君は眉根をキッと寄せて金縁眼鏡で、声をあげて笑ったが、Hさんはこれも眼鏡だが、ややすこしく禿あがった広い額の、髪は正しく掻いて、鼻の高い、それで眼元で優しく笑った。なかなかよく練れていそうである。それと比較くらべるとこちらの二人はどんなものかな。
これも非常に気が合って、それで二人とも駄々っ子で、何か野呂間のようでもある。とにかく私も我儘者のでかなり気むつかしやだが、この私を一度も怒らせぬところは不思議に庄亮えらいところがある。「まだ一度も喧嘩しないね、妙だね。」と、いつか私が笑ったら、「喧嘩してたまるものか。」と彼も笑った。 「だが随分長い旅行だぜ、誰だって一度ぐらいは気まずい思いをするものだよ。」とまた笑ったら、「あっはっはっ、僕なら大丈夫。」と頭を振り立てて豪傑笑いをした。その庄亮はまた、いつもになく、チョボチョボの不精髭など剃っている。
「出かけるかな。だが、飲めないでしょう。お酒は。」
「麦酒なら少々はいけますよ。」
「でも、ここの麦酒じゃね。」とHさんが火箸をいじった。
書き忘れたが、隔の襖は初めっから開けっぱなしにしてあるのだ。

『米の貌 : 随筆・吉植庄亮 著・出版者 羽田書店・出版年月日 昭和171月15日』より
僕の口語歌(大正14年10月執筆)
札幌郊外出納農場
白秋君、如何だこの軽快さは、君の童謡本の四輪馬車そのままだね。
食卓
白秋君、僕は妻に尊い土産が出來た。見たまえ、奥さんの日にやけたお顔と土がしみ込んだ掌と。
ほう、バターってこんなにもうまいもんかね―農場の主人に詩人白秋が語ってゐる聲。
白秋君も、善いなあ善いなあと見まはしてゐます。なんと簡素な部屋と簡素な生活でせう。
樺太まで(大正14年10月執筆)
小樽では僕の橄欖社の人達と、原始林の人達との主催の短歌會があり、終わってから山下秀之助君を初め戸塚、朝比奈、片岡、山縣の諸君からの招待會があり、興湧き夜を徹してしまったので「桐の花」の仕事はまた未了になった。白秋君は今日はその仕事に没頭してゐる。

「赤い鳥 大正14年11月号」(第十五巻 第五号)「通信欄」より引用。
 童謡と自由詩について 北原白秋
 樺太北海道の旅からやつと歸つてまゐりました。随分長い旅でしたが、それだけ非常に愉快でした。方々でまた童謡愛好者の皆さんの歡待を受けました。「赤い鳥」を通じて厚く御禮を申述べて置きます。


ー童謡集「月と胡桃」についてー樺太の作品か、北海道か、それとも
「白秋全集26 童謡集2」(岩波書店)に掲載されている童謡集「月と胡桃」(梓書房)より

「月と胡桃」の構成は以下の通りである。



月と胡桃

イワンの家

白樺の皮はぎ

鴎の塔

鷺の子

花の週間

お母さま


イワンの家」に含まれる詩は以下の通り。()内は初出。


・「道ばた」(昭和二年一一月一日 「赤い鳥」)


・「遠い野原」(昭和二年一一月一日 「女性」:「白秋詞華集(15)」として「遠い野原」「鴨と月」「あのとき」の三篇を掲載)


・「山のホテル」(昭和二年七月一日 「赤い鳥」)


・「お日和」(大正一五年九月一日 「少年倶楽部」


・「トラクタア」(昭和二年五月一日 「赤い鳥」)


・「楡のかげ」大正一五年七月一日 「赤い鳥」)


・「修道院の前」(昭和二年三月二日作 未発表)


・「修道院の裏庭」(昭和二年九月一日 「婦人之友」:初出題「トラピストの裏庭」:「風と蝶」の総題で[風と蝶」 「良夜」 「トラピストの裏庭」の三篇を掲載)


・「サボウ」(昭和二年五月一日 「赤い鳥」)


・「ベル」(昭和二年五月一日 「婦人公論」)


・「フォーク」(昭和二年五月一日 「婦人公論」:初出題「フオク北海道石別トラピスト修道院」)


・「アイヌの子」(大正十四年十二月一日 「赤い鳥」)


・「紅あんず」(大正十五年十〇月一日 「少女倶楽部」:初出題「おひる」)


・「J・O・A・K」(大正十五年十〇月一日 「コドモノクニ」)


・「いたどり」(大正一五年八月一日 「赤い鳥」)


・「たうきび」(大正一五年九月一日 「赤い鳥」)


・「多蘭泊」(昭和二年五月一日 「婦人公論」)


・「海がらす」(昭和二年三月二日作 未発表)


・「安別」(大正一五年二月一日 「赤い鳥」)


・「敷香」(大正一五年二月一日 「赤い鳥」)


・「いぬのそり」(昭和二年一月一日 「幼年倶楽部」)


・「冬の日」(大正一四年一二月一日 「コドモノクニ」)


・「イワンのお家」(大正一四年一一月一日 「赤い鳥」)


・「樺太の春」(昭和二年三月一日 「赤い鳥」)


・中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)より
(1)171ページに『童謡集「月と胡桃」ですが、ここでは樺太に関わる作品がの「イワンの家」と題される第二部にまとめられていて・・・』とある。

引用者註:樺太ばかりでなく北海道を題材にしたものなどが混在しており、「註」があって場所や事柄が明確なものとそうでないものとがある。なお、「この道」、「からたちの花」は七番目の「お母さま」に属している。


(2)中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)では、171ページ以降に童謡集『月と胡桃 Uイワンの家』の冒頭の「道ばた」を取り上げた後に、『樺太・北海道旅行が生んだ創作成果の中心に童謡「この道」があると言いましたが・・」』と述べ、続いて「遠い野原」、「山のホテル」、「紅あんず」を掲げ、『このように続けて読み進めると、ここでは樺太のイメージそのものが「道」として表象され、その「道」の様態をもってその意味が語られていると分かります。(途中省略)旅人=白秋の樺太・北海道の旅は、童謡作品「この道」に到る以前に、このように始めからずっと「道」を問う旅として綴られていたのです。すると、樺太ではこの道がどのようであるというのでしょうか。「しんとしてます、どこまでも」「まづしいお小舎」「そして、とつとと行つちまふ」「誰か向うへあるいてる」「いつもこはれた壁」「窓の障子は閉めてある」「誰か子供のゐるやうで何も声せぬ」、ここで重ねて現れるこのような表現は、もちろん、まさにその道の様子を繰り返し深く心に刻もうとするものであるのは明らかです。すなわちそれは、来訪者にとって取付きがたい疎遠な世界であり、人間の生活の豊かさや活気の感じられない空間なのであって、それを前にして立ち入る縁(よすが)もつかめぬままに寂しい思いを抱き旅人は立ちつくしているという情景です。・・』(P172 〜P173 )と書いている。


引用者註:「道ばた」、「遠い野原」、「山のホテル」、「紅あんず」が、いずれも樺太を背景にした作品であるとしている。

「紅あんず」は樺太ではなく北海道の音江村か。


紅あんず



通りかかった


山の道、


       窓の障子は閉めてある。




誰か子供の


いるようで、


何も声せぬ


     お午(ひる)です。




     厩(うまや)の横の


紅あんず、


 手のとどくだけ


もいである。


引用者註:中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)では第一連と第二連のみが紹介されている。「海阪 音江村」の牛小屋のおもての紅き巴旦杏手のとどくところはみなもぎりたり」と上記の「紅 あんず」を比べると「巴旦杏」と「紅あんず」の違い、または「牛小屋」と「厩」の違いはあるが、「手のとどくところはみなもぎりたり」と「手のとどくだけもいである」という表現は実に独特な鋭い観察によるもので素材は同じものであるものと考えられる。そうすると一方は「音江村」と明記されていることから、詩「紅あんず」も音江村に由来する作品とみなせるのではないか。


「山のホテル」は信州か。


「赤い鳥」昭和2年7月号






山のホテル


山のホテルの幌馬車は、


いつもこはれた壁の前。


                            しめた戸口に


日がさして、


晝はゆがんだ影ばかり。




まづしいホテル、蔓の薔薇、


いつか見ました、道のそば。


  あけた戸口の


紅ズボン、


誰かお客が出てました。


引用者註:中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)では第一連と第二連の最初の2行のみ紹介されている。藤田圭雄「童謡史 T」(あかね書房)は、「赤い鳥」の『七月号は「山の月夜」「山のホテル」「いちご」「てくてく爺さん」と並んでいる。「山の月夜」と「山のホテル」は、六月号の「追分」「山の駅」「野つ原の夏」につづく、信州での一聯の作品だろう。』と書いている。既に述べたように中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)には「童謡集『月と胡桃』ですが、ここでは樺太に関わる作品が「イワンの家」と題される第二部にまとめられていて・・」と書かれているが、補足をしないと誤解を招く恐れがる。すなわち樺太に関わる作品がまとめられているのは確かであるが、それ以外にも札幌や函館など北海道に関わる作品があるのも確かであり(例えば「たうきび」について白秋童謡讀本 尋ノ四(采文閣 昭和六年十一月)には「北海道ではかういふことがあります。」との白秋による註が書かれている)、さらには信州に関わる作品も混在しているからである。


編者 上田信道「名作童謡 北原白秋・・・100選(春陽堂 書店 平成十七年六月二十日)より


追分


からまつの林つづきに、

ぽつぽつと家があったよ。

馬の絵馬、

門にかけてた。

  白い馬、黒馬や、栗毛や。


追分の宿のはずれに、

ちょっぽりと石があったよ。

お墓なの、

馬を祭った。

  死んだ馬、かわいそうな馬。


旅人は西へ東へ、

ほいほいと馬で行ったよ。

あかい日が

原を染めたよ。

  小荷駄馬、幌馬車の馬。


からまつの林つづきに、

ぽつぽつと家があったよ。


童謡集『月と胡桃』に収録。初出は一九二七(昭2)年六月号の「赤い鳥」である。

一九二一(大10)年八月、白秋は長野県軽井沢の星野温泉で開かれた「自由教育夏期講習会」に出講。画家の山本鼎の別荘に宿泊し、このとき「落葉松」などの詩を着想した。その二年後の四月にも軽井沢を訪れるなど、白秋にとっては特別な思い入れがあった。

引用者註:「山のホテル」にも出てくる「幌馬車」という重要な言葉が使われている。


三木卓「北原白秋」筑摩書房(2005.3.30)(P290)より

第八童謡集『月と胡桃』(梓書房、昭和四年六月)は、四年の期間をおいて出された。多量の作品を含む。なかには北海道・樺太・信州旅行の産と思われる作品がかなりある。


「遠い野原」は樺太、それとも札幌郊外?


遠い野原


遠い野原の


かしの木に、


かしの木に、


     何か光がさしてます、


       雲のひだひだ、金の虹。




遠いあそこへ


行く道は、


行く道は、


        ひろい、ななめの赤い道、


      誰か向うへあるいてる。




何の柵だろ、


あの杭は、


あの杭は、


         さうだ、牧場だ、うれしいな、


          ほうら、ゐるゐる、あめ牛が。




 靄がたつてる、


あのさきに、


あのさきに、


       ちりんからんと音もする、


     遠い野原の金の虹。


中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)では第二連のみ掲載されているが、詩の中に出てくる「かしの木」や「あめ牛の牧場」から果たして樺太に関わる詩なのであろうか? また、第一連や第四連には「金の虹」、第三連には「さうだ、牧場だ、うれしいな」という言葉が出てくることから、「来訪者にとって取付きがたい疎遠な世界であり、人間の生活の豊かさや活気の感じられない空間なのであって、それを前にして立ち入る縁(よすが)もつかめぬままに寂しい思いを抱き旅人は立ちつくしているという情景です。」とは一概に言えないのではないか?


引用者註:『「月と胡桃」(梓書房)Uイワンの家』の「遠い野原」には牧場と牛が出てくる。同じ『Uイワンの家』に収められている「お日和」には牧場と羊が、同じく「トラクタア」には牧場と牛と羊が出てくる。「お日和」について「白秋童謡讀本 尋四ノ巻」(采文閣 昭和六年)には「北海道札幌郊外月寒の牧場の夏は、ちゃうどかうした風景です。」という白秋の註がある。同じく「トラクタア」には「月寒は北海道札幌郊外にあって、道廰のひろいひろい牧場のあるところです。」という白秋の註がある。


引用者註:林 弥栄編「日本の樹木」(大和渓谷社)より。


ブナ科コナラ属の分布


ウバメガシ(姥目樫)~ 本州(房総半島、三浦半島、伊豆半島以西の太平洋側)、四国、九州、沖縄、朝鮮、中国


イチイガシ(一位樫)~本州(関東地方南部以西)、四国、九州、アジア東南部


ハナガガシ(葉長樫)~四国(愛媛・高知県)、九州(長崎・熊本・宮崎県)


ツクバネガシ(衝羽根樫)~本州(福島・石川県以西)、四国、九州、台湾


アカガシ(赤樫)~本州(宮城・新潟県以西)、四国、九州、朝鮮南部、中国


シラカシ(白樫)~本州(福島・新潟県以西)、四国、九州、朝鮮(済州島)、中国


ウラジロガシ(裏白樫)~本州(宮城・新潟県以西)、四国、九州、沖縄、朝鮮(済州島)、台湾


アラカシ(粗樫)~本州(宮城・石川県以西)、四国、九州、沖縄、朝鮮(済州島)、アジア東南部


引用者註:あめ牛=黄牛(こうぎゅう)はタイ、ミャンマー、ベトナムなど東南アジア一帯から中国北部にまで広く飼養されている黄褐色の毛色の牛の総称。


引用者註:上記のように「遠い野原」の初出は、(昭和二年一一月一日 「女性」:「白秋詞華集(15)」として「遠い野原」「鴨と月」「あのとき」の三篇を掲載)である。このうち「鴨と月」は同じ「月と胡桃」の「X鷺の子」に収められている。


鴨と月

丘と丘とのあひだから、

鴨が出て来た、ぽっつりと、

  水は沼からひいた川。


またも出て来た、二羽三羽、

鴨は鈴鴨、青い鴨。

  ぽつりぽつりと浮いた首。


鴨が出て来た、九十九羽、

みんな出きつた、日も暮れた。

  あとは出て来ぬ沼の川。


丘と丘とのあひだから、

月が出て来た、まろい月。

  さむいお晩だ、ほう白い。


「道ばた」は?

「赤い鳥」 昭和2年11月号




道ばた




荒地野菊や、箒ぐさ、


   きつい日ざしになりました。




  誰かゆきます、影が來る、


   太いステッキ、リュックサック。




 鳴けよ、馬追 この道も


   しんとしてます、どこまでも。




 まづしいお小舎、箒ぐさ、


   誰も見てゆく、このまへを。




誰も見てゆく、この前を、


そしてとっとゝ行っちまふ。




引用者註:中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)では第二連のみ省略されている。


引用者註:村井貴史著「バッタ・コオロギ・キリギリス鳴き声図鑑 日本の虫しぐれ」(北海道大学出版会)より

ハタケノウマオイ:本州、四国、九州、伊豆諸島、対馬、屋久島などに分布する。
ハヤシノウマオイ:本州、四国、九州、薩南諸島などに分布する。
タイワンウマオイ:南西諸島(トカラ列島以南)に分布する。

小林正明著「日本の秋の虫」(築地書館)より
ハタケノウマオイ:関東以西から沖縄・南西諸島・台湾までいるが、沖縄方面の個体は一段と大型で、別種とする考えもある。
ハヤシノウマオイ:分布は東北地方南部以南・九州まで。

引用者註:「月と胡桃」の六番目の「花の週間」の中の「草いきれ」にも「道ばた」の「荒地野菊や、箒ぐさ」と同じ表現がある。なお、「草いきれ」の初出は「赤い鳥」大正14年9月号であり、白秋の樺太・北海道旅行の出発前に発表された最後の作品と思われる。一方、「道ばた」の初出は、月と胡桃の「イワンの家」の中では「遠い野原」(「女性」昭和2年11月1日)と並んで最も遅い「赤い鳥」昭和2年11月号である。


草いきれ

ここは草むら、草いきれ、

いろんな葉っぱが蒸れてます。

荒地野菊や、帚ぐさ、

藜や、鈴麥、犬牛蒡、

 鐵砲百合花まで咲いてます。


あつい日ざかり、草いきれ、

いろんなにほいが蒸れてます。

蟻や、穴蜂、きりぎりす、

きらきら金砂、日の光。

 萌黄の蟇までむせてます。

(第三連省略)


「アイヌの子」について

中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)によれば以下の「アイヌの子」の詩も樺太での詩としている。そして『寂しい樺太の道に初めて可愛い世界が立ち上がる作品「アイヌの子」において、登場人物であるアイヌの子は、どうして道ばたの露草と共に「かはいい」と認められているのでしょうか。それはもちろん、この子が「いろはにほへと ちりぬるを」と日本語を習得する努力をしているからに他ならないでしょう。それによって、このアイヌの子は、もともと他者であったものが進んで日本に同化しようと努めていると認められ、その態度が「かはいい」と感じられるのです。』と書いている。

引用者註:歌集「海阪」の「アイヌ村風景」の一連の歌には「大豆畑」「露くさ」「唐黍」「眼窩(めのくぼ)ふかき子」のように同じような言葉が使われている。「アイヌ村風景」の中の一首は「朝の気の流らふ広き大豆畠旭川郊外に来てをりわれは」とあり、「アイヌ村」が旭川郊外であることを示している。


藤田圭雄「童謡史 T」(あかね書房)では、赤い鳥大正十四年の『十一月号には、北海道札幌郊外をうたった「落ち葉」(山田耕作・昭和三年十二月号の他、成田為三の曲もある)樺太海豹島の「北の海」樺太小泊の「イワンのお家」北海道アイヌをうたった「クマノコ」をのせている。』『同じアイヌをうたったものでも、十二月号の「アイヌの子」はすばらしい。』と書いている。


引用者註:藤田圭雄の文章の「樺太小泊」は「樺太小沼」の誤りである。


引用者註:樺太旅行中に樺太アイヌに接する機会は、汽車で多蘭泊駅を通過した後アイヌ部落の間を通過したときだけのようである。「フレップ・トリップ 多蘭泊」を読む限り、詩「アイヌの子」のような題材を得るような機会はなかったように思われる。

編者 上田信道「名作童謡 北原白秋・・・100選(春陽堂 書店 平成十七年六月二十日)より

この童謡では、なにげない北方の風景が描かれているが、単なる写生に終わっていない。風景描写から、現地に暮らす人びとの暮らしにまで、拡がりをみせている。「いろはにほへと/ちりぬるを・・・」の締めくくりが秀逸で、童謡としての高い完成度を示している。


アイヌの子


大豆畠の


露草は、


    露にぬれぬれ、


  かはいいな。




大豆畠の


ほそ道を、


  小さいアイヌの


子がひとり。




  いろはにほへと


ちりぬるを、


  唐黍たべたべ、


おぼえてく。


J・O・A・Kについて

中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)より引用

『JOAKとはもちろんラジオの東京放送局であり、JOAKを聞いているこの空間は、日本の支配が及んでいる空間であるあると感じられています。他者である北方諸民族が混在し貧しく寂しいと感じられた樺太の道は、アイヌの子が日本語を学んで日本に同化しようと努力を始め、JOAKの電波が届いてそんな同化の可能性が他の人々にも及ぶようになることで、日本の統治下にある植民地の道として、自分たちの統治空間内にあると感じられる場に一気に変貌するのです。そうだからこそ、この作品「J・O・A・K」は、同じくJOAKを聞いていた日本人たちをどこかホッと安心させる力をもっていたのでした。すると、樺太で唯一生きる可能性を見せていると認められたこの道は、いったいどの道に繋がっている、あるいは、繋がらねばならないと言うのでしょうか。まさにこの問いに応答するように白秋は、樺太からの帰途に北海道に渡ったとき、あらためてその道を再発見したと語っています。それが「この道」なのでした。』

引用者註:上記の文章に続いて178〜179ページに「この道」の詩が掲げられているが、第一連のみ「ああそうだよ、」となっていて第二連から第四連は「ああそうだよ。」となっている。正しくは各連とも「ああそうだよ、」とすべきである。中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHK出版)には26ページにも「この道」の詩が掲載されているが、第一連のみ「ああそうだよ、」となっていて第二連から第四連は「ああそうだよ。」となって全く同じ誤りになっている。

引用者註:『まさにこの問いに応答するように白秋は、樺太からの帰途に北海道に渡ったとき、あらためてその道を再発見したと語っています。それが「この道」なのでした。』とあるが、その裏付けは示されていない。


J・O・A・K


蕗のはやしのかたつむり、

しろいおうちをたてました。


しろいおうちのかたつむり、

角のアンテナ出しました。


ここは樺太真岡道、

馬の背よりも高い蕗


角のアンテナ、かたつむり、

J・O・A・Kきいてます。


編者 上田信道「名作童謡 北原白秋・・・100選(春陽堂 書店 平成十七年六月二十日)より

『「J・O・A・K」は東京放送局のこと。童謡発表の前年に、放送を開始したばかりである。試験放送の初日(三月一日)には山田耕筰が出演し、「ペチカ」が放送されている。童謡発表の年の二月には、東京・大阪・名古屋の三放送局を統合し、日本放送協会(NHK)が発足している。しかし、この時点では三局を併せても、聴取契約数が三三万八二〇四件、総出力が二五〇〇Wにすぎない。白秋は船のなかでラジオを聴いていたが、小樽を出港してからはほとんど聴き取れなくなり、いよいよ遠隔の地にきたことを実感した。樺太でJPAKの放送が聴けたはずもなく、「J・O・A・Kきいてます。」は白秋の詩的表現である。』

引用者註:「J・O・A・K」は大正一五年一〇月一日「コドモノクニ」に発表された。